糸井 |
どう、ですかね、手応えは?
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宮藤 |
いやぁ、わかんないですね。
じぶんでは完成した映画を見すぎて。
途中で何回も見ちゃったんで、
まだまったく達成感がないんですよ。
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糸井 |
そういうものですか。
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宮藤 |
初号って、スタッフが見てるから
あんまり笑わないんですよね。
それでちょっと落ち込んだりして。
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糸井 |
まだお客さんが映画を見てるところは
見てないんですね。
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宮藤 |
見てないです。
試写を見終わった後のお客さんの顔は
見たことあるんですけど、けっこう、
グッタリしてましたね(笑)。
あ、そんなこと言っちゃいけないですね。
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糸井 |
いや、そういうところも含めて、
おもしろいよ。大丈夫!
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宮藤 |
あ、ありがとうございます。
最近の映画って、
恋愛映画です、と言われて見に行くと
本当に恋愛映画だったりしますよね。
それがまぁ、あたり前なんですけど、
かならずしも
そうじゃない映画があっても
いいかなぁって思うところもあるんです。
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糸井 |
この映画にかんしては
白黒はっきりせい! って
言いにくいものがありますよね。
たとえば、
上野動物園のサル山を見に行って、
サルがこっち向いてないからと言って
怒る人はいないですよね。
手を振ってくれなかった! って。
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宮藤 |
あ(笑)。はいはい。
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糸井 |
この映画には
サルがお客の目を盗んで交尾してたりね、
そういうことが満載ですよね!
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宮藤 |
サルは好き勝手ですからねぇ(笑)。
そうですね、そういう意味では
サービスしすぎて、
結果的にサービスできてないような。
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糸井 |
そういう印象があるかもしれないですね。
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宮藤 |
ええ。近くにずーーっといる感じ。
サルが(笑)。
ぜんぜんありがたみがないっていうか。
ずーーっと、顔の前にサルがはりついてて
「お前、もういいよ!」みたいな。
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糸井 |
そうそうそう!
視界をさえぎっちゃう、みたいな。
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宮藤 |
はい。ふははは。
試写を見たお客さんたちは
見終わった後、ホント疲れてたんですよ。
だから、2回目からは
お客さんに
「見終わった後は
クタクタになると思います。
すいません」ってことを
上映前に言うようにしました。
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糸井 |
お客さんには「ゆるく見てくれよ」って
言っておきたい感じだよね。
今のアメリカ映画って、
話の内容、超単純につくってますよね。
その都度どっかんどっかん盛り上がればいい、
というようなつくり方になってますけど、
それって、映画館を
みんなで集まってたのしもうぜ、
というような場所のひとつとして
とらえているような観客を
相手にしているってことらしいですよ。
いつもの飲み屋に集まるみたいに、映画館に集まる、
っていうような場所になってるって、
ま、ごく一部の情報通の話なんですけどね。
この映画を、そういうふうに
アメリカの映画館的に見てくれた日にゃぁ、
100回くらい見られますよね。
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宮藤 |
あははは! たしかにそうですね。
だいたいぼくの書くドラマは
録画して好きなシーンを
何回も見るタイプのものが
多いですからね、そういうのがいいかも。
ぼく、ひょっとして向いてるのは
アメリカかもしれないですね(笑)。
原作のしりあがりさんの漫画も
わけがわからないままに展開していく
ゆるさがいいですよね。
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糸井 |
あれ、まともに真正面から向き合ったら、
ちょっとつらいですよ。
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宮藤 |
ええ。だから原作の漫画を読むときの
ゆる〜い気持ちで
映画も見ていただきたいと
思ってるんです。
それでいて、そのゆるさのなかにある、
「一寸先は闇」のようなところで
四苦八苦する若者を描きたい
という気持ちもあったので
そのあたりも見ていただきたいですね。
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糸井 |
原作者としては、この映画はどうですか?
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しり
あがり |
ひとことで言うと
「わけのわかんない映画」ですよね。
あ、それはぼくの原作のせいか(笑)。
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糸井 |
わけわかんない、っていうのが
おたがいのほめ言葉に
なっちゃってる感じだね。
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しり
あがり |
宮藤さんが監督をしてくれるというだけで
うれしかったし、楽しみでした。
このわけわかんないものを
どう料理してくれるんだろうって。
できあがったものを見て、
もう、ほんとうにおもしろかったですね。
原作の辛気臭いところが
若返った感じもあって。
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宮藤 |
しりあがりさんの描く『弥次喜多』は、
漫画でしかできないことを
やってらっしゃるので、
それをそのまんま映像にしたら、
ぜったいかなわないだろうって
思ってたんですよね。
『弥次喜多』を映画でやるって言ったら
いろんな人から
アニメですか? とか
オールCGですか? と聞かれました。
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糸井 |
映像にできるかい? っていうような
原作ですもんね。
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しり
あがり |
原作を描きはじめたのは
10年くらい前なんですけど
その頃は、世間が
「リアルが足りない」ということを
悩んでたような感じがしてたんです。
だからぼくは
リアルじゃなくてもいいじゃないか、
わけがわからなくてもいい、という物語を
描きたかったんですよね。
わけのわからない物語を描くのに
(十返舎一九の)『弥次喜多』って
すごくいい入れ物だなって思ったんです。
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糸井 |
『弥次喜多』のもつ暗さって、
江戸時代のいろんな文化に
なんとなく匂っている感じですよね。
浮世絵にしてもなんにしても。
美人画の向こう側には
じつはとても好色なものが隠れていたり。
なにか裏側を感じさせるものが
ありますよね。
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宮藤 |
男同士がつき合うということも、
今とはまた意味が違いますよね。
奥さんがいても平気でよそに男がいたり。
今ちょっと考えられないですけど、
うまいことできてるなって思いましたね。
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しり
あがり |
映画の『弥次喜多』もそうですけど、
暗いところも明るいところも両方あって
どっちも切り捨てないで
ごっちゃに受け止めてるあたりが
すごくいいですよね。
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宮藤 |
ぼくがしりあがりさんの原作を読んで
とくに衝撃を受けたのが
三途の川を挟んで
生と死が別れてるところなんです。
「死」の世界から
「生」の世界に戻るために
「川を渡る」んじゃなくて
「さかのぼる」という発想です。
そこにいちばんしびれました。
なんてすごいこと考える人なんだと思って。
それを映画でも
どうしてもやりたかったんですよ。
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糸井 |
あのシーンは圧巻ですよね。
映画館で見て、「おお〜!」と思った。
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しり
あがり |
映画でああいう解釈をしたのには
驚きましたね。
原作ではぼかしてるんですけど。
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宮藤 |
生と死、
夢と現実の境目がわからなくなる、
男と女もそうですけど、
ぜんぶ間があやふやな世界のなかで、
最後にリアルっていうのはなんだ?
っていうのを、
弥次さん喜多さんの2人が
1個見つければいいや、
って映画にしたかったんですよね。
もうひとつ原作を読んで思ったことは、
弥次喜多の2人は、
離ればなれになったとたんに
急にドラマチックになるんですよね。
2人そろってるとドラマが起きない。
映画でもそれを意識しました。
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しり
あがり |
そうですね。
2人ともドラマの傍観者みたいに
なっていっちゃうんですよね。
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糸井 |
ああ、そうだね! たしかにそうだ。
ってことは、
この2人がただ「いる」状態というのが
もう完成された‥‥。
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宮藤 |
「幸せ」っていうことなんですよね。
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(つづきます)
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