捕鯨基地の町に生まれた「くじらかん」。
岩手県下閉伊郡山田町(しもへいぐんやまだまち)。
盛岡を出発した急行バスは、
宮古を経由し3時間ほどかけて、
震災以後不通になっている
JR山田線の岩手船越駅前に到着しました。
国道45号線の東側には、おだやかな山田湾。
沖には、17世紀にオランダ人が錨を下ろしたことから
「オランダ島」と呼ばれる小さな島が。
その手前には、牡蠣や帆立を養殖するための
筏(いかだ)が無数に浮かんでいるのが見えました。
オランダ島と、山田湾の牡蠣の養殖筏。波はおだやか。
駅からも、ふたつの湾からも近い場所に、
町の誇るミュージアム「鯨と海の科学館」があります。
この科学館が生まれたのは、
1992年(平成4年)のことでした。
さらにさかのぼること5年前の
1987年(昭和62年)まで、
捕鯨は、山田町を支えた重要な産業のひとつでした。
親潮と黒潮がぶつかる山田町の沖合は、
とても豊かな漁場で、古来から、湾にはイルカや
オットセイ、トドなども姿をあらわしたといいます。
捕鯨がはじまったのは1949年(昭和24年)。
日東捕鯨という会社が山田町に捕鯨基地をつくり、
全盛期の昭和52年には、マッコウクジラだけで
893頭もの水揚げがあったそうです。
国際捕鯨委員会により、商業捕鯨が禁止になり、
山田町の捕鯨の歴史も幕を閉じます。
同年、偶然にも日東捕鯨が
「たまげるぐらいの大物の」マッコウクジラを捕獲、
40年間山田町にお世話になってきたことへの感謝をこめ、
「骨格標本をつくって、
博物館のようなものがつくれないだろうか」と、
この鯨を町に寄贈することになりました。
捕鯨の町といっても、西日本ほどの捕鯨の歴史はなく、
当時の人口は2万6000人ほどだった山田町。
「鯨の博物館をつくる」ための人材はいませんでしたが、
町役場にあたらしい部署が設けられ、
町の人びとによる建設計画がスタートします。
寄贈されたマッコウクジラは、17.6メートル。
世界でもこのサイズのマッコウクジラを
標本として展示している博物館はありません。
山田町の職員たちは、すでに解体し骨格採集され、
油抜きのために砂浜に埋められていたマッコウクジラを、
掘り起こし、手作業で洗うことから仕事を始めました。
標本づくりの第一歩です。
当時、この標本づくりには、
町の小中学生がおおぜい参加したそうです。
ボランティアとして、イベントとしてはもちろんですが、
この仕事を通じて、未来を担う子どもたちに、
山田町の歴史と、海のたいせつさを理解してほしい、
という気持ちが、つよくあったそうです。
そうして完成した「鯨と海の科学館」は、
巨大な吹き抜けを囲む回廊式の展示スペースに、
最新鋭の科学技術を(なんと、3Dシアターも常設!)
駆使した、体験学習型の施設としてオープン。
巨大なマッコウクジラの骨格標本を擁し、
「三陸海の博覧会」の一会場にもなったことで、
その年の来館者数はなんと12万人をかぞえました。
博覧会が終わると、さすがにそこまでの数の観光客が
訪れることはありませんでしたが、
館の周辺に公園が整備されたこともあって、
「くじらかん」は、
町の人のたいせつなシンボルになりました。
この館で海のことを学んだ地元の子どもたちにとっては、
ここは、もうひとつの学校のような
存在だったのかもしれません。
そして月日が経ち、
湊敏さんが、町から指定管理者の命を受け、
館長として着任すべく、
この「くじらかん」にやってきました。
それは、2010年12月、
震災のわずか3か月前のことでした。
湊敏さん。昭和24年生まれ。若い頃は外国航路の船長を目指した、まさしく海の男。
津波を泳ぎ切ったマッコウクジラが、
館の再生を決意させた。
「震災から9日間、
『くじらかん』には入ることができなかったのです。
なにしろ、押し寄せた瓦礫がすごかった。
近づくことすらできませんでした」
震災当日、湊さんは内陸部の北上市に滞在していました。
奥さんの入院の付添のためです。
北上市もまた、大きな被害を受けましたが、
湊さんはたまたま病院にいたこともあって、無事でした。
病院の自家発電により電気が通り、
テレビの中継も見ることができました。
なにより山田町のことが気掛かりでした。
「けれども、ニュースに乗らないんです。
山田町はちいさな町でしょう。
情報がまったく出てこなかった。
けれども近くの町の状況をみると、
山田町にも大津波が来たであろうことはわかりました」
職員たちと連絡がとれたのは、震災から7日後。
町の壊滅的状況のなかで、みんなの無事が確認できました。
そして9日目、高台にあったことで津波の被害を免れた
観光案内所に集合した、湊さんを含む職員3人で、
「くじらかん」を目指しました。
「瓦礫をかきわけ、登り、降り、
やっとのことでたどり着いたんです」
「くじらかん」は、メインエントランスが、
スロープを上った2階に位置しています。
スロープになっているエントランスを、館の入り口から見る。周辺は以前、公園だった。
エントランスのガラスの壁も、粉々になったまま。
そこから「海中プロムナード」と呼ばれる
長い回廊式(らせん状)の展示スペースをたどり、
1階まで降りるしくみになっています。
メインホールの天井からは、
これから深い海に潜ろうとする
実物大のマッコウクジラの模型が吊るされています。
ダイオウイカと格闘した傷跡まで、正確に再現された模型。高い位置にあるため、これは無事だった。
1階フロアには、泥のなかから回収された収蔵品がずらり。酸化しないよう窒素を充填して保管されている。
「めちゃくちゃでした。
ここは、船越半島の付け根で、
山田湾と船越湾のあいだに位置しています。
どちらの湾にも近いので、
そうとうな量の漂流物が押し寄せたのでしょう。
強化ガラスの窓も割れ、
近くの松林からは、根こそぎの松の木が
積み重なるように流れ着いていました。
館の中は、そんな漂流物や泥で、ぎっしりでした」
ここまでダメージを受けてしまっては、
「くじらかん」の存続は難しいかもしれない。
震災当日から「続けていく」ことを希望にしながらも、
そもそも、入館者は減ってきていた施設、
この機会に、町は閉鎖を決定するかもしれないと
覚悟していたという湊さん。
気掛かりは、メインホールに隣接する常設展示室でした。
天井からステンレスのワイヤーで吊るされているはずの、
マッコウクジラの世界最大の骨格標本です。
そう、「くじらかん」のはじまりとなった
あの骨格標本です。
「‥‥鯨は、無事でした。
大量の海藻や土砂にまみれながらも、
ほぼそのまま、残っていました。
それを見た瞬間、
『続けていける』と確信したんです」
被災後の骨格標本の写真。「まるで怪獣映画のようでした」
町の決定も、湊さんと同じでした。
「くじらかん」は続ける。必ず復旧する。
そのときに、この施設は、町の復興のシンボルになる。
その決定は、山田町にとってとても大きなことでした。
「この鯨は──津波を泳ぎ切ったんですよ」
海は怖いだけのものじゃないということを、
子どもたちに伝えたい。
そこから、職員たちとともに、
瓦礫撤去、館内清掃の日々がはじまりました。
沢水の溜まる場所からポンプで水を引き、
まずは「館内の通路を確保する」ことから始めました。
毎日、カップめんや、差し入れのおにぎりだけで、
誰ひとりとして「疲れた」と言うことなく、
もくもくと作業を続けたそうです。
ゴールデン・ウィークからは、
ボランティアのひとたちの手も借りました。
遠方からやってきてくれたボランティアにまじって、
地元の高校生たちも参加してくれました。
彼らにとっても「くじらかん」は、
広い海を身近に感じさせ、
町への誇りをはくぐんでくれたたいせつな施設。
いっしょに復旧の作業をつづけるなかで、
あの「津波を泳ぎ切った鯨」は、
ひとびとの気持ちを明るい方向に導いてくれました。
「このマッコウクジラを
もういちどみんなに見せたい。
未来の子どもたちに見せたい。
そう、強く思うようになりました」
と、湊さんは当時をふりかえります。
作業日誌が再開できたのは、2011年5月7日からのこと。
マッコウクジラの骨格標本は、
そのままではどんどん劣化していってしまうため、
付着物を取り除き、洗浄し、防カビ処理をして、
いつでも公開できるまでの状態に戻しました。
すっかりきれいになった現在のマッコウクジラ骨格標本。奥の黄色い線の高さまで津波が押し寄せた。
震災から3年。いま高校生くらいの子どもたちは、
徐々に、じぶんたちの力でショックから立ち直ったり、
乗り越えはじめているそうです。
けれども当時まだ小さかった子どもたちのなかには、
いまだに「海が怖い」と言う子もいるそうです。
「あたらしい『くじらかん』での体験を通して、
海は怖いだけのものじゃないということを、
子どもたちに伝えたい。
それが私の、いまの気持ちです」
観光客をたくさん呼ぶことよりも、
まず、地元に愛される施設にしたい。
そう湊さんは考えています。
2014年3月13日には、
「くじらかん」の隣に仮設収蔵庫が完成、
本格的なリニューアル工事にむけて、
事務所の引っ越しも行ないます。
「2016年の4月の
リニューアルオープンを目指します。
その具体的な目標がハッキリして、
いま、また、気持ちが
しゃんとしているところなんですよ」
2年後、子どもたちがもどってきてくれる日を楽しみに。
2014-03-11-TUE