鈴木敏夫さんと
深夜の映画館で。
「ダークブルー」の時の
トークを文字で読む。


女性とゲイの時代が来ている?




鈴木 「縛り」ということで言いますと、
押井守という監督が、
『攻殻機動隊』の次の作品を作っていまして、
これもまた‥‥未来のことなんですけれども‥‥。

人間には、人間にそっくりなものを
作ろうという歴史が、あるじゃないですか。
それが、ほんとうに作ることができるようになり、
そして精神と物質の境界線が曖昧になって‥‥
なんと、押井守がいまやろうとしているのは、
そういう時代なんです。30年後の世界。

そこに出てくるのは、カラダを失った女と、
カラダがほとんどサイボーグ化している男。
男に残っているのは脳ミソだけ。
アイデンティティの問題を抱えた、
そんなふたりが恋をする。
糸井 うわぁ‥‥すごいハナシだねぇ‥‥!
鈴木 なんかねぇ、
みんな、そういうところに来てるんですよ。
糸井 押井さんのは、「消えてゆく縛り」ですね。
鈴木 はい。
残っているもののうちの、
何が「その人」なのかということを、
押井守は、やろうとしているわけです。

精神だけが残っているのが自分なのか、
脳ミソだけが残っているのが自分なのか。

そこにも、男と女はいる。
そこでも恋愛は成りたつのかと。


ついでにいってしまうと、
タイトルを変更しようと
ぼくはいま、提案しているんです。
イノセンス、攻殻機動隊より
こっちのほうがいいでしょう。

時おなじくして、
ふたりのアニメーションの監督が‥‥。
糸井 なるほどね。
19世紀と、2032年の世界と、
両方がすごい「縛り」に行くのね。
鈴木 なんでそういうものを作ろうとするのかなぁ、
と、自分も含めての動きなんですけど、
思っていたんですよ。
糸井 小さいものなら、学園ドラマだとかで、
テレビ的な「縛り」は、あるわけですよね。

テレビは若い世代が見ているから、
不自由さっていうものが生徒手帳だったり、
あるいはちょっとした警察だったり、
親だったりするわけです。

そのぐらいのものを、テレビでは
ずっとやり続けてきてしまったので、
学園というところでやれることは、
もう、テレビの中で
描ききっちゃっているんじゃないか、
と思うんですよ。

映画になって、わざわざ
出かけていった時には‥‥。
鈴木 余計にやらなきゃいけないわけですね。
あ、それと、さっきおっしゃっていた
若い世代がチャンバラをやりたがっているのとは、
どこかでつながっているんですか。
糸井 つながっているんでしょうね。
もっと言うと、困っているにしても、
映画では、それでもいいんでしょうけれども、
さらにとんでもなく困っているのが歌の歌詞ですよ。

歌詞で、ちょうど今回のイベントに
いらっしゃった人たちは若いから、
ご存じないとは思うんですけれども、
阿久悠さんがガーッと伸びていって
おわっていくというプロセスがありましたよね。

ところが、阿久悠さんの歌詞の世界にあるのは、
だいたいのものが、
「女と寝て、ベッドで
 後ろをむいてタバコを吸ってる」んですよ。
「タバコを吸えばー♪」とか。
鈴木 (笑)
糸井 つまり、ホレられちゃって、せつなくて、
することがわからないから、タバコを吸う。
そうすると、何かがありそうに見えるんですね。
阿久悠さんの世代の
男の美学って、そこまでなんですよ。
「よくわかんないよ。だから一服するか」なんです。

で、そのうしろの世代の人たちが、
作詞家として何かを作ったかと言うと、
男の美学は、作ることができていないんですね。

みんな、「アテ振り」なら、できるんです。
つまりあの、スターや歌手が出て来た時に、
それぞれの人にあわせた歌を作ることはできても、
「男のかっこいい像」というのは、
「どうすることもできなくてタバコを吸う」
というところから後、作れないんですね。

3分や4分の中でなにかを伝えるわけですから、
その中で「男のかっこよさ」を提示することって、
むずかしいですよ‥‥。

ですから、どうなったかと言うと、
運動会にかかるような歌になっていったわけです。
要するに「やるぞ!」と言っている。
3分や4分の時間で自分の何かを言うのは、
もう、「‥‥やるぞ!」しかないんですよ。
鈴木 もしかしたら、世の中で
禁煙が流行ったことと関係ないですか。
糸井 なくはないでしょうね。
いまの不自由さっていうのは、
「常識でぜんぶがコントロールできる」
ということですよね。
鈴木 「男のかっこよさ」が
なくなったということで言うとですね‥‥。

先日、『千と千尋の神隠し』が
アメリカでも上映、ということで、
宮さん(宮崎駿さん)と一緒に出かけたんですよ。

それでわかったことは、
映画会社の偉い方たちには、
ゲイの方が、非常に多いんですね。

そして、向こうで、
スピルバーグのプロデューサーの
キャサリン・ケネディと食事をしたんです。
彼女はもう50歳近いんですけれども、
「ユニバーサル映画の制作責任者を
 連れていっていいか?」と聞くんです。
「おもしろいから、一緒に会おうよ」
そうしたら、若い女性なんですよね。
元気な女の子なんです。

しゃべりだしたら止まらないその女の子が
戦争映画からSF映画からアニメーションから、
ひとりで全部、作っているんですよ。
年齢、34歳なんですねぇ。

それで、いろいろな話をしていたら、
アメリカ映画の制作プロデューサーの現場では、
若い女性たちが、牛耳りはじめているんですよ。
糸井 はぁー。
生産の現場は、女の人とゲイの人、と。
鈴木 そうなんです。
そして、監督が、男なんです。
こういうことが起きているんです。

女性たちが、当たり前のように
重要なポジションを占めていくことが、
アメリカでは、すでに実現している。

なおかつ、誤解を恐れずに言うならば、
その重要なポストについている女性が、
ものすごく優れているかというと、そうではない。

ごくごくふつうにやっていくと、
女の子たちがそういうポジションについちゃう。

宮さんとふたりで確認しあったんですけど、
「日本も、やがてこうなるね」って‥‥。
今度の映画のテーマも、そこらへんかなぁと。
糸井 『タイタニック』の女性も、
オノでぶち壊すチカラがあるじゃないですか。
鈴木 ええ、(ジェームス・)キャメロンは、
そういう女性が好きですよね。
糸井 全体に、劇映画の女の人たちは、
ぜったいに足手まといにならないじゃないですか。
鈴木 はい。
「エスコートヒーロー」は
もう、成りたたないですよねぇ‥‥。
糸井 いま、鈴木さんがおっしゃっている中で
ぼくが考えていたことは、
「じゃあ、女の人たちが出てくる
 大衆娯楽って、日本ではどうだろう?」
ということなんです。

日本の大衆娯楽の劇画で、
ピークを作ったのって、梶原一騎だと思うんですよ。
そうすると、梶原一騎の描く女性って、
これは‥‥ヒドイですよね。
鈴木 (笑)
糸井 つまり、恥ずかしくない長さのスカートをはいて、
影から、男の人たちを見守っていて、
ごはんを作って、悲しい時に涙していて‥‥。
水商売の女の人が、演技として主婦になったら
どうなるかっていうような、そういう劇画ですよね。
鈴木 ええ(笑)
糸井 あそこにも、女の人はいない。
鈴木 そうですね。
男の描いた、都合のいい女性です。
糸井 あそこにいるのは、
水商売の女性なわけです。
大衆娯楽の中で、
女の人を描けていたなんていう作品は、
ほんとうに、少ないなぁ、というか。

もともと、女の人を描くっていうことは、
できないで、ここまで来たんじゃないかなぁ。

(明日につづきます。毎日連載を、おたのしみに!)

2002-12-05-THU

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