※今日も、かなり本格的な談話を紹介します。
長編小説とは、どういうふうに書くものなのか?
そして、おもしろさって、いったいなんなのか?
そんなところを、真正面から答えてくれたんです。
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ほぼ日 |
「天童さんの醍醐味は長編小説にある」
と、読者としては思ってしまうのですが、
天童さんご本人としては、
長編の物語を書くことに入りこんだのは、
いつごろからですか? |
天童 |
最初に長い物語ということを意識して
書いたのは、この『家族狩り』の
九五年版を作っていたときだと思う。
長編を何枚からと見るか、
この定義って実はあいまいなんですけどね。
一般的には四〇〇字詰め原稿用紙で
四〇〇枚あたりからを長編と呼んでます。
でも、ぼくの感覚だと
それはちょっと短い気がする。
長編って呼ぶのは、
八〇〇枚から、まず一〇〇〇枚を超えてかなぁって、
そう思うようになったきっかけが
『家族狩り』ですね。
編集者と話しあっていて、
いくつかの案がある中で、
「家族を狩る話を、書きたいんですよ」
「いいんじゃない?
タイトルも、
そのまま『家族狩り』でいいじゃん」
そんな感じの軽いノリで書きはじめたんだけど、
書けば書くほど、
最初に想定していたテーマだけでは、
浅薄なものになるということが、
よくわかってきました。
家族を狩るという
サスペンスだけを描いても、この物語は成立しない。
社会の根底にある「家族はいいものだ」という
常識に対して、いろいろな人が
いろいろな意見を持って葛藤する姿を
きっちり届けないと成りたたないということが、
はっきりしたんです。
多様な家族の姿を、
ちゃんと書こうとすると、
自然に長くなっていきました。
当時の担当者は、
新潮ミステリー倶楽部を立ちあげたり、
何人もの実力派の作家と
大きな仕事を積みあげたりしてきた、
佐藤誠一郎さんという、出版界では
知らない人のない、すご腕の方でしたが、
彼はもともと、長い小説が好きだったんです。
「書いてたら、長くなってきて……
八〇〇枚ぐらいになりそうです」
「いいよ、いいよ」
「一〇〇〇枚、超えそうなんだけど」
「いいよ、いいよ。
長くなるのはいくらでもいい。
むしろぼくは、
原稿用紙一〇〇〇枚ぐらいないと、
小説だと思わないんだ」
そういう人だったので、
へぇ、じゃあこのまま
枚数を気にせず、作品本位で
長くしていいんだなと思って、
結局一三〇〇枚ぐらいになりました。
天童荒太としては
デビュー二作目ですからね、
新人が一〇〇〇枚以上書いても
「OK、OK」
の編集者ってなかなかいないと思う。
でも、おかげで
思う存分書くことができたんです。
枠とかは考えずに、
登場人物たちの生き方を
尊重するようにして、どうなるのか
自分でもわからぬまま物語を追いかけ、
完成できた。
だからこれが、
ぼくの考える意味での、
はじめての長編作品です。
『孤独の歌声』は
中編ってことになるのかな。
『家族狩り』は
佐藤さんにはえらくよろこばれて、
ショッキングな場面で引いちゃう人も
多かった一方、
いろんな人がよく言ってくださったし、
しかも山本周五郎賞という、
予想外の評価までいただいて……。
これが大きな自信になって、
枚数の枠で制御するのでなく、
書くべきこと、
書きたいことはともかくまず書こう
と思って、
それからあとの作品は、
必然的に長くなっていきました。
『永遠の仔』にしても、
三人の人物をはじめ、
みんなが生きてくると、
それぞれの人生をしっかり見つめて
書くという責任が生じるし、
テーマを確かに届けるために
書きたいことを盛りこんでいくと、
どうしても時間がかかる。
ある部分を削り取って届けるより、
まるごと届けたいという欲求が
あふれてきたんです。
「このこと」を書くとしたら、
その問題に触れている
「あんなこと」も「こんなこと」も
書かないと、
主人公たちに責任とれないなぁ、
と思うわけです。
読者にはそれをすべて感情のレベルで
味わってもらうほうがいい、
と自分でわかっているのに、
原稿用紙四〇〇枚程度に押しこめたり、
切り取ったりして差し出すことは、
ぼくにはできません。
省略が文学のひとつの技術であり、
よい省略は
優れた表現だというのも理解してます。
でも読者は優れた文学性だけを求めて、
お金を払って小説を読むわけじゃないと思う。
こまかな感情の揺れを体験することも、
物語のすばらしさだと思うんです。
いろんなことを
ひっくるめて人生なわけだから、
都合のいいところだけを
スパッとあざやかに抜き出しても、
かえってリアリティを失うことも
あるんじゃないでしょうか。
もちろん名人クラスの方の短編は
すばらしいです。
でも、そのときにさえ抜け落ちたり、
払い落としたりしているものがあるわけで。
ぼくはそれもすくいとってみたい
気持ちなんです。
「これを削ることは
納得ができないし、我慢もできない。
ぜんぶを出し尽くしたい!」
そう思って書いていると、『永遠の仔』も、
一〇〇〇枚ぐらいになりそうですと
言っていたものが、結局最後には
二四〇〇枚になったんです。
枚数は最初から計算することは、
できないんですよね。
さきほども言いましたが、
主人公たちが動きはじめて
「もう、作者天童が
コントロールできるものではなくなった」
というところから、物語がはじまるんです。
はじまった物語を、作家の恣意でねじ曲げて
断ち切らせるわけには、
もう、いかなくなってくる。
……つまり、動きはじめた主人公たちが
終わりを迎えるまでは、
物語が終わらないんです。
だから、必然的に長くなって、
主人公たちが完成枚数を
決めちゃうと言いますか。
そういうふうに
書けるようになったことについては、
『家族狩り』九五年版で
賞をいただけたことで得た自信は、
やはり大きかったと思うんです。
もちろん、賞をいただいたとしても、
これでもう生涯食えると思ったわけでは
決してないけれども、
ひとまず、落ち着くことができたんです。
「焦らなくても、いいものを書けば届くし、
そこそこ需要はあるみたいだよ」
そういう自信を、
はじめて持つことができたんですね。
一方で重い責任を感じてもいました。
賞の重みというか、
新人の二作目の作品に
大きな賞を与えてくださった方々に、
恥をかかせられないという想いもありました。
この次の作品がしょぼいものだったら、
ぼくが責められるのは仕方ないとして、
選んだ方々も、
「だから、なんであんなやつに」
と言われてしまうんじゃないかと
思ったんです。それはいけないと。
ほかにもこの作品を
高く評価してくださった方々へ、
ちゃんと次の作品で報いたい
という気持ちが出てきました。
だから、もう自分の書くものは、
自分だけのものではないという意識が
芽生えてたんです。
小説をしっかり
勉強しなおしてみようという
気にもなりました。
ようやく、作品に対して
地に足がついたというか、
腰がすわったというか。
それまでは、
やはり駆け足でやってきたんです。
『孤独の歌声』にしても、
『家族狩り』にしても、
一生懸命書いたものですけど、どこかで
「ともかく早く出さなきゃ」
と追われていたような……
きつい時期でもあったんです。
『家族狩り』は、
賞という評価をいただけたのですが、
実際の部数はそんなに出なかったので、
経済的には恵まれなかったけれども、
他の会社からも
いくつか注文をいただけて、
書けば発表の場はあるという展望が
開けたので、書く姿勢は落ち着きましたね。
その後に、
『小説新潮』や『小説すばる』で、
短編を書かせていただくわけですが、
掲載された作品への反応と重ねて、
これまでの
自分のキャリアを振り返り、ようやく、
はっきりつかめたことがあるんです。
「ぼくがおもしろいと思ったものは、
読む人もおもしろいらしい。
ぼくが自信を持てないものは、
読む人も『もうひとつだな』と思う」
単純なようだけど、
新人はこのことをつかむまでに、
意外に時間がかかるのではないでしょうか。
だって、
「ものを書いて、それをほんとに
おもしろがってもらえるかどうか」
って、ものすごく不安なことでしょう? |