重松 |
糸井さんは、80年代から、
「女々しさ」や「へなちょこさ」に関して、
肯定するようなことを、たくさん書いてますよね。 |
糸井 |
書いていると思います、きっと。 |
重松 |
ひょっとしたら、
糸井さんには、
成人したオトナというか、
骨格ができあがった青年以上の男に対する、
生理的な嫌悪感みたいなものが
あるんじゃないですか? |
糸井 |
ありますねぇ‥‥。
だって、いろんな男に会うけれど、
「この人はすごい」
「この人に、ついていきたい」
と思えるような人は、そんなにいないですから。
みなさん、まぁ‥‥クチばかりで
元気のいい人が、たくさんいますよね?
「それはウソだろ!」と思っちゃうんです。
いちばんクチの元気のいい人が
強そうにしている‥‥そういうのはイヤなんです。
自分だってウソっぱちのひとりでしょうけれども、
ぼくは、すくなくとも、
「自分がウソっぱちだ」と知っているわけで‥‥。
自分で自分にウソをついていることを
知らないふりをして、言うだけのことは言うけど
何もしない、そういういわゆる男っぽい人に対しての
嫌悪感は、強くあると思います。 |
重松 |
その一方で、若いころの糸井さんは、
コピーライターとしては、
「ある親父から息子へ」という物語をくりかえし描く。
それは、仕事として徹してやられたんですか? |
糸井 |
いや、そんなことはないです。
仕事に徹してやるっていうのは、
なかなかできるもんじゃないですので。
そういう物語を書いたというのは、
たぶん、親と子がいつも似ていないものだ、
ということを強く意識していたからじゃないですか。
「親は、そっくりじゃないものを
生み続けていくんじゃないだろうか?」
という仮定があると言いますか。 |
重松 |
それって、どういうことですか? |
糸井 |
親と子っていうのは、
親子がつながって見えるようだけれども、
例えば、矢沢永ちゃんが
「親の代では負けた。オレは‥‥」
と言うように、どこかのところで、
子どもは親に対する嫌悪感を抱いているんですよ。
そして、それに反発してゆく。
もしかしたら、ビル・ゲイツの息子だって、
「親父は負けた」と思っているかもしれません。
ぼくはぼくで、たいしたことがない
中産階級の息子として生まれていますけれど、
親父を見ると、思った‥‥。
「放っておくと、あれになるのか!」
それだと、夢がないんですよ。
子どものころから、あれには似てない、
と言いたくて仕方がなかったんですね。
まぁ、いまこうしてオトナになると
すっごく似てるなぁと思うんですけれど。 |
重松 |
そうか‥‥。
うちの娘たちにとっての糸井さんっていうのは、
あくまで、「となりのトトロ」のお父さんなんです。
お父さんのイメージがあるんですよ。 |
糸井 |
ああ、そうでしょうね。 |
重松 |
あの「トトロ」に出てくるお父さん像は、
どうでしたか? けっこう素で演れましたか?
かなり苦労されたのかしら。 |
糸井 |
まったく苦労しなかったですね。
あれは、ぼくにとっては非常にラクです。
自分が「ええカッコしいなこと」を
ひとつもしていなければ、
あのお父さんのような場所に
落ち着いていた可能性は、ありますね。
意外に、ああいう感じですよ、ぼくは‥‥。 |
重松 |
なんにもしないお父さんですよ、あの人。 |
糸井 |
うん。なんにもしないよね。
ぼくはあれにそうとう近いです。
放っておけば、ああなりますよ。
宮崎駿さんがあの「トトロ」の原作を書く時に
すでに頭の中で意識されていたとは思いますが、
あのお父さん、考古学者ですよね。
天皇が生物学者であったように、
イデオロギーに関わらないところを選び抜くと、
魚だとか植物の研究者になるんですよ。
「トトロ」のお父さんも直にイデオロギーには
関係がなくて、手を汚さない職業に就いている。
つまり、ドロをかぶらない位置ですよね。
ぼくも放っておけばあのお父さんのような
位置に、簡単にいけてしまうけれども、でも、
「そういうのって、逃げてるだけじゃん」
という気は、するんですね。
‥‥って、ぼく、「セサミ」という
「子どものファッションと生活の情報誌」に
掲載してどうするんだよ、みたいな話ばかり
してるみたいだけど‥‥。 |
重松 |
(笑)ええ、この部分は載りません。
載っけられないんだけれども、おもしろいのは、
「トトロ」の映画の舞台って、
ある本によると、1956年らしいんですよ。
あの姉妹って、団塊の世代なんだよね。 |
糸井 |
そうかー。 |
重松 |
それを思うと、糸井さんは
昭和天皇を演ったんだなぁと言うか。 |
糸井 |
そうなんですね。
あれは見事に天皇ですもの。
つまり、決定は何もしないんだけど、
ときどき、曖昧に心の中についての話をして、
「そこんところが通じていれば、
それぞれが、やっていくでありましょう」
みたいな話ですからねぇ。 |
重松 |
あの映画が、もしも、
息子をふたり持ったお父さんだったら
どうなっていましたか? |
糸井 |
うわぁ‥‥。
えらいことですよ。
それはもう、ぼくが偶然、子どもが娘であったことを
感謝するのとおなじように、あの設定が
娘であったことに感謝しますね。
息子になったら、どうやるか、わからないです。
つまり、どこかで政治家的な成分を入れないかぎり、
息子って、育てられないと思うんですよ。
政治家成分って、つまり‥‥。
パワーを行使する時があると言うか、
選挙の時に田んぼで土下座できるチカラと言うか、
そういうことって、いつから覚えるかわからないし、
いつから自分に納得させられるか、わからないんです。
「少年に教えていいことと
悪いこととのタイミング」には、
教育者としての厳密さを要求されますよね。
あとは放っておくしかないわけでしょう?
ぼくは完全に放っておくほど自然を信じられないし、
完璧に厳密に丁寧に教育をやれるほど
息子への教育に確信を持てるほうではないです。
そんなすごいコストは、かけられないですよ。
娘なら、たのしくやってくれればいいんだけれども、
息子だったら、むずかしいでしょうねぇ。
文武両道ができすぎていても、
器用すぎちゃうというか。
自信を持って、
「これがいい」と言える男の人像って、
探すことがむずかしいですよ‥‥。 |
重松 |
じゃあ、息子を持ったお母さんたちや
少年たちは、どうすればいいのかなぁ‥‥? |
糸井 |
うーん。
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