『中国の職人』
『まえがき』
この本に登場していただく6人は、いずれも中国工芸美術大師である。日本でいえば無形文化財、人間国宝にあたる人達だ。このなかで一番年長が茶壺、盆栽用鉢作りの徐漢棠師で1932年(昭和7年)生まれ。弟で茶壺への彫り物や陶塑作りの徐秀棠師が1937年(昭和12年)、景徳鎮で青花分水という独自の彩色を完成させた黄売九師が1938年(昭和13年)、恵山泥人形の喩湘蓮師が1940年(昭和15年)、同じく人形の彩色や小道具、仕上げの王南仙師が1941年(昭和16年)、一番若い周桂珍さんが1943年(昭和18年)生まれである。
昭和6年に満州事変が起き、7年に満州国建国を宣言している。漢棠師はこの年の生まれである。弟の秀棠師は日中戦争が始まった12年生まれだ。一番若い周師が生まれた18年頃は最も戦争が激しかったとき。みなさんが日中戦争の最中に生まれ育った方々だ。
敢えてこの時代の人を選んだわけではなかったが、お話を聞き、そのことがわかったのである。
私ははじめ中国の徒弟制度や物づくりが戦争や社会主義国家化、文化大革命、市場開放とめまぐるしく変わる中で、今にどうつながっているのかを知りたくて、1999年から毎年中国に通って職人達の話を聞いてきたのだが、彼らが生きた時代のことを知らなすぎた。私がこの人達の話を理解しようと思って調べた中国の政治的背景や事件を、聞き書きの間に挟んである。彼らが話してくれた背景はこういうことではなかったかと思われることを、注釈のように入れてある。
歴史は過去のものではなく、今につながっている。それ故に、解釈や判断はさまざまに変わっていく。それを承知の上で、入れた注釈である。不要の方はとばして読んでいただければいい。
少々、この人達が生まれるまでの中国の事情を簡単に説明しておく。
日中戦争は、昭和20年(1945年)に終わった。この戦争の前に、中国との間には1894年に始まった日清戦争がある。中国の人達と話していると、侵略という言葉は、私たちには遠い昔の話に思われる日清戦争から始まっていると気づかされる。
1894年に日本は清と戦争になった。翌年、講和条約を結んだ。中国から見れば、敗戦の賠償は法外な要求であった。清国の滅亡はその後すぐだった。以来、混乱の時代が始まる。1911年、孫文らによる辛亥革命で清朝は倒された。この翌年、1912年に日本では明治天皇が崩御しているから、清と明治時代は同じ頃に終焉したことになる。しかし、これは国政上の話である。国民は政府が滅亡し体制が変わろうとも、日々を重ねていく。中国では1912年1月1日に孫文を臨時大総統に中華民国が生まれた。日本では明治から大正に元号が変わる年にあたる。1919年、上海を拠点に「中国国民党」が名乗りを上げ、1925年に国民政府軍が正式に発進。
この翌年、日本では昭和が始まっている。2つの隣り合う国は撚りをかけた縄のようにからみあっている。昭和6年に始まった満州事変を皮切りに、中国大陸での戦火がひろがる。日本は1941年12月8日アメリカに宣戦布告し、太平洋戦争へと突入した。1945年8月15日、日本はポツダム宣言受諾を発表、敗戦となった。
この時、日本軍が中国で戦っていたのは蒋介石が率いる中華民国軍であり、彼らと共闘したり、互いに闘ったりした共産党軍でもあった。
日本敗戦の後、中国では、国民政府軍と共産党軍の国共内戦が激しくなる。農地解放や、圧政地主や富農を倒しその土地を分配するなどして勢力を拡大した共産党軍は、1947年から「人民解放軍」を名乗った。次第に蒋介石の国民党軍を圧倒し、結局、国民党は台湾へ退却し、遷都を発表。1949年10月1日、「中華人民共和国」が建国を宣言した。
政権を掌握した共産党は、社会主義国家の設立を目指す。初めはじっくりとした計画であったが、成果が上がるのが速かったことから、毛沢東は急激な社会主義国家化へ舵をきった。合作社や農民公社を作り企業や土地の国有化を加速させていく。
そのなかで、地主や富農、資本家、知識人などが追い落とされていった。目指すのは労働者の国家。1950年の朝鮮戦争、ソ連との関係悪化のなかで大躍進政策をとる。人海戦術によるダムや灌漑用水設備づくり、世界第2位の製鉄国家を目指すなど無謀と思える政策は数千万人の餓死者を出したと言われている。この失敗で、毛沢東は国家主席の座を追われる。この時期の農業の疲弊は凄まじかった。その上、異常気象による自然災害が重なった。人々はこれを大災害と呼んだ。
復権を狙った毛沢東は1966年文化大革命を発動。目的は「資本主義の道を歩む実権派を叩くこと」「思想、文化、風俗、習慣の四旧を打破すること」であった。それは毛が国家主席の座を降りた後に登場した劉少奇や鄧小平を追い落とすことでもあった。彼らを「実権派」「走資派」、つまり権力主義者や資本主義者だと決めつけ、そうした悪を根絶しなければならないとしたのであった。
地方から若者を動員した紅衛兵による文化大革命の先鋭化は激しさを増し、各地で武装闘争が起きた。
このなかで、自己批判による粛正や、下放と呼ばれる学生や知識人を農村に送って思想改造をするという政策が実施され、多くの犠牲者が出た。10年にわたった文化大革命の嵐も1976年9月9日毛沢東の死去、毛の妻・江青ら四人組の失脚で終わった。
その後、文化大革命で失脚していた鄧小平が復権し、改革開放路線を歩むことになる。
こうした凄まじい変化の中を国民は翻弄されながらも生き延び、自らの生きる道を模索、追求してきた。動乱や改革は悪いことばかりではなかった。プロレタリアと農民の国を作ろうというスローガンは、識字率の低かった民衆を文字が読めるようにする運動につなげ、学校に行くことが出来なかった徒弟たちに半農半学、半工半学という教育の機会を与えたし、工場と大学の交流を促進し、望む人達にそれまでは学ぶことが出来なかった機会を与えた。
庶民たちがこの時代をどう生きてきたか、どう考えてきたかは、6人が語ってくれている。
私が彼らに会ったのは、職人としての仕事や技の伝承、生き方などを聞くためであったが、人は時代や社会の中で生きていくものだ。もしくは日々を送ることで、その時代を作ってきた。時代の変化や環境の激変は彼らにさまざまな試練を与えた。彼らの技や仕事への考えは、変化の激しかった社会を映し出している。
中国5000年の歴史と言われるが、現代中国は新しい国である。私は職人の聞き書きとして取材を続けてきたが、作品を並べたときに、その国の成り立ちや変化を身をもって体験してきた人達の話でもあった。 6人は、日中戦争から、国共内戦を経て、中華人民共和国が出来上がり、現在の繁栄をみるまでの全てを体験した人達なのだ。
6人の話を聞いてもらいたい。政治や経済、外交という大きな枠では捉えがたい人々の考えや暮らし方を通して現代中国を知る一端になることを願っている。