市の最奥部まで津波が襲い
しばしば「壊滅的」と表現される、陸前高田市。
今年、創業204年目を迎える老舗の醸造業が
この街にあります。八木澤商店です。
八木澤商店の「店(たな)」は「なまこ壁」で有名でした。
はじまりは「1807年」とのことですから、
江戸時代も末期にさしかかるころ。
はじめは酒蔵として出発し、
現在の「味噌・醤油製造業」をはじめたのは
第二次大戦後のことだそう。
震災前、八木澤商店のまわりには
いくつか味噌醤油屋さんが、並んでいました。
大豆を蒸す匂い、小麦を炒る匂いのただよう、
まんま昭和な町だったなぁと
9代目の社長・河野通洋さんは思い返します。
巨大地震による津波は、
この町の「ほぼすべて」を流していきました。
約7万本あった「高田松原の松」は
1本だけ残り、希望の松と名付けられました。
八木澤商店も、店舗だけでなく
工場や倉庫に貯蔵していた原料にいたるまで、
その製造機能を「すべて」失いました。
震災直後、だいぶ離れたところに流されていた、
八木澤商店の木桶。
直径・高さともに「2メートル」ほどあります。
八木澤商店の「つくり蔵」には、
このような「十石」から「十二石」の木桶が
14本も、並んでいたといいます。
5月初旬にはじめてお会いしたとき、
新社長に就任したばかりの河野通洋さんは
八木澤商店の再建へ向け、
こうした木桶をつくることのできる職人さんを
探していました。
「木は『動く』んですよね、呼吸しているので。
悪く言うと『暴れる』んです。
でも、たとえば、むかしの宮大工さんたちは
その『暴れかた』を知っていたから、
木が暴れれば暴れるほど
たがいに締め付け合って建物が頑丈になる‥‥
そういう造りかたをしていたんです。
じゃなかったら
100年も200年も『もつ』建物なんて
つくれなかったんでしょう」
「私たち八木澤商店が使っていた『木桶』も
150年以上の歴史がありました。
それだけの年月を経ても、
いまだに、1枚1枚の板の継ぎ目が
桶の中心でぴったり交差する。
150年前の職人さんは、
そういう木桶を、つくってくれてたんです」
津波に流されるその当日まで、
木桶の「タガ」は、
まったく緩んでいなかったそうです。
震災後の八木澤商店は、
まず「OEM」というかたちで業務を再開しました。
同業の醸造会社に八木澤商店のレシピを公開して
お醤油・お味噌をつくってもらい、
従来の八木澤の味に
もっとも近い商品を仕入れて、販売しています。
(現在では、八木澤商店のホームページで
お醤油を買うこともできるようになりました!)
こうした「本業」再開への動きと平行して、
もうひとつ、
河野さんが取り組んできたことがあります。
それは「社員を大切にする」ことを
「社是」のようにしてきた
八木澤商店ならではの、取り組みでした。
「いっしょにはたらいてきた仲間と、
喧嘩したり、笑ったり、ごはんを食べたり‥‥
ふつうの生活を
一日も早く、取りもどしていくこと。
そっちのほうが、
経営再建にとってはよっぽど大事なんです」
「お客さまからは
早く製造機能を回復して販売再開してくれと
お言葉を頂戴しています。
これは、本当に、ありがたいことです。
でも、そのことを急ぐあまりに
いっしょにはたらく仲間をいい加減にしては‥‥
何の根拠もありませんけど、
私は、経営再建に失敗すると思います」
「なぜなら、八木澤商店は
全社一丸体制をとることができなければ
再生できないからです。
もともと小さな会社で、残ったのは『人だけ』です。
でも、その『人』がいなかったら、
八木澤商店を再建することは、不可能です」
仲間・チーム・人と人とのつながり。
西條剛央さんの「ふんばろう」プロジェクト。
山元町のスコップ団。
山田康人さんのセキュリテ被災地応援ファンド。
今回の震災に関する取材のなかでは
人と人とが「つながる」ことの「すごさ」を
幾度となく、目の当たりにしてきました。
「私が言うのもなんですが、
八木澤商店の社員の
あの日の行動は実に見事だったんです。
避難するとき、
近所のおばあちゃんを引っ張り出して、
担いで、山を駆け上がって。
避難所でも
薪拾いをしたり、水を汲みに行ったり。
山の奥に保育園児がいるぞって聞いたら、
みんなで助けに行くぜ! おお!
‥‥みたいな(笑)」
気仙沼の斉吉商店の純夫社長・和枝専務も、
震災当日の従業員さんの行動を
「斉吉のじまんです」と
心から誇りに思っていたのを思い出します。
「この人たちと
ずっと仕事をしていきたいなと思ったし、
この人たちとだったら
きっと八木澤商店を再建できるだろうと
思いました」
その気仙沼・斉吉商店さんとも
震災前から懇意にしてきたという河野さん。
地震が起きてすぐ、クルマを飛ばして
救援物資を届けに行ったとか。
「あの人(和枝専務)ね、
会うなり『いやー、ラッキーでした!』って。
バラックの中から
長靴を履いて、泥だらけの顔して‥‥
え、その格好のどこがラッキー? って(笑)」
具体的には、何がラッキーと?
「あの『トタン屋根の豪邸』を指さして
私たち、これありますからって。
新品の工場から、魚市場前の店舗から、
それ以外ぜんぶ流されてるのに、
私たち、超ラッキー! ‥‥って(笑)」
和枝さんらしいですね。
「何なんだ、この人はと(笑)。
で、その『ラッキーでした』の次の言葉が
八木澤さん、タレいつ作ります、ですよ?
は? ‥‥みたいな(笑)」
ははー‥‥。
「うち、海鮮丼からはじめようと思ってて、
八木澤さんのタレがないと
斉吉商店、操業再開できませんから! ‥‥って。
いきなりプレッシャーかよと(笑)」
いつでもどこでも仲睦まじい、斉吉商店の純夫社長&和枝専務。
そして「仲間」というのとは
ちょっとニュアンスがちがうかも知れませんが、
いま、かわりに商品をつくってくれている
秋田・宮城の同業の会社も、
僕たちの目には、
とっても頼れる「仲間」に見えています。
「秋田の安藤醸造さん、日南工業さん、
宮城の高砂長寿味噌さん。
むかしから、
お付き合いをさせていただいています。
じつは今回、ご協力くださったのは
たがいに
ご指導いただいている先生が同じという
間柄の会社なんです」
これらの醸造会社は、八木澤商店もふくめ、
醤油の品評会で
日本一になっている会社ばかりなんだそう。
‥‥ちなみに、そのお師匠さんって?
「中国、韓国、ブラジル‥‥世界中から頼まれて、
世界中に、お醤油工場を作ってる人。
もう80歳にもなる、
何というか‥‥モンスターみたいな人で(笑)」
お醤油のモンスターですか!
「今は、震災があったので日本にいますけど、
ふだんは、ほとんど日本にいません」
この間も叱られたんですけどね、と
河野社長は、ちょっとうれしそうにしました。
「先生、こうこうこういう話があるので、
もう工場を建てちゃおうと思ってるんですよねって
言ったら、
水がいちばん重要だと、なんど言ったらわかる。
その場所でどういう水が出るか
確かめもしないうちに、なぜ場所を先走る!
‥‥と」
ははー‥‥。
「すみません、と(笑)」
80歳で世界にお醤油工場を建てまくるって、
ものすごいお師匠さんですね。
「今回の震災が起きて、すぐに来てくれました。
そして
第一声で『なんにも心配いらないから』って。
そして『大丈夫だから、俺が支援する』って。
うれしかった、です」
今回の震災を経て、
八木澤商店は、何もかも失いました。
でも、経営方針は何も変わらないと、
河野さんは言います。
「歴史ある建物だとか、
微生物をコントロールしてきた木桶だとか、
『あぐらをかけるもの』がなくなっただけ。
幸い、微生物は守れました。
犠牲になった社員、そのご家族のためにも
全力を尽くして
残された社員の雇用を守っていきます」
このときの訪問から、2ヶ月半後。
セキュリテ被災地応援ファンドの説明会に
出席するため、
東京にいらした河野さんに、
糸井重里と、対談していただきました。
髪を短くし、
ちょっと精悍さを増した感じの河野さん。
震災直後のこと、八木澤商店の今後のこと。
陸前高田という町全体を見据えたビジョン。
そのときのようすは、
次回から4回の連載でおとどけします。
河野さんと
陸前高田のすてきな「仲間たち」との
痛快エピソード、
たーっぷり出てきました‥‥やっぱり。
<つづきます>
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