大学は武蔵美の彫刻です。
デザイン科と違い、彫刻科って、
大学を卒業したあと、つぶしが効かなくて、
ただでさえ行くあてがないんですが、
しかも僕、すごいアトピーだったんで、
会社は勤められないなあと思っていました。
どうしようかなあと考えていたとき、
うちの父が勧めたのがやきものでした。
父は脱サラ組で、
36歳までデザイン会社に勤めていて、
そこから急にやきものの道に入った人なんです。
僕が小学生の頃です。
その父からのアドバイスで、
技術さえあれば、
やきもので食っていくことはできるぞと。
もし自分の作品をつくりたいのなら、
バイト代わりに賃引き(湯のみ1個幾らで請け負う)で
生計を立てればいいじゃないかと。
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▲石原稔久さんのご自宅のギャラリーで。
なるほどと思ったものの、
自分には基礎がなかった。
子どもの頃は父の仕事場に入るのは禁止でした。
大学終わって、初めて父の仕事場に入ったとき、
あ、こうなってるんだみたいなぐらい、知らなかった。
大学時代にテラコッタっていう、
ちょっと素焼きみたいな粘土を扱ったんですが、
「石原はやきもの屋だからよく知ってるよなあ」
って言われるんですけど、全く知らなかったです。
少ししか触ったことがなかった。
それで、茨城県の笠間っていうところに
父の知り合いの作家さんがいらっしゃって、
そこで修業をはじめました。
1年間、草むしりとか土練りなどをして、
紹介状を書いてもらい、
茨城県立窯業指導所に入りました。
そこでは1年間、
湯のみから急須までっていう
カリキュラムが組まれているんです。
先生が、ひいたのを見て、合格すると飯碗にいく。
で、合格するとマグカップ‥‥というふうに、
早い人はどんどん終わっていくんですね。
で、僕は半年で最後の急須までいっちゃったんです。
すごく楽しかったせいもあって。
残りの半年は、学校に時々行くかたわら、
笠間の産地の作家さんの窯炊きとか、
窯作りとかを体験でもうどんどん回り始めました。
そこで窯の築(つ)き方も教わりました。
どこの窯炊きもローテーションが組まれてて、
3交代か4交代で回ってくんですけど、
そのローテーションに入るのがすごく大事なことで、
そうすると全部吸収できる。
で、入るために必死で薪とか割って、
お金とかも全然貰わずに、とにかく勉強です。
そうして学校での1年間が終わりました。
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学校を卒業する頃に、
ちょうど父が窯を引っ越すということで、
いっしょにやらないかということで、
福岡に帰り、父の仕事場を借りるかたちで
自分の仕事をはじめました。
戻ってきたとき、24歳です。
結婚をし、近くのアパートから
親父の仕事場に通いました。
いっしょにといっても、
うちの父は全然、これをしなさいとか、
これを手伝ってくれとか全く言わなくて、
もう勝手にやっていいけど、自分で全部責任は取れ、
というスタイルでした。
経済的な責任も当然、個別ですし、
作風も全く違います。
それでも父には助けられました。
最初に窯開きっていうのがあって、
父のお客さんに来ていただいたんです。
その隅っこの方で僕も少し売って、
その収入だったり、あとはバイトっぽく、
親父の薪割りとか手伝って、
お金を貰ってるような感じでしたから。
その頃、作ったものを近くの、
岩田圭介さんっていう作家さんに
できるたんびに、何回も見せに行ってたんですよ。
こんなのできましたと。
あるとき、岩田さんが、
「お、これ、いいね」
とかって。それがちょうど
いま、つくっているような表現だったんです。
これを千葉のクラフトフェアに出してみればと
教えていただいて、出してみたら、受かって、
そこからだんだんと声がかかるようになりました。
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▲石原さんの窯場。
1年に何本かの仕事がだんだん増えてきて、
そこからまた次が広がっていきました。
個展をしながら、
声をかけていただいた全国のギャラリーに出す、
というかたちです。
最近はギャラリーだけじゃなくて、
動物園で個展をやるというような話もいただいたり。
「到津の森公園」ていう動物園が、
北九州にあるんですけど、
一角がギャラリースペースみたいになってるんですよ。
僕らもよく行く動物園なんですよ、子どもたち連れて。
それで、じゃあっていうことで受けたりとか。
3、4年前から立体のやきものでつくった人形を
頼まれるようになって、
最近、器と半々ぐらいになってきているんです。
人形の仕事と器が。
そんなふうにいろいろ広がってきたことが
とても楽しいです。
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▲やきもののおにんぎょう。
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▲石原さんは、やきもののおにんぎょうを主人公にした、
童話もつくっています。
最初の頃は、
ずっと手びねりばっかりで仕事をしてきたんです。
ろくろを避けてたわけじゃないんだけど、
やり初めの頃ってやっぱり何かこう、
その人ならではの何かがないと
まず見てもらえないんですよね。
手びねりは自由な感じが好きだし。
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▲手びねりでうつわをつくってもらうことに。
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▲彫刻をつくっているかのようです。
だからわりと手びねりを中心に
ずーっと作り続けていたんですけど、
最近、あんまりそこだけにこだわらなくなり、
1年半ぐらい前からろくろの仕事を
少しずつやり始めたんですよ。
で、この「ほ+」のお話がきたんで、
手びねりに加えて、ろくろのものでいこうと思いました。
といっても、僕は、
ろくろをひいたあとに、全部、表面を削って
もう1回、形を整えるんで、
表面がちょっとろくろ目じゃないんですけど。
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▲天井までうつわやおにんぎょうがぎっしり。
飯わんって、難易度が高いんですよ。
僕には難しい分野で、
すごく普段使いのものなので、
使い勝手がかなり左右するというか、
だからわりと最初から自分がどうかしたいっていうよりは
みんなが入り込みやすいところから
やってみたいなと思います。
湯のみは、そうですね、
自分がお酒よりお茶が好きなせいもあって、
たとえば中国茶やってる友達と一緒にやるときは
ちっちゃい中国茶のカップから、
喫茶店でやるときはコーヒーカップなど、
わりとお茶まわりのものが好きです。
お客さんには、わりと、持ちごたえだとか、
いろいろ、主張があるんですよね。
厚すぎるわ、持てないわとか、
ちょっとちっちゃい方がいいんだよねとか、
うちはカフェオレ、ガブガブ飲むんで大きく、とか。
だからいろんなものをほんとによく作って、
出させてもらってますね。
でも最近はわりともう、平均して
今回ぐらいの大きさで作ることが多いかな、湯のみは。
湯のみって、いろいろ変わっていくんですけど、
僕の中で変わらないかたちっていうのが
幾つか生まれてきてるんですね。
それは一般に多分定番と呼ばれてるものだと
思うんですけど、何回やっても、
そのかたちに戻っていくようなかたちがある。
そういうものはやっぱり作ってても飽きないし、
自分で使ってても飽きないので、
これは何かあるんだろうなあと思って。
そんなふうに思っているものを、
出させていただきました。
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▲石原さん(左)と福森道歩さん(右)。
石原さんの登り窯の前で。
僕ももともと、1個1個を変えてくような
タイプの作家ではなくて、
ある程度、形を決めたら、
それを作り込んで微調整をします。
微調整の方法は、いろいろあるんですが、たとえば、
土器っぽい仕上げのものは、
素焼きを1回して、石分と土分が入った化粧土を
表面にもう1回塗る。
それをペーパーでちょっとはぎ落としてから、
薪窯で本焼きします。
それで焼いて、たとえば水色のカップは、
その上にもう1回、水色の上絵具、
無鉛の上絵具を付けてもう1回、
800度で焼成するっていう焼き方ですね。
上に釉薬をかけずに仕上げるものもあります。
釉薬は筆で全部塗ります。
筆ならではの、むら感みたいなのが
好きなのかもしれないですね。
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こういう、わりと土器っぽい仕事が始まってから
7年ぐらい経ちますが、
始めた当初の、こうじゃなきゃ、みたいなのから、
ちょっとずつ、ツヤっとした釉薬でもいいなあとか、
変わってきてる時期だと思うんですね。
黒いものは、使っていくうちに、
手づれみたいなものが出て、
最初はマットだったのが、ツヤが出てきます。
そんなふうに育てていただいたらうれしいです。
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▲お昼ご飯をいただきました。
石原家で日常使っている、なじんだうつわたちです。
料理ですか。僕、好きですね。
もう、結婚してすぐはずっと僕が全部作ってて。
うちの奥さんは、
いい加減にしてほしかったらしいですけど。
今は、奥さんが忙しいときは僕がつくる程度です。
でも子どもたちはけっこう、
ちょっとジャンクな味付けの
僕の料理好きだったりとかするんですよ。
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