高村 | 雑穀のことを見直すようになったきっかけは、 平成元年頃のことでした。 秋になると、野菜市場に キビが出るんです。 土地では「イナキミ」と呼ぶ、 その、小袋に入った黄色いキビを、 わたしは、小鳥の餌だと思っていました。 それで「鳥の餌ですか」と訊いたら、 「え、何言ってるだ。 これは人間が食べるものだ」と。 しかも「おいしいですよ、体にもいいですよ」 って言われてね。 |
── | へえ〜! |
高村 | でもね、成分表示も付いてないし、 体にいいって言われたって、 わたしは信じることができませんでした。 それでも、食べてみたら、 案外、おいしいんですよ。 |
── | どうやって食べるものなんですか。 |
高村 | 古米に混ぜて炊くんです。 むかしは、古米に古古米の時代、 農家は新米を食べなかったんですね。 新米は売るためにありますし、 冷害が怖いから必ず貯蔵して 備蓄しておくんです。 けれどもその古米や古々米は、 おいしくはない。 だから、キビを混ぜて炊くんです。 そうすると新米のおいしさになるんです。 |
── | へえ〜! |
高村 | キビはね。そうなんですよ。 これはすごいと思いましたよ。 さらに、そのキビを精白している 精米所のおばさんがいて、 このキビがよく売れるという。 うらやましくなったんです、わたしも。 野菜を続けていると連作障害が起きますし、 キビをつくって冬場に精白して売れば お金になるなぁということもあって、 キビづくりを始めるんです。 野菜の後だと地力がいいから、 無肥料で出来るんです。 それで、一気に6反歩、始めました。 |
── | 6反歩。60アールですね。 かなり広い面積を、いきなり。 |
高村 | なぜそんなに欲張りをしたかって、 もともと野菜をつくっていた人間ですから、 長期的に儲けてやろうっていう 嫌な考えを持ってるんです。 |
── | そんな、嫌な考えとは思いませんよ。 それで、最初のキビは うまくできたのでしょうか。 |
高村 | それがね、うちの近くの畑に1反歩と、 山のほうの畑に5反歩やったのですが、 うちの近くの1反歩の畑は 一週間か10日でね、 雀に100パーセント食われてしまいました。 |
── | 雀に。 |
高村 | 雀がね、大好きなんです、これ。 でも山の畑のキビは ほとんど雀に食べられないんです。 雀っていう生き物はね、 人間がいるところに主にいるんですよ。 人間の近くには食べ物があり、 山には天敵の鷹がいますからね。 |
── | 雑穀の畑に、 見張りがいるようなものですね。 よく出来ていますね。 |
高村 | うまく出来ています。 というふうに、雀も大好きなくらい、 キビって機能が高いんです。 雀や野鳥は、豚みたいに太ると 飛んで行けないよね。 メタボリックじゃ、だめなんです。 だから効率良くエネルギーになる食べ物を とりたがるんですね。 雑穀類は、飛ぶためにも太らないで、 しかもエネルギーを出せて、 しかもカルシウムから、鉄、ビタミン、 いろいろな要素がバランスよく入っている。 ‥‥なんてことは、 そのときはわかりませんでしたけれども、 あとになって、そうだったんだと思いました。 人間って、頭で考えてしまって、 証拠、データがなければ、 いいはずがないと思うんですね。 |
── | それでも「おいしさ」と、 農薬や化学肥料を使わないということ、 仕事になりそうだということで キビを育てつづけたわけですね。 それが平成元年で、この年が、 高村さんにとっての雑穀元年にも なったんですね。 それからのことを、もうすこし、 聞かせていただけますか。 |
高村 | ハイ。その後、「楽しく美しいまちづくり事業」 というのが、平成4年からはじまり、 わたしもその委員になりました。 これは、行政の補助事業で、 今でいうと行政と市民の協働の事業です。 これは新しい市長が誕生して その発案によるものでした。 そこで開かれた、 雑穀を使った伝統食による、 郷土おこしのための勉強会があるというので、 うちの母ちゃんにね、 ぜひ、行けということで、参加させたんです。 その事業がもうすぐ3年目というときでしたか、 母ちゃんが用事で勉強会に行けないときに、 交代に、わたしが好奇心で行きましたら、 あとすこしでこの補助事業が終わる、 ということを知りました。 それで「こんなにいいことを なぜもっとずっと継続しないんですか」 って言ったんですよ。 そうしたら「最後に、雑穀生産グループを 作っていただいて引き継ぐということで」って。 行政は、こういうことは 3年単位でするんですってね。 その最後に、なにか成果をかたちにしたいと。 だったらわたしが発起人になって 友だちを会長にして、 その雑穀生産グループを やりましょうということになったんです。 |
── | それが「伊加古五穀の会」ですね。 何人くらいを集められたのですか。 |
高村 | おばあさんたち中心で、 15名ぐらいで発足しました。 その時にね、 盛岡の認定機関のASACの事務局長さんで、 食の安全運動をなさっているかたに会うんです。 そのかたに「有機栽培で雑穀を作ってください」 と言われたんですね。 それはなぜかというと、 都会に住んでいるアレルギーとかアトピーの人たちが 本物の雑穀をほしがっているというんです。 雑穀類はアレルギーの 対応食なんだということなんですよね。 |
── | つまり、高村さんは その当時も、化学肥料と農薬をつかう 農業をつづけられていたんですか。 |
高村 | はい、まだやめていませんでした。 使う量は減らしてはいましたが、 そのときのわたしにはまだ 「有機栽培とは、なんなのか」 という知識が、きちんとなかったのです。 わたしは有機栽培といえば、 化学肥料や農薬を使っても、 堆肥さえやってれば有機栽培だと 思っておったんです。 そしたら、3年間、無農薬・無化学肥料で 堆肥だけで栽培しつづけた畑でなければ 有機栽培と言ってはならないというルールが あったんですね。 10年放任した畑でもだめなんです。 つくりつづけて3年。 これはアメリカから来たルールなんですが、 厳格に決められていました。 |
── | そうすると、そこから4年後ですね。 |
高村 | そうです。今は1年短くなりましたけども、 4年目に、初めて有機という表示ができる。 それを聞いてね、わたしは 「そんな面倒なことはやりません」 なんて、言っちゃったんです。 いいことは分かってても、 できないと思ったんです。 |
── | (笑) |
高村 | でもね、うちに戻って目をつぶって考えてみたらね、 都会のほうではアレルギーとアトピーで 悩んでるお母さんや子どもさん、 たくさんいるというじゃないですか。 |
── | はい。 |
高村 | で、ふっと気がついたんです。 中山間地のおばあさんたち、 堆肥だけで育てているおばあさんたちの雑穀が、 量は少なくても、都会のそういう人たちにね、 光をもたらすことができるんだと。 このあたりには、標高852メーターの折爪岳に 「姫蛍」(ひめほたる)という、 山の蛍がいるんですよ。 その蛍はね、一匹いるだけで ダイヤモンドのような光を放つんです、 ピカーッて、ちっちゃいけども、 2、3匹いただけでもう感動するほどです。 で、わたしがはっと思ったのはね、 おばあさんたちの作った雑穀は そのダイヤの光なんだということでした。 ならば、有機栽培という面倒くさいルールの中で、 少しでもそういう健康の改善に役立つのならば、 やるべきだろうと、3日ばかり考えて、 方向転換をしました。 役場に行ってね、 「有機でなければやらないよ」って言ったんです。 |
── | 最初は「やらない」と言って 帰ってきたのに、180度の方向転換を なさったのですね。 |
高村 | はい。そして役場のかたのなかにも、 いっしょに勉強しましょうという人が あらわれました。 まだちゃんと日本にないものだけれど、 これから勉強して、作っていこう。 姫蛍のような、ちっちゃなダイヤの光を、 都会の子どもたちに届けよう、 というポリシーを、そこで作ったんです。 それは、一貫して、 いまも変わってないんですよ。 |
── | とても素敵なお話ですね。 しかしそこから勉強をはじめるというのは なかなかたいへんなことでは なかったでしょうか。 |
高村 | わたしを含めて男が3人で、 あとは全部おばあさんたちですが、 1年に4回必ず勉強に行きました。 勉強しながら資格を取って。 そうすると、ほんとうの有機栽培をするためには、 ブロイラーの堆肥ではいけないということが わかりました。 その頃のブロイラーは 抗生物質を使っていましたから。 なら、健康な乳牛の堆肥を使おうということでね、 友人の酪農家に相談して堆肥をつくる。 そこから始めたんです。 |
── | その高村さんたちの活動を、 まわりのかたは、 どんなふうに見ていたのでしょう。 |
高村 | この辺の方々は、笑っていました。 いまは廃れた、昔の年寄りの農法を、 その年寄りたちと一緒にやるなんて、と。 でも、2年も経たないうちに わたしたちの活動が知られるようになって、 テレビや新聞の取材を受けるようになりました。 わたしたちも、 そういうふうに注目されることでウキウキして、 一所懸命、がんばりました。 けれども‥‥、売れないんです。 |
── | 売れなかったんですか。 |
高村 | ええ、3年ぐらい経っても売れない。 いや、5年ぐらいはほとんど売れなかった。 |
── | なぜなのでしょう。 まだ、市場が成熟していなかったのでしょうか。 |
高村 | いえ、市場はありました。 平成9年、青島幸男さんが都知事のときに 東京都が有機農産物の流通協定を定めて、 わたしたちもそれに参加するんですね。 全国の市町村が、最初は12市町村かな、 協定を結んで、有機農産物を都会で売ろうと。 そのなかに岩手県の市町村が 5つも入っていたんですよ。 有機農産物については進んでいる県として みとめていただいたんですね。 ところが、雑穀をお持ちするんですけれども、 売れないんです。 |
── | なぜでしょう。 雑穀が人気がなかったか、 知られていなかったか‥‥ |
高村 | いえ、企業の作った雑穀ブレンドは、 とても売れていました。 それは安価な輸入物をブレンドしている商品でした。 それに較べると、 わたしたちの雑穀は高価でした。 有機ですから当然ある程度高くて、 いくら品質がよくても、 高いといわれ、売れなかったんです。 |
── | どのくらいの差があったんですか、 値段の差としては。 |
高村 | わたしたちの雑穀は、企業の商品の倍でした。 というか、企業のつける値段は、 わたしたちからは、 考えられない安い値段なんです。 真面目に有機農法にとりくんでいたら その値段はありえない‥‥。 最近は産地偽装がよく新聞などに載っておりますが そういうものが当時からあったと思います。 勉強して真面目に実践するリスクは大きいですね。 だから、いまもこんな家に住んでいるんだね(笑)。 |
── | いまも、ですか。 |
高村 | いまは有機JAS法ができて 管理がきびしくされるようになり、 当時に較べれば状況は改善されましたけれど、 それでも、売上額はたいへん少ないですよ。 野菜みたいに10アール何トンって取れないですから。 でも、必死にしがみついて、 勉強すればするほど 雑穀が素晴らしいとわかるんです。 そういうなかで、 もと岩手大学農学部教授の西澤直行先生が、 小型の雑穀刈り取り機を開発したり、 わたしのつくる雑穀、 キビとヒエなどを調べてくださり、 その機能性と健康の関係についての 研究発表をされたり、 雑穀の料理を研究するかたが 畑を見学に来てくださったり。 テレビの取材を受けたり、 今回もNHKの番組に出させていただいたことで 糸井さんたちと知り合った。 そんなふうに広がっていくことが わたしは、ほんとうにうれしいんです。 |
── | 雑穀について、学者の先生が、 お墨付きをくださったというのは とても心強いことですね。 |
高村 | データがちゃんとあると、 一般の若い奥様たちも信用してくださいますしね。 わたしだって、年寄りの人たちから 「キビは体にいいよ」って言われても、 最初はほんとうかなって思っていましたから。 わたしも間違っておったんです。 体にいいことは当たり前の話だったんです。 おばあさんたちは体験上、 雑穀を食べると一所懸命働けるとか、 おいしいとか、活力があるっていうのを やっぱり知っていたんですね。 それを認めるわたしの包容力がなかったんです。 おばあさんたちの言ったことを 全く否定していた。 うちの年寄りの農業も否定した。 馬も殺してしまった。 雑穀を「小鳥の餌か」と言った。 有機栽培も、最初はイヤだと言った。 これが、全くわたしのだめなところだったんです。 でも、いま、わたしのつくった雑穀で こどもが健康になりましたというようなしらせを いただいたり、するんですね。 ほんとうに、つくりつづけてよかったと、 そう思うんです。 これからも、からだがもつ限り、 つくりつづけていこうと思うんですよ。 いずれ、雑穀の時代がもどって来ると わたしは信じているんです。 |