1 司会

 ただいまより、学生会館管理運営委員会及び常任委員会主催のシリーズ講座を行います。テーマは「現代とマルクス」というテーマです。本日の講演は、吉本隆明先生にお願いしました。テーマは、いちおう初期マルクス、吉本先生が本を出されている、たとえば、『カール・マルクス』という本ですけども、こうした本なんかをテーマとして、吉本先生の過去の『戦争責任論』及び『転向論』あるいは、そうした独特のユニークな論文から試作にいたるような、思想的な営為、そうしたものに至る過程、いわゆる変化ですね。そうしたところを、ぼくらは読み取る必要があるんじゃないかというふうに考えます。それでは、吉本先生に講演していただくことにします。

2 マルクスの思想と時代

 ただいま、ご紹介にあずかりました吉本です。本年は、マルクスの『資本論』が出てから100年目にあたるそうですけど、わたくしが『資本論』をいちばん最初にお目にかかったのは、いまから20年前ですから、わたしにとっては、だいたい20周年記念ってことになります。これは、だいたい戦争が終わってから、2,3年経った頃だっていうふうに記憶しております。
マルクスは、自分の思想的な展開をなすにあたって、どういうふうに考えたかっていいますと、当時のドイツっていうのは、いわゆる神聖国家であり、キリスト教的な神聖っていうものと、国家権力っていうものが結合して、まったく眠ったような状態にあったわけです。
ところで、ドイツ以外のヨーロッパの国では、現在、人々がいう反体制運動、ようするに、労働者運動っていうものが、単発的でありますけど、展開されていた。しかし、ドイツでは、まったくそういうような、現実的な展開っていうのはなされていなかった。
マルクスが考えたのは、ようするに、しかしながら、眠ったようなドイツにおいて、ドイツ哲学、つまり、ドイツ観念論の体系っていうもの、そのドイツ哲学っていうのは、たとえば、当時でいいますと、ヘーゲルを頂点とするわけですけど、ヘーゲルを頂点として、ほとんど、観念的な弁証法としては、極限まで到達していた。そこでは、人間の意識一般の問題から、家族、国家、法、そういうものについての、あらゆる考察っていうものが、すでに徹底的なかたちで、なされていたことがあります。
ところで、現実運動を展開していたヨーロッパの他の国では、実践運動っていうものは、単発的ではありますけど、なされていましたけど、しかし、それを支配するといいますか、それを突き動かす原理としての思想・哲学というものは、じつは非常に貧弱であったっていう、そういう状況に直面していたわけです。
マルクスが考えたのは、ようするに、思想、つまり、哲学は、ドイツ観念論というものを、独自のかたちで組み替えることによって、そして、現実運動というものは、ヨーロッパのドイツ以外の国で行われていた、ある程度近代化していた国で行われていた現実運動を、いわば手本にして、つまり、頭脳はドイツ観念論の組み替えによって、そして、実践運動は、ヨーロッパで行われていた労働者運動、その他のインテリゲンツィア運動っていうものを学びとることによって、つまり、それらふたつを結合することによって、全欧州をインターナショナルにつなぐ、そういう運動が、真の意味で展開されるに違いないというふうに考えたわけです。そして、マルクスの思想的な営為っていうものがはじめられていったわけです。

3 戦中・戦後の日本哲学

 ところで、わたくしが20年前、つまり戦争終わって直後のほうですけど、そのころの日本っていうのはどうであったか、あるいは、戦争中のいわゆる天皇制国家における日本の哲学はどうであったかって考えてみますと、これは、マルクスなんかのあれと、まったく違って、きわめて貧弱な反動哲学、それから、保守哲学っていうものしか存在しなかったわけです。
もしも、日本の保守哲学者や反動哲学者っていうものが、戦争中に優れた業績をあげていたとしたならば、われわれはそれを組み替えることによって、そして、戦後の思想的な問題っていうものを、ある程度、現実的な労働者運動っていうもののなかで、展開することができたっていうふうに、マルクス流にいえば、考えられるわけですけど、ところで、どういうわけかわかりませんけども、日本の、反動的な、あるいは、神権、つまり、古代遺制の濃い、戦争中までの天皇制国家っていうもののなかでは、優れた反動哲学も、それから、優れた保守哲学も存在しなかったわけです。
たとえば、現在の市民主義者諸君っていうものは、戦争中どうであったかっていいますと、これは、戦争は好ましくないという感情を、心の内で抱きながら、しかし、自らは、鉄砲を担いで戦争に出かけていくという、そういうような、つまり、二重性としてしか、戦争を通過していなかった。つまり、そこでは、リベラルな、あるいは、保守的な哲学っていうものが、非常に高い精度で完成されたっていうことはなかったわけです。
たとえば、そういう戦争中の、戦争そのものを合理化するようになった哲学者っていうのは、いわゆる、いまのじゃない、元の京都学派っていう哲学者っていうのがそうですけど、そういうものは、すこしも上等なものでなかったっていうことがいえます。
それから、もっと反動的な、右翼的なイデオロギーっていうものは、だいたい、社会有機体説みたいなかたちで、天皇というカリスマの存在のもとに、国家社会主義的な、あるいは、農本主義的な復命というものを成就するという、そういうかたちで、非常に前世紀的なかたちでしか、哲学を展開していなかったっていうのが、そういうふうな状況があります。
そして、もちろん、マルクス主義者っていうのは、それらいずれか両方につくか、あるいは、なにも思想的営為をしなかったか、どちらかっていうような、そういう状況で、わたしたちは戦後を迎えたわけです。
それゆえ、わたしたちの体験によれば、つまり、戦後に展開されるべき思想的な起点っていうものは、まったく存在しなかった。つまり、自分自身でさぐるより仕方がなかったっていうふうに、思想の問題っていうのは存在したわけです。
わたしなどは、いろいろなかたちで、たとえば、キリスト教の問題についても考え、それから、日本の古典、文学、思想っていうものについても考えていく、そして、マルクスについても、とりついていったわけですけど、その際、まったく、日本のマルクス主義者っていうものを、つまり、戦争中に沈黙しているか、あるいは、反動哲学の合理化をやった、そういうマルクス主義哲学者から学ぼうっていうような問題意識は、まったく存在しなかったんです。それゆえ直接、マルクスそのものにあたっていったっていうふうな体験をもったわけです。

4 マルクスの国家哲学と『資本論』

 わたくしがそういう体験から考えて、マルクスにおいて、もっとも驚嘆したっていいますか、もっとも衝撃を受けたのは何かっていいますと、それは国家哲学というものなんです。つまり、どういうことかっていいますと、国家っていうものが、共同的な幻想であるということ、つまり、国家っていうものは、共同的な幻想であるっていう、そういうマルクスの考え方っていうものに非常に衝撃を受けたわけです。
なぜかっていいますと、われわれの戦争体験によれば、まさに、市民社会における個人よりも、家族よりも、それよりも、国家自体のほうに重点がかけられるべきだっていう、そういう出発点をもったわけで、それに対して、かけられるべき国家っていうものが、ほんとうは幻想的なものだ、つまり、共同性を装った幻想に過ぎないっていう、そういうマルクスの考えっていうのは、ものすごく衝撃を受けたっていうふうに記憶しております。
そして、マルクスの著書っていうものを、だいたい初期から後年に至るまで、つまり、『資本論』に至るまでずーっと眺めていってみますと、だいたい国家についての考察っていうものは、ヘーゲルの法律哲学を批判した論文っていうもので、だいたいにおいて完成した姿をとり、かつまた、終わっているってことがわかります。
それ以後のマルクスっていうものは、だいたい、経済学的な、あるいは、経済的な範疇の問題に首を突っ込んでいったわけです。『資本論』の完成っていうのは、そういうふうにして、つまり、最後の帰結点として、提起されていったわけですけど、しかし、わたくしの問題意識からいいますと、つまり、ヘーゲル法哲学に対する批判っていうことで頂点に達する、マルクスの国家哲学っていうものを、つまり、そういうものをどういうふうに展開するかっていうものっていうことが、非常に大きな問題となってやってきます。
この問題は『資本論』100年記念には、一見するとふさわしからざるようにみえますけど、わたくしどもの考えでは、『資本論』における経済的な範疇っていうもの、つまり、経済的なカテゴリーっていうものは、どういうふうにマルクスのなかで考えているかといいますと、経済的な範疇の考察っていうものは、あるいは、その理論的、科学的解明っていうものは、もしそれを経済的な範疇の内部で、つまり、内部構造を展開する場合には、幻想性の問題、つまり、国家の問題っていうものを、あるいは、宗教の問題、法律の問題、あるいは、芸術の問題、そういう幻想性の問題っていうものは、捨象することができるんだっていうような位相で、経済的範疇が考えられているっていうふうに理解しています。
つまり、マルクスはけっして、経済的範疇こそはすべてであると、つまり、人類史を決定する、人類史の動向を決定するすべてであるっていうふうに考えていないっていうふうに理解しております。
だから、もし、経済的範疇っていうものを、第一義的な、人類史を動かしていく動因だっていうふうに考える場合には、考えるとして、それを解明していく場合には、幻想的な範疇っていうものは、遠のけることができる、つまり、捨象することができるっていうような、そういう位相で、そういう抽象的な、抽象性の位相で、経済的な範疇っていうものが考えられているっていうふうに、理解しております。
それゆえ、いわゆる弁証法というものと、史的唯物論っていうものを、それは、1920年代以降のロシアで発展されてきたものですけど、そういうものは、だいたい前提において、経済的範疇を全範疇のように考えて展開されたものであるから、まったく無効であるっていうふうに、ぼくは考えております。
だから、そういう点が、あらかじめ、いわゆるマルクス主義者諸君っていうものと、ぼくの言葉でいえば、ロシア・マルクス主義者っていうわけですけど、それと全く違うっていうこと、そういうことを、とにかく、はじめに申し上げておきたいと思います。

5 自然哲学と疎外論

 マルクスの、いまから20年くらい前に、ぼくがマルクスにとりついたときには、みなさんでは、わりあいに一般的になっている経済学と哲学に関する思考っていうもの、そういうものは、だいたい日本では翻訳されていませんでした。だから、これは、ぼくがとりついたのは、ここ6,7年前ということになります。だから、マルクスの全体系を考える場合に、非常に重要な著書であるっていうふうに、ぼくは考えるわけです。
なぜならば、ここで展開されている自己疎外論というもの、あるいは、疎外論っていうものがあるわけですけど、この疎外論っていうものが根底にないと、幻想性の問題っていうものを、つまり、国家の問題、法律の問題、宗教の問題、それから、芸術の問題っていうような、そういう問題の考察っていうのは、なかなかむずかしいわけです。
それがなければ、経済的な下部構造、つまり、土台っていうものが変化すれば、上部構造はそれにつれて変化するのであると、それで、せいぜい上部構造っていうものは、下部構造に動かされて変化するなかで、せいぜい相対的に独立性をもって反作用を及ぼし得るんだっていうような経路でしか、幻想性の問題っていうものが提起されないからです。だから、自己疎外論っていうものが、あるいは、疎外論っていうものが、非常に重要な問題っていうふうに考えられてきます。今日は、そういうところから入っていってみたいと思います。
疎外、あるいは、自己疎外っていうような概念はもちろん、マルクスがはじめて使った概念ではなくて、すでに、ヘーゲルによって使われていた概念ですけど、つまり、自己疎外っていう概念は、マルクスのなかで、どういうふうな意味をもっているかっていうようなことを考えていきますと、第一に、基本的にはこういうことなんです。つまり、人間っていうものは、対象的な行為なしには存在しえないってこと、対象的な行為っていうのは、他の人間に対して、あるいは、自然に対してでも、どちらでもいいわけですけど、つまり、他の人間に対する対象的な行為っていうものなしには、人間っていうのは存在しえないってこと、ところで、人間が、生存の、つまり、存在の必須の条件である対象的な行為をしますと、自己自身が、それにつれて、中性的な自己から、つまり、本来的な自己から疎外されるってこと、つまり、自分自身のほうも反作用を受けるってこと、影響を受けるってこと、あるいは、反作用を受けることなしには、対象的な行為っていうものは、なしえないっていうのが、だいたい、マルクスの考えている疎外論の根底にある自然哲学っていうものであるわけです。そういう自然哲学っていうものが…。

6 疎外論の基本構造

 そういう自然哲学っていうものが、経済的な範疇っていうものを基本構造として解明される市民社会っていうものに、わかりやすく図式化しますと、自然社会っていうものに移し植えられたとき、つまり、これはどういう言葉を使ってもいいわけですけど、表象っていう言葉を使ってもいいですけど、つまり、移し植えられたときに、経済的範疇としての自己疎外っていう関係が成立します。
それは、働く者と、その結果としてできた生産物との間に、それから、また、その生産物を、一定の法則に従って、利潤を所有しながら、展開している資本家に対して、そして、労働者に対して、やはり、自己疎外っていう、疎外される関係っていうものが成立するわけです。
その場合に、自然哲学の範疇から、市民社会の基盤である経済的範疇っていうもの、これに結び付けられる、つまり、表象されることを同様に疎外、あるいは、自己疎外っていうふうにいっています。つまり、自己疎外っていう概念は、自然哲学の範疇の内部との関係のみならず、自然哲学の範疇が、市民社会の経済的な範疇に移し植えられたときにも、やはり、移し植えることをも疎外っていうふうに、あるいは、自己疎外っていうふうにいいます。もちろん、市民社会の内部構造のなかで、こういう関係が成立するわけです。
ところで、市民社会のそういう経済的な範疇っていうものを、諸関係っていうものを基盤にし、人間関係っていうものが、観念っていうものを生み出していくわけですけど、観念の世界、つまり、幻想性の世界っていうものを生み出していくわけですけど、この場合に、市民社会における生活諸関係、あるいは、経済的諸範疇っていうものから、幻想性の範疇へ移し植えられる、それをまた、疎外というふうにいいます。これは、いわば、観念的な疎外、あるいは、観念的な自己疎外っていうふうにいいます。
だから、疎外っていう概念は、空間的な概念であるとともに、非常に時間的な概念である、それから、もっと言い方を変えれば、人間の全範疇のもつ位相性の転換っていうもの、そういう概念を、また、疎外っていうふうにいうわけです。これが、マルクスの疎外論の基本的な構造っていうふうになっております。
現在、マルクスを検討するっていうような機運のなかに、いろんなかたちがあります。たとえば、ロシアで20年代以来展開されてきた、ロシア・マルクス主義の基本になっている、基盤になっている唯物弁証法っていうものと、史的唯物論ってものに、なにかどこかに欠陥がある、それを修正する。あるいは、補う、なんらかの哲学で、あるいは、かたちで補う、あるいは、修正するっていうような、そういう立場っていうのもありえます。それは、たとえば、サルトルがそうですし、日本におけるサルトルの亜流っていうものは、そういう立場をとるわけです。
それから、日本における、いわゆる、マルクス主義哲学者っていうものがとっている立場っていうものは、やはり、いま申しました、なんらかのかたちで、ロシア・マルクス主義哲学の展開っていうものを補う、あるいは、修正するかたちでなされる。
それから、もうひとつは、観念の疎外論、あるいは、自己疎外論っていうもの、つまり、幻想性の問題、言い換えれば、国家の問題、法律の問題、芸術の問題、そういうような問題っていうものを考えに入れずには、ほんとうの意味で唯物弁証法なんていうのは展開されるものではないんだっていうような、そういう立場のマルクス主義者もいます。
そういうような検討の立場っていうものは、それぞれの立場を、それぞれ表象するわけです。それが、現在、さまざまな立場でなされているマルクス検討っていうものが、ついに、検討するもの自体に、その立場を強要せざるをえないっていうような、そういうような結果っていうものが、そこで、あらわれてくるわけです。
ところで、こういう疎外論の体系っていうものが、なぜ、重要かっていうふうにいいますと、先ほど言いましたように、これなくしては、幻想性の世界っていうものを、つまり、国家の問題、法律の問題、それから、芸術の問題、そういうような問題についてのアプローチっていうものができないわけです。だから、権力論っていうものができないわけです。だから、疎外論っていうものは、それをどういうふうに呼ぼうと、それはいいわけですけど、それはやっぱり、非常に重要な問題として、たとえば、『資本論』に至るまで、完結されて、つまり、『資本論』の自然哲学っていうものを支配してやってきています。
つまり、『資本論』っていうものは、疎外論としての自然哲学と、それから、人類史を自然史の過程として、自然自我っていいますか、そういうものとの交点っていいますか、交差点ってもので、『資本論』の論理っていうものは、成り立っているわけです。
ところで、わたし自身の関心が、当然、わたし自身の身を入れてやってきた、文学なら文学の分野っていうものに、当然、関連してくるわけですけど、つまり、そこから出てくるわけですけど、幻想性の問題っていうものが、つまり、マルクスがヘーゲルの法律哲学批判のところで、いちおう打ち切ったっていいますか、打ち切ったところの幻想性の問題っていうものが、現在、ぼくの問題意識を占めているわけです。つまり、もっぱらそこのところで、ぼくの考え方っていうものが展開されてきているわけです。

7 エンゲルスの国家論

 ところで、現在、マルクス主義者が、ぼくの言い方でいえば、ロシア・マルクス主義者ですけど、ロシア・マルクス主義者っていうものが、国家論を検討する場合に、原点として、つまり、拠点としてよっているのは、エンゲルスの『家族・私有財産・国家の起源』っていうものが原点になっているわけです。原点になっているってことは、それをどういうふうに精密に検討するかどうかっていうこと、精密に検討すれば、そこから国家哲学っていうものが、非常に展開されたかたちで、導き出せるのではないかってことで、そういう検討っていうものがなされています。この検討の原点になっているものは、エンゲルスの著書なわけです。
ところで、この幻想性の問題っていうものを考えていく場合に、ふたつの重要な要素があります。少なくとも、国家っていうものを考えていく場合に、ふたつの重要な要素があります。ひとつは共同幻想、つまり、国家である共同幻想っていうものが何であるのかっていうこと、それから、もうひとつは、国家っていう形態が、個人からは出ていかないっていうことなんです。かならず、家族形態っていうもの、家族っていうものを媒介にしていくってことなんです。つまり、国家の起源っていうのは、かならず、家族っていうものを媒介にしていくってことが、非常に問題になるわけです。
その問題は、もちろん、エンゲルスをとらえているわけで、エンゲルスはこういうことについて、基本的な考察をやっているわけです。ところで、エンゲルスの考察っていうのは、どういう問題かっていいますと、つまり、家族っていうものが、どこまで拡大していったら、それは国家の最初の形態、つまり、国家の萌芽形態に到達する、もっとやさしい言葉でいえば、家族っていうものが、どれだけ延長させていけば、部落っていうような問題、つまり、部族っていうような問題、そういうものに到達するかっていうような、そういう問題が、当然起こってくるわけです。エンゲルスはもちろん、それに対する考察をやっています。
エンゲルスの考察っていうのは、どういうふうにやられたかっていいますと、それを説明しますと、エンゲルスは最初に原始集団婚っていうものを想定したわけです。だから、原始集団婚の段階っていうものを想定していきますと、その原始集団婚の段階では、たとえば、部落内のすべての女性は、すべての男性と、性的行為をもったっていう、そういう段階を考えたわけです。
そうしますと、どういうことになりますかっていうと、すぐにわかるように、家族形態ってものが、部族大に拡大されるっていう方法は、エンゲルスの考えでは、これ以外にないじゃないかっていうふうに考えたわけです。つまり、部落中のすべての女性が、すべての男性と性的行為をもつことができるっていう、そういう段階を想定すれば、ようするに、家なるもの、家族なるものは、すなわち、それは部落じゃないか、部落に一致するわけです。それが一致するには、集団婚段階っていうものを想定したわけです。
その集団婚段階をエンゲルスが想定した根拠っていうのは何かっていいますと、それは、みなさんが『起源』を読めばわかりますけど、何を第一要因と見たかっていうと、それは、人間の、とくに男なんですけど、男の嫉妬感情からの解放、つまり、人間の性的な相互感情っていうこと、そういうことが、集団婚を成立せしめた、非常に第一の要素だっていうふうに、エンゲルスは言っているわけです。
ところが、だけど、そういうことを想定しないと、なぜ、家族形態っていうものが、言い換えれば、男女の性的な関係が形づくる形態っていうものが、部落大に拡大できるかっていうことが、そういうことが言えないわけです。だから、どうしても、こういう関係を想定する以外に、段階を想定する以外になかったってことになります。その要因を、嫉妬からの解放、あるいは、性における男性の相互寛容っていうようなこと、それが、動物と人間とを分かった、それで、人間が比較的、部族的な集団っていうものを形成してきた、第一の要因であるっていうふうに、エンゲルスはそういうふうに説明しています。
ところで、よく考えればわかるように、それは、みなさんが体験的に考えると、わかると思うんですけど、エンゲルスが考えた第一要素なるものは、集団婚の基礎とはなりえないわけなんです。どうしてかといいますと、みなさんも考えればわかるように、たくさんの女性と性的な関係を結んだ男性ほど、結んだことのない男性よりも、嫉妬感情は少ないだろうってこと、つまり、集団婚っていうものが根底にあれば、そうすれば、逆に、嫉妬感情はゆるくなるだろうってことがいえますけど、嫉妬感情がゆるくなったから集団婚が成立したっていうことは、逆になるわけです。つまり、そういうことは言えないわけです。
それは、みなさんがすぐにわかることだと思います。すぐわかるように、そういうふうに人間っていうのはできます。つまり、観念が先にくるんじゃなくて、現実的なことが先にきて、そして、そういう観念が生まれるわけです。だから、逆さから言いうることは、ようするに、よく女遊びをしたとか、男遊びをした、そういう人間ほど、そういうことをしたことがない人間よりも、あんまり嫉妬感情っていうのがないだろうっていうような、そういうことしか言えないわけなんです。
だから、集団婚の第一要因、動因というものを、嫉妬感情からの解放、あるいは、男性の性的な相互寛容っていうものに求めたエンゲルスの考えっていうのは、すこぶるあやしいってこと、つまり、間違っているってことを意味します。そういうアホらしいことはないわけです。そういうことはありえないんだってことが問題なんです。
この問題っていうのは、エンゲルスもそう考えたように、非常に重要な問題になってくるわけです。そうだったら、われわれはどういうことが言えるかってことが問題なわけです。そこで、先ほどの幻想性っていうものの問題になりますけど、ようするに、国家っていうものを、最初の形態として考える場合には、どうしても、家族っていうものを通過しないといけない、考えられない問題があります。問題意識において、エンゲルスの考え方は、なぜ、そういうふうに狂ってきたのか、つまり、なぜ、狂ってきたのかってことが問題になります。
それは、なぜかっていいますと、エンゲルスが性的行為っていう場合には、エンゲルスは、先ほど言いました、経済的範疇で考えたわけです。つまり、人間の男女の分業っていうもの、つまり、性的な分業っていうもの、そういうものが、人間における初源の分業の、一等最初の形態だっていうふうに言っていますけど、つまり、性的行為、あるいは、性的関係っていうものを、非常に経済的な範疇に限定して考えたわけです。だから、性的行為っていうのは、結果として、たとえば、子どもを産むという現実となってあらわれる。つまり、人間自体を生産するっていうような、そういう概念で考えられたわけです。

8 対幻想は共同幻想とどのように一致するか

 ところで、すべての経済的範疇っていうものが、先ほど言いましたように、幻想的範疇をかならず自己疎外するように、人間の自然な性的行為っていうもの、あるいは、性的関係っていうものは、かならず、幻想性を疎外するわけです。それを、ぼくの言葉でいえば、対幻想っていうふうに名付けるとします。
そうしますと、問題は、エンゲルスのように、集団婚っていう場合に、性的行為っていうものを、自然的な性行為、つまり、経済的範疇の性って考えるのであって、経済的範疇の性っていうのは、かならず、幻想性を疎外するものだっていうような、そういう考察を、もしエンゲルスがしていたら、集団婚段階を想定して、家族形態が部落大に拡大するっていうような、そういうことを思い描かなくても済んだわけなんです。
問題なのは、第一に、先ほどの疎外論っていうものは、重要なものだっていう問題が、そこにまたあらわれてくるわけですけど、人間の性的な自然な性行為っていうのは、かならず、幻想性を疎外するわけです。つまり、対となった幻想を疎外するわけです。そういうものを伴うわけです。それが家族っていうものの本質に存在しています。
そうしますと、国家の起源、つまり、国家の最初の形態、言い換えれば、家族形態が国家形態の原始的な形態と一致する点っていうのは、どういうふうに論理的に求められるかっていいますと、それは、ようするに、幻想性の問題でいえば、対幻想っていうものが、どうして、共同幻想と一致するかっていう問題として、それが提起されます。
そうしますと、家族っていうものを、いま、非常に簡単に考えまして、家族っていうものの根本に、根幹になっているものは、たとえば、両親、父親と、母親との自然的な性的関係っていうものを基盤にした対幻想の範疇だっていうふうにします。
そうしますと、自分の子どもの世代の、父親と姉妹っていうものの間にも、それから、母親と兄弟の間にも、それから、もちろん、母親と姉妹の間にも、父親と兄弟の間にも、対幻想っていうような関係っていうのは成立するわけです。ただ、問題は、その場合に、自然的な性行為っていうものを伴うか、伴わないかっていう問題があるだけで、対幻想っていうものがしうるわけです。
それならば、その対幻想っていうものについて、共同幻想っていうものに同致しうる可能性をもつ、唯一の関係っていうのは何かっていうふうに考えていきますと、それは、兄弟と姉妹っていうものの関係なわけです。つまり、兄弟と姉妹っていう関係だけは、ある程度、先ほどの言葉でいえば、空間的な拡大っていうものに耐える関係なんです。それは、兄弟と姉妹の関係っていうものは、自然の性行為っていうものを伴いませんから、非常に、ある意味では淡い関係ですけど、幻想性としては、淡い対幻想なんですけど、しかし、そこにその淡いってことが、逆に、地域的な拡大ってものに耐え、ある程度、永続性っていうものに耐えるっていうようなことが考えられます。
父母っていうものの間の問題っていうのは、死滅すればなくなってしまいます。それから、兄弟の、兄と弟の関係における対幻想っていうのが、想定されるとすれば、それは、父親と母親の世代がなくなったときに、だいたい解体していく、つまり、崩壊してしまうわけです。ところで、兄弟と姉妹との関係っていうのは、ある程度、永続性をもつわけです。たとえば、姉妹っていうものが夫をもち、それから、兄弟が妻をもちっていうような立場になった場合でも、永続性をもつわけです。対幻想はどういうかたちか知らないけど、共同幻想っていうものにあたう限り接近しうる可能性っていうものは、兄弟と姉妹っていう関係の中にしか存在しないわけです。
いわゆる母系制の社会っていうものでは、同じ母親から出た姉妹の系統っていうものが、基本的な系統っていうふうに見なされます。それに対して、兄弟っていうものは、同じ母親を、宗教的にか、あるいは、実際的にか、実際的な親愛感か、あるいは、宗教的な崇拝感かってことは別としまして、同じ母親をもっているってことにおいては、兄弟と姉妹っていうものは、非常に同じ意識を持つわけです。
ところで、しかし、空間的には、あるいは、空間性としては、それは、離れ離れとなりうるわけです。ただ、同じ母親であるっていうこと、つまり、同胞だっていうこと、そのことにおいては、兄弟と姉妹っていうのは結合しうる。エンゲルスが、たとえば、スタムッターっていうわけです。それに対して、兄弟と姉妹っていうものは、あたう限り、空間的な拡大に耐える。つまり、共同幻想っていうものに、あたう限りむかえ得ると、それにもかかわらず、たとえば、夫をもち、そして、これが、母系制の社会では、本幹の系統になってくる。そして、兄弟っていうものは、また、他の部族の女性か、同部族でもいいわけですけど、そういう女性と婚姻して、自分らの系譜として出ていくわけです。
その場合に、母系制だったら、もちろんこっちが本幹になってきますけど、そういうふうにして、つまり、同じ母親を持った兄弟と姉妹との対幻想の関係が、ある程度、永続しうるっていうこと、そのことが、ようするに、家族形態っていうものを、氏族制、つまり言い換えれば、国家の非常に初源的な形態なんですけど、あるいは、国家に入れない人もいますけど、そういうことは範疇の問題だから問わない。氏族制っていうものに転化しうる最初の起源になっていくわけです。

9 イザイホー神事が象徴すること

 たとえば、こういう考え方をしますと、日本なんかの場合に考えますと、非常によく説明されることがあります。いま、九州なら九州で、宮崎県とどこそこで、おれのところが、天孫降臨の地だとか、そういう争いがたえずありますけど、それは、たとえば、沖縄にいきますと、沖縄っていいますか、奄美ですけど、久高島っていうのが、奄美における天孫降臨の地とされているわけなんです。
そして、久高島にイザイホーっていう祭りがあるんですけど、この祭りっていうのは何かっていいますと、部落中のすべての女性っていうものが、一定の年齢の女性がすべて参加する宗教的な行事、つまり、部族における共同宗教の祭りっていうのがあるんです。その祭りっていうのは、どういう祭りかっていいますと、森の中に神社がありまして、そこへ籠るわけです。そして、神うたといいますか、祝詞といいますか、そういうものを唱えては踊り、唱えては踊りっていうような、そういうことを4日くらいやるわけです。
それをやらないと、部落に対して、あるいは、島における権利を放棄するっていうような、つまり、口があまりきけないっていうような、そういうようなあれですから、たとえば、地方に出稼ぎにいっている女性でも、そのときには、13年に1度あるんですけど、島に帰ってきて、その神事に参加するわけです。
そういうのは、いまも残っているわけですけど、最後の4日目に、どういうことがあるかっていいますと、いわゆる、巫女さんなんですけど、巫女さんの最高の位にいる、そういう巫女さんが、4日間うちに帰らないで、神事を終えたそういう女性に対して、額と頬に赤い印をつけるっていうような行事があるんです。
それから、もうひとつ、それが重要なことなんですけど、その女性、もちろん、既婚者でも、未婚者でもいいわけですけど、両方いるわけですけど、その女性の姉弟が、米をあれした団子を持ってきて、それを、4日目の神事を終えたところの祭場に持ってくるわけです。それは夫じゃないんです。夫じゃなくて兄弟なんです。兄弟がそれをつくって持ってくるわけです。既婚者の場合でも、兄弟が持ってくるわけなんです。そして、つくってきた団子で、額に触るとか、頬に触るとか、そういうふうな一定の儀式をしますと、そうしますと、島の女性っていうのは、巫女さんの最初の位といいますか、位階につけるわけなんです。つまり、巫女さんとしての資格を獲得するわけです。
そういう神事が象徴するものは何かっていいますと、母親はずっとさかのぼっていくわけですけど、姉妹っていうものが、神権、あるいは、宗教権っていうものを獲得しているところでは、その兄弟が、政治権力を獲得します。
それだから、この儀式の意味っていうのは、女性の系統が、ようするに、神からのなにか知らないけど、共同的な宗教神事に参加することによって、神から得られる資格を獲得して、それは兄弟に契約かわかりませんけど、そういう関係の象徴行為が行われたときに、神事が終わるっていうことなんです。だから、姉妹が神権を獲得したときには、たいていその兄弟が現世的な権力を獲得するわけです。
そのわりあいに新しいかたちが、たとえば、みなさんが古代史のあれで、邪馬台国論争っていうのがあるでしょ、あれは何かっていいますと、いろいろバリュエーションっていうのはあるんですけど、ようするに、巫女さんの最高のところにいる、つまり、神権を握っている巫女さんっていうものを主体にして、兄弟が政権を握る、つまり、現世的な権力を握るわけですけど、それは、バリュー神事として、神権と政権っていうのを兼ねている場合がありうるわけです。邪馬台国論争っていうのは、こういう神事がさかのぼれる限りの形態の非常に新しいものだ、つまり、邪馬台国っていうのは新しいものだっていうふうにいうことができます。
この神事っていうのは、どこまでさかのぼれるかっていいますと、だいたい日本っていうのは、みんなそうですけど、大なり小なりそうなんですけど、島ですから、男性っていうのは海岸へでて漁に、女性っていうのはだいたい、雑穀を栽培する、つまり、水稲稲作っていうもの、農耕社会に移行する以前のところまでは、いま残っている形態っていうのはさかのぼることができるわけです。
だから、そういう意味では、少なくとも、日本の天皇制国家っていうもの、日本国家っていうものは、農耕権力っていうものからはじまっていますから、だから、それ以前の形態っていうものまで、だいたいさかのぼることができるわけです。
こういうふうな考え方をしますと、対幻想っていうものが空間的な拡大に耐えるのは、ようするに、国家の形態に移行しうる可能性をもちうる唯一の関係っていうのは、兄弟と姉妹との関係であるってこと、つまり、そういうところが、非常に重要な問題になる話です。

10 エンゲルスへの根底的な批判

 そうしますと、モルガン、エンゲルスの考え方っていうのは、現在の古代法の学者には、まったく否定されていますけど、つまり、全面的に否定されています。危ない説ですけども、危なっかしくなっています。なぜ危なっかしくなるかっていいますと、エンゲルスは、いろんな場合にそうなんですけど、たとえば、集団婚なんていうのは、集団婚の形態をもっている部族も混在すれば、あるいは、一夫一婦のようにみえるそういう形態をもっていた非常に古い未開な種族も存在するという程度にしか、集団婚の段階っていうものは想定されないわけなんです。そういうくらいの意味しかないんです。そういう集団婚の形態をもっている部族もいることはいると、しかし、その反対のもいると、その程度にしか信じられないわけです。だから、その後、発見された資料っていうものによって、エンゲルスの考え方、段階説っていうのは否定されていくわけです。
しかし、なぜ否定されるのか、それだったら、一夫一婦制だけしか存在しなかったっていうのが正しいかっていうと、そういうわけでもないんです。もちろん、集団婚のような形態をとっている部族っていうのも残っていますし、存在したってことがいえるわけです。ただ、そういうことは、そういうふうに存在したっていうことがいえるだけのことで、べつに、これが段階のどれを画するっていう意味では、まったく意味がないってことなんです。
だから、そういう意味では否定されるわけですけど、なぜ、そういう否定されるような要素をもつかっていいますと、それは、エンゲルスが家族形態っていうのを国家形態に統一させる、つまり、一致させようとして、そういう試みの前提として、どうしても集団婚を想定しなければいけない、集団婚を想定するならば、嫉妬感情からの解放っていうのを想定しなければならない、そういうふうなかたちになって、問題が展開されているかぎり、それはやっぱり、論理としては、理論としては、原理としては否定されざるを得なくなるわけです。だから、その後の資料が発見されてくれば否定されざるを得ないのです。だから、基本的な意味では、そういう意味でしか存在しないのです。
それは、なぜ、そういうふうになったかっていいますと、エンゲルスが、人間の男女の性的関係っていうものを、そういうものを分業として、つまり、経済的範疇として捉えたっていうことなんです。経済的範疇っていうものは、かならず、幻想性ってものを疎外するものであるっていうこと、そういうことを、エンゲルスがはっきりさせなかったってことが問題なので、それが、ようするに、エンゲルスの考察が、現在、まったく否定されているっていうかたちになってこざるを得なかった、そういう問題になっています。

11 普遍的な国家理論の考察のために

 そうしますと、もうひとつの問題っていうのは、どこで起こるかっていいますと、家族形態っていうのは、法律学者の言葉でいえば、血縁集団っていうことになるわけですけど、家族形態っていうものが、いま言いましたように、兄弟姉妹っていうかたちで、空間的に拡大されていった場合に、どこまで拡大されていくか、それは、国家っていうところまで拡大されていくだろうかっていう問題になります。
それは、どうしても、そこに限界があるってこと、つまり、氏族制っていうようなもの、氏族共同制っていうようなもの、そこまでは、血縁的な集団、兄弟姉妹っていうものの関係を拡大している氏族制っていうところまでは、だいたいそこまではいけるけれども、それじゃあ氏族制っていうものが血縁集団であるかぎり、統一国家っていうもの、あるいは、統一社会っていうものとなりえないものなわけです。
血縁集団っていうものは、また違う血縁集団っていうものを想定しなければ、統一国家っていうもの、あるいは、統一社会っていうものができてきませんから、血縁集団っていうのが空間的に拡大される極限っていうのは、氏族制っていうものにとどまるっていうこと、氏族制っていうのも制度ですから、やはり、共同幻想であることに変わりありませんけど、こういう単独で統一社会っていうものは形成できないわけです。
そうすると、どうしてもなんらかの意味で、どうしても血縁集団と異なった別の要因っていうものを導入していかないと、統一的な共同幻想っていうもの、統一的な国家っていうものを想定することができないのです。そこがまた、モルガン、エンゲルスのアウトになったところなんだけど、それは、氏族制っていうものから部族が生まれ、部族から種族に、いまでいえば、民族ですか、氏族制から部族へ、部族制からそれがまた統合されて種族、あるいは、民族へっていうような、そういうモルガン、エンゲルスの考え方っていうのも、また、危なくなるのは、ようするに、血縁集団の限界点と、それから、部族制生活のところには、ひとつの断層があること、つまり、位相の違いがあるってこと、そういうことがまた、考察されていかないわけです。だから、それを考察されていかないと、共同幻想の問題が、国家の問題として転化して考えられる契機が成り立ち得ないわけです。
だから、ある部族において、血縁集団的な意識、つまり、氏族制的な意識っていうのが、非常に強大に残存しているところもあります。日本なんていうのもそうだと思いますけど。そういう種族もありますし、それから、こんなものはさっぱりなくなってしまっているっていうような、そういうようなかたちで、国家っていうものが形成されていった、そういうところもあります。そういう意味でいえば、国家っていうものは、絶対的には、極端にいえば、地域毎に実体構造が違うっていうふうにいえるぐらいに違うわけです。
だから、こんなもの統一的に理論的に把握できるなんて考えたら大間違いで、もし統一的に理論的に把握をしたいならば、どうしても、経済的範疇からのみ問題を考えてはいけないっていうこと、経済的範疇っていうのは、幻想的範疇っていうものを、かならず、疎外するっていうこと、そういうことをはっきり考察しないかぎり、そういう抽象度で、国家哲学っていうものを考えていかないと、国家論っていうものを考えていかないと、普遍的な意味での国家理論っていうものは、形成されないっていうことがわかります。
そういうところは、たとえば、ぼくらの立場っていうものは、自称マルクス主義者っていうものとまったく違うところなんです。つまり、ロシアのマルクス主義者っていうものとまったく違うところなんです。ロシア・マルクス主義者の最も良心的な部分っていうのは、どういうことをやっているかっていうと、ようするに、共同幻想としての国家っていうものが、経済的な諸範疇の影響を被って、それがマハト、つまり、権力です、マハトっていうのは何かっていいますと、地域大衆っていうものと独立してしまった幻想的な機関なんですけど、そのマハトっていうやつが、権力っていうやつが、ようするに、いわゆる法っていうもの、法っていうのは権利・義務なんです。つまり、マハトあるところに法があり、法があるところにはそれを権利づけるやつと、それを義務として利用する人民っていうのがいて、大衆っていうのがいるっていうのが、それが、マハトっていう概念です。
たとえば、マハトっていうのは、ゲバルトっていう概念があります。これは、権利っていうものが独立にとりだされなくても、義務だけ義務づけるっていう、そういう権力のあり方っていうのがあるわけです。この場合は、強制力とか、暴力とかいうふうなものでいいわけです。どうやってもいいですけど、法っていうのは、かならず、法的な義務付けが行われれば、そうすれば、それに見合うかたちで、大衆の側からも、権利の主張っていうのが見合っています。そういうのが、法の、中性的な概念です。権力の概念っていうのはそういうものです。それから、こういうふうになってきますと、これは、ひとつの義務だけが想定されて、権利っていうものは、まったく無視されていくっていうような、そういうようなかたち、または、マハトが絶対的に自分自身を疎外しているような、そういうようなかたちっていうのはあると、そういう概念っていうのは、エンゲルスのなかにもあるわけなんです。
そういう概念をよくよく区別していかなければならないっていうのが、せいぜい日本のロシア・マルクス主義者の問題意識っていうのはそういうものです。しかし、われわれはいま言ったように、根底的にエンゲルスの国家の起源に対する考察をまったく批判し、それに対して、根底的な批判をもっているわけです。それなしには、どうしても問題が解けないです。

12 〈経済的範疇〉は〈幻想的範疇〉を疎外する

 そういうふうになるとしますと、どういうことが言えるかっていいますと、幻想性っていうものが、おおざっぱにいって、全体的にいって、これが、市民社会の経済的な範疇っていうものによって、幻想性っていうものが制約されますけど、しかし、もしもいったん、幻想性の問題を、内的な構造として取り上げたい場合には、経済的範疇っていうものが、一定のところまで退けて考えることができる。逆にいえば、退けて考えなければならないっていうことがあります、
それから、さきほど、エンゲルスの問題でいいましたように、国家の起源的な問題でいえば、現実社会っていうものは、原始、共産制っていうのをとっているところもあれば、専制制をとった種族もいるんです。つまり、そんなことは統一的なあれはないんです。だから、そういうことを、統一的な理論的段階があるかのように考察するような考察になってしまうわけです。ところが、そんなものは、実際にはないんです。
だから、幻想性の問題っていうものを、内的な構造で解明しようっていう場合には、経済的な範疇っていうのは、あるところまで退けることができる。そのあるところっていうのは、これは、ひとつの構造認識っていうもの、構造的な要素として、経済的範疇がかかわるっていうところまでは退けることができるっていうような、そういう問題っていうのは当然出てきます。
そうしますと、幻想性の問題っていうのは、共同幻想の国家哲学の問題は、国家哲学の内的構造によってとりあげることができるということを意味します。つまり、それは、かならずしも、経済的諸範疇と、いつでもひっからめて合理化していかなければならないっていうようなこと、そういうことが問題となりえます。
そして、先ほど言いましたように、共同幻想と家族の問題、つまり、対幻想の問題っていうものは、あるところまでは、拡大されて、結び付けることができますけれど、あるところで切れるってこと、位相が違う問題だっていうこと、そういう問題は、問題として出てきます。
それから、個人幻想っていうもの、個体の幻想っていうもの、これは、たとえば、文学、芸術なんていうのは、そうなんですけど、文学・芸術の問題、それから、個人がもっている宗教とか、イデオロギーとかを個体の問題として考えるかぎりはそうなんですけど、そういう問題っていうのは、共同幻想に対して、逆立ちするってことなんです。つまり、逆立ちするっていう構造をもっていると、そういうことがいえるわけなんです。だから、個体の幻想から、共同幻想っていうものを直接的に結ぶことは、もちろんできないわけです。だから、もちろん、逆立ちして、導いたほうがいいっていうように導かれることが、関係づけることができます。
対幻想の層っていうのは違うってこと、それを、一般に、家族をどんどん拡大していけば、家族国家ができるなんて思ったら大間違いで、そんなことはないのです。日本の国家っていうものが、戦争中まで、家族国家なんて言われた理由は、ようするに、氏族制的遺制っていうものが、うんと残っていた。なぜ、残っていたかっていうと、それは、だいたい、離れ島だからです。それだから残っていたんです。
だいたい、日本の離れ島っていうものを考える場合には、本州、本土っていうものは、比較的新しいって考えたほうがいいってこと、南と北というものは、わりあい古いってことです。だから、農耕社会以前のところまで、ここの問題っていうのは、さかのぼることができる、そういうことが問題になります。
これは、たとえば、現在、沖縄なんかあれしますと、いろんなかたちで、本土を含めた問題が提起されていますけど、こういう問題っていうものは、考えていく場合には、こっちのほうが、沖縄とか、奄美とか、そういう南方の人っていうのは、自分たちのほうが前日本人だって考えているってことを忘れちゃいけないと思います。つまり、こっちのほうが古いんだっていうこと、つまり、おまえのほうは、いろんなやつが、朝鮮人とか、南方の民族っていうのが混血しちゃって、なんかわけのわからない人種になっているけど、古い日本っていうのは、こっちにあるって考えているでしょうね。そういう問題っていうのは、やはり、考えていかなくちゃいけない。だから、それは、北の問題でもそうなんです。そういうことがあるわけなんです。
だから、芸術・文学なんていうものは、個体の幻想性に属しますから、だから、言われている、政治と文学との関係なんていうものは、本来的には馬鹿らしいわけです。文学っていうのは、政治性っていうもの、つまり、国家に対する問題、共同幻想の問題と、そういうことは逆立ちしてしまいます。本質的には逆立ちしてしまいます。それが、関係といえば関係です。

13 大衆の問題性をくりこむこと

 現在、存在する共同幻想としての国家っていうもの、あるいは、共同幻想としての国家権力っていうものに対して、共同制として反体制っていうものが成立しうるかどうかって考えてみます。そうしますと、現実的には成立しないわけなんです。ようするに、共同幻想に対して、ひっくりかえれるのは、個人幻想、個体幻想だけなわけです。だから、反体制的な共同制っていうのは、本来的には成立しません。
ただ、条件を付ければ成立します。その条件は何かっていいますと、国家としての共同幻想っていうものを、最も観念的な基盤、あるいは、現実的な基盤でもあるかもしれませんけど、観念的な基盤、幻想性の基盤で支えている大衆っていうもの、大衆っていうのは、思想をもった、あるいは、イデオロギーをもった、そういう大衆ってことじゃなくて、そういうものをうんと抽象しまして、ある抽象度をもたせまして、そういうものがまったく何もないというような、たとえ、自分が国家から支配されていようと、そういうような感じは何ももっていないというような、そういうような抽象度で、大衆というものを考えられた場合に、大衆というものの問題性というもの、問題意識っていうものを、思想、あるいは、イデオロギーでもいいんですけど、イデオロギーとして、もし、たえず、くりこみうるならば、反体制的な共同制っていうのは成り立つだろう。
もし、これをくりこまないならば、もし、これをくりこまないで、イデオロギー的に教育された大衆っていうものだけを相手にして、だけを対象にして政治組織っていうもの、あるいは、政治共同制っていうもの、つまり、反体制的共同制というものを考えていけば、かならず、それはその内部で閉じられるってこと、閉じられれば、かならず、それと逆立ちするってこと、逆立ちしていくってこと、つまり、自体が逆立ちするってこと、それは、たとえば、官僚制っていうのは、そうなわけです。
そうじゃなくて、反体制的な共同制っていうのが、たえず、開かれているためには、ある抽象度をもって考えられる大衆の前提の問題っていうものを、たえず、思想的問題としてとりこみうる、そういう集団が存在するならば、それは、反体制的であり、また、反国家権力的でありうるっていうこと、そういう可能性っていうのはありうるわけです。
それは、たとえば、ロシアにおけるレーニン体制っていうのが、だんだん変質してしまったっていう、そういうようなものが、なぜかっていいますと、そういうことが問題なのです。つまり、ほんとはこの大衆を考えたかった、つまり、なんでもない大衆の問題というものを、たえず、くりこんで問題にしうる、そういう共同制っていうものをレーニンが想定して、組織として、党というようなものとして考えたかった、原理としては考えたかったのに、実際問題としては、その内部に閉じられるだけで、これは、われ関せずってなことで、ぜんぜん閉じられてしまった。
それは、歪曲させていけば、もちろん、官僚制になって変化していきますし、それ自体が権力を獲得していけば、それ自体が、国家権力としての強力、あるいは、暴力、つまり、マハト以上のことをなそうとする、つまり、マハトをまた自己疎外してしまう、そういうようなかたちに、また、なってしまうわけです。そういうような問題っていうのは、また、存在しうるわけです。

14 マルクスとエンゲルスの違い

 そうしますと、たとえば、対幻想っていうものが、氏族制っていう限界で断層をもたざるを得ない。それは、どうしても、共同体、あるいは、共同制ってものに、国家の起源にどうしてもいかない断層をもっているっていうような、それならば、なにがこれをつなげるだろうかって考えていきますと、それは、法律学者の言葉でいえば、血縁というものに対して、地縁の共同制というものを基盤として、集団対氏族、氏族対氏族、あるいは、部落・氏族っていうのは、そういうかたちが結成されないかぎりは、いわゆる国家そのものの共同制には移行しない。つまり、血縁集団が当面する壁っていうのは、だいたい氏族制で止まっちゃうと、そういうことがいえるわけです。
だから、この氏族制の遺制っていうものが、どれだけ強大であるか、強大でないかってことが、それぞれの種族国家っていうものの権力のメカニズム、あるいは、構造っていうものを決定する要因となりうるわけです。
だから、それは、おそらくいってみれば、現在、存在する各国家ごとに、それぞれの国家権力の具体的な構造っていうのは、それぞれ違っていることが考えられるわけです。だから、その問題っていうのは、けっして、経済的範疇からでてくる権力の範疇、つまり、幻想性が強力に転化する。あるいは、権力に転化するそういう範疇がでてくるっていうような、そういう問題をいくら微細にやったってしょうがないってこと、つまり、それをもって問題が解けられることはありえない。だから、問題っていうのは、たえず、経済的範疇っていうものが、ある抽象度でしか、法則性が抽出されないってこと、この抽象度は、全人間の全現実性っていうものと、全幻想性っていうもののなかで、経済的範疇っていうものがもっている抽象的な位相、つまり、抽象度の位相っていうものが考察されていなければ、とんでもない間違った結論に導かれるだろうってことが言えます。
これこそが、マルクスとエンゲルスの違いなわけです。マルクスは、非常に心得た人ですから、危なっかしいことは、ちっとも言わないわけなんです。本質的にいえば、国家とは何か、それは、共同的な幻想である。ようするに、簡潔にいえば、それだけのことしか言ってないのです。
それ以上のことを、エンゲルスみたいに言って、それを経済的なあれと結び付けようとすると、いっけん合理的なようにみえて、とんでもないことをやらかすわけです。だから、そういうことは危なっかしくて、つまり、理解は種族ごとに違いますから、違うといっていいくらい違いますから、だから、そんなことは、まともに馬鹿正直にやるってことはしないわけです。だから、そういうところが、マルクスがほんとうに優れているっていうのは、そういうところなんです。つまり、心得ているわけです。
自分が経済的範疇っていうものを扱っている場合には、この範疇っていうものは、全範疇のなかで、どういうことを自分がやっているのかを、よく心得ているわけです。だから、けっして危なっかしいこと、これ以上は、実証もあがるけど、反証もあがるに違いないと思われるようなこと、そういうことについて、あえて法則性なんてものを、つまり、段階的な法則性をつくりあげようってことをしないわけです。もし、段階的な法則性をつくりあげようとする場合には、ある非常に確定した抽象度をはじめから想定して、そこで、法則性っていうものを考えるわけです。それが、『資本論』っていうものの構造なわけです。

15 マルクスの偉大さ

 『資本論』っていうのは、ぼくの考えでは基本的に間違っていないです。つまり、間違いだと思わないわけです。なぜかっていいますと、『資本論』だって、たとえば、抽象性っていうもの、あるいは、経済的範疇の位相性というものをとりはずしてしまえば、そうとう違うことになるわけです。
たとえば、甲なる人間の一労働時間と、乙なる人間の一労働時間っていうのはおんなじだと、ようするに、何が問題なのかっていうと、時間が問題なんだ、ほんとうはそんなことはないのです。たとえば、甲が勤勉で働くことが好きなやつで、乙が怠け者だったら一労働時間は違いますから、量も質も違いますから、生産物の量も質も、もちろん違うわけですけど、つまり、現実的範疇では違います。
しかし、これをおんなじだと見なすことができるっていうのは、あるところの抽象度っていうものを想定しているからです。そういうことと、経済的範疇の全範疇における位相っていうものを、よく捉えているからなんです。だから、甲という人間が、マルクスが一労働時間っていう場合には、まったく自然時間の一労働時間なんです。それ以外のニュアンスはなにもないのです。
しかし、人間の現実的なあらゆる幻想的な範疇っていうものを考慮に入れれば、あるいは、いま言いました、個人幻想っていうものを考慮に入れますと、ある人間にとって、ある条件のもとでは、1時間働いたというのに、30分しか働いたような気がしないこともありますし、1時間働いても、10時間ぐらい働いたっていうような感じになるときもあるわけです。つまり、そういうふうに思うときもあるわけです。つまり、意識の時間というものを考慮しますと、まったく違ってきます。
しかし、それは捨象することができるっていうこと、経済的範疇とした場合に、それをかつ、ひとつの法則性において、内的構造において取り扱う場合には、それは捨象することができるという、そういう経済的範疇の抽象度と位相というものが、よくつかまえられているから、これが、間違わないわけなんです。この法則性まわりでは、間違うことはないわけです。だから、ひとつの法則性をまた、導き得るわけです。
もし、この範疇をとっぱらってしまったら、そんな馬鹿なことが言えるはずがないってなります。甲と乙とではまるで違う、能力も違う、なにも違うってなってくるわけなんです。まったく違うわけなんですけど、そういうことは、逆にできないんだっていう、そういう抽象度で、経済的諸範疇っていうのが考えられているってこと、偉大だっていうのは、そういうことなんです。
その意味で、エンゲルスっていうのは偉大でないわけなんです。マルクスの死後、マルクスの衣鉢ついだっていうような、で、マルクスができなかったことを自分が展開したっていうふうに、エンゲルス自身はそう考えてもいますし、そういうふうに言っている人もいますけど、しかし、それは違うのです。ようするに、これ以上言ったら危ないってこと、法則的には言えないぞっていうような、そういう範疇にとどめてなければならない。
それから、もし、思想っていうもの、あるいは、原理っていうもの、思想っていうものを考えていく場合には、そういう抽象性っていうこと、それから、位相っていうもの、全人間の観念世界、そういうものの生み出した世界の位相っていうものがちゃんとはっきりとつかまえられていないと、しばしば間違えます。
そういう意味の間違えってことをエンゲルスはやっているわけです。マルクスは、そういう危ないところは言わないです。そういうところをしばしばやっているってことなんです。そういうところが、マルクスとエンゲルスの違いっていうのが、そういうところに出てくるわけです。
それは、誰が考えたっていっしょのことであるっていうような、そういうものを知りぬいた、それじゃなければ、範囲内で通用するもの、そういう原理しかつくれないっていうことのひとつの岐路になるわけです。それが、思想っていうもの、あるいは、思想家っていうものの、ひとつの岐路になっていきます。つまり、そういうことを知っているか、知っていないかってことが問題になっていくわけです。
現在、さまざまなかたちで、マルクスの検討がおこなわれ、マルクス主義っていうものの検討、展開というものがなされておりますけど、しかし、それらは、わたくしどもの位相とは、まるで違うので、わたくしどもはあまり、ロシア・マルクス主義も、中国・マルクス主義も、あんまり問題にしていないわけで、ようするに、問題をどこで取り入れて、どこで問題を展開できるかっていうような、そういうことで、わたくしどもの位相は、そういうところに存在するわけです。
そういう考えのいずれが勝利を得るか、将来が決めますけど、しかし、問題の意識がはっきりと違うっていうこと、そういう違いっていうものを、はっきりと踏まえなくちゃいけないってこと、それから、何を自分が問題にしているのかってことを、はっきりと踏まえた上で、問題っていうものを展開しなければならないってこと、それは、たとえば、偉大なるマルクスが教えた、無言のうちに教えた教訓のひとつなわけです。
つまり、まず、現存するひとつの国家っていうもの、そのなにが思想的に、原理的に、なにが粉砕するかっていうような、そのような問題を考える場合には、まず、第一に粉砕されなければならないのは、神話であるっていうこと、つまり、神話が粉砕されないで、なにが粉砕されるものかっていうこと、つまり、ようするに、マルクス流の言葉でいえば、「無知が栄えたためしがない」ってこと、そういうことは、マルクスの偉大さっていうものが教えている、最も大きな教訓のひとつだって考えます。これで、一応終わります。(会場拍手)

16 司会

 いちおう、家族、あるいは、国家の関係なんかについても、吉本先生の講演があったわけです。このあと、だいたい5時半ごろまで、自由討論という形式で進めたいと思います。意見のある方は、なるべく大きな声で言ってください。

17 討論1

(吉本さん)
禁欲主義者で通す内閣は報われないわけです。ただ、形態っていうのはいろいろ変わりうるわけでしょ。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 あなたの言うことはよくわからないけども、ぼくのしゃべった問題の、再三繰返したように、抽象度っていうものと、あなたの抽象度っていうのが違うんじゃないですか、違う意味じゃないですか。
 浅い、深いじゃなくて、位相が違うんじゃないですか。だから、ぼくのしゃべった抽象度の問題をよーくあれしていけば、抽象度の位相っていうものを考えてほぐしていけば、それは、あなたのおっしゃる現実的な問題として主張できるわけです。そういうことが問題なんじゃないですか。
だから、あなたが言っていることの位相っていうものと、ぼくがいま展開した考え方の位相っていうものが違うから、違うものを無理に、そのままでひっつけようとするから、だから、ぼくの言ったことを、現実の世界の政治情勢とか、社会情勢とか、経済情勢とか、そういうものに、まったく移し植えるためには、移していく場合には、それだけの手続きっていうものがいると思うんです。
だから、理論的な、思想的な考察の展開っていうような場合には、ロシア・マルクス主義、中国・マルクス主義を、べつに意識しなくても、展開できるっていうことなんです。

18 討論2

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 つまり、あなたの疑問を解答させる力っていうのは、ぼくにはないわけですけど、ただ、ぼくがそういうふうな考え方に到達するについては、そういうような考え方を到達し、展開しているについては、まずはじめに、現実の諸関係に対する非常に具体的な認識とか、体験とか、そういうものが、そういうふうに出てきたっていうことが言えるんです。
だから、あなたのおっしゃる、現実社会では、個人が自由であるんだから、そういうものが、いろんな経済的な関係にからまって、どうしようもなく、そこである統一的な考え方っていうものに導けないんじゃないかって、そういうようなあれだけれども、ぼくは、現実社会っていうふうに、あなたが言われたときに、それは、たとえば、経済的なメカニズムとしては、資本主義であるわけでしょ。
資本主義っていうのは、市民社会の内部では、個人の考えは自由であるっていうよりも、勝手でいいっていうような、そういうような、ひとつの下等的な形態っていうのをとるのが、やっぱり、資本主義社会っていうものの特徴だと思うんです。
だから、個人が自由なように見えるっていうけども、その自由っていうものは、もちろん、資本主義市民社会っていうもの、そういうものを、限定を被せられたうえで、考えられるべきだって思います。
つまり、だから、資本主義市民社会では、個人っていうのは、自由であることを、いわば、自由であることを強制されるっていうんですかね。強制されているんだってこと、つまり、個人個人がバラバラであるっていうことを強制されるってこと、そういうのが、いまの社会のメカニズムの中核にあると、ぼくは考えるわけです。
だから、自由でありうるっていうわけじゃなくて、自由を強制される、個人が自由であるっていうような、そういう、ぼくのあれでいえば、幻想性を強制されるってこと、それがやっぱり、資本主義社会の特徴じゃないでしょうか。ほんとうに自由ならば、どういうことでも自由なわけです。だけども、どういうことでも自由だっていう自由は、資本主義社会にはないのです。ただ、個人が自由であるっていうことを強制するってことです。強要するっていうこと、その意味で自由であるという、そういうふうに、ぼくには考えられます。
ただ、あなたのいう疑問っていうことを解くことは、なかなかできないと思います。つまり、思想っていうのはいつだってそうなんだけど、伝わるには契機っていうものがいると思うんです。だから、契機のあるところにしか、やっぱり伝わらないし、了解されないっていうふうに、ぼくは思います。だから、そういうことは、疑問だっていうことを、それは疑問じゃないんだって説得する、つまり、啓蒙的態度っていうのは、ぼくにはあんまりないですけど、ただ、ある契機さえあれば、人と人とが理解することができるっていう、思想っていうものは、相互に理解することができるっていうようなことは考えられますけど、それは、すでに用意された契機がなければならないっていうふうに、ぼくには思いますけどね。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 個人がどう考えようと自由であること、そういうことは、言い換えると、ぼくが言いました個人幻想といいますか、つまり、いちばん典型的なのは、文学芸術なんていうのはそうなんです。つまり、文学・芸術なんていうのは、現実にいろいろな制約があろうと、観念の展開という、そういうなかでは、自由でありうるわけです。だから、文学作品なんていうのは、どんな勝手なあれもつくりうるわけでしょ。そういうようなのが、文学・芸術なんていうのは、典型的にそうなんです。そういうものっていうのはあると思います。つまり、そこでの個人的な個性とか、それはあると思います。
つまり、あんまり、人類がかくあるべき方向っていうような、方向のほうに、すこしでも向いているように見えればいいじゃないか、そうだろっていうような、問題っていうのは、ある次元では、ある位相では、そのとおりというより仕方がないところもあるんです。ただ、ぼくが今日お話したような次元では、問題にならないってことなんです。
それから、もうひとつは、そういうふうなことを考える場合には、やっぱり、経済的な範疇っていうものと、国家っていうような形態をとっているでしょ、ソビエトでも。そういう共同幻想性ですね、そういうふうな問題とはべつにして考えたほうがいいっていうことです。考えたほうが、どっち向いてるかってことを特定するにはいいのであるってことが言えると思うんです。
経済的な範疇で考えれば、世界市場っていうのが成立しているわけです。だから、中共の大豆がアメリカに売られて、アメリカ側で大豆が食料品に加工されて、ベトナム戦争の兵隊が食っているっていうような、つまり、経済的にいえば、世界の単一市場っていうのはあるわけです。
そういう問題っていうのは、そういう問題のひとつの拘束性にどれだけ支配されているのかっていうような、そういう問題っていうのは、やっぱり考えなくちゃならない、つまり、中共なら中共っていう国家、ソビエトならソビエトっていう国家が成立するために、必要とする経済的ないろいろな問題っていうのは、世界単一市場に裸にさらされているってこと、そのなかでどういう問題が起こるのかっていうこと、そういうようなことは、そういうようなこととして考えなくちゃいけないと思うんです。
それと、国家の体制っていいますか、意志っていいますか、そういうものは、たとえば、もっとも典型的に、ソビエト人民共和国憲法なら憲法っていうものに、条文を見れば、なかなか立派なことが書かれていると、そういうものは、立派なものだって意味で、たしかに評価しないといけないと、日本国憲法にくらべて、よくできてるっていうふうに評価しなければいけないと、つまり、あなたがいう、人類がこういくだろうっていう方向に対しては、この憲法のほうがよりいいんじゃないかっていう意味で評価しなければならないと、だけど、そいつが、現実の経済的な諸関係のなかで、どういうふうに変質したり、ひねまがったり、あるいは、うまくいってるかっていうことも、また考えなくちゃいけないっていうような、そういうことじゃないですか、ようするに。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 それほどおおげさに言わなくても、ある所定の抽象度をもってしか、現在のところでは、統一的に把握できないんだっていうような、そういうことがあると思うんです。それだけは、ある抽象度をもっているっていうふうに言えると思うんです。それで、もし、間違いがあるとすれば、ぼくは、抽象度を間違えているってことがあったから、間違いだと思います。つまり、それはダメなんだっていうふうに思います。つまり、抽象度として一貫性がなきゃダメだっていうこと、つまり、ある抽象度をもっていることを言って、次には、非常に具体性のあることをひっつけてきて、また、ある抽象性っていうような、そういうようなふうに展開されたものは、ひとつの体系となりえないってこと、体系となりうるには、そういうことがはっきりしていないといけないってことがあると思います。そういう問題じゃないかと思います。

19 司会

 いちおう、講演された内容についての質問がほとんど出てないってことなんですけど、内容自体について、質問のある方、どしどし手を上げてください。

20 討論3

(発言者)

〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)

 3つだと思うんだけど、最初のほうは、共同幻想としての国家っていうものと、現に機能している国家っていうものとは、どういうふうに結び付けたらいいのかっていうような問題だと思いますけど、もちろん、国家は共同幻想であることは変わりないことは、第一にいえると思います。
それから、第二に、そういうことはわりあいに、やってご覧になるとわりあいに簡単なんです。ただ、やってみると、最後の手続きっていうのはかかりますけども、原則的には非常に簡単なことで、たとえば、日本国憲法っていうようなものによって、いわゆる新憲法っていうものですけど、新憲法っていうもので、たとえば、日本の国家の権力的意思っていうのが、いちおう表現されているわけです。そこに、権利・義務っていうのは規定されているわけです。
それをいま、ひとつとってきますと、そこに規定されている条文っていうものと、現に具体的に存在している、つまり、あなたが身近に体験している範囲で存在している形態と、どれだけ食い違うか、どれだけ矛盾するかっていうことは、ちゃんと実証的にわかるわけです。
たとえば、基本的人権が守られるなら守られるとか、そういうようなあれがあるとすれば、どこそこの身の回りのある事件をとってきて、ちっとも守られていないじゃないかとか、じゃあどの程度、守られていないかっていうのは、それは、ちゃんと調査すればすぐにわかります。それは、そういうふうに国家っていうものと、現実的な形態っていうものと、そういう矛盾している度合いとかなんかは、みんなすぐに、調査すれば、すぐにわかりますけど、調べるのはたいへん面倒ですけど、原理的には調べればわかるってことは簡単なんです。
それから、たとえば、羽田事件っていうのがあるとするでしょ、そうすると、中共なら中共だった人は、反米・反政府闘争だっていうふうに評価するでしょ。しかし、いま、アメリカと日本との関係っていうのは、どういう関係にあるかっていうのは、まず、第一に、安保条約を条文において見てみればいいわけです。そうすると、そこの条文において、相互の国家に、それぞれの国における憲法の規定に従って云々っていうような、そういうふうな規定がはさまれてあります。そうすると、安保条約っていうのは、それぞれの国の憲法に規定するそういうあれによって、ちゃんと、そういう意味では、相対的独立性をもっているってことがわかります。
だから、たとえば、日本がアメリカにまったく従属しているっていうのは、そういうところで嘘だっていうのがわかります。それじゃあ、安保条約の規定には、それぞれの国の憲法の規定するところに従ってって書いてあるけど、実際問題として、基地を貸す場合に、その周辺において、たとえば、どれだけの人が、たとえば、農家、農民の人が立ち退きを命ぜられると、そうすると、どれだけの損害が発生するか、それに対して、どれだけのあれしか支払われていないとか、立ち退くか、立ち退かないかは、それぞれの意思によるわけですから、それが、どれだけ守られているか、守られていないかっていうのは、具体的に調査すればすぐわかる。
それによって、規定としては、それぞれの憲法に従うって、そういうふうに書いてあるけど、しかし、ほんとはこの程度はインチキになっていると、従属しているっていうような、具体提起には、そういうことは調べればいいわけです。すぐにわかります。そういうことはわかると思います。ぼくはそう思います。
そんなことは、イデオロギー、理論の問題じゃなくて、具体的条文と、どれだけ現実的に矛盾しているかっていうような、そういう問題は、ちゃんと調査すればわかります。だから、もちろん、これを反米民族解放闘争だっていうようなことを言うのは、まったく違うということ、それは、規定は間違いであること、それは、ちゃんと条約をみればわかるわけなんです。書いてあるんです、それぞれの国の憲法に違反しない範囲でっていうふうに、ちゃんと書かれていると、しかし、実際問題として、違反している部分があると、それは、どれだけ違反しているか、どれだけ物質的な損害を個々の大衆に与えているかってことは、熱心に調べればすぐにわかります。
だから、それがどれだけ、法として、憲法として、顕現している現実国家っていうものと、具体的な現実社会における、市民社会における具体的なやつと、どれだけ矛盾して、どこが一致するかってことは、そうやって調査すればすぐにわかります。それは、各民法、家族法、刑法、そういうのに従って、みんないえることで、どれだけ決行して、どれだけ矛盾しているかってこと、どこだけ合致しているかっていうのは、すぐにわかりますから、それはやっぱり、具体的に調べる問題として、存在すると、ぼくは思われます。
いちばん、国家っていうものの、権力維持っていうものが、いちばん顕現されるのは、ようするに、一般的には法です。法のなかに、非常によくあらわれます。法は、法律条文のなかにあらわれます。それは、その条文はいかに、具体的なあれと矛盾するかっていうのと、どれだけが一致するかっていうことは、それは調査の問題です。ぼくはそう思いますけどね。

21 討論4

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 いまので大部分言ってると思いますけど、つまり、そうしますと、法律にのっとって、ある機関っていうものが設けられるわけです、国家機関っていうものが。つまり、一般、ふつういう官庁とか、警察とか、自衛隊とか、みんないろいろ、自衛隊法とか、警察法とか、いろいろありますけど、そういう規定によって、それはいわば、憲法のもとにある国家意思の、ひとつの具体的な規定です。
そういうものとして、具体的にありますから、そして、そこに人がいて処理していますから、そういうものと、また、具体的にどういうふうになっているかってことと、つまり、公務員っていうやつは、国民の全体に奉仕しなければならないっていうような、そういう規定が、たとえば、憲法にあると、しかし、実際、公務員たる警察官、それから、官吏ってやつは、だいたい全体に奉仕しているかどうかっていうのは、ちゃんと個々の具体的なケースに即して調べれば、すぐにわかるわけです。そういうふうに顕現するわけでしょ、共同幻想っていうのは。
具体的には、そういうふうに機関を設けて、それで、機関が機関としての機能を逸脱する場合には、暴力っていうのは強制力になりますし、じつは規定していない部分では、権利・義務を守っているように、つまり、権利をも保護しているように機能していますし、そういう面があるでしょ、たとえば、権利も保護しているっていうような面として機能している面もありますし、それを権利・義務の範囲を逸脱して、強制力、あるいは、暴力として存在しているっていうような、そういうような場合もありますし、それは、具体的にあたれば、すぐにわかると思います、その範囲っていうのは。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 つまり、ぼくが基本的にもっている批判っていうものは、エンゲルスは、家族とか、国家とか、私有財産の起源っていうものを考察していく場合に、ようするに、経済的範疇と、それから、幻想的な範疇ですね、幻想性の範疇っていうもののひっつけ方、関係のさせ方が、ようするに、ものすごく無造作だってこと、それから、そういうことがはっきり踏まえられていないってことが問題だっていうふうにいいます。
で、ぼくは国家の、非常に起源的な形態っていうものは、だいたい家族っていうかたちと関係していきますから、そこからいきますから、だから、それは対幻想っていうようなこと、つまり、家族の根幹たる、性的な自然関係っていうもの、そういうものは、かならず、対幻想っていうものを疎外するものであると、そういうことがはっきりと踏まえられていないってことが、そこでは問題なんだと言いました。
それは、普遍化できるのであって、エンゲルスの国家論っていうものを、そういうようなものについても言えることなんです。つまり、共同幻想についての考察でもそれがいえるので、いってみれば、非常に曖昧なる位相で、あるいは、曖昧なる必要性で、経済的範疇っていうものと、それから、幻想的範疇っていうものをかみ合わせて、論理が展開されていく、そういうことがいちばんの問題だと思いますけどね。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 だから、ようするに、幻想的な、人間の幻想性の領域っていうものを、経済的範疇と比較してじゃなくて、幻想性の領域を、どういう構造になっているか、それは、日本国において、あるいは、ソビエト共和国において、どういうふうになっているかっていうのは、国家機関がどうなのか、そういうことを問題にしていく場合には、ようするに、経済的範疇っていうのは、下部構造が上部構造を規定するっていうような、そういうような言い方で済まされるのではなくて、経済的範疇っていうものが、ある構造っていうものを介してしか、幻想性の問題に入ってこないっていう、そういうようなところまでは、退けることができるっていうわけなんです。
それで、逆に、経済的範疇を正確に取り扱う場合には、幻想性の範疇っていうのは、だいたい捨象できるわけなんです、逆にいえば。ところが、幻想性の範疇を法則性とか、構造的にとらえようとする場合には、多少、経済的範疇が捨象はできないんです。
つまり、資本主義社会は資本主義社会として、因縁があるわけですけど、だけれども、それは、ある構造をもって、幻想性のなかに、因縁が入ってくるっていうところまでは、それを退けて考察することができるっていう、そういうことなんです。

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 そうなんです。幻想性の考察をする場合には、それは言えないのです。捨象できない、捨象すれば、それだけで、どこまでも進んでいきますから、自動的に回転していきますから、それはできないんです。だけど、構造的にしか、反映するとか、従属するとかじゃなくて、構造的な関連をもつっていう、そういうところまでは、退けて考察することができるっていう、その構造はなにかっていうことは、またおんなじことをぼくは言いますけど、調べてみればすぐにわかります。
なんの問題でもいいです。国家の問題、それから、個人幻想の産物である芸術・文学の問題、それは、経済的な範囲では、けっしてないですけど、しかし、どういうところに経済的なあれが構造として入ってきてるかなっていうことは、個々の作品なら作品について調べてみようとすれば、つまり、文学作品を経済的範疇で扱おうとすれば、それはやっぱり、ある構造で入ってきているなっていうふうに、そういうことは言えるってこと、だけど、そんなことをいうことがべつに、芸術・文学の作品が、よかった、悪かったとか、読んで感心したとか、そういうことを内的に取り扱うこととは、あんまり関係ないってこと、つまり、そういう意味では、構造的にしか入ってこないってことです。

22 討論5

(発言者)
〈音声聞き取れず〉

(吉本さん)
 イデオロギーとは無関係なものとして構成しているわけです。無関係ってことは、ようするに、無意識のうちに、国家そのもの、国家のイデオロギーを受け入れるっていうふうに言っています。無意識に、おれは受け入れているんだって意識していなくても、受け入れているんだけど、自分では、無関係だって思っている、そういう大衆の問題、それが、非常に重要であるっていうことを言っているわけです。
そういうものは、従来の考え方では、イデオロギー的に統一されねばならないっていうふうになるわけですけど、イデオロギー統一すると、意識の歪み、諸悪の歪みになるわけだっていうふうに、そういう考え方をするわけだけど、ぼくは、そうは思わないってことなんです。もし、イデオロギー的に統一するなら、そういうふうに統一しないほうがいいっていうことなんです。
それから、そういう体制っていうのは、普段は無意識のうちに、自分が意識していないけど、たいてい、そのまま受け入れているわけです。しかし、これはいったん自分の必要性っていいますか、自分の勘所に触れた場合には、ぼくはまったく違うものに変化しうるっていうふうに、ぼくは戦争体験からそういうふうに考えています。だから、そういう意味で、大衆っていうものをとらえているわけです。
もし、大衆っていうものをイデオロギー的に統一するってことが問題になるとすれば、ぼくは、そういう統一の仕方じゃなくて、べつな統一の仕方をしたいと思います。統一の仕方っていうのがあると思います。つまり、それは、例をあげますと、これは、生活において本質的であった、夏目漱石っていう文学者がいるわけですけど、その文学者が書いている文書なんです。相撲の話があるんです。相撲取りは、四つに組んだまま動かないんです。そうすると、傍から見ると、まったく静止しているように見える、しかし、そのときに、相撲取りは、ようするに、全力を、渾身の力を、そこに投入してるってことは、しばらく経つと、お腹が波打っていって、汗がたらたら流れているってことにやっとわかるっていう、で、しかし、それもしばらくの間、1分か、30秒の間にけりがついて、どちらかが勝って、自由になると、ところが、人間の生活っていうのはそうじゃないと、つまり、生活者っていうのはそうじゃないと、つまり、傍から見ると、平穏無事に暮らしているように見えて、あるいは、現在の状況において、そういうぼくが想定する大衆っていうのは、なんのあれもなく、イデオロギーもなく、はりきることもなく、何もなく、暮らしているように見えると、しかし、そういうものは、ほんとうによく見てみると、相撲取りが1分で済まされる競技を、生涯にわたって、それをし続けるっていうような、そして、その間にくたびれて、そして死んでしまう、それが人間の一生じゃないかと、つまり、人間の、生活者としての人間っていうのはそうじゃないかと、そういうものじゃないかと、そういうような観点に立つならば、自分の細君であろうと敵である、それから、友だちであろうと敵である、それから、自分自身であろうと敵である、そういうような、非常に突き詰められたところで、生涯にわたって、相撲を取って、そしてやっぱり、くたびれて死んじゃうっていうような、それが生活じゃないのかっていうようなことを言っているわけです。
つまり、ぼくだったら、そういうふうに、生活っていうものは、そういうふうにみれば見られるんだっていうふうに統一すべきだっていうふうに思います。つまり、現在、平和だと、おれは、だから、戦争なんかやだっていうふうに、そんなアホらしいことはどうだっていいのであって、しかし、現在、平和だと思っているそういう人たちの生活も、いったん、ハッと目を変えてみると、平和じゃないんです。そこではやっぱり、力相撲が行われているわけです。そこでは、やっぱり、人は、死ななくてもいいように、たとえば、経済的なあれがないために、死を早めるとか、早めてしまうとか、あるいは、死んでしまうとか、そういう意味では、ちっとも平和じゃないんです。まったく傍から客観的に眺めれば、まったく平和でのんきにやっているじゃないかっていう、あれはイデオロギーも何ももっていないじゃないかっていう、なにも戦争けしからんと思っている人間はいないじゃないかと、そういうふうに、染みついたときはそういうふうに言うけど、しかし、ぼくは、そう思わないので、そういうものは、いったんハッと目を変えてみるとそうじゃないと、そこでは、ほんとに…。


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