ただいま、ご紹介にあずかりました吉本です。ぼくが愛知大学へ参りましたのは、ちょうど、いまから7年くらい前です。安保闘争の最中です。本学の高桑リョウジにお目にかかったっていうのは、そのとき高桑さんは、いわゆる、われわれの大学の学生の、高い服を自慢しておられる。わたくしの印象を申しますと、非常に好感を覚えたのを記憶しております。
当時から7年経っているわけですけど、その間、わたくしが追及していきました問題っていうのは、思想的な意味っていうのは、どういうところで成立していくか、成立するか、そして、それが、どういうかたちで展開されなければならないかっていうような、そういう問題を追及してきたわけです。わたくしは、今日ここですべてにわたって、お話するわけにはいきませんけども、そのなかで、みなさんの知的水準がきわめて高いってことを、前提にいたしまして、お話します。
まず、国家における道徳及び法の発生っていうような問題について、お話したいと思います。この問題が、なぜ、重要かと申しますと、現在、みなさんもご承知かと思いますけど、さまざまなかたちで、国家論というものが提出されているわけです。それは、非常に進歩的な側からの追及、それから、非常に現状肯定的な立場からの追及、さまざまなかたちで存在しておりますけれども、国家論の問題というのは、現在、非常に緊急であり、また、重要な問題だっていうふうに考えますので、わたくしが、その後の7年間の間に考えてきて、現在、到達している地点から、そういうテーマをとりだして、掲げていきたいと思います。
現在までにおける国家論というものは、現状維持的な国家論というのは、べつとしまして、マルクス主義的なかたちでなされている国家論というのは、その源泉をロシアに置いておりまして、とくに、レーニンの『国家と革命』っていうような、非常に、レーニンの著書のなかでは重要なものですけど、そういうようなものに基礎を置いて、それをどう発展させるかとか、どう修正するかっていうような、そういう問題意識として、国家論というものは、現在、問題になっております。
ところで、わたくしの考えでは、レーニンの国家論っていうものの、源泉っていうものはどこにあるかっていいますと、それは、エンゲルスの『家族、私有財産及び国家の起源』という、そういう著書に、だいたい、レーニンに発祥するマルクス的な国家論っていうものの基盤っていいますか、基礎っていうものがあるわけです。
ここで問題になりますのは、エンゲルスの国家論っていうものが、はたして、継承するに値するものであるか、あるいは、もし値するものであるとするならば、どこで、批判ってものを施さねばならないのか、そういう問題が、わたくしなどの、現在における国家の問題についての主要な観点になっているわけです。
こういう観点っていうものは、いうまでもありませんけども、観点自体がすでに、人間の立場っていうものを象徴するわけです。そういう意味で、レーニンの国家論っていうものから、まず、お話をしていったほうが、非常にわかりやすいのではないかって思います。
レーニンの国家論ってものは、どういうふうにできあがっているかと申しますと、それは、いちおう、モルガンの『古代社会』っていう著書を基盤にして、それを整理づけ、かつ、論理づけるっていうようなかたちで、エンゲルスの国家論っていうのは、なされているわけです。
その場合、なぜ、家族が問題になり、私有財産が問題になり、そして、それが、どうして国家とかかわりがあるかっていうような、そういう問題があるわけですけど、それは、エンゲルスの著書を紐解けばわかるように、国家っていうものは、人間の、きわめて、自然性っていいますか、自然性に根ざした家族っていうものの形態、家族っていうものの根本にあるのは、婚姻形態なんですけど、婚姻形態っていうもののあり方を通らなくては、国家っていうものは起源しない、つまり、発生しないってことがあるわけです。
もちろん、家族と国家とは、まったく、別の次元に属するわけですけど、しかし、別の次元に属しますけど、その起源においては、家族っていうものを媒介にしないと、国家っていうものは、考ええないってことをいうことができます。そこで、エンゲルスは、家族っていうものと、国家っていうものが、どういうところで、接続の契機をもつかってところで、問題を、まず、考えたわけです。
で、エンゲルスは、こういうふうに、はじめ考えたわけです。原始的な、ある人類の段階において、人間は、ひとつの段階として、集団婚っていうようなかたちをとって存在したと、それも、かなり永続的なかたちで存在したと、つまり、永続的なかたちであるから一段階として設定できるわけですけど、原始集団婚っていうようなものを想定したわけです。
原始集団婚っていうのは、なにかと申しますと、あるひとつの部落なら部落、あるいは、村落なら村落っていうものがあるとすれば、部落内におけるすべての男性は、すべての女性と、性的な自然行為を行うことができると、つまり、性的な自然関係を結ぶことができるっていうような、そういう段階を想定したわけです。
もちろん、そういう段階でも、ある特定の男女が、わりあいに永続的なかたちで、関係を保つである男女においては、そういう関係は、瞬間的っていいますか、一時的なものに過ぎなかったっていうような、そういう様々な形態をとりうるわけですけど、ともかく、ある村落、あるいは、部落中におけるすべての男性を、すべての女性は性的な関係を結ぶことができると、そういう段階を想定して考えたわけです。
なぜ、そういう段階をエンゲルスは考えたかと申しますと、そういうふうに考えないと、エンゲルスの理論からいっても、そういうふうに考えないと、婚姻形態、つまり、家族の形態ってもの、あるいは、男女の関係ってもの、そういうものが、部落大、あるいは、村落大に拡大するっていう契機は、どこにも考えられないからなわけです。もしも、集団婚で部落中の男女が自由に交わることができるっていうような、そういうようなことを想定しないかぎりは、婚姻形態っていうものが、そのまんま部落大に拡大しうるような、そういう契機が存在しないわけです。もし部落中のすべての男と、すべての女が、性的な自然関係を結ぶことができるとすれば、婚姻、あるいは、性的関係、すなわち、それは、たちまち部落大に拡大されていくっていうような、つまり、家族形態以降の部落大に拡大しているっていうような、そういうかたちが想定できるわけです。
そこで、エンゲルスは、そういう原始集団婚っていうかたちを、人類のある歴史の段階で、一段階として、想定したわけです。それによって、家族形態を通過して、いわば、村落の共同体っていうようなものが成立していく、そういう接続点っていうのが得られるのではないかっていうのが、エンゲルスの考え方なんです。
ところで、なぜ、そういうようなエンゲルスの考え方が起こったかっていいますと、それは、人間の男女における性的な関係っていうものを、いいかえれば、経済社会的なカテゴリーとして、それをとらえたからなわけです。
つまり、経済社会的なカテゴリーとして捉えれば、婚姻っていうのは、一般に男女における性的関係っていうものは、子どもを、つまり、人間です、人間自体を生産する、ひとつの分業、性的分業っていうふうなかたちになります。分業である場合には、階級発生の対象の基盤っていうのは、そこに存在するって考えられるわけです。
それが、エンゲルスが考えた考え方で、つまり、経済的カテゴリーで、婚姻、あるいは、男女における性的関係ってものを捉えたってところが、いちばんの問題になるわけで、そこで、そういうものが、どうして部落大に拡大できるか、共同体に転化しうるかってなった場合には、やはり、部落中の男性と女性が、自由に性的関係をもちうることができる一段階をもっていたと想定する以外にはありえないってことがいえるわけです。
そこで、逆にいいますと、エンゲルスが、そういう段階を一段階として、想定したわけです。そういう段階から、エンゲルスによれば、そういう段階から、兄弟と姉妹、つまり、同じ世代における兄弟と姉妹とは、性的関係を結ぶことはできないっていうような、そういう自然関係を結ぶことができないっていうような、そういう、ひとつの禁制っていいますか、タブーっていいますか、そういうものが、なんらかのかたちで設けられたときに、だいたい、制度としての氏族制、あるいは、前氏族制の段階ってものが想定されるんだと、つまり、氏族的、あるいは、前氏族的共同体ってもののかたちっていうものが、想定できるっていうのが、エンゲルスの考え方の、非常に根本にある考え方です。
ところで、このエンゲルスの考え方は、現在の古代史の学説によれば、まったく否定されているわけで、実証的に否定されているわけですけど、なにが否定されているかっていうと、原始集団婚の段階ってものを一段階として想定することはできないんだっていうことに、つまり、ある種族においては、原始集団婚をとっている種族もある。しかし、ある種族においては、まったく一夫一婦制っていうふうにみえる、そういう形態をとっている種族もある。つまり、たかだかいえることは、原始集団婚をとっている種族もあると、それから、そうじゃない種族もあるというような意味でしか、原始集団婚っていうのは、考え方は成立しないことがわかります。
つまり、そういう意味で、原始集団婚の段階を、ひとつの、人類の婚姻形態、あるいは、家族形態の、一段階っていうふうに想定するってことは、まったく現在においては、否定されているわけですけど、なぜそれじゃあ、エンゲルスがそこで、間違ったかっていうようなことが、なぜそこで、理論的に間違ったかってことが問題になるわけですけど、それは、エンゲルスが、人間の男女における性的関係っていうものを、それを経済的、あるいは、経済社会的カテゴリーとしてとらえるってこと、つまり、あるいは、経済社会的なカテゴリーとしてのみ捉えたっていうような、そういうところに、最初の問題点が考えられる。
つまり、最初の問題はそこにあるんじゃないかってことが考えられると、つまり、エンゲルスの理論っていうのは、どこがダメなのかっていうことが問題になるわけですけど、それは、経済社会的範疇っていうもの、カテゴリーっていうものを、いわば、人間の全カテゴリーっていいますか、全体のカテゴリーのなかで、経済社会的範疇っていうものの位置づけっていいますか、位置づけっていうものがうまくできていなかったっていうことに、問題は、結局、帰せられるわけです。
そうしますと、どういうことがいえるかと申しますと、たとえば、性としての、セックスとしての人間、いいかえれば、男または女としての人間の関係っていうもの、そういう、いわば、自然的な性関係っていいますか、そういうものを基盤にした関係、つまり、それが、家族形態の核にあるわけですけど、中核にあるわけですけど、そういうものは、かならず、ひとつの幻想性っていいますか、観念性といいますか、みなさんの慣れている言葉でいえば、観念性ってことですけど、観念性っていうものを、かならず、自己疎外するものであるっていうような、そういう観点っていうものを、エンゲルスは欠落させたってこと、あるいは、あまりに、そういう観点を無視したってこと、そういうところに、最初の問題点があるわけです。
そうしますと、性としての人間っていうような範疇、つまり、一対の男女の自然的な性関係をもとにする家族形態っていうのは、家族の共同性として、かならず、ひとつの幻想性ってものを自己疎外するってことがいえるわけなんです。その家族、あるいは、性としての人間っていうものの範疇が、自己疎外する観念性は、あるいは、幻想性っていうのは、なにかと申しますと、それは、対幻想っていうことなわけです。
対幻想っていうのはなにかといいますと、その基盤っていうものは、まったく男女における、性としての人間における、性的な自然関係ってものを基盤にして、そこで生まれてくる幻想性、あるいは、観念性の領域ですね、それを対幻想っていうふうにいうわけです。いうわけですっていうのは、ぼくがいうわけですけど、つまり、対幻想の領域っていうふうに言うことができます。
だから、対幻想っていうのは、たえず、人間が、他者を、他人を意識しなければならない、おられない世界っていいますか、つまり、観念の世界っていうものを、対幻想の世界っていうふうに呼ぶことができます。
対幻想の世界以外、たとえば、個々の人間としての、個人幻想の世界では、他者っていうものを、べつに意識しなくても済む瞬間、あるいは、段階ってものがあるわけですけども、家族としての人間、あるいは、性的な範疇における人間っていうものは、かならず、人間が生みだす幻想性っていうものは、かならず、たえず、他者の存在っていうものを意識せざるをえないっていうような、そういう世界だっていうことができます。
この問題っていうものは、いうまでもなく、経済社会的な範疇から、もし、性ってものを、そういうふうに考えれば、経済社会的な範疇を基盤とするに違いないわけですけど、いわば、自然のカテゴリーってものを基盤にするわけですけど、それを基盤にしながら、そこから生みだされる観念性ってもの、そういうものを対幻想の世界っていうふうに呼ぶことができます。
そういうふうに考えていきますと、こういう対幻想の世界を想定することによって、なぜ、こういう家族形態、婚姻形態の、ある程度、持続した段階といいますか、持続性っていうものが、共同体、つまり、前氏族的、あるいは、氏族的な共同体ってものに転化しうるかっていうような問題について、エンゲルスとまったく違う考え方に到達することができます。
それを申し上げてみますと、まず、非常に単純な家族っていうものを想定しますと、これは、いうまでもなく、父親と母親、つまり、一対の男女っていうものの自然的な性関係を基盤にして成り立っている対幻想の世界であるわけです。それを父と母の世代、つまり、前の世代っていうふうに考えてみますと、非常にことがらを単純にするために、単純な家族っていうのを想定してみますと、父親と母親がおり、そこから生まれた世代として、兄弟姉妹っていうものが存在すると、そういうような関係を想定することができるんですけど、その関係内部における対幻想の構造っていうのは、どういうふうになっているかっていいますと、もちろん、父親と母親との間に想定される対幻想の世界っていうものは、自然的な性関係ってものを基盤にしております。
ところで、今度は、兄と弟の間に存在す対幻想っていうものが想定されるわけですけど、この場合には、自然的な性関係ってものは存在しないわけです。しかし、観念性、あるいは、幻想性としての対幻想っていうのは、存在するっていうふうに考えることができます。
その対幻想っていうのは、どういう構造をもっているかっていいますと、それは、だいたいにおいて、父親または母親、つまり、前の世代ってものが死滅したときに、だいたい解体してしまうだろうっていうような、そういう対幻想っていうものが、兄と弟っていうような、つまり、男性の兄弟ってものの間に想定される対幻想の特徴なわけです。
それは、姉妹っていう場合にも、ほぼ同じだと思います。つまり、姉と妹の間に存在しうる対幻想っていうもの、そういうものは、もちろん、自然的な性関係ってものを基盤にしておらないわけですけれども。しかし、そこで想定される対幻想っていうのは、やはり、父親または母親の世代が死滅し、そして、姉が他の男性と、あるいは、妹が他の男性と、それぞれまた、家族形態を分化したときに、だいたい、姉と妹の間にある対幻想っていうのは、消滅してしまうだろうってことが、想定することができます。つまり、そういうふうなかたちで、姉と妹の間にも、性的な自然関係こそなけれども、対なる幻想ってものは存在するってことができます。
ところで、これを個体の論理、あるいは、精神構造の問題っていうものに換言しますと、これは、フロイトならフロイトってものの、非常に特異な領域に属するわけで、つまり、父と子の関係とか、母と子の関係とか、母と男の子の関係、あるいは、父と女の子の関係っていうような、そういう関係っていうものが、人間の精神構造ってものを決定している第一要因であるっていうような、フロイトの考え方っていうのはそういうところにいきます。
つまり、ここでは、フロイトなんかの問題にしているのは何かっていいますと、対なる幻想のうち、世代を異にする対なる幻想ってものが、いかに、人間の精神構造ってものを決定する要因となりうるかっていうのが、たとえば、フロイトの非常に主要な関心になった問題であると、ところで、いま、われわれは、そういう縦の、つまり、世代を異にする、いいかえれば、時間的な、あるいは、時代的な問題、時代的な関係からみられた、あるいは、時間的な関係かみられた対幻想っていうものを問題にしているのではなくて、つまり、国家の問題に到達したいわけですから、空間的に、どういうふうに対幻想の問題が展開されるかっていうようなことが、非常に重要な問題になってくる。
で、いま、対幻想の世界、つまり、家族の生みだす幻想性の世界ってもののなかで、国家っていうものに転化する、非常に重要な契機は、兄弟と姉妹っていうものの間に想定される対幻想の世界、つまり、対観念の世界ってものが、非常に重要な問題になるわけです。
この兄弟と姉妹との間、いいかえると、たとえば、姉と弟の間、あるいは、兄と妹の間ってこと、それはもちろん、性的な自然関係ってものを伴わないわけですけど、しかし、対幻想ってものは想定できる。しかも、この間に、つまり、兄弟と姉妹との間に存在する対幻想っていうのは、かなり永続的だっていうことができるんです。つまり、父親と母親の世代ってものが、仮に消滅しても、つまり、前の世代ってものが消滅しても、なおかつ、自らまた、それぞれ家族形態をかまえても、なおかつ存続しうる、わりあいに永続的な対幻想の世界っていうふうに考えることができます。それが、兄弟と姉妹っていうものの間にある対幻想の非常に特徴になってくるわけです。
そうしますと、われわれも、国家っていうものの起源を考える場合に問題となる、最も重要な家族関係の幻想性ってものは、兄弟と姉妹との間にあるってことがいいうるのです。たとえば、エンゲルスが想定したように、原始的な段階での母系制っていうものを想定していきますと、母系制の系列はもちろん、姉妹の系列で保たれていくわけです。姉妹の系列でもって、次の世代へ移っていくわけです。
その場合には、兄弟っていうものは、つまり、男兄弟っていうものは、母系制、あるいは、母権制の社会では、いわば、一単純家族ってものを想定しますと、その家族とはまったく関係がないわけです。つまり、母権制の根幹っていうものは、姉妹の世代に伝えられていくわけですけど、その場合の兄弟っていうものは、まったく異族、ほかの種族、あるいは、同じ種族でも、まったく違った系列における女性と婚姻することによって、まったく、系列的にみますと、母系社会における家族形態の発展の主要系列から、まったく除外されていくわけです。
だから、兄弟っていうものを想定しますと、兄弟っていうものは、姉妹に対しては、空間的に、つまり、姉妹によって受け継がれる母系制に対しては、空間的にっていいますか、地域的にっていいますか、拡張することができるわけです。つまり、まったく別系列となりうるわけです。だから、もし兄弟ってものが、まったく地域的に別系列、あるいは、家族的にまったく別系列に入るっていうような、そういうような場合でも、兄弟と姉妹との間には、対幻想の世界っていいますか、関係ってものが、なおかつ、存続しうるってことになります。
そうしますと、母系制ですと、父親っていうのは、あんまり問題になりませんから、母親の問題になりますと、家族系列としては、家族の発展系列としては、兄弟と姉妹とは、まったくかかわりのない系列に入っていくわけですけど、それにもかかわらず、その間には、対幻想としての関係が存続し、そして、それが、同じ母親から生まれたようなものという意味での、同母崇拝といいますか、そういうような感情においては、結合性を有するわけです。
だから、兄弟と姉妹とは、仮に地域的に、まったく遠いところに住み、それから、まったく離れて住み、一部落、あるいは、一村落を離れただけの遠いところに住み、そして、家族系列としても、まったく別系列に入るっていうような、そういうかたちを想定したとしても、なお、両者の間には、対幻想としての関係っていいますか、観念的関係ってものは、存続しますし、なおかつ、同じ母親から出たという意味では、種族的なっていいますか、同母崇拝みたいな、そういうようなものっていうのは、やはり存在しうるわけです。つまり、そういう観点に立てば、あきらかに、ある結合性をもっているわけです。
そうしますと、エンゲルスが想定した原始集団婚なんてものは、まったく想定する必要はないのであって、兄弟姉妹における対幻想っていうものを考えれば、それは、地域的にもいかようにも拡大できますし、それから、幻想性としても、家族系列としても、きわめて無関係であるという、つまり、家族としては、非常に無関係な存在になっていると、しかし、それにもかかわらず、対なる幻想ってものは存在すると、それから、同母崇拝っていうようなものも、また存在する。そういうようなかたちを想定しますと、こういう関係自体が、部族、あるいは、村落の共同体っていいますか、あるいは、氏族的な共同体っていいますか、あるいは、前氏族的な共同体っていいますか、そういう形態にまで、婚姻形態自体が、すぐに拡張できるってことがわかります。
つまり、地域的にも拡張できますし、それから、血縁的にも、まったく無関係な家族を営むに至るわけですけど、なおかつ、対なる幻想性としての結合性ってものは存在し、それから、観念的結合性が存在し、また、同じ母親を祖先とするという意味での結合性も存在すると、そういうようなかたちを想定しますと、家族っていうようなかたちが、部落大、あるいは、氏族大に拡大するために、氏族共同制にまで拡大するために、かならずしも、エンゲルスいったように、原始集団婚ってものを想定しないでもいいってことがわかります。想定しないでも、家族形態、あるいは、性としての人間っていうものが、共同体大に拡大していく契機っていうものは、そのなかに含まれているって考えることができます。
たとえば、これが、みなさんの、あるいは、読んでおられるかもしれない、邪馬台国論争なんてのがありますけど、邪馬台国っていうのは何かっていいますと、ようするに、対なる幻想性っていうものによって、兄弟及び姉妹における対なる幻想性によって拡大された、そういう氏族的、あるいは、前氏族的段階における統治形態、つまり、支配形態っていうものの問題であるわけです。
邪馬台国っていうのは、もちろん、わりあいに新しいわけですけど、もっと古いかたちっていうのも想定することができるわけです。そういう問題が、たとえば、邪馬台国論争なんていうので、どういうふうにでてくるかっていうと、こういう兄弟姉妹の関係っていうものが、共同制に転化する場合に、姉妹っていうもの、つまり、女性系列っていうものが、だいたい、宗教的な権力を上層においてはもつという、そうしておいて、それが、現実の政治的な支配形態としては、兄弟っていうものが、そういう支配形態をもつ、分担するっていうような、そういうかたちが、考えられるわけです。それが、ようするに、邪馬台国論争の問題であり、そして、家族っていうものの形態が、いかに共同体大に拡大しうるかっていう、そういう問題になっていくわけです。
だから、姉妹の系列における、宗教的な権威をもっている、いわば、巫女さんとしての最高の段階にいる、そういう女性が、ようするに、宗教的権力を握り、つまり、神がかりっていいますか、そういうような状態で、神からの御託宣を受け取り、それを、自分の兄弟に伝えることによって、あるいは、兄弟を、神からの御託宣によって、動かすことによって、兄弟が現実的な、あるいは、現世的な、政治権力、支配権力っていうものを握るっていうような、そういう形態が想定されるわけです。
そうしますと、ここで、氏族的な、あるいは、前氏族的な段階における、共同体における社会形態、あるいは、権力形態の最初のかたちっていうものが、想定されるわけです。それは、いわば、家族形態からのひとつの転化として想定されるわけで、それを想定するために、かならずしも、エンゲルスのように、原始集団婚っていうものを一段階として考える必要は毛頭ないってことがわかります。
そういうふうにして、統治形態が存在する、これは、たとえば、日本でいえば、日本の神話でいいますと、アマテラスっていうのと、スサノオノミコトっていいますか、スサノオの関係っていうのは、そうなんです。そのアマテラスっていうのが、こういう前氏族的な段階における政治支配的な形態の頂点に位する姉であり、そして、スサノオならスサノオってものが弟であるっていうような、そういう神話のひとつの形態ってものが生み出されるわけですけど、その原型は、まさに、家族形態ってものが、いかにして共同体大に拡大しうるかっていう問題、そういう問題における最初の形態だっていうふうに考えていくことができます。
ここまで転化したときに、だいたい、家族形態、あるいは、血縁集団っていうものを基盤にした、ひとつの共同体っていうものが、想定されるわけです。そして、その共同体における権力のもたれかたっていうものが、どういうふうになっているかっていうような問題が、ここで想定されるわけです。これが、前国家的な、つまり、国家の前期に属する段階ってものが、そこで考えられるわけです。
それでは、こういう形態ってものが、国家っていうものの最初の形態に転化するのは、どういう契機によってであるかっていうようなことが問題になってきます。この場合に、エンゲルスはどういうふうに考えたか、こういう氏族的な家族形態、あるいは、血縁集団ってものを基盤にする氏族的、あるいは、前氏族的な共同体っていうものから、いわば、血縁集団が基盤ではなくて、土地所有っていうようなもの、土地所有っていうような形態を、つまり、土地をどういうふうに所有するかっていうような、占有するか、あるいは、私有するか、そういう形態を基盤にする段階を、経済的範疇として発展していく、そうすると、それをもとにして、たとえば、統一的な、つまり、氏族みたいな血縁集団ではない、いわば、統一社会的な部族社会っていいますか、部族国家っていいますか、あるいは、種族国家っていいますか、そういうものが、発展していったんだっていうふうに、やっぱり、エンゲルスは考えていったわけです。
この考え方っていうのも、非常に疑わしいわけで、血縁集団を基礎にする、いわば、先ほどいいました、家族集団っていうものを基盤にする、氏族的な共同体っていうものは、どのような契機で、部族的な統一社会、いいかえれば、国家成立のはじめなんですけど、そういうものに転化しうるかっていうような、そういう問題において、エンゲルスのとった考え方は、先ほど申しました、家族についてとった考え方とまったく同じで、やっぱり、経済社会的な範疇の一発展を基盤として、それをとらえて、氏族から部族的な統一社会っていうもの、つまり、かならずしも、血縁だけが集まるっていうような集団じゃない、そういう集団っていうものの成立、いいかえれば、最初の国家なんですけど、最初の国家を想定したわけです。
ところで、ここでも、エンゲルスの考え方っていうものは、あらゆる経済的範疇における共同性っていうものは、共同性の関係っていうものは、かならず、観念として、あるいは、幻想として、共同幻想っていうものを、幻想として自己疎外するものであると、つまり、血縁の問題を離れて、血縁っていうものは、つまり、いいかえれば、性としての人間、セックスとしての人間の問題なんですけど、そうじゃなくて、地域的な、つまり、土地私有っていうようなもの、土地所有っていうものを基盤にする、そういう共同体においては、かならず、共同の幻想性っていうものを自己疎外するものであるってこと、つまり、生みだすものであるってことを、そういう問題意識を、たとえば、エンゲルスっていうのは、もたなかったっていうことがいえるわけです。
それをもたないと、つまり、経済的範疇だけで考えますと、つまり、家族集団ってものが、ある経済的必要性から、若干、高度になったかたちを想定しますと、それが、ひとつの土地所有なら所有っていう問題として転化されていく、そして、その土地所有っていうようなものの基盤の上に立って、村落、あるいは、部族っていうものが、国家っていうものを成立しうる、公的な権力、あるいは、公的権力機関っていうものを生みだすっていうふうに考えたのが、エンゲルスの考え方です。
ところで、現在の段階では、実証的にも、かならず、氏族的な段階から部族的な統一国家ができたのではないっていうようなことです。つまり、エンゲルスの考え方っていうのは、氏族的な社会から、あるいは、血縁集団の社会から、ひとつの農耕を基盤とする部族統一社会、いいかえれば、国家っていうものに、発展したっていうような、そういう考え方は、もちろん、現在において、実証的に否定されているわけですけど、この問題も実証的に否定する必要はないので、原理的に否定されるわけです。
なぜ、原理的に否定されるかっていいますと、エンゲルスはようするに、国家の問題といえども、やはり、経済社会的範疇っていうものを、いわば、全共同体の範疇であるかのごとく考えたってところに、最初の問題があるわけです。
もし、経済社会的な範疇における、あるいは、農耕的な土地所有における集団関係っていうのは、かならず、観念の共同性、つまり、共同幻想性っていうものを、かならず、生みだすものだっていうふうに、あるいは、自己疎外するものだっていうふうに、そういう問題意識をもつならば、エンゲルスのいうように、氏族社会から部族社会へ、つまり、血縁的な社会から国家集団へ、そういう転化の仕方っていうのが、かならずしも、単一な発展段階であった、あるいは、連続的な発展段階であったってことがいえないってことがわかります。
そこで、問題となるのは、氏族的な段階から、部族的な統一国家、最初の統一国家へっていうような、そういう発展の仕方は、経済社会的な範疇からは、ひとつの発展っていうふうにみることができるわけですけど、しかし、共同幻想性っていうような問題からいいますと、氏族的な段階の共同幻想性ってものと、部族的な最初の統一国家における共同幻想性っていうものとは、いわば、ひとつ、位相が違うっていいますか、まったく次元の違う問題として考えることができます。それを、連続的な発展って考えるわけにいかないって問題がでてきます。
そうしますと、どういうふうにして、氏族的な社会における共同幻想性っていうようなものが、部族統一国家における共同幻想性ってものに転化するかっていいますと、その間の実証的な問題については、さまざまなカラクタな論議ってものが行われてますけど、そういうことはどうでもいいんです。基本的に、つまり、本質的になにかっていいますと、氏族的な社会おける、つまり、血縁集団、あるいは、家族集団を基盤にする社会における共同幻想、共同体による共同幻想ってものは、もし、なんらかの契機で、ようするに、部族的な統一国家の共同性に転化していく場合には、かならず、その氏族的な共同幻想性ってものを、いわば、一種の習慣とか、家族宗教とか、宗教的な俗習といいますか、あるいは、習慣といいますか、習慣的な慣行律といいますか、そういうような段階に、いわば、氏族的な共同性ってものを蹴落とすっていいますか、氏族的な共同幻想性ってものの、ある一定の水準を考えますと、かならず、部族的な統一国家っていう段階に発展するためには、ここにおける共同幻想性ってものを、家族、あるいは、家族集団が、慣行律といいますか、習慣といいますか、習慣的宗教といいますか、そういうものの段階で、いわば、蹴落とすことによって、自らが、氏族的な共同性と飛躍した、あるいは、断絶した、そういう段階に転化するってことなんです。
つまり、氏族的共同性ってものは、かならずしも、共同性における共同幻想っていうのは、かならずしも、習慣とか、家族関係を規定する掟とか、そういうものだけから成り立っているわけではないので、やはり、そこで一定の公的な機関っていうもの、あるいは、公的な権力っていうものを、想定することができるわけですけど、少なくとも、それは、部族的な統一国家っていう段階に発展するためには、だいたいそこにおける、氏族制における共同幻想性ってものを、いわば、一段下の水準に落とすことによって、つまり、落としてしまうことによって、自らが飛躍するっていうような、そういういわば、断絶と飛躍っていいますか、そういう関係として、ひとつの共同幻想性ってものを生みだしていくわけです。
だから、この生みだされかたは、経済社会的な範疇の、ひとつの、いわば、連続的な発展段階っていうような、そういうようなところからだけは、けっして、解きえないのであって、国家っていうものの問題を考える場合には、前段階における共同幻想性ってものを、かならず、解体して、いわば、氏族から部族への転化の場合には、家族集団を規定する掟とか、習慣的な戒律とか、そういうような段階に解体して、蹴落とすことによって、自らの共同幻想性ってものを、高度な段階に飛躍させるっていうような、そういう、かならず、断続の契機をもつわけです。このことが、つまり、現在においてもそうなんですけど、国家の問題ってものを考察する場合に‥‥。
テキスト化協力:ぱんつさま