河合祥一郎先生に聞いた、シェイクスピアの戯曲集のこと。
河合祥一郎先生に聞いた、シェイクスピアの戯曲集のこと。

「ほぼ日手帳2019」では、
シェイクスピア戯曲集のトビラをプリントした、
その名も「シェイクスピア」という
手帳カバーを販売しています。
じつはシェイクスピアの戯曲には
生前に販売されていたものと
戯曲集の形になったものとがあり、
その戯曲集にもさまざまなバージョンがあるのだとか。
シェイクスピア研究の第一人者である
河合祥一郎先生にお話を聞きました。

河合祥一郎先生のプロフィール

1960年生まれ。
英文学者、東京大学大学院総合文化研究科教授。
日本シェイクスピア協会会長。
ケンブリッジ大学、東京大学の両方から博士号を取得している。
主な著書に『ハムレットは太っていた!』
(博士論文を書籍化したもの)、
『謎解きシェイクスピア』、
『あらすじで読むシェイクスピア全作品』など。
新訳・演出を務める「Kawai Project」では
現在までに5作品を上演。
角川文庫でシェイクスピア戯曲の新訳を刊行中。

――
きょうはよろしくお願いします。
さっそくですが、テーブルに用意してくださったこれは‥‥?
河合
これはファクシミリ版といいます。
写真製版とも言いますが、
本物のファースト・フォリオ(初版本)を
写真に撮ったものです。
このファースト・フォリオの目次を見ると、
36作品が収録されています。
でも現在シェイクスピアの作品とされているのは、
37作品。
――
1作品足りないですね。
河合
はい。このファースト・フォリオに入っていない
『ペリクリーズ』という作品は、
クォート判というのが残っています。
――
クォート判。
河合
こちらはシェイクスピアではないのですが、
彼と同時代にいた
ベン・ジョンソンという劇作家の、
実物のクォート判です。
1668年に出版されたそのもの。
――
350年前のものですね。すごい。
河合
ケンブリッジにいた頃に、
なんども古本屋さん通いをして見つけたものです。
クォートというのは、四つ折り本という意味です。
大きい紙を四つ折りにしてつくった本のこと。
ペーパーナイフってあるでしょう。
――
はい。
河合
クォートを読んでいると、四つ折りになったまま、
ページがきちんと切れていないことがあるんです。
そこで当時の人たちは、ペーパーナイフを使って
ページを切り離しながら読んだんです。
――
クォートは、要は簡易版のようなものですか?
河合
そうです。簡易版。
いまでいうと新書のような扱いでしょうか。
フォリオと呼ばれる大型の本は聖書とか歴史書とか、
保存版のためにつくられる立派なものだったんです。
一方で、クォートは劇場で売られているもの。
当時はプログラムなんてありませんから、
演劇のお土産として、台本を売ることがあったんです。
その時代は著作権なんてなかったので、
台本を売っちゃったらそれはどこで上演してもOK。
だから、劇団側が
「もうこの台本は上演しないね」というものを
金もうけのために刷って売ったんですよね。
――
ということは、
シェイクスピアのクォートは
シェイクスピアが実際に生きている間に
販売されていたんですか?
河合
そうです。
戯曲はシェイクスピアが書いたからといって
彼が自由にできるものではなく、
劇団の所有になります。
そうすると劇団が出版社に渡して、
お金をもらうわけです。
あとはもう出版社が刷れば刷っただけ儲かる。
売れなかったら出版社の負担になるという、
単純な時代でした。
――
だから、生前から人気のあったシェイクスピアのクォートは
たくさん売られた。
河合
そう。
だからシェイクスピアの戯曲に関しては
クォートとフォリオと、
両方残っているものがあるんです。
しかも、二つが微妙に違うところがある。
たとえば『ハムレット』では
「この汚れた体が溶けて崩れて露と……」
と書かれている部分が、
フォリオでは
「この固い固い肉体が溶けて‥‥」と、
「汚れた」が「固い」に変わっているんです。
それはsoiled(汚れた)とsolid(固い)という
ごく微妙な違い。
ほかにも片方にはある単語がもう片方にはないとか、
そういう違いがたくさんあって、
学者泣かせになっています。

われわれ研究者、翻訳者は
通常はクォートを底本として
「フォリオとはここが違いますよ」と
脚注をつけたりするということになりますね。
ただ最近では、
「フォリオでの変更点は
シェイクスピア自身が書き換えたのだろう」
という議論が出てきて、
フォリオを底本にすることもあります。
このフォリオにもいくつかあるんです。
――
はい。
河合
先ほどから話している初版本、
「ファースト・フォリオ」というのは1623年。
そして「セカンド・フォリオ」が1632年に発行されています。
セカンドはファーストの再版で、
初版になかった絵が入っているくらいで、
収録されている作品数も36と変わらない。

そして、今回ほぼ日手帳のカバーになった
「サード・フォリオ」。
こちらは1664年に発行されたものですが、
このバージョンには、7作品追加されています。
――
7作品も?
河合
はい。でもそのうち「ペリクリーズ」をのぞく6作は
現在ではシェイクスピア作とは認められていないもので、
「シェイクスピア外典(Shakespeare Apocrypha)」と
言われている作品です。
当時はなんらかの理由でこの6編が
シェイクスピア作だろうと思われていたということなんですよね。
サード・フォリオはそういう、おもしろい版なんですよ。
このあと、
1685年に第四版、「フォース・フォリオ」が出ています。

▲ほぼ日手帳カバーになった「サード・フォリオ」のトビラ。

――
じつは、手帳カバーをご覧になった読者の方から、
「シェイクスピア」のつづりが違うという
ご指摘がきたんです。
河合
ああ、いまは「SHAKESPEARE」と表記されていますが、
このトビラでは「SHAKESPEAR」となっていますね。
つづりはいい加減な時代だったんですよ。
本人が「Shaxpere」と綴ることもあったくらい。
UとV、IとJが交換可能だったりもしたんです。
ミスじゃなくて、そういう時代だった。
日本語のやまと言葉と同じです。
たとえば「せ」と読む字には「世」の漢字をあてていますが、
万葉仮名の時代にさかのぼると、
「勢」という字をあてている場合もある。
音は同じでも、スペルが定着していなかった時代というのが
イギリスにも日本にもあったんです。
――
もうひとつ、
「これはFなんじゃないか」というご連絡も
いただきました。
河合
エリザベス朝のハンドライティング、
要は手書き文字ですね。
そのSがこの形です。
たとえば、Hっていうのは、これ。
――
ええっ、読めない。
河合
でも、これはこういう形と決まっているんです。
ケンブリッジ大学に入学して
まずこれを勉強します。
そうしないと当時の文献を読めないから。
――
河合先生もケンブリッジに留学されていますが、
この勉強を?
河合
しましたよ。いや、ものすごく苦労しました。
ネイティブの人たちはほとんど苦労しないんですよ。
我々は日本語のくずし字をなんとなく理解できるけれど、
アメリカ人にくずし字を教えるのはたいへんでしょう。
それと同じ感覚だと思います。
――
そもそも、河合先生がシェイクスピア研究の道に
進もうと思われたきっかけは?
河合
「ほぼ日の学校」でもお話していますが、
いちばん最初のきっかけに近いのは、
高校三年生の頃に文化放送『百万人の英語』というラジオ番組で
サタデーナイト・シアターというコーナーを聴いたことです。
シェイクスピア研究で高名な荒井良雄先生が
映画『ロミオとジュリエット』のサウンドトラックを流していた。
そこでオリヴィア・ハッセーが
「おお、ロミオ」と原語で語るのを聞いて
「すてきだな」と思ったのが、
初めてのシェイクスピア作品との出会いだと思います。
――
ラジオで出会ったんですね。
河合
でもその頃はまだ、シェイクスピア研究者になろうなんて
思ってもいませんでした。
大学に入ったとき、まったく経験はなかったけれど
「演劇って面白そうだなあ」と思ったんです。
東大劇研(東京大学演劇研究会)という
サークルの存在は知っていたので、
そこに入ろうかなと思ってパンフレットを見てみたら
東大劇研の名前はどこにもなく、
「夢の遊眠社」と名前が変わってしまっていた。
――
夢の遊眠社! 東大劇研を前身として
野田秀樹さんが設立された劇団ですね。
河合
はい。
これがもし「新東大劇研」という名前だったら
入っていたと思います。
でも「夢の遊眠社」ってちょっとうさんくさいなあ、
と思ってしまった(笑)。
野田秀樹は私の6歳上ですから、
私が入学した年には彼はもう卒業していた。
けれど東大駒場寮の食堂を「駒場小劇場」と呼んで
そこで上演していたんです。
その芝居を観に行ってはいたので、
食堂で彼が演技してる姿はよく覚えてますよ。
それが紀伊國屋ホールに進出したときに
「裏切られた!」と思って、しばらく観なくなりました。
――
ずっと応援していたちいさな劇団が
商業演劇のような大きな劇場で上演して、
がっかりしたわけですね。
河合
そうそう。
しばらく経ってほとぼりが冷めてから
また観るようになりましたけど。
東大劇研に入らないかわりに僕は
ESSのドラマセクションというところに所属して、
英語劇をやってたんですよ。
先輩に現在は演劇評論家の内野儀という人がいて、
彼が演出して、私が役者みたいなことをしました。
駒場にいた2年間はそんなふうに過ごしたんです。
そのあと誘われて、演出家・鈴木忠志さんの主催する
演劇フェスティバルの手伝いをしていました。
世界中からやってくるメディアのインタビューを
同時通訳したり、海外の劇団を送り迎えしたり、
公演の客入れをしたり‥‥。
――
そんなことまで?
河合
いっぱい下働きをしましたよ。
そんなふうに課外活動に精を出していたせいで、
大学の授業にいっさい出てなかったんですね。
単位がぎりぎりで、
成績も非常によろしくない状況になっていたために、
進学振り分けの際、当時は「底なし」と言われていた
英文科に行くしかなかった。
いざ英文科で何をしようと考えたとき、
詩でも小説でもないな、
英語劇をやっていたし演劇かな、
やっぱりイギリスの演劇がいいな。
そしたらシェイクスピアかと。
――
そこでいまに至る道がはじまったわけですね。
河合
はい。
それ以来、このフォリオやクォートと
向き合う日々がはじまりました。
そうそう、フォリオを読むときにおもしろいのは、
作品に出演する主たる役者の名前のページ。

ここにウィリアム・シェイクスピアの名前が出ている。
次に書かれているリチャード・バーベッジというのが、
シェイクスピアの劇団の看板俳優で、
マクベスやリア王、オセローなんかの役をやった人。
その人より前に、シェイクスピアの名前が俳優として載っている。
――
ということは、シェイクスピアも舞台に出演していたんですか?
河合
そう、出てた。どの役をやったか、
書いておいてくれたらよかったのにね。
ただ、シェイクスピアが出演していたことはわかる。

1623年にはじめてシェイクスピアの全集が出たおかげで、
現在シェイクスピア作品がすべて読めるようになっている。
そのわずか7年前、1616年に
ベン・ジョンソンがはじめて、
フォリオで自分の戯曲を出版したんです。
――
シェイクスピアがいた時代に
ちょうど世界ではじめて、
フォリオの戯曲集が出版されたということですか?
河合
そう。クォートはいくらでも出ていたけれど、
フォリオの戯曲集はそのときがはじめて。
先ほども言いましたが、
フォリオは聖書や歴史書といった
立派なものを残すための本だったんですね。
いっぽう戯曲なんて、ごく軽い扱いのものだった。
貴族のなかには「戯曲本は焼却してくれ」と
遺書にわざわざ書き残す人もいたくらい。

だからベン・ジョンソンは
「フォリオで戯曲集を出すなんてバカじゃないの」
と相当言われたらしい。
でもね、その戯曲集がそれなりに売れたんですよ。
そこで、シェイクスピアの友達が
「ベン・ジョンソンがうまくいったなら
シェイクスピアのも出してあげようよ」と
彼の死後に戯曲集を発行した。
そのおかげで、いま私たちはシェイクスピアの戯曲を
全作品読めるわけです。
――
ベン・ジョンソンがいなければ、
シェイクスピアの全戯曲は
残らなかったかもしれないわけですね。
でもフォリオはとっても貴重で、
なかなか目にすることはできませんよね。
河合
ホンモノは確かに貴重ですが、
最初に紹介したファクシミリ版でしたら
Amazonでも買えますよ。
興味があればぜひ手にしてみてください。
――
Amazonで!?
そんな気軽に手に入るとは‥‥。
探してみます!

(終わります)

ひきだしポーチ姉