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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第17回 立候補しない人には、票が入らない・・・
    ボディにしみついた自分の幸せを追求するのが、
    立候補者の観点を打ち出すきっかけになると思う



[今回の内容]
ひきつづき、表現をしている側は受け手とどう違うのか、
そして、表現をする立場はどういうものなのかについて、
番組ナビゲーター・糸井重里のコメントをお送りします。
まわり道つづきでしたが、今回の後半は、
作り手の快感はどこにあるのかを訊いています。
まずは「お金」と「価値観」の話のつづきになります。




(対談収録途中での、打ち合わせ)


「例えば、梶原一騎さんのマンガの
 『タイガーマスク』や『あしたのジョー』の価値観は、
 『悪いことや法律を破ることは、してもいい』です。
 梶原さんにとっては、それは、全然しても大丈夫。

 プロレスのためだけに地下訓練を積むことも、
 時には人間の心を捨てて虎として立ちあがることも、
 そのへんはもう、ぜんぶがオッケーなんですけど、
 だけど、まるっきりの悪でいいのかというと、
 そこには、罪ほろぼしが必要で・・・。
 じゃあ、何をするのかというと、
 孤児院に行って、親のない子に寄付するわけです。
 タイガーマスクは、孤児院のハウスキーパーのような
 女の子へ恋心を抱きながらも去っていくわけですけど、
 陰で孤児院の子たちの幸せを祈る・・・
 これが、梶原一騎さんの幸福感のシンボルでした。

 彼のマンガを読んでいた当時、ぼくは
 このイデオロギーをかなり植えつけられたので、
 今でもこのくらいの幸福感で満足できるんですけど、
 ただ、孤児院の子供たちがタイガーマスクによって
 してもらったことをクールに考えてみると、
 『お金をもらうこと』なのです。
 ・・・あの時期に、梶原先生が
 清らかな何かだと思って描いていて
 受けとめる側にもジーンと来ていた何かは、
 ものさしが、また、お金だったわけです。

 そのマンガが描かれていた頃、
 そっと現金を差し出す幸福感を唱えた人が、
 もうひとりいて・・・田中角栄さんです。
 とても有名な逸話らしいのですが、
 彼のファンの女性から花束をもらった時に、
 涙を流さんばかりにして感動して受けとって、
 『私には、あなたに何もできないけど』
 と、新聞紙に包んだ100万円を渡したという話で。

 心の中では涙なんだけど、外に出た表現が100万円。
 ぼくは、そういう話、嫌いじゃないんです。
 お金を使うことはむつかしいですから、
 田中角栄さんは100万円を目の前の人に
 どう使ってあげるかのクリエイティブをしないかわりに
 お金というクリエイティブの原子を渡してあげた。
 これ、今は伝説として笑われる話かもしれないけど、
 田中角栄の時代の後の価値観は、あったのかというと、
 例えばマンガの世界で言えば、なくなったと思います。

 じゃあ、マンガの価値観はどうなったかというと、
 スポーツに行った。スポーツは勝つか負けるかだから
 今の価値観とベースとしては合ってるんだけど。
 試合中にファインプレイをしたり、
 その周辺のドラマを足したり引いたりして
 レゴブロックの家を作るように描く。 
 スポーツマンガがいいのは『終われる』ことで、
 例えば『タッチ』とかだと、
 『ぼくには何もできないけれど、
  野球には一生懸命になっちゃったんだ』みたいな。
 ・・・おい、『なっちゃった』って!

 生き死にだとか人生を表してたら
 『何だか変だ』と感じるようになってきて、
 本当に人生に関わる幸福観や価値を表現できないから
 場面を設定して、その場面の枠組みの中で
 勝ち負けのゲーム表現するような流れになりました。
 だから、例えば時代劇だとかミステリーとか、 
 一翻しばり二翻しばりで設定を作っているけど、
 今だって、孤児院に寄付することに代わる
 幸福感があるかと言われれば、むつかしいですよね。
 今の人たちは、梶原さんや田中角栄の
 お金の幸福観を笑っているかもしれないけど、
 その価値観に代わるものは何だと聞かれたら、わかる?

 ・・・『幸せって何だろう?』の答えを出したのは、
 やっぱり『ポン酢しょうゆのあるうち』だと思います。
 あのCMを観てぼくは本当に感動したんですけど、
 ああやって幸せを言えるのは、さんまさんだけですよ。
 『ほんとに、そうかもしれない』と思ったもん。
 あの時、ぼくは明石家さんまさんに負けたんです。

 鍋って、ひとりでは、やりませんよね。
 それに逆に、鍋をするひとりって、
 妙に充実しているような気がするんですよ。
 充実していなければ、鍋をひとりで食べることを
 恥ずかしがってしまいますよね。
 目標のような価値観を持っているから
 自分の食べるものを作っている、と思えるじゃない?
 もちろんふたり以上の鍋も、どんなに喧嘩していても、
 喧嘩をする相手がいるのだから、ひとりではない。
 『孤独じゃない』というのが
 ポン酢しょうゆのベースにあると思いますが、
 幸せ観は『〜ではない』というものでしか
 今のところは言えない状態だとぼくは感じます」
 
----幸せ観がないと、ものは作れないのですか?

「何か、遠回りして幸せ観みたいなことを言ったけど、
 もちろん、そんなものなくても、
 いくらでも、ものは作れるんです。
 スポーツ的に枠組みを決めて、
 ディティールで気の利いたことを入れれば、
 ひまつぶしとしては時間のつぶせるものが、
 軸がないまま、いくらでも作られていくとは思います。
 一生懸命に何かをやるだけなら誰でもできるから、
 オートバイでがーっと走るだけなら
 風を感じるだけで気持ちがいいんだけど・・・
 ほんとうは、どこに行くというのがなければ、
 走れていないというか、かっこよくないというか。

 例えば、ドラマを観ていて、
 何か違う気がするなあ?と思う時には、
 その作家の人生観にフィットしなかったんだけど、
 でも『違うなあ』とは思いながらも、
 作家が本気で問いかけた場合には、
 『俺はそうじゃないけど、その幸せはありだなあ』
 と、何となく納得できたりするんですよね。
 その逆で、作家が自分の幸せ観に
 まったく触らないところで、
 『どうせみんなはこういうのが嬉しいんだろ?
  どうせこういうのを面白いと思っているんだろ?』
 というような、相手に合わせようとしたた表現には、
 みんな受け手として、露骨に嫌な感じがするでしょ。
 例えば、自分が成功しているという幸せ観しかないと、
 大勢の人に賛成してもらうのは、難しいでしょうし。

 でも、そういうものではなくて、
 『自分が本当に問いかけた幸せ観が
  受け入れられなかったら、嫌だなあ』
 と、怖さがあるんだけど出したものなのだとしたら、
 それは、たとえ共感されなくても、
 『あれはあれでありだよなあ』と思われるはずで、
 やっぱり、すごいなあと感じさせる作品には、
 そういう幸せ観があるものだと、ぼくは感じています。

 立候補しない人には、票が入らないでしょう? 
 口説かれるのではなく口説く立場になったとたんに、
 選挙の立候補者のようにならないといけないわけだし、
 時には、自分にも整理のつかない価値観を表して、
 通りすがりの人を考えさせなければいけなくなる。
 ドラマを観て『これ、違うんじゃない?』と
 すごく突っこむ受け手でいるのはすごく簡単だけど、
 作り手はほんとにたいへんなんです。

 テレビから流れてくるあらゆる番組や、
 壁に貼ってあるあらゆるポスターは立候補者で、
 そのひとつひとつが、観る側に呼びかけている。
 今まで、受け手は『民主主義』『清き一票』と、
 一般の側が、素晴らしいものを持っているかのように
 立候補者の側からおだてられてきていましたよね?
 だけど、何でおだてられてきているかと言うと、
 『立候補した人たちが票が欲しいから』
 という理由があるからだけなんです。

 口説く側に立つ場合は、そうはいかない。
 観ている側に『そうなのか!』と思わせる
 アイデアなりメッセージはあるのか?
 自分が選ばれるという確信があるのか?
 ・・・その立場になると、もう、
 『あのドラマがださいよね』とか
 そういうことを超えていますから、
 まったく違う世界ですよね。
 だから、例えば営業の仕事上だったり、 
 学校の演劇のリーダーになったりして
 集団を説得した経験のある人はわかると思うけど、
 プレゼンテーションをする側は大変ですよね。

 立候補をした時に票の入る仕組みなりアイデアなりを
 何かつかまないといけないわけで・・・。
 立候補する時に、より自由になれるのは、
 今までなかった存在になることですよね。 
 全員がおんなじように、
 『ここが安全だ』と思って行く場所は、あぶない。
 関東大震災の時に、みんなが
 おんなじ場所で焼け死んだじゃないですか。
 あれは、ここが安全だというところに
 いっせいにおしかけたからなんですよ。
 それで、その時に冒険をして、
 とんでもないことを考えた人が、生き残っていたり。
 
 それとおんなじで、今だと、
 ビジネス書を一生懸命に読みこんで
 こうなるに違いないと仕事をするような組織こそが、
 どんどん焼け死んでいっているわけです。
 『今、一般の人には、何が求められているのか?』
 などという会議をやっていると全然だめだと思う。
 『昔から、それ、自分で考えていたんだよ』
 『思えば、それをやりたくてしょうがなかった』
 というような、ボディにしみついたところから
 自分の幸せを追求するものが、立候補者が
 幸せ観を打ち出すきっかけになると思います。

 そういう発想で言うと、この対論で会って
 感心させられたのが、八谷和彦さんです。
 現代アート出身の人だけど
 マーケティングの勤め人をやっていて、
 それを辞めてアートに戻ったんだけど、
 アートは観客が限られているから、
 大勢の人に見てもらう手段として
 彼はポストペットなどの商品を作るから、
 つまり、商品のかたちをした作品なわけで・・・。

 こないだ話をしていて、
 相変わらずいいなあと思ったのは、
 『化石燃料が枯渇する』という社会問題に対して
 みんなが『次は燃料電池だ』と言っていて、
 その時に八谷さんは、どの会社も全部が
 燃料電池を主張しているのは変だと思ったんです。
 『他にひとつくらいあってもいいだろう』
 というところで、八谷さんは、
 ああ、自分は動物が好きだなあと、
 それは小さい頃からの癖のようなもので、
 イルカに乗って泳ぐのが好きみたいな人だから、
 じゃあ、化石燃料がなくなったら、
 次は、馬じゃないか、と考えついた。

 ・・・たぶん違っていると思うんですよ(笑)。
 きっと、本人も違うと感じていると思いますけど、
 でも、馬・・・かもしれないですよね。
 『かもしれない』という、ここが重要だと思うけど、
 馬そのものが輸送手段にならなくても、
 馬のある特性が、違うかたちで生きるかもしれないし、
 馬と人との昔からのつきあいの部分が、
 電気自動車にも生きてくるのかもしれないし、
 生きものとしての乗り物になるかもしれないし・・・。

 八谷さんはそんな発想をして、
 こないだ馬がいるような生活をしている
 モンゴルで暮らしてきて帰ってきたんですけど、
 どうしてそういう発想みたいなものを
 ぼくたちはできなくなってきているんだろう?と
 ぼくは彼に会って悔しくなったし、うれしかった。
 
 こけおどかしのように発想だけをするのなら、
 八谷さんじゃなくても、普通の社会人でも出すんです。
 だけど、八谷さんがそういう人と違うのは、
 ほんとに馬が好きなんですよね。
 動物とコミュニケーションを取るのが
 好きで仕方がないというベースではじめていて、
 みんなが何かについて考えているものとは
 違う方法があってもいいじゃないか?
 そういうところで考えているからいいんです。
 もう、馬を選んだ時点で、八谷さんは
 立候補していますよね。それに票も入るでしょう?
 立候補する立場にいる人に求められているのは、
 やっぱりそういうボディにしみついたものだと思う」



★「『自分が本当に問いかけた幸せ観が
   受け入れられなかったら、嫌だなあ』
  と、怖さがあるんだけど出したものなのだとしたら、
  それは、たとえ共感されなくても、
  『あれはあれでありだよなあ』と思われるはずで、
  やっぱり、すごいなあと感じさせる作品には、
  そういう幸せ観があるものだと、ぼくは感じます」
 ・・・そのような言葉を残しながら、
 作り手と受け手の差についての談話を終わります。


(つづく)

この番組への激励や感想などを、
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2000-08-13-SUN

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