糸井 |
大瀧さんが初めてCM曲をつくるとき、
「サイダー」というのは、
商業の言葉というか、商品の言葉だけれど、
それが例えば、
「アイ・ラブ・ユー」だったら、
普通に歌ですよね。
違いを感じなくてもやれるじゃないですか。
‥‥だけど抵抗があったんですか、やっぱり。 |
大瀧 |
なにもない。
半音がずれているイントロの曲が
あったんです、僕の曲で。
その半音ずれるのが、
「サイダ〜」なんですよ。
その曲のイントロが‥‥
僕がすでに作っている楽曲があるんです。 |
糸井 |
それは、なんという曲ですか? |
大瀧 |
「うららか」という曲なんですけど。
僕のファーストアルバムに入っています。
A面のケツ。その、ダンダンダンダン‥‥
と半音ずれているものと、
サイダーというロゴがくっついたんです。
頭の中で、瞬間に。
それで、できてしまったんで、
多分これでいいだろうと‥‥ |
糸井 |
それは、電話で? |
大瀧 |
電話で話し合って。 |
大森 |
それは、偶然、ある晴れた日に、
午前11時くらいに
お電話を差し上げたんです。
「三ツ矢サイダーなんですけど」と。
すると、ちょっと沈黙がありました。
‥‥あれ、詞は伊藤アキラさんですよね。 |
糸井 |
ええ。 |
大森 |
で、「三木鶏郎門下の
伊藤アキラさんに詞をお願いしました」。
また、沈黙がありました。で、即座に、
「詞の母音の“あ”を‥‥」と。 |
大瀧 |
頭に、と。
「詞を作る際は、“あ”で始めてください」
と言った(笑)。 |
大森 |
そう、そう、そう。
「“あ”で始めてください」
というご注文をいただいて、
伊藤アキラさんは大瀧さんの
「お」の字も知らない人でしたが
「かしこまりました」と‥‥ |
糸井 |
大瀧さんはなぜ、そう言ったの? |
大瀧 |
僕は、はっぴいえんど時代でも
松本隆に「“あ”ではじめて」
と言って出来たのが
「抱きしめたい」という曲で、
歌い出しの“淡い光が‥‥”
というのも
“あ”で始まっている‥‥。 |
糸井 |
僕、じつは、自分で結構やっているんです。
とにかく、“あ”で始めようというのは、
しょっちゅうやってますね。 |
大瀧 |
僕は、「五月雨をあつめて早し最上川」に、
あ音が多いというので、
「五月雨」という曲があるんですよ。
「空飛ぶくじら」のB面なんですけど。
そのときに、“あ”音の多いものを、
ということで‥‥。
“はっぴいえんど”を始めるときに、
そういう音声学とか、母音的な音というのを
随分、個人的に研究したりしてましたからね。 |
糸井 |
研究してたんだ。 |
大瀧 |
“あ”音云々は、
世阿弥のあたりとか、その前から
山のようにある話なんだと思うんですよ。
僕がとか、誰がとかいうことでなくて、
すでに、あいうえお、があったときから。
僕の自作曲で最初にステージで歌ったのは
「あいうえおの歌」という曲なんですよ。 |
糸井 |
あぁ、そんなことをしていたんだ。 |
大瀧 |
でも、“あいうえお”の歌は、
その前に3作ぐらいあるんですよ、調べたら。
自分が最初だと思ったんだけど、
結局、そういうことの繰り返しなんですよ。 |
糸井 |
‥‥僕は、直感的に、
とにかく“あ”で始めるように
気を付けているんです。
子供の名前まで“あ”で始めましたから。 |
大瀧 |
それは、ある種のなにかをやった人に
共通して、意識する、意識しないを含めて、
みんな持っているんです。感性として。 |
糸井 |
作曲する立場の大瀧さんも。 |
大瀧 |
まぁ、僕らのときは分業という‥‥
昔の先生みたいに、「詞は一言一句」とか、
「詞をずーっと見てたら、
曲ができて涙がこぼれた」とか、
ああいうような曲作りを
やったことがないから。
ジョンとポールも、
1行ずつ作るとかいうような感じでしょ。
一緒に作っていくという‥‥今流に言うなら、
コラボレーションというか、
そういう自由な作り方だったから、
「俺は詞だから」とか、
「お前は曲だから」とか、
そういうような考え方は、
あまりしたことがないんです。 |
糸井 |
それは、もうすでに“はっぴいえんど”で
やっていたんですね。だから、
会ったことのない伊藤アキラさんとも、
それができたんだ。 |
大瀧 |
「あなたがジンと」を。
変なことを言ってくる奴だな、
と思ったんだろうけど、
「CMのときは多羅尾伴内という
名前でいきますから」と言ったんですよ。
そしたら、それが受けたらしいんです。
不敵な野郎だ、と‥‥(笑)。 |
糸井 |
それは、伊藤さん好みの感じがするね。 |
大瀧 |
ど真ん中のストライクだったようですね。
アキラさんにとっては。 |
糸井 |
伊藤アキラさんは、
冗談工房の後期だったんですか? |
大森 |
後期。やはりコントを書いていて。
学生時代にアルバイトを始めたんです。 |
糸井 |
当時の鶏郎さんのところには、
そういう人がいっぱいいたんですって?。 |
大森 |
いっぱいいましたね。 |
大瀧 |
永六輔さんもそうですよね。
みんな投稿マニアでしょう。
お金をくれたんですものね。 |
大森 |
そうですね。 |
糸井 |
つまり、漫画少年みたいなものなんだ。 |
大瀧 |
うん、そうね。いっぱい投稿して。 |
大森 |
大学の掲示板などに
出たんじゃないでしょうか。
「冗談工房、研究生募集」と。 |
糸井 |
今のインターネットですね。 |
大瀧 |
インターネットの掲示板ですよね、
要するに。 |
大森 |
そうです、そうです。
永さんとかも、そうですよね。 |
糸井 |
川上弘美さんのお父さんも
そういうふうに投稿を
していらしたそうですよ。
きっとそのお父さんは家で、
鶏郎作品に出てくるような
冗談フレーズを言ったりしながら、
子供に影響を与えていって、
あの「面白好き」の川上弘美さんが‥‥ |
大瀧 |
生まれたんだね。
ラジオ関東の「ゴー・ゴー・ナイアガラ」の
投稿マニアというのがいましてね。
「明治最中カレーを食べる会」
の会長というのが、泉麻人なんですよ。 |
糸井 |
ほぉー‥‥! |
大瀧 |
ニッポン放送のディレクターから
作家というケースも、随分、多いからね。
倉本聰さんもそうだし。 |
糸井 |
僕のこの仕事の先生は
山川浩二さんという方で、
その人が冗談工房にいたんです。 |
大森 |
いえ糸井さん、山川さんは
冗談工房の社員ではいないんです。
電通の社員だったんですよ。 |
糸井 |
‥‥そうなんですか?! |
大森 |
山川さんは自分でも詞を書くような人なので、
そういうものを作る人の気持ちがわかります。
それで、鶏郎先生の仕事を一切、
山川さんが仕切っていらっしゃった。 |
糸井 |
ほぉ! じゃ、山川さんが
冗談工房にいたというのは、
僕の誤解だったんだ! |
大森 |
実質は、いた以上に、いた人ですね。 |
大瀧 |
そういう存在の人って、いるんだよ。 |
大森 |
むしろ、鶏郎先生の奥さまに、
山川さんと鶏郎先生の関係を
聞かれたほうがよいかもしれません。 |
糸井 |
(後ろで聞いていた三木鶏郎夫人に)
山川さんは、
いつもいらっしゃったんですか? |
夫人 |
大抵、お仕事を持ってきてくださるのが、
山川さんでしたの。 |
大森 |
例えば、
「船橋ヘルスセンター」は
山川さんの依頼ですね。 |
糸井 |
当時の山川さんって、まだ20代ですよね。 |
夫人 |
ええ、そうです。
それですごく仲良くなっちゃって、
たえず山川さんが鶏郎のそばにいた、
という感じで。どっちが正社員か‥‥(笑) |
大森 |
だから、鶏郎先生は、コマーシャルが来ると
山川さんにまず相談されたりして。 |
糸井 |
昔の20代って、すごいなぁー! |