伊賀の土楽、福森の家に生まれましたが、
やきものをやれ、と言われたことはありません。
▲伊賀・土楽のギャラリーで。
四人姉妹です。
長女は、作り手になるということとは別に
継がなあかんという責任はあったと言ってました。
次女は結婚して家を出て、
三女の円(まどか)はうつわづくりの道に進みました。
わたしは食文化関係の短大に行き、
そのまま料理の道に進もうと思っていたんですが、
ひとまず伊賀にもどって、半年ほど、
当時健在だった祖母の、農業の手伝いをしていました。
▲土楽の敷地内にある畑。
少し離れたところに田んぼもあります。
土楽ではお米は自前。
家族と職人さんみんなで、田んぼ仕事もしています。
当時は、毎日のように父と喧嘩してました。
私も二十歳そこそこで、エネルギーが有り余っていて、
私がうっかりつかみかかるものだから、
父(福森雅武さん)はよけようとして手を出す。
すると、力の差があるから私がふっとばされたりして、
いつも青あざつくっていたんです。
▲土楽の裏山は道歩さんのお気に入りの場所です。
春は山菜、初夏は山椒、秋はきのこがとれます。
そのころ、父が本を出すことになり、
編集者のかたやアートディレクターのかたが
家にいらしていた。
そのディレクターのかたが青あざつくってる私を見て
「あんた、どうしたの」と。
「こうこうこうなんです」
「どうしたいの」
「料理の道に行きたいなと思ってます」
「じゃあ、ぼくが先生を紹介してあげよう」
ということになり、
料理研究家の村上祥子先生に
師事することになりました。
▲『土楽食楽』(文化出版局)
福森雅武さんの四季折々の暮らしと料理を
2年かけて取材してつくった本です。
東京に住むというのは
まったく考えていなかったことでしたが、
あんがいどこの水にもなじむ性分らしく、
3年ちょっと仕事をさせていただきました。
その当時の友人が飯島奈美さんです。
彼女は別の先生についていたんですが
同じアシスタント同士で気が合って。
▲土楽の台所にて、飯島奈美さん(右)と。
ふたりのコンテンツ「土鍋でLIFE」をごらんください。
そのあと、もっと本格的に料理を勉強して、
資格を取ろうと、
大阪にある辻調理師専門学校に行きました。
ところが、突然、
生きたものがさばけなくなったんです。
卒業を前にした、10月くらいのことでした。
それまで全然平気だったのに。
海老の頭を取るとか、できなくなった。
ものすごい恐怖があって。
それで、困ったな、料理の道に行くのに
こういうことではどうしたものかと。
こんな状態で料理をするなんて厚かましい。
誰かがしめてくれたものを調理する?
そんなの、自分では許せなかった。
人にそういう始末をしてもらって 自分が料理をするってことは絶対ダメだって。
さて、どうしたものかと思って、
いろんな人に相談をしていたんですね。
そうしたら、懇意にしている人が、
「お寺に行ってみたらどうか」。
たしかに殺生っていうことについて、
もうちょっとちゃんと考えないといけないかな、
お寺っていうのも
ちょうど自分に合ってるかなと思いました。
それに、食べることさえも、
だんだん怖くなってきたりもしていたんです。
でも、自分の命をおろそかにしたらね、
それまで食べてきたものにも失礼だし、
親にも失礼だし、いろんなことを考えて、
これじゃああかんなと思って、
お寺に行こうかなと。
そして月浦(げっぽ)和尚様を師として、
大徳寺の龍光院に入ったんです。
お寺では、体力仕事ばかりです。
基本はお掃除。
ほかに中学浪人の男の子がひとり、
アメリカ人のお坊さんになりたいっていう
小僧さんがひとり。
みんなで掃除をし、
いただいたものを料理し、
作務(さむ)っていって畑仕事をしたり、
石畳の石を据えるとかも、しました。
なにか教わるということはないんです。
体ばっかり使うんです。
考えたらダメっていうことで、考えないです。
やることはいくらでもあるので。
そうやってお寺に住んでいたころ、
あれは12月だったか、
姉の円から相談を受けました。
自分のつくりたいものについて悩んでいること、
そして、結婚をしたい相手がいること。
そしてその相手は同じ作り手で、
お父さんとは絶対に合わない人だし、
だから家を出たいんだっていうことを言われました。
そのとき思ったのは、
「ほんなら、まあこういうふうになるもんなんかな」
っていうことです。
お寺にいたんで、そのときもうほとんどのことは
諦めた、いうんかな。
悟りではないんですけど、
そういうものだっていうことが
だんだん見えてきていたんでしょうね。
で、まあ、そういうふうになってるんだって思って、
「わかった」って。
「あなたは何も心配せんでいいから、私もどるから。
好きなようにしたらいいよ」って。
それで翌年の春、家にもどったんです。
料理を諦めたというわけでもなかったんです。
料理っていうのは、3食、食べる、
毎日あるものだから、なくなることがない、
ていうことがわかったんですね。
だから、消えることもない。
作陶とともに、朝茶事の料理や、
お寺の料理のお手伝いにも飛んでいきます。
ろくろをひいたこともない私でしたが、
家にもどれば、まあ、
何か別のことができるのではないか‥‥と。
たとえば経営をすることだってあるだろうしと。
その時、もう27でした。
うつわをつくるなんて、
今からやって間に合うんかな? と思ってたし、
そんな気持ちで帰ったんですよ。
和尚様にもそうお伝えして。
▲今回出品するごはん茶わんを制作中。
ところが伊賀に帰ってみると、
土楽はたいへんな状態になっていました。
私が帰ったのが4月、姉は5月までいたので、
ひと月、いろんな事務的なことをまず教えてもらった。
そのとき、土楽の現状がはじめてわかりました。
私が東京にいた頃は、
とても景気がよかったんですよ。
ところが、世の中が不景気になっていて、
当時、父は、山ごもりをしていた。
まる3年以上、家をあけて
比叡山で修業や作陶をしていた時期です。
土楽の仕事は減り、お金のやりくりはたいへんで、
年配の職人さんたちの給料を下げないとならなかった。
突然帰ってきた何もできない自分が、
おじいちゃんくらいの職人さんに
それを言わないとならない。
そして、自分もろくろをひかなあかん、
ということに気づきました。
最初は、ええかっこしいのところがあって、
へたくそなところ見られるのイヤやなと、
みんながいるところで練習することもできなかった。
それが、やらなあかんとなって、
兄弟子が教えてくれて、
1時間が2時間、
2時間が3時間になりました。
手本は父のうつわです。
そのときは父にたいしては、憤りもありましたが、
父がつくるものが好きだということは変わらない。
つくったものをみると、
やっぱりこの人はすごい、とわかるんです。
ちょっとひけるようになって、ますますそう思い、
どんどん、ひきたくなっていきました。
というか「じつはひきたかったんだ」と、わかった。
ひたすら練習をしていると、
今までバラッバラの形が
もう明らかにびしっと揃って、
何枚もひけるようになってくるんですよね、日に日に。
父がよく言ってるのは、
職人と競って何枚ひいたっていう話です。
やっぱりそこに近づきたいと思うし、
そうするにはどうしたらいいかって考えるし。
そればっかりで、そこを目指してやってたもんですから、
もう日に日に上達して、
けっこうひけるようになったんですけど。
でも、やっぱり「あ、できてた」と思って、
焼けて出てきたら全然できてなかったっていう、
しょっちゅうそれの繰り返しです。
できてると思って、完成見たらできてなかったって。
私の想像してた形になってない。
全体を、ゴールを見えてない。
そんなものは売り物にならないし、
ましてや自分の作品ですなんて言えない。
もう恥ずかしくて置いとけない。
それの繰り返しでした。
形の同じものが
ちゃんと同じ品質でつくれるようになるのが
職人の第一歩。
やっとれんげの受け皿がひけるようになり、
土楽での仕事がはじまりました。
▲ひいたばかりのうつわを細い板に乗せて運搬中。
そして、父がもどってきます。
師事していた和尚様が亡くなって、
家に帰ってきた。
まだ、土楽はたいへんな時代でした。
それどころか、もう縮小するしかない時でした。
父がいない間に、粘土の調合を変えた職人さんがいて、
そのために当時、土楽の土鍋はよく割れる
と言われるようになってしまってました。
もちろん評判も落ちます。
そのことがわかって、
私は兄弟子といっしょに
土鍋とはどういうものかというところから
勉強し直しました。
ずっと古い職人さんに任せ切りだったことを、一から。
そして、いまのつくり方ではあかん、
割れにくい鍋にするにはこういう土でやらな、
と、わかったところで、
古い職人さんに任せるのはやめて、
私は新しい土鍋を持って、
料理屋さんを回って営業に行きました。
土楽の鍋は割れやすいという評判が立ったあとですから
どんどん競争が激しくなっていたんです。
▲壁にかかっている竹とんぼのようなものは、
うつわをはかる手作りの定規。
つくることができるうつわの分だけ、
この定規の数が増えていく。
「まだまだ少ない」と道歩さん。
けれども、土楽には、基本とする
「美しいもの」っていうか、
「用の美」のようなものが根本にあったので、
そこは譲れないね、っていうところで、
値段は高いかもしれないけれど、
いいものをつくるという姿勢で
営業を続けていたら、
だんだんと受け入れられるようになったんです。
福森雅武さんが原型をつくった「ベア1号」。
煮る、焼く、蒸す、炒める‥‥ステーキも焼ける土鍋です。
「ほぼ日」さんから、土鍋をいっしょにつくりたいと
最初にお話をいただいたのは、
たしか2005年ころのことでしたよね。
2年ほどかけて、「ベア1号」がうまれました。
私は、「ほぼ日」さんは全然知らなかった。
パソコンも使えないような人間だったんでね。
そして、お話をいただいたときに、
「それはあなた対処できるのか」とか、
周りから、いろんなことを言われましたね。
「クレームの嵐やぞ」とか、いろんなこと言われて。
でも、1人だけ、「ビッグチャンスや」
って言う人がいたんですよ。
お寺の仲間です。
「すごいチャンスや。
おまえ、何でやらへんのや。
やらへんのはおかしい」って。
そして父も「やったら」って言う。
父は、ほら、何も考えへんから(笑)。
話来た、「はい、いいよ」っていう。
「また勝手なこと言うて」
みたいな感じだったんですけど、それを聞いて、
どん底なのにこんなに、
また守りに入ってどないすんねんって、
私も思ったんで、
「やらしてください」っていうお願いをしたんです。
▲「ほぼ日」の社員旅行で土楽さんへ。
「ベア1号」をつくっているところを
道歩さんに案内してもらいました。
そのあとが「ほんとにだいじなカレー皿」です。
「ベア1号」は父ですが、
こちらは私が、料理をやってた知識が生かされた、
初めてのうつわかもしれません。
やってきた料理と、その陶器が初めて一緒になった。
「カレー皿」をつくりはじめたときは、
最初、あの形で、ちっちゃかったんですよね。
というのは、うちではカレーって、
いろんなもん食べてもらって最後にちょっと、
というものだったんです。
だから、ちっちゃかった。
それをあの大きさにというアイデアをいただいて、
さらにいろんな絵付けをしたりして、
そのなかから、あのシンプルな2つが製品化されました。
▲道歩さんがつくる「ほんとにだいじなカレー皿」。
▲ごはんを最後のひとつぶまで
スプーンですくえるカーブは、
手ろくろだからできるかたち。
あれで、いろんな技術みたいなものも
考えるようになりましたし、
だからわりと自分からっていうより、
人に与えられたほうがやるのかなとは思いましたね。
能がないんで。ちょっと足してもらわんと。
調味料、足してもらわんと。
「カレー皿」で1週間に300枚をひいたりして、
自分で驚きました。できた、と。
しかも筋肉はつくし、カレー皿のひき方、
ものすごい自分の中で糧になっていて。
いまものすごいいい状態で飯碗がひけてるんです。
土の動きが、うちが目指してきたものになってきてる。
これまで、先輩や父がひいてきたものを見て、
ああいうふうにひきたいな、
っていうのはあったんですけど、
いままではほんとうにできないから、
小手先で何とか表面だけ取り繕うような
ひき方をしていたのが、
最近この粘土の動き方が
ちょっとわかるようになってきた。
この飯碗は、また自分の糧になる
課題をもらったなと思っています。
▲「カレー皿」を天日で乾かしてます。
父の言う「お茶漬け」が、
私にとっては「どんぶり」です。
ごはんを入れて、なにかをのせて、どうぞ、と。
あるいはそうめんとかにゅうめんもいけますし、
いろんなことに使えるうつわがつくりたい。
それが楽しめる形をつくりたいなと思いました。
ごはん茶わんだけじゃない使い方ができるから、
おかずとごはんに使ったり、
だれかが来たときに出したりと、
テーブルの上に揃いであったり、
色ちがいであるのも、おもしろいなと思っています。
▲今回出品するごはん茶わん(3種あり)。
いっぽう、お湯のみはむずかしいんです。
今、ペットボトルの時代だったりするじゃないですか。
だからこう、押し込む、流し込むような飲み方ですよね、
ペットボトルっていうと。
そうじゃなくて、温度を感じたり、
やさしさであったりとか、ガラスでもない触感を
味わってもらえるのが陶器だと思っているので。
飲み口ってうちの父がいちばん言うことなんで、
私もそれはすごい思うし、
でも、欠けるのもイヤだしとか、
いろんなこと考えながらつくっています。
飯碗よりもやっぱり、
いまは湯のみのほうが課題は多いかな。
楽しくひけるのは飯碗で、
これかなって思いながら、
探りながらひいてるのがやっぱり湯のみ。
▲今回出品する湯のみ(3種あり)。
手にすっぽりとおさまるやさしいかたち。
昨年、料理の本を出させていただいて、
不思議な感じです。
だんだんそういうのが集まってきて。
もうほんとうに「まかせる」っていうことを
お寺で学んだので。
「なるようになる、なるようにしかならない、
どっちだと思うか」ですか?
なるようにしかならないです。
何かで反発しようとすると、
ストレスが生じるじゃないですか。
そのストレスがとてもエネルギーが要って、
それが大事な時はあるかもしれないんですけど、
わりと大事じゃなかったりすることが
多いような気がして、
任せるっていうことに一回乗ってしまう、
波があるとするならそれに乗って、
悪いほうに行くにしろ、行かないにしろ、
自分が信じたものに対して任せるっていうことが、
自分のストレスがなく楽だったんで、
そういうふうにしてきたんです。
そうすると、みんながいいようにいいように、
いいような流れに持っていってくれはった。
今みたいに本も出せたりしたし。
▲道歩さんのはじめての本。
土鍋料理のレシピ集です。
仲間うちで、私たち、すごい討論とか、
議論みたいなことをよくするんですね。
喧々囂々、侃々諤々、
己というものに対してとか、
物に対する考え方みたいなことを
ガンガン言い合いするんですよ、
自分の思いみたいなのをぶつけたりもしてたし。
その中でいろんなことがわかってくるじゃないですか。
父の言うことなんてさっぱりわからなかったし、
最初の頃は。腹が立って仕方がなかったし。
わからない自分がじゃなくて、
「何でこの人こうなんや」
っていうのばっかりだったんですけど、
まあある時、任せた考え方に変えたら、
父の考えてることもよくよくわかるように‥‥
よくよくっていうか、まあいまの時点で
わかることはわかるようになった。
またストレスがこれで減ったんですよね。
で、ストレスが減るとすごく楽になるじゃないですか。
その落差がやっぱり心地よかったので、
それって何なんだろうという思いと、
ぶつからなあかんときはぶつかりますけど、
父の考えてることに
もうちょっと近づくにはどうしたらいいかなって
考えたときは、もう任せたらええんかな。
といいながら、いまも喧嘩、してますけど。
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