雑穀の人。岩手県二戸、高村英世さんの畑で。

第4回 高村さんインタビュー その3 ちいさな蛍の強い光のように。
短い連載でしたが、「雑穀の人。」、
今回が最終回となります。
今回、高村英世さんへのインタビューとともに、
高村さんから分けていただいた雑穀のパッケージを
2種類、「ほぼ日ストア」を通じて
販売させていただきましたが、
おかげさまで完売となりました。
どうも、ありがとうございました。
それでは、高村さんのお話と、
飯島奈美さんのレシピをおたのしみくださいませ。
お読みくださり、どうもありがとうございました。

高村 雑穀のことを見直すようになったきっかけは、
平成元年頃のことでした。
秋になると、野菜市場に
キビが出るんです。
土地では「イナキミ」と呼ぶ、
その、小袋に入った黄色いキビを、
わたしは、小鳥の餌だと思っていました。
それで「鳥の餌ですか」と訊いたら、
「え、何言ってるだ。
 これは人間が食べるものだ」と。
しかも「おいしいですよ、体にもいいですよ」
って言われてね。
── へえ〜!
高村 でもね、成分表示も付いてないし、
体にいいって言われたって、
わたしは信じることができませんでした。
それでも、食べてみたら、
案外、おいしいんですよ。
── どうやって食べるものなんですか。
高村 古米に混ぜて炊くんです。
むかしは、古米に古古米の時代、
農家は新米を食べなかったんですね。
新米は売るためにありますし、
冷害が怖いから必ず貯蔵して
備蓄しておくんです。
けれどもその古米や古々米は、
おいしくはない。
だから、キビを混ぜて炊くんです。
そうすると新米のおいしさになるんです。
── へえ〜!
高村 キビはね。そうなんですよ。
これはすごいと思いましたよ。
さらに、そのキビを精白している
精米所のおばさんがいて、
このキビがよく売れるという。
うらやましくなったんです、わたしも。
野菜を続けていると連作障害が起きますし、
キビをつくって冬場に精白して売れば
お金になるなぁということもあって、
キビづくりを始めるんです。
野菜の後だと地力がいいから、
無肥料で出来るんです。
それで、一気に6反歩、始めました。
── 6反歩。60アールですね。
かなり広い面積を、いきなり。
高村 なぜそんなに欲張りをしたかって、
もともと野菜をつくっていた人間ですから、
長期的に儲けてやろうっていう
嫌な考えを持ってるんです。
── そんな、嫌な考えとは思いませんよ。
それで、最初のキビは
うまくできたのでしょうか。
高村 それがね、うちの近くの畑に1反歩と、
山のほうの畑に5反歩やったのですが、
うちの近くの1反歩の畑は
一週間か10日でね、
雀に100パーセント食われてしまいました。
── 雀に。
高村 雀がね、大好きなんです、これ。
でも山の畑のキビは
ほとんど雀に食べられないんです。
雀っていう生き物はね、
人間がいるところに主にいるんですよ。
人間の近くには食べ物があり、
山には天敵の鷹がいますからね。
── 雑穀の畑に、
見張りがいるようなものですね。
よく出来ていますね。
高村 うまく出来ています。
というふうに、雀も大好きなくらい、
キビって機能が高いんです。
雀や野鳥は、豚みたいに太ると
飛んで行けないよね。
メタボリックじゃ、だめなんです。
だから効率良くエネルギーになる食べ物を
とりたがるんですね。
雑穀類は、飛ぶためにも太らないで、
しかもエネルギーを出せて、
しかもカルシウムから、鉄、ビタミン、
いろいろな要素がバランスよく入っている。
‥‥なんてことは、
そのときはわかりませんでしたけれども、
あとになって、そうだったんだと思いました。
人間って、頭で考えてしまって、
証拠、データがなければ、
いいはずがないと思うんですね。
── それでも「おいしさ」と、
農薬や化学肥料を使わないということ、
仕事になりそうだということで
キビを育てつづけたわけですね。
それが平成元年で、この年が、
高村さんにとっての雑穀元年にも
なったんですね。
それからのことを、もうすこし、
聞かせていただけますか。
高村 ハイ。その後、「楽しく美しいまちづくり事業」
というのが、平成4年からはじまり、
わたしもその委員になりました。
これは、行政の補助事業で、
今でいうと行政と市民の協働の事業です。
これは新しい市長が誕生して
その発案によるものでした。
そこで開かれた、
雑穀を使った伝統食による、
郷土おこしのための勉強会があるというので、
うちの母ちゃんにね、
ぜひ、行けということで、参加させたんです。
その事業がもうすぐ3年目というときでしたか、
母ちゃんが用事で勉強会に行けないときに、
交代に、わたしが好奇心で行きましたら、
あとすこしでこの補助事業が終わる、
ということを知りました。
それで「こんなにいいことを
なぜもっとずっと継続しないんですか」
って言ったんですよ。
そうしたら「最後に、雑穀生産グループを
作っていただいて引き継ぐということで」って。
行政は、こういうことは
3年単位でするんですってね。
その最後に、なにか成果をかたちにしたいと。
だったらわたしが発起人になって
友だちを会長にして、
その雑穀生産グループを
やりましょうということになったんです。
── それが「伊加古五穀の会」ですね。
何人くらいを集められたのですか。
高村 おばあさんたち中心で、
15名ぐらいで発足しました。
その時にね、
盛岡の認定機関のASACの事務局長さんで、
食の安全運動をなさっているかたに会うんです。
そのかたに「有機栽培で雑穀を作ってください」
と言われたんですね。
それはなぜかというと、
都会に住んでいるアレルギーとかアトピーの人たちが
本物の雑穀をほしがっているというんです。
雑穀類はアレルギーの
対応食なんだということなんですよね。
── つまり、高村さんは
その当時も、化学肥料と農薬をつかう
農業をつづけられていたんですか。
高村 はい、まだやめていませんでした。
使う量は減らしてはいましたが、
そのときのわたしにはまだ
「有機栽培とは、なんなのか」
という知識が、きちんとなかったのです。
わたしは有機栽培といえば、
化学肥料や農薬を使っても、
堆肥さえやってれば有機栽培だと
思っておったんです。
そしたら、3年間、無農薬・無化学肥料で
堆肥だけで栽培しつづけた畑でなければ
有機栽培と言ってはならないというルールが
あったんですね。
10年放任した畑でもだめなんです。
つくりつづけて3年。
これはアメリカから来たルールなんですが、
厳格に決められていました。
── そうすると、そこから4年後ですね。
高村 そうです。今は1年短くなりましたけども、
4年目に、初めて有機という表示ができる。
それを聞いてね、わたしは
「そんな面倒なことはやりません」
なんて、言っちゃったんです。
いいことは分かってても、
できないと思ったんです。
── (笑)
高村 でもね、うちに戻って目をつぶって考えてみたらね、
都会のほうではアレルギーとアトピーで
悩んでるお母さんや子どもさん、
たくさんいるというじゃないですか。
── はい。
高村 で、ふっと気がついたんです。
中山間地のおばあさんたち、
堆肥だけで育てているおばあさんたちの雑穀が、
量は少なくても、都会のそういう人たちにね、
光をもたらすことができるんだと。
このあたりには、標高852メーターの折爪岳に
「姫蛍」(ひめほたる)という、
山の蛍がいるんですよ。
その蛍はね、一匹いるだけで
ダイヤモンドのような光を放つんです、
ピカーッて、ちっちゃいけども、
2、3匹いただけでもう感動するほどです。
で、わたしがはっと思ったのはね、
おばあさんたちの作った雑穀は
そのダイヤの光なんだということでした。
ならば、有機栽培という面倒くさいルールの中で、
少しでもそういう健康の改善に役立つのならば、
やるべきだろうと、3日ばかり考えて、
方向転換をしました。
役場に行ってね、
「有機でなければやらないよ」って言ったんです。
── 最初は「やらない」と言って
帰ってきたのに、180度の方向転換を
なさったのですね。
高村 はい。そして役場のかたのなかにも、
いっしょに勉強しましょうという人が
あらわれました。
まだちゃんと日本にないものだけれど、
これから勉強して、作っていこう。
姫蛍のような、ちっちゃなダイヤの光を、
都会の子どもたちに届けよう、
というポリシーを、そこで作ったんです。
それは、一貫して、
いまも変わってないんですよ。
── とても素敵なお話ですね。
しかしそこから勉強をはじめるというのは
なかなかたいへんなことでは
なかったでしょうか。
高村 わたしを含めて男が3人で、
あとは全部おばあさんたちですが、
1年に4回必ず勉強に行きました。
勉強しながら資格を取って。
そうすると、ほんとうの有機栽培をするためには、
ブロイラーの堆肥ではいけないということが
わかりました。
その頃のブロイラーは
抗生物質を使っていましたから。
なら、健康な乳牛の堆肥を使おうということでね、
友人の酪農家に相談して堆肥をつくる。
そこから始めたんです。
── その高村さんたちの活動を、
まわりのかたは、
どんなふうに見ていたのでしょう。
高村 この辺の方々は、笑っていました。
いまは廃れた、昔の年寄りの農法を、
その年寄りたちと一緒にやるなんて、と。
でも、2年も経たないうちに
わたしたちの活動が知られるようになって、
テレビや新聞の取材を受けるようになりました。
わたしたちも、
そういうふうに注目されることでウキウキして、
一所懸命、がんばりました。
けれども‥‥、売れないんです。
── 売れなかったんですか。
高村 ええ、3年ぐらい経っても売れない。
いや、5年ぐらいはほとんど売れなかった。
── なぜなのでしょう。
まだ、市場が成熟していなかったのでしょうか。
高村 いえ、市場はありました。
平成9年、青島幸男さんが都知事のときに
東京都が有機農産物の流通協定を定めて、
わたしたちもそれに参加するんですね。
全国の市町村が、最初は12市町村かな、
協定を結んで、有機農産物を都会で売ろうと。
そのなかに岩手県の市町村が
5つも入っていたんですよ。
有機農産物については進んでいる県として
みとめていただいたんですね。
ところが、雑穀をお持ちするんですけれども、
売れないんです。
── なぜでしょう。
雑穀が人気がなかったか、
知られていなかったか‥‥
高村 いえ、企業の作った雑穀ブレンドは、
とても売れていました。
それは安価な輸入物をブレンドしている商品でした。
それに較べると、
わたしたちの雑穀は高価でした。
有機ですから当然ある程度高くて、
いくら品質がよくても、
高いといわれ、売れなかったんです。
── どのくらいの差があったんですか、
値段の差としては。
高村 わたしたちの雑穀は、企業の商品の倍でした。
というか、企業のつける値段は、
わたしたちからは、
考えられない安い値段なんです。
真面目に有機農法にとりくんでいたら
その値段はありえない‥‥。
最近は産地偽装がよく新聞などに載っておりますが
そういうものが当時からあったと思います。
勉強して真面目に実践するリスクは大きいですね。
だから、いまもこんな家に住んでいるんだね(笑)。
── いまも、ですか。
高村 いまは有機JAS法ができて
管理がきびしくされるようになり、
当時に較べれば状況は改善されましたけれど、
それでも、売上額はたいへん少ないですよ。
野菜みたいに10アール何トンって取れないですから。
でも、必死にしがみついて、
勉強すればするほど
雑穀が素晴らしいとわかるんです。
そういうなかで、
もと岩手大学農学部教授の西澤直行先生が、
小型の雑穀刈り取り機を開発したり、
わたしのつくる雑穀、
キビとヒエなどを調べてくださり、
その機能性と健康の関係についての
研究発表をされたり、
雑穀の料理を研究するかたが
畑を見学に来てくださったり。
テレビの取材を受けたり、
今回もNHKの番組に出させていただいたことで
糸井さんたちと知り合った。
そんなふうに広がっていくことが
わたしは、ほんとうにうれしいんです。
── 雑穀について、学者の先生が、
お墨付きをくださったというのは
とても心強いことですね。
高村 データがちゃんとあると、
一般の若い奥様たちも信用してくださいますしね。
わたしだって、年寄りの人たちから
「キビは体にいいよ」って言われても、
最初はほんとうかなって思っていましたから。
わたしも間違っておったんです。
体にいいことは当たり前の話だったんです。
おばあさんたちは体験上、
雑穀を食べると一所懸命働けるとか、
おいしいとか、活力があるっていうのを
やっぱり知っていたんですね。
それを認めるわたしの包容力がなかったんです。
おばあさんたちの言ったことを
全く否定していた。
うちの年寄りの農業も否定した。
馬も殺してしまった。
雑穀を「小鳥の餌か」と言った。
有機栽培も、最初はイヤだと言った。
これが、全くわたしのだめなところだったんです。
でも、いま、わたしのつくった雑穀で
こどもが健康になりましたというようなしらせを
いただいたり、するんですね。
ほんとうに、つくりつづけてよかったと、
そう思うんです。
これからも、からだがもつ限り、
つくりつづけていこうと思うんですよ。
いずれ、雑穀の時代がもどって来ると
わたしは信じているんです。

2008-09-10-WED

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