POSTER 1 1972年テレビを消した一週間。
ほぼ日 「ジョージさん」のシリーズや
「調味料マニア。」の取材を通して
伊勢丹のいろいろなフロア、部署のみなさんに
お目にかかったのですが、
みなさん、あたらしいことを始めることに前向きで、
「伊勢丹らしさ」をだれもが理解していて、
それに基づいてぱっと決断をなさる。
その考え方の根底にあるのが、
じつは、土屋耕一さんが担当なさった時代の
伊勢丹の広告のなかの、ことば、コンセプトに
源流があると知り、
今回、ぜひくわしくお話を伺いたいと思ったんです。
伊勢丹
宣伝部
ありがとうございます。
土屋さんに伊勢丹の
大きなキャンペーンの広告をお願いしたのは、
1985年までなんです。
その後、1994年に、伊勢丹が、
企業理念を再制定しようというときに、
もういちど力を貸していただいて、
うまれた企業スローガンが、
「毎日が、あたらしい。ファッションの伊勢丹」
というものでした。


▲当時、社員に配布された『伊勢丹企業理念』の小冊子の1ページ。

ほぼ日 いまも使われているスローガンですよね。
伊勢丹
宣伝部
はい。いまでこそ、「ファッション」というのは
衣食住すべてを包み込む感性のことなんだ、
ということが、理解されていると思いますが、
当時、いきなり「ファッション」といわれても、
ピンとこない社員もいたんですよ。
「自分が担当しているものは、
 ファッションではありません‥‥」と。
ほぼ日 百貨店って、食品から生活雑貨から、
あらゆるものが並んでいますものね。
パリだとかミラノで発表されるような服こそ
ファッションだと思ってしまうと、
それを扱っていない人は‥‥。
伊勢丹
宣伝部
そうなんです。
「ファッションの伊勢丹」というけれど、
「ファッションとはなんだろう?」
というところに、ぶつかってしまう。
そこで、土屋先生に、
社内報で語っていただいたんです。
そのときのインタビュー原稿は、
こんな感じでした。

いわゆるファッション──スカート丈とかラインとか
着こなしとかーの背景には
必ず何らかのコンセプトがあります。
よく「今年はナチュラルな着こなしがいい」とか
「リゾート感覚が今シーズンのファッションコンセプト」
とか言うでしょ。コンセプトというのは簡単に言うと
ものごとの基本になる「考え方」、
それも常識をつきぬけた、新しい考え方のことです。
「汗をかくのって、いやね」じゃ普通だけど、
「いい汗をながそう」というのは、
新しいつきぬけた考え方でしょ?
その考えに基づいて暮らせば、
そこに新しいライフスタイルが生まれますよね。
ファッションだって同じことです。
きちんとコンセプトがあれば、
「ナチュラルなファッション」には
「自然指向のライフスタイル」が、
「リゾート感覚のファッション」には
「避暑地気分のライフスタイル」が必ず一緒にあるはず。
この観点から見れば、たとえばゴミ袋だって、
赤ちゃんのおむつだって
どこかでファッションとつながっているのです。
つまりファッションの背景にあるコンセプトを
理解することで、あらゆる商品
──それらしくない商品も含めて──が
“ファッション”に仲間入りできるんです。

たとえば普段使いの1枚のお皿。
お皿はあくまでお皿でしかありませんが、
それをたとえば「ナチュラルなライフスタイルが良い」
と言うコンセプトに基づいて売場で展開すれば、
そのお皿は「ナチュラルなライフスタイルが良い」
という提案に参加したことになります。
おしょうゆとか、家で食べるお菓子とか、和装小物とか、
一見ファッションとは関係の薄そうなモノを選ぶときにも、
新鮮なライフスタイルに関わりを持つことで、
モノには生命感が生まれてきます。
“ファッション”とは、このように
モノに新しい生命感を与えることなのです。
コンセプトを理解し、
ライフスタイルにどのように
関わることができるかを考えることで、
そのままでは単なるモノにすぎなかった商品が
時代の空気を呼吸しはじめるのです。

(伊勢丹社内報 1994年の、
 土屋耕一さんインタビューより抜粋)
伊勢丹
宣伝部
そして、1996年から97年にかけて、
土屋さんに、ご自身がつくられた広告を選んでいただき、
解説をしていただいた、社内報の連載があります。
これも、全社員に、企業理念をすみずみまで伝える、
そのためのものでした。
12枚のポスターは、伊勢丹が選んだわけではなくて、
「僕が選ぶよ」ということで、
土屋さんセレクションなんです。
お別れの会で、奥さまにそのお話をしたら、
土屋さんはそんなことはまずなさらないかたなので、
とてもめずらしいことだとおっしゃっていました。
ほぼ日 今回は、それを題材にして、
当時のことをよく知っている、
伊勢丹のOBである徳光次郎さんと、
土屋さんの最後の弟子であるマツヤマジュンコさんに
加わっていただき、
いろいろとお話をうかがいます。
ぜひよろしくお願いします。
徳光 こちらこそどうぞよろしくお願いします。
マツヤマ 私は当時のことをよく知りませんから、
いっしょに勉強させていただけたらと思います。
どうぞよろしくおねがいいたします。
ほぼ日 伊勢丹さんと土屋さんの出会いから、
聞かせて頂けますか。
徳光 さかのぼると──1960年代に入ると、伊勢丹は、
ファッションのキャンペーンを始めます。
その広告は、毛利彰さんのイラストで
表現するというものでした。
それを担当する広告代理店がひとつあり、
それとは別に、紳士服の広告を担当する代理店もあった。
そしてその頃、伊勢丹は、婦人服と紳士服を
メインでやりながらも、
リビングを手を付けようということになりました。
その広告をお願いしたのが、
ライトパブリシティという会社で、
そこに、土屋耕一さんが、
トップコピーライターとして、いらっしゃったんです。
ほぼ日 はい。
徳光 ぼくが土屋さんに驚いたのは、
1965年の「伊勢丹家庭用品シリーズ」です。
伊勢丹で、左利きのかたのための
いろんな調理道具を作ったんですよ。
伊勢丹研究所の、土屋さんとも仕事をしていた
ベテランの女性研究員たちが、
「左手で料理する人だっているんだから、
 左手用の包丁を作るべきだ」と。
その広告コピーを、土屋さんが書かれました。
「さあ奥様左手をどうぞ」。
それが衝撃的でね。すっごいなぁと思って。
のちにぼくが宣伝部に配属になったとき、
過去の広告の作品ファイルを見て出会った、
いちばん印象的な広告でした。
徳光 その時、すでに土屋さんは大先生でした。
東レの広告で「バカンス」っていう言葉を広めた人だった。
(註:1963年 東レ「バカンスルック」)
夏休みじゃなく、バケーションでもなく、
「バカンス」。そういうことをやられてたんで、
大変有名な方なのは知ってたんですけど、
僕ら、土屋さんのこと、
先生という意識がなくてね(笑)。
土屋さんも、先生って呼ばれるの、嫌がりましたし。
だからいつも、「土屋さん、土屋さん」ってね。
マツヤマ はい、私が土屋さんの仕事場で
お世話になっていた頃も、
「先生って呼ばないでいいから」って
おっしゃっていましたね。
徳光 ぼくは、1969年に入社して、
70年に宣伝に配属になりました。
土屋さんとお仕事をさせていただいたのは、
まだまだ新入社員のころから。
本来は、土屋さんのことを語るべき人は、
僕じゃないんですよ。
もう1人、伊勢丹に
山口道恵さんっていう先輩がいたんです。
土屋さんの気持ちをよく理解して、
売場が何を言おうと、山口さんがいったん預かり、
土屋さんには余計なことを言わなかった。
そういう人でした。
残念ながら、2、3年前に亡くなりました。
マツヤマ 山口さんのことは、私も存じ上げています。
とても素敵な方で。土屋さんと、
本当に強い信頼関係がある方だなあと思っていました。
徳光 そう、彼女がいなければ、土屋さんも、
ここまで伊勢丹のことをやってくれなかったと思います。
ある程度進んでからは、当然、
伊勢丹自体も進化していったんで、
土屋さん自身もおもしろくなって、
いろいろと応援してくれたんですけれども。
そうして、できたのが、この広告です。

テレビを消した一週間。
1970年代に伊勢丹がくりひろげた、
ライフスタイル広告の、
その歴史的な第一歩となった全10段です。
1972年6月、第4回 HOW TOリビング展の
キャッチフレーズとして制作したもの。
テーブルや椅子をデザインする、その出発点に
「これからの私たちの暮らしは、どうなるんでしょう」
という問いかけが存在しています。
そして、その問いかけに対する解答というカタチで
この展覧会が位置しています。
伊勢丹は、このあと、1970年代を通して、
ずっと同じ問いかけをくり返しました。
そして、人間の暮らしを見つめつづけたのです。

(文:土屋耕一
 伊勢丹社内報 1996年4月号より)
徳光 これが1972年です。
当時、伊勢丹は、
「HOW TO リビング展」というのをはじめていました。
年に1回、リビングフロアに特設会場を設けて、
「どうやって暮らしたらいいか」というテーマで、
展覧会みたいな形で家具を売ったんですね。
まさに、「世の中、テレビを見なきゃ何も語れない」
というような時代です。
当時は百貨店でテレビを売ってたんですよ。
電気売場は、百貨店の中で、
売り上げもリビングフロアでは
大きなシェアを占めていた。
そういう時に、
「テレビがリビングの真ん中にあるのは
 おかしいんじゃないの?」という提案をした。
「テレビを消さないと、
 生活の仕方って、わからなくなっちゃうよ?」と。
ほぼ日 たしかに、世相を見ると、1972年というのは、
横井正一さん、札幌オリンピック、
連合赤軍、浅間山荘、新幹線開通。
テレビに釘づけの年ですよね。
徳光 でしょう。みんなテレビを見ていた。
それこそ、テレビに緞帳ぶら下げるような、
そんな時代です。いわゆる家具調のテレビで、
だから、家具売り場としては
「『テレビを消した』っていうのは、
 まずいんじゃないか?」
という話も出たほどでした。
伊勢丹
宣伝部
土屋さんに直接お聞きした話で言うと、この当時は、
「カラーテレビが、日本全国の家庭に
 入り切った時なんだよ」と。
徳光 そうかもしれないね、ちょうどね。
伊勢丹
宣伝部
「夕食を食べる時にも、みんな、食卓で、
 テレビを見ながら、話もしないで、見てるんだよ」。
そのアンチテーゼですよね。
「だから『HOW TO リビング展』っていうのは、
 テレビを消した生活があるっていうことを考える
 1週間なんだ、っていう意味でもある」
っておっしゃってました。
「その提案をしたいんだ」と。
徳光 衝撃でしたよ。僕、やってみましたもん。
「『テレビを消した一週間』って、
 どんなふうになるんだろう」と。
そこから、この「HOW TO リビング展」は、
ものすごく性格がはっきりしてきたんです。
この広告は、制作は全部ライトパブリシティで、
土屋さんは、ご自分で事務所を作られた頃で、
フリーの立場で関わっていた。
伊勢丹としても、じゃあ、本格的に、
伊勢丹の専属っていうか、
「伊勢丹のことをもっと徹底的に見てくれませんか」
という流れに入っていくんです。


1972年(昭和47年)はこんな年

1月・グアム島で元日本兵、横井庄一さん発見
2月・冬季札幌オリンピック
  ・連合赤軍「浅間山荘」事件
3月・山陽新幹線、新大阪──岡山間開通
4月・川端康成、ガス自殺
5月・沖縄、日本に返還
8月・ミュンヘンオリンピック
9月・日中国交回復


・「時計じかけのオレンジ」
・「ゴッド・ファーザー」
・「ダーティ・ハリー」
・「わらの犬」
・「キャバレー」
・「フェリーニのローマ」
・「男はつらいよ・柴又慕情」
・「忍ぶ川」


・「木枯らし紋次郎」
・「太陽にほえろ!」
・「セサミストリート」
・「科学忍者隊ガッチャマン」
・「必殺仕事人」
・「新・平家物語」
・「オーケストラがやってきた」
・「中学生日記」


・「嗚采」(ちあきなおみ)
・「ひなげしの花」(アグネス・チャン)
・「学生街の喫茶店」(ガロ)
・「結婚しようよ」(吉田拓郎)
・「ママに捧げる詩」(ニール・リード)
・「スーパー・スター」(カーペンターズ)
2013-08-08-THU