ゼロから立ち上がる会社に学ぶ 東北の仕事論。 気仙沼オイカワデニム 篇
セキュリテ被災地応援ファンドのこと   昨年2011年の暮れ、 気仙沼と南三陸町を訪ねた糸井重里は 3人の人に、お会いしました。 朝日新聞気仙沼支局の、掛園勝二郎さん。 気仙沼三菱自動車販売の、千田満穂さん。 及川デニムの、及川秀子さん。 お仕事の内容も、立場も、関心も、社会的役割も、 地震のときのことも、ぞれぞれ異なります。 でも、誤解を恐れずに言えば どのかたのお話も、本当に「おもしろかった」。 編集作業をしていても、 すぅっと染みこむみたいな感じが、してました。 静かな興奮に満ちたインタビュー、 おひとりづつ順番に、掲載していきますね。
第1回  自然と「避難所」になった。

秀子さん 遠いところ、本当にありがとうございます。
糸井 いえいえ、こちらこそ、お邪魔します。
秀子さん 自宅も倉庫もすべて流されたんですけど、
唯一ここが
高台で、残ったもんですから‥‥。
糸井 ええ。
秀子さん これが、落成のとき、3年前の景色です。
糸井 きれい。
秀子さん けやきがあって、ポプラがあって‥‥。
で、これが3月11日の写真。

ポプラはなぎ倒されてしまって、
この島が、だんだん水没していくんです。
あっという間、30分もしないうちに。
糸井 ああ‥‥。
秀子さん 波が引いたあと、ポプラは、ありませんでした。
島も、後ろ半分がえぐり取られて。
糸井 写真、よく撮ってましたね。
秀子さん 震災後、ここは避難所だったんです。
糸井 はい、聞いてます。
秀子さん ‥‥というより、みなさん、
高台を目指して逃げていらしたから‥‥。
糸井 自動的に避難所に「なった」と。
秀子さん じつは1年前(2010年)の2月27日、
チリ地震のとき
24時間後に、津波警報が出たんです。
糸井 ええ。
秀子さん そのとき、
地域の人たち、ここに集まって来たんです。

だから、今後も、もし何かあったら
ここが避難所になるのかな‥‥と
思ってはいたんですけど、まさか1年後に。
糸井 そうですよね。
秀子さん 自動車で避難して来た人たちもいましたし、
仙台の人も、岩沼の人も‥‥。

でも、いちばん奇跡だったと思うのは、
ダイドードリンコの配送車と
ファミリーマートの大きなトラックが、
ここに避難してきたこと。
糸井 ‥‥つまり、荷物いっぱい積んで。
秀子さん そうなんです。
積んでいた食糧、ぜんぶ出してくださいました。

そのおかげで、赤ちゃんにはミルクを、
お年寄りにはおかゆを、つくってあげられて。
糸井 よかった。
秀子さん でも、最初は「民間の避難所」として
なかなか認めてもらえなくて。

地震から2週間ぐらい経ったあとに
県に直接言って、
ようやく避難所と認めてもらえたんです。
糸井 じゃあ、水とか食糧は?
秀子さん: それからです、もらえるようになったのは。
糸井 そうですか‥‥。
秀子さん でもここ、いちばん明るい避難所って
言われたんですよ(笑)。
糸井 ほんとですよね、写真を見ても。
秀子さん ぜんぶ、人から助けられて。
糸井 でも、実際に避難所になったときの訓練って
してたわけじゃないですよね?
秀子さん 婦人防火クラブで、
いろいろ勉強させてもらってたんです。
糸井 へぇー‥‥。
秀子さん まず、班編成を組みました。

3日目、この避難所にいた28軒の人たちで
1班・2班に分かれて、
さらにお父さんチーム、お母さんチームと。
糸井 ほう。
秀子さん 1班の人は、ガレキで通れない道路を、
2班の人は、港のほうを、それぞれ片付けて。

お母さんがたは
いただいた物資を仕分けして‥‥みたいに。
糸井 ええ、ええ。
秀子 とにかく「家が流されたかどうかの区別」は
ここでは絶対にしないことにしました。

だって「全員、被災者」なんだから。

みんな「公平」だったのが
仲良くできた原因じゃないかと思います。
糸井 なるほど‥‥。
秀子さん わたしたちの工場って、
以前は、ずーっと下のほうにあったんです。

ですから、お世話になった地域の人たちに
恩返ししたいと思ってたんですが
まさか、こういうかたちで
力を合わせられるとは、思わなかったです。
糸井 そうですよね。
秀子さん 毎朝8時に、安否確認をしました。

他の避難所から戻ってきたりして、
人数はそのつど変わりました。

自衛隊がタンクで運んできてくれたお水を
ゴミが入らないように工夫して
ペットボトルに移し替えて、大事に使いました。
糸井 はい。
秀子さん 会長、副会長、通信長、医療班‥‥
みんなに役割を持ってもらいました。

とても、良い経験をさせてもらえたと思います。

若い人たちにとっては
思いやりだとか、人への感謝だとか‥‥
いっぱい、勉強になったんじゃないでしょうか。

だって、1つのおにぎりを
3つに分け合って、食べたんですから。
糸井 うん、うん。
秀子さん そうしたら、誰も何にも言わないんですけれど、
「思いやり」が生まれてきました。
糸井 もともと「助け合うことに慣れている」ような
ところは、あったんですか?
秀子さん それまではね、みなさん
やっぱり「同じ仕事で、ライバル」なんですよ。

養殖をするにしても、漁をするにしても。
糸井 そうか、競争だったんだ。
秀子さん それぞれが漁をし、
家族を守って、生活していたでしょうから。
糸井 こちらでは、奥さんがた、おかみさんがたが
リーダーシップを発揮されているのを
よーく見るんですけど、
こちらでも、やっぱりそういう感じですか?
秀子さん お母さんがたのパワーすごいです。
生きていく、ということに対して。
糸井 そうですか。
秀子さん この町は
「地域への南の玄関口だから、きれいにしよう」
ということで、
自分たちの力で、ガレキを片付けて
道を通れるようにしたんです。
糸井 おかみさんたちが?
秀子さん 自衛隊の力も、行政の力も借りないでね。
これは、自慢していいことだと思います。
糸井 どうやってやるんですか、そんなこと?
秀子さん 重機があったんです、港で使ってる。
糸井 はー‥‥すごい。
秀子さん で‥‥これが「命をつないだ旗」です。

もう、こんなにも色がすたれてしまいましたが、
もっともっと鮮やかな赤だったんです。
糸井 命の‥‥旗?
秀子さん ええ、食糧が来たときに
この旗を掲げて、連絡を取っていたんです。

1軒ずつ、バイクで回って知らせたのでは
ガソリンがもったいないので。
糸井 そうか、遠くからでも見ればわかるから。
秀子さん これまで、地域のみなさんに
工場を生かしてもらってきました。

今回、工場もみなさんを守れたし、
この絆は、強いです。
糸井 うん、うん。
秀子さん ここが避難所として閉所するときには、
みなさんが
「これから、この工場で何かあったら、
 いつでも行くから」
って言って、お掃除もしてくださって‥‥。
糸井 避難所としての閉鎖は‥‥。
秀子さん 7月の24日、でした。

<つづきます>
2012-03-14-WED
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第1回 自然と「避難所」になった。 2012-03-14-WED
第2回 現場がいちばん強い。 2012-03-15-THU
第3回 一針、一針。 2012-03-16-FRI
 
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