※このコーナーも、いよいよ
最後の3回ぶんに、さしかかっております。
これまで、誤解されるのではないかと感じ、
プライベートなことについては
ほとんどしゃべらなかった天童荒太さんが、
じっくり、たっぷり、
過去のことを、話してくれました。
「ほんとうに窮地に陥ったとき」の話は、
特に、これからどうしようと思っている人に
読んでもらいたいなぁと感じます。ではどうぞ!
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天童 |
「ものを書いて、
それをほんとに
おもしろがってもらえるかどうか」
って、ものすごく不安なことでしょう?
ぼくだって、童話、戯曲、映画原作、
マンガ原作、ラジオドラマ、小説、
とやっている間、いつも、
ずっと不安のなかでやってきたんです。
自分は「おもしろい」と思っているけれど、
他人は「おもしろくない」と言うときがある。
逆に、自信がないまま出したのに
「意外におもしろいじゃない」
と言ってくれるときもある。
実作をする人は、
そういうことを経験する中で、
揺らぐと思うんです。
自分の書いたものは、
ほんとうにおもしろいと
感じてもらえるのかどうか?
その基準がはっきりしない時期が、
ずっと続きますからね。
だけど、いろいろと経験を重ねたなかで、
ぼくは、自分なりに
ようやく納得することができたわけです。
「もう、これだけすごいものは書けないな」
というくらいに自分で思って書けたものは、
やっぱり読者も
「すごい」「おもしろい」
と思ってくれるということ。
もちろん読んだ人全員ではないし、
賛否両論あるのは当然としても、
自分が自信を持てるところまで
深めていった作品は、
きっと受け入れてもらえるという感覚を、
自分のものにできたんです。
三五歳や三六歳ぐらいだけど、
そのことがわかることは
とてつもなく大きかった。
その確信があるから、
最終的に粘れるようにもなったんです。
「売れゆきについてはわからないけど、
この作品は、絶対に今までにない
おもしろいものだという自信はある」
という地点を、もう、
堂々と目指せるようになったんですからね。
それが『永遠の仔』に結びつき、
この確信がより深いものになったんです。 |
ほぼ日 |
前回にうかがったあと、
映画の世界を経て、それまでの本名でなはく、
作家「天童荒太」として登場するきっかけは、
どのようなものでしたか? |
天童 |
以前、お話ししましたが、
映画界でのキャリアは
「自分は、
相手の思惑とかスケジュールに合わせて
表現をすることは苦手というか、できない」
と実感する結果に終わりました。
さらに、新人賞をいただいた
『白の家族』の単行本が
ようやく出版されたのは三一歳の頃ですが、
これが、ほとんど売れなかった。
担当編集者はすごくがんばってくれたし、
村上龍さんは身に余るような
すばらしい推薦文を贈ってくださいました。
実際に読まれて、とても熱意の伝わる
批評を書いてくださる方も
「届く人には届いているなぁ」
と、うれしかったのですが、
部数は伸びなかったし、
どこかから小説の注文が来るということも
まったくありませんでした。
それもあって、
これを出してくれた出版社からも、
じゃあ次は、という話には
なりませんでしたからね。
小説という表現で食っていこうという
腹が座ったものの、
現実問題として、どんな作品を
どう書くことが自分に求められているのか?
自分がどういった方向に進めば、
本の世界でのニーズに合い、
読者にも受け入れられてゆくのか?
具体的に、それが、
まったく、わかっていなかった。
新人賞を受けたのは、
もう五年ぐらい前のことになっているから、
それをきっかけにどうこうできるという
状況でも、もうなかったですし……。
その頃は、もう、
「このままでは現実にまず
生活がうまくまわっていかない」
という時期にさしかかっていたんです。
『白の家族』が五千部だったから、
印税収入は七五万円ぐらい。
ラジオドラマを書かせてもらって、
なんやかんや合わせて
一三万円ぐらいいただいて。
つまり、三〇歳で、
年収が八八万円ぐらいなんですよね。
ここからいま問題になってる年金も払えば、
健康保険も引かれるわけです。
映画をやって多少蓄えはあったと言っても、
そんなのも、大きな額ではないから、
すぐになくなりますし。
この先どうしていくんだろう?
いまさらもう、向こうから
注文が来る世界でもないし、
自分から何かしかけていかないと、
小説では食えないんじゃないか?
かと言って、通常の新人賞に
応募するというのは、
一度もうもらっているから、
これはダメだろう、と。
それで、しかけられるものは
何かと考えると、
プロ・アマを問わない、
いわゆる当時のミステリー大賞や
ホラーサスペンス賞みたいなものしか
なかったんです。
当時の出版社では、
ミステリーやホラーサスペンスものが
多くの読者を得ていて、
さらに伸びてゆきそうな時期で、
賞金も、もういまと同じ
一千万円という大きさだったんです。
自分にとっては、最初に
『野性時代』に応募したときと
ほとんどおんなじ状況ですよ。
小説世界の情報もあまり知らなくて、
図書館で『小説新潮』や
『小説現代』みたいなものを見たときに、
たまたま、しめきりが近かったのが、
新潮社で募集しているものだったんです。
ぼくは、このままでは、
もう生活ができないので、
とにかく早く賞金がほしい……
非常に通俗的な話になってますけど、
人間の生活って、
基本的にはそうしたもんですから。
生きていくには、やはりコストがかかります。
食べること、寝る場所の確保、
小説を書くにも
最低紙とペンくらいは要りますしね。
書くことで食う、という意味の厳しさに
ずっと直面しつづけてはきたけれど、
この時期は年齢的なことや、
映像の世界には戻らないと決めてもいたから、
これまでで最も追いつめられていたんですよ。
いちばん近いしめきりの賞に
応募したとしても、選考を経て発表されるまで、
また半年ぐらいは先になるじゃないですか。
「受賞できたとしても、
お金が入るのは数か月後か……」
そういう計算が先に立つわけです。
この月までにお金がこないと、
もうオレは生きていけないという
デッドラインは薄々わかっている。
募集する賞の新潮社のしめきりは、
いまではもう信じられないけど、
一か月後でした。
それでも賞金が入るのは五か月後です。
ほかの出版社の募集は、
しめきりに余裕はあったけど、
そのぶん賞金が入るのも、
ずっと先になってしまうから、
書ききる前に生活が破綻してしまう。
「だったらもう、おまえは、
この一か月でこの賞に向けて書くしかない」
と自分を追いこんでいくことにしました。
サスペンスやミステリーと言われても、
書いたことはないし、自分にはよくわからない。
ただ、人間の存在そのものが
ミステリーだと言えるし、あらゆる小説は
「主人公はこの先どうなるのか」
というサスペンス的な技術が
入っているものだと考えました。
謎解きの妙を考えだすとかいうのではなくて、
三人の人物の孤独な思いを中心にした、
「人はひとりでは生きていけないのか?
あるいはひとりでいることの
充足感は何なのか?
また誰かと一緒にいたいという欲求は
どこからくるのか?」
ということをテーマに、
追いかけたり逃げたりする
サスペンスをやってみようと思ったんです。
いまの自分のペースからは
信じてもらえないかもしれませんけど、
「そんなに短い時間で書けるのかよ?」
と自分でも驚くくらいペースが上がって、
なんとかできあがりました。
原稿用紙で四五〇枚ぐらい書いたのかなぁ。
確か、しめきりが
三月三一日ぐらいだったと思うんですが、
それがその日だったように覚えてるんです。
金曜の消印有効っていったら、
土日をはさんで新潮社に届くのが
四月三日ぐらいだろうとふんだんですね。
ぼくはまだ
簡単な見直しさえしていなかったので、
土日の四月一日と二日でぎりぎりしあげて、
四月三日に新潮社に直接持っていきました。 |
ほぼ日 |
すごい! 手渡しなんだ……。 |
天童 |
受付で
「受け取ってもらえないだろうか?」
と伝えると、どこかに電話をしてくれて
「受けとるそうです」と言われました。
受け取れないと言われたら、
どうゴネようかと気を揉んでいたんで、
心からほっとして作品を置いてきました。
とは言え、これが本当に
受賞できるかどうかは未知数なわけで、
すぐにも次の応募作にとりかかっていました。
そうこうするうち、四か月後ぐらいに
最終候補に残っているという
連絡が来たんですが、新潮社って、
候補にのぼった全員の作家を
発表の日に呼んで、
ひとつの部屋に集めて待たせるんですよ。
あれは、ひどい(笑)。 |
ほぼ日 |
残った数人にとっては、
イヤな時間が流れそう……。 |
天童 |
(笑)イヤでしょう?
それで、ひとりだけ選ばれて、
つれてかれるんだよ? |
ほぼ日 |
(笑)キツイ……。 |
天童 |
まぁ、選ばれたからいいようなものの、
ほかの候補者の方に対して、
なんだか申し訳ないような気持ちも残るし、
あの発表までの時間、
「こんなときって、何を話せばいいんだよ」
と思いました。
確かあのときは新潮社の司会で
簡単な自己紹介みたいなものをして、
ぼく以外は会社か役所勤めの人だったから、
手持ちぶたさもあって
つい名刺交換とかをはじめちゃったんですよね。
ぼくは会社員じゃないから
名刺を持っていなくて、
でもみなさんが渡してくださるのに
何もないのも失礼かなと思って、
手書きで住所と名前を伝えたり……
いま思い出しても恥ずかしいやら、
胃の痛みが戻ってきそうになるやら、
あんなに気まずい時間って、なかったなぁ。 |
ほぼ日 |
(笑) |