青山さんの場合。
- 青山
- 僕は北海道の札幌出身で、大学で東京に出てきました。
卒業後は東京で就職をしようと考えていたのですが、
大学の先輩に岩本悠という、海士町で教育の魅力化に
取り組んでいる者がおりまして。
彼に誘われて、卒業半年前に海士町に来てみたんです。
いまから11年前のことです。
- ――
- その時点で就職は‥‥?
- 青山
- ITベンチャーの会社に内定をもらっていました。
岩本は、そのときソニーで働いていたんです。
でも、「僕は会社を辞めて、この島に住むつもりだ」と
話してくれた。
大学時代は二人とも、
海外の途上国支援に興味があったんですが、
「途上国に共通する課題が、日本の地方にはあったんだ」と。
そこまで言われて、「じゃあ行ってみようか」と
3泊4日で来たんです。
町長や課長さんとお会いして、
なんて面白そうな島だろうと思いました。
東京も好きだったけれど、
東京じゃなくてもここなら一生懸命働ける。
それで、帰る数時間前、フェリーに乗る前に
「仕事ないですか?」って飛び込んだのが、
観光協会だったんです。
- ――
- その勢いのまま、そこに就職することに?
- 青山
- はい(笑)。
そのときに出てきてくれたのが青山課長という、
たまたま同じ苗字のかただったんです。
「同じ苗字だし、いいんじゃない?」
なんて言われながら、
働かせてもらうことになりました。
- ――
- そんな理由で!
具体的には、どんな仕事をされているんですか?
- 青山
- 海士町には、ホテルが1軒と民宿が11軒しかないんです。
しかも民宿のおかみさんたちは高齢化が進んでいる。
だから、僕ら観光協会が手伝って、
インターネットをつかっての発信や旅行会社との交渉をやったり、
外の人に民宿の良さを発信して、
ちゃんと自立できる観光産業を
作るというところから、関わっています。
- ――
- 観光協会といっても、
単純なPRだけではないんですね。
- 青山
- そうなんです。
たとえば、民宿のシーツや浴衣を洗濯するのに、
これまでは洗濯ものを船に乗せて本土に運んで、
洗ってもらっていたんです。
そこで「どうせなら自分たちで洗おう」と
リネンサプライの工場を作りました。
僕はいま、その社長でもあります。
- ――
- そんな多岐にわたる仕事の中で、
ほぼ日手帳は
どんなふうに使っていらっしゃるんですか?
- 青山
- 実は、ほぼ日手帳は3年前、
買ってはみたものの、全然続かなくて、
「自分の身の丈に合っていないんだ」って
今年の春は買うのをやめたんです。
そしたら、大辻さんが
「実は高校生に配るんですよ」と教えてくれた。
それで、
もう一度ほぼ日手帳をつかってみようと思ったんです。
今年は、常に開いた状態でデスクに置いています。
人と話すことが多い仕事なので、
その内容のなかで大事だなと思ったことを
ぱっとメモをする。
「白紙でもかまわない」と
肩の力を抜いたのがよかったのか、
ここのところ、続いています。
- ――
- 仕事のメモなどを手帳に集約する習慣が
初めて続いているわけですか?
- 青山
- いや、それがそうでもなくて。
僕、高校のとき野球をやっていたんです。
その頃は毎日長文の日記を書いてました。
僕が甲子園に出たとき、
その年いちばん小さいキャッチャーだったんですが、
バッテリーを組んだピッチャーがひとつ上の先輩でした。
彼が夢を叶える日記みたいなものを書いていたんです。
それを真似して、
甲子園に行くために何をするべきかを
ウェイトトレーニングの記録とともに書き記しました。
それが、日々記録することの原体験のような気がします。
- ――
- 甲子園出場のキャッチャー!
すごいですね。
- 青山
- いえいえ、何千人といますよ。
ちょっと余談になりますが、
高校2年のときに甲子園に出て、
1回戦がPL学園だったんです。
まあ、ボロボロに負けました。
でも、控え室で3年生の先輩たちに
「ありがとう」って言われた。
そのときに、すごい罪悪感が生まれたんです。
僕は自分のことしか考えていなかった。
そのせいで負けたんじゃないかと。
それで、大学では野球をやりませんでした。
自分から野球をとったときに、何が残るかが知りたくて。
これまで自分のことしか考えてこなかったから、
大学では誰かの役に立てることを探したんです。
国際教育を勉強するようになり、
そこで岩本と出会って、
海士町にたどり着きました。
- ――
- 野球に対する思いの反動で、
いまここにいらっしゃるんですね。
いまも草野球をされたりはしないんですか?
- 青山
- 今週末、
地区のソフトボール大会に出ます(笑)。
島前高校の生徒が増えて、
最近、軟式野球同好会が復活したんです。
それがいま、すごくうれしいことです。
観光資源づくりなど、長期にわたるプロジェクトに関わることも多い。
年間カレンダーのページを3ヶ月ごとに区切って、
その時期にやるべきことを書いておく使い方も。
中根さんの場合。
- 中根
- 海士町に来て、4年目になります。
ほぼ日手帳は2年前から使っています。
海士町に来る前は福岡にいたので、
福岡のロフトで見かけたのがきっかけです。
- ――
- 海士町に来られたきっかけは?
- 中根
- 福岡で、まちづくりの仕事をやっていたんです。
あるとき、同じくまちづくりを生業にしている先輩から
「海士町が人を募集しているよ。
面白いところだから、半年くらい勉強にいってきたら?」
と言われました。
「半年なら行ってもいいかな」と思って来たのに、
そのまま居ついてしまいました。
- ――
- いまは、どんなお仕事をされているんですか?
- 中根
- 役場に勤めていまして、
主に再生可能エネルギーと
林業の政策を担当しています。
公共施設等に太陽光発電を導入したり、
薪ストーブの普及を促進したり。
島前高校の生徒たちに、
環境教育の授業をおこなうこともあります。
- ――
- 海士町のよさって、どんなところだと思いますか?
- 中根
- 役場の人って、都会では手続きなどで
役場に行ったときにしか会わないじゃないですか。
でもここでは、外に出て、人に会うことも
役場の仕事なんです。
住民の皆さんと話すことで、課題を見つけることができる。
住民のかたと話してみると、
ちゃんと自分の言葉で話せるんです。
小学生からおじいちゃんおばあちゃんまで、
どんなことについても「どう思う?」と聞いたら、
誰もわからないとは言わない。
自分自身の考えをしっかり持っている。
- ――
- それは、なぜなんでしょう?
- 中根
- 小さい町で、人と人との距離も近いから、
一人ひとりの言葉を聞いてくれる環境があるのかな、
と思います。
何に関しても「どう思う?」と全員が聞かれるから、
自分がどう思うかを考えるくせがついているんじゃないかと。
- ――
- なるほど。
この4年間で、
海士町の変化は感じますか?
- 中根
- 島外の人たちが、
どんどん海士町に注目してくれるように
なった気がします。
東京に行かないと会えなかった人たちが、
最近はむこうからどんどん来てくださる。
いま、島外からいらっしゃる視察は
年間2000~2500人にのぼります。
つまり、人口と同じだけの人数が
毎年来島されているんですよ。
- ――
- 2500人! すごいですね。
そのアテンドなどもあると
とてもお忙しいと思いますが、
手帳はどんなふうに使っていますか?
- 中根
- 月間ページはスケジュールを書き入れています。
1日1ページのところは、
その日にあったことや、考えたことを書きます。
なんとなく、午前と午後で二列に分けて書いています。
1年経つと、「この年に何を考えていたか」
がわかる1冊になるんです。
- ――
- 読み返すこともありますか?
- 中根
- あります。
たとえば環境授業をするときに、
自分が考えていたことを過去の手帳から拾って
つなげていくことで、授業内容を固めるんです。
いろんな町の課題について考えるとき、
自分がメモした言葉はもちろんですが、
「日々の言葉」にハッとさせられることもあるんです。
自分が書いたことではない言葉が載っているのって、
なかなかいいです。
- ――
- これまでも、手帳はいろいろと
使ってらっしゃったんですか?
- 中根
- じつは、手帳を使いはじめたこと自体、
海士町に来てからなんです。
毎日いろんな人との出会いがあって、いろんな話を聞く。
そういう日々を漫然とすごすにはもったいなくて、
こうやってメモするようになりました。
このメモが、また仕事につながっていく。
いいサイクルができているな、と思います。
黒のボールペンで書かれたのが、見たり聞いたりした言葉。
そこから自分で考えを深め、赤いボールペンで記しておく。
2015年は「書く」を自身のテーマにしていたので、とくにぎっしり。
2016年のテーマは「読み込む」。
(おわります)
写真/松村隆史
2016-10-10-MON
「ほぼ日手帳公式ガイドブック2017」にも、
海士町の記事を掲載しています。