今日は、文学研究会ですか、それの主催だってことなので、そういう問題から入っていきたいと思います。ぼくは、文学理論の体系として、『言語にとって美とはなにか』っていう著作をもっているわけですけど、そこでの問題意識っていうのは、文学っていうものを、言語的な表現であるっていうふうな、そういう観点で、つまり、表現されたものとしての言語っていう、そういう水準で、言語のいろんな様相を考えていくっていう、そういう考え方っていうものが書かれているわけです。
それのもつ理論的な意味っていうのは、つまり、言語学者のいう言語と比較していいますと、言語学者が言語っていう場合には、すでに表現されてしまって、文章で残されたものとか、あるいは、しゃべられたようなかたちのものが記録されたもの、そういうようなものの水準で、どういうことかっていうと、つまり、すでに歴史的にも、社会的にも、共同規範っていいますか、そういうものとして成立してしまった、そういう言語について考察するのが、言語学者の言語の考察なんですけど。
表現としての言語、あるいは、文学みたいな言語的な表現であるという、そういう意味で考えられる言語っていうものは、いくらか、言語学者が取り扱う言語の水準とは違うわけです。いわば、ひとりの特定の個人なら個人、また、特定の時代における個人の表現したものでもいいわけですけど、そういう特定の人間っていうものから、表現っていうふうに、発せられた表現っていうような、あるいは、対象化された表現っていうような、そういう位相で言語っていうものを考えるわけですから、すでにそれが表現された言語っていうのは、それを発したっていうことと切り離すことができないっていう、そういう関係にあるわけです。その切り離すことができないっていう問題は、文学事態の問題になるという、これは、広く、一般化していいますと、文学芸術っていうようなものが、それは言語によらないで、絵画のように、ほかの表現手段を使った場合でもそうですけど、すくなくとも、表現された言語っていう水準で、あるいは、表現された作品っていう水準で、言語、あるいは、文学、あるいは、芸術っていうものを考えていかなければならない。
そういうふうに考えられたときに、ぼくの場合には、文学を取り扱ったわけですけど、表現っていうのは、どういうような本質、性格というものをもっているかっていう、そういう問題を基本的に問うていったわけです。ぼくは、わりあいに、そういう試みについては、苦心があって、これが、日本で了解されるには10年ぐらいかかるだろうっていうことを前書きに書いてあるんですけど、10年経たないうちに、いろんな批判やらなにやら、言語学者や文学者というものからでているわけですけど、ぼくの考えでは、あんまり当たっているような批評っていうのは、あんまりなかったような気がするんです。
ぼくがそういうことに対して、ひとつ、ほんとにそうかなっていう感じをもったあれがあったんですけど、それは、三田文学だと思うんですけど、三田文学に、フランスに留学している留学生が、留学している人の一種の文学通信みたいなものとして書かれた短い文章があります。そのなかでも、ぼくの『言語にとって美とはなにか』というのが、それに書いてあったんです。名著だってされているけど、フランスのいまの文学の現状、あるいは、文学理論の現状っていうのは、もう変わったらしいので、古色蒼然っていうところをまぬがれないっていう、そういうような、そういう通信文みたいなのがあったんですけど、そいつは、ほんとにそうかなっていう気がします。つまり、フランスは行ってみなきゃわからない、行ってみたら案外そうじゃないかもしれないとも思っています。
そこで問題になってくるわけですけど、なにが問題になってくるかっていうと、特定の文学者なら文学者が、文学を創作する、文学的な表現をおこなう、あるいは、言語的な表現をおこなう、その言語的な表現をおこなったときに、文学者の内部に起こってくる、いろんな心の動き方っていうのがあるわけです。
この問題っていうのは、文学っていうものを表現された言語っていう水準で考えた場合には、どうしても、そういう表現したときにおける心の動き、あるいは、表現されたときの心の動きっていうような、動き方っていうようなものの解明っていうのが必要になってくるわけで、そこがやっぱり問題になってきて、ぼくなんかは現在、その問題っていうのは、「心的現象論」っていうかたちで展開しているわけです。
これも、まとまって公刊されると、また古色蒼然としているっていうふうに言われるかもしれませんけど、そのところはよくわからないんです。なぜかっていいますと、ぼくらのそういう試みっていうのは、べつに、どっかで、フランスならフランスでそれがやられてるっていうような問題じゃなくて、わたし自身が自ら考え、自ら築いているっていうような、そういうような問題ですから、それがどういうところにいっているかってことは、それは、人の判断に任せるより仕方がないです。
しかし、すくなくとも、ぼく自身は、そういうことが、その意義っていいますか、意味合いっていいますか、そういうものを自分で設定して、そして、自ら考えていくっていうようなかたちで展開しているので、いわば、ぼくの思想のシステムっていうものの、ある一部分っていうものをかたちづくっているってかたちで、展開しているわけです。
そこで問題になるわけですけど、文学・芸術っていうものは、一般化していいますと、個人の、あるいは、個体の幻想の表現、あるいは、観念の表現っていうような、意味合いっていいますか、性格をもっているわけです。
そうすると、個体っていうものが、今度は問題になるわけですけど、個体というのはどういうことか、つまり、どういうところに根源があるかっていうような問題が、まずはじめに問題になってくると思います。その場合に、またぼくは、ぼく自身の体系を展開する以外にないのですけど、個体というのはどういうふうなものとして、つまり、個体としての人間っていうものは、どういうふうな意味合いをもっているかってことが問題になってくるわけです。
その場合に、いうまでもないことですけど、生理的なっていいますか、自然的なっていいますか、あるいは、肉体的なっていいますか、生理的な人間っていうものは、いうまでもないですけれど、自然体なんです。つまり、自然の一部分なんです。
ところが、自然の一部分であるってことだけが、人間なのではないので、人間を人間であるというふうに規定しうるのは、なにかっていいますと、自然の一部分であるという人間が、まさに、なんらかの理由で、観念の世界、あるいは、意識の世界っていうもの、そういうものをもっているっていうこと、つまり、そういう総合的な存在だっていうところに、人間の個体が個体であるっていうような、そういう所以、つまり、根拠があるわけです。
そうしますと、生理的な人間である、あるいは、自然の一部分である人間というものと、それから、そういう自然の一部である人間が、観念の世界、あるいは、意識の世界っていうものをもち、そして、ある間には、それを表現したりするわけですけど、そういうもっているってことを考えますと、まず、明確にいえることは、生理的な、あるいは、自然の一部である人間っていう面と、それから、それが生みだす観念の世界っていうもの、それでいちばん問題になるのは、生理的な人間と、それが生みだす観念の世界とのかかわりあいっていいますか、境界っていいますか、その境界にある問題っていうのは、いったい何なのかってことが、非常に問題になってくるわけです。そこのところが、人間の存在にとって、最も、人間の個体の存在というものにとって、むつかしいところであるし、また同時に、ある意味で非常に重要なことだっていうようなふうに考えることができます。
そうしますと、ぼくなんかの考え方では、人間の個体っていうものの観念の世界っていうのは、どこから考えるかっていいますと、ひとつの面は、自分が〈ここにいる〉っていうことの意識なんです。
つまり、自分が〈ここにいる〉っていう、場所的なっていいますか、空間的なっていいますか、そういう場所的な意識っていうものですね。それが、生理体、あるいは、自然の一部としての個体っていうものに対して、人間の個体の意識がはじめに加える、つまり、根本的に加える、最初の場所なのであって、つまり、〈ここにいる〉っていう、あるいは、自分が〈ここにいる〉っていう、そういう意識っていうものを根本におくことができます。
それから、もうひとつ、非常に重要だっていうことは、自分が〈現にいる〉っていう意識なんです。現にっていうのは、時間的に、いまいるっていうこと、そういう意識です。それが、非常に、人間の個体の生理性っていうものと、それから、観念性っていうもの、あるいは、意識性っていうものとをつなぐ、おおきな絆であるわけです。
つまり、人間の意識、あるいは、人間の個体の観念っていうやつは、自然である自分にたいして、〈現にいる〉ってこと、それから、〈ここにいる〉ってこと、〈現にいる〉っていう時間的な意識、それから、〈ここにいる〉っていう場所的な、あるいは、空間的な意識、そういうものをもつっていうことが、すくなくとも、自然の一部分としての個体っていうものと、それから、その個体の意識の世界と結び付ける、関連付ける、いちばん根本にある要素だっていうふうに、考えることができます。
こういう考え方はもちろん、現象学みたいな、あるいは、実存主義みたいな、つまり、人間の存在、本質っていうものを、ひとつの直観本質っていう、そういう考え方、そういうものとは違うわけです。なにが違うかといいますと、直観本質っていうものは、知覚っていうもの、いわば、感覚的なものを通した自己了解、あるいは、自己対象了解っていいますか、自然に対する了解、そういう感覚を通しての自己了解っていうものを、非常に、人間の存在本質の根本におくわけですけど。
わたくしどもの考えはそうでないので、たとえば、人間の、自然体である個体っていうものを、その個体の観念が意識する場合に、つまり、観念が〈ここにいる〉っていう場所的な意識をもつ場合、それから、〈現にいる〉という時間的な意識をもつ場合、その場合に、知覚っていうものは、いっこう必要はないと、つまり、直観本質っていうものが、人間の存在にとって非常に本質なものだっていう考え方をとらないわけです。
つまり、そんなものは必要でないと、個体である自然的人間っていうものの、個体である観念が意識する場合、ちっとも知覚なんてものはいらないと、ただようするに、自分が〈ここにいる〉という空間意識というもの、それから、自分が〈現にいる〉という時間意識、それが非常に根本的なものだっていう考え方をもっています。
そういうふうな言い方でいっていくと面倒でしょうから、人間の個体が、自分が〈ここにいる〉っていう自己意識ですね、場所的な自己意識っていうもの、あるいは、空間的な自己意識っていうものに、〈心的規範〉っていうふうに名付けるんです。
なぜ、規範っていうふうに名付けるかっていいますと、自分が〈ここにいる〉っていう場所的な意識、あるいは、空間的な意識っていうのは、なにかっていいますと、ようするに、自己関係付けの意識なんです。自分を自分で関係づける意識なんです。あるいは、自分の自分に対する関係の意識なんです。もっと具体的にいえば、自分の生理性、あるいは、自然性に対する、自分の観念性の関係付けの意識なんです。そういう関係付けっていうものの意識っていうものですから、それを〈心的な規範〉っていうふうに、呼ぶわけです。
そして、もうひとつ、さきほど言いました、自分が〈現にいる〉っていう、そういう時間意識があります。時間的な自己意識があります。これは自己抽象付けの意識なんです。つまり、自然体である自分っていうものを、自分の観点が、あるいは、自分の意識が抽象化している、抽象化する意識、それを、たとえば、〈心的な概念〉というふうに呼ぶことができます。
そうしますと、人間の個体っていうものが、あらゆる観念の世界をもつ、つまり、あるいは、観念の産物をもつ、あるいは、いいかえれば、文学・芸術っていうようなものをもつ、そういうもたせる根本にあるものが、個体における〈心的規範〉っていう概念です。
〈心的概念〉っていうのは、さきほど言いましたように、自己抽象付けであり、それから、〈心的規範〉っていうのは、自己関係付けである。で、この自己抽象付けの時間性っていうものと、それから、自己関係付けの空間性っていうもの、そういうものが、人間の個体っていうものを、人間たらしめている、非常に根本的なところにある面倒な要因です。つまり、生理的に、つまり、自然体としての個体っていうものと、それから、観念、あるいは、意識としての人間っていうものとの間にあるモヤモヤっとした関係を、はっきり関係づける、ようするに、自己抽象付けである〈心的な概念〉、それから、自己関係付ける、ある種の規範っていうもの、そういうものが、個体としての人間を人間であらしめている、非常に根本的な要素なわけです。
この考え方はもちろん、実存主義から生まれてきたわけで、実存主義っていう場合には、感覚的に対象がやってくるやってきかたっていうものを、単に感覚的にではなくて、きわめて本質的に考えた、そういうものと違うわけです。
こういうことは、それはどういうことを意味するかっていいますと、そういう個体っていうものが、文学作品なら文学作品っていうものを生みだす、どういう関係にあるかっていいますと、この〈心的概念〉、つまり、自己抽象付けの意識、それから、〈自己規範〉、いわば、自己関係付けの意識っていうものが外化されるわけです。
そうしますと、表現としての言語になるわけです。つまり、表現としての言語っていうものは、なにかっていいますと、この要素は、ようするに、概念っていうものと、言語的規範っていうものを、ふたつの因子として、言語的規範っていうのは、簡単にいえば、持ち出しを禁ずるって場合に、持ち出しの次の禁ずるっていう規定、その次に「を」がくるってことが許されない、つまり、民族語の共同規範で許されない、そういうような文法的規範とか、それから、音韻の規範ですね。そういうものを意味するわけです。
そういう規範言語っていうのがあるとしたら、従わなければならない、そういうことは、わりあいに、歴史的っていうか、ある意味で、個人にとっては、わりあいに、小さいときから習わされるっていう、そういう規範です。
それから、概念付けっていうものは、自己抽象的なんです。そういうものは、やっぱり、言語の、いわば、実体をなすものとして、実体をなすものっていうのは、言語のある水準を決めるものとしての因子で、これが、ようするに、表現された言語っていうものを構成している、非常に根本的なものです。
だから、たとえば、現象学でいう本質直観っていうものに、対応する言い方で、本質的なものは、なにかっていいますと、それはいわば、言語だっていうこと、言語だっていうことは、個体の心的な現象としての考えですね、心的言語っていう、そういうものが、現象学でいう直観本質みたいなものに該当する、非常に人間を人間たらしめている、根本的な要素っていうふうになる、そういう考え方になるんです。
こういうものが、いわば、文学・芸術っていうものの世界を根本的に規定しているものですし、人間の個体っていうものを、自然体としての個体が、なお、観念的な世界、あるいは、意識的な世界をもつ、そういう、全存在としての人間の個体というものを考えた場合に、こういうものが根本的になっています。
そうしますと、知覚っていうようなものは、どういう位置をしめるかっていうと、たしかに、その位置っていうのは、非常に感覚的な対象に対してしめるわけです。たとえば、椅子なら椅子っていう対象があります。
人間の個体っていうのは、それをどういうふうに受け入れるかっていいますと、まず、椅子に対して、人間が、たとえば、眼っていう、つまり、見るっていう感覚器官があるわけです。視覚っていうのがあるわけです。椅子を、とにかく、人間の感官である眼が、対象としての椅子っていうのを受け入れるわけです。つまり、受け入れをやる。
受け入れっていうのは、なにかっていいますと、自己関係付け意識っていうのを先ほどいいましたけれど、自己関係付けの意識するものが外化されたもの、つまり、対象と自己との間に外化されたときに、受け入れってことが了解されると考えられるわけです。だから、この受け入れっていうのは、いわば、空間ってことなんです。
ところで、眼なら眼が、椅子を見るってことで受け入れをやる、その場合に、次に何が起こるかっていうと、受け入れたものを、あれは椅子だなっていう了解をやるわけです。つまり、眼が視覚的に受け入れて、それで、そいつを椅子だなって了解するわけです。つまり、椅子だなって意識すると否とにかかわらず、椅子だなっていう了解をやるわけです。
この了解っていうのは、いわば、自己抽象付けっていうところに相当するわけですけど、受け入れっていうのは、自己抽象付けの意識っていうものが、いわば、対象と自己との間に外化されたもの、それが、了解なんです。だから、了解は、いわば、時間化なんです。
そうしますと、椅子を視覚が受け入れ、了解するっていうような、つまり、椅子という対象についての全意識っていうか、認識といいますか、そういうものが完了するわけです。そうすると、その完了する場合には、あきらかに、もちろん、習慣的にやるわけです。習慣的、あるいは、共時的に、つまり、同時にやるわけですけど、それは、要素としてみれば、椅子を感官器官が受け入れ、そして、それが了解される、つまり、椅子だなっていうふうに了解される、時間的に、そういう二つの作用っていうものが、椅子という対象を眼が受け入れ了解する、そういう過程のなかに存在するということ、これが、一般的に感覚による了解、つまり、知覚っていうふうに、だから、もちろん、対象が感覚的ならば、つまり、人間の感官にやってくる対象っていうものについての意識は、もちろん、知覚ですけど、しかし、この知覚っていうものは、人間の個体を人間たらしめている根本的な規定ではないということ、人間の個体を個体たらしめているっていうのは、知覚ではなくて、いわば、自己抽象性の関係付けの、いわば構造なんです。そういうものが、人間を人間たらしめている、非常に重要なところです。そのなかで、知覚っていうのは、視覚、つまり、見るという感覚に対応する、そういう対象との間でのみ、人間のこころの心的な作用ってものに過ぎないわけです。
ところで、それじゃあ、視覚と、たとえば、聴覚なら聴覚があるでしょ、耳なら耳で聴くっていう、音楽っていう対象だったら耳で聴くっていう、それじゃあ、眼における受け入れと了解ってものと、耳における受け入れと了解とは、どこが違うのか、もっといえば、たとえば、嗅覚なら嗅覚っていうのがあるでしょ、そういうものと、対象の嗅覚の受け入れ、それから、嗅覚の了解とは、そういうものとはどこが違うのかっていう問題が、どこが違うのかっていう問題から、あらゆる余計なぴらぴらを取っちゃうと、ようするに、空間化の度合いが違うってことがあるんです。それから、了解の時間化の度合いが違うってことだけなんですし、還元されます。
各感官器官における受け入れと了解作用の差異ですね、耳と眼と何が違うのか、ようするに、それは空間化の度合いが違うんだってこと、つまり、いいかえれば、自己抽象付け、あるいは、対象抽象付けっていうものと、対象関係付けっていうものの度合いが違うんだってこと、そういう、空間化と時間化の度合いが違うっていうふうに、人間の感覚器官の差異っていうのは還元されます。
もうひとつ、問題となるのは、耳と眼っていうのは、特異な位相をもってるんです。人間のなかで、特異な位相をもっております。それで、その特異な位相っていうのは、なにかっていうことがあります。それは、いま言った、わかりやすい眼なら眼っていう例を使いますと、椅子を眼は受け入れるでしょう、そうしておいて、了解するっていうふうな、そういうふうな過程になっているわけですけど、そのかわり、眼と耳っていうやつは、視覚と聴覚っていうやつは、空間化の受け入れですね、空間化の受け入れっていうやつを、空間化、つまり、受け入れし、了解の時間性をもつっていうところで、対象認識っていうもの、視覚による認識は終わるわけですけど、この人間の眼と耳っていうやつは、対象の受け入れの空間化っていうのを、即座にっていいますか、即自的にっていいますか、即自的に、時間として、意識するっていうことができるわけです。
つまり、ほんとは、空間化があり、そして、時間化があるっていうのが、いわば、過程を分解したときに起こる過程なんですけど、ところが、視覚と聴覚っていうやつは、空間化っていう受け入れのところで、それを時間的構造として意識することができるわけです。できる作用をもっている。
で、それは、聴覚の場合は、なおさらそうなんです。つまり、聴覚のほうを高度だって、そういう意味じゃ高度だって考えることができます。耳も同様に、ほんとうは空間化にすぎない受け入れっていうやつを、本来的な了解というものとは別のところで、即自的な時間構造へ転化しうる。だから、ほんとうは、受け入れにすぎないんだけど、それは、いわば、疑似的な了解と感ずることができるっていう作用を眼と耳はもっている。
だから、たとえば、音楽っていうのがあるでしょ、音楽っていうやつは、よく音楽批評家みたいな人が、音楽っていうのは、時間の芸術だっていうでしょう。なんでそんなことをいうかっていうと、ほんとは時間の芸術ではないので、やっぱり、空間性として受け入れ、そして、時間化して了解するわけです。
ところが、疑似的に耳っていうやつは、聴覚っていうやつは、受け入れの空間化っていう、それを即自的に時間構造に転化させる、つまり、即自的に、それを時間構造として転化できるわけです。だから、ようするに、あたかもそれは時間性の芸術だっていうような言い方でいわれる言い方が、ある意味で、非常に正しいっていうこと、そういうような、うがった言い方だってことができるわけですけど、本来的には、いっこう変わりないので、音楽っていうのは、音を受け入れて了解する以外のなにものでもないので、受け入れる作用の空間化なんです。そして、それを了解するっていうのが、聴覚の本来的な作用なんですけど、疑似的に、空間化を時間構造として感ずる、そういう作用をもっていますから、だから、音楽は時間の芸術だっていうふうにいわれやすい、つまり、いわれることがある意味で、まちがってはいないっていう、そういう問題がでてくる。
眼の場合にも、聴覚ほどではないけども、そういう作用があるわけです。それは、非常に人間に特有なものなんです。それで、いろんなことが起こるわけなんです。たとえば、精神病になると、幻聴っていうような現象があるんですけど、幻聴っていうことが可能なのは、聴覚が空間化っていうものを、即時に時間構造に転化しうるっていうふうに、依存するわけです。
そうすると、それ自体で、ほんとうは自分の外側にある対象なのに、空間化を即時的に時間構造に変化しうるために、これ自体がじぶんの内部で、心的な内部で、これ自体が、対象としての、つまり、外界にある対象と同じ、対象としての条件を備えてしまうってことです。必要充分な条件を備えてしまうわけです。
だから、これ自体が対象になって、またこれ自体を空間化し、そして、時間化することをやらざるをえない。これは幻ですから、幻聴っていうようなこと、たとえば、分裂病者っていうのを考えると、幻聴っていうのは、非常に多いわけですけど、幻視っていうのは、わりあいに、幻聴にくらべると少ないです。
それはようするに、聴覚のほうが、視覚よりも、空間的受け入れを時間構造に転化するっていう、そういう転化の度合いっていうのが、聴覚のほうが高度だと、だから、幻聴なんていうのは、非常に多いわけですけど、幻視というやつは、あまり、けっして絶対ないとはいわないけど、たとえば、分裂病者でも、幻視があるやつもいるし、幻聴のあるやつもいるわけですけど、しかしそれは、非常に少ないんです。幻聴っていうのは、わりあい、分裂病なら分裂病における非常に特徴なんです。
なぜかというと、その理由は、いま申し上げたとおり、本来的な対象、たとえば、音を発するやつは外にあって、個体の外にあって、それでそれを受け入れ、そして、了解するっていうのが、いわば、正常な、対象に対する視覚作用なんですけど、幻聴っていうのは、それがひとつ、それに狂いが生じますと、ようするに、受け入れそのものの空間化っていうやつが時間構造に転化する、そうすれば、ここに空間化っていうものと、時間化っていうものとを、対象的に含んでいる、つまり、対象としての条件、あるべき対象と同じ条件を具備しているものが、いわば、心的にでてきて、それをまた対象化するから、それが、幻聴みたいなふうになっていくわけです。そこでたとえば、視覚と聴覚っていうものは、こういうような意味では、人間に非常に特有なものだっていうことができるわけです。
今度は、人間の個体っていうものが、個体として存在しているってことは、現実的な次元では、そういうことは、あまりないので、そういう瞬間は、あまりないので、たいていは、他者っていうものに出会うわけです。それは、他の個体であってもいいですし、それから、他の個体が複数であっても、どうでもいいわけです。つまり、他者っていうものに出会うわけです、現実的には。
そうすると、さきほど言いました、人間の個体っていうものが、他者と出会うってことの出会い方なんですが、その場合に、根本的にそれを規定するのはなにかっていいますと、それは、性としての人間っていう範疇で、つまり、人間を性として考えた場合、つまり、男あるいは女って考えた場合、つまり、男又は女として、性としての人間っていう範疇で、はじめて人間の個体っていうものは、他者に出会うわけです。
つまり、人間の他者に出会う出会い方っていうもの、つまり、最初の複数ですけど、最初の複数っていうものは、本質的になにかっていいますと、それは、性としての人間っていう範疇で、はじめて他者に出会う、だから、あらゆる他者っていうものの出会い方は、いろいろあるわけです。男と男、女と女の友情であるとか、いろんな出会い方があるでしょう。出会い方がありますけど、その出会い方の根源にあるのは、根源にある本質っていうものは、性としての人間っていう範疇なんです。つまり、男、そして、女としてはじめて、人間は他者っていうものに出会うわけです。つまり、他者っていうのは、他の個体なんですけど、他の個体っていうものを対象とすることができるわけです。
なぜ、そうなのかってことは、ようするに、個体っていうものを、自然体、ようするに、自然の一部として考えるかぎりは、他者、つまり、他の個体も、自分っていうものも、つまり、自己っていうものも、まったく区別することができないわけです、個体として区別することができません。つまり、自然体として考えるかぎり、自己っていう個体も、他者っていう個体も、区別することができません。しかし、区別することができないにもかかわらず、それを他者、つまり、自己に対する他っていうふうに、それを区別することですから、区別しないで、他者っていうのは生じないわけですから、他者っていうものを生じているかぎりは、区別しているわけです。それは、自然体としていっているかぎり区別できないわけです。しかし、それを区別する、つまり、他者っていうものを考える場合には、自然体を、根本的には、男または女で区別する以外には、自己対他者っていう意識は、区別できないのです。だから、ようするに、他者との最初の出会い方の原型、あるいは、根源っていうのは、かならず、性としての人間という範疇であらわれてくるわけです。
で、この性としての人間っていう範疇が他者との出会い方であり、また、人間の個体の意識が、たえず、他者の意識っていうものを、意識に入れざるをえないっていうような、そういうような意識の領域では、かならず人間は性的範疇として存在している。つまり、性として存在している。かならず、そういうふうになっています。
それはもちろん、みなさんが経験的にいわれても、そういうことは了解されると思います。もちろん、理論的にも了解されるわけで、ようするに、他者の意識をたえず伴わざるをえないっていう、そういう他者との出会い方の原型っていうものは、個体が他者と出会う原型っていうものは、それは性としての人間という範疇である。
その性としての人間っていうのはなにか、性としての人間っていう範疇で、人間は、つまり、男または女っていう、そういう自然的にもそうなんですけど、自然体として男または女って区別する以外には、区別のしようがないわけです。だから、他者を区別するかぎりは、かならず、男または女って区別するわけです。つまり、性として区別するわけです。
その区別の仕方が、同じように、観念的な世界っていうものを生みだすんです。その生みだされた観念世界は、いわばそれを、ぼくらは対幻想っていうふうに名付けるわけです。
つまり、対幻想っていうのはなにかっていうと、たえず、他者の意識っていうものを伴わざるをえない幻想性の領域、それを対幻想っていうふうによんでいます。で、その対幻想の世界というものは、みなさんがよく知っておられるように、フロイトが非常に固執した領域、フロイトはむしろ、対幻想の世界、つまり、性としての人間っていう、そういう範疇を非常に根本的なものとしてみたんです。これが、フロイトの世界なんです。フロイトのリビドーっていうものは、そういうものなんです。
しかし、フロイトはもちろん、そんなものは意識してはいませんから、リビドーっていうのは、ある場合には、自然としての性っていうふうに理解しています。それから、ある場合には、いまここでぼくが言った、対幻想として理解しています。それから、ある場合には、両者を含むような、あいまいな概念として使っています。
しかし、フロイトっていうのは、いろんな、フロイトに対する批判っていうのはでていますけど、フロイトっていうのは、本質的にいえば、対幻想の領域っていいますか、世界っていいますか、そういうものの世界に関するかぎりは、非常に本質的なことをいっています。しかし、けっして、古典的ですから、リビドーっていう概念のなかに、あるときは自然であり、あるときは観念あるいは意識であり、それから、あるときは、その両方を含む、きわめて曖昧な意味で使っているわけです。
ところで、フロイトがこういう対幻想っていう領域、または、自然としては、性としての人間、そういう領域で、いちばん重んじたのは、時間的なことなんです。時間性っていうことを非常に重んじたわけです。
その時間性っていうのは、なにかっていいますと、ようするに、父親の世代と、子の世代っていう、そういう時間性の領域っていうものの意味っていうのを、非常に重んじたわけです。
だから、ここにおける、あらゆる心的な障害っていうものは、だいたい、父と母の年代における男と女、つまり、性としての人間、そういうものの関係の障害っていうことから、それも非常に幼児期ですね、幼児期における障害っていうものから、子における心的なあらゆる異常現象っていうものは由来するっていうふうに考えたわけです。
だからこれを、いわば、世代的、あるいは、時間的な違いにおける対幻想の世界の問題というものをフロイトは非常に重んじたわけです。それが、非常に、ある意味で正しいのです。ある意味で正しいっていうのは、なんでかっていうと、子どもっていうやつは、一定の時期まで、つまり、それは何歳でも、15歳なら15歳でもいいんですけど、一定の時期まで、前の世代、父と母親の世代っていうものから、決定的な影響を受けて、それは、決定的な影響っていうのは教育、つまり、外的規範としてもそうなんですけど、教育とか習い覚えとか、風俗、習慣とか、そういうことを含めて、決定的に影響を受けるってことはありますから、それが影響を及ぼすだろうってことはいえるわけです。
この世代による違い、つまり、時間性っていうものを非常に重んじたわけです。それがフロイトの世界で、フロイトの世界っていうものは、そういう意味では、対幻想、あるいは、自然としての人間の区別である、男または女、つまり、性としての人間っていうような、そういう世界に関する理論としては、きわめて本質的だっていうことができます。
非常に、フロイトっていうのは、いろんなことで、現在でもすすんでいますから、考え方が、批判されてますけど、しかし、そういったすべての人よりも、フロイトっていうのは、はるかに巨匠であり、偉大であるってことはすぐにわかります。それは、フロイトの全集やなんか出されていますから、それを読んだらわかると思いますけど、非常に通俗的に考える、やさしい考え方をしているんです。つまり、非常にむずかしいんですけど、よくあれすると、非常に本質的なことをいっているんです。
で、フロイトがもし、逸脱するところがあるとすれば、対幻想の世界っていうものをはみだしたところで、たとえばそれは、文化論であり、それから、芸術論であるっていうふうな、これもリビドー説でやるわけです。
それから、いわば、原始社会における時事問題っていうものも、つまり、トーテムとかそういうものも、リビドー説である程度、適用していくわけですけど、こういうものに適用したときのフロイトっていうのは、適用しただけの鋭い観点といいますか、註解ってものを提出していますけど、けっしてそれは、その領域では正しいとはいえないわけです。
なぜならば、いわば、フロイトの世界というものが通用するのは、いわば、それは対幻想の世界であり、自然としては、男または女としての世界、性としての世界、そういう領域に限って通用しますから、それをほかのところに拡張していきますと、つまり、文化みたいに、すでに残されてしまった人間の観念の領域みたいなものですけど、つまり、規範なんですけど、共同規範なんですけど、そういうようなものに、それを適用しようとすると、特異な観点が暴きだされてきますけど、けっして、正統だなってあれはもちません。つまり、この領域に適用されているのは、ちょっとおかしなことになってくるところが生まれてきます。
ところで、フロイトが重んじた父親または母親の世代っていうものと子の世代っていうもの、つまり、世代的な時間性っていうのは、つまり、時間性っていうところで対幻想、対なる幻想の世界、あるいは、性としての人間の世界っていうものを考えないで、もしもそういうふうに考えないで、子同士の空間性っていうもので、子同士の対幻想の関係、つまり、世代的な時間性を含まない、子の世代内部における対幻想っていうようなことを問題にしたら、どういうことになるかっていうことが問題になるわけです。
そうしますと、まあ非常に単純に考えて、兄弟姉妹っていう、父親、母親の子どもである兄弟姉妹、その場合に、もちろん、ひとりの兄とひとりの弟との間には、対なる幻想っていうものは、想定することができるわけです。しかし、自然的な性関係っていうことは、この場合に伴わないわけです。しかし、幻想性としては対なる幻想っていうものを想定することができます。
この対なる幻想っていうものは、なにに特徴があるかっていうと、ようするに、おおざっぱにいいますと、親の世代っていうものがなくなったときには、たとえば、兄弟、兄と弟の間、つまり、男性ですけど両方とも、弟の間に想定される対なる幻想っていうものは、前の世代がなくなったときになくなってしまう、あるいは、崩壊するだろう、それが、兄と弟っていうものの間にある、想定する対幻想っていうものの非常な特徴になります。
それから、これも同じだと思います。つまり、姉と妹の間にある対なる幻想っていうもの、これは女と女、もちろん、自然的な性行為は伴いません。しかし、対幻想っていうものは想定できるわけです。この想定される対幻想っていうものも、姉が夫をもち、妹が夫をもちっていうようになった場合に崩壊するだろう。これがなくなったら崩壊するだろう。そういうことがやっぱり、ひとつの特徴だっていうことができます。
ところが、ここで、なかなか崩壊しない対幻想っていうものがあるわけなんです。それはようするに、兄弟と姉妹との間の対幻想です。これは、兄弟で仮にたとえば、細君をもち、それから、姉妹が夫をもちっていうような場合、それから、父と母親の世代がなくなった場合でも、この対なる幻想っていうものは、兄弟と姉妹との間は、そのあいだの対幻想っていうものは消滅しない、消滅しにくいということ。そのかわり、自然的な性関係を基盤にするわけではありませんから、そういう意味では、非常に観念的であり、非常にゆるい結節性をもっていて、それが、わりあいに永続しやすいっていう性質です。その永続しやすいっていう性質が、いわば、空間性の拡大っていいますか、空間性の拡大っていうものに耐えるわけです。
だからようするに、非常に未開的な段階で、姉と妹の家族系列というものに対して、兄と弟っていうのは、まったく別個の系列に属して、そこでまた、違う部族の女性とか、違う種族の女性とかと、いわば、対幻想の世界を営むわけですけど、これとこれとは、いわば何の関係もない、もしたとえば、母系なら母系っていうものを想定すれば、何の関係もないところにいくわけですけど、これは、いくっていうのは、地域的にもいえますでしょうし、また、関係としても、いわば空間的拡大に耐えるわけです。
そういう場合でも、対なる幻想っていうものは、ある程度、永続すると、これがある部落とか、村落とか、そういうものの大きさにまで、この対なる幻想っていうものは、拡大することができるわけです。これが、母系なら同じ母親で、父系なら父親…、たとえば、氏族とか、前段階といってもいいですけど、そういうものに転化しうる、つまり、一種のいわば、対なる幻想の世界は、共同なる幻想性の世界に転化しうる契機をもつわけです。
それがいわば、対なる幻想性っていうものから、共同幻想性ってものに移行するっていうような段階を考える場合に、考えられる非常にポイントになるわけです。そのポイントは、いままで言いましたとおり、フロイトのように、この世代の間の対幻想っていう、そういうことを問題にするのではなく、同じ世代における兄弟と姉妹っていうようなものの間における対幻想っていうものを考えて、これを非常に主要なものとして考えていきますと、それは単に対幻想であるかぎりは、原始的な家族なんですけど、こういう家族集団っていうものが、氏族的な集団っていうものに転化しうる契機っていうものが、考えられるわけです。
そこでわれわれが考えられるのが、いわゆる共同幻想の世界ってことなんです。この共同幻想の世界っていうものは、いうまでもなく、国家の問題であり、そしてまた、それは法の問題であり、そしてまた、それは政治の問題であり、そういう問題は総じて、共同幻想の世界に属しています。だから、共同幻想の問題を考察する場合に、もしそれを非常に起源的な、あるいは、本質的な発祥っていいますか、発祥の根源っていうもので考えていけば、その契機はあきらかに、同じ世代における男兄弟と女姉妹の間にある対幻想っていうもの、そういうものが対なる幻想の、つまり、はじめて他者が登場する世界の幻想から共同幻想の世界へと移行しうる、非常に大きなポイントだっていうことができます。
共同幻想としての国家っていうもの、それから、国家の起源っていうものをエンゲルスのように考察する場合には、家族あるいは婚姻形態とか、つまり、総じて対幻想であり、自然としては、男または女である、そういう世界の考察っていうことから、国家の起源っていうものを論じていくよりほかないし、またそういうふうに論じられる基盤っていうものがある、その理由は、けっして、エンゲルスのいうように、原始集団婚っていうものを、一段階として想定するなんていう、そういうことではなくて、ようするに、兄弟と姉妹との間の対幻想っていうものが、空間的な拡大に耐える、それから、ある程度、永続性をもつ、つまり、前の世代がなくなっても永続性をもつという、そういうところに基盤があります。そういうところに共同体で、国家へと展開していく基盤っていうものがあるわけです。
だから、国家っていうものを考察する場合は、国家っていうものの、いわば発祥あるいは起源として考察する場合には、かならず、家族っていうものの考察が欠くことができない。あるいは、婚姻形態の考察というものを欠くことができない、婚姻形態の集団というものの考察を欠くことができないっていうことがいえるわけです。それが、いわば共同性で、展開していく最初の契機っていうものになっているわけです。
そうしますと、みなさんがおわかりのように、いわば、文学、芸術の世界から、共同性の世界にいくのは、なんと遠いことであろうかっていう、そういう感じがするでしょう。それは、もちろん遠いわけです。遠いわけですし、しかも、共同幻想に対して、個人幻想の世界に属する文学、芸術というのは、かならず、逆立しているわけです。
そこで、ようするに、政治と文学というふうに、戦前からいわれた、そういう考え方、それから、それから、戦争中は逆さまな意味でいわれた政治と文学ですね、文学そのものによって、政治に協力せよっていうような、戦争中は、まったく反対の意味で、そういうあれがでてきたわけですけど、それからまた、ひとりで両方を体験した人もいますけど、そういうような政治と文学っていう問題の解き方っていうと、なぜ、ぶっこわされなければならないのか、あるいは、政治と文学でも、革命と文学でもいいんですけど、なぜ、ぶっこわされなければいけないのか、個人的な幻想、あるいは、観念の世界、それを文学、芸術としてみれば、共同性の問題にとびつく国家と政治という、そういうものに至る道程というものは、いかに長いかっていうこと、いかに手続きを要するかってこと、ここに至ってくると、個人幻想っていうのは、共同幻想と逆立する以外にないっていう、そういうような宿命をもつっていうような、そういう個人幻想と共同幻想との位相の相違、それから構造の相違、それから、家族っていうものから、共同幻想に展開する展開の契機において、また詳しくいえばわかるわけですけど、ひとつの断層と飛躍の契機がある、つまり、対幻想に対する共同幻想っていうのは、すこし、位相が違うところに存在する。
そういうような位相の考察っていうものを考えてみますと、ようするに、政治と文学っていうものを単純に結びつけるというような考え方、そういう戦前からの考え方がいかにでたらめであるか、つまり、こういうでたらめな理念によって、ずいぶん毒されてきているわけです。
現に毒されていますけど、つまり、そういう毒され方ってものの根源っていうものは、われわれの全観念性の世界っていうものを考察する場合に、考察っていうものを、いかなる基軸をもって、いかなる構造的観念をもってそれが存在するかってことについて、明確な考察をもたないから、だから、文学で政治に奉仕しろとか、逆に戦争中には、逆の意味でも文学で政治に奉仕しろとか、そういうような考え方っていうのが一貫して流れてきている、いまもまた流れている。
そういう考え方をわれわれはサービズムとよんでるわけです。そういう文学におけるサービズムっていうもの、つまり、政治イデオロギーとして、反スターリズムなんてことを口にしているやつは、けっしてのがれていないっていう、つまり、そういう檻の範囲内で政治と文学なんていってるにすぎないっていう、つまり、そんなものじゃないと、ようするにそれは、表現の理論として、たとえば、文学の理論が、なぜ、いまの段階で必要であるか、つまり、表現としての文学っていうものが、どういうふうな体系をとるかっていう問題が、なぜ必要かってことの非常に基本的な、つまり、情況的な問題であるわけです。
だから、ぼくらの考察っていうのは、理解されるのは、あと10年くらいかかるだろうって書いてあるんですけど、ようするに、その表現としての言語っていうのは、考察っていうものが、いかに、人間の個体っていうものと、それから、個体が他者に出会う最初の契機である、性としての人間、つまり、男または女としての人間っていうものを基盤にする対なる幻想の世界、それから、共同幻想の世界っていうものを、いかに関連するものであるかってことが、そこでいえるわけなんですけど、こんなところに、非常に簡単に政治と文学とか、革命と文化とか、そんな問題をもってこられると非常に困るわけです。
つまり、非常に困るっていうのは、ようするに、そういう考え方を打ち破るっていう、そういうことが、とにかく非常に大切だっていうことがいえるのです。そういうことが、表現としての言語の理論っていうものを、わたくしのなかに追及させた、非常に根本的なモチーフなんです。
そういうものとして、これを読んでくださると、ぼくは、かならずしも、フランス留学生からの、パリからですけど、つまり、文化の都パリからの『言語にとって美とはなにか』っていうのを、古色蒼然というふうにいえるっていうふうに、ぼくは、かならずしも、いえないと思っているわけですけど、それは、ぼくが行ってみないとわかりませんから、断言はしませんけど、ぼくはそういうふうに考えています。
それはようするに、表現としての言語っていうふうな考え方が、なぜ非常に重要かっていう問題に契機をだしてきたという、そこでぼくらの、いわば、思想的なシステムというものの、ひとつの文学分野における理論的な問題っていうのは、そこで展開されているわけですけど、問題はいま申しましたとおり、対幻想の世界っていうものと、共同幻想の世界、つまり、国家とか、法とか、政治とかいうものに対する考察ですけど、そういうものの世界に対する考察っていうもの、それから、そういうものと、それらの関連性の構造っていう、そういうものとの追及っていうものは必要なわけで、そういう問題っていうものを展開しているわけです。
最近、なんか変なものばっかり復権しやがって、『国家論の復権』みたいな、そんな津田道夫の本なんかでてますけど、ようするに、そんなのはもう復権しないで、滅びちゃったほうがいいと思います。滅びたほうがいいっていうのは、ほんとうはどうしても、ああいう人たちの考え方っていうのは、どうしても、政治と文学じゃないけど、それとおんなじで、どうしても、檻といいますか、植木といいますか、植木鉢っていうのをどうしても出られないんです。出られないところで操作するわけです。
たとえば、どういうふうに操作するかっていうと、国家には、政治的機能もあれば、社会的機能もあり、そうすると、だいたいあの人は、スターリン批判が起こって、フルシチョフ体制ってものを合理化していったわけです。美化していったわけです。
その場合に、どうすれば美化できるかっていうと、国家には政治的機能もあり、社会的機能もあると、その場合に、社会的機能の面を拡大していけば、いかようにでも、追従できるわけなんです。
しかし、国家っていうものを考察する場合には、社会的機能、たとえば、これは福祉でもいいですよ、福祉的側面でいいです。あるいは、福祉的側面の経済政策っていう側面でもいいです。そういう側面っていうものを、たとえば考えるでしょ。そうすると、社会的側面っていうのは、たとえば、福祉側面っていうので考えてみますと、国家の福祉的側面に対しては、あくまでも、物質っていうもの、物質的基礎っていうもの、あるいは、経済社会的範疇というもの、それが対応するのです。しかし、国家の共同幻想性ってものに対しては、やっぱり、国家権力のもとにおける幻想性の諸形態っていうものが対応するのです。
これをごちゃまぜにしたり、ふたつに分けて、社会的側面のこのうえに拡大させていけば、いくらでも追従ができるっていうような、そういうふうな構造をもつ考え方っていうのは、ぼくはまちがいだと思うんです。そんなものじゃないので、そんなものはみんな、ぶち破ってしまえばいいわけです。
ようするに、国家っていうのはなにかっていうと、国家っていうのは、共同の幻想性であるってこと、共同の幻想性であり、それ以外のなにものでもないってこと、つまり、それのみが、たとえば、エンゲルスが『反デューリング論』のなかでいった言葉のまねしていえば、それだけが国家について、それぐらいしかいえないです。あとのことは、ようするに、国家っていうものの歴史的な規範性ってこと、つまり、現存する経済社会的範疇に規定される側面と、それから、幻想性としての歴史的な規範というもの、そういうもの両方に規定されている、極端にいえば種族ごとに違う権力形態をもつというふうにいえるぐらい違うんです。
だから、たとえば、エンゲルスっていうのは、『家族、私有財産及び国家の起源』っていうなかではくだらない。『反(アンチ)デューリング論』のなかでは、わりあいに、いいこというわけです。いいことっていうのは、なにかっていうと、ようするに、こういう文化、つまり、社会とか、生活諸形態である文化っていうものは、自然性的でもないし、科学的なこともなかなかいえないわけです。つまり、自然科学とか、生物学とか、そういうようなものにくらべて、非常に遅れているんだと、なかなかいえないと、それから、たかだかいえるとすれば、ようするに、ナポレオンがいついつ死んだとか、それから、だいたい人間の社会とか、文化とか、国家っていうのは、だいたい支配者と被支配者にだいたい分かれるものだとか、そのくらいのことしか言えないっていうふうに、『反(アンチ)デューリング論』のなかでいうわけですけど、まったくそのとおりなんです。
国家っていうのは何かっていったら、共同幻想なんです。そして、それ以外のものでない。つまり、それ以外のことをいうと危ないってことなんです。つまり、それ以外のことをいうと、まちがいますよってことなんです。いわば、先験的な党派性っていうものに陥ります、あるいは、心情の党派性っていうものに陥りますよってことなんです。国家について、ましなことといえば、そのくらいのことしかいえないのです。あとは、しょうがないんです、具体的、歴史的分析にゆだねるより仕方がないのです。
で、国家っていうものが、いわば、階級的な国家として顕現する最初の根底っていうのは、それは、国家っていうものの共同幻想性っていうのは、個人の共同幻想性と逆立するっていうことが、非常に基盤なんです。つまり、階級っていうものに対する、下部構造、つまり、経済社会的範疇におけるさまざまな対応ってこと、それは市民社会における規定なんですけど、と、人間の観念性というものが導きだす世界からいえる、階級性っていうものの対応っていう場合、観念性っていうもの、あるいは、幻想性の社会っていうものから考察される、階級性っていうものの基盤っていうのは、まさに共同幻想となる個人幻想、かならず逆立してしまう、そういうことにしか、階級考察、階級性というものはもうけられないんです。そういったことはたしかで、あとは、具体的な分析にゆだねたほうがいいというような、その程度のしろものなんです。
それだから、へんな復権してくる国家論とか、いろいろあるんですけど、文学と政治とかありますけど、そんなものはみんなぶっとばしちゃったほうがいい、壊しちゃったほうがいいと思いますけどね。そのぐらいのことしかいえないことがいえるわけです。
今日、文学研究会主催なので、文学そのものに立ち入るよりも、文学っていうものが、人間の生みだしていった観念の世界、または、人間が自らもっている、自らが自然体であるということに対して、人間がもっているっていうふうに信じている観念の世界っていうものの全世界に対して、文学、芸術っていうのはどういう位相をしめるものであるか、それは、全観念性の世界っていうものは、そういうふうな基軸っていうものを考えていったらば、解明の糸口がつかめるかっていう、そういうようなことのお話になってしまったわけですけど、そういうことから、たとえば、文学、芸術っていうものの位相、つまり、いったん、文学、芸術っていうものが、人間が、いわば、創造っていうもの、あるいは、手仕事っていう、そういうものとして考えられるかぎりは、どういうふうな問題に当面するかっていう、そういうことを解く鍵として、文学、芸術みたいな、いわば、個人幻想っていうものに属する領域と、それ以外の領域との関連性というものをお話してみたわけです。まあなにか、質疑討論があるそうですから、そのときに付け加えてお話したいと思います。これで、一応。(会場拍手)
みなさんも、吉本さんの、十何冊ある著作のなかのいくらかを読んでおられると思うんですが、そういう著作を読んだ場合に、それが吉本さんの思想形成の歩みの全過程があるわけじゃなしに、その過程の一部分がそこにあらわれているわけで、そこだけを、かいつまんで読んでも、ほんとのところは、なにもわからないはずなんです。だから結局、書いておられるものを全部読むということ、その過程そのものの意味をつかんでいくと、そういう作業がぜひとも必要なんじゃないかと、そうしないと、たとえば、吉本さんが四十いくらで、ぼくらなら二十歳前後であるというふうな年代的な違い、そういうふうな問題ひとつ捉えても、いわゆる世代論っていうふうな問題を捉えても、吉本さんの問題を、ぼくらの問題と結ぶ、そういう接点がつかみえないと、そういう意味からも、みなさんが読んでおられる、吉本さんの著作のなかで、実感とか、疑問点とか、それから、問題意識とか、そういうものを発表していただいて結構です。じゃあ、手を上げてください。
(質問者)
共同幻想というものが、ひとつの政治形態っていうのはどういうものですか。
(吉本さん)
それは、国家っていうものです。
(質問者)
ひとつの具体的な資本主義社会とか、そういうものに対する、共同幻想論が、そういう社会体制、規範とかの基盤になるのが、ひとつの層ですか、そういうものを、かならず、だからそっちのほうを。
(吉本さん)
それは、非常に簡単なことで、社会っていうものの発展の歴史っていうものを考察する場合に、いちばん主要であり、都合のいい主要であるっていうのは、経済社会的な考察っていうものを主要に、で、国家っていうものは、この社会が、市民社会、つまり、資本主義社会だったら資本主義社会にのっかっている共同幻想、共同幻想っていうのは、なにをいちばんてこにするか、共同幻想っていうものが、いちばんてこにするのは、法っていうものです。法っていうものを、市民社会、あるいは、資本主義社会っていうものに、存在しているわけです。そうしますと、市民社会内部の、つまり、経済社会的範疇で起こる人間の対立、格差、階級、そういうようなもの、それから、法を主要な武器として、市民社会に対応する、そういう市民社会における個々の人間の個人幻想、あるいは、その個人幻想は、ようするに、資本主義社会は、大なり小なり、職業的に、人間は存在しえないっていうような、だから、個人幻想っていうのは、ただちに個人に○○なかたちで、同じような幻想の位相という個人っていうものの集合っていうような、職業的にも、地域的にも、つまり、農村と都市っていうような地域的な格差でも考えられる、そういうものと、法っていうものは逆立するんですね。法的な共同幻想と逆立する、それが、いわば、幻想性から考えられた範疇、それから、もうひとつは、経済社会、市民社会内部における経済社会っていうものは、場面でおこる、そういうものが階級として、それが、共同幻想の機関、つまり、経済機関を通じて、経済的に市民社会というものに対抗してっていう、それから、なんとか立法機関とか、そういうようなもの、それから、それを律するなんとか官庁とか、そういうのを通してまた規制する、そういう感じです。
(質問者)
今日、先生がお話になった本質的なものに対して、こういう話になると思わなかったんで、質問を整理してこなかったんですけど、『言語にとって美とはなにか』のなかで、たいへんむずかしい書物なので、おそらく本質は理解していないことだろうと思うんですけど、わからなかったのは、比喩の部分なんです。比喩のところだけは、先生の、「自己表出」と、それから、「指示表出」の論のところから、浮きあがったっていうとおかしいんですけど、ぼくが読んだかぎりでは、どうも自分の頭の中で理解できないのです。それを、説明していただきたい、補っていただきたい、ちょうどいい機会だと思います。そのことがひとつ。
それから、もうひとつは、先生はさっきから、フロイトの解説をしながら言っておられるもの、それが、たとえば、現象学的な、サルトルなんかが言っているようなあれすれば、無意識というものを認めないで、意識が反省をして、それで、そこに私が生ずるっていうような考え方があります。そういうふうな問題を考えた場合、先生がお考えになっている自己の抽出とかすべては、無意識というものをどういうふうにお考えになるのか、それはやはり、意識化されたものとして、そのうえにたって、たとえば、兄弟の間の近親憎悪とか、そういうものを、意識化された私としてお考えなのか、それとも、無意識というものを、先生はお認めになるのか、それはやっぱり、自然的人間っていうものと関係するんだろうと思います。それが2点。
(吉本さん)
一等最初にいわれた問題ですけど、比喩っていわれたんですけど、ぼくは、ご質問のところでは、韻律、選択、転換、喩っていうふうに、重ねてあったと思うんですけど、つまり、表現された言語、韻律っていうものから、それから、その次に選択っていうのは場面なんですけど、つまり、いかなる場面を選択して描くか、描かれていくかってことなんですけど、それから、もうひとつは、転換っていうのは、ようするに、場面と場面との転換ですけど、いかなる場面から、いかなる場面に転換するかってこと、それから、その次にあるものは、喩っていうことなんです。喩っていうことには、意味的な喩と、像的な喩っていうのがある。もちろん、現実的には大なり小なり、意味的な喩の要素が大きいか、像的な喩の要素が少ないかっていう、そういう二重性としてでてくるわけですけど、いずれにせよ、本質的には、意味的な喩と像的な喩に分かれる。
で、だいたい言語の韻律っていった場合には、これはいわば、韻律っていうのは言語表現における、あるいは、表現された言語における、最初の指示表出根源と自己表出根源の構造であるっていうふうに考えられます。
そうしといて、それよりも高度な、韻律よりも高度な表現要素っていうのはなにかっていうと、それは選択であるってことなんです。つまり、これは、文学でもいえますし、文学の創造でもいえますし、文学以外の創造でもいえますけど、何々っていう言葉の次に、何々っていう言葉を、とにかく選んだ、選んだっていうことのなかに、すでに問題があるんだっていうこと、文学を芸術たらしめている要素の最初の問題がでてくるんだと、だから、どんな場面を選んで、書いたかってこと、そのことがすでに、その創造者の意識、あるいは、観念、そういうものの指示表出根源、あるいは、自己表出根源の観念、あるいは、意識のあるあらわれだ、べつに曲線的なあらわれではないけど、あるあらわれだってこと、どういう場面を選んだか、つまり、詩でも小説でもいいんですけど、どういう場面をまず選んだかってこと、それから、次にどういう場面を選んだか、次の行にどういう場面を選んだか、そういうことがすでに、こういう根源の意識からでた、いわば、文学を芸術たらしめている要素だってこと、つまり、これはいってみれば、韻律よりも、高度っていうのを誤解しないで使えば、より高度なものとして、選択っていう問題を、選択の意識なんていうところです。
それから今度は、転換っていうのは、ようするに、場面から場面、どの場面からどの場面に転換するかっていう、その転換の仕方によって問題が違う、あるいは、長編小説の場合、第一章と第二章をどういうふうに選んだか、つまり、第一章の次の第二章をどういうふうに選んだか、そういう転換の仕方のなかには、美っていうもの、あるいは、芸術っていうものを成り立たせている、芸術表現っていうものを成り立たせている要素がある。
それから、それよりも、より高度だと考えられるのは、喩である。それは、シュールレアリズムみたいなものをいれれば、ぼくは、概念的な喩っていうふうに使ってると思うけど、そういう喩っていうのは、転換より、より高度な問題だと思います。
より高度なっていうことは、どういうことかっていいますと、転換からいってみますと、ある場面からある場面へ、ほんとうはいきたいわけです。たとえば、長編小説の場合でも、詩でも、どっちでもいいですけど、ある詩ならば、ある一節から次の一節にいきたい場合に、次の節へいけばいいのだけれど、そこに、中間に、ある別の場面を介入させて、そして、この場面になる。この仲介された場面っていうものが、けっして、長編小説の、いわばストーリーですけど、ストーリーの展開に対しては、格別の意味はもっていないけれども、しかし、この場面があることによって、ここからここへの展開っていうものは、よりいっそう効果的でありうるわけです。
で、この場面自体は、けっして、物語の展開自体には、さしたる関係はない。しかし、この場面を中間に介在させることによって、ここからここへの転換っていうもの、あるいは、移行っていうものが、非常にきわだって、あるいは、強調されて考えられるっていうような、そういう場合に、これを喩なら喩っていうわけです。
これは、場面と場面じゃなくても、行と行でもいいんです。あるいは、ある言葉とかでもいいわけです。たとえば、「足がざらざらしてる。」っていえば、足の裏がざらざらしているっていうふうに言いたい場合には、足の裏が、たとえば、象の肌のようにざらざらしているって言った場合に、象の肌のようにっていうのは、これは喩なんですけど、こんなものはなくても、足の裏がざらざらしているってことを言いたいならば、足の裏がざらざらしているって書けばいいんだけども、たとえば、象の肌のようにっていう喩を、これは文字どおり象的になります。
その象的な喩っていうものをいれることによって、足の裏がざらざらしてるっていう表現の本筋にとっては、いっこう変わりないそのものを、いわば、強調したり、効果的ならしめたり、もちろん失敗すれば、かえって逆効果になりますけど。そういうふうにならしめている、そういう表現が、いわば喩なんですけど、それはもちろん、最初の韻律からはじまって、指示表出根源っていうもの、それから、自己表出根源っていうものと、もちろん関わっている。もちろんそれが、より高度に、高度に、高度に、具体的に追加されたものを指している。
そういうような問題っていうのはでてきて、ようするに、これだけの問題を、基本的に、文学を言語表現って考えるかぎり、これだけの問題を基本的に抽出すれば、抜き出してくれば、これ以上の表現っていうのは、現在のところありえないです。現在の世界文学のなかで、これ以上の基本的要素をもっている表現っていうのはありえないってことがわかります。つまり、喩をもって頂点とするわけです。
だから、その場合、これだけのことを基本的な要素として想定すれば、つまり、文学表現の具体的対応っていうものは、もちろん解析はできます。解析もできますけれども、また、自らが創造する場合において、だいたいこれだけのことが、創造っていうことの要素っていうもの、これ以上の要素っていうのはありません。たいてい、どんな文学作品も、詩の作品も、だいたいこういうものを繰り返し使っていることは、重ねて使っている。それだけのことでして、そういうふうな意味では、これはいわば、文学表現を成り立たせている、非常に基本的な要素だっていうふうに言っているわけです。
(吉本さん)
あなたが、たとえば、意識と無意識っていう、それは、ぼくは言葉の混乱じゃ、言葉の概念、意識と無意識っていう言い方もありますし、観念という言い方もありますし、それから、たとえば、感情、それから、理性とか、悟性とか、そういう言い方もありますし、幻想性っていう言い方もありますし、意識っていう言葉を、無意識に対峙する、つまり、狭い意味での意識っていうふうに、意識っていう言葉を使っている場合と、それを含めて使われている場合っていうのは、人によって、ほぼまちまちですね。それから、そういうものと、悟性とか、理性とか、感情とか、本能なんていう人もまだいますし、そういうような使われ方の使われる仕方っていうのもありますし、それはようするに、人間の観念っていいますか、幻想性っていいますか、そういうものをどういうふうに呼ぶかっていう場合の、呼び方の問題ですから、さっき言ったような意味でいえば、ぼくは、ほんとは個体の現世的個体の領域っていう場合には、あなたのおっしゃる無意識っていうようなものが含まれるわけですけど、現世として捉えるっていうのは、ようするに、個体としての、さきほど言ったことの言い直しなんですけど、自然としての個体の、観念の、あるいは、幻想性の世界をもっている、この幻想性の世界というのは、自然界からの現世的な疎外の領域、そうしますと、これは、そのなかに無意識っていうのも入りますね、ぼくはそういうふうに言ってるわけです。だから、それは言い方の問題じゃないですかね。
フロイトが意識と無意識っていうふうに分けた場合には、それは分けるそうとう理論的な必然があるわけです。必然として、どうしても分けたほうがいいってことがあるわけです。その中間っていうのを想定していますと、そういうふうに分けたほうがいいわけです。だけど、それは使い方の問題ですから、いいんじゃないでしょうか。ぼくが現世的な疎外っていう概念を使う場合には、もちろん、この無意識っていうのは含まれているわけです。
(質問者)
いままでの講演のなかで、個体の表現というものを、それから、他者との関係を国家という観点で捉えられたと思うんです。それで、社会的に似た国家と文学っていうものを、人間が個体表現として、個体幻想としての文学の思考、それから、対幻想を体験して、その後に共同幻想というものを体験しなきゃいけないということに、そのふたつのものが逆立して、○○を考えることによって、分裂しちゃうわけです。先生がいわれたように、あたかもわれわれがたえず闘うような問題に考えられますけど、それがひとりの人間のなかで体験されることを思えば、ますまず逆立するものであればあるほど、重要な問題のように捉えるわけです。それは表現における言語でいうならば、どのような観点になるのでしょうか。
(吉本さん)
逆立するわけですから、それを個体、個人の内部でいえば、分裂するわけです。つまり、共同性として、行為している、行動している場合の自分と、それから、個体幻想として、文学を創造しているときの自分とは、分裂してしまうもので。
だから、共同性として、どういうふうに具体的に解決するかっていうと、それは、簡単明瞭で、共同性として行動するときに、文学やめちゃえばいいんです。それは、暇なときに、たとえば、暇な時間を使ってやるっていうのはいいですけど、そういうことじゃなくて、もし彼が、自分を文学者っていうふうに考えているとして、文学者であることをやめりゃいいんです。やめて、共同性の行動をすればいいんです。ようするに、文学者として共同性を行動することをしなければ、ぼくは、簡単に矛盾を解消できると思います。
(質問者)
こういうような言い方はまちがいなのかもしれませんけど、とにかく思想家っていう立場をとられるならば、そんなに簡単に分裂させちゃうと、非常にあいまいな立場しかでてこないんじゃないかと思います。
(吉本さん)
思想性っていうのは、だから、どういうふうに考えるかっていうと、さまざまな段階で考えられるけど、ようするに、非常におおざっぱにいって、そういう分裂の両者をひとつに、喩となって、つなぐもの、比喩と同じで、つなぐものを、いま仮に、両者の間における思想の領域って考えれば、つまり、思想の領域っていうのは、それだけにかぎるわけじゃないんですけど、いまの場合、両者の間をつなぐ、それ自体は、文学の創造に対しても、直接、有効性をもつわけでもないし、また、共同的な行為っていうもの、行動っていうものに対しても、べつに有効性をもつわけでもないけれど、しかし、両者をつなぐものとして、思想の領域っていうものを考えますと、そういう領域からどういうことがでてくるかっていいますと、そうしますと、きわめて本来的にいえば、国家の共同幻想性ってものに、対決しうる共同性ってもの、本来的にいえば、いま申し上げましたように、個人幻想のみが逆立します。本来的にいえば、個人幻想のみがこれに対抗しえます。
しかし、共同性として対抗しうるとすれば、それは、かろうじてしうるとすれば、個人幻想として、本質的に国家の共同幻想に対して、対立しているにもかかわらず、べつに自分が対立していると思っていない大衆っていうのがいるでしょ。この大衆は、労働者でもなんでもいいですけど、つまり、本質的に、自分の個人幻想っていうものは、本質的には、国家の共同幻想に対して対立しているんだけど、しかし、自分では対立していると思っていない大衆がいるんです。それは誰でもいいですけど、たとえば、魚屋さんでもいいですし、八百屋さんでもいいですけど、そういう人は、本来的に、その人の個人幻想っていうのは、共同幻想に対して対立しているにもかかわらず、自分では対立していると思っていないでしょ。国家の対立だっていうふうに思っているかもしれないですけど、そういう大衆はいるでしょ、本質的な対立というものを意識していない大衆があるでしょ、その大衆のもっている意味性、意味です。意味性っていうものを、共同性っていうものが、もし自分の、あるいは、自分たちの思想的な課題として、取り込みうるならば、かろうじて、国家の共同幻想性に対抗する共同性、あるいは、共同幻想性っていうのは成り立つのです。かろうじて、成り立つのです。
もし、これを意識しないならば、これのもっている問題をくりこみえないならば、これは、ぼくの考えでは、ふたたびこれは、二重権力じゃないですけど、ふたたび下へむく、つまり、抑圧へむく以外にないと、ぼくは思っております。これは、どんなイデオロギーを持とうと、ようするに、自分が本質的には、本来的には、自分の観念世界ってものが国家に対して対立してんだ、つまり、逆立してんだ。それであるにもかかわらず、自分ではそう思っていないっていう、意識していないっていう大衆がいるでしょ、その問題っていうものを、この共同性を、くりこみうるならば、それならば、この共同性は成り立つと思います。もし、それをくりこみえないならば、これは逆にいくと思います。それは、反体制的官僚制組織っていうものの宿命です。そういうものが、社会的にダメであった場合にもつところの宿命です。やっぱり対立します。これは、反対に向いてしまいます。ぼくはそういうふうに思います。
それが、個人性っていうものと、共同性っていうものとを、関連付ける関係であり、また、個人性としてしか、本来的には逆立しない、つまり、対抗できないにもかかわらず、ある共同性が成り立つとすれば、まったく本来的な対立を意識にのぼせていない、そういう大衆を含む課題っていうものを、それをよく課題となしうることだと思います。それがつなぐんじゃないですか、共同性ってものを、それが、いわば、いまあなたがおっしゃった領域での思想の問題じゃないでしょうか。
だから、ぼく、このあいだテレビで見てたら、アフタヌーンショウっていうのがあって、そこで羽田の男が家を壊されたとかっていうおやじさんがいて、それから、デモに来た学生と闘うんですけど、おもしろいから聞いてたわけです。そしたら、かたっぽは、おれ、家を壊されたって、それから、おれのうちの息子はそのために怪我したとかなんか言ってるわけです。かたっぽは、問題をそんなところに還元してもらっちゃ困ると、もし日本国家が自ら戦争するとなって、おまえの息子が戦争にいったらどうするんだなんてことで、ようするに、いっこうに次元がかみ合わないわけです。
ぼくは、つまり、相も変わらずおんなじかと思って聞いてたんですけど、そういうことになっちゃうんです。ようするに、また司会者のやつが、しかし、あなたたちはそういうけど、そういう問題がいい悪いということを別にして、たしかに家を壊されてあれしたって人が、現実にいるんだから、そのことに対してどう思いますかっていう、それは、そういうことになったから、そういう場面になったかもしれないけど、しかし、問題はそういうことじゃなくて、日本が戦争に加担するかどうかって、そういうところにおいて、それを阻止するっていう、そういうことが問題なんだっていうふうに、こっちがいうわけです。そうすると、お互い、だんだんヒステリーになってきて、おまえ、親のすねをかじってなまいき言うなとか(会場笑)、いろんなこというやつがいて、ぼくは聞いてて、なんか食い違うわけです。
なぜ、食い違うかっていうと、ようするに、これがわからないからです。おやじの言ってることも、どっちが言ってることも、わからないからです。ぼくが指導者だったら、そんな馬鹿なこと、よろしいよろしいと、わたしらが金少ないけども、かならず調べて、ちゃんと調査して弁償しましょうと、自民党よりもさきに、ぼくだったら言いますね。ぼくだったら、そういう政策をします、これに対して。たいして金かからないですから、それだったらおれたちはちゃんと償なうだけの用意をもってるということで、ぼくだったらそうしますね。
ようするに、これは大きな、大範疇に属することを言ったってわからないでしょ、自分で意識していないでしょ、そういうことを。意識していないけど、本来的には、国家に対して逆立しているんです。しかし、自分では、そう思っていない大衆っていうのはいるでしょ。そういうものの問題ってものに、思想の問題としてくりこまれなければいけない。思想の問題としてくりこむってことは、具体的にもくりこめるんです、そんなものは。
政府は、100万円かいくらか補償したとするでしょ、それならば、政府より先に、われわれが補償する用意があるっていうことにすれば、われわれは200万円用意があるって、そういうふうに出せば、これでおさまるとは、けっしてなおるってわけじゃないですけどね、支持する点っていうのじゃないですけども、しかし、問題のある局面っていうのは、具体的にも、解決されたという、解かれます。
しかし、いまの問題は、具体的に解かれるか、解かれないかっていう問題よりもさきに、思想として、その問題をもってわかるかっていうことです。そういうかたちをくりこめるかってことです。それがなければやっぱり、反対をうけます。これ自体が反対をうけます。ぼくはそう思います。そういうのはやっぱり思想の問題なんです。
ただ、個人の問題として考えて、自分はどうするかって、ようするに、そういうときはやめますよって、文学者であることをやめますよ、やめて、共同性に足をふみこむ、そうすれば、いいと思いますけど、思想の問題としては、そういう問題があります。
テキスト化協力:ぱんつさま