筑摩公開講座に、ご来場くださいましてありがとうございます。本日は、吉本隆明先生の源実朝の講座がございます。最後までご清聴くださいますよう、お願い申し上げます。
ただいまご紹介にあずかりました吉本です。今日は源実朝について、お話するということなんですけど、まず、どういうことから、はじめようかと思うんですけど、ひとつは文学者っていうものの生き方、死に方といいますか、生き方、死に方っていうのは、文学者としての生き方、死に方というよりも、文学としての生き方、死に方っていうことを、ちょっとお話してみますと、つまり、ひとりの文学者ってものが、ある時代、ある社会に生きるわけですけど、ひとりの文学者がつくっていく文学というものが、非常に幸運な場合には、ある時代的な契機といいますか、そういうものと、消極的にか、あるいは、積極的にか、つまり、前向きにか、後ろ向きにか、ぶつかるわけです。
で、そういうことを、幸運な場合っていうふうに、申し上げましたですけど、幸運じゃなくても、そういうことが、わりあいに多くありうるわけです。文学っていうものは、偶然か、必然かしりませんけど、ある時代的な契機とぶつかったときに、いわば、個性としては、そこで花を開くってことになるわけですけど、そして、その個性として花を開いたってことが、ある時代的な意味を担うっていうふうなことになるわけですけども、そういうぶつかり方というものは、かなりな程度、偶然に由来することが多いっていうふうに考えることができると思います。
だから、文学はいちおう、どういう場合でも、個々の、ひとり、ひとりの人間によって生みだされていくわけですけれども、その生みだされたものが、ある時代的な契機にぶつかるということには、ほんとうは、すばらしい問題っていうのがあるのでしょうけれども、しかし、そのすばらしさっていうのは、かならずしも、その文学者の思想とか、資質とか、才能とか、そういうものに依存しないというような面も、たくさんあって、つまり、偶然の要素がたくさんあって、そこのところには、あまり、重要な要素っていうのはないといえばいえると思います。つまり、そこのところは、あまり重要じゃないのかもしれないっていうふうにいえると思います。
これは、現在の文学者についてもいえるわけで、その文学者の生みだした作品、あるいは、思想というようなものが、あるひとつの時代的な契機にぶつかって、そこで開花するっていいますか、花を開くってことには、ほんとは、あんまり、たいした重要な意味はないのかもしれません。
ただ、文学にとって重要なことは、どういう死に方をするかっていうようなことのほうが重要じゃないかってふうに思います。この死に方は、なぜ重要かといいますと、いずれにせよ、その死に方っていうものは、ほとんど全面的に、偶然には依存しないわけです。
それから、もうひとつは、全面的に、作者、あるいは、作家、詩人そのものの、思想、資質っていうようなもの、そういうものに依存するわけです。
だから、なぜ文学として死ぬかってことのなかには、なぜ文学として生きたかっていうような、そういう場合よりも、もっと、必然的な契機っていいますか、そういうものが含まれているっていうふうに、考えることができると思います。
結局、死に方っていうものが、うまくないっていうんでしょうか、つまり、うまくないっていうような、技術的な問題に受け取られやすいですから、そうですね、死に方が本質的ではないっていうふうに、言い直せばいいわけですけど、死に方が本質的でないと、よみがえることができない、つまり、文学として、よみがえることができないってことが、いえると思います。うまく死なないと、つまり、よみがえることができないんだっていうふうにいえば、いいんだと思います。
文学っていうものを、結局、ご本人が死ねば、死んじまうってことで、いっこうさしつかえないんですけど、ただ、文学を表現する場合に使う言葉っていうものが、ほんとうは、あんまり、個人が死んだから、言葉が死んでしまうっていう面と、それから、個人が死のうが死ぬまいが、その言葉っていうものは受け継がれていくっていう面と、両方ありますから、だから、そういう意味で、なぜよみがえるかって問題が、文学においても、ある程度、問題になってくるわけです。
その死に方っていうものがうまくないと、うまくないとっていうのは、つまり、本質的でないと、あんまり、よみがえることができないっていうことがいえるんじゃないか。そうしますと、どういうことになるのかっていいますと、なんか文学として、仮死状態っていいますか、死んでもいない、生きてもいないっていう状態で、ずるずると、どうにかなっていくっていうような具合になっていくわけです。
そうしますと、よみがえるにも、よみがえりようがないっていうような、もともと、仮死状態ですから、死んでるともいえないし、また、生きてるともいえないってことで、よみがえることもできないっていうような、そういう状態ってものが続くんじゃないかっていうふうに思います。
現在でも、たとえば、第一次戦後派っていうように、呼ばれている作家たちっていうもの、それは、具体的にいいますと、野間宏であり、それから、武田泰淳であり、それから、椎名麟三でありっていうふうにいるわけですけど、ぼくらが、それをみていて、一様に思うのは、結局、死に方が下手な人たちだなっていうことなわけなんです。そんなことを言っているぼくだって、うまく死ねるかどうかはまた、自分の問題と別問題なんですけど、しかし、傍から傍観していますと、とても死に方が下手な人たちだなっていうふうに思います。
つまり、死に方が下手な人たちだなってことは、死に方が本質的でないっていうことなんですけど、本質的でないっていうことは、結局、よみがえるにも、よみがえりようがあるまいっていうような、そういうことと、つながっていくわけです。
つまり、これは、さきほどから申し上げていますとおり、文学として、自分が表現した文学っていうものが、ある時代の契機にぶつかるっていうような、ぶつかって花を開くっていうようなことは、わりあいにありうるわけですし、たとえば、第一次戦後派の人たちでも、そういうことが過去にありえたわけです。
結局、しかし、いままで申し上げてきましたように、あんまり、いかに文学として生きたかってことのなかには、その時代、時代で、いろんな意味合いで、にぎやかなことにもなるわけでしょうけど、しかし、そこにはあんまり、文学そのものの、本質としては、重要なものはないといってもいいので、結局、死ぬ場合に、いかに、本質的に死にうるかっていうような、つまり、そういうことが非常に問題になります。
つまり、いかに、本質的に死にうるかってことは、たとえ、それが、時代的な契機に逆らおうと、また背を向けようと、そういうことは、どうでもいいんですけど、それは、どうでもいいんですけど、しかし、その死ぬ場合には、やっぱり、非常に本質的な仕事をしながら、文学を生みだしながら、死ぬってことが、ものすごく、重要な契機のように思われます。つまり、その死に方が下手だなってことは、そういうことがあんまりうまくてきていないっていうような、そういうことを意味するわけです。
もちろん、人間っていうのは、人間自身としてもまた、自分が想像の世界で生みだしたものについても、あんまり、死ぬことは歓迎しないってことはありますから、結局、死んだって、死んでいるんだけど、自分は死んでいないっていうふうに、誰でも思うわけです。
また、文学自体としても、やっぱり死にたくないっていうようなことが、たくさんあるわけです。つまり、文学自体としても死にたくないってことがあるってことは、つまり、それを表現するのに使う言語そのものが、やっぱり、死にたくないって面が、つまり、個人なんかといっしょに、死にたくないって面があるわけです。
つまり、時代とともに死ぬとか、あるいは、時代とともに、いつのまにか死んでいたっていうふうには、言語自体もまた死にたいと思うわけですけど、しかし、言語っていうものは、その性格上、個人、個人の作家、あるいは、言語を表現したもの、そういうものと一緒に、個人が死んだってことで一緒に、死にたくないっていうような面が、言語そのものにあるわけです。
だから、言語、文学そのものとしても、死にたくないっていうような希望っていうのは当然ですし、また、死にたくないっていうような、希望とか、願望とかっていうものはでてきて、人間的に解釈されますと、結局、おれは死んでいない、おれの文学は死んでいないっていうふうなことになるわけです。
しかし、その文学が死んでいるか、死んでいないかっていう問題は、けっして、主観的な問題ってものではなくて、それはやっぱり、わりあいに、普遍性のある問題であるわけで、結局、それは、主観的判断っていうもの、つまり、個々の作家の主観的判断っていうものを、超える部分っていうものをもつわけです。
たとえば、現在、流行りの、構造主義者ってものは、そういうものを構造っていうふうに考えていると思います。けれど、そういう言葉は使いたくないならば、それは、共同性としての言葉、言語っていうことになるわけです。もっとはっきりいいますと、共同規範としての言語っていうことになるわけです。
共同規範としての言語っていうものは、死にたくないわけですし、また、個々の人間、つまり、その言葉を、その都度、吐いたであろう個々の人間の死ぬ死なないにかかわらず、やっぱり、死にたくないし、死なないという面ももっているわけです。言語がその面でとらえられるとき、共同規範っていうふうに呼ばれるわけです。
共同規範っていう言葉は、さまざまなニュアンスがありますから、たとえば、それは、ごくあっさりと、それは、言語のもっている文法とか、語法とか、用法とかの、問題だっていうふうに、共同規範っていうものをとらえることもできますけれども、それ以上な意味で、つまり、文法的とか、語法的とか、レトリックとか、そういう意味合いで、とらえなくても、もっと総合的な問題としてとらえても、共同規範としての言語っていうものは、なかなか、それを表現した個人とともに死にたがらないっていうような、そういう面をもっているわけです。
そういう意味で、文学として、いかに生くべきかってことではなくて、いかに死ぬべきかっていう問題っていうのが、非常に本質的に問われていかないと、またふたたび、よみがえることができないと、つまり、仮によみがえったとしても、それは、文法とか、レトリックとか、語法とか、そういうような意味合いでしか、よみがえってこないで、つまり、文学そのものとしては、よみがえることができないっていうふうにいえると思います。
つまり、そういう意味合いでみますと、やっぱり、戦後20年っていうのは、二十何年経っているわけですけど、なんかそこのなかで、本質的に文学として生き、また、本質的に死ぬっていうようなかたちで、見事に大往生を遂げたなんていう作家、詩人っていうものは、あまり、たくさんは、見つけることはできない。現に、ぼくらが目の前にみているものっていうものは、いかに生くべきか、あるいは、いかに死ぬべきかっていうような問題以前に、仮死状態のまま、漂流を続けているっていうような、そういう作家、あるいは、詩人っていうようなものにしか、めったにお目にかからないっていうようなことがあるわけです。
結局、この問題っていうのは、自分自身に対する自戒というような意味合いも含めて、非常に、本質的に問われなくちゃいけないっていうようなことがあると思います。今日と、もう一回ですけど、お話する、実朝っていう詩人がいるわけですけど、わりあいに、この詩人っていうのは、うまく、つまり、本質的に生きたかどうかっていうことは、そう簡単には決められないとしても、本質的に死にえた人だ、死んだ人だっていうようなことはいえると思います。
実朝の場合に、『金槐和歌集』、あるいは、『金槐集』っていうふうに呼ばれている詩集を、ひとつ残しているわけですけど、その当時からの評価もそうですけど、江戸時代、賀茂真淵なんて国学者の評価、それから、明治時代になりますと、正岡子規なんて人の評価に典型的にあらわれているんですけど、結局、中世の詩人のなかで、誰でも、西行と、それから、実朝っていうふうに、指を数えざるをえないっていうような、つまり、中世の最大の詩人のひとりだっていうふうに、いうことができます。
実朝っていうのは、つまり、鎌倉幕府の創始者であった、源頼朝の二男なんですけど、ちょうど生きていたのは、十二世紀の世紀末から、十三世紀のはじめにかけて、だいたい、28歳ぐらいで、暗殺されて死んじまった詩人です。
なぜ、実朝をここで取り上げるかってことには、さしたる普遍的な理由はないのです。ただ、個人的な理由っていうのはあるんです。つまり、古典詩人論っていうような、ぼくらが戦後ずーっと持ち続けてきたテーマであり、また、ある詩人についても、いくらか、そういう文章を書いてきたっていうことがあるわけですけど、つまり、古典詩人論っていうのは、ぼくらの仕事のモチーフのなかのひとつっていうふうに、考えていただければ、いちばん、よろしいわけなんです。
それで、なぜ、ぼくらが古典詩人論ってことに固執するかっていうようなことがあるわけですけど、それはよく考えてみますと、結局、戦争中の自分の、ちょうど、みなさんの大部分の人とおんなじぐらいな年齢だったと思うんですけど、結局、その頃、やたらに受けた知識っていいますか、そういうものを返済しようというモチーフだっていうふうに思います。
つまり、返済しようというモチーフだといえると思いますっていうような言い方をするのは、非常に無意識な部分がありまして、うまく意識的に、よし、おれは返済すると、つまり、戦争中の負債はみんな返済するっていうように、なんか自覚的にならない部分もあるわけです。
つまり、なぜ、それを論じているのか、あるいは、なぜ、古典詩人っていうものを論じるのかっていうような、その契機のなかに、ぼく自身がおもしろがっているんだけど、なぜそんなのをおもしろがっているのかっていうようなことが、自分でわからない部分があります。だから、だと思うというふうにいうより仕方がないのですけども。
つまり、ちょっと戦争中、受けた知識っていうものを返済していこうじゃないかっていうような、そういうような意味合いが、ぼくらが、古典詩人っていうものに固執していく、理由のひとつじゃないかなっていうふうに思います。
これは、思想的に固執するっていいますか、やっぱり、思想的にお返しはするぞっていうような、そういうこともあるわけですけど、いちばん大きいことは、天皇、あるいは、天皇制っていうようなものなので、つまり、これの負債も、かならず、お返しするっていうような、そういうモチーフっていうのは、ぼくにあって、それは、たとえば、ぼくらが『共同幻想論』っていうようなもののかたちのなかで、徐々にお返しはしているっていうようなことになっているわけですけど、古典詩人論の場合にも、文学的な意味合いで、やっぱり、その頃、受けた借金の返済はするっていうような、そういう意味合いが、多くあるんじゃないかっていうふうに思います。
ぼくらを、源実朝という詩人に近づけてくれた契機をなした文章ってものがあるわけです。そのひとつは、太宰治の『右大臣実朝』っていう、現在の言葉でいえば、中編、ないし、長編といいましょうか、つまり、『右大臣実朝』っていう作品があるわけです。この『右大臣実朝』っていう作品は、太宰治自身が、自分にとってちょうど中期、中期っていうのは、太宰治にとっていちばん安定した時期なんですけど、中期のひとつ代表作を、おれはつくるんだっていうような、そういうふうに、自身が言っているように、太宰治の中期の代表的なすぐれた作品だっていうふうに、いえると思います。
もうひとつは、時期としては、それほど違わない、戦争中の時期なんですけど、小林秀雄の実朝、これは、『無常といふこと』っていうエッセイ集のなかのひとつですけど、「実朝論」っていうのがあります。このふたつは、ぼくらが、実朝という詩人に近づくのに、非常に大きな契機をなした文章なんです。
すこし、それはどういう文章であり、どういうことを、それを読んで感じたかってことを申し上げますと、太宰治の『右大臣実朝』っていうのは、実朝を一種の理想像っていうふうに描いているわけですけど、つまり、人格的な意味での理想像っていうふうに描いているわけです。
それで、太宰治の晩年、あるいは、初期っていうのは、別にしまして、太宰治が小説のなかで、非常に典型的に描いている理想の人物像っていうのは、なにかっていいますと、これは、キリスト像なんです。つまり、非常にそれを理想的に、自分の理想にかなうように、性格をあたえたりして、つくりあげているわけです。
この太宰治の理想像は、おなじくまた、中期の非常にすぐれた作品である「駈込み訴へ」なんていう、これは短編ですけど、そのなかの描いてあるキリストのなかに、非常によくでているんですけど、それは、ひとくちにいいますと、なにもかも心得ているんだけど、おっとり構えていて、つまり、のほほんっていうふうに構えていて、あんまり、いろんなことに逆らわないっていうような、非常に鋭敏な神経と、鋭敏な洞察力をもっていて、なにもかもお見通しであるっていうようなふうでありながら、お見通しであるってことについては、一言もいわないで、人が担いだ神輿の上に、何年でも乗っかって、のほほんとしておられるというような感じが、だいたい、太宰治が中期に描いた理想の人物像なんですけど、こういう像を理想の人物像として仕上げたってことのなかには、太宰治のいろんな契機があるということは、あるわけですけど、そういう枝葉に入らないで、その『右大臣実朝』っていう作品のなかでの実朝っていうのは、まさに、太宰治の中期の理想像みたいなかたちの性格が与えられているわけです。
これにたいして、実朝を暗殺したご当人なんですけど、これは、実朝の兄の子ども、つまり、甥ということになりましょうか、公暁っていう坊主なんですけど、その坊主はどういうふうに描かれているかっていうと、これは、ニヒリストであり、それからまた、非常にひねていて、そして、妙に鋭いっていうような、そういうような人物像として描いています。
つまり、この人物像もまた、太宰治にとっては、わりあいに、ネガティブな意味での理想の人物像なので、たとえば、「駈込み訴へ」っていうような作品のなかでも、キリストに対して、ユダっていうふうな、ユダの人物、人格っていうものについては、太宰治が、まったくおなじようなそういう性格っていうのを与えています。で、『右大臣実朝』の場合にも、公暁っていう、実朝を暗殺したご当人なんですけど、これは、キリストにおけるユダっていうあれとおんなじように、実朝に対するユダみたいな、そういうような性格が与えられています。
この種の性格もまた、太宰治が、非常に理想と思っていた性格なので、ほんとうは、太宰治の作品をおもしろくしているっていいますか、現在でも、たくさんの人に読ませている要素っていうのは、むしろ実朝像、あるいは、キリスト像的な理想像よりも、ユダ的な、あるいは、公暁的な理想像、つまり、ニヒリストであり、ひねこびてて、そしてまた、妙に鋭いっていう、いわば、太宰治の性格の半分ぐらいを与えた人物なんですけど、この種の人物が登場するために、太宰治の作品っていうのは、現在でも、文学的に、鑑賞に耐えるし、非常にいいものにしているっていうようなことであるかもしれません。だから、これも、非常にネガティブには違いないとしても、太宰治が抱いた理想像だっていうふうに、理想の人物像だっていうふうに、いうことができると思います。
結局、『右大臣実朝』っていう作品は、実朝にあたえられた、そういう性格と、それから、公暁にあたえられた性格っていうような、そういうものの関係を軸として、描かれているわけです。
この種の作品っていうものを、作家が描こうとしますと、つまり、史実っていいますか、歴史的事実に即して、作品を描こうとしますと、日本の作家がそういうことをやると、たいていは、ひとつは、ルカーチの歴史小説っていうような概念にまったくおあつらえむきなような、おもしろくもない、全体小説みたいのを書くか、それじゃなければ、もうひとつは、つまり、大衆作家っていうふうにいわれている人たちが描くもの、つまり、たとえば、山岡荘八の『徳川家康』とか、吉川英治の『宮本武蔵』とか、そういうふうな、つまり、通俗的な意味で、おもしろおかしくできあがっている、そういう作品っていうのができあがるか、どちらかであるわけです。
で、結局、そういう、太宰治の『右大臣実朝』っていうのは、そういうような意味合いで、いずれにも該当しないというふうに思われたわけです。該当しなくて、しかも、まさに古典的な人物なんですけど、そういう人物像と動きっていうようなものが、まるで、近代小説を読むように、非常によく入ってくるような、つまり、われわれにも入ってくるような意味合いの性格付与っていう、性格があたえられ、また、動きがあたえられているわけです。
このことは、そういう日本の歴史要素っていうようなものの、その当時の水準、現在でも、たいした変わりなんかないと思いますけど、それを、考えたなかでは、読んで衝撃をあたえるようなものだったんです。つまり、衝撃をあたえるようなものだったっていうのは、つまり、そういう古典っていうものが、そういうようなかたちで、よみがえりうるってことは、ちょっと、さまざまな歴史小説の日本におけるあり方ってものから考えて、ちょっと予想だにしないっていうような、しなかったっていうかたちで、それはよみがえっているわけです。
つまり、古典っていうのは、こういうふうに読めるのかっていうような、あるいは、こういうふうにつくりかえられるのかっていうような意味合いで、非常に衝撃的な作品だったっていうふうに、覚えています。
もしも古典が、あながち国文学者が研究的に扱うっていう意味合いでもなく、また、大衆小説家が、まげもの、ちゃんばらものっていうような意味合いの延長線で描く、歴史読物というようなかたちとしてでもなく、おおまじめな、全体小説としての歴史小説みたいな、そういうものとしてでもなく、よみがえりうるってことならば、古典っていうのは、やっぱり、そんなに捨てられないんじゃないかってことを、非常によく教えてくれた作品だったわけです。
つまり、そういうことは、もともと、とっつきにくいし、また、現在のみなさんもまた、日々たいへんな問題にぶつかりってことがあるわけでしょうし、また、それと同じような意味合いで、その当時も、戦争中ですから、日々、いろんな考えるべきことが、たくさんあるっていうような、またいろんな、どうしていいかわからないっていうような、そういう混乱も、自分の中にありますし、そういうなかで、古典なんていうものは、非常にとっつきにくいわけですけど、しかし、太宰治の作品なんかは、もしも、こういうふうに古典をよみがえらせることができるとすれば、あるいは、こういうふうに読みうるとすれば、古典っていうのも、けっして、捨てたもんじゃないんじゃないか、つまり、過去につくられ、いまは埋もれ、読むにもまた、むずかしくて、言葉もむずかしいし、どうにもならないっていうような、そういうようなものじゃないんじゃないかっていうような、そういう意味合いの、眼を開かせてくれたっていうふうに考えております。
で、もうひとつの、小林秀雄の「実朝論」っていうのもまた、これは、今度は批評文ですから、べつに、実朝の人格っていいますか、人物像が、論文のなかからよみがえるっていうふうには、描かれていませんし、また、どういうような歴史的な背景と、軋轢のなかで、実朝が生き死にしたかってことについても、別段、正確な知識をあたえてくれたわけでもないし、また、ある意味合いでいいますと、こういうひでぇ読み方があるかとか、そういう解釈はなりたたんだろうとか、もし、専門の研究家でしたら、さまざまないちゃもんがつくはずな文章だともいえるわけですけど、しかし、確実に、ここに、非常に、現在っていうものを、よく生きている、ひとりの批評家が、やっぱり、古典というものを、そういう目で、よみがえらせていると、そのために、実朝の書いた、書き残した作品っていうようなもの、それから、実朝のことを叙述した、さまざまな当時の歴史的な歴史書っていうもの、そういうものが、非常によく、やっぱり、よみがえっているっていうような、印象を受けたわけです。
やっぱり、その場合にも、もし、古典っていうものが、そういうふうに読めるならば、古典っていうのは、そんなに捨てたものじゃないんだ。つまり、とっつきにくく、また、とっついても、おもしろくないっていうような、そういうものでもないだろうっていうことに、眼を開かせてくれた、ひとつの契機になったわけです。
いずれにせよ、小林秀雄の場合には、古典っていうものを、どういうふうに、文学として論ずれば、それは現在によみがえりうる観点が得られるか、つまり、どういうふうにしたら、古典っていうのは、論じうるかっていうような問題について、ある回答をあたええたと思います。
そういう回答をあたえたってことで、またひとつ、日本の文芸批評の歴史も浅いですけど、あるわけですけど、そのなかで、古典の論じ方っていうことについての、ひとつの典型的な、つまり、模範っていうようなものを、やっぱり示したと思います。そういう意味でもまた、非常に先駆的なことをやったわけです。
つまり、そういうような論じられ方をしますと、やっぱり、なんか古典っていうのは、非常にそばによってくるっていうような、しかし、そばへよってくるなら、現在の情況のなかで、さまざま存在する問題のパターンを歴史的な過去の時代に投影するっていうような、そういうよみがえり方じゃなくて、過去は過去として、古典は古典として、それが生みだされた時代にありながら、しかも、それが非常にそばに引き寄せられるっていうような意味合いで、よみがえらせたっていうふうにいうことができると思います。
小林秀雄における実朝っていうのは、つまり、一種の鋭敏で、ナイーブな心をもった詩人、あるいは、人物というふうに捉えられているわけです。つまり、実朝なんかには、これから申し上げることができると思いますけど、さまざまな奇怪なっていいますか、ちょっと解釈に苦しむような挙動があるわけですけど、そういうような問題っていうものを、あまり合理的に解釈したり、歴史的に解釈しても、あんまり、あてはまらんだろうから、結局、これは、詩人、つまり、鋭敏で、ナイーブな詩人の、その時どきの、思いつきといいますか、そういう思いつきというか、その時どきの、ふるまいというふうに理解すれば、けっして、理解できないことはないというような意味合いで、かなり鋭敏で、ナイーブで、すぐれた詩人というような観点で捉えられていったと思います。
太宰治の『右大臣実朝』における実朝と公暁っていうのは、いまでいいますと、たとえば、水木しげるなら水木しげるの漫画でいいますと、ゲゲゲの鬼太郎とねずみ男っていうような、そういう感じなんです。つまり、ああいうゲゲゲの鬼太郎のおもしろさの半分は、ねずみ男の存在に依存するわけですけど、わりあいによく似てて、太宰治の右大臣実朝っていうのは、比喩的にいえばゲゲゲの鬼太郎であり、それで、公暁っていうのは、やっぱり、ねずみ男だっていうような、そういうふうに描かれているんです。
だから、ぼくらも、いまでも鮮やかに思い浮かべるんですが、由比ガ浜の海辺で、公暁が朽ち果てた船のところによってくるカニをつかまえて、それをピシャッと叩きつけて、それをムシャムシャ食べるっていうような描写があるんですけど、非常に鮮やかな描写があるんですけど、公暁っていうのは、非常にねずみ男的に描かれているわけです。
これに対して、小林秀雄の、鋭敏でナイーブな詩人っていう、そういう描かれ方っていうものは、つまり、鋭敏でナイーブな詩人っていうものが、一種の陰惨な暗殺集団の上にのっかっているっていうような、そういう描き方なんですけど、それはあんまり、比喩的にいって、なんかに例えるってことはできないんですけど、あるいは、いちばん例えられるのは、その当時の、小林秀雄の心境っていうか、心理っていうか、そういうものとして例えると、わりあいに、例えられるのかもしれません。つまり、そういう意味合いで描かれているわけです。
いずれにせよ、ここでよみがえっている、古典のよみがえり方っていうものは、かつて、日本の文芸批評のなかに、また、歴史小説のなかに、よみがえってきた、よみがえり方と、また、まったく違うっていうような、よみがえり方であったわけです。つまり、こういうことは、一介の読者であるぼくらを、ずいぶん古典のほうに、いざなっていったっていうふうに思います。
このいざなわれ方のなかには、さまざまな問題が含まれているわけで、結局、そのようにして、いざなわれて、いくらかでも、古典っていうものをかじったっていいますか、その世界をいくらかでも、においをかいでったっていうような、そういう体験をした、そういう人間が、いま、戦後になって、おりあらばっていいますか、おりあらばっていうのは、暇ができたらってことも含めてですけど、おりあらば、そのお返しはしたいというようなことを考え続けてきたわけです。
お返しのなかには、当然、たとえば、現在のおれならば、そうはよみがえらせないっていうような、そういう自負っていうものが、当然あっていいわけですけど、現在のぼくに、それができるかどうかってことはわかりません、つまり、謙虚に言ってわかりません。
しかし、ただ、そういうモチーフの奥底にあるものは、やっぱり、なんかお返しはしたいっていうようなことと、また、そういうよみがえらせ方に開眼されて、いくらか、そういうにおいの世界にいったら、案外、おもしろかったっていうような、そういう体験と、お返しの意味合いと、両方の意味合いを、ぼくらの古典詩人論のなかには、両方の意味合いが含まれているというふうに思います。
それで、それ以上の無意識的な、自分でもわからない動機っていうのはあるかもしれませんけど、ぼくらが考えてみると、どうもそういうことじゃないかっていうふうに思われます。
少しずつ本題に入っていきますと、詩人として、源実朝っていうものは、わりあいに詳しく研究されていますし、また、論じられているわけです。だから、たとえば、たくさんあるんですけど、たくさんあるっていうのは、実朝と同時代の専門詩人の第一人者って意味合いのところにある、藤原定家っていうのがいるわけですけど、定家の評価とか、もうすこしあとの京極為兼の評価とか以来、連綿として、江戸時代でいけば、賀茂真淵がおり、明治初年にいけば、正岡子規がおりっていう、連綿と実朝に対する評価、詩人としての実朝の評価っていうのはあるわけです。
それからまた、子規以降でも、たとえば、斎藤茂吉なんかは、『源実朝』という一冊の本を書いているくらいに、よく研究されもいるし、また、詩として鑑賞されもしています、それから、川田順なんて歌人もまた、一冊の本をつくりあげているっていうような、あんばいですし、もっとちいさなあれを探っていけば、また、たくさんみつけることができると思いますけど、とにかく、研究的な面からいっても、また、鑑賞的な意味からいっても、すでに相当たくさんの仕事が提出されているっていうふうにいえます。
それで、研究的にいって、あんまり、それ以上、つっこむ余地はないんじゃないかなっていうふうに思われるくらい、徹底的にやられている、研究され、そして、解釈されている詩人だっていうふうにいえると思います。
ただ、これはやっぱり、同時代の天台宗の座主っていいますか、つまり、いまでいえば官庁みたいなものですけど、慈円という教養ある坊主がいまして、慈円の『愚管抄』なんてみると、結局、どう評価しているかっていうと、実朝っていうのは、文学者としてはすぐれているけれども、武家の棟梁っていいますか、つまり、将軍としては、まったくダメな人物だったっていうような評価をしているわけです。
で、この評価は、ある意味で普遍性があります。つまり、そういえるところがあり、また、そういう考え方っていうのを、現在に至るまでっていいますか、斎藤茂吉、川田順に至るまで、そういう評価っていうのは、ある程度、受け継がれてきているわけです。だから、実朝っていうのは、詩人としては、中世を代表する詩人であるけれども、政治家としては論ずるに足りないっていう、そういうような評価が伝わっていて、だから、斎藤茂吉にしろ、川田順にしろ、詩人として、実朝を論ずるっていうふうに、論じているわけです。つまり、そういうような意味合いで、たくさんの研究がなされ、たくさんの鑑賞がなされているっていうふうにいえるわけです。
たしかに、そういう解釈の仕方っていうものも、当たっているところがありますから、だから、当然、詩人としての実朝っていうふうに、研究され方、それから、論じられ方ってものが、限定されて、つっこまれていくっていうことは、やむをえないところでもありますし、また、正当であるっていうふうに思えるところもあります。つまり、正当であるに違いないっていえると思います。
ただ、そこのところが、問題なのですけれど、それじゃあ、鎌倉幕府の三代目として、それから、つまり、武家の棟梁としての実朝っていうのは、問題にするに値しないのか、つまり、それは、論ずるに値しないのか、つまり、ひとりの詩人として論じたってことで、実朝を論じ尽せるのか、つまり、実朝を非常に全体的に、実朝の人物像っていうもの、あるいは、挙動ってものを、つかまえていく場合に、詩人としての実朝っていうものをつかまえれば、それでいいのかっていうようなことになっていきますと、いくらかの問題があると思います。
そのいくらかの問題ということが、詩人としての実朝というのに付け加わっていかないと、実朝としての人物像ってものが、完全、つまり、総合的ではありえないのではないかっていう観点っていうのは、成り立ちうると思います。
そうしないと、なんかひとりの詩に堪能な将軍っていうような、そういうようなことで、片づけられてしまうっていうような、また、それでよろしいんだっていうことになってしまうわけで、なんかそこでは捉えられない問題っていうのは、つまり、象徴的な問題っていうのはないのかっていうふうに考えていきますと、かならずしも、その面はないわけではありませんから、やっぱり、その面っていうのは無視することはできないんじゃないかなって思います。
それを無視すると、総合的な像っていうのは得られないんじゃないかなっていうふうな感じがします。ただ、そうしていくと、非常に捉えにくいものですから、やっぱり、論としては、詩人としての実朝っていうようなところに、問題が限定されてきてしまっているっていうふうになってきます。
別の面からいきますと、史論家、史論家っていうのは、歴史論をやる人って意味ですけど、史論家の眼から実朝をみますと、これはまったくまた、資料的にいってもまた、実際的にいってもまた、つかまえにくいわけなんです。
だから、たとえば、頼朝っていうような、鎌倉幕府の創始者っていうものをつかまえていきますと、これは、かなり、史論家っていうもの、あるいは、歴史学者っていうものが、かなりつかまえやすいところがあり、また、つかまえやすいだけの政治的な仕事っていうのをやってきていますから、動きをやってきていますから、つかまえやすいので、たとえば、頼朝についての論というようなものは、史論家によって、たくさんなされているわけです。それは、山路愛山からはじまって、現在の岩波新書に至るまで、頼朝についての、史論的人物論みたいな、つまり、政治的な行動を主体にした人物論みたいなものをなされているわけです。これについてならば、わりあいに、史論的にいって、道がつきやすいっていうようなことがありますから、そういう論はあるわけです。
だけど、実朝っていうのは、ちょっと史論的につかまえようとしても、ちょっとつかまえるだけの手がかりがないですし、また、その手がかりといえども、たいした手がかりとはいえないと、つまり、政治家といいますか、つまり、鎌倉幕府の棟梁としては、甚だ貧しい政治的な動きしかしていないっていうようなことがありますから、史論としては、非常にやりにくいし、なかなかできないというようなことがあるわけです。
ただ、結局、そういうことを、そうだからといって、無視するわけにもいくまいというような意味合いが、実朝を総合的にとらえる場合にも、でてくるっていうふうに思います。そういう面を含めながら、ここでは、実朝を論じていきたいわけですけども、まず、実朝の幕府の棟梁として、また、鎌倉武家政府の主人公として、実朝っていうのは、どういう意味合いをもつかっていうようなことから、申し上げてみますと、そういう問題については、さまざまな研究が、歴史、中世史の歴史学者によってなされているわけですけど、つまり、最も根本的な問題っていうのは何かっていいますと、中世、つまり、鎌倉幕府成立当初なんですけど、成立初期なんですけど、中世における法的国家っていうものは、いったいどういうふうになっていたのかっていう問題が、非常に中心的な問題になるわけです。
で、そういうことを背景にしておいて、結局、実朝というのは、どういう意味合いをもつかということが浮かび上がってくると思います。
これは、鎌倉幕府の創立当初、つまり、頼朝のときから、すでにあるわけですけど、鎌倉幕府、あるいは、鎌倉を中心とした関東における武家勢力による幕府の創設っていうようなことなんですけど、これが結局、つまり、法的な国家として、どういう意味合いをもっているのかってことが、いちばん問題になると思うんですけども。
この場合に、たとえば、頼朝もそうなんですけど、けっして、前代の、つまり、律令制国家なんですけど、頼朝がそもそも当初から、律令制王権っていうようなものに対して、これを打倒しておいて、そして、武家による法的な権力をつくりあげるっていう問題意識は、頼朝の、つまり、創始者のときから、すでに、なかったっていうふうにいえると思います。
これも、いちがいに言い切ることはできないと思いますけれど、鎌倉幕府の創設ということは、かならずしも、律令制国家っていうものの、法的解体、つまり、法的国家として、律令制体制が崩壊したことだっていうふうにいえないわけなんです。
つまり、法的にみますと、鎌倉幕府法っていうのはあるわけですけど、つまり、鎌倉幕府法があり、それは、非常に具体的な面では、律令制国家の、諸々の体制ってものに対して、矛盾と対立をつきつけていくわけ、必然的にいくわけですけど、そもそも、幕府っていうものの創設当初から、幕府の存在自体が、律令制国家の全面的な否定、あるいは、これに対する交代っていうような、そういう意味合いをもちえていなかったってことがいえるわけです。
つまり、どういうことにあらわれたかっていいますと、たとえば、頼朝が、北条氏を中心とした武家の勢力でもって、だいたいにおいて、武力的統一っていうのを、全国的にやってしまうわけですけど、そのときに、たとえば、つまり、当時の王権に対して、かならずしも、自分らは、王権を否定するものではないっていうふうなことを、当初から言っているわけです。
事実、頼朝が、たとえば、武力的統一っていうのが、ほぼできたときに、京都へいくわけですけど、行って、王権内部における体制っていうようなものがありますから、行ったときに、頼朝は、全国的な混乱を平定したっていうようなことで、権大納言っていうような、あるいは、権大納言右近衛大将っていうような、そういう、王権内部における序列みたいなあれがあるわけですけど、そういう序列的な論功行賞みたいなことで、それをもらうわけです。
つまり、もらうわけですっていうのは、わたしは文部大臣賞を辞退しますっていうのとは違って、とにかくいちおうもらっておいて、それを数日後には返すっていうかたちのやり方をしているわけなんです。つまり、そこでは、おれは問題にもしてねえっていうふうでもないですし、また、もらうものはもらっちゃうっていうような、そういうものでもありませんし、また、そういうのは、頂戴しない建て前ですっていうのでもなくて、とにかく、いちおう、それを形式的にもらって、返すっていうような、返上するっていうようなかたちをとっているわけです。
それから、もうひとつ、かならずしも、たとえば、幕府の成立っていうような、律令制の王権の否定っていうものを意味しないっていうような、かならずしも、意味してなかったっていうような、象徴的なあれは、たとえば、だんだん考えていきまして、全国的に、たとえば、守護とか、地頭とかっていうような、守護職とか、地頭職とかっていうものを、自分の御家人っていいますか、武士たちのあれを使って、全国的に、守護、地頭っていうのを、それぞれの地方に派遣するわけです。
で、派遣しておいて、結局、それは、律令制国家の管制があるわけです。つまり、さまざまな管制っていうものがあるわけですけど、それに対する監視と、それから、督促っていうような、そういうような意味合いのあれも含めて、守護、地頭っていうようなものを全国的に派遣して、つまり、律令制王権の法的体制っていうようなものに対して、そういうふうなかたちで、つまり、それを、傍から、つまり、人を派遣して、監視するっていうようなやり方で、それに対して制約を加え、ある場合には、また、そこにおける権力を掌握してしまうっていうような、そういうようなかたちで、守護、地頭っていうのを派遣していくわけです。
そうすると、この派遣の仕方は、どういう経路をとるかっていいますと、いちおう、それは結局、武力的な圧力があればできるわけですけど、その武力的な圧力をもとにして、結局、守護、地頭職を、派遣するっていうようなことを、承認させるわけです。つまり、派遣するっていうことに対して、否応なしに承認させるわけです。させるっていうようなかたちをとって、いちおう、承認をさせるっていうような、承認をとった上で、守護、地頭職を派遣しまして、それでもって、律令制体制の解体期なんですけど、その管制に対して、監視と、それから、執行っていうようなことで、そういうものを派遣して、だいたい事実的に、律令制国家の法権力っていうものを、実質的には、なしにしようっていうような方式をとるわけです。
しかし、これもいちおう、そういうことを承認させたうえで、そういうやり方をするっていうかたちをとっていますから、とりましたから、それ自体が、かなりの矛盾を含むわけで、ですから、たとえば、公家とか、貴族とかがもっている領地とか、あるいは、それから、主たる神社、仏閣みたいなものを媒介として、王権内部で所有している、そういう土地があるわけですけど、そういうなかでは、ものすごい反撃、つまり、抵抗にであうわけです。
それは、さまざまな意味あいの抵抗で、つまり、守護、地頭職たるものは、分限を超えているってことから、そういう意味合いの文句から、それから、全然、自分らの所領をみんな没収したのと、なんらかわりがないじゃないかっていうような、そういう抵抗とか、さまざまなかたちで、非常に強烈な抵抗にであうわけです。
その抵抗にであったとき、頼朝は、ある程度、妥協するわけです。それで、結局、そういう由緒ある寺とか、寺院とか、それから、公家の所有、あるいは、管轄地域に対しては、まったくこれを変更したり、これをなんかにしちゃうっていうような、そういう意図はないんだっていう弁明をやって、事実、そういうことについては、実際的な政策のうえで、交代をするわけです。
だから、そういうふうに考えますと、つまり、律令制の国家っていうものの、法的体系、つまり、制度的体系っていうものに対して、また一方に、関東の武家勢力に基づいた、幕府法をもとにした、法的体制っていうようなあるわけですけど、つまり、それらのふたつの体制は、たとえば、京都と関東を根拠地にして、一種の二重法構造みたいな、法体系みたいな、つまり、二重法権力みたいなかたちになっていくわけです。
つまり、そのなり方っていうものが、鎌倉幕府の性格を決定してたわけですし、また、あえていえば、日本の中世国家における法的権力っていうようなものの、非常に特異性っていいますか、複雑さっていいますか、そういうものの、もとになっていったわけです。そのやり方のもとっていうものは、創始者、つまり、頼朝のときにすでに、そういう性格の基本的なところは決まっていたっていいますか、そうなったっていうふうにいうことができます。
だからこれは、律令制王権の法的体制っていうものを使いながら、それを実質上では、監視、指導っていうようなかたちで、無にしていこうっていうような、しかも、そういう鎌倉幕府によって、決められていく制度、つまり、守護、地頭っていうような制度ってものは、とにかく、それを実施するに際しては、もちろん、武力的な圧力を背景にするわけですけど、いちいち、律令制王権の法的な承認っていいますか、そういうものをかいくぐった上で、法的承認は得たんだぞっていうような、そういう名目は、とにかく、脅しでも何でもいいわけですけど、そういう名目だけは、ちゃんともったうえで、そういう律令制王権の支配にくさびを打ち込んでいくっていうような、そういうやり方をとった。そういう複雑さっていいますか、まだるっこさ、まがりくねったやり方っていうものが、日本の中世国家の性格を非常に大きく決めていく要素になったっていうふうに思われます。
そういうやり方っていうのは、わりあいに、わが国の政治的な権力構造っていうのは、あるいは、政治的な権力のあり方っていうものを考えていく場合に、わりあいに、普遍的なやり方なんです。つまり、普遍的なパターンなんです。これは、戦後にも、そういう傾向が残っていると思いますけど、もちろん、非常に古い時代から、わりあいに、そういうやり方っていうものが、普遍的なパターンになっているわけです。
だから、そういう意味合いでは、結局それは、政治権力の問題でもありますし、あるいは、もっと、個々の人間っていうものに引き寄せていきますと、つまり、われわれのもっている感性の世界のなかで、わりあいに、普遍的に通用するっていいますか、やるパターンだっていうふうにも、思えるわけです。
その問題を、政治制度の具体的な問題っていうふうに限定しないで、そういうふうにいわないで、たとえば、日本における政治委員会のメンバーっていうのは、どういうことをするかっていうと、結局、法的にいいますと、自分が、実際に、政策、あるいは、行動としておこないたいと、つまり、かかることを、ほんとうはしたいんだと、ほんとうは、かかる行動によって、こういうことをしたいんだ、つまり、こういうことを社会的にやってしまいたいんだっていうふうなことが、意図があった場合に、それじゃあ、その政治的な行動、あるいは、政策ってものにふさわしい、つまり、それができるような、法的な改正っていいますか、改正を、いろんな圧力のもとにやって、つまり、政治権力がやりたいというような行動に、ちょうど行動を承認するような、法制的な修正っていいますか、提案といいますか、そういうことをやって、それを承認させるっていうような、その行動をやるっていうような、そういうパターンっていうのは、わりあいに、少ないのです。
それは、おそらく現在でもそうじゃないかなって思います。現在でも、そういうことがいえるんじゃないかなっていうふうに思いますけども。これは、わりあいに、古くからそうなように思います。
そうすると、そういうふうに、ある政治的な行動、あるいは、政治的な政策っていうものを、政治権力がやりたいっていう場合には、その行動をやるについて必要な、法的な規定よりも、上位概念にある、法的な規定を使うってことです。つまり、その規定からは承認されているという名目をとったうえで、その政策とか、政治的行動をおこなうっていうやり方をするわけなんです。
つまり、本来的にいえば、そういうことは、簡単なので、もし、権力さえもっていれば、簡単なわけで、たとえば、こういうことをしたいっていうならば、極端にいいますと、こういうことをすることを承認されるような、法律ってものをつくるとか、改正するとかってことを、やっぱり、力を背景にしてやればいいじゃないかってことに、ぼくはなると思います。そうすればいいじゃないかっていう、そうすれば、それはできるはずだってなりますし、ヨーロッパなんかでは、しばしば、そういうふうになると思うんですけど、つまり、日本の歴史的なやりくちのパターンていうのは、そうじゃなくて、ほんとうは、政治的な権力をもっていますから、力っていうのはもっているわけで、つまり、これを通したいと思えば、通せるだけの力っていうのをもっているわけですけど、そうしたら、それを、こういうことをやりたいっていった場合に、それをやるだけの力をもっているから、あとは手続き上の問題である。だから、それをやるにふさわしい法律をつくるとか、それを改正するとかってことを、やっぱり、力を背景にするやつはできるわけですから、法的にそれを規定しておいて、それをやってしまうっていうような、そういうことをやらないわけです。
やらないで、結局、そういうことをしたいっていうような場合には、するようなことをしたいっていうような場合には、それをしうるっていうような法的概念をつくるとか、修正するとかってことよりも、それをやりうる法的概念よりも、上位概念に属する法的な規定ってものを使って、結局、それから、承認されうるというような、あるいは、承認されているというような、そういうあれを得たうえで、ある政策、あるいは、ある政治行動をおこなうっていうような、そういうやり方は、現在に至るまで、わりあいに、普遍的なやりくちです。そういうことは、日本の政治権力、あるいは、政治的な制度にとって、わりあいに、普遍的なやり方なんです。
つまり、このやり方は、ある意味では、非常に独特なものでして、独特なまがりくねり方をするわけで、結局、そのまがりくねり方ってものが、わりあいに、日本において、たとえば、権力の交代とか、法的国家の転換とか、変革とか、そういうものが、すっきりしないというようなかたちが、いつでもでてくるわけですけど、でてくるようにみえるわけですけど、その根底にあるのは、どうもそういうやり方を、いつでもそういうやり方をするからです。
つまり、Aなる行動を欲す、あるいは、Aなる政策的行為がしたいっていう場合に、それなら、Aなる政策的行為をできるような法律を、つくるなり、修正するなり、力を、つまり、多数を背景にすればいいわけだっていう場合になることはなるわけですけど、けっして、そういうことはしないで、それよりも、上位にある法概念を使うっていうような、使ってやるってこと、だから、後世になって、あの独裁者どもが、これこれこういうむちゃくちゃな法律を制定して、これこれこういうことをしたってことは、なかなかいえないわけです。
つまり、そういうふうに明快にでてこないで、なんかそれよりも上位の概念を使ったうえで、そこになんか権力的、そういう言葉はおかしいけど、法的責任ってものは、そこのところに預けておいたうえで、ある政治行動を、あるいは、政治政策ってことをやってしまうっていうようなことをやるわけです。
そうしますと、政治的政策、あるいは、政治的行動っていうものは、まったくお話にならないっていうような、まったくひどいものだっていうようなことをやりながら、しかし、後世になって、時代を経たのちにみて、それを検討した場合には、どうもこいつは、なんかそんなに、強大な権力をもっていたとは思えないとか、これは独裁者とは思えないとかっていうようなふうになるわけです。
だから、たとえば、戦争中でもそうだと思います。東条英機っていうのは、ヒトラーとか、ムッソリーニに比べて、比べられるほどの独裁者かっていうふうに考えていった場合に、たしかに、個々の具体的な場面では、そういうふうにふるまったし、そういう行動っていうのは、あっただろうなっていうふうに思いますけれど、これは、秀才ではあるかもしれないけど、単なる軍人あがりの官僚に過ぎないんだっていうふうになるわけです。
つまり、どうしてかっていうと、あとから検討してみますと、たいていちゃんと、帝国憲法の範囲内でやったとか、天皇制の範囲内でやったとか、ちゃんとそういうふうに、あとからみるとなっているわけです。しかし、実際のなかでは、かなりきつい、独裁者的であり、ファッショ的でありってことがあったとしても、そういうふうに、検討すると、そういうふうになるんです。
そういう場合に、政治学者はさまざまに解釈すると思います。それは、ヒットラーやムッソリーニとは違う、つまり、ヨーロッパにおけるファシズムとは違うけど、それは、東条に象徴されるのは、ファシズムであるというふうにいえる。だから、あの大将は独裁者であるとかいうふうな言い方もできましょうし、いや、独裁者なんてそんなものじゃないと、あれは単なる軍事あがりの官僚に過ぎないんだっていうふうな評価が、そこに起こることもあります。
そういうふうにみていきますと、すこぶるわからないと、つまり、それを、丸山正男さんなら丸山正男さんは、政治支配における無責任の体系だっていうふうな言葉で書いているわけです。つまり、ほんとうは、無責任の体系なんです。どんどん、この政策、この政治的行動における責任は、誰が、どこにあるんだっていうふうにみていくと、どこまでいったって、どこにもないみたいな感じになっていくわけなんです。
つまり、そのことは、結果的に無責任の体系っていう問題になりうるわけですけど、その機構、メカニズムっていいますか、その無責任の体系におけるメカニズムっていうのは、なにかっていえば、いつでも、ある必要な政治的な行動、あるいは、政治的な政策に対して、政治的な権力は、けっして、その行動に必要なる政治的な手続を完成して、そして、おこなうってことじゃなくて、それよりも上位概念に属する法的な根拠を使って、あるいは、承認を得たというような使い方をしたうえで、その行動をするっていうようなことが、非常に一般的ですから、あるいは、これは、人間の感性的世界でもそうかもしれません。
だから、あとから考えていった場合に、どこに、この行動の責任があるのかっていった場合に、その行動を規定する法的概念のなかには、ちっとも責任がなかったっていうようなかたちになってあらわれてくると思います。
つまり、こういう法的な、あるいは、法権力的なシステムってもののあり方っていうものは、わりあいに、歴史的にいって、古い時代から、現在にいたるまでの、普遍的なかたちだっていうことができると思います。
頼朝が典型的にやったのも、まさに、そういうことだったわけです。しかし、頼朝の場合には、いずれにせよ、武家の勢力を、武力を背景にして、全国的な統一っていうのを成し遂げていったわけですから、成し遂げていったっていう実績もありますし、また、自負もあるわけですから、結局、さきほどいいましたように、王権内部における位階制みたいなものが、たとえ、自分に授けられるっていうような、あれをとっても、いや、それはもらったうえで、辞退するっていうようなかたちで返事をしてしまうわけです。
つまり、そこには、いくらかでも、自分たちが、築きあげた権力っていうものは、律令制王権っていうようなものとは、ちょっと違うんだっていうような、そういう自負とか、そういう方向っていうのは、もっていたと思います。
これは、頼朝が死んで、二代目は頼家、長男ですけど、頼家が二代将軍になるわけですけど、頼家の場合には、まったく無能な政治家だっていうふうに、いっていいんじゃないかっていうふうに思います。
当時から、つまり、生きていたときから、悪評芬々たるところがあって、頼朝時代から、頼朝の補佐役として、関東の武家の棟梁っていうのはいるわけですけど、その棟梁たちが煙たいものだから、そういう連中は、制度的にはそういう制度があっても、近づけないで、二代目の気に入った、4,5人の執行職みたいな武将しか近づけなかったっていうような、政策としても、なんか紛争がありますと、土地所有の問題、あるいは、制度的な領有の問題で、紛争がありますと、そこのところの田畑の大きさとか、価格とかを書いたあれを持ってこいっていって、つまり、記帳を持ってこいっていうふうにいって、持ってこさせて、地図の上で、自分が勝手に紙の上でつくっちゃって、こういうふうに分ければいいっていうふうに、裁決したっていうような、そういう挿話があるくらいで、あまり有能でなかったような感じがします。
それからまた、嗜好上の問題も伝えられています。そういうことは、あんまり関係ないわけですから、それはそれでいいわけですけど、そして、だいたい、極端に無能だっていうことになって、将軍職をやめろっていうふうに強制されて、やめさせられるわけです。
これは、今度は、『修禅寺物語』の舞台になっていくわけで、結局は、暗殺されてしまうわけなんですけど、その暗殺の背景になっているのは、幕府に結集している武家勢力の反目、対立っていうようなこと、つまり、いまの言葉でいえば、内ゲバの結果なんですけど、その場合に、よくわからないんです。誰が、どう、それをあれして、暗殺しろってことになって、暗殺されたっていうような、なかなか経路がたどれないところがありまして、わかりませんけれど、とにかく、暗殺されるっていうような、それで、実朝は、そのあと、三代目を継ぐわけです。
これは、やはり、名目的な将軍職に過ぎないってことは、すぐに理解されるわけで、将軍職についたのが、十いくつだと思いますし、死んだのは、27,8だと思いますから、つまり、いずれにせよ、12,3の子どもから、27,8の青年が、みずから、政治的に、あるいは、武力的に、武家勢力をみずから統御できるってことは、ちょっと考えにくいですから、もともとそれは、非常に名目的なものであるには違いないと思います。
つまり、その場合でも、それじゃあ、名目の背後になにがあるのかっていった場合には、それは、ようするに、武家勢力があるわけです。
それは、最も大きいのは北条氏ってわけですけど、つまり、執権職をとっている北条氏なわけですけど、つまり、北条氏は、実質上は、おそらく、頼朝時代からそうだったかもしれませんけど、実質上は、鎌倉幕府の成立、それから、創設っていうような、そういう場合に、その背景にあって、最も力をもち、最も実力をもっていたのは、北条氏だと思いますけど。
それならば、実質上、北条氏自体が、自分自体が、幕府の棟梁になればいいじゃないか、つまり、そういうふうにして、すればいいじゃないかってことになるのですけど、その場合でも、いま申し上げてきたように、その場合の執権職、つまり、実質上の政治的支配っていうのは、自分が握るわけですけど、その責任については、将軍職のほうに移譲する、つまり、そこからの承認を得ているってかたちで、それの政策を自分が実行しているっていうようなかたちで、将軍職っていうのは、すくい上げたわけです。
頼朝の場合には、かならずしも、それほど、もうすこし力があったと思いますから、政治家として、力もあったと思いますから、そうまでは言えなかったと思いますけれど、二代目、三代目になったときには、まったくそういうことなので、本来ならば、自分が正面に躍り出て、政策をおこない、政治的行動をおこないってことにすれば、まったくすっきりするわけですけど、その場合にも、ひとつ上位概念っていうところに、なんかを移譲しておいて、実際的な政治行動をおこなうっていうかたちをとったわけで、その典型的な象徴っていうのは、二代、三代ってことになるわけです。
実朝なんかは、いわば、11,2,3だと思いますけど、将軍職になって、28歳で死ぬまでの間、将軍職でいるわけですけど、たとえば、自分の兄であり、大将軍であった頼家が殺された時と、自分が将軍職になった時とは、へだたっていないわけで、つまり、歳がわりくらいしかへだたっていないわけですから、つまり、そういうふうに、たとえば、自分の兄も殺されたと、そして、その次には、自分が殺される番だっていうようなことを、たとえば、12,3のときは、ともかくとして、すこし経ってから、そういうことが、実朝にとって、わからなかったっていうふうに、理解する、解釈することはできないと思います。
とくに詩人として鋭敏にあらわれてくる実朝なんていうのを、考えてみますと、12,3から4,5っていうようなときに、やがて、兄の運命は、自分の運命だっていうことを知らなかったっていう、そういうことがわからなかったっていうふうに考えるのは、たいへん考えにくいと思います。
つまり、現在のぼくらは、資料によるかぎりではよくわからないんですけど、つまり、あんまり、よくはわからないし、たとえば、たいへんよく記録した『吾妻鏡』とか、あるいは、ちょうど京都、つまり、王権内部での観察記録である『玉葉』をみましても、ほんとはよくわからない、つまり、再現がうまくいかないんですけど、しかし、非常に常識的に考えてみましても、実朝が将軍職についたあと、自分の運命は、自分の兄貴の運命とおんなじだってことを知らなかったっていうふうに、考えることは、たいへん考えにくいと思います。
だから、『愚管抄』における慈円のように、文学のほうは大したものだったけど、将軍、大将としては、愚かで、用心なくて、ダメなあれだったっていうふうには、ぼくは、いえないように思います。そういう意味合いでも、ぼくは、すでに、将軍職についたときに、やはり、自分の運命についても、ある程度はよく、わかっているっていうような、そういうことが、十分考えられると思います。
そういう運命っていうのは、どういうことかっていうふうにいいますと、それは、結局、北条氏に象徴されるように、本来的に、初期鎌倉幕府の政治権力を掌握し、そして、それを実行する実行力も、もちろん、見識もあるわけですけど、そういうことを、実際に掌握していたのは、結局、関東地方の、いわば、大きな豪族なんですけど、そういう武家たちであったってことになるわけです。
そうしますと、そういう実質的な執行権っていいますか、そういうものが、そういうところにあるってことを、たとえば、将軍職についたときから、実朝が知っていたとすれば、つまり、自分の演ずるべき役割、それから、その終末っていうものを、非常によく知っていたとしたらば、いったいどういうことになるんだろうかっていうような、そういう問題が、おそらく、実朝のもっている、詩人としての実朝ってことも含めまして、実朝のもっている、いちばん大きな問題であり、また、実朝のなかに象徴される、いちばん大きな意味合いになると思います。
たとえば、実朝の生涯には、いくつかの生涯の行動といいますか、挙動のなかには、いくつかの特徴があります。で、そのいくつかっていうものを列挙してみますと、第一は、あまり、鎌倉を中心とする、非常にせまい地域以外には出たことがない、行ったことがないっていうことなんです。
ここに書いてみましたけど、これが鎌倉で、幕府の所在地だとしますと、源氏の、いちばんなじみの氏神みたいなものですけど、鶴岡八幡っていうのが、非常にそばですね、それから、この勝長寿院というのがあるんです。これは、かなり距てていますけど、まあ、そばです。それで、寿福寺とか、永福寺とかあるわけです。このうちのひとつぐらい、自分が建てたと思いますけど、それから、小さい御堂があるわけですけど、だいたい、行ったところといえば、やることといえば、このへんの寺をまわって、今日は、なんかの祈祷だとか、そういうことをやっているだけなんです。
ときどきは、これが由比ガ浜だとしますと、浜へ舟を出して、沿海漁をやるっていうふうなことをやりますし、一生のうち、二回か三回は、もう少しこっちへ行って、伊豆箱根の権現参りってやつで、お参りに行ったりも、そうなると、4,5日ぐらいの旅程になるわけでしょうけど、そういうことも、一生のうち、三回かいくらくらいはやっていますけど、だいたい、普段やっていることっていうのは、このへんのお寺参りみたいのをして、今日はなんとかの祈祷だとか、今日はなんとかの会だとか、そういうようなことしかやっていないんです。
つまり、行動範囲っていうのは、きわめて狭いってことです。地域としても、そこをあんまり動いてないってことです。そういうこともまた、そんなに、べつに不思議じゃないんじゃないかってふうにも、思われるかもしれませんけど、しかし、たとえば、頼朝なんかは、やっぱり、戦争以外を除いても、二回ぐらい京都へ行っているわけです。行ったりしているわけなんです。
京都へいったりしているってことは、示威運動としての意味もありましょうし、また、いろいろな画策、その他あるでしょうけれども、二回ぐらいは行ってるんです。頼朝なんかの場合には、つまり、王権内部の位階制みたいなものは、もらったって返事をするっていうような、あれをもっているような人なんですけど、二回ぐらいは行ってるんです。
実朝という人は、もうひとつ、非常に特異なところが、挙動があるわけですけど、それは、頼朝なんかと反対に、つまり、王権内部における、そういう位階制ってものに、わりあいに、執着するわけです。だから、わりあいに、そういうあれをもらいたがるわけです。もらいたがっているわけです。それから、ある場合には、強制的にっていいますか、ほしいって言って、もらったこともあります。そういう意味合いでは、なんとかの中将とか、いちばん晩年、死ぬときは右大臣なんですけど、そういうような位階っていいますか、そういうあれを、非常に、しきりにもらいたがるし、現にもらうわけなんです。
それで、それは、部下にいる執権職とか、武将とかってものは、それに対しては、ものすごく戒めるわけで、そういうものをもらうのは、よせよせっていうわけです。つまり、そういうものはもらうってことは、象徴的にいえば、幕府の存在そのもの、また、勢力的には、武家勢力ってものを、いわば、否認するに等しい。つまり、いいかえれば、律令制国家の体制のなかに、みずから、はまり込むに等しいという、象徴をもっているわけだから、だから、そういうのはもらうなっていうふうに戒められるわけですけども、もらいたがったわけです。
それで、その理由っていうのは、『吾妻鏡』なんかが書いているところでは、おれでもって、つまり、自分でもって、結局、源氏の正統っていうのは、自分でもって終わるんだっていうんですね。つまり、終わると、だから、終わるとすれば、自分にできることは、せいぜい、そういうのをたくさんもらっておいて、べつにそう書いてあるわけじゃないですけど(会場笑)、お墓に、なんとか大臣とか、そんなのを刻むっていう、それぐらいが、自分にできることなんだと、結局、自分で終わるってことを考えると、そういうふうにするよりしょうがないっていうような、そういう答え方をしているわけですけど。
そういうあれは、非常に怪しいんですけど、そういう叙述は怪しいですから、あてになりませんけれど、つまり、そう答えたかどうか、あるいは、そう言ったかどうかは、あてにはなりませんけど、そういう言われ方で象徴しているのは何かっていうと、鎌倉幕府も、すでに三代目になったとき、あるいは、家族的にいえば、親子なんですけど、二代なんですけど、三代目の将軍になったときにおける、実朝の、つまり、律令制王権内部に、法制的には依存しようとする、あるいは、同一化しようとする、そういう実朝の挙動のなかに、いわば、当初、一代目頼朝が、すでに、実力を、力をもちながら、王権と妥協しておこなった交代っていうもの、そういうものの、いわば、極限につきつめられたかたちっていうものが、実朝のそういう挙動のなかに、感性的にも、またそして、制度的にも、つまり、法体系としても象徴されていたっていうふうに、みることができます。
それで、たとえば、源氏三代目の将軍である実朝という、ひとりの人物というものを想定して、この人物が、たとえば、演じうる役割として考えてみまして、それ以外の必然性ってものがあったかどうかっていうふうに、考えていった場合には、おそらく、それ以外の必然性っていうのは、ありえなかったであろうっていうふうにいうことができます。
たとえば、もし、三代実朝に、形式だけではなく、実行力もありってかたちで、もし、たとえば、律令制王権に対して、明瞭に反旗をひるがえして、強大な幕府を構成して、みずから、それを実践的にも主唱したってことを、たとえば、みずから、そういう挙動をとろうと思い、また、とったとしたらば、だいたい、ぼくは、将軍になった、12ぐらいだと思いますけど、12ぐらいで将軍になったときか、すこし経ったとか、そのときに、だいたい暗殺されていただろうってことは、非常に容易に想像できることなんです。つまり、だからあんまり、愚物の顔をしてるより仕方がないっていうような面があったと思います。
この面を非常によく捉えているのは、太宰治の『右大臣実朝』っていうのは、非常によく捉えていると思います。つまり、愚物のふりをしてるよりしょうがないんだっていうような、つまり、愚物じゃなくて、実行力もあるってかたちで、それを行使したら、いっぺんで、部下の実力者に殺されちゃうっていうような、そういうことが目に見えているっていうふうにいうことができますから、だいたい、愚物のふりをしてるよりしょうがないっていうようなことがあったと思います。
そして、愚物のふりをしてるよりしょうがないっていうふうにありながら、しかし、やっぱり、いわば、なしうることは何なのかっていったら、せいぜい、右近衛中将とかなんとかとか、十三位なんとかとか、そういうのでも、もらっとくよりしょうがないんだっていうような、そういう必然っていうのもあったように思います。
それからまた、王権のほうでも、たががゆるんでいるわけですから、いまは知りませんけど、いまの宮内省は知りませんけど、だいたい、位をやると、おまえ右近衛中将を任ずるなんてやると、すると金をもらうっていうような、つまり、陪観なんですけど、そういう必要上もあって、そういうことが必要だったってことかもしれませんけど。
そういうことを異常にやりたがったっていうような、それはまったく、そういうことが、部下の武将から言わせれば、くだらないやつだ、つまり、三代目っていうのは、まったくダメなやつだっていうふうにみえたかもしれない点ですし、また、しかし、逆にいいますと、だいたい自分が、自分の政治的抱負とか、理想像とか、そんなものを、おれはやりたい、やろうと思ってやりだしたら、いっぺんに殺されちゃうよってことで、馬鹿のふりをしてるのがいちばんいいっていうような、そういう意味合いっていうのもあったっていうふうに見受けられます。
つまり、実朝に象徴されるのは、極端にいいますと、日本における中世の法国家っていうもの、つまり、法権力の二重性の構造なんですけど、その構造の、非常に核心的なところを象徴していたのが、実朝っていう人物であるし、また、実朝という感性でもありますし、また、実朝という制度的役割でもあったっていうふうにいうことができると思います。
つまり、そこが、中世の法的国家っていうものを、非常にいわば深いところから規定している根源があって、それは、幸か不幸かといいますか、偶然かどうか、たまたま、中世における最大の詩人のひとりの、感性のなかに、その象徴的な問題ってものが、さまざまな矛盾を含みながら、担われたっていいますか、そういうふうにいうことができると思います。
それから、もうひとつは、からだのことですけど、病気ですけど、もともと弱いんでしょうけど、疱瘡、つまり、天然痘ですけど、疱瘡にかかって、もちろん、治ったんですけど、あばたになっちゃって、あんまり、好男子でなくなったっていうようなことがあって、それまで、鶴岡八幡宮なんてのは、一年のうち何回でもいくわけですけど、お参りにいくわけですけど、疱瘡を患ってからは、治るわけですけども、治ってから2年ぐらいは行かないです。行かないで、代理の武将を派遣したりして、自分はお参りに行かなくなっています。それは、勘ぐりでいえば、おれは、あばた面になっちゃって、みっともなくてしょうがないっていうような、そういうことかもしれませんし、まあ、それはあとにします。
それから、もうひとつの、不審な挙動っていうのは、たまたま京都に、中国が宋の時代ですけど、つまり、仏像をつくる技師みたいな人物が京都にいまして、その人物が、仏像造設のために、中国から呼ばれて、京都にいて、それが鎌倉へやってくるわけです。それで、結局、実朝も一度、会うわけですけど、そこのところらへんがよくわからないんですけど、実際問題わからないんです。
つまり、実朝のことを、仏像造りの中国の技師が、あなたは、前世には、中国の伝説の医王山の長老であったと、自分は、そのとき、前世にあなたの部下だったと、だから、たいへん尊いお方なんだっていうことをいうわけです。それに対して、実朝は、おれもそういう夢をみたことがあるっていうようなことを言うわけです。そう書いてあるわけです。
それは、あんまり、あてにならないんですけど、そういうことで、話がはずんじゃって、実朝は、宋へおれは行きたいっていうふうに言いだすわけなんです。行きたいって言いだして、仏像造営の技師なんですけど、陳和卿っていうんですけど、陳和卿に船の造船を命ずるわけだ。それも、北条時政、または、子どもの義時とか、そういうのから、まったくむちゃくちゃなことだっていうふうに、やめろって戒められますし、また、たとえば、母親からもそうなんですけど、戒められるんですけど、頑として聞き入れないで、宋へ渡るための船の造営っていうのを命ずるわけです。で、命じたってことは、おそらく、それは史実であって、まちがいないと思うんですけど、その間の、いきさつっていうのは、つくりあげたものだっていうふうに思われます。つまり、思われるところが、たくさんありますから、そのまんま、あてにはならないと思います。ただ、つくれっていうふうに言って、つくらせたことは、非常に確かなことだと思います。それで、つくらせたわけです。
しかし、『吾妻鏡』を読みましてもそうですけど、つくらせたんですけど、さて、できあがったということで、いよいよ進水式だってことで、実朝も、もちろんですけど、大勢で見物に行ったわけですけど、行って、人を集めてきて、大勢で引っぱったわけです。引っぱったけれど、浮かばなくて、あきらめて帰ったっていう事実があるんです。
それで、鎌倉に住んでいる人は、そういうことについて、明確な判定を下すことができるのかもしれませんけど、つまり、なぜ浮かばなかったのかってことなんですけど、ようするに、引っぱったって動かなかったって、つまり、遠浅で動かなかったってことじゃないかと思うんですけど、それじゃなければ、たとえば、バカでかい船で、引っぱったって動かなかったっていうことかもしれません。つまり、よくわからないです。
ふつう、こういうのを引っぱる場合に、かなり原始的な時代ってものを想定したとしても、そんなはずはないと思うんですけど、つまり、これは下に、丸太みたいのを入れるわけです。入れて、引っぱるわけですけど、そんなことは、誰にでもできるし、もちろん、その当時には、十分、そんなことは知っているはずですから、そういうはずはないと思うんですけれども、浮かばなかったっていうふうに、つまり、浮かばなかったっていう要素のなかには、遠浅である要素以外に、あんまり、想定できないんですけど、あるいは、住んでおられる方は、あんまり、遠浅でもないっていうことで、ご存じかもしれませんけど、とにかく、浮かばなかったっていうふうになっています。それで、あきらめて帰ってしまうわけです。
で、またそういう、その挙動っていうのは、また、非常にわからない挙動です。つまり、なぜ、宋へ渡りたかったのか、なぜ、そんなことを考えたのかっていう場合には、非常にわかりにくい挙動のひとつなんです。
それで、この場合に、陳和卿は、あなたは、前世はたいへん偉いあれでもってっていうようなことを言って、そのおだてにのって、そういうことを考えちゃったっていうふうには、もちろん、到底そうは思えないわけで、そういうふうに書かれていますけど、そんなことは、とうてい考えられないことであって。それは、ぼくはそういうところではわりあいに、詩人っていうものを信ずるわけですけど、そんな馬鹿なことで、おだてられるはずがないので、そうじゃないと思うんです。
いちばん考えやすいあれっていうのは、一種のニヒリズムなんですけど、ニヒリズムってことは、つまり、だいたい、まわりをみても、北条氏をはじめ、たくさんの勢力がせめぎ合って、互いに、機会あらば、おれはこいつを倒してって思っている集団、武士団、あるいは、党っていうのが、たくさんありますし、それから、そういうことが起これば、かならず、仕上げとしては、とばっちりは、自分のところへきて、自分は殺されるってことに、かならずなるのであるから、だんだん年をとるにつれて、ますますそういうことは、はっきりとわかってくるっていうようなことだと思いますから、結局、考えられる唯一のモチーフっていうのは、ようするに、やっぱり、逃げちゃえってことだと思います。
つまり、名目がなんであろうとかまわない、おれは、宋の仏像建築士から、おまえは、前世は医王山の長老であったなんて言われて、ぜひ、行ってみたくなったっていうようなことでもなんでも、理由はいいわけですけど、ほんとうは、できれば逃げてしまえっていうようなことだったというふうに考えると、わりあいに、考えやすいと思います。
つまり、逃げる動機はたくさんあったわけです。つまり、逃げなければならない動機っていうのは、たくさんあります。そして、逃げたとしたって、どこへ行ったって逃げようがないということ、つまり、どこへ行ったって逃げようがないってことは、どこへ行ったって、どこかに担がれて、かたっぽうから恨まれるってことで、どうせ、どこへ行ったって、ろくなことがない、そうすると、もう行きようがないじゃないかっていう、で、座して、殺されるのを待っているのもあれだってことで、結局、脱出、逃げようっていうふうに、思ったことがモチーフだと思います。
それで、逃げようと思って、船ができちゃったら、ほんとうに行ったかどうかってことは、おのずから、別問題なわけです。つまり、そう思ったってことと、やったってこととは違うことですから、そういうことでわからないのは、そんなこといったって、つまり、船ができて乗ったって、たとえば、正当な外交ルートを通じての交渉じゃないかぎり、たとえば、その当時の一国の政治的な実力者が、外交ルートからも、なんらの交渉もなしに行ったって、それは、受け付けるはずはないだろうと思うし、行ったってどうしようもないじゃないかって思われるんですけど、そういうところがわからないです。
そういうところがわからないっていうことは、本気でいく気があったのか、できたら必ず行くっていうようなものであったのかどうかってこともわかりません。案外、それは、詩人の気まぐれってやつで、つくらせて、できれば行ってみたいっていうような、そういうことであったのかもしれません。
しかし、それは浮かばなかったってことで、取りやめてしまうわけです。それは、非常に不可解な挙動であって、ちょっと、また、理由として付けられている理由っていうのは、理由にもなにもならないものですから、それも、もちろん、あてにできないわけですから、なぜにっていうモチーフは、よくわからないけれども、非常に特異な挙動だったっていうふうにいうことができます。
それから、もうひとつは、いわば、詩人としての実朝なんですけど、これは、現在から考えても、やっぱり、中世における最大の詩人のひとりだっていうふうに評価することができると思います。だから、そういう意味での、実朝っていうのは、非常に大きなウェイトで、でてくるわけですけど、でてきているし、また、後世は、そういうふうに理解してきたわけでしょうけど。
もちろん、考えてみれば、すぐにわかるように、その当時においては、詩人としての実朝っていうのは、あくまでも、手すさびという意味合いしか、現実的にはないのであって、現実的に、実朝の演じた役割っていうのは、それは、幕府の総棟梁としての、象徴的な役割ですし、また、後世から考えての、実朝の大きな役割っていうのは、つまり、日本における中世の法国家における、さまざまな矛盾、二重性、それから、内部における、からまりあい、複雑なからまりあい、また、そういうからまりあいの結果としてでてくるもの、つまり、そういうような問題を、二重の権力の、一方の権力の頂点にあって、非常に大きく象徴している人物っていうふうに、みることができるので、そういう面の実朝のほうが、はるかに、当時は、ようするに、重要な意味あいをもっていたに、これは、まちがいないわけで、その場合には、詩人としての実朝っていうのは、いわば、将軍職の手すさびっていうような、あるいは、教養とか、そういう知識とか、そういうものの、ひとつのあらわれというぐらいの意味合いしか、つけられなかっただろうってことは、まったく疑いのないことです。
つまり、それは、後世における評価とは、ちょうど逆な意味あいになって、後世においては、詩人としての実朝という面だけが、大きくなっていったわけですけど、それは、当時もまた、そうであったかどうかってことになると、また、おのずから、別な問題だっていうふうに思われます。
かえって、当時においては、逆の問題であって、もちろん、将軍職として演じた、象徴的な役割、つまり、やがて、実朝なんかの死後、北条氏の二代目っていうのは、わりあい優秀でしたから、実朝の死後、律令制王権に対して、公然と反旗をひるがえすわけですけど、その反旗をひるがえすっていうような、直前の象徴的な役割ってものが、実朝のなかに集中しているっていうような、集中してあらわれているっていうふうに、いうことができます。
さきほど途中でやめてしまったですけど、疱瘡のあと、2年くらい鶴岡にいかないっていうような、それは、ぼくの言ったようなことは、ゲスの勘ぐりであって、太宰治の『右大臣実朝』のモチーフで、つまり、そんなことはないと、作品のなかの会話でいえは、公暁が、「叔父貴のやつは、あばた面してるから、あんまり出たくなくなっちゃったんだろう、だいたい、京都にも行きたがらない。どうしてだっていうと、京都なんか行くと、すぐに、口の悪い公家が、頼朝なら、さいづち頭とか、大頭将軍だって、あだなをつけられたように、あばた将軍って言われるのが嫌だから行かないんだろう。」とか、そういうふうに、作品のなかにでてくると、そんなことはねえと、そんなことを気にするような人じゃないと、ただ、そういう疱瘡のあとをあれして、失礼にあたるから、神仏に失礼にあたるからってことで、遠慮してるんだっていうふうに、そういう箇所がありますけど、ただ、文学的にいいますと、そうとう大きな影響を与えている意味合いをもっていると思います。つまり、疱瘡を病んで、そのあと2年ぐらい、ひきこもっていたってことは、わりあいに、文学的には、大きな意味あいをもっていたっていうふうに思います。
いよいよ詩人としての実朝ってところに入っていくわけですけど、一般的にいいまして、実朝の演じた、当時において演じた、象徴的な意味合いってもの、それから、その象徴的な意味合いが、中世国家の政治的な体制にとって、どういう意味合いをもっていたかっていうような、つまり、その前提となる問題っていうのを、お話してみたわけです。
中世史の研究っていうのも、かなり進んでいますから、かなりな程度のことは解ける、中世国家について、わかっているわけですけど、ただ、そういう中世国家の研究、あるいは、中世国家の考察っていうような場合でも、起こってくる問題があるわけですけど、つまり、土地所有権の問題、領有権の問題、それから、土地区画の問題、つまり、総じて、経済社会的な要因っていうのは、律令制国家の内部で、非常にさまざまに錯綜し、乱れてくるっていうようなところにまた、鎌倉幕府が、幕府法に基づいて、守護、地頭っていうのを設けて、それに対して、一定の規制をおこない、法的にも規制をおこない、また、実際の収穫、所有、その他についても、規制をおこなうっていうような、そういうことで、錯綜して、混乱を生ずるわけですけど、結局、そういう問題の動きすべてっていうことを、けっして、経済社会的な要因からのみ、説明してはいけないのではないかっていうことがあるのです。つまり、そういう問題が普遍的にあるのです。
つまり、そういう関係の争い、あるいは、錯綜した混乱ってものが、原因であり、そして、そこからいわば、あらゆる中世的な国家の混乱ってものが起こってくるっていうような、そういう解釈のされ方っていうのは、やっぱり、すこし考えたほうがいいのではないかって思われます。
つまり、その問題っていうのは、もちろん、けっして、単純ではないのですけど、つまり、土地所有ってものの錯綜した状態ってものの理解からいっても、そう簡単なものじゃないのですけど、ただ、法制とか、国家とか、つまり、総じていわば、観念に属する問題っていうものは、つまり、観念に属する問題の本質っていうものは、また、それ自体として、あるいは、それ自体の歴史的な変遷として、理解されなければならない面がありますし、また、そういうものの問題のなかに、いわば、ひとつの、常につきまとうパターンといいますか、やり方といいますか、構造主義者にいわせれば構造なんでしょうけど、そういうようなものが、どういう意味合いをもつかってこともまた、それ自体として、追及されなければならないというような要素があると思います。
だから、そういう意味合いでならば、中世における、国家と法の、法権力のあり方、あるいは、所在の仕方、そこでの錯綜の仕方っていう問題について、まだまだ、たくさんの問題が、考えられていかなければならないように思われます。
つまり、そういう意味合いでいえば、たとえば、実朝なら実朝の生涯が、短い生涯ですけども、暗殺されるまでの生涯が象徴している、政治的、あるいは、文学的、あるいは、制度的、あるいは、感性的な意味合いというものは、もっと非常に多角的に考察されるべきものであるかもしれません。つまり、そういう問題っていうものは、実朝の問題のなかにも、非常によく象徴されているっていうようなふうにいうことができると思います。
つまり、実朝のように、非常にとびぬけてすぐれている、中世では、すぐれている詩人なんですけど、こういう詩人の挙動とか、生き死にのなかには、だいたい、わりあいに、ご本人が事実として象徴している意味合いよりもまた、もっと多くのものを、つまり、深読みするっていうようなことが、わりあいに、自然にできるところがあります。
つまり、実朝なんていうのは、わりあいに、そういう深読みに耐えるところがあるわけで、つまり、深読みしたら贔屓の引き倒しだっていうような意味合いよりも、もっと深読みしたほうが、この人のもっている意味合いは、もっとはっきりするっていうようなところを、非常にもっている人です。
それは、たとえば、28で死んだっていうことですから、それほど自覚的であったかどうかってことについても、あまり、確言することはできませんけど、しかし、自覚的であれ、そうでなかったであれ、ひとりの詩人が、そうとうな深読みに耐えるっていうようなことは、やっぱり、それ自体として、たいしたことじゃないかっていうふうに思われます。
で、もう一回ありますから、この次に、詩人としての実朝ってことで、実朝の作品の評価を通じての、実朝っていうような問題に入っていきたいと思います。本日はこれで終わらせていただきます。(会場拍手)
今日は、この前のつづきで、詩人としての実朝ということで、詩作品、当時でいえば、短歌、和歌ですけど、和歌作品をもとにして、お話したいと思います。
まず第一に、短歌っていうのは何なのかっていうことが、いちばん問題になるわけです。ごくふつうに考えまして、短歌っていうのは、どういうふうにしてできたかっていうふうにいう場合に、たとえば、それは、長歌というものの、反り歌といいますか、反し歌といいますか、そういうものとして、短歌っていうものが、独立した詩の形式として発展したっていうふうに、考えられているわけですけど、その考えは、その考えとして、それでよろしいわけですけども、その面を、違う方向からも考えることができると思います。
どういう方向からかっていいますと、こういうことなんです。短歌っていうものは、ようするに、叙景詩っていうのがあるわけです。つまり、叙景詩っていうのは、自然物っていいますか、自然を対象とした詩の形式なんですけど、叙景詩っていうもの、あるいは、叙景歌っていうものが、メタファー、つまり、暗喩としてつくられたっていうところから、短歌形式ってものを発展した、発生したっていうふうに、いうことができると思います。
一般的に、花鳥風月の自然詠ってことなんですけど、自然詠っていうものは、ようするに、自然の風物を対象にして、詩をつくるっていうような、そういうふうなことに考えられているわけですけれども。
日本における詩の発生の、非常に初期の段階で考えてみますと、むしろ、長歌ってものの反り歌、あるいは、反し歌っていうものとして考えるよりも、叙景、つまり、自然物に対する詩の表現というものが、そのまま、作者のモチーフのメタファーをなしている、つまり、暗喩をなしているっていうふうに、自然詠が描かれたときに、それが短歌形式の発生だっていうふうにいうことができます。
たとえば、例をあげることはできるわけですけど、『古事記』の歌謡で、番号は21ですけど、
畝火山 昼は雲とゐ 夕されば
風吹かむとぞ 木の葉さやげる
っていう、これは短歌形式をとっているわけですけど、これは、『古事記』の歌謡のなかにあります。
そうすると、「畝火山 昼は雲とゐ 夕されば 風吹かむとぞ 木の葉さやげる」っていうふうにいった場合には、徹頭徹尾、自然詠であるわけですけど、じつはそれは、『古事記』のそのところの内容と、前後の内容と関連させてみればわかるように、これは、つまり、なにごとかよからぬ、たとえば、敵が、そこのところに潜んでいるぞっていうような意味の暗号として使われている歌なわけです。
つまり、表面的にいいますと、たとえば、こういう歌謡だけを取り出しますと、それ自体は、自然詠以外のなにものでもないっていうような、そういう作品であるわけですけど、しかし、実は、前後の文脈のなかで、だされているかぎりは、ある種の合図、つまり、暗号みたいな役割として、この歌が、『古事記』のなかでは、はめこまれています。
その種の歌はいくつか、たとえば、『古事記』と『日本書記』の歌謡のなかに、いくつかありますけど、こういう歌謡は、いちおう短歌形式をとり、そして、徹頭徹尾、自然詠であるわけですけど、その自然詠は、自然詠そのものを意味しないで、じつは、なにかしら、作者の伝えたいものがあって、それの暗喩として使われるっていうふうに、使われています。
そういう使われ方が、自然詠についてなされたときに、それは、短歌形式をとっていったんだっていうふうに、考えることができると思います。
これは、万葉を舞台にして考えて、そして、長歌の反り歌、つまり、長歌形式で歌われた内容について、たとえば、最後にそれを要約するとか、あるいは、その長歌形式の内容と、非常にくっきりと対置させるというような意味で、短歌っていうものがつけられているわけですけど。
しかし、それよりも以前に、短歌形式ってものの発生ってものを考えますと、それは、いま申し上げたように、自然詠ってものが、なんらか、つまり、人間と人間との関係のあいだで、暗喩の役割をする、あるいは、暗号の役割をするっていうような、そういうふうなかたちがでてきたとき、短歌形式ってものは、発生したんだっていうふうに、考えることができると思います。
この考えることができるという意味合いは、つまり、偶然の一致かもしれないっていう要素も、たくさんありますし、また、そこに、必然的な関連があるかどうかっていうようなことも、問題にはなりうるわけですけど、すくなくとも、短歌形式の発生ってものを、万葉よりも以前にあると考えられる歌謡をもとにして、考えていきますと、ようするに、叙景歌ってものが、作者の暗喩として歌われたっていうような、そういうかたちになったときに、短歌形式というものは、発生してきたんだっていうふうにいうことができると思います。
そのように考えていきますと、だいたい、いえることは、つまり、一般的にヨーロッパの詩でも同じですけど、叙事詩、抒情詩っていうような、そういう概念があるわけですけど、叙事詩、抒情詩っていうのは、抒情詩っていう、いちばん最後にでてくる、発生する詩なんですけど、叙事詩をとおって、もっと先からいいますと、つまり、一般的に、歌謡とか、現在でいえば、民謡なんですけど、民謡に類する、書きとめられたりはしないけど、人々のあいだで、口伝えに和唱されたり、あるいは、唱えられたりっていうような、そういう一種の民謡に類した、土俗的な歌謡ってものが、いちおう、叙景詩と叙事詩ってものに、分化していくわけですけど、この分化の過程を経まして、最後にでてくるのが、抒情詩ってことになるわけですけど、その抒情詩までが生みだされるっていうような、そういう詩の形式、内容についての、ひとつのサイクルっていいますか、そういうものはすでに、『万葉集』以前に、『日本書記』と『古事記』の歌謡の段階で、すでに完了していたっていうことがいえるわけです。つまり、日本における抒情詩の発生、つまり、詩形式の一般的なサイクルってもの、つまり、ヨーロッパの詩についてもいえるような、そういうサイクルっていうものは、万葉以前に完了していたっていうふうにみることができます。
つまり、そういうなかで、叙景詩ってものが、抒情詩、ふつうの民謡みたいなものが、叙景詩と叙事詩、つまり、物語詩っていうふうにいくわけですけど、その叙景詩ってものが、抒情詩に至る過程で、すでに、作者の暗喩として使われるっていう段階が、その過程のなかにあるわけで、つまり、そういう過程のなかで、短歌形式というものがでてきたということができますから、いちおう、非常に初期の段階で、すでに抒情詩までの、詩のサイクルっていいますか、そういうものは、完了していたっていうふうにみることができるわけです。
だから、すでに、実朝が短歌をつくりはじめたっていうような、そういう時期までに、勅撰集っていうのだけ考えても、『古今集』から『新古今集』まで、いわゆる八代集ってものが、それぞれ編まれているわけですけど、編まれている八代集の、詩の形式、内容っていうものは、すでに、いま言いましたように、抒情詩までの詩的なサイクルっていいますか、そういうものが完了したのちにおける詩作品だっていうふうに、考えたほうがよろしいと思います。
そういうなかで、実朝が短歌形式ってものに入っていくってことは、いったいどのような意味合いがあるのかってことが、問題になしうるわけです。
ここに表をあれしてきましたけど、だいたい『新古今集』が編まれたのが、実朝が14歳のときで、そして、編まれたと、ほとんど同時に、『新古今集』っていうのは、鎌倉のほうへ伝えられて、それを読むことができているわけです。
そうしますと、実朝の詩の創作っていいますか、詩の創作にとって、なにがいちばん影響を与えたのかっていうような、どういうものが、実朝の短歌の位相っていいますか、位置づけを決めるものなのかってことが、当然、問題になりうるわけです。
一般的にいわれていることは、当時、どのような詩人もそうだったわけですけど、『古今集』ってものを手本にして、そして、作品をつくるっていうような、一般的に、そういうことになっていたわけですけど、そしてまた、14歳のときに、『新古今集』をはじめてみた、そして、『新古今集』の影響もまた受けたと、そして、結局、最後には、万葉調の詩の作品をつくるようになったと、そこのところで、実朝の詩としての完成ってものがおこなわれたんだっていうような、そういうふうなのが一般的に、いままでおこなわれている解釈であるわけです。
ところで。いろんなことを考えてみますと、かならずしも、そういうことがいえないのじゃないかっていうふうな面がでてきます。非常に常識的に、まず、考えまして、実朝が、とにかく、短歌の作品をつくりはじめたってところで、実朝が、手にとって、もし、そうしたとすれば、手にとって見ることができた作品っていうのは、なにかといいますと、まず『万葉集』であり、そして、『古今集』から『千載集』に至るまでの、いわゆる八代集ってものが、実朝が、おそらく、見ようとすれば、いつでも見られた作品だっていうふうにいえると思います。
そうなってきますと、実朝が、現に詩人として、詩の創作をするっていうような段階で、実朝に、最も基盤をあたえたのは、『千載集』だっていうふうに考えるのが、非常に常識的に考えられることです。つまり、なぜならば、現に、目の前にみうる作品のうち、最も新しいものが、『千載集』であるからです。だから、当然、常識的に考えれば、これは、みなさんの場合でもおんなじですけど、詩の創作っていうものを考えていく場合には、まず、最も新しく手にとることができる詩作品ってものが、まず、いちばん影響の対象になりうるわけです。
だから、いわば、手すさびの段階では、もちろん、たとえば、現在でも、明治時代の藤村の『若菜集』とか、白秋の『思ひ出』とか、そういうものを手本にして、七五調の詩の作品をうむっていうことは、現在でも、手習いといいますか、手すさびの段階で、もちろんありうるわけですけど、われわれが、たとえば、現にそこに生きている時代っていうようなものを考えた場合には、非常に常識的に考えて、実朝の詩の作品の創作の基盤をなしたのが、『千載集』であろうっていうふうに考えるのが、非常に妥当な考え方、つまり、ごくふつうに考えられる考え方だっていうふうにいうことができると思います。
そうしますと、そういう意味合いからは、実朝という詩人は、まったく時代的にいって、『千載集』あるいは、14歳のとき、はじめて見た『新古今集』っていいますか、そういうものが、実朝の短歌作品が、ちょうど、はめこまれるにふさわしい場所だっていうふうにいえるわけです。
ところで、八代集、つまり、『古今集』以後の八代集ってことなんですけど、八代集っていうのは、いったいどういうような意味合いをもつかってことを、すこし考えてみます。
みなさんのお手元に、資料が、お渡ししてあるわけですけど、その資料は、ぼく自身が、自分の好みと、鑑賞眼で、かってに選んだ、いいと思われる作品なんですけど、たとえば、その資料を、かりにもとにして、本歌っていうのがありますけど、つまり、もと歌ってやつですけど、本歌がどこからでてるかってことで、勘定してみますと、『万葉集』が7首、それから、『古今集』が15首、『後撰集』が1首、『拾遺集』が3首、『千載集』が2首、『新古今集』が12首っていうふうに選ぶことができます。
だから、それだけで全体を即断することはできないのですけど、まあ、実朝の比較的すぐれた作品というものの、もと歌っていうのを考えてみますと、いちばん多いのは『古今集』で、それから、次が『新古今集』だ、つまり、14歳以降に、はじめて見て影響を受けたであろうっていうふうに考えられる12首です。そういうふうに考えていきますと、いまのでいきますと、『千載集』と『新古今集』のところに、はめこまれるだろうって考えていって、『千載集』が2首ってなりますし、それから、『新古今集』だと12首っていうふうになりますし、で、その辺に、実朝の詩がはめこまれているだろうっていうふうに考えられるわけです。非常に常識的に考えられるわけです。
そうだとすれば、たとえば、『古今集』を考えて、15首、もと歌があります。そうすると、それは、非常に多い数なんですけど、その多い数っていうのを、いちおう、当時の常識的な判断で、誰でもが歌をつくる場合には、『古今集』を手本にせよっていうふうにいわれていたっていうふうな、一般的な状況があるわけです。
そういうなかで考えていって、そのときのしきたりに従って、つまり、『古今集』を一所懸命、読み、そして、そこから、もと歌に影響を受けるっていうようなことを、また実朝もやったであろうっていうような、やったに違いないってことで、15首っていうのは、解釈することができるわけです。
ところで、この八代集っていわれているもののうち、いちばん問題になるのは何か、つまり、ぼくなんかが考えて、いちばん問題になるといいますか、あるいは、わりあいに重要なんだっていうふうに考えられるのは、『後拾遺集』ってやつなんです。『後拾遺集』っていうのは、つまり、『拾遺集』のあとにできたアンソロジーってことで、そうつけられているわけですけども、つまり、のちの『拾遺集』ってことなんですけども、つまり、『後拾遺集』っていうアンソロジーっていうのが、勅撰集のなかでは、圧倒的に重要な意味あいをもちますし、また、すぐれた作品が、実際問題としても、多いわけです。
だから、『後拾遺集』っていう作品について、これは、11世紀末だと思いますけど、11世紀末頃、編まれているわけですけど、だから、実朝のときより、5,60年から90年か、つまり、半世紀から一世紀くらい前なんですけど、つまり、『後拾遺集』っていう作品集っていうものは、非常に、内容的にも、時期的にも、大きな意味合いをもっています。
これは、『古今集』が『万葉集』のあとを、少しずつ引きずりながら、新しい詩の形式に向かったっていうような内容をもっているとすれば、『後拾遺集』っていうのは、つまり、やっぱり、『古今集』の影響をすこしぐらいずつ引きずりながら、しかし、非常に、『古今集』が陥っていった、ひとつの袋小路みたいな、観念の袋小路みたいのがあるわけですけども、その袋小路ってものを離脱して、非常に大胆で、非常にスムーズな、俗語なんかも、そうとう大胆に導入してつくられた作品を、異常に多く集めてありまして、そういう意味合いでは、非常に重要な作品集であるわけです。
つまり、『後拾遺集』以降のアンソロジーってものを考えていった場合には、それは、『新古今集』に至るまで、ある程度、共通した詩の基盤ってものを考えることができるわけです。つまり、『後拾遺集』がいわば、転機になって、『新古今集』にまで、連続しているっていうようなふうな意味合いで、考えることができるほど、『後拾遺集』っていうのは、非常に重要なアンソロジーですし、また、重要なっていいますか、すぐれた作品が多いわけです。
ところで、実朝の比較的すぐれているって考えられる作品のなかで、『後拾遺集』から、もと歌をとったっていう、そういう歌はあるかっていうふうに考えていきますと、いま申し上げたところでは、おわかりのように、つまり、『後拾遺集』から、もと歌をとったっていう作品は、すこしもないのです。ぼくが選んだかぎりでは、すこしも入っていないわけです。
そうしますと、『後拾遺集』の作品っていうのは、実朝にとって、影響をあたえなかったのだろうかっていうふうに考えてみますと、もし、ぼくらが詩的に、つまり、詩の創作的に考えて、実朝の、もと歌のとり方っていうようなことから考えて、『後拾遺集』のもっている意味あいっていうものを見過ごしたってことは、ちょっと常識的に考えて考えにくいので、おそらく、『後拾遺集』の影響を、当然、受けるべきところっていうのは、おそらく、『新古今集』によって代用されているっていいますか、代置することができるわけで、つまり、おそらくそれが、『後拾遺集』に依存するよりも、『新古今集』に依存したほうがいいっていう意味合いで、そういう『後拾遺集』が、当然、実朝に与えているだろうっていうような、そういう影響の仕方っていうものは、『新古今集』によって、同時に代用されていたっていうふうに、考えることができるのじゃないでしょうか。
つまり、そういうふうに考えていきますと、一般的にいわれているように、当時のしきたりにならって、『古今集』を手本にして、作品をつくり、そして、つくりはじめたときに、『新古今集』っていうのができあがり、その『新古今集』を読むことによって、また『新古今集』から影響を受け、そして、晩年に近くなって、そういうあれに飽きたらなくて、たとえば、万葉調のすぐれた作品をうむようになったっていうような、一種の通説っていうのはあるわけですけど、そういう通説ってものは、わりあいに、常識的に考えて、捨ててみたほうがいいんじゃないか、つまり、実朝っていうのは、もともと時代的に考えれば、当然、『千載集』あるいは『新古今集』の影響下にあるわけで、つまり、影響下っていうのは、そのなかにあるわけで、そして、当時のやり方に従って、『古今集』をもとにして、作品を生みだしていったと、で、その過程で、『万葉集』っていうのも、送られる以前に、すでに読んでいたっていうふうに考えるのが、非常にごく常識的な考えですけど、藤原定家から、『万葉集』をもらったのが、22歳のときですけども、だいたい、そのもらったあたりでまた、『万葉集』の影響っていうものを、あらためて考えるようになったっていうことはありうるわけです。
つまり、そういうふうに考えますと、もともと実朝っていうのは、『千載集』あるいは、『新古今集』の範囲の中にある詩人であり、そして、影響を受けたのは、『古今集』であり、また、『万葉集』であったっていうような、そういうふうな考え方をするのが、非常に常識的な考え方じゃないかっていうふうに考えられます。
日本において、たとえば、ヨーロッパにおける詩学っていいますか、詩についての、一種の体系的な理論なんですけど、詩学っていうようなものが、確立されていったのは、中世であるわけです。だから、つまり、実朝から、すこし前の時代から、すこしあとにかけてっていうのは、そういう時代であるわけです。そういう時代に、日本における詩学、つまり、歌学ってものが、できあがっていったわけです。
最初に申し上げましたように、日本の詩の形式っていうのは、すでに、非常に初期の段階で、抒情詩までの詩的完成ってものは、いちおうなされていますから、いちおう、中世における歌学っていうもの、つまり、歌の学問っていうもの、あるいは、歌の理論っていうものは、いってみれば、すでに、詩としての詩形式っていうのは、一種の袋小路ってものがあって、その袋小路をどういうふうに抜けていったら、つまり、どういうふうに、順序よく抜けていったらいいのかっていうような意味合いで、中世における歌の学問っていうもの、歌の理論っていうものが、できあがったっていうふうに考えたほうがいいと思います。
だから、歌の学問そのもののなかに、詩の創造っていうようなもの、つまり、詩の芸術性っていうようなものの問題は、さほど含まれていないので、すでに袋小路に入ったために、ある程度、形骸化した語法とか、形骸化した歌い口っていうのはあるわけですけど、つまり、その形骸化した歌い口っていうものを、あらためて、こういう歌い口はとるべきでないとか、こういう歌い口はとるべきであるっていうようなかたちで、整理していったっていうようなものが、日本における詩学、つまり、歌の学問の発生っていうものを促した、非常に大きな要因じゃないかっていうふうに考えることができると思います。
つまり、そういう意味合いで、中世における歌の学問っていうものは、さほど、大きな意味合いをもっているわけではないのですけど、しかし、そこでは、いちおう、こういうような語法はとるべきではないとか、こういうような語法は、おおいに採用すべきであるとか、また、音韻からいって、こういうような音韻の重なりはとるべきではないとか、こういう音韻はとってもいいんじゃないかっていうような、そういう、いわば、整理づけっていうのは、わりあいによく、当時の、美的水準、美学的水準にのっとって、わりあいによく、整理されているわけです。
つまり、そういうものが中世の歌の学問ってものの、いわば、本質にある問題だっていうふうに、考えることができると思います。つまり、そこでは、時代的な鑑賞眼にのっとって、語法、用法、あるいは、歌い口について、かなり精密に、整理選択がなされているというような、それが、ひとつの規範として流布されると、そういうような意味合いを、中世の歌の学問っていうものに、考えることができると思います。
実朝が、いわば、師匠として仰いだのは、当時、専門歌人として、第一人者だっていうふうにいわれていた藤原定家であるわけです。定家に、自分のつくった、ここにもあれしてありますけど、自分のつくった作品を選んで、そして、定家のところに送って、そして、それについての論評っていうようなものを、あるいは、評価ってものをもとめていると、18歳のところで、そういうことがありますけど、そうしていって、定家が、歌の批評をし、そして、評価をしっていうような、そういう交流っていうのはあったわけです。
そのとき、たとえば、定家は、これは『吾妻鏡』からとったものですけど、「詠歌口伝 一巻」を、実朝に贈ったっていうふうになっております。この「詠歌口伝 一巻」っていうのは、なんのことかっていいますと、いま考えられているところでは、『近代秀歌』っていう、定家の歌論があるわけですけど、その『近代秀歌』が、定家が実朝に贈った、歌についての一種の指導書だっていうふうに、現在、考えられています。
『近代秀歌』っていうもののなかで、それじゃあ、定家は、なにを実朝に教えたかっていうふうにいいますと、本歌取りってことを教えたんです。本歌取りっていうのは、つまり、もと歌をもとにして、それに、たとえば、言葉の置き換えとか、内容の置き換えをやっていくっていうような、その本歌取りっていうもののやり方っていうものを、定家は『近代秀歌』のなかで、実朝に教えています。
あとは、そのとき、秀歌だと思われている作品を、非常によく並べてあるわけです。それの並べ方をみますと、定家の評価の基準っていうもの、つまり、美的基準っていうようなものが、よくわかるわけですけど、それ以外でいえば、教えている唯一のことは、本歌っていうもの、つまり、もと歌っていうものを、どういうふうに置き換え、それから、どういうふうに内容を考えればいいかっていうような、そして、もと歌取り、つまり、本歌取りっていうのは、元来、どういう意味合いをもつかってことを、実朝に、定家は説いているわけです。
説いているところを、簡単に申し上げますと、つまり、歌っていうのは、言葉は古いところ、つまり、古典っていうものをもとにして、つくったほうがいいってこと、そして、歌う心っていうのは、新しい心をもとにすべきだっていうようなことが説かれています。
だから、本歌取りの場合にも、まったく変わらないので、つまり、本歌取りっていうのは、なぜ、そういうことをやるかっていうと、それは結局、言葉としての古さっていうもの、つまり、言葉としては、古い古典の言葉を通り、それから、心としては、非常に新しい心、新しい心っていうのは、つまり、自分の心、あるいは、時代的な心ってことになるわけですけど、つまり、時代的な心をもとにして、歌をつくるんだっていうような、その方法のひとつとして、本歌取りってことがありうるんだってこと、つまり、本歌取りっていうのは、元来、言葉は古いところをたずねて、そして、心は、新しいところの心で読むんだっていうような、そういう基準に、かならずというような意味合いで、方法上のひとつの問題として、本歌取りっていうものがありうるんだってことを教えています。
それから、もうひとつは、寛平年代より以前の作品に依存したほうがいいと、つまり、寛平年代よりも以降の作品には、あんまり、依存しないほうがいいってことを教えています。つまり、そうしますと、対象として、そこに引っかかってくるのは、『万葉集』と『古今集』だと思いますけど、つまり、それ以外からは、あんまり真似しないほうがいい、つまり、影響を受けないほうがいいってことを説いています。それは、いちおう、言葉は古きをたずねってことの具体的内容をなすわけでしょうけど、定家はそういうふうに言っています。
その言葉は、おそらく、当時の詩の世界では、誰もがきっと、そういうふうにいい、そして、そういうふうに伝えたものだっていうふうに考えられます。だから、寛平年代よりも以前の作品から影響を受けたほうがいいと、それ以降の作品からは、影響を受けないほうがいいというようなことを教えているわけです。
実朝も、ある意味では、そういう定家の教えに、わりあいに、忠実であり、また、当時の詩の世界における通念に忠実に、『古今集』から、相当大きな影響を受けているわけです。
定家っていうのは、歌学、つまり、詩の理論家としては、最もすぐれている理論家ですけど、定家の歌についての理論の、根本をなしているのは、なにかっていいますと、それは、有心ってことなんです。
有心っていうのは、「有」っていう字に、「心」ってことなんですけど、つまり、詩には心がなくちゃいけないってこと、つまり、ハートがなくちゃいけないってことなんです。
それじゃあ、ハートがなくちゃいけないっていうけど、心がなくちゃいけないっていうけど、どうしたら、心っていうものは、歌の中で保ちうるか、つまり、それがでてくるのかってことについて、定家の『毎月抄』っていう、定家の最もすぐれた歌論なんですけど、つまり、そのなかで、結局、詩の創作の心理まで考えたうえで、つまり、心の有る歌、ハートの有る詩っていうものは、そうそうたやすくつくれるものでもないと、だから、そういうときにどうしたらいいかっていうふうに考えると、それは結局、景気の歌をつくる、そういうときには、つまり、心が有る歌っていうのが、どうしてもつくれないときには、景気の歌をつくればいいって言っているわけです。
景気っていうのは、現在でも使われている、つまり、景気がいいとか、悪いとかいう、その景気なんですけど、その意味合いは、景気がいい歌をつくればいいっていうこととは、すこしだけ違いますけど、ある程度はおんなじことを言ってるんです。つまり、気をそそるような歌っていうもの、つまり、自分の心を挑発するっていいますか、みずからを挑発するような、そういうような詩をつくればいいっていうふうに言ってるんです。
つまり、心が有る歌をつくれなくて、一種の観念的な袋小路っていうようなところに、創作がおちこんだときには、ようするに、景気がそうような、つまり、自分の心を、自分でかきたてるような、ひきたてるような、そういう詩をつくればいいっていうふうに言っているのです。そういう詩をつくっているうちに、それが、4,5首とか、10首とか、そういうふうにつくられているうちに、自然に心が有る、つまり、有心の詩ってものは、またできるようになるっていうふうに言っているわけです。
こういう言い方っていうのは、わりあいに、いま現在における、詩の創作ってことにも、通用する言い方だっていうふうにいうことができます。つまり、こういう言い方ができるのは、たとえば、実際の詩の作品の創造について、そうとう長い年期をいれた人が教えているっていうような意味合いでは、非常に、創作心理っていうようなものにまで立ち入って、そういうことを説いているってことができます。だから、そうとう優秀な理論家だっていうふうにいうことができると思います。
詩の創作っていうものは、さまざまなかたちでありうるわけですけど、すくなくとも、創作ってことは、つまり、文学の創作、あるいは、詩の創作っていうようなことは、いずれにせよ、それは手仕事であるわけです。
それは、あたまの仕事でもなければ、それは感情の仕事でもなく、また、情緒の仕事でもなく、まさに手仕事であって、つまり、手を出さなければ、あるいは、手を使わなければ、徹頭徹尾、一般的にいって、芸術の創造、あるいは、文学の創造なんてのはゼロであって、つまり、文学の創造ってものが、ほかのものと分けえられる点っていうのは、ようするに、それは手仕事だってことなんです。
だから、結局、詩の創造ってことの場合でも、長い間には、いくたびも停滞し、いくたびも袋小路に入るってことはあるわけですけども、それを、たとえば、どうやって抜けるかっていった場合に、ぼくらが考えてみても、結局、やたらにつくれってこと、創造として袋小路に入った場合には、とにかく、きわめて意識的に、徹底的に書き込むってこと、つまり、手を使うってこと、書き込むってことをやれってことなんです。
書き込むことをやるってことを、わりあいに、意識的にやっていくうちに、ひとりでに、内容的にも、形式的にも、袋小路っていうのは、ひとりでに離脱していくわけです。そういうこと以外に、ちょっと、詩の創造っていう場合に、そういうこと以外に、ちょっといいようがないので、これは、けっして、理論の問題でもなくて、また、あたまの問題でもなくて、また、感覚の問題でもなく、また、感情の問題でもない、とにかく、それは手の問題、手仕事の問題だっていうふうに、問題は、創造の場合には、そういうことになりますから、だから、つまり、袋小路に入った場合には、やっぱり、手仕事で、そこを抜ける以外にないんだってこと、そこでやめたら、それで終わりだってことなんです。
つまり、創造としては終わりなんだって、そういうときの唯一の手段っていうのは、やっぱり、非常に意識的に書き込みをやる、つまり、手仕事を意識的にやるってこと、それをやっていながら、そこをひとりでに抜けてしまうっていうような、そういう以外にちょっと伝えようがないっていうようなところがあります。
これは、詩の創造だけではなくて、一般的に、芸術の創造っていうものについて、すべてについていえることであって、つまり、手を使わなければゼロであるっていうようなこと、つまり、手を使う以外に方法はないということ、そして、袋小路から抜けるのは、偶然でもなければなんでもないわけですけど、しかし、それは、結果的には、偶然としかいいようのないようなものであるということがいえるわけです。
だから、結局、そのときには、手でもって、徹底的に書き込みをやるっていう以外に、抜け道はないわけですけども、結局、それとおなじこと、つまり、それに類したことを、定家は、『毎月抄』のなかで教えているわけです。
結局、そのことは、定家が、作家としても、相当なものであったってことがいえるわけですし、また、理論家としてもまた、相当なものであったってことがいえることの証拠になるわけですけど、結局、有心っていいますか、心が有るってこと、そのことが基本であるけれど、それにともなってでてくる、詩の創作上の問題っていうのは、どういうふうにしたらいいかってことが、かなり微細に、『毎月抄』のなかで説かれているわけです。
実朝にあたえた指導書である『近代秀歌』のなかには、それほどのことは、言われていないわけですけど、しかし、実際、具体的にどういうふうに、とっかかったらいいかっていう場合に、本歌取りってことを教えているわけです。
もちろん、『毎月抄』のなかでも、本歌取りってことは、もうすこし詳しくいわれているわけですけども、いくらか挙げてみますと、たとえば、本歌が、もと歌が、たとえば、花についての歌であったと、あるいは、月についての歌であった、そういう場合には、そのもと歌をとる場合に、同じような月の歌、あるいは、花の歌っていうものを主題として、もと歌と同じ主題を選んで、歌をつくるってことは、相当達者でないとできないから、だから、たとえば、もと歌が、花の歌だったらば、それは、たとえば、そのもと歌をとる場合には、主題としては、恋の歌っていうふうにするとかいうふうに、つまり、主題を変えたほうがいいっていうようなことをまた言っています。
それから、もうひとつは、もと歌をとる場合には、もと歌が何であるか、つまり、影響を受けたもと歌が何であるかってことをわからないように、もと歌取りをやってはいけないってことをいっています。
つまり、それは、礼儀に反するっていうんですか、つまり、ルールに反するってことだと思うんですけど、つまり、もと歌をとる場合には、その作品から、もと歌がこの作品だなってことが、わかるようにとるべきだってことを言っています。そうしなくちゃいけないってことを言っています。
それから、もと歌から、ある語句をとるとか、七語句をとるとかっていうような、そういう場合に、とった歌っていうものは、たとえば、とった歌が、ふたつならふたつ、句としてあったとしたら、ひとつの句は、上の句のほうにいれて、ひとつの句は、下の句のほうにいれるっていうような句をしたほうがいいってことを言っています。
それから、ひとつの歌のなかでも、わりあいに、耳になれる言葉、つまり、非常にきわだった特色のある言葉っていうのがあるわけですけども、その特色のある言葉っていうのは、もと歌の特色のある言葉っていうものは、もと歌をとる場合に、使っちゃいけないってことを言っています。
つまり、一首の歌があって、その言葉は、非常に特徴のある言葉であり、また、その特徴のある言葉があるために、歌が、非常に特徴のあるものとなっているっていうような、そういう言葉は、もと歌をとる場合に、とってはいけないってことを教えています。
ところが、実朝のもと歌取りっていうのは、最後の、一首のなかの、非常に耳に立つ言葉、耳をそばだたせる言葉、あるいは、非常に、特色をかきたてる言葉っていうのは、使っちゃいけないっていうふうな戒めだけは、実朝はとらなかったように思います。
つまり、実朝が、しばしば、そういう耳に立つ言葉っていうのを好んでとってきているわけで、だから、そういう意味では、定家が、一般的に考え、そして、実朝に教えた、もと歌取りっていうような方法のなかで、耳をそばだたせるような言葉っていうのは使っちゃいけないっていうような、そういう条項だけは守らなかったように思います。守らなかったっていうのは、守れなかったのか、また、意識的に守らなかったのかは、よくわからないんですけど、はっきりといえないんですけど、そのことだけは、ちょっと違反したように思います。
それ以外の点では、実朝はいちおう、定家の教えた、もと歌取りっていう、詩の創作上の方法っていうものを非常に忠実に守って、そして、詩の創作をやっていったっていうふうに考えることができます。
今度は、実朝の作品そのものに、はいっていくわけですけど、実朝の短歌作品ってもののなかには、いくつかの特徴っていいますか、特色っていうものを考えることができます。つまり、それは、実朝以外のどんな詩人にも、そういう作品はできなかったっていうふうな意味合いで、非常に特色のある、いくつかの点を挙げることができると思います。
その特色っていうのを、あえて特色というふうにいわないで、何から影響を受けたのかっていうようなことからいってみますと、はじめにいってみますと、それはやっぱり、さきほどいいました、のちの拾遺集、つまり、『後拾遺集』ってものから『千載集』にいたる、いわば、八代集のなかの、あとの後半の部分なんですけど、そのなかで、非常に大胆に導入されている俗語の使い方、それからまた、大胆に一気呵成にやってのける、つまり、『古今集』からの袋小路っていうのを一気に破るような、一気呵成に歌ってのけるっていうような、そういう特色っていうのを、実朝が、やはりもっている特色っていうものは、影響的にいえば、『後拾遺集』から『千載集』に至るまでの、いわば、実朝自身にとって、時代的に地続きになっている詩の作品ってものからの影響っていうふうにも、いうことができるかと思います。つまり、その面からもまた、言っていいんじゃないかっていうふうに思われます。
ちょっと申し上げておきますけど、短歌っていうものを、自分で自作されている人、あるいは、短歌に興味をもち、またあるいは、好きだっていう人は、べつなんですけど、つまり、現代の詩とか、ヨーロッパの詩とかってものには親しんでいるけれども、短歌っていうのは、どうも親しみにくいって考えておられる方もおられると思いますけど、つまり、そういう方のために申し上げるにすぎないわけですけど、つまり、短歌における一編の詩の意味ってことは、現代の詩作品なら詩作品をもとにして考えられる、あるいは、もっと極端にいえば、散文なら散文をもとにして考えられる意味性っていうものとは違うわけです。
だから、短歌の作品のなかに、ある思想が、たとえば、述べられていたっていうふうにあった場合には、その述べられている作品の意味というものは、そこにそのように書かれている言葉の意味どおりではないわけです。つまり、どおりと考えてはいけないわけです。
だから、そういうことを現在でも、たとえば、短歌の批評っていうようなものの場合に、現在でも、あんまりうまくおこなわれていないわけです。とくに、自分も短歌の作品をつくり、そして、自分も短歌についての批評をやるというような人はべつですけど、そういう人は、意識的に、あるいは、無意識的に、そういうことは非常にわかっていることなんですけども、たとえば、一般に文芸批評っていうようなことをやっている人、あるいは、現代詩の批評っていうようなことをやってる人が、短歌の作品を論ずると、しばしば、短歌作品のなかにあることがらが、どうせ書かれているわけですけど、つまり、あることがらが書かれていると、その書かれていることがらが、その短歌の意味であり、そして、それは、そのような意味あいの短歌をつくった、その作者の思想であるっていうふうに、短歌作品を批評するっていうようなことが、いまでもあるわけです。
それは違うのであって、短歌作品における意味性っていうのは、散文、あるいは、現代の詩ですね、つまり、現代の非常に自由な詩ですけど、つまり、現代の自由な詩っていうものの、意味性っていうものとは、違うものだっていうふうにいうことができます。つまり、違うものだっていうことは、そういう意味性が、茂吉ならば、声調っていう言葉、しらべっていう言葉を使うんですけど、つまり、韻律といっていいんだろうと思います。
つまり、その場合の韻律っていうのは、音韻ってことも入るわけですけど、つまり、音韻とか、韻律とかを含めて、日本語の場合には、一種の音数律になるわけですけど、そういう音数律のなかに含まれている、言葉の感性的な、あるいは、言葉の感覚的な指示性っていうもの、つまり、なにかを指すことなんですけど、つまり、指向することなんですけど、つまり、指示性ってことなんですけど、つまり、音韻も含めて、韻律の構成のされ方のなかにある、言語の意味の根源っていうのがあるわけです。
つまり、音律そのもの、あるいは、韻律そのものの構成のされ方が、それ自体でもっている感性的な指示性っていうもの、対象を指す、指向する性質なんですけど、つまり、音韻そのものの構成のなかに、感覚的な、あるいは、感性的な指示性っていうのがあるってことなんです。
だから、そのことは、言語の意味の指示性ってものに、音韻の構成自体が、感性的にもっている指示性っていうものが、一種の変形、影響ってものを、かならずあたえるわけで、その変形、影響をあたえたっていうような、そういうものの包括したところで、短歌における一編の意味というものが、はじめて成立するのであって、けっして、言葉として短歌のなかに書かれている内容が、すなわち、それは、一編の詩としての内容の意味であるっていうふうにはいえないわけです、
短歌っていうような場合には。だから、そういうことを考慮したうえで、短歌における意味性というものを考えないと、たとえば、短歌作品のなかに、あることがらについて、歌われていても、その歌われている言葉の意味自体が、短歌作品の意味そのものであって、そして、その意味そのものってことは、まさに作者の中で、つまり、作者の内的世界ってものの意味そのものであるっていうふうに解釈されやすいんですけど、ほんとうはそうじゃないわけです。
そういう言葉そのものの意味性ってものに対して、いま申し上げましたとおり、音数律の構成そのものが、感性的にもっている指示性、つまり、意味性のもとっていうのがあるわけですけど、そのものが包括されたうえで、それの影響ってものが、言葉の意味そのものにあたえる変形っていいますか、そういうものを考慮したうえで、一首の意味ってものを考えなければならないっていうようなことがいえるわけです。
だから、そういう意味合いでの短歌批評っていうのは、たいへんむずかしいですから、現在でも、あんまりうまく、そういうことができている短歌の批評家っていうのは、いないってことがいえます。つまり、あんまりよくわかってないっていうふうにいえます。しかし、これは、つくっている人は、そういうことは、無意識のうちに知っているわけですけれども、さて、それを解釈するっていう段になると、言葉の意味合いそのものが、短歌一片の作品の意味合いっていうふうに解釈してしまうってことが、現在でもおこなわれるわけですけど、そういうことが、短歌っていうものをみていく場合に、非常に重要なことだと思います。
そうじゃなければ、単に、たとえば、家の庭に、梅の花が咲いていて、それに雨が当たって、梅の花びらが落っこちているっていうふうな、それだけのことを言っているだけなのに、それが、いわば、一種の詩的な美をあたえる、それだけであたえるわけですけど、そんなことはありえないわけです。
つまり、家の庭の梅の花びらが落ちて、雨が当たっているっていったって、なにがおもしろいんだってことになるわけで、つまり、なんでもないじゃないかそんなことはっていう、ここにマイクがありますっていうのとかわらないってことになるのです。
だから、言葉が指示している意味だけでいえば、こんなのは何がおもしろいんだってことになるわけだけれども、それが、たとえば、音数律の構成のなかで、ただそれだけのことが言われていれば、それが、一種の美として成立し、またかつ、美としての意味をもつっていうことが、なぜかっていいますと、音数律の構成自体のなかに、いわば、感性的な、感覚的な意味性がある、つまり、感覚的な指示性があるっていうふうに、理解する以外に、ちょっとないわけで、だから、そういう意味合いで、短歌っていうものは、考えられねばならないっていうふうにあるわけです。
本題へ戻りまして、『後拾遺集』から『千載集』、あるいは『新古今集』までにわたる、語法の大胆さ、つまり、『古今集』なんかにくらべて、大胆さ、それから、わりあいに、八方破れな一気呵成なところがあるっていうような、たとえば、例を挙げてみますと、『後拾遺集』のなかで例を挙げてみますと、これは、源兼澄の作品なんですけど、
ふるさとへ 行く人あらば ことづてむ
けふ鶯の はつ音ききつと
っていうのがあるんですけども、つまり、「ふるさとへ行く人あらば」っていうことは、いまは、なんでもないですけど、ちょっと『古今集』なんか考えると、こういう言葉はでてこないわけなんです。
つまり、「ふるさとへ行く人あらば」は、いま申し上げましたあれでいえば、ちょっとリズム感がありますけど、ごく一般的に、「ふるさとへ行く人あらば」っていうのは、一般的な言い方なんですけど、ちょっと、そういうことをフッていえるっていいますか、そういう言葉遣いをやれるっていうのは、ちょっと『古今集』なら考えられないわけなんです。
だから、いまいうと、べつになんともないんですけど、もうひとつ、和泉式部の『後拾遺集』に載ってるあれを挙げてみますと、
岩つつじ をりもてぞ見る せこが着し
紅ぞめの いろに似たれば
っていうようなのがあるんですけど、この「岩つつじをりもてぞ見る」っていうような言葉っていうのは、べつになんでもないんですけれど、その時代でいいますと、『古今集』から、たとえば、『拾遺集』までに至る、そういう作品のなかでは、ちょっといえない言葉なんです。つまり、使えない言葉なんです。
つまり、そういうことは、簡単に、短歌形式のなかに、フッて入れてくるってことはできない、そういう言葉なんです。この場合、あとのほうの、「紅ぞめのいろに似たれば」っていうような言葉も、ちょっと使えないはずなんです。つまり、使うことが、いかに大胆であり、あるいは、いかに、俗語、あるいは、会話されている言葉の、そのままの導入であるかってことを意味しているわけです。だから、こういうことは、『古今集』なんかでは、ちょっとなかなか考えにくい言葉なんです。
今度は『千載集』、つまり、実朝時代に最も近い勅撰集なんですけど、『千載集』のなかで、おんなじようなのを挙げてみますと、これは良経、左近中将良経って書いてありますけど、
ながむれば 霞める空の浮雲と
ひとつになりぬ かへるかりがね
っていう、かりがねっていうのは、雁ですね。たとえば、そういう作品があるとしますと、この「霞める空の浮雲とひとつになりぬ」っていうことが、やっぱり、ちょっといえないのです。『古今集』なんかの作品っていうのを、そういうものを基準にして考えた場合には、そういう言葉っていうのは、ちょっと使えないっていう言葉なんです。よほど大胆な言葉なんです。
つまり、非常に話言葉に近い言葉を、短歌形式のなかでは、相当な部分を占める、つまり、半分ぐらいを占めるような、それだけ、バッと入れちゃってるわけなんで、なかなか使えない言葉なんです。もうひとつぐらい挙げてみますと、やっぱり、『千載集』で挙げてみますと、康資王ってなってますけど
いずかたに 匂ひますらむ 藤の花
春と夏との岸をへだてつ
っていうんですけど、この場合の、「春と夏との岸をへだてつ」っていう言葉の言い方っていうのは、やっぱり、たいへん大胆な、つまり、当時の基準でいえば、大胆な言葉遣いと内容であって、やはり、『古今集』あるいは、『万葉集』を含めてもいいんですけど、そういうもののもとになっている作品から考えたら、ちょっと考えようもない、つまり、非常に途方もない言葉遣いだっていうふうにいうことができるわけです。
いま申し上げましたような言葉遣いとか、歌い方っていうようなものは、実朝が、いわば、一種の時代性っていうものとして、つまり、詩人としての時代性っていうもので、非常に影響され、またかつ、みずからのなかに、それをもっていたっていうような意味合いで、考えることができます。
だから、そういう意味合いで、たとえば、実朝の作品の特色をなしている言葉遣いっていうようなものは、まさに、実朝のもっている時代的な意味、つまり、実朝という詩人がもっている時代的な意味合い、つまり、時代性っていいますか、そういう意味合いってものを象徴しているわけで、そのことは、たとえば、短歌作品のなかに、実朝が、どういう思想ってものを歌っているのかってこととは、すぐには結び付かないので、つまり、そういう歌い方のなかに、時代そのものがあるってこと、時代の現実性そのものがあるってことが、文学作品のなかに、しばしばあらわれるわけで、だから、そういう意味合いでは、実朝の短歌のなかにある、非常に大胆で、俗語であろうとなんであろうと、わりあいにそういうことは無視して、引っぱってきているっていうような、そういう要素は、非常に、時代的な意味でのアクチュアリティってものを語るっていうふうに考えてよろしいと思います。
つまり、文学が古くなったり、新しくなったりすることっていうのは、こういうことの半分の原因といいますか、条件っていうものは、いわば、時代性ってことにあるわけですけども、その時代性ってものは、文学の作品のなかでは、ある場合に、作品の登場人物のなかに、それからまた、物語の進展する運びのなかに、また、とらえてきている主題のなかにも、時代性っていうのは、あらわれうるわけですけど、また、文学作品のなかには、作品そのものの方法のなかに、それからまた、詩の作品でいえば、リズムそのもののなかに、あるいは、リズムを背負ったところの内容のなかに、内容そのもののなかに、主題ではなくて、内容そのもののなかに、時代性が、あるいは、時代の思想性っていうものが、含まれていくってことは、文学の作品のなかでも、しばしば、起こりうることです。
そういう意味合いでいえは、実朝の作品を、非常に大胆にしているひとつの要素っていうのは、いわば、『後拾遺集』からはじまった、時代的な、あるいは、新しさの地続きっていいますか、延長線上の問題として考えることができると思います。
実朝の作品のなかには、当時の花鳥風月詠っていうのは、典型的にそうなんですけど、それと同じように、実朝の作品のなかでも、いわば、自然詠っていうのは非常に多いわけです。
これは、短歌そのものが、もともと『古今集』以後、そういうふうに考えられてきた要素があるわけですけど、だから、そういう意味では、自然詠が、たくさん多すぎるっていうことは、まったく、時代的にいえば、ごくふつうのことなんですけど、実朝の自然詠っていうものが、どういう特色があるか、つまり、当時の一般的な自然詠ってもののなかで、どういうような特色があるかってことを考えていきますと、やはり、なんともいえない特色っていうのが見つかるわけです。
そのなんともいえなさっていうのを、どういうふうに言ったらいいのかっていうふうに、しきりに考えるんですけど、つまり、その実朝の自然詠っていうのは、自然に対する鑑賞眼っていいますか、自然というものを自分の外に置いて、その自然の風物を眺めて、そして、それを自分が鑑賞しているっていうような、位相っていいますか、位置っていうのも、わりあいにないんです。花鳥風月詠っていうふうにいって、花鳥風月を対象として、それを鑑賞している作者が、その鑑賞の歌をつくっているっていう意味合いでの自然詠っていうのも、わりあいに少ないのです。つまり、そういう意味合いを、実朝の自然詠っていうのはもっていないところがあるんです。
それから、もうひとつは、これは実朝時代の、つまり、中世のすぐれた専門歌人っていうのの、諷詠っていうのは、一般的にそうなんですけど、自然の風物に対して、いわば、感情移入する、つまり、自分の心を入り込んでしまう、あるいは、溶け込ませてしまうっていうかたちで、自然詠がなされていて、そこの自然のなかに溶け込ませる心が、たとえば、幽玄さとか、麗辞さとか、つまり、そのことが、自然のなかに感情移入してしまう心っていうものが、いわば、中世の美学の基本概念で、つまり、もののあはれっていうんでしょうか、そういうものであると、つまり、作者のもののあはれ的な、そういう心が、自然そのもののなかに感情移入されて、つまり、溶け込ませておいて、そこで、自然詠っていうものが成り立つっていうような、いわば、中世におけるすぐれた詩人たちが、一般的にとっているような、そういう自然詠の要素っていうのも、わりあいに少ないのです。
それから、もちろん、さきほど言いましたように、日本の詩が、つまり、発生の当初にもっていた、つまり、現在、残っているあれでいえば、『古事記』、『日本書記』の歌謡のなかに残っているような、つまり、発生の当初にもっていたような、自然詠そのものが、作者の心のメタファーをなすってこと、つまり、いいたいことの暗喩をなすっていうような意味合いでも、実朝の自然詠っていうのは、成り立ってはいないわけです。
そうしますと、そのことは、非常に特色なんですけど、それじゃあ、それをなんといっていいんだろうかっていうふうに考えあぐむわけですけど、その考えあぐんだところでいいますと、たとえば、実朝の作品を、万葉調の、つまり、ますらおぶりの、あるいは、たけだけしい、そういう歌だとして、たいへん評価したのは、賀茂真淵なんですけど、実朝の作品を、万葉調の、あらけずりだけど、非常に率直な、たけだけしい歌っていう、そういう評価っていうのも、違うんじゃないかって思うんです。
つまり、ひいきの引き倒しみたいなところがありまして、そうじゃないと思うんです。真淵のそういう評価の仕方っていうのは、明治、つまり、正岡子規が短歌の革新ってことを考えたときにも、やっぱり、引きずっている評価なんです。つまり、子規が『歌よみに与ふる書』のなかで、実朝を、たいへん、一章をさいて、評価しているわけですけど、そこでも、一種の万葉調のっていいますか、つまり、万葉調の雄渾なたけだけしい、すぐれた作品だっていうふうに評価しているわけですけれど、そういう評価の仕方っていうのは、どうもあまりよくないように思うんです。
つまり、そういう評価の仕方は、必然的に、実朝の作品が晩年の完成されたときに、いわば、万葉調みたいな作品で完成されたんだっていうような評価と、表裏一体をなすわけですけど、どうも、そういう言い方っていうのはおもしろくないわけです。
どういったらいいかってことを考えるんですけど、いま言いましたように、自然詠が、作者の心のメタファーっていうふうでもないし、それから、自然を鑑賞しているっていうような、そういう意味合いもないし、それから、自然のなかに感情移入して、つまり、自然に感じやすい心の部分を感情移入してなりたっている、もののあはれに類した自然詠っていう意味合いもないのです。
つまり、ないないっていうふうに、そうじゃない、そうじゃないっていうふうにいっていくと残るわけですけど、そうじゃないものがそうなんだって、そうじゃないものが、実朝の自然詠だっていえば、いちばんいいわけです。
そうすると、いまの言葉でいうと、自然詠そのものが事実の次元にあるんだ、つまり、ファクトだってことなんです。つまり、事実の次元にあるように、自然がとらえられているってことなんです。
そういうふうにいいますと、今度は、事実っていうのは、どういうことかっていうと、ぼくがいいたいのはどういうことかっていうと、事実っていうのは、自然物が、具体的にここにある自然物、つまり、花なら花がここに、そういうふうに咲いている、花そのものっていうことではないのです。これは、具体的な自然そのものなんです。つまり、そこにある実在の自然そのものなんです。
そういうふうに考えた場合の対象は、いわば実在の次元にあるわけです。だから、実在の次元にあるんだから、それは、その実在の次元にあるものを、仮に、ある特定の個人ってものが、それを見ようが、見まいが、それをとらえようが、とらえまいが、そのものが、具体的に自然物としてそこにあるということは、非常に先験的なことなんです。そういうことは、それを見ようが、見まいが、それはそこにあるというような納得をすることが可能なわけなんです。その場合に、この対象物は、あるいは、この自然物は、たとえば、実在の次元にあるっていうふうに、言ってよろしいかと思います。
そうしますと、事実の次元、つまり、ファクトとしての次元っていうのは、実在っていう次元とは違うのです。実在という次元とは違うけれども、つかまれた事実のなかに、つかんだ人間の感情が移入されるっていうようなものでもなければ、また、そのつかまえた事実が、それをつかまえた人間の心のメタファーをなして、暗喩をなしているってことでもないのです。
それは、事実そのものの次元でとらえられている。つまり、そういうふうにいいますと、どういうことかというと、作者の心の世界ってものがあると、それから、自然物が、たとえば、梅の花なら梅の花ってものは、具体的に、つまり、実在物としてあるっていう、それじゃあ、観念としての作者の心が、具体的な対象物である、自然の木なら木、山なら山っていうものと、ちょうど非常に両者が、たとえば、そういう言い方は比喩にすぎないのですけど、つまり、両者が非常にうまく、たとえば、両方からきて、中間で、うまく出会って、まさに過不足がなかったっていうので、つまり、過不足がなかったっていうのは、作者の心としても過不足がなかった、また、対象として詠まれた自然物のあり方としても、過不足がなかったっていうふうに、とらえられたとすれば、それは、事実の次元で自然物がとらえられているっていうふうにいうことができるのではないかと思います。つまり、比喩的にいいますと、そういうことなわけなんです。そういうところが、実朝の作品のうち、大部分をなしている自然詠ってものの、大きな特徴であるわけです。
だから、例をあげてみましょうか、たとえば、これは、実朝の作品のなかでも、すぐれたあれなんですけど、みなさんのあれでいえば、16っていう番号がふってあるやつですけども、
吹風は 涼しくもあるか おのづから
山の蟬鳴て 秋は来にけり
っていう作品があるのですけど、つまり、この作品は、いま申し上げましたとおり、実朝の心のメタファーでもなければ、実朝の心が、風とか、山の蟬とか、そういうものに感情移入されているわけでもなくて、まさに、実朝の心が歌っている、風とか、山の蟬とか、そういうものと、うまく過不足なく、事実っていいますか、ファクトっていう次元で、うまく合わさっちゃっているっていうような、そういうふうにいえるかと思います。
これには、もと歌があるわけですけど、もと歌からどういうあれをとってきてるかっていうと、主として、「おのづから」って言葉をとってきているわけです。なかなかいい言葉なものですから、定家なんかは、やっぱり、こんな言葉はとってきちゃいけないっていうふうに言っているわけですけども、こういうのをとってきています。
そして、とってきているけど、この「おのづから」の使い方は、もと歌では、わりあいに簡単な、ごくふつうに「おのづから」という意味なんですけど、使い方をしているわけです。
この場合の「おのづから」っていうのは、なかなか「おのづから」っていうのが、ごく自然にっていうような、言葉どおりでは尽せなくて、この場合の「おのづから」っていうのが、いま申し上げた例でいいますと、「吹風は涼しくもあるか」っていうような、上のほうの句と、それから、「山の蟬鳴て 秋は来にけり」っていうような、いずれにせよ、下のほうのやつとを、きわめて過不足なくつなげている言葉として、非常にうまく使われています。
もと歌では、こんなうまくは使われていません。われわれが、「おのづから」っていったら、自分みずからだっていうのとおんなじ意味合いでしか使われていませんけども、この場合の「おのづから」は、たいへん様々な、二重、三重の含みがあって、単に「おのづから」、ごく自然にって、なかなかそういうふうに言ったのでは言い尽くせないってことがあったり、いろんな役割をして、上のほうの句と、下のほうの句とを、うまく過不足なくつなげているっていうような、そういう役割をしたり、たいへん見事な使い方をしているわけですけど、ここにあらわれているのは、わりあいに、いまいいました、実朝の自然詠ってものの特色をなしています。
もうひとつぐらい挙げてみますと、みなさんの資料では14番目だと思いますけど、
秋ちかく なるしるしにや 玉すだれ
こすのまとほし 風の涼しさ
っていうんですけど、こういうふうにやられると、ちょっとどうしようもないって感じでして、現代の詩なら現代の詩に、非常になれている人からいえば、なにが、すだれごしに風がフーフー飛んできた、吹き通ってきて、涼しいっていうのは、なにが詩だっていうふうになっちゃうわけですけど、だけれども、なんとなく、ものすごくよくできていまして、つまり、過不足なくできていまして、自然詠として、こういうふうに過不足なくできてくるっていうのは、なかなかたいへんなことなんです。
たいへんなことなわけで、うまく、詩の歴史的な意味合いでいいますと、結局、短歌形式っていうのは、ボクシングでいえば、パンチに強弱をつけなきゃダメたってよくいわれるように、つまり、いつだって力いっぱいふってたってダメだっていうふうにいわれて、つまり、相手は倒れやしないっていうふうにいわれているように、短歌形式には短歌形式固有の強弱のつけ方っていうのがあるわけです。
つまり、それは、発生の当初からあるわけですけど、その強弱のつけ方っていうのは、言葉の意味そのものとしても、強弱のつけ方っていうのはあるんですけど、いわば、音数律の構成としてもあるわけです。感性的にもそういうことは、短歌固有にあると思うんですけど、つまり、そういう強弱のつけ方ってことからいうと、わりあいに、いま申し上げたような例にみられ、実朝の自然詠っていうのには、短歌的強弱っていうのが、あんまりつけていないのです。あんまりないわけです。ないけれど、とにかく短歌としてできている。だから、おそらく、この自然詠の形式が、もうすこし、時代的にすすんでしまうと、ようするに、短歌形式としては、解体するってことになると思うんです。
それは、具体的にいえば、『玉葉集』っていうような、『玉葉集』っていうのは、南北朝時代ですから、もうすこしあとになるわけですけど、つまり、『玉葉集』なんかにでてくる短歌っていうのは、短歌的強弱としては、壊れかかっているっていえるんです。
その場合、どういうふうに壊れるかっていうと、連歌っていうふうに壊れるわけです。つまり、ぶっ切れてしまうわけです。上の句と下の句が、まったく切れてしまう、それが、連歌として、付けあいに変わってしまう、また、付けあいが、もちろん切れていけば、俳諧になるわけですけど、『玉葉集』なんかは典型的にそうですけど、短歌形式としての崩壊ってことを、非常に匂わせる作品はあるわけですけど、実朝の自然詠のもっている短歌的強弱のつけ方っていうのが、わりあいになくて、のっぺらぼうにスーッとやっちゃってるようで、じつはそこに、非常にむずかしい、創作のうえから、非常にむずかしいことができちゃっているっていうような、こういう自然詠、つまり、さきほどからいう、事実としてしかいいようかないじゃないかっていうような意味合いでの、事実の次元に自然物がもってこられるっていうような、そういうやり方っていうのは、ある意味では、短歌形式の内部では、つまり、古今からつながってきた短歌形式の流れとしては、非常に最後の完成のされ方じゃないかっていうふうにもみることができます。
そういう意味合いからいえば、『古今集』以来の短歌形式の崩壊っていうのは、時代的には、もうすぐなんだっていうところまできているともいえるわけで、そういうような意味合いでいえば、詩人としての実朝は、非常にすぐれた作品のなかでつくっている自然詠っていうのは、非常に象徴的な意味あいをもっているっていうふうにいえると思います。
この種の例っていうのは、たくさん挙げうるわけです。実朝の自然詠のなかで、誰が選んでも、非常にすぐれた歌だっていうふうにいえるものは、たいてい、そういうふうにできあがっていると考えてよろしいと思います。自然詠は多いわけですけど、実朝の場合の、大部分の自然詠っていうのは、それは、当時のあれと近いわけで、『古今集』を手本にしたような自然詠っていうのは、大部分なんですけど、だから、大部分のところに特色がないといえばないといえるわけで、だから、いま申し上げました作品のなかに、かえって実朝を実朝にしている特色があり、また、実朝が、詩人として、どういう時代的象徴を負っているかっていうような、つまり、詩の歴史として、どういう象徴を負っているかっていう意味合いでも、いま申し上げました自然詠のほうが、代表的な例だっていうふうにいえます。
だけど、それがすべてじゃなくて、もちろん、当時の一般的な基準で、『古今集』をもとにした自然詠っていうもの、あるいは、『新古今集』をもとにした自然詠っていうものを、大部分を、そういうふうにやっているわけです。非常に便利だから、一例だけ、そういう例をあげますと、みなさんのあれでは24番目の番号がついていると思いますけど、
久堅の 月のひかりし 清ければ
秋のなかばを 空に知るかな
っていう作品があります。これのもと歌は西行です。西行の
数へねど こよひの月の けしきにて
秋のなかばを 空に知るかな
っていうような、これが西行です。そうすると、なにをとってきたのかっていうと、「秋のなかばを 空に知るかな」っていう言葉をとってきちゃっているわけです。
そうすると、違うのは前半だけだってことになるわけですけど、この場合よく、「久堅の 月のひかりし 清ければ」っていうのと、「数へねど こよひの月の けしきにて」っていうのと、比較してみればわかりますけど、これは、実朝の「久堅の 月のひかりし 清ければ」っていうのは、非常に、単純率直でして、また、そういう意味ではつまらないともいえるかもしれませんけど、つまり、上のほうからいえることは、作者が月の光をみて、すがすがしいって思っているっていうようなことが浮かぶわけで、つまり、そういう作者を歌っているっていうふうにいえるわけで、そういう意味合いでは、非常に単純であり、また、率直であるっていえば率直であるってことになるわけですけど。
こっちの西行のほうの上のほうの「数へねど こよひの月の けしきにて」っていうのは、かなり複雑で、ある意味では、理屈っぽいわけですし、また、ある意味では、非常に屈折した心の内部っていうのがでているわけで、つまり、ここでは、「数へねど こよひの月の けしきにて」っていった場合に、数えているかいないかってことを、作者が歌っているっていうのではなくて、数えているかいないかってことを、作者が月の景色について考えていて、その考えている作者を作者が歌っているっていうような、かなり複雑な、ある意味で、理屈っぽい言葉の表現だっていうことができます。
どっちが作品としていいか悪いかっていうのは、ちょっと別ですけれど、つまり、作者の心の世界っていう、つまり、定家のいう有心ってことでいえば、実朝の場合の作品は、上のほうは、たいへん簡単率直、それだけってことになりますし、西行の場合には、かなりむちゃくちゃに、自分が自然の月なら月をみていて、なにか考えていて、考えている自分をまた、自分が考えていてっていうような、かなり複雑な投影っていうものが、この上のほうにあることがわかります。
だから、下のほうは、もちろん、おんなじなんですけど、両方の作品は、おんなじ言葉を使っているわけですけど、上のほうは、かなり違うんだっていうことができます。この場合の簡明さとか、率直さとか、わりあいに簡単なんだっていうような、そういう簡単で一気呵成にバッて言っちゃってんだっていうような意味合いで、実朝の自然詠を考えますと、だいたい、さきほどの事実としての次元っていうふうに考えた、そういうものを除いた、大部分の実朝の自然詠、つまり、『古今集』とか、『新古今集』とかを手本にしてつくったっていう、そういう自然詠の大部分は、この種の特徴でもってとらえることができると思います。
ところで、これは、実朝の作品にとって、最後の問題になるわけですけど、結局、さきほど申し上げました、自然詠として、つまり、自然物をいわば、ちょうど事実っていうようなところの次元で、過不足なく捉えているっていうような、その過不足のなさっていうものがもっている内面性っていいますか、内面性というものは、実朝にとっては、かなり本質的なものであったっていうふうにいえると思います。
だから、たとえば、真淵なんかが、万葉調のすばらしい雄渾な、あるいは、たけだけしい、あるいは、ますらおぶりの作品なんだってあげている、みなさんも教科書かなんかで、でてきたかもしれないですけど、
ものゝふの 矢並つくろふ 籠手の上に
霰たばしる 那須の篠原
っていう作品があるんですけど、なぜ、こういうことをいうかっていうと、この「ものゝふの 矢並つくろふ」っていうんだから、これは、結局、いかように考えても、実朝の部下の武士たちが、那須の原っぱで、軍事演習をするっていうような、そういうところをみて、いわば、それを見ていて、それで、見ていたときの作品を、つまり、見ていたときのことを作品にしたっていうふうにいえるわけです。
つまり、これはまったく、京都ではつくれないので、つまり、関東でしかつくれないという意味で、主題的には、鎌倉幕府的なんですけど、こういう作品でいいますと、たとえば、「ものゝふの 矢並つくろふ 籠手の上に 霰たばしる 那須の篠原」っていった場合に、さかんに、実朝は好きじゃなかったかもしれないけど、殺伐な軍事演習をやっている、自分の部下の兵隊たち、武士たちなんですけど、そういうのをみてて、ちっとも感情が湧いていないわけです。
つまり、よくやっているぞって思っていないわけで、また、これは、おれは嫌いだとも思ってもいないわけです。つまり、非常に冷静に、そういう鎧兜を着て、原っぱでなんかやっているやつのところに、あられが降ってきて、バタバタ跳ねているっていう、ただそれだけなんです。
つまり、非常に、本来なら身近であり、自分は統率者なんですから、名目だけとはいえ、統率者なんですから、もうすこし、なんか考えがあってもよかろうじゃないかっていうようなこともありますし、また、もともとあんまり、殺伐なことが好きでないっていうふうに、伝説ではいわれていますから、そうだとすれば、おもしろくないと思っている、平和主義者なら、おもしろくないなってことが象徴的にでも、こういうあれにあらわれてもいいわけですけど、そういうことは、両方ともないわけなんです。ただ、非常に、ぼんやりか、よくか、わかりませんけど、それはそういうふうにみえて、そういうふうにあるんだっていうふうにみえて、そういうふうになっているわけなんです。
そうしますと、賀茂真淵のように、つまり、万葉学者ですから、そうすると、ひいきの引き倒しで、これは、万葉における叙景歌っていうような、つまり、自然詠ですよね、叙景歌のもっている、ある客観性なんです、ある客観描写なんです。つまり、それと非常に似ているとか、それとおんなじにできている、つまり、これは、万葉調の、そういうふうにできているっていうふうに、そういうふうに解釈するわけです。したくなるわけです。
そういうことは、けっして不都合ではないでしょうけど、それは、まったく違うのです。つまり、万葉における叙景歌っていうのは、わりあいに、単純率直だけども、それは、ある意味で、作者の心の、いわば情緒なんですけど、情緒っていうものが、わりあいに単純で深い掘り方で、そういう叙景歌のなかにでてくるわけなんですけど、自然に、つまり、叙景ばっかりやっているようで、そういう叙情的な心情のうねりみたいのが、非常にはっきりとでてくるんですけど、もっとさかのぼって、『古事記』や『日本書紀』の歌謡のなかにでてくる、短歌形式の叙景歌っていうのは、さきほどいいましたように、メタファーなんです。つまり、作者のメタファーだっていう意味合いを完全にもっているわけです。
そういうものと、ほんとうは、たとえば、いま申し上げました、みなさんのあれでいえば、30なんですけど、つまり、そういう作品とは、ほんとうは、くらべることはできないのです。似ているようで、うんと違うのです。それは、客観描写ではないのです。つまり、客観描写のなかに、非常に情緒が、あるいは、心情が、非常に率直に深い掘り方で、ひとはけででているっていうような、そういうものではないのです。
つまり、そういう意味合いでは、非常に冷静でありますし、また、非常に事実そのものっていうふうに、それが描かれているだけで、もうすこし冷静であれば、ニヒリズムってことになるわけでしょうけど、虚無の心ってことになるわけですけど、虚無の心にはなってないです。
つまり、非常に事実として、自分の心が有り、自分の心を、自分で事実として取り出すことができる、ひとつの内面性があり、そして、対象物を、対象の具体的な姿ではなくて、客観的な姿ではなくて、事実の次元に対象物をもってくるっていうような、見るっていうような、そういう心のはたらきがあって、そういうものが過不足なく結びついているっていうのが、この種のあれなんです。
だから、それは、けっして、万葉調でもなければ、主題的に勇ましそうな主題が歌われているから、ますらおぶりだっていうような、そういうことでもないのです。だから、そういう真淵から、子規まで、あるいは、アララギの歌人っていうのも、アララギの歌人流に、実相観入っていうような意味合いでまた、自分のほうに引き寄せたんでしょうけど、そういう意味合いよりも、もっと複雑といえば複雑ですし、もっと違うといえば違うわけです。
だから、そこのところは、実朝の作品の評価の問題になってくるわけですけど、ぼくはすくなくとも、そういうふうに考えるのが、いちばんいいので、万葉調だとか、客観描写だとかいうようなことは、言わないほうがよろしいのではないかっていうふうに思われます。
つまり、そういうところには、あんまり、実朝の詩人としてのハートっていいますか、心っていうのは、まだないんだっていうこと、つまり、いってみれば、自分の心を、あたかも事実そのものであるかのように、眺めうる自分っていうようなものが、実朝の詩人としての思想でありましょうし、また、詩人としての孤独でありましょうし、また、幕府の、いわば、象徴的統率者としての習い覚えた、心のはたらかせ方であろうっていうふうに考えるのが、いちばんよろしいと思います。
それらの作品を除けば、もうひとつの、古今、新古今ぶりの叙景歌があるわけですけど、その実朝の特徴っていうのは、実朝にとっては、ある程度、詩人的本質でありますから、いわば、叙景歌以外のところにも、そういうものがでてくるわけです。それが、いわば実朝の、最後の秀作っていいますか、傑作っていうようなものの根底をなしている問題です。
だから、たとえば、みなさんの手元のあれでは、49の誰でもが知っているような、
箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や
沖の小島に 波のよるみゆ
っていうような作品がありますけど、こういうようなものは、いわば、万葉調の、いわば叙景のなかに、たとえば、心情の問題、つまり、情緒の問題、心の動きの問題ってものを、サッと自然に入れちゃっている、つまり、自然詠そのもののなかに、すでに、そのものが情緒をなしているっていうような、そういう万葉的な方向の典型的なものなので、こういうものだけをあげていったところで、実朝は、万葉調の詩人であるっていうふうな評価に落ち着いていったんだと思いますけど、だけど、みなさんのところにもありますように、このもと歌っていうのは、
逢坂を 打出てみれば 淡海の海
白ゆふ花に 浪たちわたる
っていうんですけど、つまり、これにくらべると、まるで違うんです。
つまり、なんとなく、しらべ、それから、「打出てみれば」っていうのと、「越えくれば」っていうのは、伊豆の海をみているこっちでは、淡海の海をみているっていうような、そういうみている位相っていうのが、「箱根路を わが越えくれば」っていうのと、「逢坂を 打出てみれば」っていうのは、本歌をとって、同じ位相で、主題である海をみる位相っていうのを導入してきているわけですけど、そういう意味で似ていますし、それから、しらべっていいますか、音数律の構成の仕方っていうのでも、たいへんよく似ているわけですけど、たいへんよく真似されているわけですけれども、ほんとうは、まるで違うので、なにが違うかっていうと、歌っている作者の心情なんですけど、それが、いま申し上げましたように、打ち出された心情、それ自体が、やっぱり、事実としての心情とか、感情とか、情緒みたいなものであって、作品そのもののなかに、たとえば、本歌のように、一種の恋歌なんだと思うんですけど、つまり、恋人に会いにいって、あるところまで出てきてみたら、海に白い浜木綿の花のように、波が、花のように波が立ってたことになるわけでしょうけれど、そこで象徴されてでてくる、自然詠そのもののなかにでてくる情緒ってものは、一種の、いわば恋歌だから、そういう意味のはずみだと思うんですけど、心のはずみだと思うんですけど、実朝の場合の、箱根路を越えくればっていう場合には、そういう心のはずみとか、驚きとかいうものよりも、やはり依然として、わりあいに、冷静に事実としての自分の心が目の前に展開した、伊豆の海と島の風景をみているという位相のなかに、わりあいに冷静に、事実としての心が投げだされているというふうに読めるわけです。
だから、ほんとうは、これは、万葉集をもと歌としていますし、また、いろいろな描写の位相としても、音数律の構成としても、ほんとうに、万葉調っていうのが、真似られていないことはないのですけれど、まるで、それをつくっている詩人の心っていうのは違いますし、また、心のはたらかせ方っていうものも違うんだっていうふうにいえると思います。
つまり、そういう意味でみていきますと、あんまり、万葉調なんだっていうふうにいったらいけないんだと思います。つまり、もと歌にくらべれば、やはり、かなり複雑で、修練を得た心っていうものがでてくるわけです。それは、たとえば、63でもおんなじです。
大海の 磯もとゞろに よする波
われてくだけて 裂けて散るかも
っていうような歌があるんですけど、真淵からはじまって、子規に至るまで、そういう評価の仕方っていうのは、こういう歌が、非常に勇壮な歌だっていうわけで、そんなことはないと思います。
つまり、わりあいに冷静なわけです。「大海の 磯もとゞろに よする波 われてくだけて 裂けて散るかも」っていうのは、ものすごく冷静でして、事実を事実としてみる心っていうようなものが、そこにあるのであって、けっして、寄せてきては散っている波がしらっていうのをみて、自然描写をして、その自然描写のなかに、自分の感情の動きっていうのが自然に入っていくっていうような、そういう方法をとっているのではなくて、いってみれば、きわめて分析的でもありますし、きわめて意識的でもありますし、また、事実だから、もう一歩、心が離れていれば、「われてくだけて 裂けて散るかも」なんていうのは、ようするに、ニヒリズムの歌だっていうふうにもいえるほど、わりあいに、事実なんかと、繰り返し、繰り返し、べつに、感情の動きそのものじゃなくて、事実として取り出しうる自分の心の動きっていうのだけが、こういう言葉のなかにでてきているっていうふうにいえば、そういったほうがいいと思いますし、また、みなさんのほうでいえば、69の
玉くしげ 箱根の海は けゝれあれや
二山にかけて 何かたゆたふ
っていう、たいへん、これもすぐれた歌ですけど、そんなのありますけど、つまり、これだってそうなんです。
つまり、しらべからいうと、音数律の構成のされ方からいうと、万葉調だっていって、けっして、悪くはないし、そのとおり、意識のなかでは、万葉集っていうのは、もとにあったかっていうふうにいえると思いますけれども、ここでの心の動き方っていうのも、けっして、だからどうなんだっていうような、だから、実朝の心は、こういう自然詠のなかに、自然をみるなかに、揺れ動いているっていうような、そんなことはないのであって、それよりも、それをみている自分を、これは、芦ノ湖のことでしょうけど、芦ノ湖の湖をみていて、むこうに山が、うしろのほうに二つみえるっていうような、そういうことなんだと思うんですけど、それを、みている自分を、いわば事実として、自分が取り出すっていうような、そういう心のはたらきっていうのが、根本にあるので、けっして、単なる万葉流の自然詠そのもののなかに、率直な感銘とか、感動とか、心の動きっていうのは、描かれて、ひとはけに入り込んでいるっていうような、そういう作品とは違うわけです。
だから、そういうふうに考えていきますと、主題としては、そういう心の動き方っていうのは、どんどん極端にいきうるわけで、またこれも、実朝以外にはつくれないという意味では、実朝の、最もすぐれた作品というふうに呼ぶほかはないのですけど、たとえば、みなさんのでは71の
物いはぬ 四方のけだもの すらだにも
哀れなるかな 親の子を思ふ
っていう作品とか、たとえば、69の
とにかくに あな定めなき 世中や
喜ぶものあれば わぶるものあり
っていうような、これもたいへんいい作品だと思います。つまり、すぐれた作品のひとつだと思いますけれども、だけれど、とにかく、喜ぶものあり、わぶるものありっていう、それがどうしたんだって言いたいくらいなもので、だから、どうだってことはないわけです。
だから、自分はどう思っているっていうことは、もちろんあるのですけども、そういうことが詩としてはないのです。つまり、けっして、詩としては、そういうことは取り出されていないのです。だから、そういうことは、世の中さだめないって思ってるのが、ほんとうであって、思ってるのがほんとうなんだけど、作品のなかで、それをだすときには、もうすこし、それが屈折してでてくるわけで、そうすると、ただ事実として、世の中は定めないものだっていうことで、喜ぶやつもいれば、悲しむやつもいるよっていうふうに、そういうふうにでてくるわけです。
だから、この種の、非常に観念的な歌なんですけど、つまり、観念的な主題を観念的に歌っているんですけど、こういうのはやっぱり、わりあいに、実朝の特徴であるし、また、すぐれた作品だっていうことができるわけですけど、この種の作品のなかでも、もともと心がでてこなきゃ、歌にもならないっていうような、つまり、定家流の美学でいえば、こんなものは、心を歌いながら、心もでていないじゃないか、つまり、ナンセンスだってことになるわけですけど、しかし、もうすこし、それを考えてみれば、心がでていないってことじゃなくて、観念を主題にしながら、観念をあたかも、事実そのもののように取り出しているっていうふうに、そういうふうにしか、自分の心っていうものを取り出せない、ひとりの詩人っていうものを、イメージとして思い描いてみれば、それはまさに、実朝の人間像であり、また、そのなかに意味をつければ、実朝の思想ってものは、そこにあるんだっていうふうにいうことができるわけです。
だから、けっして、つまらない歌ではないのですけど、さりとて、そんなにわかりやすい歌ではないので、つまり、なに、こんなこと言っておもしろいのかっていう意味では、あんまりわかりやすい歌ではないのですけど、やっぱり、実朝しかつくれない歌だという意味でも、また、こういうような観念的な歌のなかにある心の動き方っていいますか、あり方っていうのから考えても、やはり、いい歌っていうふうにいうほかは、やっぱり、ないと思います。やっぱり、いいんだと思います。
もうひとつぐらい、ついでに挙げてみますと、たとえば、59っていうのは、そうですけど、これは、年寄りの坊さんが、自分のところに訪ねてきたってことで、ついでに歌ったんだと思いますけど、
道とほし 腰は二重に かゞまれり
杖にすがりて こゝまでも来る
っていう、つまり、一体なんだっていう、もちろん、叙景歌でもなければ、叙事歌でもないんです。叙事歌っていう場合には、物語性っていうのを想定したうえで、叙事歌とか、叙事詩っていう概念が成り立ちますから、つまり、これは、叙事詩でもなければ、抒情詩でもない、ようするに、事実じゃないかっていう、事実そのものじゃないかってこと、つまり、遠いところから、腰をまげて、杖にすがってきたって言ってるんだから、事実そのものじゃないかってことで、だから、これもすぐれた作品だと思いますけれど、これをすぐれた作品というためには、どういうことがいるかっていうと、つまり、まさに、現代っていうものがいるわけであって、つまり、中世の詩の美学からは、けっして、すぐれたものだっていうふうにいえないと思いますし、そういう評価は成り立たないと思います。
つまり、中世の美学とは、もっと違うのであって、年寄りが腰を二重にまげて、杖にすがって、ここまできたっていうのが、どうしてこれが詩なんだっていう、ただ小学生がそういうことを作文に書いたのとおんなじじゃないかってなるわけですけど、やっぱり、すぐれた作品だといえるのです。
実朝の作品のなかで、すぐれた作品といえるのですけど、なにがすぐれて、どこがすぐれているかっていうふうに考えていきますと、万葉流の美学でも、中世の美学の水準でも、また近世の真淵系統の評価の仕方でも、やっぱり、つかまってこないのであって、これは、あたかも、年とった坊さんが、自分を遠いところから、杖にすがって訪ねてきたってことで、たとえば、その老人に対して、あわれとか、いたわりとか、あわれみとか、ぜんぶ、そういう感情を人間として抱いたにちがいないのですけれど、抱いたそういうものが、いったん、実朝の作品のなかにでてくる場合には、そういうような心情の動きっていうものは、全部なくなってしまうわけです。
そして、あたかも、そういうふうに杖にすがって、自分のところにきたっていうような、そういう事実そのもののように、そのものを、ただそういうふうに言ってるだけじゃないかっていうふうにしか、そういう場合も描けないのです。
つまり、自分の心がたとえば、すくなくとも、詩の中に表現しようとするときには、いわば、自分の心でさえも、自分で、事実そのものなんだっていうふうに取りだす以外に、取り出しえなかったっていうふうな、そういう実朝の詩の創作方法にあらわれる、実朝の思想っていいますか、そういうものを考えていけば、あるいは、この種の、観念的なことがらを、観念的なことがらとして歌い、また、こういう事実、こういう事件があったってことを、事件そのものとして歌っているにすぎないっていうふうに思われる、実朝の歌っていうもののなかに、非常に極端におしつめられた、実朝の詩の方法と、それからまた、実朝の詩人としてもっている心っていいますか、思想といいますか、そういうものの本質っていうものは、つかみだすことができるんじゃないかって思います。
そのような評価の仕方っていうのは、依然として、現在、あるいは、現代に属するわけです。それはやっぱり、現代ってものが、古典詩、あるいは、古典の詩人っていうものを、どのようなかたちで生かし得るか、つまり、どのようなかたちで評価しうるかって問題として、まさに、現在的に問題として問われるっていうような、そういう性質のものだと思います。
だから、そういう意味合いでは、たとえば、古典詩人としての実朝なら実朝っていうもの、それから、古典詩としての短歌形式っていうようなもの、そういうものの評価、位置づけってものは、けっして、完成されているわけでもなければ、完了されるわけでもなく、また、古典というものは、まさに、そういう意味では、完了しない評価っていうものを、たえず、現代的にっていいますか、時代的に訴え続けるものを古典というふうに指すんだっていうふうにいっていいくらいなので、そのような意味あいでの、実朝の評価っていうのは、依然として、これからのことに属するんじゃないかって思われます。
実朝の一般的に提示している問題っていうのは、そのような点で要約すれば、詩の問題としては、考えうるのではないか、つまり、考え尽せるのではないかっていうふうに思われます。
実朝は28歳で殺されるわけですけど、暗殺されるわけで、前年に、たとえば、しきりに、位階制の位階勲等の昇進を求めるわけです。結局、最後に、右大臣だってことになりまして、建保6年の12月になって、右大臣に任ずるっていう、辞令かなんかがきて、翌年のはやくに、右大臣になったことを契機とする拝賀の日に、頼家の子どもですから、甥にあたる公暁に暗殺されるわけです。
それで、そのときの描写は、『吾妻鏡』にもありますし、また、『北条九代記』にもありますし、それから、慈円の『愚管抄』にもありますし、どこにでもあるわけですけど、結局、拝賀の途中のところで、ふいに殺されて、不意打ちにでてこられて、殺されるわけです。結局、京都からも参賀のためってことで、人が来るわけです。それから、鎌倉の文士もたくさん遠巻きに見物しているし、それから、行列も麗々しくってかたちで、鶴岡八幡へあれがあったのが悪いわけですけど、つまり、きわめて突然にでてきて、二太刀ぐらいで、首を切られるっていうようなことになって、それで、みんなあんまり気がつかないで、気がついてから、上へ下への大騒ぎになったっていうような描写になっています。
それで、結局、そういうことは、どうでもいいといえば、いいわけですけど、暗殺の事情ってことは、ある程度あれがあるわけで、たとえば、そのとき、北条義時、つまり、北条時政の子ども、つまり、二代目なんですけど、つまり、北条義時が太刀を持っていく役割だったっていうふうになっているわけですけど、そうしといて、途中まできたら、おれ気分悪いっていう、つまり、心身混乱、錯乱をきたしたってことで、代わってくれって言って、文章博士ってことになっていますけど、源仲章っていうのがいるんですけど、それが、義時の代わりに、太刀持ちみたいのをやる。
で、公暁は、もともと自分の父親である頼家を、無理やり、将軍職をやめさせておいて、そして、こいつを暗殺した張本人っていうのは、北条氏だって思っていたわけですから、実朝を殺して、それから、太刀持ちをしていた仲章を殺してしまうわけです。
だから、両方とも親の仇だってことになるわけですけど、つまり、「親の仇だ」と叫んだと書いてあるのもありますし、書いてないのもありますけど、つまり、そういうふうにやって、二人とも殺そうと思ったわけです。ところが、義時のほうは、途中で頭が痛くなったってことで、気分が悪いってことで、代わってもらったために、仲章のほうが殺されるわけです。
それで、公暁は結局、実朝の首をもって、自分の官舎っていいますか、鶴岡八幡の別当をしていたわけですから、それを引き上げていって、それで、三浦党の三浦義村ですけど、それに連絡をとるわけです。結局、人をやって連絡をとって、おれは関東将軍を殺したと、いまや将軍はないと、つまり、そうすると、これに代わる者は、自分よりほかにないと、だから、そういうことで、事態を収拾せよって言ってあるわけです。
ところが、その義村のほうは、実朝が殺されたっていうのを聞いて、義時に相談をかけるわけです。どうしたらいいか、どうしたものだろうかっていうふうに、相談をかけるわけです。それで、結局、二人で殺しちゃえってことになるんです。つまり、将軍を殺したから、けしからんってことで、殺しちゃえってことになって、それで、公暁のほうでは、義村からの使いが、またなんか言ってくるのを待っているわけですけど、なかなかこないので、自分で義村の屋敷へ出向こうとして、行く途中で、あるいは、屋敷のところへ行ってからっていうのもありますけど、つまり、殺されてしまうわけです。殺されちゃうわけです。
だから、これはわからないので、殺されてしまった。つまり、そういうことによって、たとえば、頼朝の源氏の系統っていうのは、ぜんぶ死んでしまうわけで、つまり、相互に暗殺したり、されたりっていうようなことで、終いにとうとうひとりもいなくなっちゃったってことなんですけど、いったいひとりもいなくなって、誰が得したんだってことになります。
そうしますと、結局、そういうことは、小説家の領域ですから、べつにあれはないんですけど、さしてなんかいうつもりはないんですけど、公暁が実朝を暗殺するに際しては、あらかじめ、三浦義村っていう者、つまり、三浦党っていうのは、北条氏ほどではないけど、わりあいに、関東で勢力のある武士団ですから、三浦義村と、あらかじめ、殺した暁には、おれのほうにっていう、あらかじめ、そういう約定が成り立っていて、殺してから、使いを公卿のほうでやったっていうふうにも受け取れるわけです。
それから、義時のほうも、あんまり、そばまできて、頭が痛くなったとか、気分が悪くなったから代わってくれっていうのは、ちょっと合点がいかんっていうのがあるわけです。つまり、そうだとしたらば、やっぱり、そういうこともまた、今度は北条氏自体も、実朝暗殺については、あらかじめ知ってたんじゃないかっていうふうなこともまた、いえなくはないのです。
そうしといて、たとえば、公暁が実朝の首をはねてから、義村のところへいったと、義村が約束を破ったのか、怖くなったのか、また、逆に、もともとそういうことになっていたのかわかりませんけども、義時に相談してっていうような、相談して、事後の収拾策を講ずるっていうような、そういうやり方も合点がいかんということになって、結局、なにがなんであろうと、ようするに、源氏系統の将軍家ってものは、実朝を最後として、絶滅すればよかったってことだけは確かなんです。よかったっていうふうに、すくなくとも、武士団の内部では考えられていただろうってことだけは、非常に確かなことだと思います。
そういうふうに考えられていたってことを、実朝自身が知らなかったっていうふうに考えるのは、やっぱり、たいへん常識に反するのであって、非常に鋭敏な詩人っていうようなことを考えまして、そういうことは重々、時間の問題だとか、時期の問題だってことは、重々、知っていただろうっていうふうに考えたほうが妥当だと思います。
だから、前年にしきりに自分のほうから催促しても、位階勲等が欲しくて、さかんにもらうわけです。つまり、そういうことも、高い墓場にいく、行き掛けの駄賃みたいなもので、そういうことを、十分、自分でも、なんとなく、あるいは、非常に鋭敏なかたちで知っていたっていうふうに考えれば、わりあいに、理解がしやすい行為だと思えます。
つまり、そういうふうに考えると、理解されなくもない、理解できなくもないっていうふうに、考えることができると思います。そういう段の問題になりますと、『吾妻鏡』にしろ、なんにしろ、あんまり、優秀な歴史書じゃないですから、ことごとく、あんまり、本気じゃあ信じられないっていうようなことしか書いてありません。
だから、鶴岡八幡に参賀にいく前に奇怪な現象が起こったり、鳩がどうしたとか、変な声で鳴いたとか、なんか知らないけど、そういうふうなことが書いてありますけど、全然あてにできないっていうようなことですけども、ただ、予感として、実朝自身が、自分の運命もきわまるであろうってことを、予感として知っていたっていうふうに、知らないことはなかったはずだっていうふうに考えれば、だいたい妥当な、死に方についての妥当なあれがでてくるんじゃないかなっていうふうに思われます。
実朝は、自分で、『吾妻鏡』によりますと、自分で、今日死ぬっていう予感が、自分があったものだから、辞世の歌かなんか、つくったことになっているわけです。その辞世の歌は、
出でていなば 主なき宿と 成りぬとも
軒端の梅よ 春をわするな
っていう辞世を残していることになっているわけです。小林秀雄なんかの実朝論をみますと、なんかふざけてるってことで、つまり、自分の死を予感した天才詩人の歌に、およそ似つかわしくない、辞世の歌みたいなのを、あらかじめつくって出かけたなんて、ちょっとふざけた話だっていうような、つまり、こんなものは全然あてにならないっていうふうなことなんですけど、そういうことを書いていますけど、これは、たしかにあてにならないので、それほど、凶行されるなんてことを事実として、意識していた、知っていたなんていうあれはちょっと、実朝自身にとっては、考えにくいと思います。
ただ、予感としては、だんだんなんとなく、息苦しくなってきたなっていうのは、つまり、ひとつの予感としては、実朝の晩年にあったって考えることは、まあ、まちがいではないんじゃないかっていうふうにいえるにとどまると思います。
そして、この辞世の歌っていうのは、ぼくの調べた限りでは、『新古今集』の式子内親王の歌から取ったものだと思います。つまり、
ながめつる けふはむかしに なりぬとも
軒ばの梅は われをわするな
っていうのなんですけど、つまり、それを取ったものだと思います。取ったものだっていうのは、誰が取ったかはわかりません。つまり、『吾妻鏡』の作者といいますか、編集者といいますか、そういう者が、創作してつくったのかもしれませんし、あるいは、実朝自身が新古今をもとにして、稽古した時期っていうのはありますから、その頃つくった作品があって、それをそのままか、あるいは、すこし色を付けてか、つまり、すこし直してか、ここへはめこんだって考えるのが、妥当であると思います。
詩人としての実朝が、ほんとうによみがえった、はじめっていうのは、江戸時代であって、つまり、芭蕉がいちばん、はじめなんです。芭蕉の評価のあとに、真淵系統の国学者の評価っていうので、実朝の詩人としての価値っていうのは高められた、つまり、よみがえってきたっていうふうにいうことができるわけです。
ただ、実朝は詩人として、すぐれた詩人だってことは、いうことができますけど、よく生きた詩人であるかどうかってことは、いうことができないと思います。つまり、それよりも、よく死んだってこと、つまり、死に方を心得てた、人間としてもそうですし、また、詩としても死に方を心得てたっていう意味では、よくそういうことを知っていた。詩人だと思います。
だから、当時の常識でいえば、短歌形式の完成度としては、崩壊寸前の、つまり、最後の完成された姿を十分に歌いきっている作品を残しているという、そういう意味でも、よく死にきった詩人ですし、また、将軍職としても、幕府の象徴的な統領としても、当初、鎌倉幕府の成立自体が、律令制王権とのある程度、妥協のもとに成立したと考えれば、その妥協が必然的に転がっていく果ては、ついに、実朝によってきわまったっていうことで、完全に、律令制王権の内部に、心情的、または、感覚的に、あるいは、位階勲等として、つまり、位階制としても、完全に、王権内部の秩序のなかに、必然的にすべりこんでいってしまう、すべりこんでいってしまうってことによって、もし、時代そのものが、暗殺者なのであって、公暁はたんに、時代に操られた操り人形にすぎないんだっていうふうに、かりにいってみますと、時代によって暗殺されるべき、必然っていうものを、実朝自身が象徴して、極限まで象徴して死んだっていうふうにいうことができます。
そして、実朝の死後、結局、武士団っていうもの、つまり、鎌倉幕府を中心に結集した武士団っていうものは、いちおう、名目的には、将軍職っていうものを京都から連れてきていますけど、すでにそのときは、実朝がもっていたような、象徴的意味合いすらもないってことで、北条氏を中心とする武士団によって、幕府が統括されるってことになってきまして、これが、律令制王権との武力的衝突、対立っていうようなものを公然とひきおこしていくわけです。
その公然とひきおこしていくって場合に、主役をはたしたのは、やっぱり、北条義時とか、泰時とか、そういう人たちが主役をはたしたので、これは、武士団の統率者としても、時代の象徴としても、かなりな手腕と見識をもった人物だったっていうふうにいうことができます。
つまり、実朝の律令制王権との妥協の最後の極点っていうのは、そういうものがいくところまでいって、実朝自身とともに、滅んだとき、つまり、滅亡したときに、北条氏を中心として、武士団が公然と、律令制王権と対立、抗争時代に入るっていうような、そういうようなことになってくるわけです。
その意味で、時代を実朝の暗殺者とすれば、まことに実朝の暗殺のされ方っていうものは、見事だっていうほかはないと思います。これが、ひとりのすぐれた詩人に象徴されたってこともまた、たいへんめずらしい例だっていうふうにいえると思います。
そこから、なにが汲み取れるかってことは、各人各様それぞれであってよろしいわけですけども、ここにひとりの詩人が生んだ詩作品が残されていると、これは、どんな時代に、どんな個性が、どのような方法で生みだして、そして、その個性ってものは、どのように滅びるかっていうような、それからまた、その詩作品っていうのは、どのように滅び、そして、どのようなよみがえり方をされるかってことを、考えていく場合には、実朝自体が、けっして、いまに至っても、非常に、正解されている、つまり、正しく解釈されている、理解されているっていうふうにはいえないわけですけれども、ひとりのすぐれた古典詩人の生き方と死に方、それから、古典の詩作品の生き方とよみがえり方っていうような問題を象徴しているという意味で、実朝をとりあげてみたわけです。
テキスト化協力:ぱんつさま