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糸井 |
喘息って、治ったような気がする
瞬間があるだけでも
ものすごくうれしいんですよね。 |
清水 |
そうですね。
体が楽になるだけではなく、
自分の精神的な許容範囲が広がっていきますよね。
とくに、ぼくの場合は、
自分が選手としてきちんと活動できるんじゃないか、
というようなうれしさがあって。 |
糸井 |
清水さんは、ここからはもう大丈夫だっていう
克服できた瞬間みたいなものはあったんですか。 |
清水 |
ぼくの克服の経緯というのは、
大きくいうと二段階あるんですね。 |
糸井 |
二段階。 |
清水 |
はい。まずは、自分の肺を
コントロールするという方法がありまして。
それは、肺を追い込んで追い込んで、
肺のレベルを上げていくという方法なんですね。
喘息の発作が起きたときって、
数十メートル走るのもつらいじゃないですか。
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糸井 |
はい。 |
清水 |
そういうときに、休みながらでも、
だんだんと走る距離を増やしていくんです。
日に日に、距離を増やしていって、
休む回数を減らしていく。
そうすることによって
肺の強度って上がっていくんです。
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糸井 |
はーーー。 |
清水 |
そうやってコントロールしていったんですが、
やはり、さっきも言いましたように、
ウィンタースポーツである関係上、
どうしても冬は体調を崩しやすい。
そうなったときには、
ワンシーズン、棒に振ってしまう。
そのときに、薬で発作を起こさないようにする
治療法に出会ったんです。
そこから、もう一段階上の克服がはじまった。 |
糸井 |
それは何歳くらいのときですか。 |
清水 |
大学1、2年ですね。 |
糸井 |
逆に言えば、そこまでは
薬なしで戦っていたんですね。 |
清水 |
薬なしで。
よっぽど、ほんとに発作を起こして
病院に駆け込むようなことがないかぎり、
薬はなしでやっていたんですよね。
それはなぜかというと、ぼくの親に
「喘息の治療薬というのは強い薬で、
肺や心臓に負担がかかるのではないか」
という思い込みがありまして、
薬を使わせてくれなかったんですよ。
病院からはもらってたんですけど、
ぼくには隠していたんです。 |
糸井 |
ああ、薬についての知識が
半端にあるという状態ですよね。 |
清水 |
そうですね。 |
糸井 |
ぼくもそうだったんですけど、
半端な知識から薬をすべて
否定してしまうのは損ですよね。 |
清水 |
そうですね。
当事者というか、子どもは、
そこまで知識を得られないじゃないですか。
ですから、子どもの喘息に関しては、
使い方であったりとか、タイミングであったりとか
親がもっと勉強して知識を得るべきだと思います。 |
糸井 |
親の知識だけじゃなく、
病院と親とのコミュニケーションというのも
ものすごく大事ですよね。
たとえば、お母さんが薬を隠していても、
病院ときちんとコミュニケーションがとれていたら、
飲ませていないことは、
本当はわかると思うんですよ。
薬が負担になるだけのものではないということも、
きちんとお医者さんが説明できていたら
理解されていただろうし。
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清水 |
専門的な病院の数が少ないというのも
あるのかもしれませんね。
昔、ぼくは北海道の帯広にいたんですが、
呼吸器系専門の病院が近くになかったんですよ。
そもそも知識も少ないですから、
内科に行って診断を受けて、
そこでの治療がすべて。
セカンドオピニオンという考えもないですし。 |
糸井 |
幸い、いまの医療は、
情報の伝わり方が昔とぜんぜん違いますよね。
こういう薬がいいらしい、という情報があったら
医者も患者もすぐに調べられますし。
昔はなかなか伝わらなかったから。 |
清水 |
そうですね。 |
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(続きます) |
2007-10-25-THU |
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