── | 茅葺き屋根で、ぬれ縁があって。 とても古いお宅なんですね。 |
高村 | 古くてね、もう壊さなくちゃならないんですけど。 わたしのうちはね、プラネタリウムだと言うんです。 |
── | プラネタリウム? |
高村 | 以前、取材にきたかたに、 「わたしの家はプラネタリウムですよ」 と言ったらね、 有機栽培やってお金を儲けて、 本物のプラネタリウムを建てたんですかって。 そんなわけないよね、 そうじゃない、茅葺き屋根に穴があいて、 夜になると星が見えますよって。 |
── | あらら! |
高村 | いまはさすがに、トタンを貼ってますけれど、 前は、昼は太陽が燦々と入ってくるし、 夜はお月様から北斗七星まで見えました。 ね、プラネタリウムでしょう? |
── | 雨の日がたいへんそうです。 |
高村 | 雨の日にお客様が来る時は、 「傘一本持参してください」って言うんですよ。 わたしの家は6人家族ですから、 雨の日にご飯食べる時は、 左手で傘を持って右手でご飯食べてました。 |
── | そんな(笑)! |
高村 | 笑っちゃうでしょう? ほんとうにきょうは よく来てくださいました。 さあ、どんなことでも お話ししますよ。 |
── | はい、では、高村さんが 雑穀づくりを始められるまでのことを、 教えていただけたらと思います。 農業を始められたのは、 おいくつのときのことなんですか。 |
高村 | 中学校を出て、 県立浄法寺営農高等学園という 農業の勉強をする学校に行き、 1年間勉強しました。 16歳のとき、 昭和30年代の始めです。 そこで、トラクターがあって、 ビニールハウスがあって、 農薬があって、 化学的な肥料があって、という、 いわゆる近代農業を 教えてくれたんです。 |
── | その前は、それとは違う 農法だったわけですか。 |
高村 | ちょうど、一般の農家に、ちっちゃな、 手で押して動かす耕耘機が 普及し始めたころでした。 それ以前は、ここ岩手県の県北は 馬を使っていました。 トラックの代わりの物の運搬、 堆肥から木材までね。 冬は、大きな馬そりで、 いろんな荷物を運びました。 それから、畑を掘る時に 鋤を引っ張ってくれる。 田んぼの代掻きもできますね。 わたしが中学校に行く頃は たいていの中堅の農家はね、 馬を一頭ずつ飼っていたんですよ。 そんなふうに、馬がいないと 農業が成り立たなかったんです。 |
── | なるほど。 |
高村 | 馬がいたことで“循環型農業”ができていました。 循環型農業というのは、 馬がいて、ヒエがあって、 人間がいるっていう、 三位一体型の農業のことです。 馬がいることによって 堆肥がたくさん作れますね。 そして、馬といっしょに畑をつくりますね。 それは、千年以上も続いてきた、 切っても切れない循環なんですよ。 馬のごはんもね、夏は野草、 冬はヒエの殻を3センチぐらいにカットしたものに お水を掛けたものが主食でした。 おかずはなんなのかというと ヒエぬかとか、豆腐のおからとか、 くず豆とか、ふすまとか米ぬかとか。 |
── | 余るものですね。 そんなふうに循環していく農業だったんですね。 |
高村 | そう。自給できるものを使ってね。 馬がいなければもう全く、 この岩手の県北の中山間地の生活は 成り立たなかったんです。 人間のために馬がいるのではなく、 馬のために人間がいる、 というくらいのものでした。 『遠野物語』にもありますが、 「南部曲がり屋」といいまして、 馬と人がひとつ屋根の下で暮らせるよう L字型に曲がったところが 馬の部屋になっている建物に暮らし、 だいたい40アールくらいの畑でとれるヒエで、 冬場、馬1頭を食べさせることができました。 そして、ものすごい堆肥が 取れていきますね。 その堆肥があったとないとでは 作物の出来が、全くちがうんです。 堆肥を入れない畑は 全く作物が育たなかった。 化学肥料がない時代です。 ヒエ・麦・大豆の“二年三毛作”というのですが、 ここの火山灰土壌の酸性の土地でも、 馬のおかげで、作物が育ちました。 江戸時代の大規模な冷害も、 この地方では、ヒエのおかげで 乗り切ることができたんですよ。 |
── | ヒエは、強い作物なんですね。 |
高村 | はい、ヒエは冷害に強い作物です。 江戸時代の天明・天保には、 5年も連続で冷害になったということで、 米がとれないために、人が大勢なくなりました。 でもこのあたりは、ヒエのおかげで、 しのぐことができたんです。 |
── | その農法というのは、 どれくらいの歴史があるものなんですか。 |
高村 | わたしが調べたところによると 1000年以上も続いてるんですよ。 |
── | すごいことですね。 |
高村 | そんなふうに同じ農法が 長く続くって、なかなかないことなんです。 何の産地でも、50年でも、 続くことは珍しいと思いますよ。 |
── | ヒエは、人間の 主食でもあったのでしょうか。 |
高村 | そうです。ヒエが主食です。 とはいっても、 県北でも少し田んぼがあるところは、 わたしの家でもそうでしたが、 2割お米、8割ヒエの、ヒエめしでした。 余裕のあるところは、 5割、お米を入れるんですけれども。 |
── | お米が2割、ヒエが8割! そんなに。 いまわたしたちが食べる 雑穀ごはんと、割合が、逆なんですね。 |
高村 | それから、全然田んぼがないような、 山間地に行くでしょう? そういう地域は、 100パーセント、ヒエなんです。 |
── | ヒエだけの主食。 どんな食感なんでしょう‥‥。 |
高村 | いや、さすがに、お米とくらべたら、 “おいしい”ものでは、ないですよ。 でもそれでこの土地の人間が生きてきたんですね。 もちろん、おいしく食べる方法はあります。 それは、とろろ芋。 煮たヒエに、とろろをかけて、 醤油をちょっと落として 食べるとおいしいですよ。 |
── | へえ! よく麦と、とろろっていうのは ありますけどね。 |
高村 | はい、このあたりは、ヒエとろろ。 岩手県の南のほう、宮沢賢治の世界はね、 押し麦を入れたとろろめしなんですよ。 そんなふうに、お米じゃない主食も、 おいしく食べる知恵があるんです。 |
── | はい。そういう食文化が あったんですね。 |
高村 | ええ。でも、その価値観を、みんな、 忘れておったんです。 二年三毛作で馬がいたとか、 ヒエを食べていたっていう文化をね、 忘れてしまったんです。 |
── | いつごろからですか。 |
高村 | とくに失われていったのは、 高度経済成長期以降でしょうか。 家庭にどんどんどんどん お金と電化製品が入ってきて、 いろんな洋風の食べ物を食べるようになる。 牛乳もたくさん飲む。 それが最高の、都会の生活だったんですよね。 そして、田舎の食生活は 全く貧しいものだと思ったんです。 |
── | 日本がかわっていくにともなって 農業も、かわっていったわけですよね。 作物も、かわりましたか。 |
高村 | 現金収入のために 野菜をつくるようになりました。 そして、そのために、 ちっちゃな耕耘機を買いますね。 そうしたら、馬は要らなくなります。 耕耘機を買うということは 馬を殺すということなんです。 |
── | うわぁ‥‥。 |
高村 | 馬さんはね、1日に4回も ごはんを食べさせなければならない。 そのために朝早く起きて、 草を刈るという毎日なんです。 雨が降ったってどうなったって その暮らしは変わりません。 でも、耕耘機が入ることによって、 草を刈らなくてもいい。 そして化学肥料を使うようになれば 堆肥を作らなくてもいいですよね。 そして、虫が付いたら、 農薬をかければ大収穫できる。 馬がいなくても農業ができるしくみが できていくんです。 |
── | そういう時代になっていくんですね。 |
高村 | はい。それが近代農業なんです。 (つづきます) |