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テレビ逆取材・
クリエイティブってなんだ?

第27回  ぼーっとしている時間がないと、生きていけない


[今回の内容]
番組は終了しましたが、
「クリエイティブってなんだ?」
という問いを、もうしばらく考えすすめます。
プロデューサーさんやディレクターさん、
そして番組ナビゲーターの思いを訊ねています。

幻冬舎・見城徹さんとの対談について、
番組ナビゲーターは、どう思うのだろうか?
ナビゲーター・糸井重里の談話を、お送りします。




(見城徹さんと、darlingと、静岡の海)






「見城さんは、オリジナリティを
 神であるくらいに大事にしますよね。
 ぼくも、実はそうなんです。
 オリジナリティが、感じられないものに対して、
 『それじゃあ、お前がここにいる意味がないだろ』
 と、言いたくはなるのですけれど。
 ただ、そういう自分の気持ちを、そこで
 もう一度揺りかえすように、なるべくなら、
 『これ、オリジナリティがないなあ』
 と思うことをやめようという気持ちもあるんです。
 つまり、いくらまねっこに見えても平凡にみえても、
 その中のオリジナリティを見つけるというのは、
 見る側の目がもっと開けて
 はじめて成り立つのかもしれないなあ、
 という考えがもうひとつありまして。

 自分を、ものすごく
 オリジナリティを必要とするような状況に
 追いこんでいくと、過酷な問いかけがはじまっちゃう。
 本気でずうっと醒めていると苦労が絶えないから、
 生きるのをやめたくなってしまうんで・・・
 だから、ぼくは力を抜くんです。
 ぼーっとしている時間がないと、生きていけない。
 ふだんもぼーっとしているし、
 『最高にいい条件の状態で、何かに向きあう』
 というのは、いつでも、どうも嫌で。

 何か邪魔するものがあるという状態が
 普通なんだと思っているから、
 『今日はいろいろあるから、わかんねえ』
 って、その日に放っておくと、もう
 そのままわからないままになっちゃうかもしれない、
 というぐらいがちょうどいい。
 研ぎ澄ませたくないんですよ。
 でも、ゆるいということについて、
 ここまで抗弁したがるという感覚も、なんか
 僕のオリジナリティに関わるんでしょうけど」

----見城さんの編集者としての
  ありかたを、どう感じましたか?


「静岡の清水の、風と空と日差しの中で、
 動物植物が育つには最高な環境があって、
 そこで見城さんの『せつなさ』という、
 わけのわからないものでさえすくすく育ったと言うか。

 『恋愛で一喜一憂して本を読んだり、
  海を眺めていたことが、ぼくの自意識を
  育てる上ですごく大事なことだだった』
 と見城さんはおっしゃっていて、
 当時の実らないかもしれない恋愛について、
 ともだちと話したことがなかったというのが、
 魂を育てたと思うんですよね・・・。
 
 せつなさの中にもおそらく
 好きなせつなさと嫌いなせつなさがあって・・・。
 ぼくも若い頃にはわかんなかったんですけど、
 たぶん、人って、ほんとうに嫌なことは、
 暴力的にしばっておかない限りは、続けられない。
 みんな、口では我慢しているふりはしているし、
 実際に我慢もしているんだけど、本当に嫌いなものは、
 暴力的に裏切ってでもやらないと思いますよ。
 『必ず死んでいくせつなさの中で、
  ぼくにとって唯一の救いが、表現です』
 と言うのは、だからほんとうにおもしろかった。

 編集者って『裏方』だということになっている職業で、
 それは編集者自身にとっても便利なことでもあるのですが、
 見城さんにとっての編集者というのは、実は、
 職業の『機能』ではなくて『人生』の選択なんだよね。
 現実に、見城さんは幻冬舎に入ってくる人たちに、
 人生として会社を選んでもらっていると言うし、
 元・切ない青年のリーダーシップが、おもしろい。

 『本というのは、精神だけを商品にして売る。
  実体のないあやしいものを物にしてしまうような
  とってもいかがわしい商売で・・・だからこそ、
  編集者は誠実な努力をしなければいけなくて
  商品としての最終形を常に意識しないといけない』
 と、見城さんはおっしゃっていたけれど、
 実は、本だけではなくて、
 いかがわしくない職業や産業と言われる分野でも、
 わけのわからないものが、価値になっていると思う。
 例えば、お茶碗を売ることは
 一見、いかがわしくなく見えるけど・・・。
 だけど、無数の種類の中から
 『この形』『この模様』って選んだりする。
 茶碗のカーブだとか柄や箱を見たりして、買う。
 その柄も箱も、全部が考えられた結果で
 作られているものなのだから、結局は茶碗でも、
 ソフトそのものを買っているとも、言えるわけで。

 『実業』だと言われてきているものごと自体が、
 実は、見城さんが編集者としてやっている
 『無から有を作り出す』というような方向に、
 どんどんなってきているんだと思います。
 例えば自動車にしても、乗る側が車に対して
 何を感じて、何を求めているのだろうかという、
 その車を通して何ができるのかというものを
 ちゃんと伝えないと、商品という形にはならない。

 編集者が、見えない精神を
 本というかたちにする時だけではなく、
 株式にしても銀行にしても、もうぜんぶの職業が、
 ほんとはそういう、見えないものから
 ソフトを作るものになってきてると感じます。
 だからと言って、今までず〜っと、ソフトを
 作りつづけてきた人に天狗になれとは言わないけど、
 『こっちこそ実業なんだ!』
 という気持ちでいて欲しいんですよ。
 今は『実』って『虚』だ、という時期だと思います。

 もちろん、思いが図面化できなければ動けないのだし、
 鋳型に入れないとものが作れないんだというところで、
 『虚』の部分を『実』に受け渡すことを
 しなければ行けない瞬間は、あるのかもしれない。
 だけど、ほとんどの商品にとっての命は、
 もうクリエイティブと言うのかソフトと呼ぶのか、
 ともかく見えないもののやりとりなのだと思います。
 見えないもののやりとりは、
 それこそ、自分の背負った内臓やら手やら足やら、
 生きていくことがフィードバックされていくような
 ものなのかもしれないです」

----個人として、やりたいことは?

「ぼく個人としては、好きなものがあったら
 そっちを向くし、めしがあったら食べるし・・・
 もうほんとにさあ、犬のように生きているから、
 仕事するのはけっこう下手なんだと思うけど、
 でも、この『下手』、悪くないなと感じます。

 隣の人がいい表現をした時には、
 ぼくは、いつも、うれしいし、やきもちをやくし、
 『俺は次にどうしてやろう!』とぶつかりたいんです。
 考えることや想像することはタダでできるし、
 しかも、ホームページを作りさえすれば、
 誰かに買ってもらわなくったって、表現できる。
 ぼくが、表現が水子にならないようにしたい、
 と思っていたのは、そこのところでして・・・。
 つまり、各家庭に生まれた赤ちゃんは、
 そのぜんぶがかけがえのないものでしょう?
 それとおんなじ運命を、表現も歩めるんだというのを、
 これはもしかしたら間違っているのかもしれないけど、
 ぼくはそう思いたいんです。

 ぼくがやりたいのは、
 『そんな赤ちゃん、どこがかわいいのよ』
 と言われているところで、
 『ほら、この角度から見るとかわいいだろ?』
 みたいに言ってあげることでして。
 そうぼくが言ったことでまた別の考えが生まれて、
 その赤ちゃんの印象が反射しあう刺激で、
 また光が出てくるでしょう?
 ぼくは、そういうことをやりたいと思います。
 生きている間には何にもかも
 わからないのかもしれないんだけど、
 『生きているとはなんだろう』みたいな中で
 遊んでいることがうれしいんですよね。

 『ほぼ日刊イトイ新聞』をやっていることで、
 ぼくは、今までの価値観でもなく、
 やみくもに新しいものだったり
 お金だったりするような価値観でもなくて、
 もっと古臭いところに、人の望みがあるんじゃないか?
 ・・・というようなことを、思いはじめています」




★「自分を、ものすごく
  オリジナリティを必要とするような状況に
  追いこんでいくと、過酷な問いかけがはじまっちゃう。
  本気でずうっと醒めていると苦労が絶えないから、
  生きるのをやめたくなってしまうんで・・・
  だから、ぼくは力を抜くんです」

 「いかがわしくない職業や産業と言われる分野でも、
  わけのわからないものが、価値になっていると思う。
  見えないものからソフトを作る人に、
  『こっちこそ実業だ!』という気持ちでいて欲しい。
  今は『実』って『虚』だ、と言える時期だと思います」
 
 人として楽しんだり遊んだりするというクリエイティブと
 鋭い方向に考えをとことんすすめていくクリエイティブ。
 そのせめぎあいを見城徹さんも糸井重里も
 同時に感じているのが、面白いなあと思いました。


(つづく)

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2000-08-25-FRI

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