ほぼ日 | 「ジョージさん」のシリーズや 「調味料マニア。」の取材を通して 伊勢丹のいろいろなフロア、部署のみなさんに お目にかかったのですが、 みなさん、あたらしいことを始めることに前向きで、 「伊勢丹らしさ」をだれもが理解していて、 それに基づいてぱっと決断をなさる。 その考え方の根底にあるのが、 じつは、土屋耕一さんが担当なさった時代の 伊勢丹の広告のなかの、ことば、コンセプトに 源流があると知り、 今回、ぜひくわしくお話を伺いたいと思ったんです。 |
伊勢丹
宣伝部 |
ありがとうございます。 土屋さんに伊勢丹の 大きなキャンペーンの広告をお願いしたのは、 1985年までなんです。 その後、1994年に、伊勢丹が、 企業理念を再制定しようというときに、 もういちど力を貸していただいて、 うまれた企業スローガンが、 「毎日が、あたらしい。ファッションの伊勢丹」 というものでした。 |
▲当時、社員に配布された『伊勢丹企業理念』の小冊子の1ページ。 |
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ほぼ日 | いまも使われているスローガンですよね。 |
伊勢丹
宣伝部 |
はい。いまでこそ、「ファッション」というのは 衣食住すべてを包み込む感性のことなんだ、 ということが、理解されていると思いますが、 当時、いきなり「ファッション」といわれても、 ピンとこない社員もいたんですよ。 「自分が担当しているものは、 ファッションではありません‥‥」と。 |
ほぼ日 | 百貨店って、食品から生活雑貨から、 あらゆるものが並んでいますものね。 パリだとかミラノで発表されるような服こそ ファッションだと思ってしまうと、 それを扱っていない人は‥‥。 |
伊勢丹
宣伝部 |
そうなんです。 「ファッションの伊勢丹」というけれど、 「ファッションとはなんだろう?」 というところに、ぶつかってしまう。 そこで、土屋先生に、 社内報で語っていただいたんです。 そのときのインタビュー原稿は、 こんな感じでした。 |
いわゆるファッション──スカート丈とかラインとか
着こなしとかーの背景には
必ず何らかのコンセプトがあります。
よく「今年はナチュラルな着こなしがいい」とか
「リゾート感覚が今シーズンのファッションコンセプト」
とか言うでしょ。コンセプトというのは簡単に言うと
ものごとの基本になる「考え方」、
それも常識をつきぬけた、新しい考え方のことです。
「汗をかくのって、いやね」じゃ普通だけど、
「いい汗をながそう」というのは、
新しいつきぬけた考え方でしょ?
その考えに基づいて暮らせば、
そこに新しいライフスタイルが生まれますよね。
ファッションだって同じことです。
きちんとコンセプトがあれば、
「ナチュラルなファッション」には
「自然指向のライフスタイル」が、
「リゾート感覚のファッション」には
「避暑地気分のライフスタイル」が必ず一緒にあるはず。
この観点から見れば、たとえばゴミ袋だって、
赤ちゃんのおむつだって
どこかでファッションとつながっているのです。
つまりファッションの背景にあるコンセプトを
理解することで、あらゆる商品
──それらしくない商品も含めて──が
“ファッション”に仲間入りできるんです。
土屋耕一さんインタビューより抜粋)
着こなしとかーの背景には
必ず何らかのコンセプトがあります。
よく「今年はナチュラルな着こなしがいい」とか
「リゾート感覚が今シーズンのファッションコンセプト」
とか言うでしょ。コンセプトというのは簡単に言うと
ものごとの基本になる「考え方」、
それも常識をつきぬけた、新しい考え方のことです。
「汗をかくのって、いやね」じゃ普通だけど、
「いい汗をながそう」というのは、
新しいつきぬけた考え方でしょ?
その考えに基づいて暮らせば、
そこに新しいライフスタイルが生まれますよね。
ファッションだって同じことです。
きちんとコンセプトがあれば、
「ナチュラルなファッション」には
「自然指向のライフスタイル」が、
「リゾート感覚のファッション」には
「避暑地気分のライフスタイル」が必ず一緒にあるはず。
この観点から見れば、たとえばゴミ袋だって、
赤ちゃんのおむつだって
どこかでファッションとつながっているのです。
つまりファッションの背景にあるコンセプトを
理解することで、あらゆる商品
──それらしくない商品も含めて──が
“ファッション”に仲間入りできるんです。
たとえば普段使いの1枚のお皿。
お皿はあくまでお皿でしかありませんが、
それをたとえば「ナチュラルなライフスタイルが良い」
と言うコンセプトに基づいて売場で展開すれば、
そのお皿は「ナチュラルなライフスタイルが良い」
という提案に参加したことになります。
おしょうゆとか、家で食べるお菓子とか、和装小物とか、
一見ファッションとは関係の薄そうなモノを選ぶときにも、
新鮮なライフスタイルに関わりを持つことで、
モノには生命感が生まれてきます。
“ファッション”とは、このように
モノに新しい生命感を与えることなのです。
コンセプトを理解し、
ライフスタイルにどのように
関わることができるかを考えることで、
そのままでは単なるモノにすぎなかった商品が
時代の空気を呼吸しはじめるのです。
土屋耕一さんインタビューより抜粋)
伊勢丹
宣伝部 |
そして、1996年から97年にかけて、 土屋さんに、ご自身がつくられた広告を選んでいただき、 解説をしていただいた、社内報の連載があります。 これも、全社員に、企業理念をすみずみまで伝える、 そのためのものでした。 12枚のポスターは、伊勢丹が選んだわけではなくて、 「僕が選ぶよ」ということで、 土屋さんセレクションなんです。 お別れの会で、奥さまにそのお話をしたら、 土屋さんはそんなことはまずなさらないかたなので、 とてもめずらしいことだとおっしゃっていました。 |
ほぼ日 | 今回は、それを題材にして、 当時のことをよく知っている、 伊勢丹のOBである徳光次郎さんと、 土屋さんの最後の弟子であるマツヤマジュンコさんに 加わっていただき、 いろいろとお話をうかがいます。 ぜひよろしくお願いします。 |
徳光 | こちらこそどうぞよろしくお願いします。 |
マツヤマ | 私は当時のことをよく知りませんから、 いっしょに勉強させていただけたらと思います。 どうぞよろしくおねがいいたします。 |
ほぼ日 | 伊勢丹さんと土屋さんの出会いから、 聞かせて頂けますか。 |
徳光 | さかのぼると──1960年代に入ると、伊勢丹は、 ファッションのキャンペーンを始めます。 その広告は、毛利彰さんのイラストで 表現するというものでした。 それを担当する広告代理店がひとつあり、 それとは別に、紳士服の広告を担当する代理店もあった。 そしてその頃、伊勢丹は、婦人服と紳士服を メインでやりながらも、 リビングを手を付けようということになりました。 その広告をお願いしたのが、 ライトパブリシティという会社で、 そこに、土屋耕一さんが、 トップコピーライターとして、いらっしゃったんです。 |
ほぼ日 | はい。 |
徳光 | ぼくが土屋さんに驚いたのは、 1965年の「伊勢丹家庭用品シリーズ」です。 伊勢丹で、左利きのかたのための いろんな調理道具を作ったんですよ。 伊勢丹研究所の、土屋さんとも仕事をしていた ベテランの女性研究員たちが、 「左手で料理する人だっているんだから、 左手用の包丁を作るべきだ」と。 その広告コピーを、土屋さんが書かれました。 「さあ奥様左手をどうぞ」。 それが衝撃的でね。すっごいなぁと思って。 のちにぼくが宣伝部に配属になったとき、 過去の広告の作品ファイルを見て出会った、 いちばん印象的な広告でした。 |
徳光 | その時、すでに土屋さんは大先生でした。 東レの広告で「バカンス」っていう言葉を広めた人だった。 (註:1963年 東レ「バカンスルック」) 夏休みじゃなく、バケーションでもなく、 「バカンス」。そういうことをやられてたんで、 大変有名な方なのは知ってたんですけど、 僕ら、土屋さんのこと、 先生という意識がなくてね(笑)。 土屋さんも、先生って呼ばれるの、嫌がりましたし。 だからいつも、「土屋さん、土屋さん」ってね。 |
マツヤマ | はい、私が土屋さんの仕事場で お世話になっていた頃も、 「先生って呼ばないでいいから」って おっしゃっていましたね。 |
徳光 | ぼくは、1969年に入社して、 70年に宣伝に配属になりました。 土屋さんとお仕事をさせていただいたのは、 まだまだ新入社員のころから。 本来は、土屋さんのことを語るべき人は、 僕じゃないんですよ。 もう1人、伊勢丹に 山口道恵さんっていう先輩がいたんです。 土屋さんの気持ちをよく理解して、 売場が何を言おうと、山口さんがいったん預かり、 土屋さんには余計なことを言わなかった。 そういう人でした。 残念ながら、2、3年前に亡くなりました。 |
マツヤマ | 山口さんのことは、私も存じ上げています。 とても素敵な方で。土屋さんと、 本当に強い信頼関係がある方だなあと思っていました。 |
徳光 | そう、彼女がいなければ、土屋さんも、 ここまで伊勢丹のことをやってくれなかったと思います。 ある程度進んでからは、当然、 伊勢丹自体も進化していったんで、 土屋さん自身もおもしろくなって、 いろいろと応援してくれたんですけれども。 そうして、できたのが、この広告です。 |
1970年代に伊勢丹がくりひろげた、 ライフスタイル広告の、 その歴史的な第一歩となった全10段です。 1972年6月、第4回 HOW TOリビング展の キャッチフレーズとして制作したもの。 テーブルや椅子をデザインする、その出発点に 「これからの私たちの暮らしは、どうなるんでしょう」 という問いかけが存在しています。 そして、その問いかけに対する解答というカタチで この展覧会が位置しています。 伊勢丹は、このあと、1970年代を通して、 ずっと同じ問いかけをくり返しました。 そして、人間の暮らしを見つめつづけたのです。 (文:土屋耕一 伊勢丹社内報 1996年4月号より) |
徳光 | これが1972年です。 当時、伊勢丹は、 「HOW TO リビング展」というのをはじめていました。 年に1回、リビングフロアに特設会場を設けて、 「どうやって暮らしたらいいか」というテーマで、 展覧会みたいな形で家具を売ったんですね。 まさに、「世の中、テレビを見なきゃ何も語れない」 というような時代です。 当時は百貨店でテレビを売ってたんですよ。 電気売場は、百貨店の中で、 売り上げもリビングフロアでは 大きなシェアを占めていた。 そういう時に、 「テレビがリビングの真ん中にあるのは おかしいんじゃないの?」という提案をした。 「テレビを消さないと、 生活の仕方って、わからなくなっちゃうよ?」と。 |
ほぼ日 | たしかに、世相を見ると、1972年というのは、 横井正一さん、札幌オリンピック、 連合赤軍、浅間山荘、新幹線開通。 テレビに釘づけの年ですよね。 |
徳光 | でしょう。みんなテレビを見ていた。 それこそ、テレビに緞帳ぶら下げるような、 そんな時代です。いわゆる家具調のテレビで、 だから、家具売り場としては 「『テレビを消した』っていうのは、 まずいんじゃないか?」 という話も出たほどでした。 |
伊勢丹
宣伝部 |
土屋さんに直接お聞きした話で言うと、この当時は、 「カラーテレビが、日本全国の家庭に 入り切った時なんだよ」と。 |
徳光 | そうかもしれないね、ちょうどね。 |
伊勢丹
宣伝部 |
「夕食を食べる時にも、みんな、食卓で、 テレビを見ながら、話もしないで、見てるんだよ」。 そのアンチテーゼですよね。 「だから『HOW TO リビング展』っていうのは、 テレビを消した生活があるっていうことを考える 1週間なんだ、っていう意味でもある」 っておっしゃってました。 「その提案をしたいんだ」と。 |
徳光 | 衝撃でしたよ。僕、やってみましたもん。 「『テレビを消した一週間』って、 どんなふうになるんだろう」と。 そこから、この「HOW TO リビング展」は、 ものすごく性格がはっきりしてきたんです。 この広告は、制作は全部ライトパブリシティで、 土屋さんは、ご自分で事務所を作られた頃で、 フリーの立場で関わっていた。 伊勢丹としても、じゃあ、本格的に、 伊勢丹の専属っていうか、 「伊勢丹のことをもっと徹底的に見てくれませんか」 という流れに入っていくんです。 |
1月・グアム島で元日本兵、横井庄一さん発見
2月・冬季札幌オリンピック
・連合赤軍「浅間山荘」事件
3月・山陽新幹線、新大阪──岡山間開通
4月・川端康成、ガス自殺
5月・沖縄、日本に返還
8月・ミュンヘンオリンピック
9月・日中国交回復
・「時計じかけのオレンジ」
・「ゴッド・ファーザー」
・「ダーティ・ハリー」
・「わらの犬」
・「キャバレー」
・「フェリーニのローマ」
・「男はつらいよ・柴又慕情」
・「忍ぶ川」
・「木枯らし紋次郎」
・「太陽にほえろ!」
・「セサミストリート」
・「科学忍者隊ガッチャマン」
・「必殺仕事人」
・「新・平家物語」
・「オーケストラがやってきた」
・「中学生日記」
・「嗚采」(ちあきなおみ)
・「ひなげしの花」(アグネス・チャン)
・「学生街の喫茶店」(ガロ)
・「結婚しようよ」(吉田拓郎)
・「ママに捧げる詩」(ニール・リード)
・「スーパー・スター」(カーペンターズ)