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糸井 |
出会ったとき、
伸坊はぼくを知らなかったと思うけど、
いつもガロを読んでたぼくにとっては
伸坊は、有名な人だったんだ。 |
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南 |
へぇー、そうなの。 |
糸井 |
だって、ガロで編集長をやりつつ、
ページに空きができたら、
自分の絵とか文章で埋めちゃうし、
ちょっとした挨拶文なんかもさ、
こう、気が利いてて、いちいちいいんですよ。
個性っていうことばは
当時はあんまり言われてなかったと思うけど、
やるべきことを丁寧にこなしながらも、
個性があったんだよね、やっぱりね。 |
南 |
たのしくやってましたね。 |
糸井 |
よかったよねー。
鈴木翁二さんだとか、安部慎一さんだとか、
伸坊が気軽に呼び捨てで
呼んでるような人たちは、
みんなすばらしかったんですよ。
「絵を描く太宰治たち」だった。 |
南 |
そうだね。
「オージ」に「アベシン」だ。 |
糸井 |
なんていうんだろう、
しとーっとしたナルシシズムと、
通奏低音のように漂う敗北感と、
なにかこう、「生きていかなきゃな」
みたいな感じが、なんともいえず、ね。 |
南 |
雰囲気があったね。 |
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糸井 |
うん。ほかにはなかった。
で、さらにそこに、
荒木(経惟)さんとかが混じりはじめてね。 |
南 |
荒木さんのことは、
赤瀬川さんに授業で教わった。
ヘーンなことしてる人がいますよーって。 |
糸井 |
当時の荒木さんは、ラーメン屋さんの壁に
自分の撮ったヌード写真を
ペタペタペタペタ貼って展覧会にしたりね。
「郵送写真展」って勝手に名づけて、
自分が目星をつけた人たちのところに
どんどん写真を送りつけたり。
あれって、いまでいえば、
まるっきりインターネットだね。
メディアを自分で持ってたわけでしょ。 |
南 |
ああ、そうだね。
荒木さんはアイデアマンだからねー。 |
糸井 |
この人しかしない、
っていうことをやってたんだよね。
やっぱり、
ほんとになにかをしたいっていう人は、
ああいうふうに、ジタバタするんだよ。 |
南 |
うん。 |
糸井 |
そんなふうに個性を持った人が
デコボコデコボコ出てきてる時代に、
伸坊は、いろんなところを、こう、
区別なく、差別なく見てたわけだよね。
だからこそ、
「湯村さんに描いてほしい」って
ふつうに発想できたんだと思う。
だって、湯村さんって、一般的には
ガロに描く人とは思われてなかったからね。 |
南 |
オレは、その、ガロという雑誌に、
「これはやっちゃいけない」
っていう制限みたいなものを
あんまり考えてなかったからさ。
だから、描いてほしいなぁっていうか、
描いてもらえる人に描いてもらおう、
っていうくらいの感じだった。 |
糸井 |
うん。 |
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南 |
で、湯村さんと糸井さんに参加してもらって、
『ペンギンごはん』ができた。
そのときも、また描いてもらいたいな、
なんてずうずうしく頼んじゃったもんだから、
第2弾、第3弾と、ポンポン描いてくださって。 |
糸井 |
オレと湯村さんは、
そのあともガロに関わっていくんだよね。
毎号、表紙の絵を湯村さんが描いて、
そこにぼくがコピーを書く、みたいにして。 |
南 |
連載もやってくれたねぇ。 |
糸井 |
ああ、そうだった。忘れてる(笑)。
当時、原作とかコピーじゃなくて
原稿を書く連載というのは、
はじめてだったんじゃなかったかな。
いや、メンズクラブかなんかでやってかな?
まぁ、どっちにしろ、本職じゃないところで
自由にやっていいよって言われるのは
たのしかったし、うれしかったんだよ。
だから、自信なんてないけれども、
とにかく考えて、埋めていった。 |
南 |
自信がないようには、
ぜんぜん見えなかったな。 |
糸井 |
(笑) |
南 |
ものすごく好き勝手にやってると思った。 |
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糸井 |
そう(笑)? |
南 |
でも、それは、ありがたかった。
オレも好き勝手にやりたいから、
好き勝手にやってくれて、
ほんと、ありがたかった。 |
糸井 |
「ホモホモステッカー」とか、つくったね。 |
南 |
はっはっはっはっ。 |
糸井 |
どんな人でも、その人の写真に
「Iam Homosexual」って、ひと言添えると
どういうわけかホモに見えるんですよ、
とか、そういうことを考えてね、
特製のステッカーをつくったんだ。
それが「ホモホモステッカー」。 |
南 |
それ、自信ないの? |
一同 |
(笑) |
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(それがもう30年も前のこと。つづきます) |