福島県 星の村天文台
大野裕明天文台長

担当:奥野武範(ほぼ日)

福島県田村市の高台に建つ「星の村天文台」に、
ひとりの天文台長さんがいます。
お名前を、大野裕明さんとおっしゃいます。
ちっちゃいころから、星が大好き。
本当は染物屋さんを経営していたけど、
この天文台が建つときに
天文台長に「押し出されて」しまったとか。
震災後のいまも変わらず、
その、あかるくユーモラスなお人柄を慕って
たくさんの天文ファンがやってきます。
われわれ「ほぼ日」乗組員も
2年前、金環日蝕のときにお世話になりました。
そんな大野天文台長ですが
震災後には、やはり多くの苦労がありました。
そのお話を、あらためてうかがうために、
2月の終わり、
あの大雪が降った直後にうかがいました。

これで、この天文台は閉鎖だと思った。
でも「星仲間」の声援が
立ち上がるきっかけを、くれたんです。

福島第一原発から32.7キロ、
福島県田村市の鍾乳洞「あぶくま洞」脇に位置する
「星の村天文台」には
いまも、たくさんの天文愛好家が集まってきます。

震災から1年後の2012年5月、
みごとな「蝕」を観測した「金環日蝕」のときに、
私たち「ほぼ日」乗組員も
この天文台で、一宿一飯の恩義にあずかりました。

建物の2階に大きな畳敷きの広間があって、
明朝からの観測に備え、
たくさんの天文ファンが「前泊」していたんです。
そこに、混ざっていきなよと誘ってもらって。

そのとき、まったく見ず知らずの、
星についてもド素人な私たちを
ニッコニコの笑顔で迎えてくださったのが、
星の村天文台の天文台長・大野裕明さん。

お話をするだに、なんともあかるくユーモラス。
じつに魅力的なお人柄が伝わってきたので、
今回あらためてインタビューを申し込みました。

まずは、地震のあった日のことから。

大野さんは
「あの日、俺、太陽観測をやってたんだよねえ。
 めずらしく(笑)」と
向日性に満ちたお人柄全開で語りはじめます。

こちら、大野裕明天文台長。ユーモアたっぷり、それでいてダンディ。

総重量5トン、
650ミリの巨大望遠鏡が「墜ちた」。

「あの日、俺、太陽観測をやってたんだよねえ。
 めずらしく(笑)」

めずらしく?

「いや、ふだんはサボってるんだけどさ(笑)、
 地震の3日前から
 太陽の表面に大きなフレアが出ていて
 大騒ぎになっていたんですよ。
 さすがに気になって、望遠鏡をのぞいてたんです。
 当時、この天文台には口径650ミリの、
 県内ではいちばんの、
 まあ、比較的大きな望遠鏡があったんですが、
 その真下で、太陽観察用の
 腕っぷしくらいの太さの望遠鏡をのぞいていたの。
 そしたら、
 通常の1.5倍の耐震強度で建設している
 この天文台が、ギシギシと揺れはじめたんです。
 数分間は、総重量が5トンある、
 その650ミリ望遠鏡の真下で踏ん張ってたんだけど
 揺れがさらに強くなって
 ゴーッという聞いたことのないような地鳴りが
 聞こえてくるに及んで、
 これはもう、いたたまれねえっていうんで、
 建物の外へ避難したんです」

近隣の人たちに聞いても
「あそこの地盤は、頑丈だからねえ」と口を揃える
天文台の敷地が、
東西にユッサユッサと大きく揺れていました。
天文台長の目には、ドッカンドッカンという感じで、
見慣れた山の「向こう側」が見えたそうです。

「揺れが収まったあとに、天文観測室へ戻ったら、
 650ミリの望遠鏡が、墜ちていた。
 床を、ぶち抜いていたんです。
 揺れの強さで、足が折れてしまったんだね。
 俺が座っていたパイプ椅子の上に
 総重量5トンのうち3トンくらいが乗っかって、
 ペチャンコに潰れてましたよ。
 人ってさ、
 足元が揺れたら、何かに寄りすがるじゃない?
 だから俺も、
 まずはね、望遠鏡に寄りすがってたんですよ。
 だからさ、
 もしあのまま避難していなかったらって思うと、
 心底ぞっとしますよ。
 その後、1年間はそのまま動かせなかったから、
 潰されたまんま、
 今ごろ、ミイラの天文台長になっていたかもね。
 わっはっは。いや、笑いごとじゃないけど」

地震の揺れで墜ちた、口径650ミリの天体望遠鏡。
 20キロ先のゴルフボールを見分けることができるとか‥‥!

命が助かったのは幸運でしたが、
1億円以上する望遠鏡が、墜ちてしまいました。

「さすがに地震から数日は
 もう、この天文台は閉鎖だろうと思いました。
 それまでも、
 観光客が目減りしているという状況があって
 これからどうやって
 お客さんを増やしていこうかと話していたんです。
 そんな矢先に地震だから、
 望遠鏡もなくなっちゃったし、もうダメだって。 
 プラネタリウムも半壊してましたしね。
 でも、地震から何日か後に
 福島第一原発の爆発が起きたでしょう?
 このあたりは
 原発から30キロちょっとで、けっこう近いんですが、
 たくさんの人が避難してきました。
 もう、何が何やら、わけもわからないまんまに
 連れられてきたわけですよ、みんな。
 そういう人たちにね、
 いくらかちっちゃい望遠鏡は残ってるし、
 俺たちは口さえありゃあ、
 星のことをしゃべれるんだからってね、
 あちらこちらへ、星の話をしにいったんですよ。
 震災当時は
 体育館に600人くらいが避難していても、
 テレビなんか1個くらいしかなかったからね。
 なんだかすごくよろこんでもらって、
 それがまた、しゃべる俺らにはうれしくてね」

星の仲間たちは、全国にいる。
彼らの声と義捐金が、
この天文台を、助けてくれた。

大野さん自身「被災者」でありながらも
「腕っぷしくらいの太さの望遠鏡」をかついで
ボランティアに奔走する毎日。
でも、巨大望遠鏡はいまだ墜ちたまま、でした。

「もうだめだろう、閉鎖だろうと思いながら、
 ボランティアで講演したりしていました。
 でも、星空観察の仲間とか、
 各地の天文台の天文台長に励まされちゃってね。
 大野さん、やめるなよと。
 もうダメだとあきらめるんじゃなくて
 復興のシンボル的な天文台にしてくれよと。
 じつは阪神淡路大震災のときに、
 兵庫の明石天文台が、壊れちゃったんです。
 あのとき俺らは、
 大変だろうけどぜひ、がんばってもらって
 震災のシンボル的な存在として
 なんとか立ち上がってほしいと声援送ったんです。
 そのときには、
 まさか自分のとこで同じようなことが起こるとは
 思わなかったんだけど‥‥。
 だから今度は、逆に声援をもらっちゃってね。
 天文台なんて、
 どこも余分なお金を持ってるわけないんですよ。
 でも、日本全国の星の仲間たちは
 声だけじゃなく、何十万円と送ってくれたんです。
 おどろいたことに
 ドイツやフランスからも、お金が届きました。
 本当に、ありがたかったですよ。
 そういう機運が高まって、
 みなさんの声が行政のほうへとどいて行って、
 震災から1年後、補助金で
 あたらしい望遠鏡を入れることができたんです」

あたらしい望遠鏡も、650ミリの大きなものでした。
「ありきたりかなとは思ったけど、
 人と人とをつなぐ望遠鏡、
 人と宇宙をつなぐ望遠鏡だから」という理由で
「絆」という名前をつけたそうです。

「これくらいの大きさの望遠鏡になると
 だいたいね、1億2千万円くらいするんです。
 値段が。むちゃくちゃ高いでしょ?
 でも、いちばん高価なのが心臓部の大きな鏡。
 あの部分だけで数千万円するんですが、
 今回、幸いなことに、そこが壊れてなかった。
 割れてもいないし、歪みもない。
 だから、その鏡を再利用するかたちで
 予算を組んでいただいたんです」

宇宙から飛んできた隕石さん(手前)も、途中から取材に同席。

ダメかもしれない、閉鎖かもしれないと思いながら
「やはり続けよう」という
天文台長の気持ちを支えたのは何だったんでしょう?

「閉鎖になるかもしれないと覚悟はしつつも
 一方で、なんとか続けなくちゃと
 地震のすぐあとには思っていたんです。
 ダメかもしれない、でもやらなければという思いが
 心のなかで平行線をたどっていました。
 でも、やっぱり大きかったのは、
 星仲間たちから、観察会やろうよとか、
 いろいろと声をかけてもらったことですね。
 ずいぶん、ちからをもらいました。
 それと、逆説的かもしれないけど、
 俺自身も被災しているってことが
 活動を続ける上では大きかったかもしれない。
 自宅は福島市にあるんだけど、
 あっちもね、こっぴどくやられているんです。
 だから
 『いやあ、大変だったなあ、お互いになあ』なんて
 被災者の人たちと言い合えたこと。
 お互いさま、がんばろうやって励まし合えたことが
 たぶん、すごくよかったよね」

金環日蝕のときも、星の村天文台には
まさしく「老若男女」、たくさんの人が来ていました。
復興のシンボル的な天文台であることや
実際、天文観察するのに素晴らしい環境であることも
たしかにあると思うんですが、
天文台長の人柄が人を呼んでいるんだろうなと
そんなふうに思いました。
とくに、年配のおばあちゃんがけっこういらして‥‥。

「俺、自分で言うのも何なんだけど、
 ちっちゃい女の子と、おばあさんに人気なんです。
 もうちょっと『中間層』ほしいねと
 いつも言ってんだけど(笑)、
 カナダへオーロラを見に行くツアーを企画しても、
 80オーバーのおばあちゃんがくるのよ。
 しかも、たったひとりで。すごいでしょう?
 で、大野さんと行けば
 絶対オーロラが出現するって聞いたよとか言って、
 プレッシャーかけてくるんです。
 金環日蝕の年(2012年)の11月にも
 オーストラリアのケアンズで皆既日蝕があって
 ツアーを組んで行ったんですけど
 そのときもさ、
 大野さんと行けば絶対に大丈夫だからって聞いた、
 みたいな人が何人もいて。
 まあ、結局はね、よーく見えてよかったんだけど、
 泣かれちゃってねえ。
 見えた見えたっていうんで、ギャンギャンと。
 あ、あれは『中間層』の女の子で、よかったなあ。
 子どもとおばあちゃんにばっかり
 すり寄られても‥‥まあ、いいんだけど(笑)。
 ん、録られてるな? わっはっは」

40年間、通いつめた飯舘村に
「ひみつの場所」がある。

じつは大野さん、近隣の福島県飯舘村にも、
星のことで40年間、
「ひそかに」通いつめていたんだそうです。
それはいったい、何をしに?

「あの村、ずっとナイショにしてたんだけど、
 本当に星が綺麗なんです。
 海抜400メートルの高地にあって、
 空気が澄んでいて、田舎でまわりも暗いから、
 星空観察には、うってつけの場所でね。
 でも、経験からして
 星が綺麗なんだって大々的に言ってしまうと
 たくさん人が集まってきちゃう。
 だから、今まではずっと、
 仲間うちの『ひみつの場所』みたいにして
 ひそかに通っては
 観察したり撮影したりしてたんです(笑)。
 その他にも、地元の公民館で講演会をしたり、
 星空の観察会なんかも、
 年に2~3回くらい開催していました。
 震災の3年前には
 飯館に天文台を建てるって動きもあったので
 うちの望遠鏡を2台、寄付したりしてね。
 小惑星を発見すると、
 命名提案権という権利が発生するんだけど、
 俺、知り合いから、飲みの席で
 ある小惑星の命名提案権をもらったんで、
 『Iitatemura』とつけたりもして」

飲みの席でもらった命名提案権で
小惑星に「Iitatemura」と名前をつけるとは‥‥。
なんとも大野天文台長らしいエピソードです。
お聞きしていると、
地元のテレビ局の番組で星空の解説をしたり、
星好きの間では
ずいぶんと若いころから有名だったんだそう。
ひとつおうかがいしたいのですが
ふだん都会に住んでいる人が
田舎で星を見ると、すごくよろこびますよね。
うれしくなるからだと思うんですが、
あれっていったい、どうしてなんでしょうか。

「うーん、そうだねえ。
 やっぱり、
 キラキラしてるからだと思いますよ、星が。
 夜空に光る星っていうのはさ、
 もとをただせば、
 ひとつひとつが太陽みたいな恒星ですよね。
 それも、ずいぶん遠くで輝いている。
 100万光年はなれた星の光は、
 光の速さで100万年、宇宙を飛んできたあとに
 ようやく、
 わたしらの目でキラキラと光るんですよ。
 それが、うれしいじゃないですか。
 望遠鏡をのぞいたら、
 そういう不思議を、目の当たりにできるんです。
 だから、おもしろいんですよね」

震災から1年以上を経て、ようやく設置された天体望遠鏡「絆」。

子どもたちと遠くの星とを、
ここで出逢わせてあげたい。

今後、大野さんは、この天文台や「絆」望遠鏡と
どのような活動をしていきたいですか?

「この星の村天文台は、観光天文台と言って
 天文学者が研究を積む場所ではなく、
 一般の人や子どもたちに向けて、
 星の綺麗さや楽しさ、不思議さを伝えていく、
 そういう場所なんです。
 ですから、これからも、
 専門家ではない、一般の人や子どもたちに
 望遠鏡をのぞきに来てほしい。
 今はインターネットで
 いろんな宇宙の画像を検索できますよね。
 輪っかのついた土星なんかも、
 綺麗で、鮮明な画像がいくらでも出てくる。
 でも、望遠鏡をのぞいたその先に、
 ぼうっとした、
 ちっちゃな土星の姿を見るっていうのは
 もっとこう‥‥「出逢ってる」って感じがする。
 画像を見ているんじゃなく、土星と出逢ってる。
 だからこれからも、たくさんの子どもたちに、
 遠くの星と出逢ってほしいなと思います」

それでは最後に「大野天文台長の好きな星」と
「その理由」を、教えていただけますか。

「え、好きな星? 俺の?
 そうねえ、俺は昔から『彗星』が好きなの。
 ほうき星ね。
 理由は、そうだね、やっぱりさあ、
 いつ見てもちがうかたちをしてるところだよ。
 あるときは、しっぽが3本だったり、
 次の日に見たら2本になってたり。
 どんどん、かたちが移り変わっていくんです。
 同じかたちが、二度とない。
 そのときの姿は、もう、そのときだけの姿。
 そういうところに魅せられちゃって
 何十年も、追いかけているのかもしれないね」

大好きな「アイソン彗星」について語る大野天文台長。うれしそう。

(おわり)

2014-03-11-TUE