第3回 TARO、あだ名はモチロンちゃん。

ぼくは父・一平にも、母・かの子にも、
親子というより人間同士として、
強烈な愛情を抱いていた。
純粋で無条件な一体感だ。
『自分の中に毒を持て』(青春出版社)より



TAROとその母かの子。1919年撮影。
糸井 太郎さんは、岡本一平、岡本かの子夫妻の、
芸術的な一家のひとりっ子ですよね。
敏子 うん、一平さんは漫画家、
かの子さんは歌人であり、小説家。
ほんとは弟と妹がいたのよ。
かの子さんが蹴飛ばして死んじゃったんだ、って
太郎さんは言ってるけどね(笑)。
とにかく、お母さんとしては
不器用な人だったみたい。
糸井 かの子さんって、たいへんな
お嬢様だったらしいですね。
敏子 そうですよ。
太郎さんがまだちっちゃいころの話なんだけど、
昼間はお父さんは仕事でいないわけ。
母親とふたりだけ。
かの子さんは、文学に没頭していて、
机に向かって短冊に字を書いたりして、
ぜんぜん相手をしてくれなかったらしいのよ。
それどころか、太郎さんが肩によじ登って
髪を引っ張ったりなんかするとうるさいもんだから、
柱とか箪笥の環にへこ帯で
太郎さんを縛りつけたらしいの。
帯が伸びる範囲だけしか動けないようにして。
糸井 犬みたい。
敏子 うん、犬ころみたい。
しかも、裸で。
糸井 裸で!
敏子 いくら泣きわめいてもぜんぜん知らん顔して、
振り向いてもくれないんだって。
髪の毛をバサーッと垂らしたまんま、
結いもしないで。
糸井 怖いねー!
敏子 うん。その頃は、かの子さん、
神経質で痩せてたんですって。
青ーい顔して、短冊に、和歌かなんかを、
シューッと書いてる。
それを泣きわめきながら見ててね、
もう体中が熱くなるほど、
好きだったっていうんだから。
糸井 うわぁ‥‥!
敏子 神聖感と共感を感じたんですって。
ほんっとに、心の底から共感したっていうのよ。
そんな子ども、いないでしょ?
糸井 すごいね。
敏子 どんなことでも、自分を貫く強い姿よ。
糸井 でも、共感したかもしんないけど、
そこに、自分の子ども置けっていわれたら、
嫌だよ〜!
敏子 岡本かの子さんっていうのは、
ほんとうに芸術だけで、
あとは一切、ない人なのよ。
だからもう、話といえば芸術の話なの。
小さい太郎さんにも、それは容赦なく、
芸術の話をしていたらしいよ。
太郎さんは、両親の話を聞いて
「モチロン、モチロン」って相づちをうつから、
親戚からは、「モチロンちゃん」って
あだ名をつけられたそうなのよ。
糸井 すごいなあ。


「モチロンちゃん」だったTARO。
敏子 それでね、一平さんに預けられていた
政治家の御曹司が、
当時、岡本家に同居していたんだけど。
糸井 書生さんみたいに?
敏子 書生というよりも、
大事なお坊ちゃんを預かってるってかんじかな。
その人、見るに見かねちゃって、
かの子さんの代わりに、
太郎さんを一生懸命お風呂に入れたり、
ご飯食べさせたりして育てたのよ。
糸井 周りがしないから。
敏子 お台所にザルがぶら下げてあるんだって。
そこに無造作にね、お札や小銭が
ザラザラっと入ってるの。
糸井 それ、八百屋さんみたいじゃないですか(笑)。
敏子 ご用聞きが
「岡本さーん、何とかでーす」って
品物を持って来るとね、
そこから勝手にお金を持っていくんですって。
「こんなことやってたんじゃ‥‥!」って、
まともな人は、思っちゃうらしいのね。
糸井 いくら持ってってもわかんないもんね。
敏子 その彼がね、のちに、ある県の知事になったんです。
知事になってからよく、
東京に出てきて時間があると青山に来て、
いろんな話をしてくれるんですけど
「いやー、あの頃は、
 ほんっとに生き甲斐がありました」
っていうのね。
糸井 へぇーっ(笑)!
知事さんが。
敏子 「あの家は、芸術しか認めない家ですからね、
 僕はこういう凡人だから、
 太郎なんてちっちゃいのに
 僕を馬鹿にしてるんです」って(笑)。
糸井 太郎さんは、ある種の天才教育のなかに、
ずっぽりいた、みたいなことなんですねぇ。
敏子 みんな天才。
へんてこりんな天才なのよ。

(来週の火曜に、つづきます!)

2003-10-31-FRI

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