土楽で、福森雅武さんに師事したのは
25歳のときから4年間です。
2006年から熊本でひとりで窯を始めました。
▲熊本の細川さんの工房で。
生まれは東京ですが、
生後まもなく家族で熊本に移りました。
中学を出てから、アメリカに渡ります。
向こうで高校を出て、
大学に入りましたが、
1年したところで、日本にもどります。
東京の、大学に編入するんですが、
もともと学校というところがどうも苦手で、
悩んだ挙句、辞めてしまいました。
それから写真の学校に行ったり、
いろいろなアルバイトでお金を貯めて
インドにしばらく行ってみたり、
阿蘇の鉱山で働いていたこともありました。
今、思い返すと、
何となくいろいろ、ああでもない、
こうでもないってやりながら
焼物に、近づいていってたように思います。
身体を使ってできる仕事、
都会が苦手なので、田舎でできる仕事、
ひとりでもできる仕事。
▲工房のろくろ。
小さいころから
焼物の名品にふれていたのかと訊かれますが、
そんなことはありません。
うちで使う食器だとか、
ごくふつうのものでした。
だからもともと素養があったというのではなく、
強く志したのはやはり、
福森雅武さんに会ってからでしょうね。
福森さんとは、弟子入りする前から
行き来がありました。
アルバイトをしていた植木屋の親方と
福森さんが仲が良くて、
しょっちゅう一緒につるんで飲みに行ったりしてた。
僕もそれに付いて行ったから、
学生のころから福森さんは知っていました。
ちなみに焼物に初めて触れたのは
アメリカの大学にいた頃でした。
学内の工房を見学に行ったとき、
「これやりたいな」と思って、
毎日のようにこもって
土をいじってました。
毎晩、その工房にこもっていたので、
ホソカワはあそこに住んでるんじゃないか、って
言われていたほどです。
その時はこれを仕事にする、
なんて意識は全くなかったんですけどね。
▲細川さんは道歩さんの兄弟子。
数年後土楽に入ったら、土練りも反対、
ろくろも反対。全部アメリカとは逆回転でした。
最初の1年は窯の仕事がほとんど。
梱包などもやっていましたが
梱包材の古新聞を読みふけっていて
よく円さんに怒られてました。
あとはずっとろくろをひいていましたね。
土楽では、福森さんは基本的に仕事が全然別だし、
職人さんたちは福森さんが作ってる様子を
見ることはありません。
先輩の職人さんたちのやり方を見て、
分からんことがあったら聞くぐらいです。
土楽を辞めたのは2005年、
ちょうど僕が土楽に入った頃
偶然やきものを始めていた親父(細川護煕さん)が
“陶芸家"としてかなり忙しくなってきて、
手伝いに来てほしい
という連絡を受けたからなんですが、
その手伝いを1年して、
2006年に自分の窯を持ちました。
今思うと、やっぱり
もうちょっとやきもののことを学んでから
独立した方がよかったなとは思います。
土から釉薬から
すべてゼロからのスタートだったので
最初は結構大変でした。
当然お金を稼がなければいけないし、
検品、梱包、事務的なことまで
全てひとりで片付けないといけない。
新しいこと、やってみたいことを試す時間がなくて、
焦りました。
作業に忙殺されます。
でも、そういうふうにしてみないと
分からないこともあるんですけれどね。
▲釉薬をかけているところ。
福森雅武さんのこと、
僕は現代の作家でいちばん好きです。
いちばん尊敬しています。
本人が楽しんでるし、即興だし、
人から何と言われるとかそういう問題じゃなしに、
まず自分が楽しむっていうことを
徹底してるっていうのがいいと思います。
うつわを選ぶのって、
経験の問題もあってですね、
意識を持って向き合わないと
自分の好き嫌いっていうのが分からない。
意識を持って付き合ってるうちに
自分の好みっていうのがわかってくると思います。
そして、好きなうつわでごはんを食べていると、
そのごはんも大事になってくる。
うつわだけの問題じゃなくなってくる。
そういうのが楽しいと思います。
今回出さしてもらった湯呑みは
唐津の材料を使って作ったものです。
普段作っているものより
一回り小さいサイズにしてみました。
釉薬は樫の木の灰を使っています。
いままで作っていた飯碗がどうも納得できなくて、
新しいものを出すつもりで
いろいろと試作を繰り返していたのですが、
土と釉薬の組み合わせがうまくいかなかったり、
納得いくものができず、
結局間に合わなかった。
今回は湯呑みだけ出さしてもらうことにしました。
|