今日は、共同体論っていうことで、話をしていって、いま、三島さんが言われたようなことと、どこかに接合できればいいというふうに思うんですけど、あるいは、接合できないかもしれないわけです。
共同体ってものの論議については、それ自体のなかに、ひとつの歴史がありまして、さまざまな考え方っていうのが展開されているわけです。そういうことは、ここで必要なのか、必要でないのか、いまのお話を聞いててもよくわかんないのであるかもしれないです。
こういうことがあるのです、つまり、世界のいたるところの地域で、いたるところの、それぞれのかたちで、国家なり、共同体なりが存在する。それは、もし、ただ存在するってことだけでいるならば、ちょっと地域により、それから、歴史により、言語により、文化により、個々様々みんな違うわけで、それじゃあぜんぶ違うんだってことで、問題を始めていきますと、つまり、到達点を想定すると、なかなか到達しにくいということがありまして、共同体ってものが、結局いくつかのかたちに分けられるという考え、そういう論議の蓄積っていうのが、それなりにあるわけです。
たとえば、マルクス流にいわせると、アジア的共同体、それから、古典古代的共同体とか、あるいは、ゲルマン的共同体とかいうこと、そういうことで、共同体のあるタイプっていうもの、ある型っていうもの、ある分類っていうものをやっているわけです。
その分類をめぐって、いわば共同体についての論議っていうのは、まず、わが国でも、戦前からいいますと、四,五十年の歴史っていうのはあるわけです。
問題なのは、たとえば、なぜ、アジア的共同体とか、古典古代的共同体とか、ゲルマン的共同体とかっていうような、そういう分け方が、とにかく成り立ったかっていいますと、これは、ひとつは、分け方の基準っていうのがあるわけです。その基準っていうものをどこに設けるかっていうことで、ひとつ決まっていくと思います。
それから、もうひとつは、そこで、アジア的共同体とか、古典古代共同体とか、ゲルマン的共同体とかっていう場合に、あまり、アジア的共同体、あるいは、ゲルマン的共同体っていうような、名前がつけられているような意味で、地域的な特質というふうに考えますと、たいへん分類っていうのもまた、分類の仕方自体がはみ出してくると、つまり、共同体の問題の所在をつきとめるための類型ってものが、じつは無意味に過ぎないってことになるわけですけど、おそらく、この場合に、アジア的、あるいは、古典古代的、あるいは、ゲルマン的っていうふうに類型づけている場合には、それはひとつの地域的な概念でもありますけれども、同時に、それは時間的な概念でもある。つまり、歴史的な概念でもある。それで、地域的な概念でもあるけど、歴史的な概念としても、それを使えるっていうような意味合いで、そういうレベルで、共同体ってものを類型づけると、これは、ある意味での普遍性、あるいは、一般性っていうものをもちうるっていうふうに考えられます。
それで、そういう普遍性っていうのをよく見てみると、マルクスなんかの非常に大きな特徴として、非常に具体的なことを言っているように、あるいは、具体的な名称をかぶせているように見えて、じつは、ある抽象性のレベルをもっていて、それは具体的なモデルだけではなく、また、地域的なレベルだけではなくて、歴史的なレベルの類型づけとしても使えるというふうに、きちっとなっています。
その場合に、それじゃあ、個々具体的に、それをあたってみた場合に、そういう類型づけっていうのは成り立たないじゃないかっていうようなことが、かならず、ありうるわけですけども。つまり、そういう具体的な類型っていうと、例外ってものがありうるんじゃないかっていう問題について、あえて言及しようとしない、つまり、あえて突っ込もうとしないっていうのがまた、マルクスなんかの、非常に特徴なわけです。
いってみれば、危なっかしいことは言わんということです。つまり、危なっかしいことを言わんってことは、ある類型づけが成立する範囲ってものがあるわけで、その守備範囲以上のところに、それを拡大していくと、それは、やっぱり、誤謬に転化してしまうっていうような、類型づけ自体が誤謬に転化してしまうってことがあるわけで、だから、そういう意味合いで、個々具体的な問題と、あえて接続しようとしないっていうのが、また、非常に特徴だっていうふうに思われます。
そういうふうに考えますと、主として、たとえば、日本なんかでの共同体論議っていうものは、どういうふうに歴史的になされてきたかっていうと、だいたいそういうマルクスの範疇をめぐって、それを個々具体的に、日本の歴史的な社会に適応したならば、それはどういうことになるかっていうようなところの問題意識がたくさんあって、また、それじゃあ、中国の社会にそれを適用したらどういうことになるのか、近東、つまり、古代オリエントみたいなところに、それを適用したらどういうことになるのかっていうような、そういうふうなかたちで、共同体論議っていうのがなされてきたっていうふうにおもわれます。
ぼくらが、共同体、あるいは、共同体論っていうものに、関心をもつとすると、ぼくらの関心からいきますと、そういう適用の仕方っていうのは、つまり、元来、非常にうまくないんだ、つまり、やり方がうまくないんだっていうふうに思われるのです。
それは、あえて、歴史的に、また地域的に、共同体を類型づけして、あえて、それを言及しないっていいますか、それ以上のことは言わないと、個々具体的なことは、あまり言わないっていうのを、わざわざそういうふうにしているのを、またひっぱってきて、個々具体的な社会、それから、具体的な歴史、具体的な言語、文化っていうのをもっているところに、それを適用してみて、あてはまるか、あてはまらないかっていうような、あてはまるとすれば、どこにあてはまるかっていうような、そういう問題意識の仕方っていうものを、第一に拒否したいっていうふうに考えるわけです。
どういうふうに、それを拒否するのかっていうようなことが、今度は問題になります。マルクスの、たとえば、そういう類型づけの仕方の基礎になっているのは、基準になっているものは、いわば、土地所有っていいますか、土地所有の問題が、だいたい類型づけの基礎になっているわけです。
わりあいに、自然経済的なところの問題というのが、類型づけの基礎になっているわけです。それが、どういう対応になっているかってことで、アジア的、あるいは、古典古代的、あるいは、ゲルマン的っていうふうに、類型づけをやっているわけです。
そこで、こちらが、その類型づけの仕方から、個々具体的な社会へ適用した場合に、それがどうなるかっていう、そういう問題意識を拒否するとすれば、どこで拒否できるかっていいますと、共同体っていうものの類型づけっていうものを、二様に、つまり、二重に考えなければいけないだろうということになるわけです。
それは、いわば、自然経済的な、あるいは、社会経済的な基準から、共同体ってものを類型づけていくっていう考え方と、それから、もうひとつは、そういうことではなくて、たとえば、マルクスのアジア的共同体っていう場合に、非常に大きな特徴のひとつとしてあげてあるんです。
共同体の個々の人間、あるいは、個々の成員っていいますか、メンバーっていうものは、土地の所有者、あるいは、私有者ではなくて、ただ保有しているのに過ぎない者であって、ほんとうの意味での共同体の所有者、土地所有者っていうのは、その共同体のいちばん上のところにまたがっている首長っていいますか、君主っていいますか、そういうものにあって、個々のメンバーっていうのは、いずれにせよ、土地の私有者じゃなくて、ただ保有しているだけだっていうことが、たとえば、アジア的共同体の特徴のひとつとしてあげられているわけですけども。
そういう場合に、そういう共同体は、たとえば、アジア的共同体、そういう範疇に入る共同体が国家をつくる場合に、国家のメンバーっていうのは、どういうことになるのかっていいますと、それは、土地の所有者っていうもの、あるいは、私有者ってものが、メンバーになるわけです。
ただ個々の土地を具体的に保有して、生きるから死ぬまで、保有してそこを耕してっていうような、そういう者は、国家のメンバーになっていかないので、その場合に、たとえば、アジア的共同体っていうような場合には、非常にそれが極端になっていくわけで、共同体の土地の保有者、つまり、大部分の保有者っていうのが、大部分の人間っていうのは、共同体のメンバーっていうものは、なんら国家を形成しないっていうこと、国家を形成するメンバーっていうのは、少なくても、土地の私有者であるってことが、非常に特徴になってくる。
それは、一握りの君主、または、その周辺のメンバーってことになっていくわけで、そこで国家が形成されると、そうすると、その共同体に対して、大部分のメンバーってものが、極端に、つまり、国家以外のところに、メンバーでありながら、国家以外のところに存在しているっていうような、つまり、国家を構成する要因になっていないってことがあります。
そうしますと、共同体って概念っていうものは、あるいは、つまり、土地所有っていうようなところを基準にして考えられた共同体っていう概念は、これは、つまり、国家っていう概念と、かならずしも、重ねて考えることができないという面がでてきます。
つまり、社会は、そのなかに存在する社会のメンバーの構成するものであり、そして、社会の上層に国家がありっていうふうな、そういう考え方からしていきますと、共同体の個々のメンバーでありながら、共同体の構成する国家に対しては、なんら関与していないっていうような、その関与の度合いっていうものがまったく違うと、そうすると、そういうことで、共同体はイコール国家であるとか、共同体は国家と同じ大きさであるとか、共同体は国家より、大きさが大きいとか、そういうことが、つまり、一義的にいえないってことがあるわけです。
だから、問題は、共同体っていう場合に、もしも、あてはめを拒否するとすれば、いちばん問題にしなければいけないのは、共同体が構成する国家、あるいは、国家の個々のメンバーでもいいんですけど、つまり、国家というものが、かならずしも、共同体っていう概念と一致しないってこと、つまり、かけ離れてしまうっていうところの問題が、非常に大きな問題になっていくっていうふうに思われます。
その場合に、たとえば、それを具体的に、わが国の場合でいいますと、二つぐらいに類型づけが、あるいは、複合づけができるのです。そのひとつの共同体っていうのは、ある共同体がありますと、その共同体の首長っていいますか、首長っていうものが、政治的な権力と、それから、同時に、祭祀権っていいますか、祭りをする権力、つまり、共同体の宗教的な象徴といいますか、あるいは、宗教的な実行者っていいますか、そういう権限っていうのを同時にもっているっていうような共同体の型っていうのが、日本の場合には考えられます。そうしますと、その場合に、非常に不可解なことが起こるのですけど、それは、共同体の首長が、行政権あるいは政治的権力っていうのをもって、同時に祭祀権といいますか、宗教的権力をもっている。
それで、そういう場合、宗教的権力をもっているという、宗教的な権力の所有者であるという面で、その所有者自体が、いわゆる生き神化されるっていうことがあるわけなんです。つまり、同時に共同体は、宗教的権力の所有者を、一個の生きた神として扱うってことがでてくるのです。
だから、そこでは、もし、共同体の宗教的な祭祀権っていいますか、そういうものが世襲されるかぎり、祭祀権をもっている首長ってものは、同時に、自分が祭祀を執り行う象徴であると同時に、自分自身が生き神化される、つまり、生き神として継承されていくっていうような、そういうタイプが生まれてくるのです。
それは、非常に奇妙なものであって、そうしますと、その生き神化された祭祀権の所有者ってものは、世襲されていくわけですけど、ただ、たとえば、実際的な祭式を執り行う場合に、つまり、部落祭祀っていう、あるいは、集落、共同体の祭りを行う場合には、だいたい、その生き神っていうものが、自分自身でじゃなくて、自分の代理者っていうものを、とにかく立てて、そして、代理者を共同体のすみずみまで派遣していって、そして、共同体の生産、農耕でもなんでもいいですけど、漁業でもいいですけど、生産を鼓舞していくっていうような、あるいは、生産がうまくいくようにっていう意味での、宗教的な意味づけをやっていくっていうような、その場合には、かならず、代理ってものが派遣されて、そうなるってことになっていくわけです。
そうすると、その代理っていうのは、どういうことになるかっていいますと、そういうふうに派遣されて、共同体の範囲をまわっているあいだは、生き神の代理ですから、生き神の象徴になっているわけですけど、場合によって、たとえば、それが終わってしまいますと、その代理者っていうのは密殺されてしまうってことがあるんです。
つまり、そういう代理者として祭りをおこなって、部落、あるいは、共同体をめぐっているあいだは、たしかに、生き神の代理としての宗教的儀式がありまして、そして、それをふきこまれているから、代理であっても生き神の象徴なんですけど、それが終わってしまうと、たとえば、極端な場合には、密殺されてしまうっていうようなことが起こりあるわけなんです。
そうしますと、密殺されるのは、今度は、具体的にいって嫌なものですから、今度は、代理人に選ばれることを拒否するわけです。拒否したいわけです。共同体の個々のメンバーがそれを拒否したいわけです。そういうときには、どうするかっていうと、たとえば、諸国を流れ歩いてくる浮浪者みたいのがいますと、浮浪者みたいのをとっつかまえてきて、それをあっためておきまして、それで、おまえのところから、とにかく生き神の代理をだせっていうふうに、共同体内の、あるいは、村落の命令がきますと、そのあたためておいた浮浪者を代理にだす、それが、生き神さまの代理になって、それで、行事が終わって密殺されたって、ぜんぜん響かないってことになるわけで、そういう今度は、知恵を働かすってことがあるわけです。
つまり、そういう形態っていうのが、ひとつの共同体の祭祀権っていうものと、それから、政治権ですけど、そういうものを、一人の首長が兼ね備えている場合には、そういうタイプがひとつあるわけなんです。
それから、もうひとつのタイプっていうものは、共同体の首長っていうものが、いま言いました場合には、共同体の首長であり、かつ、祭祀権の所有者であると、そして、かつ、生き神でもあるっていう、そういう人物は、たいてい男性なんですけど、もうひとつのタイプがあるんです。
もうひとつのタイプはなにかっていいますと、それは、共同体の首長ってやつは、宗教的な権力、あるいは、祭祀権の所有者であるってことなんです。そして、だいたい、その首長の肉親です。
その場合に、共同体の首長が祭祀権だけをもっている、あるいは、宗教権力だけをもっているっていう場合には、たいてい、それは女性の場合なんです。それに対して、肉親の、たとえば、弟であるとか、叔父であるとか、そういうものが、だいたい、政治的な権力の所有者になると、政治的な権力は、そういうところがふるう、それで、宗教的な権力だけが、共同体の首長によって執り行われると、そして、その場合、ふたつを結ぶものが、いわば、宗教と政治とを取り結ぶ、ひとつの構造になるわけで、その場合に、宗教権力をもっている最高首長っていうのは、たいてい女性であって、そして、その宗教的象徴、あるいは、託宣によって、実際的な共同体の政治権力を所有して、それをふるうっていうのは、たいてい、その肉親の男性であるわけです。つまり、弟であるとか、叔父であるとか、ある場合には、兄貴であるかもしれませんし、そういうものであるわけです。
けっして、そういう場合に、旦那ではない、つまり、夫ではないのです。夫っていうのは、そういう場合には、性的な対象としてしかなりません。存在するわけですけど、性的な対象としてしかならない。そういう形態っていうのが、共同体の政治的な形態として想定されます。
日本の非常に古い時代を想定しますと、だいたい、どうも考えてみると、その二つの形態ってものが、複合したり、錯合したりしているようにして、存在していると思います。この形態っていうのは、アジア的、あるいは、古典古代的、あるいは、ゲルマン的共同体っていうような、つまり、土地所有概念からいう、基準からいう、共同体の類型づけですけど、そういうところで、何に該当するのかってことを、たとえば、あてはめるとして規定するのは、たいへんむずかしいのです。むずかしいと思います。
だから、そこのところで、さまざまな混乱が起こり、さまざまな説が分かれてくるわけですけど、ぼくらは、そういうことは無意味であろうと考えます。つまり、権力っていうものは、物でありますけど、つまり、物質的な基礎でありますけど、同時に、それは観念的な形態です。だから、観念的な形態として扱えるものも、観念的な形態として扱わなければならないということがあります。だから、これは、そういう扱い方をしなければならないということがあります。
だから、まあ、とにかく、類型づけで、だいたい、その二つの複合したかたちっていうのが、わが国の言語とか、文化とか、歴史とかいうものの、そういう重荷みたいなものを背負った共同体というものの、わりあいに古いかたちのものを考えると、その二つの複合したかたちっていうものが考えられます。
それは、地域により、あるいは、歴史的違いによって、ある複合した一方のほうが強調されたり、他方のほうが強調されたり、あるいは、そういう度合いによって、様々でありえますけど、どうしても基本的に考えると、どうも、その二つの形態が考えられて、その複合というのがありうると思います。
たとえば、そういう問題で、いちばんおもしろい、つまり、興味深いのは、日本でも中世なんですけど、この中世ってやつを、たとえば、封建社会っていうふうに考えると、その封建社会なるものは、アジア的、あるいは、古典古代的、あるいは、ゲルマン的っていった場合の、そのゲルマン的共同体っていうものの概念にあてはまるかどうかっていうのも、また論議があります。
そういう論争っていうのもあるわけですけど、それは、ぼくは、あんまりおもしろくない論争だっていうふうに思います。日本の中世、つまり、いってみますと、武家ですけど、武家の権力が強くなっていったときに、武家の権力っていうのは、これは、当初、鎌倉の幕府に象徴されるわけですけど、そういうところで、どういう形態がとられたかっていうと、その基盤になるのは、やはり、いま言いました、複合的なってるっていいました、その一方のほうです。
つまり、共同体の首長っていうものが、政治的権力と、それから、祭祀権ってものを、同一の首長があわせて、それを兼ねるっていう形態が、だいたい、鎌倉幕府における創設期における、武家の権力が、だいたい構成してきた共同体の、非常に根本的なあり方なんです。
その場合に、政治的な権力と、それから、祭祀権とを兼ね備えているっていうような、そういうことを、実際に、具体的に、そういう形態をもちえたのは、幕府の創始者である頼朝だけであって、頼朝以降っていうのは、そういう形態にならなくて、たとえば、頼朝の息子の頼家の時代でも、実朝の時代でも、その場合には、行政権っていいますか、政治的権力は執権職っていうことになって、北条氏がふるうっていうことになって、だから、将軍職、つまり、征夷将軍っていう幕府の象徴っていうのは、ただ祭祀権を所有しているかたちに、たちまちのうちに風化してしまっているわけです。
そしてまた、たとえば、そういう源氏三代っていう将軍っていうのが、今度は、滅亡してしまった後では、京都から公家さんっていうのをもってきて、将軍職に据えるわけです。そして、その将軍職になってきますと、すでに、祭祀権の所有者としても、たんに、名目、あるいは、象徴に過ぎないので、それは、少しも、祭祀権としても、権力を所有している、あるいは、威力を所有しているようにはならなくなってしまっています。
そこのところの変質の仕方っていうのは、非常に激しいのですけど、しかし、当初に、日本の中世の共同体っていうものが、非常に興味深いのは、はじめて、そういう形態っていうものを具体的につくりだしたってことだと思います。
その場合に、具体的につくりだした場合に、なぜ、そういう祭祀権っていうものと、政治権力ってものを一身にあつめたっていう者が、共同体の首長でありうるというようなことが、どうしてでてきたかっていいますと、その基礎にはもちろん、武家階級における、一種の、専門家は惣領制っていうふうにいってますけど、惣領制っていう制度があるわけです。惣領制っていう制度は、まったく同じように、ある地域における、一門一族の共同体の首長っていうものは、もちろん、政治的権力をもちますし、同時に、祭祀的な権力をも、もってたわけです。そして、その両者を一身に兼ね備えている、そのかわりに、それは、けっして世襲ではないってことなんです。つまり、実力、それから、人格もあるんでしょうけど、実力、人格ともに、その共同体の最優秀者だっていうのが首長になって、そして、その首長は、政治的権力も、宗教的権力も同時に握っている、一人が握っているっていうかたちをとって、それを惣領制っていうふうに呼んでいます。
その場合に、その次の惣領制っていうのは、どういうふうに決まるかっていうと、それは、かならずしも、その惣領の血縁の嫡子が、それを握るのではなくて、また、次における共同体における、非常に優秀な実力、それから、器量ともに、最も優秀であると考えられる者を、前の惣領が指名するっていうようなかたちで、それが相続されるわけです。
そういう形態っていうのは、関東における武家階級っていうものがとっていた制度であって、それは、幕府が、それを、非常に拡大されたかたちで、そのかたちを、国家的規模で拡大したってことになると思います。
それじゃあ、そういうかたちの根源っていうのは、それはどこにあるかというふうに考えてみますと、それはやはり、さきほどいいました、たいへん古い時代からの祭祀権と、政治権力を一身に兼ね備えたのが共同体の首長であると、そして、それが同時に、生き神でもあるっていうような、そういう古いかたちが、その根底にあるというふうに考えられます。
それじゃあ、なぜ、そうなのかっていいますと、そういうかたちの共同体のあり方っていうものは、それは、わが国の場合では漁業です。つまり、漁業を、社会経済、あるいは、自然経済の基盤とした、そういう共同体の非常に古いかたちを遡りますと、そういうところで存在していた、共同体の政治的、あるいは、権力的形態ってものが、だいたいそういうものだと、つまり、関東の武家階級ってものがとった、そういう形態の、非常に、遡れる古いかたちだっていうふうに、だいたい、そういうふうに考えられると思います。
たとえば、そういう場合、土地所有云々っていうもので、基準にして分けられる、アジア的とか、古典古代的とか、ゲルマン的とかいう、そういう共同体の類型のされ方っていうものに、どうやってあてはまるんだっていうふうに考えますと、それは、なかなかあてはまりにくいのですけど、しかし、そういう場合に問題なのは、古代においては、社会経済、あるいは、自然経済の基礎にしたであろう共同体、つまり、これを古代的な言葉でいえば、海人部っていうわけですけど、その海人部っていうものの共同体っていうものは、漁業ばっかりやっていたかっていうとそうではないのです。
それは、陸地に住みついて、あるいは、もっと陸地から中のほうに入って、たとえば、山間部に入っていって、そして、そこで、農耕的な村落をかたちづくったっていうかたちが、いくらも考えられるわけです。
これは、たとえば、古代の海人部のひとつの共同体である安曇族なんていうものを考えますと、安曇族なんかっていうのは、現在だったらば、長野県なんかに安曇郡っていうのがありますけど、つまり、そういうところにまで入ってきて、それが農耕を営むなんていうような、そういうかたちの村落をつくっていくっていうようなことがあるんです。
だから、そういう意味合いで、土地所有を経済的基礎とする共同体の類型のさせ方っていうものと、そういうふうなかたちでは接合することができるのです。ただ、一般的に、これを接合しようとすると、たいへんにまちがってしまうのであって、漁業をやっているのは、いわば、漁業をやっているということで、自然経済、社会経済での漁業的形態を基礎としている、これは、農耕社会では、あんまり問題にならないというかたちで、問題がいなされてしまいます。
しかし、これは、地域により、風土により、歴史により、まったく、気候により、そういう共同体の形成の歴史的過程っていうのは違うのであって、わが国の場合だったら、そういう海人部みたいなものが、かならずしも、海辺に住まいして、漁業を自然経済の基礎にするみたいなかたちばかりがあるのではなく、それが、内陸のほうに深く入っていって、それで、農耕社会を形成する、あるいは、農耕的な共同体を形成するっていうようなことがあるのです。
だから、そういう場合、そういうことは、たとえば、細長い地域で、日本の形成された国家というものを考えてみますと、南北の方向性でいいますと、これは、かなりな大国なんですけど、こっちの東西の方向性でいいますと、すぐにつきぬけちゃって、ドブじゃない、水のなかに落っこっちゃう(会場笑)。そういう意味では、どこよりも小国であるっていうような、だけど、こっちのほうの長さでいうと、相当な大国であるっていうような、そういう非常に特殊な、奇妙なところでの共同体のあり方っていうものを、一般的な範疇から、すぐにあてはめようとすると、くだらない論争が起こるわけで、そういうことは、拒否しようとしますと、やっぱり、そういう海辺での共同体の構成のされ方っていうものと、内陸にちょっと入っていって、そこで、農耕的な共同体を形成した場合の、そういう形成のされ方での、共同体の権力の構成の仕方っていうものとを接続する問題、あるいは、接合せしめる観点っていうものが、そこに、当然、入ってこなければならないので、そういう問題を抜きにして、経済社会的構成っていうのは、非常に第一義的ものだからってところで、あてはめをやりますと、くだらない論争になって、くだらない問題意識になっていくわけで、そこのところが非常に問題になってくるわけです。
たとえば、そういう場合に、アジア的共同体っていう場合に、たとえば、マルクスは、インドや中国なんかを、わりあいに、モデルにして、そういうことを考えたわけですけど、じゃあ、日本なんかの場合に、アジア的っていった場合に、アジア的っていうのは、どういうことなんだっていうのが、今度は、問題になってきます。つまり、問題に、当然なってくるわけです。
この場合に、こういうことがあるのです。いまの祭祀権っていうことでいいますと、共同体における宗教的権力形態みたいなものでいいますと、はじめに、いまの海人部の、政治権力と宗教的権力を一身に、共同体の首長が兼ね備えているっていうような、そういうひとつのタイプでもって考えていきますと、それは、たとえば、海辺に村落をつくっている場合には、宗教っていうものは、当然、いわば民俗学者がいう海の宗教ってことになるわけです。海の神っていうことになるわけです。つまり、海の神に対する祭りっていうことになっていくわけです。
ところが、こういう部族、あるいは、種族っていうものが陸地のほうに入っていって、そこで、農村の、つまり、農耕の共同体ってものを形成したとします。そういう場合においては、宗教的に祀られる対象ってやつは、水の神です。つまり、農耕水利っていいますか、つまり、灌漑用水っていいますか、そういう意味での水の神ってことに、水神ってことになってくるわけです。
そうしますと、たとえば、これは、みなさんが実際にまわられると、すぐにわかると思うんですけど、非常に山奥の、たとえば、山間部の農村なんかで、わりあいに、周囲の影響を受けていないところで、水を祀っているっていうようなところとか、たとえば、家の軒のところに、水神の象徴みたいなものをあれしているところとか、河原に流水の門をあれしているところとか、そういうところっていうのは、いたるところに見つかるはずです。あるいは、水神を祀っているっていうのは、いたるところに見つかるはずです。ある場合には、水神っていうのが、龍神っていう、つまり、龍です。海龍の龍ですけど、龍神を祀っているっていうようなところもある。そういうところを見つけることもできるはずだと思います。
それは、なぜかっていいますと、そういう場合の水っていうのは、ほんとは海の水なんですけど、海の神なんですけども、たとえば、その種族、あるいは、その共同体の成員が、陸地のほうに移住していって、農耕的な共同体を営んだ場合には、それが、いつのまにか、水神、あるいは、農耕灌漑用水に対する信仰っていうものに転化されてしまうわけです。つまり、そういう意味合いで、たとえば、宗教的信仰の対象っていうものは、そういうふうに転化してしまうわけです。そういうことを誤解するのは、たいへん問題意識がいけないことだって、ぼくには考えられます。
だから、たとえば、この、アジア的、あるいは、古典古代的、あるいは、ゲルマン的共同体っていうような、そういう共同体の分け方にたいして、わりあいに、強力な異議を唱えているのが、東洋学者で、非常に古典的な著作を残しているウィットフォーゲルっていう学者がいるわけですけど、ウィットフォーゲルっていう学者が問題意識としたところはおもしろいのですけど、その場合には、こういうふうに言ったのです。アジア的社会、アジア的共同体っていうふうに言わないで、水利社会というふうに言ったのです。
水利社会とは何かっていうと、ハイドラウリック・アグリカルチャーと言ったのです。つまり、水利的農耕社会っていうふうにいう言い方、つまり、そういう概念を考えられたのです。それから、その水利的農耕社会っていうのと、ハイドラ・アグリカルチャー、つまり、灌漑用水社会、つまり、灌漑農耕社会ってものと区別したわけです。
つまり、灌漑用水社会っていうのは、灌漑用水、あるいは、灌漑の水利、農耕水利っていうものを、非常に小規模なかたちで、小規模な共同体ごとに解決していけば、あるいは、ある村落ごとに解決していきますと、農耕水が得られるという、だから、非常に小規模なかたちで、灌漑用水の問題を考えていけば、村落、つまり、農耕の共同体としては、共同体が成立していくっていうような、そういうものと、それから、強力な専制君主みたいのがいて、あるいは、その側近みたいなのが、つまり、土地の占有者、あるいは、私有者として、そういう連中が、一握りの連中が、共同体の国家形態、つまり、国家としての共同体を形成していて、そういうやつが、強力な財力、収奪力をもって、強力な水利工事をおこなわなければ、農耕社会自体として、成り立たない社会を、水力農耕社会というふうに区別したわけなんです。
そういう区別なしに、たとえば、アジア的共同体っていうふうに、あるいは、古典古代的共同体とか、ゲルマン的共同体とかってことを、無造作に使うのはダメなんだっていう概念を、東洋学者として、ウィットフォーゲルっていう学者は提出したわけなんです。
その着想っていうのは、たいへんいいわけなんです。いいわけっていうことは、どういうことでいえるかっていうと、つまり、中国とか、古代インドとかっていう、地域的にいいますと、そうとう広大な地域なので、これも、北部と南部は違うわけですけど、南中国っていうのは、農耕社会の、水稲耕作の起源地っていうふうにいわれているほど、非常に湿地帯で、非常に古くから水稲耕作がおこなわれた地域なんですけども。つまり、その広大な地域での共同体ってものは、たとえば、国家っていうものが維持していく場合には、非常に強力な専制君主っていうものがいて、強力な収奪をやって、そしてまた、非常に大規模な水利工事をやっていかないと、農耕社会ってものが、成立していかないっていう、そういう形態、そういうかたちのなかで、アジア的専制っていうもの、専制っていう概念が、はじめてでてきたわけです。つまり、導き出されるわけです。
しかし、日本みたいな、南北をとってきますと、相当なものなんですけど、種族的にいえば、相当たいしたようなんですけど、東西的にとってくれば、これは、どうしようもないと、ちょっと陸をいって、ちょっといけば、突き抜けてしまうと、また海へ行っちゃったっていう、そういう地域での問題っていうものを、たとえば、アジア的専制っていう意味合いでの概念で、水利工事を大規模にやるっていうことをもとにして、大規模な収奪をやる、あるいは、大規模な専制共同体があって、それが、大規模な水利工事をやって、大規模な水稲耕作をおこなうっていうような、そういうところにおける権力形態っていうものを、そのまんま、類型的にあてはめていった場合には、ちょっとむずかしいところがでてきます。つまり、あてはまりができないところがでてくるのです。
だから、そういう場合には、それよりもまだ、ウィットフォーゲルみたいに、灌漑用水的な、わりに小規模的な共同体の首長が、小規模的に、水利灌漑の問題を扱えば、まあ、いけるっていうような、共同体の権力形態のあり方っていうものと、それから、水力工事というわけで、大規模な灌漑工事っていうものを、大規模にやるために、大規模な財力をもっていなければならない。つまり、大規模な専制君主でなければならないっていうような、担当者がそうでなければならないというような、そういう水力農耕社会っていう分け方、そういうものとの二つの類型的な分け方っていうのは、かなりの程度、有効性があるわけで、類型づけとしては、つまり、経済社会的な、あるいは、自然経済的な基礎を基準にして、共同体を類型づける場合には、かなり、そのほうが目が細かいといいますか、そのほうが、アジア的共同体っていうものの特徴っていうようなことをいう場合にも、非常に、そのほうがまだ有効性があるっていうふうに考えられるわけです。だから、そのほうがおもしろいです。そういう考え方のほうが、おもしろいところがあります。
だけれども、問題なのは、そういうところで、目を細かくしたらいいじゃないかと、つまり、アジア的専制、あるいは、アジア的共同体っていったって、共同体を、もうすこし目を細かくして、小規模と大規模ということで、どう権力形態とか、経済社会的構成っていうのはとりうるかっていうような、そういうふうに考えたほうが、目が細かいじゃないかっていうふうなことは、たしかに、それなりの有効性があるのですけど、しかし、問題は、そういうことじゃあないのであって、もっと根本的に問題にするのは、そういうことじゃないのであって、つまり、さきほどからいってます、たとえば、行政権、あるいは、政治権力っていうものと、それから、宗教的権力っていうものとの移行の仕方、転化の仕方っていうものが、いかに、共同体ってものの権力構成、それからまた、それが及ぼす経済社会的構成、あるいは、自然経済の構成っていうようなもの、そういうものを、どういうふうに影響を及ぼすかってことを、たとえば、それは、共同体の宗教形態、あるいは、宗教から政治形態、あるいは、政治権力へっていうような、そういう移行形態として、そういうこととして、問題にしていかなければ、共同体の問題っていうのは、出てこないっていうような問題意識っていうのは、当然、生じなければならないっていうふうに、ぼくには思われます。
だから、この共同体っていうものが、国家に転化する場合、国家に転化する仕方っていうものは、共同体のどういうメンバーが国家に転化するかっていうことは、たいへん、同じアジア的共同体うんぬんっていったって、経済社会構成から同じように考えていっても、相当程度に違うのであって、そのことは、人間の制度的な、ぼくの言葉でいえば、共同幻想なんですけど、制度的な観念形態の移行するかたちとして、充分に考察されていかなければならないっていうような、そういう問題意識が、どうしても新たに出てこなければならない、つまり、そういう問題意識が、共同体っていうものの、あるいは、共同体論っていうものを蒸し返すっていいますか、掘り返していかなければいけないってことが、当然、起こってきます。
なぜ、そういうふうに言わなければならないかっていいますと、たとえば、日本の古典では、神話時代に追いやられているわけですけど、日本の古代国家成立以前、古代国家っていうのは、律令国家ですけど、律令制の国家っていうものが成立以前の共同社会っていうのは、どういう社会かっていうような、そういう問題意識の場合に、たとえば、日本の歴史学者っていうのは、律令国家成立以前の、日本の存在した共同体、あるいは、共同体としての国家っていうやつは、これは、原始共同体っていうやつがいるんです。それから、古代専制的な共同体だっていうやつもいるんです。
そのことはどういうことを意味するかっていうと、これを原始的共同体として規定するか、それから、古代専制であるか、民主であるか、どっちでもいいんですけど、古代共同体として規定するか、これは、時間的な、歴史的な尺度としては、数千年の幅をよまなければいけないわけです。
つまり、そうしますと、ようするに、でたらめだっていうことを意味します。なにも言っていないのと同じじゃないかと、そういうことは言い換えれば、今度は、日本の古代国家とは何か、律令国家とは何なのかっていう問題について、これは、でたらめを言っているんだっていうふうに考えたほうがいいっていうふうになります。それで、おそらくは、事実そうだと思います。
それから、それならば、中世国家というのはどういう国家か、それについてもでたらめを言っているだと、それだったら、近世の国家について、つまり、集権的な封建社会というふうにいわれている近世について言っていることも、みんなでたらめだと、それから、明治以降について、つまり、近代国家について言っていることも、でたらめだと、それから、戦後の国家についてもでたらめだと、つまり、みんなでたらめだと(会場笑)、ぼくはなると思います。
現在の問題についてでたらめだというと怒られますから、だから言わないけれど(会場笑)、たとえば、古代国家についてだったらば、ぼくは、よくそういうふうにすると、打率3割だってことです。つまり、打率3割あったら、いい学者だってことです。たいていの学者は打率3割以下、それから、それ以前の、律令国家以前の問題について言った場合には、それ相応の著名な歴史学者っていうものが、たとえば、これは原始共同体であったとか、あるいは、古代専制的な共同体であったっていうふうに言っているってことは、これは、何千年の幅を読んでいいはずだから、だから、これは、ようするに、打率は0であるっていうふうに考えれば、ぼくはいいと思います。
つまり、それぞれの問題意識の取り方いかんによって、共同体に対する考え方っていうものが、つまり、共同体の理論、あるいは、共同体についての論理っていうもの、あるいは、国家としての共同体、つまり、国家=共同体ではないのです、つまり、国家として、共同体が国家を形成する場合の、形成のされ方っていうもの、そういう問題については、とにかく、これは、やっぱり、どう考えたって、根底的に問題を蒸し返していかなければならないということが、ひとつの問題意識として、現在、ありうると思います。
これは、さまざまな問題につながりうるわけですけど、さまざまな部面における、あるいは、さまざまな分野における問題意識に、全部つながっていくわけなんですけど、考えてみれば、全部おんなじことにつながっていくようなものなんでしょうけど、しかし、確かなことだけは、そういう共同体の問題についても、根底から掘り返すっていいますか、もう一回やろうじゃないかってこと、つまり、やり直そうじゃないか、つまり、われわれが、アジア的共同体とか、古典古代的共同体とか、あるいは、ゲルマン的共同体とかいうふうにぬかしておいて、そして、それを、どこの地域に、どうあてはめたら、どうなるみたいなことをやっている、そういう問題意識の取り方を、とにかく、根底から覆そうじゃないかっていうようなことっていうものは、依然として、現在、充分、アクチュアルな問題でありうるっていうふうに、ぼくは考えています。
そこのところの問題っていうものも、これは、たんに、共同体についての論議だけじゃなくて、さまざまな分野における、さまざまな問題について、全部いいうることであって、それは、どうしようもないことなんです。だから、つまり、どうしようもない課題っていいますか、課題として、ぼくは突きつけられているっていうふうに考えています。だから、そこの問題のところで、おそらく、問題の解かれ方が、はっきりさせられなければならないってことがあると思います。
それについて、はっきりさせるっていう課題を追及していくっていいますか、追及していくってことは、たんに、学問的に追及していくとか、研究的に追及していくとか、思想的に追及していくってことだけじゃなくて、実際的にも追及していくってことなんですけど、実際的に追及していく部面でも、根底からとにかく、それを追及していく問題っていうのは、現在、依然として、必要であろうと考えられます。
これは、三島さんが言われたことと、とにかく、あまり接触しなくて、申し訳ないんですけど、あえて、接触せしめたとすれば、共同体っていうものと、共同体の個々のメンバー、そういうものと同一でないってこと、それから、共同体ってものと、国家としての共同体、つまり、共同体がある国家を形成する場合の、国家を形成するメンバーとは、同一でないっていうこと、つまり、同一に考えてはいけないっていうこと、それは、つまり、同一に考えてはいけないっていうことは、もちろん、同一でないのは、たとえば、それは、下部構造から、つまり、土地所有とか、経済社会構成で、誰が階級的搾取者であり、そうでないかっていうようなことからも、同一でないってことがわかるわけですけど、同一でないということを問題としなければならないということがあるわけです。
そこの問題っていうのは、そこの問題としてあるんだってことが、ぼくはありうると思います。それが、おそらく、非常に個人の、個々の観念の問題として、あるいは、思想の問題としてといいますか、そういうふうに考えた場合には、一人の人間と、それが形成できる共同性っていうものは、ほんとうは、どういうふうなかかわり方をしたら、非常に理想的なのであるとか、この理想性っていうのは、ほんとうに、存立しうるものであろうか、それとも、元来が、そういうことは矛盾に満ちたことなのであって、存立しえないのではなかろうかとか、そういう問題意識は、当然、個人の観念形態の問題として、引き寄せていった場合には、そういう問題がかならずでてくるっていうふうに、ぼくには思われます。
そこの問題は、おそらく、三島さんがいわれたことの問題なのではないかっていうふうに、ぼくには思われます。ぼくは、みなさんの基体になっているのは、キリスト教の人たちであるというふうに考えると、あまり、神さまっていうのは、馬鹿にしないほうがいいですし(会場笑)、あまり、簡単に捨てないほうがいいのではないかっていう、困るんですよ(会場笑)、それよりも、神っていうふうに言っているものが、ほんとうは、どういう観念なのであるか、つまり、観念として、何っていうふうにいえば、それは、政治的な問題にも、あるいは、個人の内的な問題にも、それから、家族とか、性とか、セックスとか、そういうような問題にも、転化しうるのであろうかっていうふうに、そういうふうに、神を保存していただいたほうが、とんでもねぇ唯物論者っていうのは多いですから、そういうふうにはならないで、ようするに、神っていうのは、あまり捨てないで、神っていうのを、どういうふうにうまく使えるかっていいますか、つまり、どういうふうに考えたら、これは生きるかっていう、神を愛するとか、神を信仰するっていうようなことが、どういうかたちに、これを、言葉だけいいかえるのではなくて、あれしたら、それが生きるかっていう問題、そういうことで、とことんやってほしいように、ぼくには思われます。いちおうこれで終わらせていただきます。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
それは、非常に簡単なことで、それは、ぼくが言ったわけじゃないんだけど、つまり、ユダヤ教っていうのは、どうして、普遍性、つまり、世界普遍性をもたないで、それから、キリスト教っていうのは、世界普遍性をもったかっていうことについては、エンゲルスの原始キリスト教考っていうのがありまして、エンゲルスは、わりあいに、的確にそれをあれして、つまり、ユダヤ教っていうのは、いずれにしても、ユダヤの地なる神っていいますか、地なる風俗習慣、それから伝統、そういうようなものと、宗教としての観念性と切り離せなかったから、ようするに、世界性がないんだ。
キリスト教は、それに対して、つまり、一種の内面、人間の内面の王国っていうところへ、宗教と神の問題をもっていった、つまり、それが、発生の基盤である、ある地域の土俗性といいましょうか、そういうものから、キリスト教は、神の概念を、とにかく、切り離すまで、つまり、一般的に、人間の観念の問題なんだってところまで切り離しえたから、キリスト教は世界性をもつようになったんだっていうふうにいっているのですけど、そこのところでよろしいんじゃないかと思います。
つまり、ぼくは、祭祀権とか、宗教的権力をもつと同時に、政治的権力をもつっていうようなことの問題をいったならば、それは、非常に土俗的なところから切り離されない、ドロッとした、切り離せられない宗教性っていう、つまり、土俗宗教性っていうことで、それ自体は、地域的な超越なんだけど、それ自体を普遍化することは、いっこうできないっていうような意味での宗教性っていうことですから、そこは、キリスト教の神の概念がもつ普遍性っていうものとは違いますから、そういうところの違いではないんでしょうか、そういうことじゃないかっていうふうに思います。だから、矛盾とか、そういうことを感じなかった。
(質問者)
〈冒頭音声聞き取れず〉
…そして、吉本さんが、海人部ですか、その問題で提起されたのも、せいぜい、それから以前の、2千年か、3千年くらいの時間の幅しか見ていないんじゃないかってことが、ひとつあります。
吉本さんの『情況』という本のなかで、9千年の幅を考え、それをイメージするべきだってことをいわれていましたけど、それは、文字が発見されたことから、9千年っていうのをだされたんだと思いますけど、それ以前を考えますと、日本語的な言葉のもつ意味っていうのは、2万年くらいの幅で考えても、考えられるのであります。
そして、なにを問題にしなくてはいけないかって、ぼくが考えるのは、どうしてもでてくるのは、縄文土器と弥生土器の質的な変化がどうしても問題になるわけです。この問題を抜きにしては、革命も、体制うんぬんも、この国をどうするにも、結局は、過去の社会主義者の理論は、ぜんぶ雑なかたちで、消滅してしまったような結果になるのでないかと、ぼくは考えます。
吉本さんに、そのへんをお伺いしたい、9千年の幅、それ以上の幅で起きた、弥生から縄文土器に起きた、質の変化が何を由来するか、スサノオが寝てばかりいて、何もすることがないという、あれを直観的には思っているわけですけど、そういうぼくの問題意識にたいして、なにか、吉本さん、答えていただければ。
(吉本さん)
たいへんむずかしい、つまり、わからないです。答えられない問題なんです。答えられない問題ってことの根底にあるのは、ぼくが、たとえば、いま、追及している範囲をお答えしても、おそらく、打率3割をたとえば、4割くらいの、それくらいのところに過ぎないので、あんまり、そのことは言いたくないというふうに思ったり、4割くらいでも言いたくないということがあるものですから、つまり、わからない部分が多いものですから、答えにくい、あるいは、答えないほうがいいような気がするんです。
ただ、ぼくが思っている、さきほどの祭祀権うんぬんの問題についてもそうなんですけど、二つの種類の複合があるということもそうなんですけど、それに関連するので、体制によって、焼き直すっていうわけでもなんでもなくて、そういうことに関連するわけです。
ただ、われわれが、現存する国家というものを考えていく場合に、その国家の起源っていうのは、せいぜい、あなたのおっしゃる、せいぜい遡って、弥生期の範囲をでないのであって、しかし、弥生期以前に国家が存在しなかったかというと、国家は、ぼくは存在したと思っているわけです。その場合に、国家というものの定義づけが必要ですけど、まあそれはそれとして、国家は存在したと思っています。
つまり、その形態からどのようなかたちで、固定的に、国家といえば、弥生を起源とする国家だっていうふうになってしまったのか、つまり、その通念をどこからひっくり返せば、破りうるのか、そういう問題意識が、ぼくにはありまして、そこのところで、あなたのおっしゃる、縄文から弥生への質的転換っていうような問題は、ぼくのなかでは、そういう問題意識として、べつに、考古学的概念ではなくて、そういう問題意識からあるわけです。
それで、だから、そういう問題についてのひっくり返し方が、4割じゃなくて、6割でできるならば、それは、三島さんも死ななくてもよかったかもしれないですし、ぼくらも、戦争中に馬鹿なことをしなくてもよかったかもしれないですし、さまざまなことがありうるので、だから、その問題は、非常に重要な問題だと思いますけど、しかし、残念ですけれども、ぼくのなかでは、それについて、推測を申し述べるっていうことを許さないものがあります。
なぜならば、打率4割くらいでしか、せいぜい言えないだろうなと思うからそうなんです。これは、やっぱり、ぼく自身も、そのうち6割くらいの打率に到達するだろうと思っていますし、しようと思っていますから、その段階で、はっきりと申し述べられると思います。そこが、われわれが、現存している国家っていうものを、どっからひっくり返すのかっていう問題につながる問題として、6割の打率っていうことで、問題がだせるだろうって思います。
残念ですけど、現在のところ、どう考えても、打率4割くらいしかないと、わからないところがたくさんありすぎるっていうふうなあれなんですけど、あまり答えになりえないのが、たいへん残念ですけど、ここのところはどうしようもないということで、現在のところ、勘弁していただきたいというふうに思います。
しかし、ぼくは、遊んでいるわけではありませんから、かならず、そういう信念を、かならず6割までこぎつこうというふうに思っています。それは、自分の思想的なというか、課題のひとつだと思ってきて、それをしているものですから、かならず、そういうふうに、こぎつけるところにいこうというふうに思っています。それで、答えにならないので、仕方がないのですけど、あんまり、ぼくに対する批判にはならないんじゃないかと。(会場笑)
テキスト化協力:ぱんつさま