1 埴谷雄高という文学者

 吉本です。本日は埴谷雄高さんの『死霊』の世界ということでお話ししたいと思います。埴谷さんの『死霊』については、僕は過去に数度論じたことがあると思います。そこから新しい認識があるわけではないのですが、現在まで二十数年間の間に書かれた作品がひとつの本にまとめられ、そしてそれを読みましたことを機会にして、わからなかったことがわかったこともないことはないので、そういう点を含めて第何度目かの『死霊』の世界についての自分なりの批評を申し上げたいと思います。
 現在の一系列の文学者の中で、非常に不幸であり、同時に幸福である文学者がいく人かはいると思います。埴谷さんという作家は、そのひとりであると僕は思います。不幸だという点は、決して埴谷さんという作家は、たくさんの読者を現在持っているとか、そういう文学者ではないと僕は思います。しかし現在、文学者全般が当面している問題は、自分の読者、つまり顔を持っている読者をひとつも持っていない。読者はいるんだけれど、その読者の顔は少しもわからない、そういう文学者が多いわけですし、また文学の状況全体がそういうふうになっていると思います。
 その中で埴谷さんはごく少数であろうけれども、明瞭な顔を持った読者というものを持っている作家だと思われます。そういう意味ではたいへん幸福な作家であるのかもしれないと考えられます。こういう系列の文学者は、いつの時代にもまれにはいるわけで、そのまれにいる文学者のひとりとして現在、埴谷さんが存在しておられるのだと思います。

2 体験からつくられた登場人物

 埴谷さんの『死霊』の世界は、特徴としてとらえてみますと、ひとつは登場してくる人物が、いずれも観念の権化であって、少しも肉体というものを感じさせない。そしてもうひとつの特徴を要約して言ってしまえば、それにもかかわらず登場してくる観念の権化である登場人物は、いずれも観念の極端化、徹底化ということをいずれも体現している人物だけしか登場してこないということです。
 このふたつの特徴は、ひとつはみなさんのような青春といいますか、青年に非常に特徴的なことですが、つまり観念が肥大し、そして肉体は些末なものでしかないということ、それから同時にその観念も非常に極端化し、純粋化する。それはいずれも青年、あるいは青春というものの非常に特徴だと思われます。その意味で『死霊』の世界は一種の青春小説と読めると思われます。
 もうひとつは、なぜに登場人物たちがいずれも肉体が存在し、生活が存在するようには少しも描かれていない。しかし観念としては非常に極端な観念に憑かれた人物だけが登場してくる。なぜこういう作品が成立したかということを作者に即して僕なりの解釈を加えてみれば、それはおそらく埴谷さん自身が、かつて日本の革命運動に徹頭徹尾政治的にかかわり、そしてその戦争をくぐり、そして戦後に徹頭徹尾文学的に再出発するという、日本の文学者の中ではきわめて典型的に明瞭なかたちを取って戦後に生きてこられた。そしてそこで作品を形成された。それはいずれにせよ、かつて革命、そして戦争をくぐったときに、そのくぐり方のひとつとして、やはり観念は生きている。観念はどんな権力にも犯されない。しかし肉体は権力のために制圧されるかもしれない。しかし観念だけは自由である。観念だけはだれも奪うことができない。そういう体験をくぐり抜けてこられた。そういう体験がおそらくこういう『死霊』という作品の登場人物の特徴として出てきているのだと僕なりの解釈をくだせば、そういう解釈になっています。

3 三輪与志の〈虚体論〉

 『死霊』の登場人物が非常に少数であり、同時に作者、埴谷雄高の分身でもあるわけで、それを少し類型的に取り出してみますと、たとえば三輪與志という登場人物が出てきます。この登場人物は虚体論というものに憑かれているわけです。虚体というのは、いわば実体の反対の意味の虚体です。虚体論の内容がどういうものであるかということは、まだ全面的に展開されているわけではないのですが、まず虚体論というものに登場人物のひとりである三輪與志が憑かれているというモチーフが非常によくはっきり描かれています。
 それは、ひとつは自分はかつてなかったもの、そしてこれからも決してありえないもの、そういうものを求めているのだ。そういうものを求めていることが、ひとつのモチーフである。もうひとつは、人間の歴史が従来つくってきたあらゆる思想、思索、あるいは理念がどういうものかというと、過去の経験を検討して、その検討した歴史を蓄積して、その中から一定の思考方法を取り出してくる。人類の歴史は、少なくとも思想の領域、観念の領域ではそういう方法を取ってきた。しかしそういう方法はどこか違って、そういう方法ではありたくないという極端な願望が登場人物にあります。
 どうしても自己意識というものが延長線でものを考えるのではなくて、あるいは人間の歴史的な思考の延長線でものを考えるのではなくて、いわばその外に出てみたい。その外に何があって、どう可能なのかはわからないとしても、そのことは別として、とにかくその外に出たいという欲望、欲求を持っている。そういう登場人物が三輪與志の虚体論というものを支えている。
 それからもうひとつ、これはやはり作者の分身ですから作者の思想の中にそれがあるのですけれども、人間がもし観念の存在、あるいは自己意識の存在と考えた場合には、意識としての自己存在というものと、それから自己存在の現実的なあり方、現実的な存在のしかたというものの間には、どうしても食い違いがある。その食い違いがあるために、たとえば私は私であるということはどうしても言えない。私が私であるということを言うためには、観念としての自己存在と、その現実的なあり方とがまずぴったりと結合していなければならない。
 それが言えないために、その空隙にひとつ作者は不快ということを言いますけれども、三輪與志は、私は私であるということをどうしても言うことができないで、その間に不快というものが介在する。その不快というものは、おそらく作者の一分身である三輪與志が、現実的なあり方として、現実自体を否定しているということのひとつの表れだと考えることができると思います。

4 黒川健吉の新しい形而上学

 虚体論に憑かれた三輪與志の影のような存在として、たとえば黒川建吉という人物が登場します。その黒川建吉は、貧民窟の屋根裏部屋に住まっていて、もっぱら考えることをしているわけです。この黒川建吉が三輪與志の考え方をいわば補足するような考え方をひとつ持っているわけですが、その黒川建吉の考え方の根本にあるものは、人類の歴史はさまざまな波乱を経て、さまざまな現実的なことに歴史を生み出し、そして現代もそれを生み出している。
 しかし人類の歴史の中で絶対に責任を追及されたり、傷つけられたりしなかったものがある。それは何かということは作品の中では明瞭な言葉で述べられていないように思いますけれども、それは僕流の言葉でいえば、それはおそらくものの存在であろう。つまり自然存在、あるいは拡張していいますと宇宙存在であろう。そういうものはかつて一度も人類の歴史の中で傷つけられたこともなければ、責任を追及されたこともない。そしてたぶん人間がかつて動かされたことがない、つまり作品の言葉でいえば「不動のもの言わぬ存在」ですが、その不動のもの言わぬ存在を傷つけ、そして痛めつけ、その責任を追及するということがもし可能になったならば、あるいはそういう可能性が生じたならば、それは新しい形而上学が生み出されるようになるだろう。
 そしてその新しいというのは、かつてなかったもの、あるいはもしかすると決してありえないものかもしれませんが、しかし新しい形而上学が不動のもの言わぬ存在というものに対して、その責任を追及するということができたときにはじめて生まれるだろうと黒川建吉が三輪與志の考え方を補足するような意味合いで、そういう考え方を述べるわけです。
 それではなぜ不動のもの言わぬ存在で、かつて人類の歴史がだれも触れたこともない、そしてだれもそれについて責任を追及したことのないもの、そういうものをどうして追及することが可能か、どうして新しい形而上学が可能なのかということですが、それで登場人物の黒川建吉は、それは無限の未来に置かれた眼によって現代を照らし出すことによって、そしてその照らし出されたところでわかる現代の状況、そういうものが非常に明瞭になったとき、その新しい形而上学の萌芽、芽生えが可能であろうと黒川建吉はその作品の中で述べるわけです。
 この無限の未来に置かれた眼というのは、これは歴史的にいえば過去、現在、そしてそれを延長していくところで描かれる無限の未来と考えられやすいのですけれども、作者は必ずしも無限の未来に置かれた眼を、そういうふうに理解しているではない、そういうふうに考えているのではないと思われます。
 もうひとつ、なぜかと申しますと、その中で無限の未来に置かれた眼というのはいったい何なのだという問いを、たとえば登場人物である首猛夫という強力な一匹狼に問いただされる。それに対して黒川建吉は、それは死滅した眼によって可能なのだと答えるわけです。
 今度は、死滅した眼というのは何なのかということが問題になります。それを私流の理解で申し述べますと、つまり埴谷さんが『死霊』の世界、特に「夢魔の世界」まで書いたところで、非常にはっきりさせたことは、人間の認識というものを、人間が生まれてから死ぬまでの百年足らずの間に生み出される認識の力、それから言ってみれば現代に至る人類の歴史が生み出してきた思考の力、あるいは経験の蓄積、そういうものだけではなく、人間の存在というものを死後の世界まで拡張してみたときに生まれるひとつの認識の方法というのがあるだろう。その認識の方法は、かつてだれも死後の世界まで含めた認識の領域を人間の認識の領域として確定したものはない。
 そういうふうに人間が生まれてから死ぬまでということではなくて、生まれてから死んだあとまで、そして死後の世界に人間が何らかのかたちで存在しうるならば、その存在の領域までを含めた眼でもって、あるいはそういう範囲でもって認識の領域を拡張したときに、それは未来からの眼、未来から照らし出される眼というものを獲得することが可能であろう。そしてその獲得された眼というものは、現在をかつてなかった過去から照らし出すことができるだろうと作者のモチーフの中で考えられていると思います。

5 死後への世界の認識

 そうなってくると、一種の宗教といえば宗教ともいえるわけで、埴谷さんはここで宗教を獲得しているのかもしれません。つまり人間というものは、自然的存在であって、死ねば死にきりだというふうに考えれば、死後の世界に対して思考をめぐらすことは、それ自体が非常に宗教の志した領域ですから、埴谷さんが人間の認識の範囲を死後の世界にまで拡張しようというモチーフをもし持たれているとすれば、あるいは宗教であるのかもしれません。しかしその手続きについては非常に明瞭なかたちを作品の中で展開しています。
 それは首猛夫という人物の口を借りて展開されているわけですけれども、「死者の電話箱」というひとつの装置、それから「存在の電話箱」というひとつの装置、その「死者の電話箱」を使いますと、たとえば心臓が止まり、呼吸が止まり、そしてまぶたが閉じて死んでしまった。そういうときでもなおかつ死者からの通信というものを感得することができます。また死者に対して問いかけることもできる。
 それからそういうふうに死んでしまったところから、もう少し段階が進んだときには、作品の中では「分解の王国」という言葉が使われていますが、ばらばらになった細胞みたいなものしか存在しなくなった。そこのところで死者はなぜ自分のことになお生の世界から問いかけるのかという問いを死者のほうから発する。
 やがてもっと死の段階、あるいは死後の段階が進んでいくと、人間とはまったく違ったもの、作品の中では「還元物質」という言葉が使われていますが、そういうふうになってしまう。そうするともはや生きているものの世界から死者に対して通信を送ることはできない。しかし死者のほうから生者のほうには何か言うことができる。つまり「存在の電話箱」と通じて何か言うことができる。その言っていることは、もはやここはそこではない。
 この世界というのは生きているものの世界ではない。だから生きているものの言葉、あるいは生きているものの認識方法、そういうものでいくら問いかけてもこちらには届かない。だからまったく新しい認識方法しかないし、新しい言葉しかない。そういう言葉がもしできあがらなければ、死者の存在している世界に何か通信することはできない。しかしまったく無である死滅の世界ではないのであって、そこでは『死霊』の作品の言葉でいえば存在がイコール意識であるような、そういうものが宇宙の空隙を満たしている。それが完全に無である死滅の世界なのだ。存在が意識であるというところで、なおかつ人間は人間的である。
 もしそういうところから照らし出すことができ、そしてそういうところに生きているものの世界から問いかけることができるならば、それはまったく新しい言葉とまったく新しい認識でなければならない。そういうところで存在イコール意識という世界と、生きているものの世界というものが疎通することができる。おそらく人間の認識が究極的に到達しうる基盤というものを考えれば、人間が生まれ、そして生き、そして死ぬというところから死後の世界における存在イコール意識、そこの範囲までもし認識の領域を拡張することができたならば、そこでは現代を未来から照らし出す眼、そしてそれは死滅したところからのなおかつ生の世界に対して問いかけることができる、そういう……
【テープ反転】

6 首猛夫の理念

……先ほど言いました首猛夫というのは、三輪與志、黒川建吉という登場人物と対照的な登場人物が登場します。その登場人物の根本的な考え方は、私流に要約して、二十世紀というのは戦争と革命の時代だ。その戦争と革命の時代において、人類、人間というものは非常に愚劣なやつもあれば崇高なやつもいる。要するにひとつの理念をつけて、理屈をつけるならば、大量殺人をしてもいい、それは許される。それは放っておかれる。そういうことが当然のようにまかり通っている時代だ。そういう時代というのは、言ってみれば人類が依然として死へ下っていく階段をひた走りにしている世紀なのだ。だからそういう世紀において、もし存在しうるならば、全的な否定者というものでしか革命家は存在しえない。首猛夫はそういう理念を持っているわけです。
 そして人間の精神をひとつの額にはめると、そういうふうに考えるのは、もうすでに革命家ではないという理念を持っているわけです。そういう世紀においては、たとえばお前はこの問題について死を選ぶか、生を選ぶかという場合に、それを完全な判断力でもって選び取ることがだれもできないということ、そしてまた他者に対してお前はこの問題について死を選ぶか、生を選ぶか、どちらかにしろと、そういう判断をだれも強制して言うことはできない。だからもしもお前がこのことについて生を選ぶか、死を選ぶかということを言うことができるというのは、そういう段階が来たときに、新しいかたちの全否定者ではなくて、全肯定者が生まれる。
 しかし現在の段階では、残念ながら人間というものはひとりたりして生を選ぶか、死を選ぶかを問い詰めることもできないし、また問い詰めるだけの手段みたいなものもない。だからそれができるようになったときに、新しい全面的な肯定者というものが生まれるだろう。そのときにたぶん『悪霊』のキリーロフみたいな言い方をすれば、新しい人間が生まれてくるだろう。そういう理念を首猛夫は作品の中で根本的に持っているわけです。

7 作品のモチーフを象徴する三輪高志の言葉

 もうひとり、首猛夫の影みたいな存在として三輪高志という三輪與志の兄がいます。三輪高志が持っている根本的な考え方を要約してしまえば、人類の歴史は自己の思考、自己の理念というものに固執することによって非常に大きな錯誤を犯してきたということです。もうひとつは、人間は何ら自由意志の重さというものを、本当の意味で考えることなしにみだりに結婚をし、みだりに子どもを生んできた。そのことは人類が犯してきた錯誤である。そういう観念を三輪高志は持っています。いずれも作者の分身ですから、たぶん作者の中にもそういう理念が存在するのだと考えることができます。
 そういう三輪高志が作品の中でひとつの典型的な場面について語るわけです。それはどういう場面かというと、かつて首猛夫らと一緒に革命運動に従事していた。そのときにひとりのスパイがいて、そのスパイをどういうふうに処理するか、どういうふうに処分するかということが論議されたときに、さまざまな論議が出てくるわけですけれども、三輪高志は、自分たちは現実的必要のためにここに結集していると同時に、自分たちが百年後のために結集しているのだ。そうだとしたならば、このスパイだと決定されたその人物を、あちら側に預けておこうではないかと三輪高志はその中で述べるわけです。
 あちら側に預けておこうというのはどういうことかといいますと、死の世界の向こう側に置いておこうじゃないか。けしからんから殺してしまえ、抹殺してしまえということとは違うのであって、これを抹殺するのが正しいのか、正しくないのかは、現在はわからない。やはり人間の認識の領域は死の世界まで含まなければならない。そうだとすれば、死の世界のほうまで預けておこうじゃないか。それが正当であるかどうかというのはわからないけれど、そのとき決定されるだろう。だからあちら側に預けておこうじゃないかと三輪高志は主張して、そしてスパイは、いわゆる通俗的な意味でいえばリンチ殺人事件と同じで殺してしまうわけです。
 しかし殺してしまうということは、単にけしからんから殺してしまうとか、権力に対して不都合であるから殺してしまうとかそういうことではなくて、そういう理念とはまったく違って、あちら側に預けておこうではないか。つまりいずれだれもがそこの認識の極限に行く。そこは百年足らずでそこに行く。あるいは個体として考えれば、死んだのちには必ずそこに行く。そこに行ってみなければ、それが正当な処理であったかどうかわからない。つまり革命的行為であったか、反革命的行為であったかはわからない。ならばあちら側に預けておこうじゃないかというふうな主張を三輪高志はして、そして自ら殺人に実際に加担するというのが作品の中で展開されます。リンチ殺人という問題に対して、あちら側に預けておこうじゃないかという三輪高志の言い方が『死霊』のモチーフを非常によく象徴している言葉だと思われます。
 『死霊』の世界に登場する人物は、それぞれ作者の分身ですけれども、象徴されるそういう根本的な考え方を語って、いわばドラマを展開しながら、未完なわけですけれども、現在の「夢魔の世界」までできあがっているわけです。このできあがっている「夢魔の世界」や『死霊』の世界は、さまざまなところから、さまざまな考え方で要約することが可能でありましょうけれども、僕がいちばん関心をひかれていて、おそらくそのモチーフは最後まで消えないのではないか、つまり最後まで持続されるのではないかと思われるのは、登場人物のいずれもが何らかのかたちでそれを主張するわけですけれども、人間の認識の領域というものを未来のほうから現在を照らすというところまで拡張すること。そしてそれは同時に人間の認識を必ずしも生の世界、生活の世界、現実の世界、そういうものだけではなく死後の世界にまでまたがって可能な世界、そういう世界にまで認識の領域を拡張することによってはじめて、おそらく新しい人間のあり方に対する照らし出しが可能であろう。それから現在というものに対しても新しい照らし方が可能であり、新しい形式のようなものがそこで生まれるだろう。そういう動きが、僕はきっと最後まで展開するのではないかと考えています。
 作者は観念の世界、あるいは抽象的な世界というものに対して、もう少し大きな領域、もう一段奥の領域を持っているのでしょうけれども、そこまで僕がかいくぐって考えていくということは可能ではないので、僕にできる最大の可能性でもって作品のモチーフ、理解をやっていると、いままで言いましたような問題に要約されてくると思われます。

8『死霊』の現代性

 このような作品が、現実的にどういう意味があるのだろうか。それはみなさんのほうでよく検討されると、それは現在に対して予言的であるかもしれないし、また日本の文学の歴史の中で最も現代的な思想小説のひとつであるのかもしれません。つまり日本の思想小説の近代的伝統は貧しいわけで、漱石の一時の作品とか、白樺派の、特に長与善郎の『竹澤先生と云ふ人』とか、倉田百三の『出家とその弟子』、あるいはもう少し文学的哲学者の阿部次郎の『三太郎の日記』とか、そういうものが日本の思想小説の歴史ですけれども、まったくそれとは新しいもの、たとえば日本の思想小説をよい方向に持っていったという位置づけもまた可能でありましょう。
 また現在、われわれもみなさんも同じかもしれませんけれども当面している、どうしようもなく拡散していってしまう、そしてその拡散に対して精一杯現実的に、あるいは思想的に反抗しようとすれば、それは単なる極度の内的退廃、あるいはデカダンスというものを生み出すほかはない。それにもかかわらず現実というものは個々の現象ではなくて、現実が現実であるプロセスにおいて、不可避的にわれわれの肩にかかっている。そしてどうするのだと、そういうさまざまな現在当面している問題に対して非常に大きな示唆を与えるかもしれません。これは決して主題主義、それから主題の積極性とか素材主義とか、そういう次元で文学の作品のモチーフを考えるような、通俗的な時限で処理することによっては現代の文学、思想はどうすることもできない。しかしもう少し不可避に覆いかかってくる現実的な荷重に対して、文学が本当の意味で現代的であるというのは、どういうかたちが可能かと突っ込んでいった場合には、この『死霊』という作品はきわめて現代的な作品だと僕には思われます。
 簡単ですが、これで終わらせていただきます。ただ僕は今日、高橋さんの追悼会を兼ねてということですけれども、高橋さんの作品に触れることができなかったのですが、かつて僕は高橋さんとふたりで、この大学で、この場所かどうかは知りませんけれど、演壇に立ってみなさんと討論したことがあります。それから高橋さんの最後の力作である内ゲバについての論文があるわけですけれども、その論文を書くことを促すことにおいて僕は少し寄与したことがあります。つまり本当は作品を一生懸命論じ、また埴谷さんの『死霊』との比較みたいなこともしなければならないのでしょうけれども、そういう思い入れと、体の悪いときに無理をさせたという感じがあります。そういう高橋さんの初期のころといちばん最後のころとおつき合いの歴史をちょっと思い浮かべられるような気がしました。そういうことで終わります。(拍手)

9 質問1

 埴谷さんに対する評価、吉本さんの話を聞いて感じたわけですけど、埴谷雄高さんの『死霊』というのは、新しい時代の、現代の浄土三部経のひとつ、観無量寿経になるテーマだと、そういうふうに感じます。吉本さんについて聞きたいのは、仏教の『唯識三十論』や『唯識二十論』のでなか展開している唯識、それが埴谷さんの場合だと、そのへんの唯識にはなし付けているわけですけど、前五識というのは感覚器官で、それから意識があって、これはリアリティです。それから末那識というのがあってこれが自己意識です。末那識というのが第七識になる、これがいわゆる自己意識になるわけです。それから阿頼耶識というのがある。阿頼耶識というものの意味は野生という、だから、これは吉本さんのいう、野生というのは野蛮ではなくて、ワイルドなんですけど、死ねという意味も含まれている。
 吉本さんは最近、『幻想の現在』という本で「ある親鸞」というのをお書きになって、親鸞の書いた色んな書物から、親鸞のイメージを作りあげていこうと吉本さんはされておりますけど、吉本さん自身がいわゆる仏教、唯識、親鸞について現在どういうふうに考えておられるか質問したい。

10 質問2

 ぼく自身は埴谷さんや吉本さんはまだ読めなかった。たとえば、『共同幻想論』なんか読んでも、もうひとつピンと理解できなかったんですけど、大学でやっていたことをなんとか自分の生の中でつらぬくということ、それはやってみようというより、そういうふうにしかできなかったわけですけど、そういう過程をたどっていくなかで、埴谷さんも吉本さんの論理もほんの少しですけど、なんとなくわかるなという気がしたんです。
 『共同幻想論』をなぜ吉本さんが書いたかというのが、なんとなく心に感じるものではあるんですけど、自分の中で明確にならないです。もし、いまの情況のなかで、『共同幻想論』がどういう意味を持っているかお考えになっているのでしたら、お話しいただけたらありがたいと思います。

11 質問3

 お話の中に、「現在」という言葉がでてきました。事実を見つめながらというものであると、そういうような発言があったんですけど、自分が関与できていない内容は、その事実と、自己とのかかわりですね、自分というのと現実の事実とをどう繋げていくのか、そしてまた、繋げることにおける事実となるのはなんであるのか。
 たとえば、非常に極端な言い方かもしれませんけど、原爆の話やら出てきたんですけど、そういうものに対する怒りというものが、なにか非常に自分の中で色褪せるというようなものがあるのですけど、自分の中から出てくる主観というものは、現在の自分とは関係が切れている情況があるわけです。したがって、元に戻しますけど、そういうものに対して、自分はどうかかわっていくのか、そういうものがはっきりしないと、事実を見つめながら理解すると一般的に言われてもちっともわからないわけです。
 それともうひとつ、(音声聞き取れず)、これも同じようなことが言えると思います。一般的観念で超えてしまって、自分を超えた観念で過ごしてしまうと、そういう状態をもし、わかるようで疑問を感じた、主に事実と現実との関連性、事実と一人の人のあり方について、なんらかのお考えを聞きたい。

12 質問4

 現在の松下さんに対してどういう形での評価をされるのか。あるいは、どういう感想を持っているのか聞きたい。

13 質問5

 点が向こうからやってくるか、どうしても動かなきゃならない、そういうふうな意味あいの事を10年間くらい気になっていまして、…音声聞き取れず

14 質問への回答(吉本隆明)

 最初に仏教をもとに質問された方が、「ある親鸞」を読まれたということなんですけど、パンフレットで十何巻、親鸞の事を書いているので、それも一緒に読んで下さればできるんじゃないでしょうか。仏教業界には仏教業界のそういう問題があるのでしょうけど、ぼくは別に言葉を荒らそうなんて気はないですので、いわば、ぼくなりの自然というモチーフはあるのですけど、それをどこかで通ってくだされば、ぼくにはいうことがないので、専門家で知識もある人はいますけど。
 それから『共同幻想論』というのはどういう意味があるのかということですけど。どういう意味があるのかというふうに改めて問われてしまうとなんとも答えられないということがあるのですけど。ぼくが根本的に考えたことは個人の倫理に属すること、つまり、なんか知らないけど良心が痛むみたいな、そういう個人の倫理に関する問題を、正義のような、いわば、ぼくは共同幻想という言葉を使いましたけど、正義の問題みたいな、たとえば、共通の観念に属する問題、つまり、煩雑にしたらきっと間違えるんだというのが僕の考え方です。
それは、そういう次元の相違、つまり、世界認識における次元の相違というのは、つかまなければいけないんだよというふうに僕は思います。ですから、もし質問された方がいまの問題について良心の痛みが感ずると、しかし、その痛みに対して、本来的な意味では痛切さというのはないのかもしれない。そういう疑問を持たれて、思い悩んでおられるのでしたら、それは、さきほどあれしましたけど、よくよくそれを見つけられて、答えを求められたらいいのではないかと僕は考えます。
 それから、松下ノブオさんが全共闘運動のなかで、バリケードの内側に…(テープ切れ)



テキスト化協力:(チャプター9~14 ぱんつさま)