親鸞に会いにいく。  平安時代末期から鎌倉時代にかけて生きた 親鸞(しんらん)。 肉食妻帯し子どもをもつなど、 お坊さんの戒律で禁じられていたことを次々に破り、 “いいことをしようなんて思っていたら天国には行けないよ” 750年前にそんなことを言った人でした。 吉本隆明さんは言います。 「坊さんとしては変わり種ですが、 問題にならないくらい偉い人だと思います」 親鸞は、流罪を解かれてもすぐに都へ戻らず、 自然を相手に糧を得て命をつなぐ人びとが住む土地で 何十年も布教を行いました。 吉本隆明さんの語る親鸞を手に、 各地で親鸞が遺したものを追いかけてみようと思います。


002 愚禿という名。 親鸞がなぜ越後国にやってきたのかといえば、
京都で、ある事件が起こり
師の法然(ほうねん)とともに流罪にあったためです。
このとき、法然は讃岐へ、
親鸞は越後へ流されました。
35歳の頃といわれています。



これが親鸞がたどりついた、
新潟の居多ヶ浜。
京都生まれの親鸞は
これほど本格的な海を、はじめて間近で
毎日感じることになったのでしょう。



それから4年10ヶ月ののちに
流罪赦免が出ることになりますが、
親鸞はなお2年間この地にとどまり
あしかけ7年、滞在したといわれています。
(その後も都に戻らず茨城に向かいました)
流罪となったときの親鸞は、僧侶の資格を剥奪され、
郡司の監視下に置かれていました。
名前は藤井善信(ふじいよしざね)という俗名を
与えられたそうです。
これを自分で「愚禿釈親鸞」と名乗り変えた、と
新潟県上越市、光源寺の
ご住職が教えてくださいました。





「親鸞聖人は、僧侶の資格を剥奪されていましたので
 表向きには布教は禁じられていました。
 いわば擬似僧侶といった状態です。
 服装も、お坊さんのような衣は着られません。
 あさぎ色の流罪着を5年間着ていました。
 
 しかし、その5年のあいだ、
 じっと耐えていたばかりではありません。
 堂々と妻帯をして
 4年目に子どもを授かっています。
 当時は、実に奇妙な存在だったと思います。
 お坊さんのように髪を剃ることもできませんので
 ざんぎり頭でした。
 のび放題のぼさぼさ頭、ということを
 ご自身で『禿』とあらわされました。
 僧侶ではない、かといって
 まげを結っている俗人でもない『非僧非俗』、
 どちらにも属さない中途半端な
 『禿』の人。
 それに自己批判的な『愚』という字をつけられて
 愚禿釈親鸞、という名前ですごされました。
 おろかなぼさぼさ頭の親鸞、という名です。



 このあたりは京の都とは違い、
 多くの人びとは農民漁民、
 それに猟師もおられたでしょう。
 つまりは、自然を相手にして
 糧を得て命をつないでいく、
 大地や海に生きる人たちです。
 京都とは環境がずいぶん違いましたでしょうし、
 ここにいた人びとは
 上方の言葉なんて理解できなかったと思います。
 親鸞聖人は、そういう民の生きざまを
 目の当たりにされました。
 のちに関東に渡って教えを説かれ
 『教行信証』の執筆に着手されることになりますが、
 この目立った活動の形跡のない越後時代、
 民と交わることの中で
 考えを深められたのではないかと思います。



 親鸞聖人という人は、おそらく
 どこへ行かれても
 じっとしておれない人だったのではないかと
 わたくしは思います。
 表向きの布教は難しいものの
 人が集まったところに行ってはお話されたことが
 しきりにあったのではないかと考えられます。
 布教はできなくても、
 法然上人からいただいた、
 念仏をとなえれば誰でも往生できる、
 という教えを、いろんな人と交わることで
 確かめておられたのでしょう」
吉本隆明さんはこう言っています。


インドから中国へ渡り、中国から日本へ渡ってきた大乗仏教の思想的な流れのなかに、浄土教があります。親鸞という人はその流れを集大成した人です。
当時の仏教でいえば、浄土教はひとつの世界思想ですから、親鸞は世界的な思想家であった人です。ですから相当よく考えられているし、よく突き詰められています。
これを理解することは必ずしもむずかしいことではないのですが、親鸞が考えたであろう通りに再現することはたいへんむずかしい。

『吉本隆明が語る親鸞』p148より




「そういった活動が
 人びとを動かしていくことになりました。
 ここ光源寺を開いたとされる最信という人は
 もともとは木曽の武士でした。
 このように、武士であることを捨ててまで
 教えに従いたいという人がでてきたのです」





ぼくが親鸞をすごい人だと思うのは、ぼくらの不信に対して正面から向き合って、おまえの不信はこうじゃないかとか、説き聞かせるような、それだけのことを親鸞はやっている宗教家であり思想家であると思うからです。そういうところは類例がない人だと思えます。

『吉本隆明が語る親鸞』p58より

夏の居多ヶ浜は
よく晴れていれば海に沈む夕陽がきれいに見えるそうです。
陽のしずむ西は西方浄土をあらわす方角、
非僧非俗の親鸞も
この浜で夕陽を眺めたのかもしれません。



「7年が過ぎ、関東に旅立たれるときに
 最信は同行せずに
 親鸞聖人の教えを民衆とともに伝えます、といって
 この地に残ったと言われています。
 流罪後の親鸞聖人の相手になる人は
 つねに在郷の、田舎にいる、
 名もなき人びとでありました。
 各地に残っている、親鸞聖人にまつわる
 不思議な話を聞いたことはありませんか?
 ここにも『越後の七不思議』として
 動植物に関する不思議な言い伝えがあります。
 例えば、居多神社にある『片葉の葦』。



 親鸞聖人が祈願すると、ひと晩にして
 周辺の葦が、片方にしか葉がつかない
 『片葉の葦』になったと言われています。
 ほかにも年に3度実をつける栗、
 食事に出た焼鮒が泳ぎだした、など‥‥。
 これらの言い伝えは、つまり、
 親鸞聖人の超人性、非凡性を感じさせ、
 人びとが親鸞聖人に何を期待してきたか、
 いかに慕ってきたかをうかがうことができます。
 とるにたらない、科学的にはおかしいことであっても
 人びとが伝説にして残したいという願いは
 どこから出たのかというと、それは
 親鸞聖人が来たこと、そこで話されたこと、
 その行動に感動した人がいたからだと思います。
 業績は伝説となって、めずらしい動植物に乗せると
 それは紙にも書かないのにひとりでに
 伝わっていくわけですから」
ここ光源寺には、流罪の赦免が出たときの
親鸞の肖像画「流罪勅免御満悦御真影」が残っています。



「5年間、僧籍が剥奪されていたわけですから
 赦免が出たときにはひじょうに喜ばれたのでしょう、
 このようなご自身の絵をお描きになりました。
 この地においては僧侶の正式な衣は調達できないので、
 5年間着ていた流罪着を
 仕立て直したといわれています。
 それゆえに衣が流罪着そのままの色となっています」
親鸞、40歳の頃の姿だそうです。



「このようにいかにも、
 人とパッと会ったときのイメージといいましょうか、
 たいへんにインパクトがある方だったと思います。
 骨格がいかつく、後頭部が丸くなっていて、
 晩年などは、眉毛がすごいんですよ。
 肖像画である『熊皮の御影』のお姿などは、
 デフォルメして描いてあるにせよ、
 ちょっと形相がふつうの人ではない感じです。
 おそらく、親鸞聖人は
 真剣さ、まじめさとともに
 風貌や言動も、人びとをひじょうに
 ひきつける方だったのではないかと思います。
 お姿もインパクトがあるし、
 なさることも大胆で印象的でした。
 親鸞聖人の『南無阿弥陀仏』の念仏の教えは
 そうしてすこしずつ浸透していったのだと思います」
師である法然の浄土宗、そして親鸞の浄土真宗の
「念仏をとなえれば誰でも往生できる」
という教えは、どのようなものだったのでしょうか。


「我々のような煩悩具足の凡夫にとっては、自力で修行を積んで天然自然の声を聞き、自分がそこに同化していって、自分自身が仏になるということはむずかしく、不可能なんだ。自分は平凡な人間なのだから、そんなにむずかしいことはやめにして、ただ名号を称えることで、人間の生や死という問題を超えられるようになるんだ」ということです。

『吉本隆明が語る親鸞』p84より


自分の力で仏になるという修行はできないから、
それを捨てて、
念仏をとなえて阿弥陀仏の本願にすがること、
それが「他力」であると親鸞は言った、と
吉本さんはつづけて語っています。



親鸞はなぜ、自分の力で修行はできない、と
思ったのでしょうか。
さらなる問いを追いかけに、ふたたび茨城県、
常陸国へ移ります。
(つづきます)

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2012-01-11-WED

イラスト 信濃八太郎