吉本 |
僕らの職業は
「お前なんか、ただ
ものを考えたとか書いたとか、
そういうことをしてるだけじゃないか」
という批判を、いつでもされます。
こういうことで僕がいつでも考えるのは、
マルクスのことです。
マルクスはすごい人だけど、
人間的にも偉いです。
「お前なんか」という批判に対して
マルクスは、
「やはり著作家といえども、
自己の著作のために
死ぬことだってあり得るんだ」
と言ってるんです。
自分の書いたものは
それだけの思いでもって書いているよ、と
言ってるんだと思います。
マルクスは、そういう言い方を
ちゃんとできてます。
だけど、僕がそんなことを言うと、
お前はバカかと言われるだけだと思います。
それは物書きとして言い切るべきことですし、
理想ですが、
そう言い切るだけの自信が
僕にはないです。
だからこそ、そういう思いに
いつでも直面させられている、と言えます。
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糸井 |
なるほど。 |
吉本 |
これはしょうがないのでね。
因果だとか宿命だとか、
そういうふうにでも言っておくより
しょうがないんじゃないかと思います。 |
糸井 |
マルクスをはじめ、親鸞、漱石。
吉本さんの取り上げる作家や思想家は、
みんな強烈な知識人です。
吉本さん自身も、やっぱりそうだと思います。
「吉本とはいったい何だろう」と
考えている人たちが
吉本さんの発言によって、ドッと動きますし、
「ほぼ日」の読者の方も、
吉本さんの言葉に豊かな反応を示します。
しかし、吉本さんを「わかる」というのは、
ある知識の前提が要ると
やっぱり思われているんじゃないかと思います。
僕もきっと、吉本さんの言っていることを
急におもしろいと思えなかったと思うんです。
僕のとっかかりというのは、なんだったのか‥‥。 |
吉本 |
とっかかりの問題を、
全部の問題と考えると解けないです。
だけど、どう言ったらいいでしょう。
「知識」ということについては、
いちばん例がやさしいから
この説明をしてみます。
昔の中国のように
知識人が政治集団として存在し、
それはわりあいに単色で、
あとはみんな大衆だという状態がありました。
中国ばかりでなく、
昔の東洋的な社会、みんなそうです。
同等で密着しているか、
そうじゃなければあまりに隔たりが大きいために、
一方のことは問題にせずにすんでいる社会で、
日本も少し前までは、そうだったわけです。
ところが、現在の状況というのは、
そうじゃないと思います。
知識人と大衆の区別が
現在の日本ではほとんどつかない状態に
なっています。
そこで、いろんなことが起こってきていると
僕は思います。
例えば、道具の発明について言えば、
発明した奴は発明した奴で、
「使ってる奴は大衆だよ。
俺が発明したものを使ってるんだよ」
と思っているところがあるわけです。
ところが、使っているほうから言えば、
「あいつの考えたものをうまく使ってる」
という意識かもしれません。
それが染物職人であるとすれば、
どうやったらいちばんよく染められるかとか、
濃度や温度をどうしたら
いちばん純粋な色が出るかとか、
そこは俺のほうが専門だからな、と
思っていると思います。
染物職人じゃなくても、それと同じことを、
みなさんの仕事だって、
ちゃんとやっているんです。
何も知識の専門家だけを、
「専門家だ、あの人は」という必要もありません。
そんなことで威張っているのはけしからん、
というのが普通であってね。
それだけのことじゃないでしょうか。
染物職人のことは、ときどきなら
テレビで見られますけれども、
染物の技術の細かなところまで
僕たちが見ることは
そうそうありません。
だから、普通の人に、なかなか
わからないだけであってね。
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糸井 |
もし「染物批評」が、盛んな世の中であったら。 |
吉本 |
そうそう。だけど、知識の専門家は
テレビに出てよくしゃべって
「すごいな」と思われる機会も多いでしょう。
何十年か職業として自分がやって、
それで生活費を得て生きてきたという、
それだけのことがあれば、
その人は、そのことについて、
威張っていっこうに差し支えないはずです。
(月曜日に続きます)
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