糸井 |
工場を再開されたのは、いつから?
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秀子さん |
4月4日です。
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糸井 |
じゃあ、まだ避難所だった段階で。
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秀子さん |
地震のあと、すぐに電気水道が止まったんですが
避難所として開放したおかげで、
避難してきた人たちが
動力を運んで、電気を起こしてくれて‥‥それで。
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糸井 |
なるほど!
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秀子さん |
これまで、海のみなさんは朝が早くて、
わたしたちは
デニムの工場ですから、夜が遅くて。
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糸井 |
はい。
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秀子さん |
ですから、それまではお会いしても
「こんにちは」「漁はどう?」くらいの
挨拶だったんですけど、
はじめて、ひとつ釜の飯を食べて、
腹を割って話をしたり、力を合わせたり。
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糸井 |
ええ、ええ。
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秀子さん |
ましてや
「ここの工場、早く動け、動け」
「復興の第一歩になるんだから」
なんて、言ってもらって。
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糸井 |
ああ‥‥。
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秀子さん |
いちばん最初の電気で縫ったのは、
大きなバッグでした。
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糸井 |
つまり、避難所の実用品。
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秀子さん |
ええ、それまで、何かをいただいても、
入れる袋がなかったんですね。
で、避難所の人たちに、1枚ずつ配りました。
ポケットも飾りもなんにもない
ただの袋ですけど、300枚ほど縫ったんです。
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糸井 |
‥‥これですか。 |
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秀子さん |
ただ、丈夫なだけなの(笑)。
でも、女性のかたなんか特に
下着を入れたりね、何かと使ってもらえて。
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糸井 |
秀子さんは、
この避難所でどんな役割だったんですか。
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秀子さん |
場所を開放したので、行政とのパイプ役です。
みなさんの意見をうかがって、
不自由なところを解消したり。
たまには、行政ともけんかしたりして(笑)。
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糸井 |
操業を再開してみて、どうでしたか?
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秀子さん |
地震からひと月も経たないうちでしたから、
家を流された従業員さんには、
みなさん、工場で寝起きしてもらって。
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糸井 |
不便しながら。
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秀子さん |
でも、従業員さんの意識が変わったんです。
だって、ミシンの音が違うんです。
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糸井 |
はぁー! 違いましたか!
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秀子さん |
仕事をしたくても、
会社自体が、なくなってしまった人もいます。
そんなときに、
自分たちは仕事ができるんだという、気持ち。
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糸井 |
「仕事」って、すごいもんですね‥‥。
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秀子さん |
わたしたちも、残ったのは工場だけですが、
本当に、生かしてもらったと思っています。
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糸井 |
ええ、ええ。
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秀子さん |
‥‥あのころは、涙も出なかったんですけど。
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糸井 |
そういうものですか。
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秀子さん |
このところ、思い出すと‥‥やっぱり。
でも、避難所のときは、
うちの従業員さんも、地域の人たちも、
みんなで仲良く暮らしました。
避難所は終わっても
ここはいつでも開放してるんだから、
何かあったら、
みなさん来てねって言ってます。
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糸井 |
ちなみに、オイカワデニムさんというのは
息子さんたちと、やってらっしゃる?
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秀子さん |
はい、まずは主人と10年間やって、
その後、3人の息子と23年間。
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糸井 |
3人。
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秀子さん |
長男がほとんどの商品を、かたちにしてます。
次男が営業、三男が機械のメンテナンス。
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糸井 |
おおー、おみごと!(笑)
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秀子さん |
これまで、工場をやめようと覚悟したことが
2回あるんです。
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糸井 |
ほう。
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秀子さん |
1回目は主人を送ったとき。平成3年でした。
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糸井 |
ああ‥‥。
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秀子さん |
2回目は、バブルが崩壊したとき。
国内の生産工場、電子部品にしても何にしても、
みんな安い工賃を求めて海外に出ました。
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糸井 |
つまり、仕事がなくなった。
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秀子さん |
はい、わたしたちにも当然、仕事が来なくて、
従業員さんも
2カ月ほど、手を休めさせてしまったんです。
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糸井 |
それで、やめようと。
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秀子さん |
商社さんから、想像もできない金額を提示されて、
息子たち3人に、
5年間、海外の工場を指導や管理を
してもらえないかって。
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糸井 |
海外に移転していった工場の監督役、として。
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秀子さん |
でも、この工場の従業員さんたちは、
どうなるんだろうと思いました。
だから辛抱して、辛抱して。
とにかく明日、メーカーから
仕事の電話がかかってくるかもしれない、と。
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糸井 |
がんばったんですね。
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秀子さん |
そのとき、息子たちに、
「自分たちの作りたいもの、着たいもの、
作ってみな」
と言って、毎日、その繰り返しをさせました。
たぶん、どの仕事もそうだと思うんですが
いざとなったら
「現場がいちばん強い」と思うんです。
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糸井 |
うん、うん、うん。
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秀子さん |
ポケットをこうしたら使い勝手がいいとか、
裾をこのようにしたら穿きやすいとか‥‥。
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糸井 |
そういう創意工夫を、繰り返し、毎日毎日。
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秀子さん |
ある夜、息子3人で工場に残って仕事していて
ふと空を見たら「真っ赤」だったんだそうです。
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糸井 |
ええ。
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秀子さん |
3人で「山火事だー!」って飛び出したら、
朝焼けだったんですって(笑)。
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糸井 |
つまり、気がついたら朝だった?
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秀子さん |
わたしの知らないとこで、
あの子たちも、苦労してたんだと思います。
でもいま、そのとき培ったものを、
よそではできない
メイド・イン・ジャパンの技術をつかった
「スタジオZERO」という
自社ブランドで、証明してくれてます。
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糸井 |
なるほど‥‥すばらしい息子さんたち。
ちなみに
OEMもやってらっしゃいますよね?
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秀子さん |
ええ、そちらのお仕事も、忙しいです。
アメリカに20年寝かせていた生地で
リーバイス501を、501本‥‥。
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糸井 |
えっ! あれ、オイカワデニムだったんですか!
※ご存知かもしれませんが
糸井重里は大のジーンズ・ファンであります。
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秀子さん |
はい、私どもで扱わせていただいてました。
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糸井 |
あれは、ここでしたか!
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秀子さん |
あと、これも‥‥。
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糸井 |
‥‥「SUGAR CANE(シュガーケーン)」も。
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秀子さん |
パッチは鹿皮で、漆でブランド名を入れたり、
こっちは手刺しで、
こっちはメイド・イン・ジャパンの生地‥‥。
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糸井 |
徹底的なことやってますね。
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秀子さん |
このポケットの付けかたは、うちでしかできない。
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糸井 |
‥‥へぇ。
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秀子さん |
デニムメーカーに
技術的な情報を提供していたんですが、
あるときから
そのアイデアを出し惜しみして(笑)、
立ち上げたのが「スタジオZERO」なんです。
これなんかは、麻糸をつかってます。
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糸井 |
麻?
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秀子さん |
綿に綿を乗せるのが、ふつうのデニムです。
麻糸というのは、強度は高いんですけど、
そのために
絶対ミシンには乗らないと言われてました。
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糸井 |
ええ。
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秀子さん |
でも、うちではミシンを改造して
世界ではじめて、
綿に麻糸を乗せたデニムをつくったんです。
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糸井 |
はー‥‥。
<つづきます> |