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秀子さん |
遠いところ、本当にありがとうございます。
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糸井 |
いえいえ、こちらこそ、お邪魔します。
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秀子さん |
自宅も倉庫もすべて流されたんですけど、
唯一ここが
高台で、残ったもんですから‥‥。
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糸井 |
ええ。
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秀子さん |
これが、落成のとき、3年前の景色です。
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糸井 |
きれい。
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秀子さん |
けやきがあって、ポプラがあって‥‥。
で、これが3月11日の写真。
ポプラはなぎ倒されてしまって、
この島が、だんだん水没していくんです。
あっという間、30分もしないうちに。
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糸井 |
ああ‥‥。
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秀子さん |
波が引いたあと、ポプラは、ありませんでした。
島も、後ろ半分がえぐり取られて。
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糸井 |
写真、よく撮ってましたね。
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秀子さん |
震災後、ここは避難所だったんです。
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糸井 |
はい、聞いてます。
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秀子さん |
‥‥というより、みなさん、
高台を目指して逃げていらしたから‥‥。
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糸井 |
自動的に避難所に「なった」と。
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秀子さん |
じつは1年前(2010年)の2月27日、
チリ地震のとき
24時間後に、津波警報が出たんです。
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糸井 |
ええ。
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秀子さん |
そのとき、
地域の人たち、ここに集まって来たんです。
だから、今後も、もし何かあったら
ここが避難所になるのかな‥‥と
思ってはいたんですけど、まさか1年後に。
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糸井 |
そうですよね。
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秀子さん |
自動車で避難して来た人たちもいましたし、
仙台の人も、岩沼の人も‥‥。
でも、いちばん奇跡だったと思うのは、
ダイドードリンコの配送車と
ファミリーマートの大きなトラックが、
ここに避難してきたこと。
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糸井 |
‥‥つまり、荷物いっぱい積んで。
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秀子さん |
そうなんです。
積んでいた食糧、ぜんぶ出してくださいました。
そのおかげで、赤ちゃんにはミルクを、
お年寄りにはおかゆを、つくってあげられて。
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糸井 |
よかった。
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秀子さん |
でも、最初は「民間の避難所」として
なかなか認めてもらえなくて。
地震から2週間ぐらい経ったあとに
県に直接言って、
ようやく避難所と認めてもらえたんです。
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糸井 |
じゃあ、水とか食糧は?
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秀子さん: |
それからです、もらえるようになったのは。
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糸井 |
そうですか‥‥。
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秀子さん |
でもここ、いちばん明るい避難所って
言われたんですよ(笑)。
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糸井 |
ほんとですよね、写真を見ても。
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秀子さん |
ぜんぶ、人から助けられて。
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糸井 |
でも、実際に避難所になったときの訓練って
してたわけじゃないですよね?
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秀子さん |
婦人防火クラブで、
いろいろ勉強させてもらってたんです。
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糸井 |
へぇー‥‥。
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秀子さん |
まず、班編成を組みました。
3日目、この避難所にいた28軒の人たちで
1班・2班に分かれて、
さらにお父さんチーム、お母さんチームと。
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糸井 |
ほう。
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秀子さん |
1班の人は、ガレキで通れない道路を、
2班の人は、港のほうを、それぞれ片付けて。
お母さんがたは
いただいた物資を仕分けして‥‥みたいに。
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糸井 |
ええ、ええ。
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秀子 |
とにかく「家が流されたかどうかの区別」は
ここでは絶対にしないことにしました。
だって「全員、被災者」なんだから。
みんな「公平」だったのが
仲良くできた原因じゃないかと思います。
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糸井 |
なるほど‥‥。
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秀子さん |
わたしたちの工場って、
以前は、ずーっと下のほうにあったんです。
ですから、お世話になった地域の人たちに
恩返ししたいと思ってたんですが
まさか、こういうかたちで
力を合わせられるとは、思わなかったです。
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糸井 |
そうですよね。
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秀子さん |
毎朝8時に、安否確認をしました。
他の避難所から戻ってきたりして、
人数はそのつど変わりました。
自衛隊がタンクで運んできてくれたお水を
ゴミが入らないように工夫して
ペットボトルに移し替えて、大事に使いました。
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糸井 |
はい。
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秀子さん |
会長、副会長、通信長、医療班‥‥
みんなに役割を持ってもらいました。
とても、良い経験をさせてもらえたと思います。
若い人たちにとっては
思いやりだとか、人への感謝だとか‥‥
いっぱい、勉強になったんじゃないでしょうか。
だって、1つのおにぎりを
3つに分け合って、食べたんですから。
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糸井 |
うん、うん。
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秀子さん |
そうしたら、誰も何にも言わないんですけれど、
「思いやり」が生まれてきました。
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糸井 |
もともと「助け合うことに慣れている」ような
ところは、あったんですか?
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秀子さん |
それまではね、みなさん
やっぱり「同じ仕事で、ライバル」なんですよ。
養殖をするにしても、漁をするにしても。
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糸井 |
そうか、競争だったんだ。
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秀子さん |
それぞれが漁をし、
家族を守って、生活していたでしょうから。
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糸井 |
こちらでは、奥さんがた、おかみさんがたが
リーダーシップを発揮されているのを
よーく見るんですけど、
こちらでも、やっぱりそういう感じですか?
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秀子さん |
お母さんがたのパワーすごいです。
生きていく、ということに対して。
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糸井 |
そうですか。
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秀子さん |
この町は
「地域への南の玄関口だから、きれいにしよう」
ということで、
自分たちの力で、ガレキを片付けて
道を通れるようにしたんです。
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糸井 |
おかみさんたちが?
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秀子さん |
自衛隊の力も、行政の力も借りないでね。
これは、自慢していいことだと思います。
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糸井 |
どうやってやるんですか、そんなこと?
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秀子さん |
重機があったんです、港で使ってる。
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糸井 |
はー‥‥すごい。
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秀子さん |
で‥‥これが「命をつないだ旗」です。
もう、こんなにも色がすたれてしまいましたが、
もっともっと鮮やかな赤だったんです。
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糸井 |
命の‥‥旗?
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秀子さん |
ええ、食糧が来たときに
この旗を掲げて、連絡を取っていたんです。
1軒ずつ、バイクで回って知らせたのでは
ガソリンがもったいないので。
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糸井 |
そうか、遠くからでも見ればわかるから。
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秀子さん |
これまで、地域のみなさんに
工場を生かしてもらってきました。
今回、工場もみなさんを守れたし、
この絆は、強いです。
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糸井 |
うん、うん。
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秀子さん |
ここが避難所として閉所するときには、
みなさんが
「これから、この工場で何かあったら、
いつでも行くから」
って言って、お掃除もしてくださって‥‥。
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糸井 |
避難所としての閉鎖は‥‥。
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秀子さん |
7月の24日、でした。
<つづきます> |