(司会)
本日は大変たくさんの方においでいただきまして、ありがとうございました。私たちの良寛についての連続講演会もとうとう今回で3回目、最終回を迎えることとなりました。本日は、東京から、お忙しいところ、吉本隆明氏においでいただきました。
吉本さんにつきましては、現在、たいへん活発に、詩及び思想の分野で活躍されていらっしゃいますので、紹介の必要もないかもしれませんが、主催者がどういうイメージをもってるか申し上げます。非常に自覚的な方法意識をもって、戦後の思想分野を切り開いてこられたんじゃないか、なおかつ、思想という概念自体を大幅に覆された方なんじゃないかというふうに、私たちは、ひとつでは、そういうようなかたちで受け取っております。
本日、吉本さんにとってはじめて、良寛についてまとまったものとして論じていただくことになったわけですが、私たち良寛研究誌にとっても、たいへん画期的なエポックになるんじゃないかと、そういうふうに私たちは考えています。
いったい良寛っていうのは何者なんだっていうような画期的な問いに、自覚的な方法、より明確な方法をもって接近する仕方というものはどういうものか、そのようなことを聴かせていただけるんじゃないかと考えています。
それでは、講演に先立ちまして、主催者、雑誌『修羅』同人代表太田が挨拶します。
(太田代表)
みなさん、今日は多数お寄りいただきまして、ありがとうございます。いま、司会のほうからも話がありましたが、私たちは3回目の講座ということでやってきたのですが、最後に、これほどの方々が来ていただけるとは、夢にも思っていなかったので、と申しますのは、私たちの雑誌っていうのは、皆さま方、お手に渡っているかと思うのですが、貧弱な同人誌なわけです。元々は、図書館とか、学校とか、あるいは、大学とか、そういった公共団体がやれば、楽々できるかもわからないのですが、非常に貧弱な同人が、4人か、5人とか、出たり入ったりしているような、そういうなかでやっているのは、非常にある面では損なんじゃないか。これに対して、こういうふうに来ていただけるのは、非常に私たちにとっては嬉しいことです。
それで、なぜ私たちが良寛にかかったかっていうことなんですが、私たちは、この地域で、文学だとか、あるいは、思想とかっていう、耳慣れないかたちでかかわると言われたときに、どうしてもかかわるなら良寛かっていう感じでやっているわけです。
この良寛をなんとかしなければ、私たちの文化とか、あるいは、文学とか、そういったものは、いつもつまんないんじゃないかっていう感じがあるわけです。ところが、従来のこの地域の良寛研究っていうのは、どういうかたちかと申しますと、たとえば、良寛っていうのは、確固たるイメージがあったと、そのイメージをほとんど出ていないっていうのが現実なんじゃないかって感じがするわけです。そこで、私たちがベースにした、あるいは、これからしていただく講師の方々は、そういうなかで、より確かに、あらわれたといいますか、非常に原理的である、あるいは、基礎的である、あるいは、構造的であるっていうかたちであると思います。そういうなかで、我々の良寛っていうものは論じられなければならないのではないかって感じがするわけです。
たとえば、小林先生、舞台でのご講演なんですが、小林先生は非常に碩学家と申しますか、並ぶもののないほどの徹底した研究をされている方なんです。私たちは、良寛の研究をするときには、かならず、この先生の姿勢っていうのは、学んでいかなければならないのではないかと考えます。
それから、今日も会場にお見えになっていますが、北川先生、北川先生の良寛像っていうのは、非常にネガティブな良寛っていうのがあったわけですが、それをポジティブな、いわゆる生々しい、荒々しい良寛像っていうかたちで、はじめて提出されたんじゃないかって感じがします。
さて、吉本さんなんですが、吉本先生のお話は、これから聞けるので、私があまり変なことは言わないほうがいいと思いますが、このお話のなかで、どういうかたちで良寛が出てくるか、私たちは、その考えを通しまして、はじめて出発点に立てるのではないかっていう感じがします。
ぜひ、私たちが非常に貧弱な団体であるということ、そして、私たち自身がこの話を聞きたいという、決して聴衆の皆様に、監修なんだっていう態度は絶対にないわけです。なぜならば、このあとに質疑応答があるわけですが、私たちが同人そのものが、吉本さんに対して質問を向けていきたいと思っています。皆さま方も、どんどん質問をアジって、納得いくかたちで良寛を自分のものにして、それで出発していただければいいんじゃないかと思います。ちょっと長くなりましたが、これで終わります。(会場拍手)
(司会)
それでは、ただいまからご講演いただきたいと思います。1時間半ご講演いただいて、その後、5分ほど休憩いただきまして、そのあと質疑応答に入りたいと思います。145分ほど、4時半までに終わる予定です。
ただいまご紹介にあずかりました吉本です。私は良寛については素人ですけれども、なぜ私に良寛についてしゃべってくれっていうふうに主催者の方がいわれたのかってことを自分なりに推察してみますと、ぼくは西行について、過去に勉強したり書いたりしたことがありまして、西行についてやったことがあるんだったらば、良寛についても同じようなところもございますから、つまり、同じようなところっていうのは、世を退くっていいましょうか、世を出るっていいましょうか、出家するっていいましょうか、あるいは、隠遁すると申しましょうか、そういうところで、同じようなところもあるから、良寛についてもまた、ぼくが関心をもち、そしてまたなにか言うことがあるんじゃないかっていうような、そういうふうに推察されたんだっていうふうに思います。しかし、お断りしておきますけど、私は良寛については素人にしかすぎないっていうことで、それほど見事な話ができるかどうか、それは保証のかぎりでないっていうことだと思います。
殊に良寛っていうのは、大変むずかしい人だっていうふうにぼくは思います。つまり、良寛のむずかしさていうのが、うまく浮かび上がらせることができたら、それでいいんじゃないかっていうふうに思います。
その良寛のむずかしさっていうのは、どこから出てきたのかっていうことを考えてみますと、いちばん誰でも考えるし、考えやすいように思うのは、良寛の生涯の身の処し方っていうところから考えていって、そこに、なにかむすかしいことがあるかどうかっていうふうに考えていくのが、誰にとっても普通だろうっていうふうに思います。
良寛っていうのは、みなさんのほうが、郷土として近いところでありますし、みなさんのほうが知っておられるのかもしれませんけど、代々、神職、神官っていいましょうか、神官であり、同時に村落の長であった、つまり、首長であった、つまり、庄屋であるとか、名主であるとか、そういう村落を治める立場にあり、同時に、村落の祭司っていいましょうか、宗教を束ねる代々の家柄だっていうことが、良寛の出身している家柄です。出身の家柄です。
そうしますと、このような出身から考えまして、良寛自身が、たぶん少年時代っていうのは、ふつうの人に比べれば、非常に裕福なところで、かつまた、時代が、良寛が生まれたのは、ちょうど田沼意次が大名に列せられたっていうような、田沼政治時代ですから、はじまりの頃ですから、町家、つまり、ふつうの庶民の文化的な意識というものも非常に向上しているし、各地方にそれぞれ、儒学者が自分の塾などを開いて啓蒙するしっていうようなところで、良寛は、たぶん経済的に非常に恵まれた家に育ち、そして、恵まれた教育の受け方をし、たぶん、自分で詩にも書いていますけど、小さい時から抜群の学問の才能っていうのを持った人だったっていうふうに思います。
そういうふうに考えていきますと、どこにも、そこいらへんのところでは、変ったところ、それから、特別なところはないんだっていうふうに考えてよろしいと思います。
良寛自身が自分の青少年時代っていいますか、青少年時代について書いた、述懐した詩がありますけど、その詩によりますと、自分は黄色い立派な良い衣服を着て、そして、遊ぶ時には、馬に跨って遊びに出掛け、そして、お酒を買ってきてお酒を飲むし、それから、花見にいくって言えば、花見に遊びにいくしっていうようなことで、何不自由なく暮らしていた。
それで、帰っていくところといえばどこかといえば、それは娼婦のいる、つまり、芸者さんのいる家へ帰っていくっていうような、そういう生活を青少年時代にしていたっていう詩を書いていますから、たぶん、経済的にも恵まれ、そして、文化的環境もあり、それから、優等の味も知りっていうことで、非常に無自覚で何不自由ない、しかし、学問については相当な才能を発揮した、そういう青少年だったっていうふうに考えればいいと思います。
そこのところから、急に出家するっていうところにいくわけですけど、その出家の仕方っていうのにも、あらわれているかぎりでは、なんら特別なところはないように思われます。当時、備中の国っていいますから、いまの岡山県でしょうか、備中の国に円通寺っていう曹洞宗、禅宗の中でも曹洞宗ですけど、曹洞宗の相当由緒あるお寺の和尚で国仙っていう、たいへんこれもまた優秀な曹洞宗の正統的な衣鉢を継ぐような、たいへん偉い禅宗の坊さんだったんですけど、その坊さんが、たまたまこの地方のお寺のほうに遊びに来たっていいますか、諸国行脚でやってきたと、それを良寛が、たまたま出家していた、お弟子さんになっていたお寺に泊まるなどして、日常接することで感化を受けて、そして、そのお坊さんに付いて、備中、つまり、いまの岡山県ですけど、岡山県の円通寺にいきまして、そこで十何年間修行したっていうことがわかっています。
当時の良寛の育った環境の人間が、どういう道を選ぶだろうかっていうふうに、ごく常識的に考えてみますと、ひとつは社会的な関心をもち、それから、学問的な関心をもって、自分が学問の笈であるか、あるいは、社会的な活動をし、たとえば、京都であるとか、江戸とか、そういうところに出ていって、そして、自分も一角の学者になろうとか、国のために国家・社会のことを考えて、それに奔走する人間になろうとか、そういうふうに考えるのが、たぶん普通だったと思います。良寛のなかにはもちろん、そういう考え方の分子が残っていますといいますか、確かにあるわけです。
しかし、良寛が選んだのは、少しだけ違って、いわば、世を捨てるっていいますか、最も社会的な関心、あるいは、社会的な活動、そういうものから、最も遠いと思われる出家っていうような、つまり、坊さんになるっていうような道を選んでいます。
この坊さんになるにも、様々ありますけど、曹洞宗っていうのは道元の開いた系統の禅宗なんですけど、禅宗を選んだってことは、もちろん、国仙がやってきて、それで日常接したっていう偶然性もあるでしょうけど、しかし、曹洞宗を選んだってことはどういうことを意味するかっていいますと、仏教のなかでも、最も、道元がそうですから、最も戒律と修行の仕方が厳しいっていう、そういう宗派を選んだっていうことを意味しているわけです。
ですから、良寛に、青少年期のどういうような動機、あるいは、悩みがあろうと、それを克服して禅宗の坊さんになっていくっていう、生き方としては最も手厳しい宗派を選んだっていうことができます。
道元については、良寛が詩の中で幾つも書いていますし、道元に非常に傾倒していたことがわかります。たとえば、「唱導詞」という詩を読みますと、禅的な思想というものが、仏教の思想の中で最も根本的なものであり、禅の思想の中で最も根本的なのは道元の開いた禅なんだ、つまり、いまでいう曹洞宗に属する禅なんだっていうようなことを言っています。
それから、「僧伽」なんて詩を見ますと、いまのお坊さんっていうのは、いわば檀家の人たちにいい加減な口先だけのことを教えて、いい加減な慕い方をし、それから、物をもらってぼんやりと生活しているみたいなことをしているけど、そういう仕方っていうのは、とてつもないよくないことなんだっていうような詩を書いています。
それからまた、「永平録を読む」っていう、わりに長い詩ですけど、道元の主著である『正法眼蔵』なんですけど、『正法眼蔵』を読んで、感激の涙に本を濡らしてしまったと、それで翌日、隣の人がやってきて、この本はどうして濡れているんだって言われて、涙で濡れたんだって言うことができないので、じつは雨漏りがして、そして濡らしてしまったんだっていうふうに答えたっていうような、そういう詩を書いています。道元に対する傾倒っていうのは、非常に深いことがわかります。
道元禅っていいましょうか、主著である『正法眼蔵』にあらわれている道元の思想っていうのは、どういう思想かっていいますと、また、どういうところを良寛が感心しているか、どういうところに共鳴を示し、そして、傾倒したかって考えてみますと、『正法眼蔵』をみればわかるんですけど、ひとつは道元が非常に厳しい正統意識っていうのを持っているってこと、正統意識っていうのは、政治政党の政党じゃなくて、オーソドックスっていう意味です。正統意識を非常に厳しく持っているっていうことです。
ということを、もう少し道元に引き寄せていいますと、道元が釈迦にはじまり、そしてそれが中国にやってきた仏教っていうものの正統性っていうものを継いでいるのは自分であるっていうような自覚といいますか、そういう意識が非常に強いわけです。自覚であるとともに自負でもあるわけですけど、また、自負であるとともに、それは、偏狭さでもあるわけでしょうけど、そういう意識がひとつ非常に強いということです。
それは、どういうことかっていいますと、つまり、道元が中国へ留学しているわけですけど、宋の時代にあたりますけど、宋の時代の中国における禅の思想っていうのは、どういうふうになっていたかっていうと、禅の思想の一種の転換期だったと思うんですけど、転換期であって、つまり、禅の思想が、中国から発生した思想である、禅にわりあいに近い思想である、南中国の思想ですけど、老子とか、荘子とか、中国思想っていうものと、それから、仏教の禅的な思想っていうものが、中国で融合されて、禅の思想がいわば中国化されている、そういうところに道元は留学したわけなんです。
しかし、道元が留学した、つまり、天童山ですけど、道元が留学したところのお坊さんがもっていた考え方っていうのは、厳しく禅の純粋性を守るといいましょうか、つまり、インド思想としての仏教を非常に強く守るっていう考え方のところへ道元は留学しているわけです。ですから、道元が同時代の宋の禅宗のお坊さんたちに対しても、手厳しい批判を下しているわけです。
いまの中国の禅宗の坊さんが流布している禅っていうのは、これは、荘子や老子の思想と集合したっていいましょうか、つまり、融合してしまった禅の思想であって、少しも、禅本来の、つまり、仏教本来の思想ではないんだっていうこと、それで、仏教本来の思想っていうものを保持しているのは、自分のお師匠さんである天童山の和尚であり、そして、それから、印可を許されてきたのは自分であるから、つまり、自分がいってみれば、釈迦に始まり、そして、その思想が幾代に伝えられて中国にいき、そして、そこから学んだ、つまり、最も正統的に学んできて、正統的にそれを守っているのは自分だっていう、そういう考え方と自負が道元にはあるわけです。それが、『正法眼蔵』のなかで、いちばん大きな柱になっているように思われます。
道元の、荘子とか、老子とかっていうものに対する批判、つまり、中国思想に対する批判っていうのは、どういうところかっていいますと、つまり、老子とか、荘子とかっていうのは、中国の禅宗のお坊さんは、これは仏教の禅の思想と非常によく似ているんだ、あるいは、同じなんだっていうふうにいうけれど、それはまったく違う、どこが違うかっていうと、老子とか、荘子とかっていうものの思想の中には、人間の永生っていうこと、つまり、永遠に生きる人間っていうような、そういう永生っていう観念が少しもないんだ。それはいわば、現世現実の世界にだけ生きていくときに、その生き方として、どういうふうに生きたらいいか、その場合に、天地と合一するっていう生き方が、いちばんいい生き方なんだっていうふうに言っているのであって、それはあくまでも現世現実にかぎって、この世界にかぎって考えられている思想であると、これに対して、仏教はそうじゃなくて、生まれる前から生命っていうのはどういうふうにあるか、そして、死んだ後に生命っていうのはどういうふうにあるかっていうような、つまり、永続的に続く生命、人間の生命について、やはり、根本的な解決の仕方をしていると、ここのところはまるで違うんだ、だから、荘子とか、老子とかを、禅の思想と同じようなことをいう中国の坊さんっていうのはダメなんだっていう、で、そうじゃない、自分がもっている、自分が伝えてきている思想が、ほんとうの仏教の正統の思想なんだっていうふうに道元は言っているわけです。それじゃあ、その批判っていうのは、現在の見方からして、どういう意味があるかっていいますと、なるほどそうなわけです。
つまり、釈迦以前のインド思想っていうのを考えてみますと、そこには、ひとつの霊魂観っていうのがあるわけですけど、その霊魂観っていうのは何かっていいますと、人間はこういう形のある肉体をし、形のある形態をしていると、しかし、そのなかに、精神っていうのは、眼に見えない非常に微細なものが、微細なかたちで、そのなかに籠っているんだ、宿っているんだっていう考え方です。
これは霊肉二元論じゃなくて、眼に見えるものっていうものを、これを非常に微細にしていくと、そうすると眼に見えないものになると、それで、眼に見えないものが、いわば霊魂であり、精神なんだっていう考え方です。
それが人間の形ある肉体の中に宿っていると、しかし、形ある肉体っていうのは、これは失われることもあると、その場合にどうするかっていうと、眼に見えない霊魂っていうのは、そこから出ていって、そして、他のもののところに宿るんだっていう考え方です。
他のものの中に眼に見えないものとして宿っていくと、そのようにして、人間の生命っていうのは、ずーっといつまでも続いていくものだっていう考え方です。つまり、それは仏教以前のインドのバラモンとか、それから様々なあれがありますけど、バラモンやなんかの思想の中に流れているわけです。
その考え方っていうのは、ひとつ、仏教の特徴であるっていうことがいえます。仏教の特徴っていうより、東洋思想の特徴といってもいいんですけど、ということがいえます。
それから、もうひとつのことがいえるのは、たしかに中国思想っていうのは、現実の世界のことだけしか限定していないっていうけど、非常に荘子、老子みたいに、インドに近いところ、つまり、南中国の思想っていうものを、非常に原始的なインド思想と似ているところがあるんです。つまり、もとは同じじゃないのかって思えるほど似ているところがあります。
確かにそこで、道元のいうとおりなので、仏教のほうが永続的な時間について、生命の時間について論究しているっていうことは、たしかにそのとおりのことだと思います。そこは、きっと道元の思想は、道元の批判っていうのは、きっと正当なんだと思います。
それから、もうひとつ、仏教と老子とか、荘子とかと違うところを、殊更、数え上げてみようとすると、もうひとつあげられるんじゃないかなっていうふうに思われます。それは、荘子とか、老子とかの思想の中には、肉体を修練させることによって、天地に合一したり、永続的な生命に合一したりするっていうような考え方は、荘子や老子にはないっていうことです。
ところが、仏教というよりは、インド哲学、インドの思想の仏教以前から流れている思想、つまり、ヨーガの思想でもそうなんですけど、そういうもののなかに、肉体的な、いわば生理的な修練をすることによって、つまり、肉体的な修練を加えることによって、いわば、天地と合一することができる、あるいは、眼に見えない自然の精髄みたいなものと合一することができるっていう考え方があります。
老子や荘子には、肉体を修練させてっていう観点が少しもありません。あくまでも、理念的な、観念的なものです。しかし、仏教以前のインド思想の中には、肉体自体を生理的に修練することによって、つまり、ヨーガの思想に非常に端的にあらわれていますけど、そうすることによって、天地と合一することができるんだと、そういう天地と合一したときに脱化することができる、つまり、無っていうところに到達することができるっていう考え方があります。それはたぶん、仏教と、それから、老子とか、荘子とか、つまり、中国思想と非常に大きな違いだと思います。
そのことは、かならずしも、道元はそのことは指摘していないのですけど、もうひとつのことは指摘しているわけです。つまり、仏教は永続的な生命について、ちゃんとした考え方をちゃんと出していると、人間に与えていると、しかし、荘子とか、老子とかは与えていないってことを言っています。
そこで、それじゃあ仏教は何をしたんだってことになります。たくさんのことをしたでしょうけど、ひとつのことは、いままで申し上げたことで、関連していえば、非常にひとつ重要なことは、釈迦がやった重要なことは、肉体を修練させて、天地自然に合一する、つまり、そこのところで、あらゆる現世的な、あらゆるものから脱化していく、つまり、人間っていうのはどうしたらいいのか、どうしたら永続的な生命を得られるかっていえば、それはいってみれば、そういう言い方をしてしまいますけど、身も蓋もないですけど、いまの観念ではそういうことになります。
つまり、無機的な自然っていうものに、自分をもっていけたら、そしたら、無機的な自然が自然に生命をなし、生もなし、死もなし、そして、喜怒哀楽もないように、そういうふうになれるっていうことなんです。
それは、インド思想の根本なんですけど、そこのところで、釈迦がやったことは何かっていいますと、それを現世的な悩みです、現世的な悩みっていうもの、つまり、悩みとか、愛欲とか、喜怒哀感っていうのはあるでしょう、インドでいえば、貧しいインドですから、貧しいインドで、王族、バラモン、それから、カースト制度で、自分を、職業からなにから全部決められちゃってる、そういう身分制の非常にはっきりしたところですから、そういうところで、それで、貧困なところですから、王族及びバラモンを除いたら、現在でもそうですけど、貧しいところですから、インドっていうのは。そういうところで、貧しい人間の悩みっていうのは、現世的な悩みっていうのは、どういうふうに脱却することができるか、究極的にいってしまえば、それは人間が肉体的な修練を重ねることで、うまくやれば無機物と同じようになれるっていうことなんです。
そうすると、そういうことによって、死んだ、生きた、あるいは、病気した、愛した、愛さなかったとか、貧しくて困ったとか、そういうことから脱却することができるっていう考え方、つまり、そこのところで、いわば、現世的な悩みっていうのは、どういうふうに解決するかっていうように、現世的な悩みをどうするかっていう意味で、現世の問題っていうことを持ってきたところだけが、釈迦っていうものの、仏教の意義なんです。
現在、流れている仏教の考え方は、全部それはそれ以前からあったものです。つまり、釈迦以前から、インドの原始思想としてあったものなので、そのなかでの釈迦の意義っていうものを、非常に根本的にいってしまえば、そういうことに位置するわけです。現世的な悩みっていう概念をそこに持ってきたっていうことなんです。それをどうするかっていう問題をもってきたことが仏教の意義なんです。つまり、釈迦の意義なんです。
それ以外の、如何にして自分を天地と合一せしめるか、あるいは、生死を脱却せしめるかっていう問題は、それ以前にも十分、インド思想としては考えられていることです。だから、釈迦の意義は、そこのところに、いわば現世っていう概念を導入して、殊に現世の悩み、あるいは、現世の苦しみとか、現世の貧困とか、そういうことの概念をそこへもってきたっていうところが、まず、釈迦の意義です。つまり、原始仏教の意義であるわけです。
それだから、いってみれば、道元のような見方からしますと、つまり、禅宗の見方からしますと、禅宗的な修行、座禅修行がそうですけど、禅宗的な修行こそが、いわば釈迦がやったそのことを最もよく伝えていることなんだっていうのが、いわば道元の根本思想なわけです。
結局、帰するところは、釈迦はいろんなことを言ってるけども、帰するところは、現世的な悩みっていうものを脱却するのに、どうして自分を天地と合一させるか、あるいは、どうやって、肉体的な契機をもとにして、人間でもない、動物でもない、植物でもない、もっと極端にいってしまえば無機物だ、自分を無機物だっていうふうに、肉体的な修練によってしてしまえば、それはもう生死もへちまもないんだ、つまり、自然が流れて流れていくように、人間も流れて流れていくことができるっていうふうに、そういう考え方なわけです。
そうすると、そこだけもっていきますと、禅宗っていうのが、いちばん仏教の根本をつかんでいることになっちゃうわけです。そういう考え方からすると、そういうふうになってきます。だから、道元は、その道で、とくに自分は、中国、つまり、宋の国に行って、そこでも、老荘思想に煩わせられない、生粋の、代々、釈迦から印可を受けてきた、つまり、応伝を許されてきた祖師たちを、ちゃんと辿ることができる、そういう師匠について自分は修行して、しかも、老荘思想っていうものに煩わせられないできたんだから、だから、自分は釈迦から受け継がれた仏教の正統な後継者だっていうのが、道元の自負であり、また、道元の『正法眼蔵』をつらぬいている根本思想であるっていうことができます。それじゃあ、良寛が感心したのは何かっていったら、まさに僕はそういうところだと思います。
それだから、道元の『正法眼蔵』っていうのは、読んでみますとわからないですけど、その厳しさっていうことと、それから、確信の強さみたいなもの、つまり、ひとつの過程的な、プロセスっていいますか、プロセスの描写をしないんです。断定するわけです。ビタッ、ビタッと断定して言い切ってしまっているわけです。どんなことでも言い切っています。その断定の凄まじさっていいますか、それと、その確信の強さだけは、誰が読んでもわかるんです。それで、自分が釈迦から正統に、第何十代目っていうのは自分なんだっていう、その自負っていうのと、そのふたつだから、確実に伝わるようにできているわけです。
良寛がまさに感心したのは、つまり、傾倒したのはそこに違いないって思われます。道元の思想は、原始仏教の思想そのものに過ぎないのですけど、他ならないのですけど、どういう特徴があるかっていうと、いってみれば、ここに対立するAっていうのと、それから、Aじゃない非Aっていうものとがあるとすれば、非Aが善を持っているとすれば、そうすれば、Aもまた善を持っているんだ。つまり、もし対立し、かつ、世界を2つに分ける概念っていうものがあるとすれば、その概念の一方が持っているものは、必ず一方も持っているっていう、そういう論理だと思います。そういってしまえば、そういう論理です。つまり、対立しているものが対立したままで、対立したものならば必ず、一方が持っているものを、必ず一方が持つものだっていう、そういう概念だと思います。
そういうことの、もうひとつは、山川草木は皆、仏性を持っている、仏の性質を持っているっていうふうに、言葉で言っていますけど、先ほど言いましたように、もし座禅その他の手段を講じて、つまり、肉体的手段を講じて、もし自分の息の仕方も全部、段々整えて、そして、自分を無機物と同じところに持っていけたとするならば、その時には、天地自然っていうものは、必ず仏性を持っているっていうふうに、必ず見えるはずだっていうふうに言っているんです。その時は、無機物的自然っていうものは、イコール仏だっていうことを言っているわけです。そういう思想だと思います。それは、べつに、道元の独創でもなんでもないと思います。しかし、道元はそういうことを強調しています。だから、そのことが道元の思想だと思います。
道元を支配している論理は、いま申しましたとおり、もし、非常に極端に相反する2つの対立があったとしたらば、片っぽが善を持っているとすれば、片っぽも善を持っているはずだ。片っ方が悪を持っているとすれば、片っ方も必ず悪を持っているっていう、そういうものなんだ。片っ方が花を持っているとすれば、片っ方も必ず花を持っている、こういうことだと思います。
その時に、何が問題なんだ、どこがそういう思想の境地の極致なんだっていうふうにみますと、自分を無機物的自然っていうものに合一せしめるようにしたときに、そのときに天地自然っていうものが、光明っていう言葉を使っていますけど、光明として映るか映らないかってことなんだっていうふうに言っています。
そのときにどうするかっていうこと、天地自然がどう映るかってことが問題なんだっていうことを言って、だから、もっとうんと合一がうまくいったら、必ずその時に、無機的な自然物っていうものが、必ずそれらを仏だって見るだろうし、そのときに光明っていうふうに、それが感ぜられるだろうっていうふうなことを言っています。
そのことが、いわば人間が生死を脱したり、苦労を脱したり、現世的被害とか、そういうものを脱したりする、非常に最短の、最も早い道っていうのはそれなんだっていうのが、道元の思想だと思います。
良寛が惹かれたのは、いわば、非常に絶対的な声調っていうことと、つまり、絶対的な声ってことと、それから、絶対的な正統意識です。つまり、釈迦の正統っていうのを、かならず系譜を辿って印可されたっていう、次々、師匠から印可を許されたっていうような、そういうふうに辿っていけば、釈迦からずーっときて、必ずおれのところに来るんだ。おれはそれなんだっていうことだと思います。そのことがきっと良寛を動かしたっていうふうに思います。
良寛はそれでもって、備中、岡山県ですけど、備中の玉島の円通寺へ行って、やはり十何年かそこにいるわけです。そこで、国仙から良寛は印可を許されるわけです。印可を許されるんですけど、それは、印可を許されたときに、国仙が良寛について言っているんですけど、それは良寛の自覚でもあるわけでしょうけど、つまり、道元のような厳しさとか、道元のような修行とか、そういうことに自分は耐えられないってことを、たぶん、良寛は十何年修行して、印可を許されてみて、それではじめてわかったんだっていうふうに思います。
道元(良寛)はそのことで自分を絶望したんだと思います。自分が曹洞宗の根本的な師匠のところへ行って、それで印可を許された。そして、そういうふうにいけば、自分は曹洞宗の衣鉢を継ぐっていいましょうか、衣鉢を継ぐ人間になっていく、世間的にもそうなっていく、そういう道をいきながら踏んだわけですけど、行ったわけですし、また、それを目指したわけでしょうけど、しかし、良寛は、自分は道元のようになれないっていうふうに、ゆくゆくはそういうふうにして、曹洞宗の本山である永平寺なら永平寺の和尚になってっていう、そういうようなこと、それで、いわば曹洞宗の全国的なあれを束ねていく、そういうふうに、おそらくは、なろうと思っていったわけでしょうけど、良寛はそれをなれないっていうふうに、自分を考えていったんだと思います。
どうして、そういうことが推測できるかっていいますと、道元が『正法眼蔵』のなかで厳しく、詩とか、文学なんかに凝って淫してはいけないっていいますか、文学なんかに凝っちゃダメだっていうこと、文学みたいなもの、詩文に淫してはいけないってことを、そんなのダメなんだ、堕落なんだっていうことを言っているわけです。それから、先ほどから言っていますように、老子とか、荘子とかの思想っていうのはダメなんだっていうことを明晰に言っているわけです。
ところで、良寛を支配した思想は、よく考えてみますと、ひとつは確かに、道元から受け継いだ、つまり、禅宗の曹洞宗の思想なんですけど、明らかにいえることは、良寛は詩や文学をやめたことがないってこと、つまり、やめたことがないというよりもむしろ、詩や文学のほうを本筋だと考えるほど、良寛は、詩や文学のほうに、生涯傾いていっているわけです。
むしろ、だから、ぼくらは良寛をなにとしてみるんだ、それは詩人としてみるわけです。良寛を詩人としてみるわけです。たぶん、みなさんもそうでしょうし、良寛がたとえば評価されるのは詩人としてだってことは間違いのないことです。それぐらい、詩や文章に良寛自身が淫していくわけです。打ち込んでいくわけです。
それは、明らかに道元の思想からいけば、まったく、許すべからざることであるっていうような、厳しく言ってしまえばそういうことなんですけど、良寛がその道をどんどんどんどんいってしまうってことがひとつ、良寛がいかに自分をあきらめたかってことの、ひとつの象徴だっていうふうにいえると思います。
もうひとつの象徴は、詩の中にも出てきますけど、良寛は荘子から非常に大きな影響を受けているんです。このことは、たぶん、良寛においては、自分が詩や文学をやめないってことと、それから、荘子の思想に、自分がずいぶん傾倒したってこととは、良寛の中ではきっとひとつであっただろうって思われますけど。しかし、とにかく、そのように荘子に対して、非常に打ち込んでいるわけです。つまり、荘子から非常な影響を受けています。
これは、例えば、近藤万丈っていう人のエッセイの中に、土佐の国に万丈が行ったときに、土佐の国の城下の近辺のところで、雨に降られて、道にちょっと入ったところに小屋があったんで、そこで雨宿りしようと思って行ったと、そしたら、そこにひとりの坊さんが、青白く一人の痩せこけた坊さんがいて、炉端にいたんだ。それで、雨宿りさせてくれないかって言ったら、それはもう結構だ、ただ食べ物もなにもないけどっていうことで、それはかまわないからっていうんで、炉端で泊めてもらったと。
ところが、その坊さんっていうのは、最初、口を利いただけで、あとはどんなに話しかけても、一言も口を利かなかったと、それで、この坊さんはキチガイじゃないかって思ったと、それで、ふたりとも炉端でごろりと寝転んで、翌日明けてみたら、まだ雨が降っていたと、それで、雨が止むまでもう一日泊めてくれないかって言ったら、それは結構だって、夕方になると、蕎麦がきみたいなものを作って、それを出してくれたと、それで、やっぱり口を利かない。
机の上をみると二巻の本があったと、見たらそれは荘子だった。ちょっとめくってみたら、そのなかに詩が書いてあったと、非常に字がうまいので感心して、自分が帰りがけの時に揮毫してくれっていうふうに扇子を出したら、絵をかいてくれて、字を書いて、それで、これを書いたのは越州の良寛だっていうふうに署名してくれた。
のちになって、30年ほど経って、『北越奇談』の中に良寛のことが書いてあったと、自分はそのときの坊さんが良寛だっていうふうに改めてそのとき思ったっていうエッセイを書いていますけど、それは、荘子っていうものを良寛がどれだけ読んでいたかっていうことの証左にもなりますし、修行中の良寛っていうのは、どういったかっていうことを窺うにたりるわけですけど。荘子っていうのは、あきらかに、良寛のなかに非常に大きな影響を与えています。
そのことから考えて、良寛が禅宗の坊さんとしては、曹洞宗の、つまり、道元の衣鉢を継ぐといいましょうか、正統を継ぐ、曹洞宗の坊さんとして、立っていこうっていう考え方は、いわば、印可は受けたでしょうけど、良寛には、自分は到底そうなりきれないんだっていうふうに、あきらめたっていうふうに思われます。それであきらめて、また、国仙和尚の、つまり、円通寺をまたとび出してしまうってことを良寛はやったんだと思います。つまり、そのときの良寛が、いってみれば、自分の生涯の目標から、いわば離脱していったわけですけど、その離脱の仕方を、良寛はいろんな言葉で、詩の中で言っています。
例えば、自分が孤独好きであり、他人に交わるのが嫌で、拙いから、到底、世間に出ていくことはできないんだっていうふうに言ってみたり、自分の中には、たちまちにしてわかっちゃってっていいますか、悟っちゃってっていう意味じゃなくて、つまり、なにかわかっちゃって、そしてまた、そこをとび出したくなっちゃうっていう、そういう性質が自分の中にある、それは「高跳」っていう言葉で言っていますけど、そういうふうにして、自分は曹洞宗なら曹洞宗の宗派の垣根から、すぐにまたとび出してしまっちゃうっていう、そういう言い方をしていますけど、自分の中にはそういう性格があるんだっていうようなことも言っています。
それからまた、自分は風光、風光っていうのは風景ですけど、つまり、自然の風物っていうものが、風物に淫してしまうっていいますか、打ち込んでしまって、そこにイカれてしまうところがあって、そのために自分は到底、世間並みのそういう交わりをやったり、世間並みに出世したりってことは、自分にはできないんだ。それからまた、金を貯えることもこともできないし、どうしてもボロを着て、一生わけのわからないことをしながら生きるってことになってしまうんだっていうふうな言い方もしています。
つまり、自然が非常に好きなんだ。その自然が好きだって意味は、決して、禅宗の仏教的な意味で、自然と合一するっていう意味あいで好きっていうのではなくて、ほんとうに眼前の山河や草木がほんとうに愛おしいって意味で好きだってことです。
そういうふうに、じぶんは自然を好いちゃうことがあるんだと、だから、じぶんは厳しい修行をして、曹洞宗の道元の衣鉢をするみたいな、そういうところには到底いけないんだっていうような詩をたびたび書いて、そして、自分に対して、自己評価といいましょうか、自分で自分の自己評価っていうのを下しています。
たぶんそれは、漢詩を通じて、漢詩によって自己評価を下しているので、言葉は足りないし、不自由でしょうけど、たぶん、良寛が自分で自分に対して加えている自己評価っていうのは、たぶんそれは当たっているのではないだろうかっていうふうに思います。
それは、良寛のもっている性格の悲劇でありますし、また、良寛のもっているどうしようもない堪え性のなさって言ったらいいんでしょうか、堪え性のなさでしょうし、また、どうしようもなく、つまり、道元流に言わせれば、軟弱で、つまり、文学みたいなもので自分を慰めないではおられないみたいな、そういう自分の性格っていうのもまた、良寛が自分自身で見極めをつけた、そういうところだっていうふうに思われます。
そういうふうにして、良寛は、禅宗、とくに曹洞宗の、つまり、道元系統の、つまり、永平寺系統の正統な思想と、それから、正統な衣鉢を継ぐっていう考え、つまり、青春時代の考えっていうものを、いわば、あきらめてしまうっていいますか、やめてしまうわけです。そして、郷里へ帰ってしまいます。郷里へ帰ってきてからの良寛っていうのが、たぶん、詩人としての良寛っていうことに帰着していくのではないかって思われます。
つまり、良寛はそこでも座禅をしたり、それから、仏教書を読んだりっていうようなっていうことをしているわけですけど、しかし、その読み方は、もはや厳しい修行を自分に課して、そして、曹洞宗の正統な後継者として、仏教の最も根本的な部分の衣鉢を継いでいくんだっていう、そういう目的とは、全然かかわらないところで、それでなおかつ、仏教的であったっていうことに、あるいは、座禅を組んだっていうことになるのだと思います。
つまり、それは、修行のための座禅というものでは、たぶん、なかっただろうというふうに思われます。むしろ、荘子や老子と同じように、いわば天地といいましょうか、天地自然っていうものと、ひとりでに一緒になって遊ぶみたいな、そういう感じ方でもって、たぶん座禅もやったのでしょう。つまり、厳しい修行者の座禅っていうものではなかっただろうっていうふうに思われます。
ぼくらが、良寛が傾倒していって辿った思想っていうのは、これを包括すれば、これはアジアの古典的な思想っていうふうにいうことができると思います。つまり、大きくいえば、アジア的な思想っていうふうに言うことができると思います。
このアジア的思想っていうものは、日本の歴史をはじめから現在まで、多大な影響下にあるわけで、やってきたわけですけど、歴史をくぐってきたわけですけど、このアジア的思想っていうものに対して、ぼくらが良寛なら良寛、つまり、近世思想としての儒学とか、老荘思想とか、仏教思想とか、それから、日本の思想に影響を与えたものとしての仏教思想、それから、中国思想です。論語、荘子、老子っていうような、そういう思想ですけども。つまり、そういう思想に対して、過去の人、つまり、良寛の時代の人、または、それ以前の時代の人、中世の時代の人、それから、いわば、古代の人、そういう人たちと違うことをいえるとすれば、ひとつしか言えないんです。
そのひとつっていうのは何かっていいますと、それは、我々がアジア的思想っていうもの、つまり、老子なら老子、荘子なら荘子、あるいは、仏教なら仏教の思想っていうものを、仏教の思想として、これを捕まえるっていうことならば、日本の歴史、つまり、奈良朝時代以降、ずーっとそれはやられてきているわけですし、それは、やってきているわけなんです。
ただ、ぼくらが仏教の思想にしろ、それから、中国の古典思想にしろ、ぼくらが違うことができるとすれば、なにかといえば、ぼくらが近代の西欧思想っていうものの洗礼を受けているっていうことなんです。
つまり、西欧思想の洗礼を受けたうえで、それじゃあ、仏教の思想っていうのは何なんだ、それから、老子、荘子っていうのはどういうんだ、それから、論語っていうのはどういう思想なんだっていうことを言えるっていうこと、つまり、全般的にアジア的思想っていうのは、何なのかってことを、つまり、ヨーロッパ思想の洗礼を受けたうえで、なおかつ、それを見ることができるっていうような、たぶん、良寛の時代の人は、良寛自身でもいいんですけど、良寛自身とぼくらとが違うところは、そこだっていうふうに思います。
それはどういうところかっていいますと、良寛にとっては、中国的思想及びインド的思想っていうものが、思想としての世界であるわけです。つまり、それ以外の世界は何もないわけです。だから、思想としての世界っていうのは、それだけなわけです。しかし、ぼくらは、ヨーロッパの思想っていうものも、いわば、同じ視野の中に入っているわけです。そのなかで、アジア的思想はどういう思想なんだ、つまり、世界史的な視野の中で、アジア的思想っていうのは何なのかってことが言えること、そのことが良寛とぼくらとが違うことなんです。違うことであるし、違わなければいけないことなんです。
つまり、違わなければいけないってことは、そこなわけです。なぜならば、良寛は近世の人ですし、ぼくらは現代の人ですから、つまり、ヨーロッパ思想の洗礼を受けたのちに生きている人間ですから、いわば、ヨーロッパ思想も含めた世界史的な視野の中で、それだったら仏教っていうのは何なんだ、荘子とか、老子とか、論語っていうのは何なんだっていうことを言えるっていうこと、つまり、それを見ることができるってことが、やはり、そこだけが違うことで、後のことならば、つまり、後のことならばっていうことは、仏教とは何か、仏教のうち大乗経とは何か、禅宗とは何かっていうことだったら、日本には腐るほど、一千年来、腐るほど優秀な人達が探求しているわけです。
しかし、それらの人が持っていなかったのは何かっていったら、ただようするに、ヨーロッパ思想、つまり、世界的視野のなかで、そういう仏教の大乗経の思想は何かとか、禅宗の思想とは何かっていうことを探求できなかったってことだけが、そこだけが違うんです。だから、もしぼくらに取り柄があるとすれば、世界史的な視野の中で、仏教の思想とか、中国の古典思想とかってことを取り上げることができるってこと、そのことだけが、ぼくらのいわば取り柄であるわけです。それ以外に何の取り柄もないです。
つまり、仏教とは何かとか、論語とは何かとか、荘子っていうのはどういうんだとか、そんなことだったら、過去に日本にも中国にも腐るほど学者がいますし、しかし、そんなのは問題じゃないってこと、つまり、それはいわば、アジア思想をアジア思想として突っついているだけなのであって、それはどうってことないんです。そうじゃなくて、ヨーロッパ思想っていうものの洗礼を受けた、つまり、世界史的な視野の中で、アジア的思想っていうのは何かっていうこと、それをいえることだけが、それが、そこから見たときに何か直撃するものがあるならば、それだけが問題だっていうふうに、ぼくには思われます。そこのところなわけです。
そういうふうに考えていきますと、アジア的思想っていうもののなかで、仏教とか、非常に初期の仏教からはじめていいんですけど、つまり、インド及び中国の思想っていうものは何かっていいますと、これはいってみれば、これはぼくが想定したわけじゃ、はじめて言ったわけじゃなくて、ヘーゲルがちゃんと言っているわけですけど、アジア的思想の中で、中国思想とインド思想っていうのは何かっていいますと、それは平地の思想だ、つまり、大きな河川の流域に広がった、いわば農耕地帯です。農耕地帯に発生した、そういう思想なんだ、それがインド思想であり、中国思想だっていうふうに分類することができるんです。
アジアでも高地があります。それから、小アジアのように、海に口をつけている、そういうところがあります。つまり、そういうところの思想と、また、平地の思想とは、ちょっとだけ違います。アジア思想とぼくらが言っている思想、インド思想及び中国思想っていうのは、いわば平地の、つまり農耕地帯、つまり、河川の流域に広がった平地です。そういうところで築かれてきた思想なわけです。
その思想っていうものの特徴として、こういうことが言えます。つまり、我々がアジア的っていっている言葉は、いっている概念は2つあります。2つの意味があります。1つは、いま申し上げましたとおり、アジアの地域です。つまり、ガンジス川の畔と、それから平面地と、それから揚子江、黄河の畔の、いわば湿地帯と、両方とも農耕地帯ですけど、そこで発達してきた思想なわけです。インド思想及び中国思想っていうのは、そういうアジア地域の、そういう地域で発達してきた、発展してきた思想であります。つまり、生まれてきた思想です。
それからもうひとつ、〈アジア的〉っていう概念は、ヘーゲルとマルクスがそういうことをちゃんと規定しているんですけど、〈アジア的〉っていうことはどういうことかっていうと、世界史的な視野でいいますと、古代っていうもの、世界史的な古代の以前にある段階を〈アジア的〉っていうわけです。
つまり、〈アジア的〉っていう概念は地域の概念ではありません。地域空間の概念だけではないってことなんです。〈アジア的〉と規定されるものは、それを古典古代といいますけど、古典古代時代以前に世界史的な意味あいであったものが〈アジア的〉っていう概念なんです。つまり、アジア的思想とは何かっていったら、古代以前にあった思想をアジア的思想っていうわけです。
ですから、アジア地域で発生したそういう思想はもちろん〈アジア的〉です。その〈アジア的〉っていう場合には、決して空間的な〈アジア的〉な、地域的な〈アジア的〉っていう意味合いだけではありません。時間的に〈アジア的〉です。時間的に〈アジア的〉ってことは、古代以前の時期のことを指します。つまり、原始時代の次に来るのが、アジア的世界史の時代なわけです。
だから、私たちがアジア的思想っていう場合には、アジア的思想を考える場合には、2つの考え方をしなければいけません。それは、アジア地域で発生した思想です。中国で発生して日本にやってきた、あるいは、インドで発生して中国にやってきて、それから、日本に来た思想だ、そういうふうに見ただけでは、その思想を見たことにはなりません。その思想を見たことにはならないのです。
その思想を見るためには、もうひとつ、古典古代的以前の段階にあった思想としてみなければ、その思想を見たことにはならないのです。それが、近世以前の東洋思想に影響を受けた日本の思想家たち、それから、良寛のような詩人たちと、私たちが違うところです。私たちと見方が違うところはそれだけのところなんです。つまり、時間的アジアっていうことです。
つまり、時代的アジアってものを古代以前に置かなければいけないってこと、つまり、古代以前に見合う思想として、アジアで生まれた思想というのを見なくちゃいけないってこと、そのことが私たちが持っている新しい視点なんです。それを見たとき初めて、思想っていうのが世界史的な視野っていうもので見られるってことなんです。
だから、そういうところで見ていきますと、じゃあアジア的思想っていうのは、特徴は何かっていいますと、だんだん良寛のところにいきますから(会場笑)、何かっていいますと、それは制度としていいますと、〈アジア的〉っていう概念は思想の概念でもあるし、それは制度の概念でもあります。それから、もちろん個々の人間のあり方の概念でもあります。〈アジア的〉っていう概念を制度の概念で捉えてみますと、どういうふうに特徴を捉えていったらいいかっていいますと、それは、人間の共同体社会の組み方っていうものに特徴があるんです。
その組み方はどういう特徴かっていいますと、一般にアジア的以外の思想では、例えば、頂点にある支配者、あるいは、権力者っていうものが、政治権力なら権力を握りまして、それが、自分の制度を敷く場合には、初めから終わりまで、それから、宗教から法律まで全部、自分なりの考え方で、全部、末端に至るまで組み替えていってしまいます。つまり、末端に至るまで制度をきちっと組み替えていくっていうのが、それがアジア的以外の思想の非常に特徴なわけです。
それに対してアジア的思想の特徴っていうのは何かっていいますと、元々、つまり、それ以前にある共同体、あるいは、共同体っていうのは村落でもいいですし、地方でもいいんですけど、共同社会っていうものがありますと、その社会はできるかぎりそのままに置いとくわけです。そのままにしておくわけです。これに対して手を加えないんです。その上に、支配的な共同体は、その上にのっかるんです。いわば、もとからあった共同体の頭の部分だけを組織するんです、つまり、かすめるわけです。そして、その上に乗っかるわけです。だから、それが〈アジア的〉っていう概念の世界史的特徴です。
つまり、アジア的社会っていうものの世界史的特徴っていうのは、挙げればたくさんありますけど、いちばん根本なのはそういうところです。つまり、〈アジア的〉っていうのは、もともとある共同体、それ以前にある共同体、例えば、天皇制なら天皇制を考えますと、それ以前に共同体があるとすれば、それに対して手をつけて、これをぶち壊して、自分に都合のいいように持ってくるっていうやり方をしないで、それは、自分の利害に反したり、自分に対立したりしないかぎりは、できるだけそのままにしておいて、その上に乗っかるわけです。
そして、どういうふうに支配するかっていうと、経済的には奉納です、貢物です。貢物を、もとからあった共同体の頭の人たちに、下からの貢物を取らせて、それを運ばせて持ってこさせるってことです。つまり、貢納制ってことが、アジア的社会、国家の特徴なわけです。そして、できるかぎり、もとからあった共同体に対して手をつけないってこと、つまり、温存しておくってこと、じぶんに対立したり、都合の悪くなったり、また、反逆したりしないかぎり、できるかぎり、もとからの共同体をそのままにしておく、もとからの共同体にある風俗習慣、宗教っていうものも、そのままにしておいて、その上に、わきから乗っかるか、そのひとつとして大きく乗っかるかは別ですけど、様々ありましょうけど、その上に乗っかって支配するっていうのが、そうすると、またその上に共同体ができるわけです。支配の共同体ができるわけです。それがまたいくつか全国に集まりますと、またその上に乗っかって、もうひとつ共同体ができるんです。それが支配する共同体です。もとの共同体はできるだけ、もとのままに残しておくっていうこと、それが、日本もそうですけど、アジアにおける共同体の組み方の、あるいは、社会の制度の成り立ち方っていうもの、宗教の成り立ち方、風俗習慣の成り立ち方の、非常に根本にある特徴です。
その特徴は、たぶん、明治以降、つまり、近代西欧の制度をたくさん受け入れていますけど、しかし、その部分は明らかに現在でもあるでしょうし、みなさんが、こう云えば思い当たることがあるだろうっていうふうに、ぼくには思われます。それは、みなさんの身辺っていうものをよくよく考えていって捉まえていきますと、思い当たるところがあるだろうと思います。それは、〈アジア的〉な社会の組み方の特徴っていうのは、そういうところにあるわけです。
ところで、そうであったとしたならば、そういうところでの思想っていうのは、どういうふうになりやすいかっていうことを考えてみますと、これは、良寛に関係のあることです。アジア的思想全般に関係がありますし、それから、日本における隠遁思想っていうもの、出家思想っていうものに関係のあることですけど、そうだとすれば。もし、そういうふうにして、もとからある共同体の上に、また新しい支配の共同体ができ、その上に、また新しい支配の共同体ができる、できるだけ、そのもとの底辺にある共同体における治め方、それから、風俗習慣っていうものを、できるだけ手を加えないように温存しておくっていうやり方っていうものを考えてみますと、仮に底辺にあるところの共同体で、いわば古代から受け継がれているような思想みたいなものがあるとすれば、その思想は、上のほうの共同体の勢力が、あるいは、制度がどういうふうに代わろうと、それは関係ないよっていう思想です。なるでしょう、当然。いわば、距離が大きくなるでしょう、思想の距離が。
つまり、いちばん最後に支配の頂点になった共同体の思想と、もとからあって少しも変わっていない思想っていうものとの距離の隔たりっていうものを考えますと、それは、時代が長いほどその隔たりは大きくなるっていうことがわかるでしょう。それからまた、思想が増えるほど隔たりが大きくなるっていうことがわかるでしょう。
ですから、この底辺の共同体のところで流布されている思想、あるいは、古代から受け継がれている伝統的な思想っていうものは、権力が誰がどう変わろうが、われにおいて何の関係があろうか、つまり、それは誰が支配したってそんなことは関係ないよ我々にはっていう、つまり、そういう権力がどう変わろうと、それとは関係ないよ、我々の生きること、生活とは関係ないよっていうふうな、考え方になるでしょうが、つまり、それが日本における隠遁思想っていうものの非常に根本的な問題なわけです。
それから、隠遁思想と言わなくても、みなさんだってそうでしょう。つまり、福田が総理大臣になろうが、社会党がなろうが、そんなの関係ないよ我々には、つまり、そんなの問題にもならないよ、それは関係ねぇよっていうふうになるでしょう。そういう考え方っていうのは、相当みなさんの中で、ぼくもわりに進歩的なつもりなんですけど(会場笑)、みなさんの中でもわりに進歩的なところは、ラジカルだとかそういうふうに思っている人でも、なおかつ、そう思うでしょ、そういうところが自分の中にあることを認めるでしょう。
つまり、なに言ってんだ、誰が代わろうと、そんなのたいして変わり映えしないよって、それは関係ねぇよっていう考え方っていうのはなぜ出てくるか、つまり、思想っていうのは制度にぶつからないでも、天然自然にぶつかれば済むっていうことです。
つまり、天然自然にぶつかればそれでいいっていう思想がなぜ成り立つかっていうこと、なぜヨーロッパでは、僧院の中に籠った特別の人とか、特別な自然詩人みたいな人を除いては成り立たないんだけど、どうして、東洋及び日本でもそうですけど、日本においては、なぜそういう隠遁思想、つまり、自然と遊ぶ思想っていうものが、なぜ成り立つか、つまり、制度に対する考察なしに、どうして思想が成り立つのだろうか、あるいは、もっといいますと、文学でもそうです。文学、詩歌っていうものも、どうして制度、人間臭さ、そういうものとぶつからないで、自然とのいわば交流のなかで、なぜ詩歌、文学からはじまり、思想、政治思想に至るまで、なぜ、そういうものが成り立つのだろうか、そして、それが特徴といえばいえるのだろうかってことを説明するためには、いまの〈アジア的〉っていう概念を、根本のところがそこにあるっていうところから掴んでいきますと、非常によく掴めるわけです。
その掴み方は世界史的な掴み方です。つまり、例えば、みなさんがどこかヨーロッパならヨーロッパに行かれて、ここはちょっと日本と同じようだなとか、そういうところがあったら、それは、やはり、ヨーロッパのその土地、その場所が、地域が、アジア的段階の思想を非常に多く保存しているってことを意味するんです。だから、それを〈アジア的〉と言っていいのです。それは、〈アジア的〉だなと言ってよろしいのです。
その場合には、〈アジア的〉っていう意味あいは、地域的アジアじゃなくて、時間的アジアです。つまり、古典古代の以前にあった段階、人類の歴史の段階としての〈アジア的〉っていうことです。そういうふうに考えたらいいんです。そういうふうに〈アジア的〉っていう概念のなかで、いわば、自然思想っていうものと、それから、隠遁思想っていうものは、そういうふうにして成り立っていくわけなんです。
こういう成り立ちっていうものを、それを掴んできますと、良寛について何が云えるかっていうと、良寛の思想も、良寛の詩歌も素晴らしいものですけど、その素晴らしさってものに、闇雲にぶつかって、ごちゃごちゃしてるっていう、もちろんそれは必要なことなんですけど、ごちゃごちゃしなきゃいけないんですけど、それと同時に良寛の思想っていうものをまるごと浮かび上がらせることができるのです。その浮かび上がらせることができるのは、世界史的な考え方の中に浮かび上がらせることができるっていうことなんです。
それは決して、ぼくが偉いわけでも、みなさんが浮かび上がらせることが偉いわけでもありません。ただ、ヨーロッパ思想っていうものの近代っていうものに対して、いちおうの洗礼を受けているから、私たちが、それは良寛に傾倒するとともに、良寛の考え方の根本のところを、そっくりそのまま浮かび上がらせ、こういうふうに眺めっていいましょうか、そういう眼もまた得ることができるわけなんです。
そのことがたとえば、良寛をあっちに除けちゃったぐらいにしてまで、なぜそういうことを申し上げたかっていうと、ぼくは素人ですし、たぶん、他の人が言えなくて、ぼくだけしか言えないだろうってことはそれしかないからです(会場笑)。つまり、それを言えなかったら、お話にもならないっていうことなんです。つまり、ぼくにとってはお話にもならんっていうことですから、強調したわけです。
良寛はたぶん、むしろ道元の曹洞禅の思想、曹洞禅っていうのは、禅宗の思想のなかでもまた厳しいので、禅宗でも臨済禅とか、いろいろあるでしょう、それに対して曹洞禅っていうのは、なにが特徴かっていいますと、曹洞禅っていうのは、座禅っていうのがあるでしょう、つまり、座禅っていうのが非常に根本的なものだっていう考え方が、ほかの禅宗でもいろいろありますけど、八宗なんとかってあるわけですけど、ほかの宗とどこが違うかっていいますと、座禅っていうのは、仏教の根本であるお釈迦さまが、それでやったんだよっていう、つまり、それで解脱したんだよっていうぐらい根本的にそれだっていうことです。
ほかの禅宗の宗派ですと、日常はぜんぶ禅であると、どんな行為も禅だ、こういうふうに言っちゃうわけですけど、道元が言ってますけど、そんなのはデタラメだって言っています。つまり、座禅っていうことは仏教の精髄である、仏教の精髄ってことは釈迦の思想の精髄であるっていうこと、その考え方です。それは、曹洞禅の非常に根本的な考え方です。ところが、座禅なんか殊更しなくたって、日常茶飯事やること言うことみんな禅にあらざるものなしなんていうのは、ぜんぜん嘘だっていう、デタラメだっていう考え方です。それは曹洞禅の特徴です。
そういう意味あいで良寛がたぶん座禅をしても、たぶん曹洞禅の思想からはるかに離れていきましたし、道元の思想から逸脱してもっぱら詩人文学者として、後半生を送ったっていうことは言うことができます。良寛の思想の根本的な部分はむしろ荘子なんかの思想に近いっていうふうにいうことができます。
たとえば、荘子・老子っていうものを先入見なしにあれすればすぐにわかるんですけど、荘子・老子、それから孔子の『論語』ですね、それを先入見なしにみなさんも読んでご覧になるとよろしいと思います。
そうすると、こういうことがわかります。老子・荘子っていうのは、これは南中国の思想っていうふうにいったら、非常にわかりやすいんだと思うんですけど。これは、制度に対する考察とか、道徳に対する考察っていうものは、非常に少ないってことなんです。
先ほどの言葉でいうと、〈アジア的〉、つまり、原始的段階末からアジア的段階の初期にわたる、そういうところで人間の考えが、思想が当面している問題を非常に重んじていることがわかります。それが、老子や荘子の思想なんです。だから、ここには、制度、道徳っていう思想はむしろないのです。むしろ、それは排するわけです。
つまり、道徳とか、善悪とか、それから、喜怒哀楽っていうものは、どうしてできてくるかっていうと、それは天から逃げようとするからだ、人間が天から逃げてきて、人間本意になろうとするから、つまり、天地自然から離れて、人間本意になろうとするところから、そういう道徳とか、それから、喜怒哀楽とか、それから、制度とか、そういうものが出てくるんだ、だから、それはむしろダメな考え方なんだ、だから、聖人君主の聖人なんていうのも、あれはダメなんだ。むしろ、聖人なんていうのがいるから大泥棒がでてきちゃうんだっていう考え方です。
つまり、制度に対する考察、それから、道徳に対する考察は、荘子・老子ではむしろ自由であり、無視されるわけです。いかにして、天地自然と合一するか、つまり、人間は天地自然から生まれてきたのであるし、死ぬときは、天地自然を部屋として、そのなかで眠るっていうことが人間の死である、それが荘子の考え方で、つまり、制度・道徳っていう考え方はないっていうのが、荘子・老子の特徴です。
それから、孔子になりますと、制度に対する考察っていうのが若干でてくるし、また道徳に対する考察はたくさんでてきます。それは、人間がどういうふうに道徳に処すべきかっていう考え方とどういうふうに制度的に処すべきかっていう考え方と、両方が含まれてきます。孔子なんかには含まれています。つまり、『論語』には含まれています。
それはなぜかっていうと、アジア的思想のなかでは、アジア的段階のわりあいに中期ないしは後期に出てきた思想っていうものを非常に多く保存しているんです。これが孔子の思想なんです。だから、わりあいに制度・善悪・道徳に対する、倫理に対する考察が『論語』なんかには多いわけです。
例えば、『論語』の中で、「徳は弧ならず。必ず鄰あり」みたいな言葉があるでしょ、これは一見すると道徳の言葉です。つまり、人間の徳のある人は決して孤立することはないんだと、必ず隣人ができるものだっていうふうに、みなさんも習ったでしょうし、ぼくもそう習いましたから、そういうふうに理解することはできるわけです。
しかし、これは同時に制度の問題です。つまり、徳をもって国家共同体を治めるならば、必ず隣国の、隣の共同体っていうのは、必ず近寄ってくるものだっていう、そういうことを意味しています。つまり、『論語』を読む場合には、2つの読み方が必要です。二重の読み方が必要です。これは『論語』の思想の非常に根本的なことです。
昔の漢文の先生は、そうじゃなくて「徳は弧ならず。必ず鄰あり」っていったら、徳の高い人間は、徳が高いものだから、孤立することがなくて、必ずおのずから隣人が慕い寄ってくるんだって、そういうふうに教えたでしょう、そして、みなさんも教わったでしょうけど、それはそうじゃないです。それは間違いだと思います。間違いだったと思います。
間違いではないですけど、そう思ったっていいですけど、しかし、それと同時に、それは共同体を治める原理としての徳っていうことです。つまり、君主っていうものは徳をもって、共同体あるいは小国家を治めるならば、そうすれば必ず隣邦は、隣の国は、隣の共同体は必ず自分たちと仲良くしようというふうに寄ってくるものだぞっていうふうに、あるいは、隣国の庶民っていうのは必ず自分たちの国へ慕い寄ってくるものだぞってことを意味しています。つまり、『論語』の読み方っていうものは、制度的かつ個人道徳的、両方を、いわば二重の含みをもって読まないといけないと思います。
その読み方を、なぜしなきゃいけないかっていうのは、先ほど言いましたように、〈アジア的〉っていう概念の中で、時間概念を入れればそうなるのです。つまり、世界史の中のアジア的古典、アジア的思想っていうのは、そういう概念の中で、『論語』っていうものを読んでいきますと、そうすると、これは、たしかに善悪、道徳の問題で、同時にそれは制度の問題、そこは、道徳と制度が未分化であった時代のもの、つまり、もっと言いますと、国王っていうものは、どうやって民衆を治めなければならないか、それは「徳」をもって治めなければならないっていうような、そういう人間的道徳と政治原理っていうものが、いわば混同して考えられていた、二重に考えられていた時代にできあがったものだからです。あるいは、その時代の考え方を多く保存しているものだからです。
だから、「朋あり、遠方より来たる。また楽しからずや」っていう場合に、たとえば、仲のいい友達が遠くのほうからやってきて、久しぶりにやってきて、一杯飲みながらおしゃべりした、それは楽しいじゃないかっていう意味には違いないと思いますけど、それはそれだけじゃありません。つまり、「朋」というのは、つまり、友人としての共同体です。つまり、隣邦とか、同盟国とか、そういうことです。そういう共同体が遠方から来た、つまり、遠方の国家、あるいは、遠方の小国家、あるいは、遠方の共同体が、ようするに、自分のほうに仲良くしようとか、同盟をしようっていうふうにやってきたら、それはいいことじゃないかってことを言っているわけです。つまり、その両方のことを言っているわけです。両方の含みをもっていっているわけです。
これは、なぜかっていうと、孔子の思想っていうのは、やはり、中国でも北のほうの、わりあいに早くから制度的なあれが発達したところで出てきたものだからだと思います。荘子とか、老子とか、これは南中国で、これはむしろインド・セイロン、つまり、そういうところとわりに近いところで生まれた思想で、そこでは何が保存されるかっていうと、初期アジア的な、つまり、制度・道徳以前の共同体です。以前の自然共同体っていいましょうか、人間が自然意識で生きていたっていうような、そういう時代の共同体の考え方、思想っていうのをより多く保存しているからだっていうふうに思われます。
だから、そういうところで、荘子とか、仏教とか、それから、『論語』とか、そういうものの思想っていうのは考えていかなければいけないと思います。そのなかで、ぼくは荘子っていうのは、いちばんいいと思います。つまり、いちばんいいと思いますっていうのは、いちばんよく整った思想だっていうふうに思います。それは、『論語』や老子よりは、もっとよく整った思想だっていうふうに思います。
たとえば、良寛が、たぶん荘子に、より多く、後半生、つまり、詩人としての良寛っていうものの思想を支配したものの大部分のものは、荘子の考え方を根本的な思想とし、それから、自分の若いときからの資質である風光、風光っていうのは風景です、あるいは、自然っていうものと慰安を感じざるをえないっていいますか、慰安を感じていく、そういう自分の資質っていいましょうか、そういうものが、詩人としての良寛っていうものを支配したっていうふうに思われます。
今度は詩人としての良寛の問題になっていくわけですけど、良寛はご承知のとおり和歌もつくっています。それから、漢詩もつくっています。長歌もつくっています。ぼくは、これまた素人のぼーっとした読み方なんですけど、ぼーっとした読み方では、ぼくは長歌がいちばんいいだろうなって思います。
長歌のなかには何がいいかっていいますと、すべてから律しきれない良寛の近代性みたいなものが、いちばんよくでてきているのは長歌じゃないかなっていうふうに思います。
ご承知のように、近世の和歌っていうのは、考えてみますと、あんまり和歌の良い時代ではないわけです。つまり、近世の和歌っていうのは、全般的にダメな時代です。つまり、和歌の時代は過ぎたっていうときです。和歌の時代が過ぎて、むしろ俳諧あるいは俳句の時代が、詩としては近世の支配的な詩の形式の時代だというふうに、詩の様式の時代だっていうふうに考えられます。
つまり、支配的な詩の様式っていうものから外れてしまいますと、得てして、光沢、艶っていうものを失っていくんです。個々の作家が失っていくだけではなくて、全般的に失っていくわけです。ですから、近世の和歌の水準っていうのは決して高いものではないっていうことがいえます。
だけれども、そのなかで、例えば近世の歌人っていうのを何人か挙げてみろって言われれば、それは人によって様々でしょうけど、ぼくならば、田安宗武と、それから橘曙覧と、それから良寛と、この3人が近世の歌人のなかでは最も優れた歌人じゃないかって思います。だけれども、近世の歌っていうのは全般的によくないですから、だから、ほんとうにいいかっていうふうに、ほんとうにいいのあるかっていうふうにいっていったら、そんなにいいのはないっていうふうに、ぼくには思われます。
それじゃあ、近世の和歌っていうのを大雑把に言うより仕方がないのですけど、大雑把にいいますと、どういうことになったかっていいますと、詠題っていいまして、実際の風景をみているかいないかにかかわらず、ある歌枕がありますと、歌枕を題にして、自在に言葉でもって歌をつくっちゃう、そこへその風景を見に行ったとかいう歌も、もちろん行かないでつくれるとか、そういうテーマ、題が与えられて、それに対して歌を詠んでいくっていうような、そういう歌の詠み方が古今集以来ずーっと発達して、それが主流になっていくわけですけど、それが、詠題の歌から事実そのままを歌うみたいな、そういうところに移っていったのが、近世の和歌の特徴だっていうふうにいうことができると思います。
なぜそういうふうに移っていったかっていうことは、2つの理由が考えられると思います。ひとつは、歌人たちが、歌枕であるからといって、行きもしない風景を習慣によって言葉だけで詠むみたいなことに耐えるには、あまりにも日常の、つまり、これは町民の社会ですけど、日常の社会の生活のあり方っていうものは、生々しくなって感じられるようになってしまったっていうことがひとつあると思います。
それから、もうひとつは詩の形式としての和歌形式、つまり、31文字ですけど、これが古今集以来の流れとしては、詩形としての緊張っていうもの、つまり、上の句と下の句の対比のなかで、対比と断絶のなかで詩がひとつあらわれるっていうような、そういうところを、段々、詩形として失っていったっていうことだと思います。詩形としての緊張性を失っていったってことはひとつあって、いわば詠題の古今集的な歌から、だんだんと事実詠、事実をそのまんま歌うみたいなところに…(テープ切れ)。
例えば、田安宗武の「つかふる人の、萩のはな末になりけるをともふしければ」という、これは、実際の萩の花を見て、事実、眼の前のことを詠んでいるんですけど。
きのふまでさかりを見むとおもひつる萩の花ちれり今日の嵐に
っていう歌は、これは良い歌だと思うんだけど、しかし、みなさんがちょっと読めばわかるように、良い歌だと思うけれど、しかし、ただ眼の前に見たそれを、ただ歌っているだけじゃないの、そのまま並べているだけじゃないのっていうふうに読めるわけでしょう。つまり、読めるものになってしまっているわけです。
これは、実朝の『金塊集』のなかの歌を本歌として作ったんだと思います。それが頭になって作ったんだと思いますけど。ようするに、眼の前にあるがままのことを、ただ言葉で、なんの変哲もなく並べてみたようなものじゃないかっていうふうに、そういうふうに読めるほど、詩の形としての緊張みたいなものはなくなってしまっているわけ、しかし、実際に歌をつくっている人はおわかりかと思いますけど、これはなんでもない眼の前の景物を、なんでもなくただ並べただけじゃないかっていうふうにいっけん見えますけど、ほんとうは良い歌で、うんと考えただろうって思われます。うんと考えて作ってこういうふうになっちゃったってことだと思います。
これはなっちゃうっていう問題だと思います。つまり、それが歌なら歌の時代的背景として、大雑把にいうならば、それは個々の作家がどういうふうにもがいてどうしようと、否応なしにそうなってしまうっていうものが、いわば歌の背景として考えられるわけで、背景として事実をそのまま歌うようにしか、歌が作れなくなっちゃったっていう、そういう必然っていうこと、歌の歴史の必然っていうところで、いわば近世の歌を考えていけると思います。
そのなかで、いまいいました、橘曙覧の歌と良寛の歌っていうのは、とび抜けていいと思います。とび抜けて優れていると思います。しかし、一般的背景として、いま申し上げました、事実そのままを歌っているだけじゃないかっていう背景だけは、両者の歌の中に、もちろん背景としてあるわけなんですけど、その背景の中でとび抜けて個性的になっていると思います。とび抜けて個性的という意味あいは、とび抜けて、自分の日常生活詠っていうものを、つまり、日常生活の隅々みたいなもの、そういうものを、よく自分で凝視する、つまり、自分で自分の日常生活をよく取り出すことができるっていいましょうか、自分で内省することができるっていいましょうか、日常生活の隅々まで、自分でよく見ることができる、自分の生活を見ることができるっていうような、そういう眼っていいますか、耳っていいますか、そういうものが抜群に優れていたんだというふうに思います。
橘曙覧の場合には、日常生活そのものが、いわば巷の、あるいは、浮世の生活ですから、つまり、浮世の生活が主題になってきます。良寛の場合には、先ほどから申しましたとおり、ひとりでに自然に囲まれて、いわば自然詠っていうかたちに良寛の場合には、当然なっていくわけです。
例えば、
こぼれ糸纚につくりて魚とると二郎太郎三郎川に日くらす
って曙覧の歌があります。
つまり、こういう歌っていうと、ひとつ、なんの変哲もなく、思ったままを歌っているだけじゃないかってことと、もうひとつは、みなさんの中にも、ぼくもそう思いますけど、みなさんの中にも驚きがあるはずで、近世、つまり、徳川時代にこぼれ糸で網をつくって、男の子が3人、魚をすくいにいって、一日中帰ってこないっていうような、まるで、眼の前に髣髴とするような、あるいは、我々が子どもの時にそうだったと同じような、そのことを、なんの変哲もありませんけど、非常に生々しく歌っている、これが徳川時代の歌かって思えるほど、非常に身近に生々しいっていう感じも同時にするだろうと思います。それは、曙覧の歌の特徴ですし、また、良寛の歌の特徴でもあります。
例えば、良寛の歌からひとつとってきますと、
はつとれの鰯のような良法師やれ来たといふ子等がこゑ〲
っていうのがあるでしょ、つまり、初めてとれた、初物の鰯みたいな良寛坊主が来たぜっていうふうに、子どもたちが声をあげて叫んで言っているって歌だと思いますけど。こういう歌っていうのは、なんの変哲もなく作られて、なんの変哲もなくなってしまっているわけですけど、しかし、この歌を詠んだときの生々しい感じっていうのは、ぼくらの子どもがそういうことをいってもちっともおかしくない、誰かが来て、からかって、そういうことを言ってもおかしくないっていうような、そういう光景が髣髴とするように歌われているわけです。
それは、いかに新しいかっていうことです。新しいかってことは、いかに生々しいかってことだと思います。いかに生々しいかってことは、日常生活のくまぐまっていうものが、いかに自分のものになっているかってことだと思います。
じゃあ、何がそういうふうに自分のものにさせるのであろうかっていうことは、たぶん、詩のひとつの思想なわけですけど、その思想の中に、とび抜けて、良寛の精神の生々しさっていいますか、生々しさっていうか、新しさっていうのか、そういうものがあるんだと思います。
これは、愚かで、ぼんやりした、なんでも子どものいうことを聞いている良寛っていうイメージじゃなくて、恐ろしく鋭く、人間をつかむことができる、それで、自分の生活っていうのは隅から隅までよくわかっているとか、おれはこういうふうに思っているのはこういうわけだっていうことをよーくわかっている、そういう良寛っていうのを思い浮かべたほうが、この詩についていうならば、この歌についていうならば、たぶん、そのほうが正しいんです。
そういうもので、抜群の鋭い精神の生々しさっていうものを持っていたっていうふうに考えられたほうがいいんです。それは、むしろぼんやりした良寛っていうのではない、正反対の抜群の優れた人間把握力を持っている、あるいは、生活把握力を持った良寛っていうのを思い浮かべたほうが、たぶん正しいだろうと思います。
それじゃあ、良寛の歌の新しさの問題っていうのは、どういうふうに流れていくかってことなんです。それは、このあとに構成的写生歌っていうふうに書いてみましたけど、どれでもいいです。例えば、
わが待ちし秋は来ぬらし今宵しもいとひき虫の鳴きそめにけり
っていう歌があるでしょ、これは、現代の歌人からいえば、古いっていうかもしれないけど、これは、明治時代の正岡子規とか、それから、長塚節とか、それから、伊藤左千夫とか、そういう人達の歌と比べたら、そのなかにピタリとはまります。それだけの新しさをもっています。
もちろん、正岡子規なら正岡子規自身は良寛の影響を受けていますから、逆にそういう歌を歌った面もあるのでしょうけど、そうじゃなくて、もっと根本的なところで、良寛の歌の非常に構成的な写生歌なんです。非常によく考えられた写生歌なんですけど、それはたぶん、明治初期の十年代の根岸派ないし子規派の歌っていうものの写生歌っていうもののなかに入れて、ちっともおかしくないんです。それだけの新しさっていうもの、あるいは、相続性っていうものをもっているってことがいえると思います。
ところで、良寛の歌のなかで、ぼくにとっては難解な歌だと思うんですけど、難解な歌があります。それは、最後にあげときましたけど、
風は清し月はさやけしいざ共に踊り明かさむ老の名残りに
っていう歌とその次の
ひとの家に宿る
(他人の家に宿を借りたってことでしょう)
浮雲の待事も無き身にしあれば風の心に任すべらなり
ひとの家を辞す
(他人の家から帰るってことでしょう)
いざさらば我れはこれより帰らましたゞ白雲のあるに任せて
っていう歌があります。これは、ぼくにはたいへんむずかしい歌のように思われます。むずかしい歌っていうことは、こういう歌はないっていうこと、そのとおりなんでしょうけど、こういう歌っていうのは、ほかの人はつくらないんです。
たとえば、「浮雲の待事も無き身にしあれば」っていうのは、浮雲のように、誰も家に帰っても待っている人のいない一人ぼっちの自分だからってことでしょうけど、「風の心に任すべらなり」でしょう、他人の家に泊まるってことと、だから風の心に任せるべきだってことと、どういうふうにつながるのでしょうか、つまり、たとえば、我々でも他人の家に泊まるときに、家にどうせ帰ったって留守なんだから、泊まっちゃおうって考えることはあります。しかし、そのときに、ぼくらならぼくらは、それは風の心に任せようっていうふうには言わないし、第一そういうふうに発想しないわけです。そこがむずかしいところなんです。
それから、三番目もそうです。他人の家から帰る場合に、自分はこれから帰りますよっていうんでしょ、「たゞ白雲のあるに任せて」っていうでしょ、これは、さあ帰ろうかっていって、白雲のあるに任せて帰ろうかっていうふうに、ぼくらは言わないわけです。それから、ぼくらが言わないだけでなくて、並大抵の自然詩人っていいましょうか、自然を愛する詩人っていうものでも、こういうことは言わないんです。
だから、こういうことを言うってことは、なにかっていうふうに考えますと、ひとつは良寛のイデオロギーだっていうふうに思うんです。良寛がこういうところでは、たとえば、荘子なら荘子、あるいは、曹洞禅なら曹洞禅の理念っていうもので、そうとう身を鎧っていて、それでつくっている歌じゃないかなっていうのが、ひとつの理解の仕方です。
これは良寛にとっても、相当わざとらしい歌じゃないのか、つまり、これは禅とはかくあるべきものだとか、それから、荘子の思想とは、かくある天地と合一すべきもんだとか、そういうものがあって、それがこういう歌をつくらせているんじゃないかなっていうふうに思われるわけです。どうしても、それがひとつの解釈なんです。
それから、もうひとつの理解の仕方っていうふうに考えれば、良寛っていうのは、もしかすると、ほんとうにそう思っていたんじゃないかっていうことがひとつの解釈です。つまり、この人は、他人の家に泊まる時とか、他人の家から帰る時でも、やっぱり、風の心とか、白雲とか、そういうのを持ってこなくちゃ、ちょっと収まりがつかないような、そういう人だったんじゃないかなっていうのが、ひとつの解釈の仕方です。
つまり、良寛の性格のなかには、リアルなものと、現実的なもの、あるいは、日常生活的なものと、それから、自分の空想ないしは観念の非常に極端なものとが、いわば良寛の中では、普通の人のような距離になくて、普通の人とはちょっと違った距離にあるものだから、こういう歌ができたのじゃないのか、それは良寛の資質ではないのか、つまり、良寛のほんとうにむずかしいところっていうのは、そういうところじゃないのかっていうふうな理解の仕方っていうのがひとつなんです。
どちらの理解の仕方をとったほうがいいのかっていうのは、ぼくにもわかりません。ただ、ぼくは非常にわかりやすく言っちゃって、これは良寛が自然というよりは、このときは禅のイデオロギーとか、それから、荘子のイデオロギーとか、そういうものでもってバーッと下の句をそういうところにもってっちゃったんだよっていうふうに理解するのが、非常に常識的な理解の仕方でいいわけです。
だけれども、ほんとうはそうじゃないかもしれません。つまり、良寛のとてもむずかしいところなんです。この人は童心を持っていたから、子どもと一日中、毬をついて遊んでいて、このひと平気だったんだっていうふうに言っちゃえば、そうすれば簡単なんです。人間、そういうふうに理解できたら、非常に簡単なんですけど。
しかし、そう考えるべきものじゃないかもしれないです。つまり、我々が考えて、我々が一日中、子どもと毬をついて遊んでたとか、なにか用事があるんだけど、用事のことなんか忘れちゃって、途中で子どもと会ったら遊んじゃって、一日中、毬をついちゃったっていう場合を考えてみたら、それはちょっと、「おれうかうかしちゃったよ」っていうんじゃ済まされないわけです。
つまり、それは、なにかであるわけです。行為自体がなにかを意味しているのです。それを、良寛が童心を持ったからっていう理解をしたら、なにも理解しないのと同じなわけです。つまり、それだけ、子どもと毬をついて、自分の用件を忘れちゃったとか、つまり、お米がないから托鉢にいったんだけど、途中で子どもと会ったから遊んじゃって日が暮れちゃったとか、それはちょっとやそっと間抜けでも、それはできないですよ、それは間抜け以上の何かがなければできないです。そうはならないっていうふうに思うんです。そういうふうになるには、それが意図的じゃなくてもいいんですけど。それは何かだと思います。
それは何かだっていうのを、いってみれば、他人の家に泊まるのも、他人の家から帰るときでも、なにか白雲が浮かんだりとか、風があれしているってことをスーッと思い浮かべなければ、おられないような、自分がそういう現実と観念っていいますか、位相っていうものとの距離の遠さっていいますか、ちぐはぐさっていいましょうか、そのことが良寛の本質であるかもしれないのです。そこに良寛の難解さがあるんじゃないかっていうふうに考えられます。そのふたつの解釈が可能だと思います。
これは、たとえば、漢詩から長歌のほうへいきますと、もっとそのことが非常にはっきりと極端にわかるようになると思います。そこのほうにいってみますと、たとえば、漢詩と和歌と長歌の表現っていうのがあるでしょ、同じことを主題にした表現を3つ並べたわけです。
良寛はたぶん、自分では漢詩がいちばん打ち込んだっていうふうに良寛自身は考えていたでしょうし、良寛自身は、自分の漢詩がいちばん良いし、本筋だっていうふうに考えていたっていうふうに、たぶん思われます。
ところで、ひとつは、ぼく自身が漢詩っていうものを本格的に鑑賞できないんです。つまり、漢文の素養がないんです。だから、勘でしか、これは良い詩だとか、これはそうじゃないとか、勘でしかいえないところがあります。だから、あまり正確でないんですけど、ただ、漢詩っていうものは、対句っていうものを、もとにして展開していきながら、和歌に比べたら、かなりな物語性っていったらいいんでしょうか、物語性とか、それから、心の起伏のひだといいましょうか、それを和歌に比べたら、より多く表現できる詩形だっていうことだけはいえると思います。
たぶん、良寛はそういうところから、つまり、人間の心の起伏っていうものをよく捉えるっていう方法を、たぶん漢詩のやり方の中からつかんできたんじゃないかっていうふうに思われるんです。だから、漢詩で、同じ手毬つきの歌をあれしますと、たとえば、
裙子は短く褊衫は長し
騰々兀々只麼に過ぐ
陌上の児童忽ち我を見
手を拍ちて斉しく唱う放毬の歌
じぶんは衣と短いのを着て、悠々歓々したり、兀々したりして、毎日毎日過ぎていっているっていう、それで、街の路上で子どもたちがいて、それで自分を見て、子どもたちと手毬唄を歌ったっていう、そういう詩だと思います。
それを、たとえば、良寛の和歌でいいますと、
霞たつながき春日を子供らと手毬つきつゝこの日くらしつ
っていうふうな表現になると思います。そうすると、これだけの表現と漢詩の表現を比べれば、漢詩のほうがはるかに情景なり、気持ちの起伏なり、つまり、自分の服装からはじまって、自分の歩いている姿が髣髴とするような、自分の気持ちを次の行で歌って、むこうに街の道の上に子どもがいて毬をついている、それで、いっしょに手毬唄を歌って遊んだっていう、いわば情景の起伏と推移っていうものを、和歌に比べたら、より多く表現しているっていうことがわかるわけです。
ところで、今度は同じ手毬つきの長歌ってことになります。
霞たつ ながき春日に
飯乞ふと 里にいゆけば
里こども いまは春べと
うち群れて み寺の門に
手毬つく 飯はこはずて
そがなかに うちも交りぬ
そのなかに 一二三四五六七
汝はうたひ 吾はつき
吾はうたひ 汝はつき
つきてうたひて 霞たつ
ながき春日を 暮しつるかも
これになると、もしかすると、みなさんはそう思わないかもしれないけど、このなかでいちばん自由に起伏ある精神の動きと、それから、起伏ある情景の動きっていうものを、いちばんよくやれているのは長歌っていうことがわかると思います。
これを元々同時代の橘曙覧でも、香川景樹もみんな長歌をもっていますけど、その長歌と比べれば、とてもよくわかるのですけど、これだけ自由な長歌っていうものができているのは、近世には良寛に限るといっていいくらいで、自由な表現です。
ですから、この手毬つきの長歌は明治の初年の新体詩ですけど、新体詩の初期の、つまり、五七調の新体詩です。そこのところに入れても、初期のものだったら、透谷なら透谷以前だったら、そんなにおかしくないぐらいに、よくできたものです。つまり、よく微細な起伏と、微細な事柄の起伏と状況を歌い切っているわけです。
では、良寛はどうして方法としてそういうものを得られたのかって考えてみますと、それは、たぶん、ぼくは漢詩を非常によく主として若いときから修行していたものですから、漢詩を非常によく作っていた、その作り方が、和歌をつくっている良寛じゃなくて、漢詩を作っている良寛っていうものが、展開の仕方っていうものは、漢詩から学んで、そして、長歌をつくっているものですから、非常に詳細な、微細な心の情景の動きっていうものを長歌にすることができているんじゃないかって考えられます。
そして、もうひとつ、もっと根本的なところにいきますと、やはり、良寛のもっている、いってみれば、精神の新しさっていうものに、帰着してしまうわけですけど、その新しさっていうものは、たぶん、町人社会っていうものの、非常に賑やかな豪遊っていうようなものに、生活の生々しさっていいますか、一種の沸騰しているあり様っていうもの、それから、なにか不安っていうものもあるわけですけど、そういうようなものに対して、非常に鋭い眼差しっていうものを良寛がいつでも持ちえていたっていうような、そういうことに帰着するのだろうって思われるわけです。
だから、ここではいってみれば、漢詩、それから、和歌っていうものを、いわば自分の中でくぐっていって、そして、長歌っていうところに出ていったときに、その長歌が非常に見事な、つまり、明治以降の新体詩っていうものに接続していく、そういう表現の新しさ、それから、微細さ、それから、生々しさ、それから、心の起伏っていうものを獲得しているだろうっていうふうに思われます。
その経緯は、たぶん、漢詩からいって、和歌へいって、それで長歌っていうような、そういう、いわば回り道っていうことを通ることによって、たぶん、良寛のなかでは、方法としては、獲得されていただろうなっていうふうに思われるわけです。
それから、今度は良寛の精神の難解さってもの、それから、新しさってものと関連していくわけですけど、そういう問題っていうのを最後に申し上げてみます。それは、いちばん良いのは、良寛のやっぱり長歌なんですけど、良寛の長歌っていうのは、ちょっといいと思います。例えば、長歌のなかに「眠れぬ夜」っていうのがあります。
この夜らの いつか明けなむ
この夜らの 明けはなれなば
をみな来て 尿をあらはむ
こひまろび 明かしかねけり
ながきこの夜を
(途中テープ切れ部分補足)
…この夜が明けたらば、誰かお手伝いの女の人が来てくれて、それで自分のしてしまった尿を取って洗ってくれたりするだろう、こういうふうに病気で苦しむ自分にとって、夜中じゅう早く女の人が、夜が明けて来てくれたらいいって悶え苦しんで、なんの病気かわかりませんけど、苦しんで眠れないんだっていう、そういう歌です。
みなさんまだお若い人が多いからあれでしょうけど、お年寄りなら非常によくわかると思うんです。相当きつい歌なんです。つまり、いってみれば、「苦」の歌なんです。これはいわば、生理的な苦悩、つまり、年とって病気で、病身で起き上がることもできなくて、尿は垂れっぱなしでっていうような自分が、痛くて苦しくて、誰かお手伝いの女の人が早く来てくれればいいなって、悶々としているっていう歌ですから、病苦の歌ですけど、そこにある「苦」の表現っていうのは、もちろん、近世の長歌、それから、明治初期の新体詩のなかに、「苦」っていうもの、人間のそれは身体的な、つまり、病気の「苦」であろうと、社会的な「苦」であろうと、「苦」っていうものを歌の、詩の主題にできたっていうのは、もちろん、近世で誰もできはしないんですよ、それから、明治十年頃までの日本の詩の形態では、そんなものは主題としてもダメです。
精神として、「苦」を歌って、「苦悩」を歌って詩になるっていう考え方はまったくないのであって、つまり、だから、明治十年代までの新体詩なんか見てきたら、そしたらば、「苦」を主題にして詩をつくったっていうものはないわけなんです。
だから、この身体の病苦を歌いながら、同時に生死の「苦」を表現しているような、これは、良寛にしてみれば、じぶんが道元の思想から、つまり、天地と合一したり、生死を超越したりっていう、禅的な思想から最も遠ざかっている自分っていうものを凝視せずには、こんな詩はつくれないわけです。最も遠く、仏教の生死を超える悟りの世界、あるいは、禅の世界の境地から、最も隔たってしまった、そういう自分の姿っていうものを、じぶんで凝視せずには、こういう詩はつくれないわけです。
それは何かっていったら、それは良寛が堕落したからじゃないんです。良寛の苦しみの中に、苦悩を詩にできる、そういう詩に表現できる、具現化できるっていうこと、そのなかに、良寛のいかにアジア的な思想っていうようなものの中から、いかに近代的な思想、近代っていうものを、いかに良寛がつかんでいくか、つまり、近代の人間苦、あるいは、社会苦っていうものに近づく、「苦」の表現っていうものを、自分の病苦をもとにして、また、自分の仏教想から最も遠ざかった、そういうところをもとにして取得した、自分の精神状態をもとにして、良寛がいかに表現したかってことを意味しているわけです。
だから、ここのなかに、良寛の、人間が人間であるっていうこと、人間はべつに天地と一体になっているわけじゃないんです。一体になるわけじゃないんです。一体になるのが理想でもないんだと、生死を超えるのが理想っていうわけでもないんだと、つまり、我々は社会の制度のなかでは、そして、同時にそれは自然のなかでもいくかもしれない。そういうなかでの人間の問題っていうもの、それは、「苦」の問題でもありますけど、その問題をいかに無意識のうちに捉まえてきているかってことを意味しているわけです。
つまり、良寛の青年期に志した思想っていうもの、志したところからいえば、これは、いわば挫折の極地に違いないことなんですけど、しかし、我々からみると、ここにいわば、近代っていうものの萌芽っていいましょうか、芽生えっていうものが、その「苦」の表現のなかにあるっていうことなんです。
このような「苦」の表現が、良寛の場合には、病苦、身体苦あるいは自然苦なんですけど、これは、この「苦」の表現を新体詩の表現のなかにできるようになったのは、できるようにしたのは、北村透谷、明治二十何年代ですけど、北村透谷が初めてなんです。
北村透谷っていうのは、なにかっていいますと、どういう詩人かっていいますと、抜群の近代詩人なんです。抜群の詩人なんです。それは花鳥風月を、いわば友とするみたいな詩の中から、初めて「苦」の表現っていうのは可能だっていうことを切り開いていったのは透谷なわけです。
ところで、いわば良寛の「苦」の表現は、透谷のように、つまり、社会苦の表現、あるいは、ストレートな人間苦の表現ではなくて、いわば生理的な病苦っていうものを通じての老いの苦悩みたいなものを、表現ですけど、いわば「苦」の表現っていうもの、「苦」をテーマにすることができるっていう、「苦」テーマにして詩となりえるんだっていうような、そういう花鳥風月、あるいは、自然に取り囲まれた、そういう中から「苦」を取り出してくるっていうことは可能だったっていうことは、それはいうことが近代に対して、ひとつの先駆的な表現だっていうことが、逆にいえるわけです。
しかし、これは悟りっていうことがあるでしょ、仏教的な悟りとか、あるいは、荘子的な天地と合一することによって、喜怒哀楽から、つまり、喜怒哀楽に惑わされないようにするっていうような、アジア的思想、アジア的表現っていうものからいえば、最も遠い、最も堕落した表現かもしれないけど、これは逆にヨーロッパが招き寄せた近代っていうもの、ヨーロッパの伝統思想が招き寄せた近代思想っていうようなものから考えると、近代思想の境界へあげているわけです。
つまり、ここのところで、良寛がはじめて、大げさにいいますと、世界史的な観点からいう、ある思想の次元に良寛がここではじめて顔を出しているっていうことがいえるわけです。透谷も、たとえば、明治27年、「ゆきだふれ」っていう詩をつくってます。その一部分ですけど、はじめの
瘠せにやせたるそのすがた、
枯れにかれたるそのかたち、
何を病みてかさはかれし、
何をなやみて左はやせし。
みにくさよ、あはれそのすがた、
いたましや、あはれそのかたち、
いづくの誰れぞ何人ぞ。
里はいづくぞ、どのはてぞ。
それから永遠と続きますけど、これはそのはじめなんですけど、この表現っていうのは、いってみれば、良寛の「眠れぬ夜」っていう表現と対になっているくらいよく表現が似ているわけです。
ただ、良寛は、これは意識だから、つまり、わたしはこうなんだっていう、わたしは眠れないんだっていうふうなことを言っているわけです。これは、透谷はいわば物語性として、「ゆきだおれ」ってものを主題にして「苦」の表現をしているっていう、社会苦の表現をしているってことです。
それからもうひとつ、良寛の長歌の新しさなんですけど、それは、ぼくが漢詩の表現なしにきっとありえなかったと思うんですけど、それは、物語性ってことなんです。物語性をまず最初に詩に導入していったっていうことなんです。
これは例えば、良寛の「松山の鏡」っていう、これはこの地方の、たぶん民話みたいなものにあるものだと思います。
越路なる 松の山べの
乙女子の 母に別れて
忍びずて 逢ひ見むことを
むらぎもの 心にもちて
あらたまの 年の三とせを
恋ひつゝも 過ぐしやりつれ
くれ〲と 年の師走の
市に出でて 物買ふときに
ます鏡 手に取り見れば
わが面の 母に似たれば
母刀自は こゝにますかと
喜びて います日のごと
言問ひて ありの限りの
価もて 買ひて帰りて
朝にけに 見つゝ偲ぶと
聞くがともしさ
っていう、たぶん、良寛がこの地方の伝えられた民話をもとにして、それを長歌につくったんだって思います。
べつにむずかしいことじゃなくて、小さい時に、母に別れてしまった女の子が、三年間も経ったんだけど、母親が恋しくて恋しくてしょうがないと、あるとき街に出て、ものを買いに行ったら、そこに鏡が売っていたと、鏡をみたら、自分の顔が母親の顔とそっくりだったと、だもんだから、ありったけの金をはたいて、その鏡を買ってきて、母親が恋しいと思うときには鏡を見て、映ったじぶんの顔に問いかけて母親を偲んだって、そういう歌です。それだけのことです。そういう言い伝えをきっと長歌にしたんだと思います。
こういう新体の詩っていうものが、物語性を獲得していくっていうのは、日本の近代詩の歴史のなかでは、明治18年、湯浅半月というキリスト教の牧師ですけど、湯浅半月の「十二の石塚」っていう、これは旧約聖書の物語を長詩にしたんですけど、それがはじめてです。
物語性っていうものを、花鳥風月っていうような風月詠っていうものから、物語性をどういうふうに獲得していくかってことが、花鳥風月をもとにした自然詠のなかで、どれだけ人間、つまり、個人の心の起伏というものをどれだけ表現していくことができるかっていう試みと同じことを意味します。つまり、それをストレートに内面的にできない詩の段階では、それは物語性としてそれを導入する以外にないわけです。
ですから、まず最初に花鳥風月を歌ったような新体詩のなかに物語性を付け加えていくっていう試みが、まずなされていったわけです。それは「十二の石塚」っていうのが、そのはじめなんですけど、これも非常に長い詩のある一部分なんですけど、
水枝さす楓のわか葉
影見えて池のほとりの
すゝしさに驢馬引とゞめ
休ふは母にやはあらぬ
その子かも十二のいしを
ゆびさして誰の記念ぞ
こは何ぞその故あらば
しらまほししらしめたまへと
問ひし子の顔みてえみつ
たらちねの母のうれしさ
岩が根の草のみどりに
いすわりてうちかたらふは
久方の天地つくる
神の友信仰の父
っていう、まだ延々と続きますけど、これがいわば新体詩が物語性を獲得していた最初の詩なんです。これは明治18年になります。
いわば良寛の「松山の鏡」っていうのは、その表現の新しさっていうものと、それから、物語性の導入の仕方っていうものと、まさにそれに対して先駆的であるっていうことができます。
このことは先ほどからいいますように、良寛のなかにどんなふうにか、良寛にとっては近代的自我を目指したわけではなくて、むしろ良寛にしてみれば、近代的、あるいは、自我っていうものをどれだけ殺して、そして、自然と合一し、天地と合一し、あるいは、仏を合一するっていうところにどうしていくかっていうような修行を自分の思想の課題として課した人でもあるし、また、ある意味では、それは荘子とか、曹洞禅の思想を一生失わなかったっていう意味合いでは、それを一生保ち続けたわけですけど、これは幸か不幸か、また良寛の意に反してか、意のとおりか、それはなんともいうことができないんですけど、そういう良寛の志したもの、あるいは、良寛の志して破れた理想というものから考えますと、そういう理想の破れ目っていうものから、いわば破れ目から顔をのぞかせるように、そこに良寛の、社会苦であり、近代的な苦であり、病苦でありっていうものを通じて、いわば、それは西欧的な自我っていうものの影でもありますけど、また、近世以降の方の制度的な階層っていうものを超えて、いわば民衆が抗議してくるっていうような、そういう生活の生々しさっていうものを、表現のひとつなんですけど、そういう自我、つまり、我々からみて、ちっとも不思議とも、特別とも思えないような、そういう近代っていうものの世界性に対する先駆っていいますか、芽生えっていうものが、とくに良寛の長歌のなかにあるわけです。
これは良寛にとって本意であったか、不本意であったかはわかりませんし、また、良寛の生涯にとってこれは失敗だったのか、失敗の結果であるのか、あるいは、そうじゃないのか、それもわかることができないわけですけど、やはり、どういうふうに考えても、良寛が意図したもの、意志したものに反してまでもやっぱり出てきちゃったもの、そのものの新しさ、それからまた、そのもののまた一方では難解さってこともあるのですけど、そのことはたぶん良寛の非常に本質的な問題じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
いささか、今日、ぼくがお話したことで付け加えることがあるとすれば、そういうことに要約して思索することができるんじゃないかなっていうふうに思います。いつかのおりになりましたら、しゃべることじゃなくて、書くことで、良寛のことを改めて書きとめたいというように思っております。今日はいちおうこれで終わらせていただきます。(会場拍手)
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
ぼくは一等最初に申し上げましたとおり、良寛にとっては、そんなことはちっとも自覚的なことじゃないと思うんです。たぶん、良寛に一種の転換があったとすれば、青年期に曹洞宗の直系的なところで修業して、それで、道元の衣鉢を継ぐ曹洞宗のいわゆる偉い坊さんになろうっていうふうに思って、それでなれなかったっていうところだけが、良寛の自覚した挫折じゃないんでしょうか、あとは、それが意に反したかどうかってことについては、ただ、ぼくがそう思うのであって、良寛自身にとっては、なんら対象的でもないし、自覚的でもない、ただそれは自分なりに精いっぱい生きて、精いっぱい詩に表現してっていうことだったんじゃないでしょうか、はっきりと自分は坊さんになれないっていうふうに、つまり、まっとうな坊さんになれないっていうところだけは、そういうことを言った作品もありますから、そこだけは確実に自分でそう思ったと思うんです。それ以外のところはたぶん、近代っていうものを経過した以降で、ぼくらが考えているような意味では、自覚的でなかったんじゃないでしょうか、とぼくは思いますけど。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
それは時代風潮としてもあったと思うんです。つまり、良寛がいた時代っていうのは、たとえば、良寛が備中の玉島にいた時ならいた時っていいますと、後期を考えますと、その時に、いまの岡山県、備前・備中・備後っていうのは、農民一揆なんて起こっているわけです。
それから、大乗仏教ばっかりいうのはよくないですけど、幕府は農民の一揆禁止令とか、集団禁止令とか、それから、農民が農村を離れて江戸へいって働きに出ちゃう、それを禁止するとか、そういうことは頻繁に、もちろん、ここらへんの出雲崎とか、良寛の故郷の近辺でも、一揆っていうのはあったりするんです。一度ぐらい小さいのがあるんですけど、つまり、時代風潮として、ある見方をすると、そうとう沸騰しているところがあるっていうことがあると思います。
そういうものに対して、良寛はそういう詩も書いているわけです。つまり、大水とか、地震とかあったときもそうですけど、ようするに、どうしようもなくなっちゃって、こういうふうになったってどうしようもならないとか、それから、役人たちはなんとかこれをしてくれないと困るじゃないかみたいな、そういう歌をつくったり、そういうのはありますし、つまり、事件としての社会っていうか、そういうものは、そうとう身辺に沸騰していることはあるので、良寛がじぶんの青年期のあれを直進するためには、そういうものに耐えていかなければいけないです、それをみて、それに対して、じぶんも倫理観を動かされ、正義感を動かされるっていうようなことをしながら、でも自分はこの道をいくんだっていうような、絶えずそういう葛藤っていうのはしなくちゃいられなかったっていうことは、時代的にもそうだと思います。良寛自身の資質にもありますし、それから、そういう社会批判の詩もあります。時代的な問題っていうのもまた、あるんじゃないでしょうか。
だけど、ただ、ぼくはあまり大乗経の事件と良寛の生き方自体っていうものと、ストレートに結びつけてなにか言いたくないって気がするの、それよりも生活意識とか、それから、生活理念とか、それから、もっとほんとうの、良寛が追及した仏教、それから荘子なんかの理念とか、そういうものに対してどういうふうに内面的に考えていったかとか、どういうふうにそれに対して自分が行動していったかっていう問題の主体っていうのが、やっぱり逃したくないように思います。
(質問者)
〈音声聞き取れず〉
(吉本さん)
そのとおりだと思います。
テキスト化協力:ぱんつさま