いしはら・としひさ
1973年生まれ。
1996年 武蔵野美術大学彫刻科卒。
1998年 茨城県笠間窯業指導所終了。
2000年 福岡県宮若市にて薪窯築窯。
2010年 「ほぼ日」の「Love+LOVET」で
「石原稔久さんのやきもの人形」販売。


大学は武蔵美の彫刻です。
デザイン科と違い、彫刻科って、
大学を卒業したあと、つぶしが効かなくて、
ただでさえ行くあてがないんですが、
しかも僕、すごいアトピーだったんで、
会社は勤められないなあと思っていました。
どうしようかなあと考えていたとき、
うちの父が勧めたのがやきものでした。
父は脱サラ組で、
36歳までデザイン会社に勤めていて、
そこから急にやきものの道に入った人なんです。
僕が小学生の頃です。
その父からのアドバイスで、
技術さえあれば、
やきもので食っていくことはできるぞと。
もし自分の作品をつくりたいのなら、
バイト代わりに賃引き(湯のみ1個幾らで請け負う)で
生計を立てればいいじゃないかと。


▲石原稔久さんのご自宅のギャラリーで。

なるほどと思ったものの、
自分には基礎がなかった。
子どもの頃は父の仕事場に入るのは禁止でした。
大学終わって、初めて父の仕事場に入ったとき、
あ、こうなってるんだみたいなぐらい、知らなかった。
大学時代にテラコッタっていう、
ちょっと素焼きみたいな粘土を扱ったんですが、
「石原はやきもの屋だからよく知ってるよなあ」
って言われるんですけど、全く知らなかったです。
少ししか触ったことがなかった。

それで、茨城県の笠間っていうところに
父の知り合いの作家さんがいらっしゃって、
そこで修業をはじめました。
1年間、草むしりとか土練りなどをして、
紹介状を書いてもらい、
茨城県立窯業指導所に入りました。
そこでは1年間、
湯のみから急須までっていう
カリキュラムが組まれているんです。
先生が、ひいたのを見て、合格すると飯碗にいく。
で、合格するとマグカップ‥‥というふうに、
早い人はどんどん終わっていくんですね。
で、僕は半年で最後の急須までいっちゃったんです。
すごく楽しかったせいもあって。
残りの半年は、学校に時々行くかたわら、
笠間の産地の作家さんの窯炊きとか、
窯作りとかを体験でもうどんどん回り始めました。
そこで窯の築(つ)き方も教わりました。

どこの窯炊きもローテーションが組まれてて、
3交代か4交代で回ってくんですけど、
そのローテーションに入るのがすごく大事なことで、
そうすると全部吸収できる。
で、入るために必死で薪とか割って、
お金とかも全然貰わずに、とにかく勉強です。
そうして学校での1年間が終わりました。



学校を卒業する頃に、
ちょうど父が窯を引っ越すということで、
いっしょにやらないかということで、
福岡に帰り、父の仕事場を借りるかたちで
自分の仕事をはじめました。
戻ってきたとき、24歳です。
結婚をし、近くのアパートから
親父の仕事場に通いました。

いっしょにといっても、
うちの父は全然、これをしなさいとか、
これを手伝ってくれとか全く言わなくて、
もう勝手にやっていいけど、自分で全部責任は取れ、
というスタイルでした。
経済的な責任も当然、個別ですし、
作風も全く違います。
それでも父には助けられました。
最初に窯開きっていうのがあって、
父のお客さんに来ていただいたんです。
その隅っこの方で僕も少し売って、
その収入だったり、あとはバイトっぽく、
親父の薪割りとか手伝って、
お金を貰ってるような感じでしたから。

その頃、作ったものを近くの、
岩田圭介さんっていう作家さんに
できるたんびに、何回も見せに行ってたんですよ。
こんなのできましたと。
あるとき、岩田さんが、
「お、これ、いいね」
とかって。それがちょうど
いま、つくっているような表現だったんです。
これを千葉のクラフトフェアに出してみればと
教えていただいて、出してみたら、受かって、
そこからだんだんと声がかかるようになりました。


▲石原さんの窯場。

1年に何本かの仕事がだんだん増えてきて、
そこからまた次が広がっていきました。
個展をしながら、
声をかけていただいた全国のギャラリーに出す、
というかたちです。
最近はギャラリーだけじゃなくて、
動物園で個展をやるというような話もいただいたり。
「到津の森公園」ていう動物園が、
北九州にあるんですけど、
一角がギャラリースペースみたいになってるんですよ。
僕らもよく行く動物園なんですよ、子どもたち連れて。
それで、じゃあっていうことで受けたりとか。
3、4年前から立体のやきものでつくった人形を
頼まれるようになって、
最近、器と半々ぐらいになってきているんです。
人形の仕事と器が。
そんなふうにいろいろ広がってきたことが
とても楽しいです。


▲やきもののおにんぎょう。


▲石原さんは、やきもののおにんぎょうを主人公にした、
童話もつくっています。


最初の頃は、
ずっと手びねりばっかりで仕事をしてきたんです。
ろくろを避けてたわけじゃないんだけど、
やり初めの頃ってやっぱり何かこう、
その人ならではの何かがないと
まず見てもらえないんですよね。
手びねりは自由な感じが好きだし。


▲手びねりでうつわをつくってもらうことに。


▲彫刻をつくっているかのようです。

だからわりと手びねりを中心に
ずーっと作り続けていたんですけど、
最近、あんまりそこだけにこだわらなくなり、
1年半ぐらい前からろくろの仕事を
少しずつやり始めたんですよ。
で、この「ほ+」のお話がきたんで、
手びねりに加えて、ろくろのものでいこうと思いました。
といっても、僕は、
ろくろをひいたあとに、全部、表面を削って
もう1回、形を整えるんで、
表面がちょっとろくろ目じゃないんですけど。


▲天井までうつわやおにんぎょうがぎっしり。

飯わんって、難易度が高いんですよ。
僕には難しい分野で、
すごく普段使いのものなので、
使い勝手がかなり左右するというか、
だからわりと最初から自分がどうかしたいっていうよりは
みんなが入り込みやすいところから
やってみたいなと思います。

湯のみは、そうですね、
自分がお酒よりお茶が好きなせいもあって、
たとえば中国茶やってる友達と一緒にやるときは
ちっちゃい中国茶のカップから、
喫茶店でやるときはコーヒーカップなど、
わりとお茶まわりのものが好きです。

お客さんには、わりと、持ちごたえだとか、
いろいろ、主張があるんですよね。
厚すぎるわ、持てないわとか、
ちょっとちっちゃい方がいいんだよねとか、
うちはカフェオレ、ガブガブ飲むんで大きく、とか。
だからいろんなものをほんとによく作って、
出させてもらってますね。
でも最近はわりともう、平均して
今回ぐらいの大きさで作ることが多いかな、湯のみは。

湯のみって、いろいろ変わっていくんですけど、
僕の中で変わらないかたちっていうのが
幾つか生まれてきてるんですね。
それは一般に多分定番と呼ばれてるものだと
思うんですけど、何回やっても、
そのかたちに戻っていくようなかたちがある。
そういうものはやっぱり作ってても飽きないし、
自分で使ってても飽きないので、
これは何かあるんだろうなあと思って。
そんなふうに思っているものを、
出させていただきました。


▲石原さん(左)と福森道歩さん(右)。
石原さんの登り窯の前で。


僕ももともと、1個1個を変えてくような
タイプの作家ではなくて、
ある程度、形を決めたら、
それを作り込んで微調整をします。
微調整の方法は、いろいろあるんですが、たとえば、
土器っぽい仕上げのものは、
素焼きを1回して、石分と土分が入った化粧土を
表面にもう1回塗る。
それをペーパーでちょっとはぎ落としてから、
薪窯で本焼きします。
それで焼いて、たとえば水色のカップは、
その上にもう1回、水色の上絵具、
無鉛の上絵具を付けてもう1回、
800度で焼成するっていう焼き方ですね。
上に釉薬をかけずに仕上げるものもあります。

釉薬は筆で全部塗ります。
筆ならではの、むら感みたいなのが
好きなのかもしれないですね。



こういう、わりと土器っぽい仕事が始まってから
7年ぐらい経ちますが、
始めた当初の、こうじゃなきゃ、みたいなのから、
ちょっとずつ、ツヤっとした釉薬でもいいなあとか、
変わってきてる時期だと思うんですね。
黒いものは、使っていくうちに、
手づれみたいなものが出て、
最初はマットだったのが、ツヤが出てきます。
そんなふうに育てていただいたらうれしいです。


▲お昼ご飯をいただきました。
石原家で日常使っている、なじんだうつわたちです。


料理ですか。僕、好きですね。
もう、結婚してすぐはずっと僕が全部作ってて。
うちの奥さんは、
いい加減にしてほしかったらしいですけど。
今は、奥さんが忙しいときは僕がつくる程度です。
でも子どもたちはけっこう、
ちょっとジャンクな味付けの
僕の料理好きだったりとかするんですよ。


2011-02-18-FRI

写真:大江弘之 + ほぼ日刊イトイ新聞 



ツイートする