第7回 コミュニケーションがないと、
クリエイティブというものは見えない
[今回の内容]
おいおい、このコーナー、ちょっとまじめ過ぎるかい?
でも、最近は、ここで扱うような内容を考える機会が、
いろいろな人にあるんじゃないかなあ、とは思います。
先日、求職中の友人に会って遊んだんですが、
「結局、何をやりたいのかが、よくわからない。
今までそういうことを考えたことがなかった。
私、それを一番後悔してるんだよね」なんつってる。
そう思うのが時代のせいなのか年齢のせいなのかは
よくわかんないけど、なーんか、お気楽な人でさえも
そういうのに直面しはじめている時なのかもしれない。
今回はひきつづき、ディレクターの宇野丈良さんに、
クリエイティブという言葉や番組への思いを聞いてるよ。
「クリエイティブは定義することができないし、
普遍的なものでもないと思う。僕にとっては、
作る事情が見えないと判断できないものです」
とゆうのが、前回の宇野さんの言葉でした。
じゃあ、作品だけが「がしっ」とそこにあっても、
事情が見えていない限りはクリエイティブだと
思わないというのは、何でそうなるのでしょうか?
今日はそのあたりから伺っています。どーぞ。
(宇野さん&darling・対談収録中)
----作品そのものを鑑賞しても、宇野さんは
それだけではクリエイティブとは思わないのですか?
「はい。作品だけがそこにただ置いてあっても、
クリエイティブと感じることはあまりないと思います。
・・・まあ、その作品が歴史のなかで
こういう位置付けだというのがあれば違いますけど。
本がぽんとおいてあって、知らないで読むんなら、
ああおもしろい、つまんないというのがあるだけで、
僕にとってクリエイティブというのは、もうちょっと
いろいろなものと関係していてはじめてわかります。
例えば作る過程が見えたり、ものがあったとしても、
他のものと比べてどのような位置にいるかとか・・・。
『今までにないものを作った人』は、
どの業界にもたくさんいるじゃないですか。
だけど、数年経つとその人は新しいものじゃなくなる。
過程を知らずにその人のつくったものを見ても・・・。
もちろん、そのものを好きか嫌いか、
おもしろいかつまらないかという評価はできるけど、
それだけで、どういう風にクリエイティブなんだ、
という評価は、できないんじゃないかと思います」
----ということは、過程の中に
クリエイティブを感じているの?
「そう思います。
あとは、刺激があるところとかに・・・。
人とのつきあいの中には、
クリエイティブというのが出るかもしれないけど、
独りだけでいるところには、クリエイティブがない。
誰かに見せたい、主張したい、使って欲しい、
試して欲しい、食べてもらいたい、喜んでもらいたい、
悲しんでもらいらい、泣いて欲しい・・・
そういうことがないと、たぶん、
クリエイティブはないんじゃないかと思います。
コミュニケーションがないと、ない。
そのものだけで、どういう風にクリエイティブなんだ、
という評価は、できないんじゃないかなあ?」
----昔に書かれた本などの場合にも、
最初は誰かに伝えたいという気持ちが、
あるのではないでしょうか?
「それは、当時はあっただろうし、
伝えようとする意思があれば、時代を超えた
クリエイティブやコミュニケーションはあります。
ただ、コミュニケーションじゃないように
受け取られる作品のほうが、多いと思うんですよね。
モーツァルトを聴いて、いいとは思うけど、
彼をクリエイティブだとは思わないというか・・・。
クリエイティブかもしれないけど、
モーツァルトの音楽を聴いている時には
僕はクリエイティブかどうかを判断しないし、
その判断をできないと言うか・・・。
そのものを通じてコミュニケーションを
しているものを、僕はクリエイティブと感じるんです。
それで、僕にとってのモーツァルトは、
聴いている時にクリエイティブかどうかを
考えるものではないというような・・・。
もちろん音楽にものすごく造詣の深い人たちは
モーツァルトについていろいろ考えるだろうけど、
僕の場合は、聴く以上に、彼の曲を通して
コミュニケーションをしないからなんだと思います。
だから、もちろんモーツァルトを
すごく深く知りたい人は、それを通して
クリエイティブというものを考えるかもしれないけど。
例えば、話題になっている10万円の椅子があるでしょ?
アートデザイナーの人と人間工学の研究者が
組んで作ったものらしいけど、あれなんかは、
『ああ、クリエイティブだな』と僕は思います」
----なるほど〜。
あれの場合は、作る側も座らせようとしてるし、
買う方もその意図を知っていて10万円出すから、
確かにすごいコミュニケーションになりますよね。
「そうそう。あれなら座ってみて
『・・・あ、こりゃクリエイティブだ』
とか思うけど、普通にある椅子に座っていても、
クリエイティブかどうかを、考えないですよね。
だからやっぱり、作った人が見えないと、
クリエイティブではないんだろうなあと思います。
そうやって判断することがない。
だから、糸井さんが打ち合わせや取材で言ってたけど、
クリエイティブというのは、物事のうちの、
「もの」じゃなくて「こと」のほうにあると思います。
それに、普通に生活をしていても、
クリエイティブかどうかを判断する必要はないし、
おんなじものを見ても判断が違ってくると感じます。
例えばチューハイを入れるコップにしても、
その居酒屋で働いていて、毎日そのメモリまで入れて、
氷を入れてという人にとっては、たぶんもう、
それがクリエイティブかどうかは関係ないのだろうし、
だから、普段いろいろなところで
いろいろなものを見ていたとしても
クリエイティブだと判断しないことが多いんだろうね。
たぶん、何かを知ったあとに、
『そういうふうにできていたんだ。
ああ、それはすごいクリエイティブだな』
と思うんじゃないかなあ・・・。
そうなると、クリエイティブかどうかと思うことが
日ごろ絶対に全員にとって大事かと言うと
そうでもないのかもしれない。
そんなことを思わなくても生きてはいける」
----クリエイティブは、要らないんですか?
「何かをつくりたいと思っていないと、
感じられないのがクリエイティブだと感じます。
椅子に関しても、椅子をつくろうと思う側から
いろいろな椅子に座って考える中で、
『うん、ここの角度がこう違うから座りやすい』
と、椅子のクリエイティビティを判断することになる。
だけど、そういう風に考えない人は、そうは思わない。
・・・あ、喋ってて、一ついいことを思いついた。
クリエイティブということは、
それこそ生存するためには要らないかもしれないし、
クリエイティブでいようと考えることだって
虚飾に過ぎないものなのかもしれないんだけど、
『クリエイティブでいたい』と思っていることは、
つまり例えば『椅子を作りたいな』と考えることに
とても近い状態になるんじゃない?
で、それはいいことだと僕は思う。
『俺はクリエイティブになりたいなあ』と思うと、
いろいろなものを見て、あれはクリエイティブかな?
いやあれはそうじゃないな、と判断するようになって、
自分にとってはこれがいいなあと考えるようになる。
だから、クリエイティブというような、
抽象的で一見虚飾にも見えるようなタイトルの番組も、
別にいいんじゃないかなあと、今思った。
みんな、ちょっと考えてみようよとか、
好きなものを探そうよとか言うことができると思うし、
クリエイティブを考えていると、
好きなものを買ったりできる。
クリエイティブがいいと思わないと、
『何でそんな高いものを。
お金がもったいないから買わない』
と思うかもしれないでしょ。
でも、どう作っているかをいいと思えれば、
好きなものにお金を出して買えるというように
変わっていくのかもしれない。
だから、クリエイティブでいようよっていう
メッセージが、とても重要になると思います。
誰か説得力のある人がそう言うだけで、
いろいろなことがちょっと変わってくるかもしれない。
番組を観た人が、少しでも変わるかもしれない。
椅子なんて意識していなかった人が、
『ああ、座り心地が悪かったから気持ち悪かったんだ』
と知るようになるのかも、というか・・・。
今回の対談に出てくる井上陽水さんは、
そういうクリエイティブにまつわることを、
『じゃあ、いろいろ見てみるか』とは思っていなくても
自然にいろいろと考えているんです。だからすごい」
----しかも、陽水さんの場合、いろいろなものに対して、
ひとりの平凡な受け手として接していますよね。
「そう! かーなり平凡な受け手として
テレビとかを観ているんだよ〜。
でもね、例えば居心地が悪いなあと感じたとしても、
普通の人は、その居心地の悪さが
椅子から来ているなんて、思えないですよ。
陽水さんの場合は、いつも疑問を持っていて、
『この居心地の悪さはエアコン?それとも・・』
といろいろ考えているから椅子に辿り着けるんで。
・・・だからたぶん、『居心地が悪いなあ』って、
単に思っているだけじゃだめで、それだけだと、
ただ時間が過ぎていっちゃうだけだから。
まあ、原因をわかるのがいいとも
言い切れないから、そこは難しいんだけど。
僕は個人的には井上陽水さんをすごい好きですよ。
ああいう純粋培養されたような・・・
純粋培養って言葉があっているのかわかんないけど?
・・・まあともかく、あれだけ長くやっていて、
それでもまたミリオンセラーをつくることができる。
もし何かを嫌になったら閉じこもれる環境にもいる。
しかも、それがさみしくなったら、
またみんながかまってくれる環境でもあるでしょ?
一番奴隷をたくさん持っているローマ人というか、
だから陽水さんは、世の中を一番
冷静に邪念なく見られるんじゃないかなあ。
邪念を持たないで、ただぼーっとして
テレビを観られるんじゃないかと思います。
しかも面白いのは、テレビを観るにしても、
陽水さんは、別におもしろそうだから観る、
というわけではないんですよね、たぶん。
たまたま観たものが面白かったというのは、
それはあるだろうけど、つまんなくても観てみる、
というやり方をしていると感じるんですよ。
『つまんないものを観る』というのは、
普通の人はあんまりしないじゃないですか。
普通は、そんな時間はもったいない、ってなる。
だけど、つまんないものを観ることは、
実はむしろ好みを確定するというか、
考える題材としては、ものすごくいいことだと思う。
つまらないものを観ると
『どうして俺はこれが嫌なんだろう?』
『何でこれはこんなにつまらないんだろう?』
と思うけど、面白いものを観た時には、
わあ楽しかったとか面白かったとか思うだけで、
あんまり考える対象にはならないような気がして。
・・・もちろん、
『これは何でおもしろいんだろう?』
と思う人はいるけど、それはそう追求する世界の人で。
一般的には、例えばポストペットが楽しかったら、
これはどういう仕組みでできているんだろうと思う人は
あんまり多くはないでしょう?
だけど、つまらないものえに触れたあとには
何がどうやって作られたからこうなったんだ、と、
観た側が作る側の神の視点で世の中を見るから、
それはすごくおもしろいことだと思います」
★コミュニケーションがないとクリエイティブではない、
というのは、「なるほど!」と感じました。
少なくともそこには、個人的な発見があると思う。
そうやって自分にとってのクリエイティブを、
ぐるぐるぐるぐる回り道をしながら見ていくと、
何を好きなのか、何をそうじゃないと感じるのか、
とかいうことが、少しずつ輪郭を持ってくるの?
「『クリエイティブでいたい』と思っていることは、
つまり例えば『椅子を作りたいな』と考えることに
とても近い状態になるんじゃない?」
という言葉が、特に印象に残りました。
(つづく)
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