ただいまご紹介いただきました吉本です。
ヘーゲルに『美学』という大著作があるわけですが、「疎外」という概念を最初に設けたのはヘーゲルです。たとえばエンゲルスの手紙などを見てみると、人にあてて、ヘーゲルの『美学』を読むことを勧めています。どういう勧め方をしているかというと、「もしも休養のつもりで読むのだったら、ヘーゲルの『美学』を読むことをお勧めします。ただし、一奮発してヘーゲルの『美学』を精読するならば、驚嘆の念を新たにするだろう」と手紙の一節の中で書いているのがあります。
ところが、僕らが現在ヘーゲルの『美学』を読もうとすると、第一ものすごく難解で、とうてい休養のために読むということはできかねます。『美学』を読むこと自体がしんどい仕事です。つまり、学というもの自体が、たとえばエンゲルスの時代と現在とではたいへん違っています。そのころは学自体がスコラ的ですが、現在では学自体がスコラ的、あるいは専門的でなくなってきているという現象があります。だからわれわれが休養のためにヘーゲルの『美学』を読もうとしてもできないので、かえって頭が痛くなるようなものとしてあるわけです。
ただ、それは驚嘆すべき著作であると言うことができます。その後、芸術についてヘーゲルの『美学』を超えている著書は存在していません。ヘーゲルの『美学』で、ある意味では芸術について言うべきことは言い尽くしていると言えると思います。
僕らの時代というのは、休養のためにヘーゲルの『美学』を読むなどというものではなくて、現実自体が非常にスコラ的というか、煩雑になっています。だから休養するつもりなら、ぐうぐう眠ったほうがいいんです。僕も今朝六時まで起きていて、実はぐうぐう眠って遅れてしまって、みなさんに多少ご迷惑をかけたわけですが(笑)、現実自体がエンゲルスの時代と比べて煩雑になっています。だから、われわれは学というものに対して、休養のつもりでそれを読む、あるいは眺めるということはできなくなっています。学が持っていたところの煩雑さが現実自体の中に移ってきている、と言うことができます。
さて、ヘーゲルの『美学』の中で、「疎外」という概念が非常にみごとに使われています。ヘーゲルの「弁証法」というのは「観念的な弁証法」だということですが、芸術自体が観念の産物ですから、そのことを前提とすると、絶対的な理念を信じているということを前提としてはじめられたヘーゲルの美や芸術についての考え方は、それ自体みごとに芸術の性格というものを射抜いているところがあります。
その後、たとえばマルクス主義ならマルクス主義の伝統を考えてみると、前マルクス主義的段階、たとえばちょうどドストエフスキーとかトルストイといった人たちと同時代、19世紀ロシアにいたベリンスキーという批評家の考え方が、ヘーゲルの『美学』の卑俗化した写しです。
ベリンスキー以後、プレハーノフとかルナチャルスキーとか、いろいろ芸術理論家がいるわけですが、こういう人たちは言い換えればヘーゲリアンで、ヘーゲルの『美学』を脱することができない、あるいはヘーゲルの『美学』を小さく刻んだようなかたちで展開していきました。
日本においても、たとえば戦前のマルクス主義文学運動あるいは芸術運動の中に移植され、蔵原惟人という人はベリンスキーの影響も受けましたし、プレハーノフ、ルナチャルスキーの影響も受けています。それが日本における移植者ということになりますが、非常に観念的で、ヘーゲルの影響下に包まれてしまうような概念としてあるわけです。
「疎外」というのはなかなかむずかしいんですが、マルクスなどは「疎外」をふたつぐらいの意味で使っています。ひとつは人間というものと人間がつくりだしたもの、つまり人間が自然に存在するものに手を加えることによってできあがったもの、たとえば商品でも何でもモノがいったんできあがってしまうと、それをつくった人間に対して対立するに至る、人間を押しつぶすようになるに至る。つまり、本来は人間がつくったものであるにもかかわらず、モノ自体がいったんつくられてしまうと、人間を押しつぶすように作用していく。そういう意味で「疎外」という概念を使っています。
それから、そういうふうに分けるのはよくありませんが、本当の仕事というか、労働というものの範疇の中で人間がモノをつくっていくと、つくるものとしての人間、それを労働する者あるいは労働者と言えば、労働者というものと労働によってつくったものとが対立するに至るという概念を、もうひとつには「疎外」という言葉で言っています。
僕らが考えたところでは、そのふたつの意味で、つまり自然と人間との関係、それからモノあるいは生産物をつくるものとしての人間という場合に、アルバイターというものが労働して得た生産物から押しつぶされていく、つまり自分のつくったものであるにもかかわらず自分のものになっていかないというかたちで、自分がそこから押し出されてしまう、枠外に出てしまうという意味で、「疎外」とか「自己疎外」という概念を使っているように思えます。
これは芸術の場合で言うと、「自己疎外」という概念を最初に編み出したのはヘーゲルだと思うんですが、ヘーゲルは要するに、人間のある精神の作用があると、人間が精神の作用を行うと途端に、その精神の作用自体の中に、精神の作用をする人間を取り除けてしまう、枠から外してしまうという要素が必ず出てくるというような意味で、「自己疎外」という概念を使っています。それはある意味で芸術、宗教にとって本質的な問題になってきます。そういう意味で、ヘーゲルの『美学』というのはそれ以上なかなか超えられないというかたちになって出てくるわけです。
では現在、「疎外」はどのようなかたちになってあるか。僕らの考えでは、現在における人間の存在というのはどのようなかたちを取っていっても、あるひとつの帯というものを考えていくと、下から入るにしろ上から入るにしろ、あるひとつの帯の中に入っていってしまうというかたちである。それが現実自体が非常にスコラ的に煩雑になってきたということの意味であり、また大衆社会論が出てくるような現在の現実のあり方の本質であると思うんですが、たとえば同様な考え方を持っていても、下から上へ入るとか、上から下へ入るというかたちで、あるひとつの帯の中に全部が入っていってしまう。
これをイデオロギー的に表現すると、社会主義とか資本主義、社会主義体制とか資本主義体制、あるいは哲学的にマルクス主義哲学とかプラグマティズムの哲学といわれているものとして考えてもいいわけですが、両方ともひとつの帯の中にどの方向からか入っていってしまうということが、現在の考えうる限りでのひとつの世界的な方向と考えることができると思います。つまり哲学思想上で言えば、いわゆるマルクス主義とプラグマティズム、現実の煩雑さ自体を事実の動きとして見ていくという考え方とはひとつの帯の中に入っていくというのがこれから考えられる世界的な方向だと思われます。
その方向というのは黙っていてもそうなると言ってしまえばそれまでのことで、そういう方向に行くのがこれから考えられる世界的な趨勢ではないかと考えられます。それに対して異を唱えたいと考えていくとすれば、どこに方向性が見つかるかという問題意識が当然あるわけです。
ただ、それに従っていくならば、たとえばプラグマティズムならプラグマティズム的な哲学が大衆性あるいは大衆社会性を獲得するというかたちで、上から下のほうに帯へ降りていくということが考えられます。またマルクス主義がひとつの事実を重んずるというかたちと融合して、下から上に帯へ入っていく。それがマルクス主義の場合には、たとえば構造改革論なら構造改革論というかたちで出てくる。プラグマティズムの場合には、大衆の問題というふうに、どんどん下降することによって帯の中へ入っていくというかたちを取る。それは世界的な方向であって、ひとつの思想が少数に対して多数性というものを獲得したいとするならば、みなさんがマルクス主義者であれ、あるいは非マルクス主義者、反マルクス主義者であれ、そのような方法を取ればみなさんの考え方は多数性を獲得していくと考えられます。
ところで、ひねくれた人間がいて、どうもそれは気に食わんという考え方を持たれると、それじゃどうすればいいのか、どこに問題があるのかということが問題になってくると思います。そこで、現在のスコラ的に煩雑になった現実社会、いわゆる大衆社会ですが、そういうものに対して、ひねくれた立場というか、世界的に黙っていてもそうなるに違いないような方向は気に食わないという少数性を獲得するには、どこに決定点を求めていくべきかということが問題になっていきます。
そこがひとつの自立点になるわけです。その自立点というのは、世界的な、黙っていてもそうなるであろうという方向に対する、異端、異を立てるものとして考えられます。そこが思想のポイントになってきますし、芸術の問題になってきます。また現在における「疎外」という意味は、そういうところに入っていかないと本当には取り出しえないと考えます。
つまり、生産力も技術もどんどん発達していく一方である。生活水準はある程度高くなっていく。いろんな要素があって、その要素が膨大になればなるほど、マルクスの言った意味での「疎外」は極度になっていきます。
ところで、僕の考えでは、そこらへんでは「疎外」という意味を考えてはならない。そのように考えていくと、そういう中でどうするか、しかたがないから、たとえば石をひとつ積んでふたつ積んで3つ積んでというふうに石を積み重ねるようにしてひとつから10まで積めばいいんだ、そして1から2、3、4と石を積んでいけば必ず、現在の社会は新しいイメージにかなう社会に展開していくんだという考え方が出てくると思うんです。
しかし僕はそうは思わないのであって、たとえば石をひとつ積んで、次にふたつ目を積んだ。ふたつ積めるなら、3つも積めるに違いない。3つ積めるなら、四つも積めるに違いない。ところが、六つ積んだ。6つまで積めた限りは、同じやり方でいけば七つも積めるじゃないか、10も積めるじゃないかと考えるのは、いまの生産力が膨大化したという意味で人間の疎外を考えている限り、そういうふうになっていくと思うんです。しかし、その方法というのは六つまで石を積むことはできるけれども、7つ以上積むには、積み方の問題ではなくて、契機の問題というのが入ってくる。契機の問題が入ってこない限り、6つまでは積める、しかし7つ以上は積めないというふうになっていくと思います。その契機の問題というのが、本質的な意味での現在の「疎外」の決定点、問題点になっていくと思うわけです。
それでは契機というのはどのように見つけていったらいいのかということが非常に大きな問題として出てきます。名前はどうでもよろしいんですが、あえて世界の進むべくして進む方向に従わんという思想のイメージというのは、契機の問題を探るというところに求められます。
その契機というのをどのように説明したらいいか考えてみると、たとえば現在、構造改革論なら改革論、それらを修正主義とするひとつの正統マルクス主義というものが取っている考え方と、マルクスが取っている考え方とは少し違います。
マルクスが共産主義社会を想定する場合には、過去からマルクスにとっての現在性、つまり19世紀、1840年代だと思いますが、そこまでの人類史の分析をやって、経済的な土台がそれらを動かしてきた第一義的な要因であろうという結論に到達します。そしてそういうふうに到達した意味では、つまり現在から過去までの人類史の相対性を分析していって、そこで得られた経済的要因を第一義として人類史というのは動いてきているという考え方の延長線では、共産主義社会を階級なき社会ということで想定するわけです。そこではマルクスは、マルクスにとっての現在性、つまり資本制から受けている「疎外」あるいは「自己疎外」を疎外し返すという意味で、ひとつ共産主義社会なら共産主義社会というものを想定します。
ところが、19世紀までの人類史の解析を通じて得られたひとつの合法則性でものを考えるのではなくて、マルクスが19世紀における自分の実存というか人間的存在というものを基盤にしてものを言っている場合には、決して未来はどうだとは言っていない。その場合には、もし現在まで、つまり19世紀まで来た人類史をなお先に進める要因があるとすれば、それは絶えず現在の問題を止揚していく現実運動の中にしかないんだと言うわけです。
つまり、マルクスが人間存在、現存性として言う場合には、決して未来は共産主義社会だと言わないのですよ。19世紀までの過去の人類史の構造分析を通じて得られた結論の線上では、未来は共産主義社会が完全に想定されるんだと言いますが、そうではなくて、自分の現存性だけ、19世紀的な「疎外」を中に存在している現存性として言う場合には、決して未来はどうだとは言っていないのです。絶えず現在性を止揚する現実運動が必要であると言っているのです。
そこの使い分けというのはおかしいけれども、そこのところは非常にはっきりしています。政治的アジテーションとかプロパガンダとしては、ときにそういうことを言っている場合もありますが、本当に厳密には、人間存在の現在性というものを含めた意味で言う場合と、そうではなくて、それまでの現在性まで、つまり19世紀までの人類史の歴史的な解析を通じて得られたひとつの合法則性の線で言っている問題を言う場合とは明らかに区別して言っています。
ところが、フルシチョフをはじめとして、日本のマルクス主義者もそうですが、20世紀は資本主義から社会主義への移行の時代だとか言うわけですよ。マルクスはそんなことは決して言わないのです。それを言う場合には厳密に現在までの人類史の解析を通じて得られた法則性の線上で言っているのであって、現存性の論理というか、現実の中に生きている人間の存在としては決してそういうことを言っていないのです。そこをそうではなくて、たとえば20世紀は資本主義から社会主義への移行の時代であると言うのは、そんなことが明日のことすらわからないのにどうしてわかるんだとなるわけで、そこでは宗教、占いというようなものと思想というものは変わってしまう。
それがマルクスとマルクス主義者との違いになってきます。つまり、占いに類したことは決して言わないのです。そのような問題で言う場合には、絶えず現在の問題を打開し止揚していく運動を想定してものを言っています。決して未来はこうだろうと言えもしないし、言いもしないわけです。
マルクスがそういうふうに厳密に使い分けている点があります。その使い分けている点をはっきり要約してみると、社会からの疎外を逆に疎外し返すという意味で、自分の現存性を取り除けて言う場合と、自分の現在性、現存性、つまり現在自分がそこに生きているという、社会の中での自分というものを含めて言う場合とを、どのように結びつけるか、あるいは関連づけるかが問題になってきます。
そこで、現存性の論理、あるいは思想、たとえば実存主義がひとつ明瞭な流れとして存在しうる理由があります。それはマルクスにとって、ある場合に現存性の論理で言い、ある場合に現存性を疎外した論理で言っているという二重性、使い分け、その問題点のところに非常に基本的な問題があるに違いないと言えます。そこのところの構造、問題はどのようになっているかをはっきりさせるということがひとつ現在の課題になっていると言うことができます。
たとえば僕らが多数に従わない、世界がほうっておいてもこうなるだろうという方向に従わない、つまりそれに対して異を立てるという場合、問題の基本点になるのは、現存性の論理と、現存性、人間の存在性を疎外したところで出てくる論理との結びつき、接点がどのような構造になっているのかをはっきりさせるということがひとつの思想的な課題となって表れてくるわけです。
その問題というのは、たとえば今日のテーマになっている芸術の問題についても言えます。つまり、ベリンスキーならベリンスキー以来の、ロシアで主として発達し、各国に流布されてきたマルクス主義的な芸術論には、人間の意識を決定するのは意識それ自体ではなくて現実なのであるということをひとつ前提条件の中に入れた、まったくのヘーゲル的な考え方、ヘーゲルの『美学』における考え方が存在します。だからそこではどうしても芸術性を現実性に引き戻す。芸術の根底には現実があるぞというふうにそれを引き戻すというかたちで、芸術にも効果性、有効性を考えていく伝統が、ロシアの19世紀以来の、相矛盾した言葉ですが、観念的唯物論、あるいは唯物的ヘーゲル主義という芸術論、芸術についての考え方の根底になっています。
ところで、この問題は依然として観念的であることを免れないわけで、芸術性自体が社会の中でどのように存在し、どのようにありうるかという問題を考えていく場合には、芸術の根底には現実があるぞ、あるいは芸術を現実に還元する、そういう考え方を逆倒するというか、転倒する必要が完全にあるわけです。現在の黙っていても行くであろう世界的方向に対して、それにあらずという立場を設定するとすれば、そういうところにひとつ存在するわけです。
では、芸術の根本的な問題というのは現在においてどういうところで転倒されねばならないかということが考えられてくるわけですが、その芸術の根本的な転倒の課題というのは、芸術の根底には現実があるぞ、これを例えて言うと、ある建築、ブロック建築材ならブロック建築材がある。このブロック建築材というのはみな、現在の現実のかけらでできている。こいつを積み重ねて建築をつくっていくと、材料自体が現実のかけらからできているのだから、できあがった芸術も現実のかけらの集まりである。だから芸術は現実のかけらを集めたものとして、現実社会に対してこのように有効性があると考える考え方というのが、いわゆる観念的唯物論、あるいはマルクス主義的ヘーゲル主義というもののひとつの観点です。
そこの構造ではいろんな考え方が出てきてしまいます。たとえば現在のような大衆社会では、資本制、その文化の中に自ら身を挺して進出していって、そこで徐々にそれを変えていく、十まで石を積めば、それは文化的にでんぐり返るという思想、あるいは反体制的芸術みたいなものを想定して、上からの芸術に対して下からの芸術を対置させるという考え方となって表れてきます。ところが、そんなことは全然無効であって、芸術の支配を握るのはやはり現実の支配を握るものが握るわけで、それに対して芸術というひとつの観念性、創造性がどのように組み立てられたとしても、たとえば十の石を積み重ねればそれが変わるというふうにはならないわけです。
だからそうではなくて、芸術の場合にはこうなのですよ。たとえば芸術をブロック建築ならブロック建築と例えてみると、個々のブロック材が現実のかけらからできていると考えることができない。芸術をつくるもの、創造者はもちろん現実のかけらの中に現実的に存在、つまり現存しているわけですが、そういう芸術をつくるものがいて、そのつくるものが芸術をつくっていく、表現していく過程、プロセス、あるいはそれを橋と見れば、芸術をつくるものとつくられた芸術、創造された芸術との間にひとつの目に見えない橋がある。それを僕の言葉では「自己表出」といいます。社会的な意味の「自己疎外」に対応する「自己表出」という言葉ですが、芸術をつくるところの人間と、その人間がつくってできあがっていく芸術を橋渡ししているものが「自己表出」です。これがひとつの「自己疎外」に対応する概念です。
芸術の場合、その「自己表出」の構造の中にしか、現実のかけらというのは入っていかない。だからブロック材が現実のかけらからできていて、それを集めて建築をつくると全部現実のかけらからできている、そこへ現実のかけらが入ってくるというのではなくて、つくるものとつくられた芸術とを結ぶひとつの目に見えない橋、つまり「自己表出」ですが、たとえばヘーゲルの『美学』的な言い方で言えば、観念的自己疎外ということになるわけですが、その「自己表出」の構造の中に現実性、現存性というものが入り込んでくる。そこでしか芸術の作品の中に現実性というものは入っていかないわけです。
ところが、いわゆるマルクス主義的なヘーゲリアンというやつはそういうふうに考えない。現実のかけらからつくられた材料があって、それを組み立てていくと、立派な美しい建築ができた。現実のかけらからできた材料でつくったわけで、もちろんつくられた芸術も現実のかけらからできている。そうすると、現実のかけらをよく選択すれば、つくられた芸術は現実に対して、そのかけらの集まりですから、ひとつの弾丸のような力を発揮するであろうと考えるのが、マルクス主義的ヘーゲリアン、つまりヘーゲルの『美学』の影響を脱しきれなかった、ベリンスキー以来のロシア式マルクス主義の伝統を受け継いだ、マルクス主義芸術論、美学の考え方です。
これは現在のルフェーブルならルフェーブルというマルクス主義美学者の中にも依然としてあるわけですが、そうではないのであって、そこでは現実性というのは芸術の中に入ってこない。先ほどから再三繰り返しているように、つくるものとつくられた芸術とを橋渡しする目に見えない橋、これを「自己表出」というわけですが、この構造を通じてしか現実のかけらは芸術の中に入ってこないのです。だからこの構造というものが非常に重要です。そこを基礎に置いて芸術の問題を考えていかないと、つまりヘーゲル風に観念の自己疎外と一般論で普遍的に言ってしまうとそういうことになりましょうが、そういうものが現在の社会とどのように相わたりうるかという問題を考える場合、そこの構造を問題にしなければならないのです。
「自己表出」の構造というのは、ある角度から見ると、目に見えるというふうにある。そういう場合にはひとつのリアリズム芸術として表れるわけで、たとえば日本で井上光晴なら井上光晴という人が、原爆被害者の社会と特殊部落というものとの葛藤とか対立をひとつのテーマにして描いて、それが作品の中に出てくるという場合には、「自己表出」の構造をある面で見た場合、直通したひとつの橋であるというふうに出てきた場合にそうなるわけです。
ところが、この構造というのはいかなる意味でも目に見えるということではないわけで、ある角度からその構造を見ていくと、まったく目に見えないように出てくる。そのときには社会的主題や現実的主題を取り扱っているというふうに出てこないで、たとえばセックスの問題ならセックスの問題だけを扱っているとか、人間の内的な動きの関係の問題、あるいは日本風の伝統で言うと、花や鳥、自然物を対象にしてうたうという場合には、「自己表出」の構造の中に入り込んでいく現実のかけらがだいたい目に見えないかたちで出てきます。しかし、その中に現実性、現存性がないのかというと、決してそうではない。それは明らかにあるわけです。ただ、それは主題とか素材という目に見えるかたちでその構造が出てこないというふうに存在しています。
たとえばマルクス主義的なヘーゲリアンの考え方を極端に推し進めていくと、ひとつ主題の積極性ということが出てきて、現実の仮想の部分を描けば、それは現実の社会を動かすのに役立つに違いないとか、闘争場面を描けばまた役立つに違いないというふうに出てくるわけですが、本当はそうじゃないのですよ。つまり、目に見える場合と、ある角度からしたら全然目に見えないかたちで、現実性の問題というのは出てくる場合がありうる。そこのところの構造が、芸術が現在の社会に対して何を与えるか、何を与えないかという問題の非常に重要な問題点になっていくわけです。
それは思想性として言えば、経済的構成を第一義的な前提とする限り、資本主義社会というのはまったく不合理である。そして、やがてこういう社会に行くというイメージが描かれる、つまり想定される。しかし、現存性、現在性の論理としては、明日をも知れぬというのが正しいように、占うことはまったくできないのであって、そこでは現在の不合理な問題を絶えず打破していかなければならない。つまり、現在を止揚していかなければならないとしか言えない現存性の論理、それが相交わる思想的構造を明らかにしていくという課題と、芸術、文学における「自己表出」の構造にいかに現実性が入っていくか、いかにそれが芸術そのものの中に表れていくか、その構造をはっきりさせる問題というのはまったく一般的にかかわりを持って現在目の前に存在しています。
たとえばマルクス主義的なヘーゲリアンが考えてきた誤謬性というのは構造改革論みたいに崩れていったかたちで出てくるわけですが、そのような現在の反体制的な思想、政治、それとかかわる芸術の意識は黙っていてもそうなるということに過ぎないのであって、それは反体制と言いますが、体制的であると言ってもいい。そういうのではなくて、本当の反体制、本当の現在における「疎外」の根本的な問題はどこにあるかを明らかにしていく場合、考えていく基本的な点というのはそういうところに存在していくわけです。現在の「疎外」、あるいは「自己疎外」、つまり現実に対して自己が自己たりえないという問題に対して、芸術が何を果たしうるかは、そういう問題点をつかまえていかないとはっきり出てこないということが現在、明瞭に出てきています。
だからひとつの生産力増大理論というか、生産力あるいは技術は不可逆性で、資本主義制度を採ろうと社会主義制度を採ろうと発達していく一方であるということに対して「疎外」ないしは「自己疎外」を考えて、その増大から出てくる「自己疎外」というもので「自己疎外」の問題を終わりと考えていく観点に対して、いや、そこでは全然終わらないんだ。それは黙っていてもそうなるのであるというかたちでしか存在していない。つまり、そういうことはひとつの前提条件にしか過ぎない。19世紀と20世紀と、生産力の増大、技術の発達が与える社会の構造の変化があるということは前提の前提である。そのような前提のところで「疎外」を考えても、現実を変えていく力にはなりえない。
そうではなくて、「疎外」がどのような構造、実体として考えられるかという場合、そこで提起しなければならない問題を考えていかなければ、現在の「疎外」の問題は解きえないと同様に、芸術がそれに対して現在何であるかという問題に対してはとうてい接近することができないと言えます。
一般論、あるいは前提論の範疇ですべては終わりであるという考え方はどんな場合でも耳に入りやすいわけですが、そこでは世界の構造がどのようになっていくかということはだいたい想定されるというか、幻想として描きうるわけです。しかしそうではないのであって、一般論、あるいは前提論をもう少し実体的に掘り下げていったところに、本当の現在の「疎外」の問題があるし、芸術がそこでどのような意味を持つか、どのような感じを持つか、どのようにつくられるか、そしてそのつくられたものがどのようなかたちで本当の意味で有効なのかという問題に到達するには、そこの構造をはっきりさせなければならないということがあります。
そこらへんのところはなかなか困難な問題でもありますし、はっきり承認しないで、前提のところで済ませていくと、そこでは相対性というか、レラティブにこっちに対してこっちだということが言えるだけであって、本当に現在の社会の中で当面している芸術、思想、政治の問題がどこにあるのかということには到達できそうもない。そこを非常にはっきりさせていかなければならないというのが、現在における芸術、文学、その他の課題です。
この課題は先へ突っ込むというかたちが現在取られていないわけですが、それは突っ込まなければいけない。前提論としての「疎外」は誰でもが認めるというかたちでしかなくて、それ以上は突っ込みようがないということではなく、そこのところの課題を相当はっきりさせていかないとしょうがないんじゃないかということがあるわけですよ。
芸術、文学というものを考えてみるでしょう。そうすると、こいつは「自己表出」、つまりヘーゲルの言葉に対応させて言ってみれば、観念あるいは精神の「自己疎外」、精神が自己自身を外化しているというヘーゲル的な考え方に対応して出てくるわけですが、そのようなものをどこらへんにかたちづけて考えていったらいいのかという問題がなかなかはっきりしていかないということが……
【テープ反転】
……構造を見ていく場合に、政治の問題が足を引っ張り、逆に政治の問題を考えていく場合に、芸術の問題が足を引っ張りというかたちで、芸術のひとつの範疇が出てきてしまうわけですが、そこらへんの課題をとにかくはっきりさせていかなければならない。それはオール否定というか、世界がこうなっていくに違いないという問題に対して、ひとつの自立性というものをはっきりさせていく場合の根本的な問題になっていく。それがまさに現在の芸術、思想の課題としてはっきり存在している。問題をそういうふうに持っていかないと何も出ていかないだろう。ただ流れて、先ほど言った上からか下からかひとつの帯の中に入っていくというかたちが完全に取られていくと考えられるわけです。
これは具体的に言うといろいろ問題がありますが、根本的、本質的な問題で言うと、僕がいま言ったような問題が非常に重要な問題である。その問題についてみなさんに考えていただいて、そこから応用問題が引き出されていけば、僕はいいと考えています。一応これで終わりたいと思います。(拍手)
(質問者)
マルクスの芸術論の話なんですけど、わかるんですけど、たとえば、反体制が実は体制だとおっしゃりますけど、反体制は反体制自体、認めない人たちがいるわけです。いちばん大きな矛盾というのは、やはり、体制と反体制であって、そのあいだの疎外の問題、芸術家のなかでも疎外なんていうことは全然ないんだという、そんなもの問題にしない人たちと、先生のおっしゃる芸術論としての疎外、それとのあいだの戦いが、まだまだ…。
(吉本さん)
ぼくらは、それを戦いと思わないわけなんです。つまり、それは戦いとなっとらんというわけです。つまり、好き嫌いの問題だと。つまり、ヘーゲル的な概念でいえば、即自という概念があるでしょ、それと対自という概念があります。
つまり、それは即自概念同士の前提的争いといいますか、そういうものとしてそれが存在するので、即自概念としての前提というならば、たとえば、おれとおまえとは好き嫌いが違うと、お前が好きだというならそれでいいと、おれはこれが好きだと、ただそれだけのことで、それはべつに芸術上の戦いでもなんでもないというふうに僕は考えているわけです。芸術上のほんとうの戦いというもの、つまり、ほんとうの意味の疎外というものに対する戦いと考えていくならば、わたしが言いました問題です、そこに入っていかないと、やっぱり戦いにならないと思うんです。
だから、あなたの言われるのは、即自としての対立といいますか、つまり、じぶんは何々を好むという問題をひとつの普遍性、つまり、一般性として出す場合には、それが自己自身に対するものとして、それが出てこなければ、それは争いにも、戦いにもならんわけです。
ただ即自としてとどまっている戦いでは、ただようするに、おまえはこれが好きだと、おれはこれが好きだと、それが好き嫌いといいますか、即自といいますか、即自の問題としてのそこでの対立というのが行われていると、そういう意味では資本主義というものは、あなたの言われるように、疎外を認めない人も生みだしますし、それは認める人も生みだしますし、様々な人を生みだすということが、それ自体が資本主義の特性のひとつですから、そういう意味では、100人いれば100人が、そういう意味では対立しますし、あなたの言葉を使えば戦うわけです。それは即自としては百人百色を生みだすということがひとつの自由であるというな、つまり、資本主義というのは自由であるというような仮想性というのは、百人百色を現象的には生みだす。
つまり、即自としての百人百色というものを生みだすということが、資本制社会というのは自由な社会であると、社会主義社会というのは自由でない社会であるというような言われ方というのは、根拠というのは、あなたの言われるような、様々な即自、つまり、好みですね、そういうものを生みだすということがひとつの論理の根拠になっているわけです。
だから、そういう意味では、ぼくはそういうのを戦うというふうにとか、対立というふうに考えないわけです。だから、それは戦いにもなっとらんじゃないかと、ただ好き嫌いじゃないか、好き嫌いのことにすぎないじゃないかというふうに、ぼくらの考えはそういうふうになっているわけです。
だから、あなたの概念でいえば、まずそれがあって、それから問題をあれしてというふうに考えられるかもしれないけど、そうではないのであって、まずそれがあるというのは、何もその人が生みだしたのではないのです。その人が少なくとも生まれたときに、あるひとつの現実の中に存在してしまっていると、そういうことが基本的には生みだしているんです、そういう対立というものは。対立の萌芽というのは、芽生えというものは。
そこでは百人百色のイデオロギーが相対立し、好みとして相矛盾しということは、そこでは行われてくるわけです。それはなにもその人が偶然ある本を読んであれしたとか、ある生活に当面してそう考えたというような、そういうことを、つまり、ひとつの対象とか、対自として定義できない次元、そういうような次元では百人百色が起こりうるわけです、あなたのいう戦いというのは。
また、現に戦いという言葉を使えば、おまえはたとえば野間宏が好きだと、おれは安部公房が好きだとか、それはひとつの対立であるし、戦いといえば戦いであると、そういうようなことは生みだしていくわけです。
ぼくはそういう次元に、先ほどからいう、前提性の次元というものにとどまるかぎり、それは戦いというふうには認めないと、そういうのは戦いではないと、ひとつの即自の違いの問題、つまり、資本主義がいうところの自由であると、資本主義は自由であるというような、貧乏する自由もあるし、儲ける自由もあるという意味であることが、なにか立派なことであるかのごとく言うでしょ、そういう前提が生みだしたときも、それは存在してしまった時に生みだした、完全に生みだされているわけなんです。
それはなんかあばら家で育った奴、そうじゃない奴というのは、資本主義というのは自由ですから、自由もありますし、貧窮させてしまうものもありますし、それからそうじゃない自由もありますし、だから、そんなものは前提として資本主義自体を生みだしているのです。だから、あなたのいう意味では戦いにはなっとらんのだというふうなのが僕らの考え方です。
(質問者)
芸術作品そのものは、そのもの自体としては現実を切り返す力は持たないということになりますか。芸術をつくる創作者と、それから、創作者から出てくる創作というもの、その間にある橋というもの、それが現実を切り返す原動力になるのであって、創作自体が切り返すものにはなりえない?
(吉本さん)
創造者にとってはそうでしょうしね。それから今度は、そういうふうにしてできた作品というものを多くの人が読むでしょ。読む場合に、そういうことはすぐおわかりになると思うけど、読んだ人が、そこにひとつの闘争が描かれていたと、それを読んだ人が、ああ俺も闘争しなくちゃいけないというふうに読んで思うか、じゃなければ、そういうふうには思わないで、それは、ひとつの作品なら、作りものなら作りものとして読むかということは、それはまったくわからないわけです。
だから、そういう意味で読んでおいて、しかし、その作品が訴えて、たしかに、その作品がいい作品であれば、なんか残るわけです。残るというものは、現象的にこう書かれているから、このとおりするというように残るのではなくて、芸術の自己表出を通したそういうものの全体として、ひとつ残るわけです。その残ったものが、たとえば、積みに積まれて、あるひとつの切り返しになっているというようなことはあるわけです。
そういう意味で、たとえば、有効性なら有効性というものを考えなければならないということは、それははっきりしていることですし、だから、それは作る者と読む者との問題になりますけど。そこのところは、たとえば、ぼくはあまりプラグマティズムというのは好きでなくてしょうがないのだけど。桑原武夫さんの例えば「芸術の社会的効果」という非常にいい論文がありますけど。それなんかは、非常にその点もはっきりさせています。
それから、無前提というか、前提性だけでいうのではなくて、たとえば、桑原さんは桑原さんなりの方法論で、例えば、吉川英治の『宮本武蔵』なら武蔵を、これこれの階層の、これこれの年齢の、これこれの職業の、これこれの人に読ませてみて、項目を設けて、○×をつけてもらったらこうだったという、そういう調査をちゃんとやっているわけです。
それは正確だ不正確だという問題は抜きにしても、それはひとつの接近には違いないです。どういう効果があったということに対する接近には違いないわけです。どういうところに感銘を受けたというものは接近には違いないわけです。
だから、材料は現実の破片からできているのだから、非常に反体制的な破片でもって材料をつくっておいて、それで、芸術をつくれば、反体制的な芸術ができて、それを読んだ人がそういうふうになるに違いないというような、そういう無前提、あるいは、前提に前提と前提を、全部を何度も積み重ねたようなあれよりも、やっぱり、これこれの年齢の人の、これこれ農村の人、都会の人、これこれの職業の人というのは、調査して○×式項目を設けてやってみたという、そういうことのほうがまだ接近性としては測定されるんじゃないでしょうか。そういうふうにやってみたら、近似値の近似値ぐらいあれば出てくるような、そういうことになるかもしれません。
そうしますと、必ずしも、さっき言いましたように自己表出というものの構造によって、必ずしも政治的に、たとえば、革命的な政治運動家というものが、ピカソの絵よりもシャガールの絵のほうが好きだったというような、そういう結果というのはありうるんです。それは自己表出自体の構造によるわけで、シャガールの幻想的な絵がそういう人を打ったということ、芸術運動家を打ったというような、そういう逆立した契機というのはありうるわけなんです。
そうじゃなくて直通的な契機もありうるわけです、もちろん。おれはやっぱり小林多喜二の『蟹工船』を読んで感動したというような、そういう場合も確実にありうるわけです。しかし、非常に逆立した契機で、非常な政治的実践から、堀辰雄なら堀辰雄の小説を読んで感動したというような、そういうようなことというのはありうるわけです。そこのところは作られたものをまた、読む者というものの問題になってきます。それとの関係になってきます。
(質問者)
マルクスの思想の中にあらわれた2つの側面、それは非常に大きな今日に与えられた基本的な課題だということですけど。どうしたらもう少し展開できるのか、ぼくらがマルクスなんかを読む場合に、どういう観点というか、態度で、受け取ったらいいのかというのが非常に問題になるんです。だから、マルクスの言っている歴史の法則性から社会が生まれるんだという、そういう法則性というものをいまのぼくらはどう受け取ったらいいのかということは、とくに今日なんかは非常にわからなくなっているわけです。そこのところをもう少し展開していただきたい。
(吉本さん)
展開するというのは難しいわけですけど、なぜわからなくなったかということは言えるわけなんです。それは、たとえばマルクスは、人よって読み方が違うですけど、ぼくらの読み方では、人間の存在性ということです。そういうことから、社会の法則性ということに渡る総体について、ひとつの原理的な問題を、体系を、提出しているわけなんです。
その場合、自ら初期の、じぶんの立場というのは人間主義‐自然主義であるというふうに言っているところがありますけど、つまり、自然、外界ですね、人間の意識に、あるいは、存在に対峙するものとしての外界です、そういう自然というものと、人間のかかわり合いというものというのが、たとえば、自然の素材を加工して商品を作ってというふうに、つまり、そこのところが非常にポイントになっているわけです。
それから、人間も自然の一部だというふうにマルクスならマルクスが言っているように、マルクス的自然主義、人間の存在における自然主義というものがあるわけです。そいつが複雑、ますますこれからそうでしょうけど、複雑な形で問題になってくるわけなんです。
マルクスのいう自然主義‐人間主義というものが、つまり、自然的存在というもの、あるいは、自然に対する人間の存在というものと、人間が自己自身の意識性に対して存在しているというような存在というものとの乖離といいますか、距離といいますか、あるいは、構造といいますか、それがようするに、19世紀と現在と比べて見ると、非常に複雑多岐に渡って煩雑になっていることがあると思うのです。
だから、マルクスのなかでの自然的存在としての人間というものと、つまり、外界というものは、人間にとっては人間の肉体ではないひとつの肉体なんだというのは、マルクスの考え方というものが素直に通らないような発達の、つまり、生産力の発達に伴う社会法制の諸々の複雑さによるわけでしょうけど、そこのところが、はっきりこうだというふうに、なかなか意図をはっきりと繋げることができないというような、あるいは、はっきりとその意図をたどるにはなかなか難しいというようなことが出てきているために、そういう困難が僕は生まれるんだと思うんです。
しかし、そこのところがほんとうに問題になってきて、たとえば、それは実存主義というのがひとつの存在権を現在もって出てくるというのは、根拠がそこにあると思うのですけど。つまり、サルトルならサルトルという人の考え方の実存概念の中には、自然というような考え方というのは非常に表面には出てこないほど微々たるものとしてしかないわけです。
これはなぜそうなっているかというと、そういうふうに現在社会が、たとえば、自然と人間とのかかわり合い、あるいは、自然に手を加えるか加えないかということの問題と、それから、人間の意識なら意識、あるいは、精神なら精神が自分自身を何かに外化していくといいますか、対象化していくといいますか、そういう問題というものが非常に面倒になって、つまり、複雑になっているということが、どこでどう掴んでいいかということがわからないと、つまり、困難であるという問題を生じているということはいえると思うんです。
だから、そこでマルクスならマルクスの考え方のひとつの変わり身のやり方というものを考えていく場合に、人間の存在性といいますか、現存性といいますか、現にこういう社会のこういう現実にこういうふうに生きているという問題をどういうふうにそこに介入させていったらいいのかという問題が、人間の歴史を分析していった結果でてくる法則性から考えて、得られるイメージというものに対して、どういうかかわり合いを考えたらいいのかという問題が非常に複雑になって出てきて、そこにひとつの補助額としてなら補助額としての実感主義なら実感主義ということが、ひとつの存在権をもって出てくる理由があると思うのです。
だから、そのことは人間と自然との関係というものが、なかなか眼に見える具合に簡単にはいかなくなったというような現在社会といいますか、そういうようなものの問題が各自のなかにウェイトを占めていて、重量を占めていて、それが理解を困難ならしめるし、そこでたとえば、マルクスならマルクスの思想というものを、つまり、自然主義‐人間主義というものの考え方を検討する場合の大きな問題になっていくんじゃないかと、だから、そこにそういう課題はあると、それからそれに対して接近していく方法というものはあると、それでその接近していく方法というものの現在におけるやり方のなかで、やっぱり、マルクスならマルクスというものの思想の根底にある自然主義‐人間主義という考え方、つまり、自然と人間とのかかわり合い、あるいは、自然物を加工する労働なら労働というものを通じての外界と人間とのかかわり合い、そこからでてくる疎外というような概念に、どういうような接近の仕方、あるいは、どういうような問題意識を設定したらいいかというようなことが、やっぱり出てくると思うんです。そういう複雑さだと思うのですけど。
それはやっぱり、たとえば、あなたならあなたが現在の現実の問題というものを絶対に離しちゃいけないという問題がひっかかってくると思うんです。たとえば、マルクスならマルクスを読むという場合も、あなたのなかに現在の現実というものを絶対に放さないというような問題意識はひとつ、非常に重要になって出てきますし、それから、あなたの問題意識を、さきほどの質問された方の言葉でいえば、前提性から抜け出させるために、やっぱりあなたが現在の現実でひっかかっている問題というものをできる限り普遍化するといいますか、対象化していくといいますか、そういうような問題の立て方と、それから、現在、あなたがとにかく、こういう社会にこういうふうに生きているというような問題を手放さないというような課題と、とにかく、その2つの課題というのはどうしても放さないで、接近する仕方以外にないのじゃないですか。その処方箋なんていうものは作れないんじゃないですかね。
だから、そんなにぼくは簡単じゃないと思います。たとえば、マルクスならマルクスの思想の全体系というやつは、そんなに簡単なものじゃないと思います。だいたい、日本なら日本のマルクス主義者なんかのいうことを、きっとこいつ馬鹿じゃないかというようなことを言いますけど、だいたいそういうことを言わないです。
だから、人間の存在とか、死とか、生とか、セックスとか、そういうような問題から、人間の歴史を発達させてきた、展開させてきた、第一次的な前提と考えた経済構成という問題に至るまで、相当なひとつの湾曲を描いて、円を描いて展開されていると思うんです。
その問題というのはそう簡単でないわけです。ただ、接近する方法は、じぶんのなかにある現在性というものと、その現在性の課題というものと、それと、その現在性の課題を絶えず、ひとつ一般化しようといいますか、普遍化しようというような、そういうような問題意識と、それは手放すことはできないというような、手放して読むことはできない、接近することはできないというようなことがあるんじゃないでしょうか。そこのところで交点が結ばれるかもしれないということが出てくるんじゃないでしょうか。
(質問者)
たとえば、『資本論』を読んで、その場合に、そこに書かれている結論というか、再提起的なものとして結論を受け取るというか、方法論というのか、どんなふうにしてマルクスは現実を分析して評論というのを書きあげていったのか、そういう見方というのが大切なんじゃないかというふうにお話したんですけど。やっぱり、そういう読み方をすることによって、おっしゃった、ぼくの中にある問題をぶつける過程がそういう読み方のなかにあるんじゃないかと思うのですけど。
(吉本さん)
そういう問題がひとつあるでしょ。それから、ぼくが言っているのはそういうことだけじゃなくて、『資本論』なら『資本論』を読む場合に、あるいは、『資本論』以外のものでもいいわけですけど。それはひとつそうだけど、どういう現実性の中で、それが書かれたかという問題ですね、マルクスはどういう現実性の中でそれを書いたのか、つまり、それは個人的環境ということではなくて、どういう社会的現実性の中で、それが書かれたかというような問題意識です。
ところで、現在、じぶんがいま当面している、あるいは、考えている、ぶつかっている問題というのはこうだという問題意識と、その2つということじゃないですか。だから、ひとつはあなたの言われる一種の追体験になりますけど。追体験の場合に、『資本論』の内的方法を追体験するというだけじゃなくて、どういう現実の総体のなかで、それが書かれたということを含めて追体験するという課題と、それから、あなた自身が現在まさに非常にリアルにぶつかっている課題というものと、その2つが読むということじゃないですか。
だから、ぼくなんかがよく、大雑把な読み方でよくわからないところもあるのですけど、たとえば、マルクスは国家というのに異常なほどひっかかるわけです。いろんなところで。そのひっかかりかたはどうしてこんなにひっかかるんだろうかなというようなことが、なんか僕らにはザーッと読めちゃうんです、よくわからないところがあるんです。
それはきっと、その当時の、その時代の現実の総体性的な課題というのを考えてみると、資本主義市民社会というものの、ひとつの隆盛期、あるいは成熟期といいますか、そういうようなもののなかで、おそらく非常に大きなウェイトですが出てきたんだろうなというふうに想定されるわけだけど、ぼくらが読んで、どうしてこんなにまで国家ということにひっかかるのかなということが、よくわからんなというあれを感じますけど。それはようするに追体験という場合に、著書の追体験という問題と、非常に極端にいってしまえば、そこでの現実の総体を含めた追体験というやつと、それから、あなた自身の、いまはまさに『資本論』と直接には関わりないかもしれないところの現実的に当面している現実的課題という問題と、それがようするに、読ませる場合の、あるいは読む場合の、つまり、『資本論』なら『資本論』を追跡する場合の根本的な要点になるんじゃないでしょうか。その2つが問題になると思います。ただ、方法的過程ということだけじゃなくて、そこらへんの問題になると思います。
テキスト化協力:ぱんつさま(チャプター10~13)