今日の先生のご講演は、いわゆる文化講演会ではなくて、先生が近年、切実な問題として、追求していらっしゃる〈アジア的なもの〉について、一昨年の御講演に引き続いて、それをさらに押しすすめ、日本において〈アジア的なもの〉がどのように、どのような形で展開されてきたか、というようなことをテーマにして話したい。そのようにおっしゃってくださいましたので、ぜひ、そのようなご講演をよろしくお願いいたしますと申し上げまして、ご快諾を得た結果でございます。どうぞ最後まで、お聞き取りいただきますようお願いいたします。どうも、今日はありがとうございます。それでは、先生と替わります。(拍手)
ただいまご紹介にあずかりました吉本です。一昨年、やはり金榮堂さんの何十周年記念かで、このテーマについてお話ししたわけですけれども。その時に、日本のことについて、いったいそれじゃあ〈アジア的なこと〉っていうのは、どうして日本のことが主題になるところまでいけなかったのかっていうようなことは、こちらもいささか心残りでありましたし、また、そのあと自分でも少し考えてきたことがありまして、だから、この一昨年のテーマの続きっていいましょうか、いわば続編っていうような感じで、今日、同じ〈アジア的なこと〉っていうような問題について、特に日本のことについて、それがどういうふうにみていくのがいいのかっていうような問題について、自分が考えましたことをお話ししたいっていうふうに思ってやってきました。
それで、〈アジア的なこと〉っていうような言葉自体は、別に新しいことでもなんでもなくて、またどんな人でもそれを使うっていうような使い方で使われてきているわけですけれども。なぜ〈アジア的なこと〉っていうようなことが、現在この時に、つまり日本がすでに〈アジア的〉っていうふうに言われるものから離脱していくっていうようなことが非常にはっきりしてきているそういうところで、なぜこういう問題が問題でありうるのかっていうようなことは、大変むずかしいことのように思います。むずかしい問題のようなことに思います。
現在の世界っていうのを把握していく場合に、どういうことがかってと違うかっていうようなことを考えてみますと、それはふたつあると思うんです。ひとつは、かっては西洋的なこと、つまりヨーロッパが考えていること、やっていること、そして生産していること、そのこと自体を考え、そして取扱い、そしてそこの思想っていうようなものを考えること自体が、世界のことを考えることと同じことだったっていうことで、済んできたところがあるわけですけれど、現在、世界が高度になっていって、高度にすすんできた場合に、どういうことが問題になってくるかっていうと、どこをおさえるべきなのか、どこをおさえてみていけばいいのかって考えた場合にふたつありまして、ひとつは西欧あるいはアメリカもいれて欧米って言ってもいいわけですけれど、欧米の非常に高度な資本主義文明の発達した資本主義国家、資本主義っていうものがどこへ、いったいどういうふうにいきつつあるのかということを、非常にはっきりつかまなくちゃいけないことがひとつあります。
それから、もうひとつはかっては欧米あるいは西欧っていうようなものを考えれば、それは世界を全部考えたこととおんなじなんだっていうことが言えたのですけども、現在世界が高度になってきまして、もうひとつ違うことが出てきたとすれば、やはり世界っていうふうに考える場合に、必ずしも世界の最先端をきっている高度な資本主義国、あるいはそこの文明っていうものだけを考えれば、世界を考えられるっていうふうにはいかなくなってきて、そういういわば世界の水平線上っていいますか、地平線上っていいますか、そういうところにアジアも、もちろんアフリカも、もっといいますと現在まで未開あるいは原始状態にあるっていうふうに言われているところの地域の問題も、やはり同じ水平線の上に、あるいは同じ視野の上に全部入ってきて、そのことも全部考えなくちゃいけないっていうようなことが、かって西欧を考えれば世界を考えるでよかったんだっていうような、今から5、60年前なら5、60年前までと現在とが非常に違うことのように思います。
だから、そうしますとそこでつかまえるべき軸っていうのはふたつあるわけで、そのふたつをどちらも排除することができないっていうようなことがあります。ひとつは非常に高度な、最も高度な資本主義国が、どういうふうにいったい変わりつつあるのか、そこでも文明がどういうふうに変わりつつあるのかっていうことを非常によく把握することがひとつあります。
それから、もうひとつは、〈アジア的なもの〉とは一体何なのかっていうことを、世界史的な視野っていいますか、世界史的な意味合いでつかまえることが非常に重要になってきてると思います。つまり、第三世界といわれているものをつかむ場合には、もちろん具体的につかまなければいけないのですけれども、大雑把な言い方をしますと、それは〈アジア的なもの〉に近づきつつある世界というふうに把握すれば、非常にわかりやすい把握の仕方だと思います。それから、日本みたいなものは、つまり〈アジア的なもの〉から離脱しつつある社会っていうふうな把握の仕方をしますと、そうすると非常にわかりやすい把握ができると思います。
そこで〈アジア的なもの〉っていうものがどういうものかっていうことは、現在世界を把握する場合のもうひとつの軸、つまり高度な資本主義国がどうなってるかっていうことを把握するのと同じような意味合いで、もうひとつのぜひとも必要な軸として、ひとつあると思います。そのことは、かってはそうじゃなくても済んだ。つまり、かってはせいぜい〈アジア的〉っていう意味合いを〈ヨーロッパ的〉っていうことと対立的に考えれば、つまり〈ヨーロッパ的なこと〉に対して〈アジア的なもの〉は何なのか、特色は何なのか、あるいは劣っているのは何なのかっていう把握の仕方をすれば、かっては〈アジア的なもの〉っていうものの把握は済んでいたところがあります。
でも、現在〈アジア的なもの〉っていうことを言う場合には、そういう意味合いでの把握には、たぶん、あまり意味合いはないと思います。そうじゃなくて、世界史的な意味合いでいう〈アジア的なもの〉っていうのは何なのかっていう把握っていうことが、大きな、また、はじめての意味合いをもって、世界水平線上に現れてきた問題のように僕には思われます。
それはもちろん、〈アジア的なもの〉っていうのはその場合には、今言いましたように第三世界がそこに至りつつある。つまり、その特徴に近づきつつあるっていうような意味合いと、それから、日本みたいな、すでに高度な世界の資本主義国を二番手、ないし三番手ってなことで、急速に後追いをしつつあるその問題っていうようなものが、もうひとつ、それは〈アジア的なもの〉を離脱していく段階で起こってくるいろいろな問題っていうのが、そういう意味合いで〈アジア的なこと〉っていうのが、たぶん重要な意味合いを現在もってきているだろうっていうふうに思います。
これはいってみれば、今日お話しする場合の一種の大げさな合理化なんですけれども、そのことよりもなによりも、いままで〈アジア的なもの〉っていうような言われ方で言われてきた問題について、僕自身が非常に混乱した使われ方をしているとか、混乱した把握のされ方をしているっていうような考え方っていうのが僕にありまして、そのことを僕自身が第一少しはっきりしてみなくちゃいけないっていうような、僕自身にとってのテーマっていうのが、やはり非常に大きなウェイトを占めているわけで、僕自身にとって非常に重要だからっていうことが、まず、なによりも自分にあって、自分が重要と考えたところだけで、お話しすることになるかもしれませんですけども、それはあらかじめそんなに立派なお話ができるっていうふうにお考えにならないでくだされば、非常にありがたいっていうふうに思います。
現在、いわゆる世界的な意味合いで、世界思想的な意味合いで〈アジア的なこと〉っていわれることが問題になる場合に、たいてい3つのことが問題になります。ひとつは共同体論っていいましょうか、共同体論として〈アジア的なこと〉っていうのが非常に多く問題になります。
それから、もうひとつは、アジア的な生産様式っていうふうに言われますけど、つまり、アジア的な生産の仕方っていうのはどういう特徴があるのかっていうような、そういう意味合いで、つまりアジア的生産様式っていうような意味合いで、生産様式を主につかまえるっていう意味合いで、〈アジア的〉っていうようなことが問題になってきます。なってきています。なってきて今まできたわけです。
それで、もうひとつあるとすれば、それはアジア的な政治制度、あるいは政治形態、あるいは権力形態っていうものは、つまりアジア的専制っていう言い方をしますけれど、アジア的専制っていうのはいったいなんなのかって言う場合には、それはアジア的な政治制度ないしは権力制度っていうようなものが、どういうようになっているのかっていうことを把握していくっていうのが、アジア的な専制の構造はどうなってるかっていう意味合いの、専制っていう意味合いになります。
そうすると、現在までやられている〈アジア的〉っていうようなことについての論理を考えてみますと、たいていは共同体論としてなされているのか、それとも生産様式論としてなされているのか、それとも政治形態、あるいは政治制度、あるいは政治権力の構造っていうようなものをいう場合に、〈アジア的〉っていうことが言われているのかっていうことが、まず第一に非常にあいまいに処理されてきているっていうようなことはわかります。
で、あいまいに処理されてきているっていいましても、この〈アジア的〉っていうような問題を非常に世界史的な視野で取り上げた人っていうのはそんなにいないわけです。つまり、そんなにいなくて、かついずれも大変な大物といいましょうか、大変な飛び離れた思想家あるいは学者で、ちょっとそれ以降は何もないんだって言っていいくらい何もないわけ。つまり、なにかわけのわからないことになっちゃっているわけですけれど、それはマルクスであり、そしてマックス・ウェーバーであるっていうような人たちが、〈アジア的〉っていうことについて世界史の視野でもって取り上げて、解明の糸口をつけていったっていうような人は、いってみればそのふたりに尽きるわけで、それ以外のあらゆる論理っていうようなものは、ふたりの論理から枝分かれして、つまりふたりの論理の枠内っていいましょうか、枠内でいろいろなされているっていうようなことにつきます。
それで、もちろん僕自身も枠内でやるわけです。なにが僕なんかが、素人ですけど介入する余地があるかっていいますと、今言いましたように、僕自身がアジア的専制っていうことと、つまり政治制度としての〈アジア的〉っていうことと、それから共同体論としての〈アジア的〉っていうことと、それから生産様式としての〈アジア的〉っていうことが混乱されて、あるいは混同されて言われてきているので、いつでもそこのところで、あらゆる論理っていうものを聞いていると、つまり聞いているとっていうのは見ていると、調べていくと、いつでもそこのところで非常に混乱を呈しているっていうふうに思われるわけです。
それから、もうひとつは、これは日本の共同体論、あるいは民俗学、あるいは人類学っていうようなものが、日本の色々な様々な現象について解明したり、それから個々具体的に調査したりして、たくさんのデータが出てるっていうようなことがありますけれど、そのことがいったいどういう意味を持っているのかっていうことについて、つまりそれは世界史的な視野でいったらば、それはどういう意味をもっているんだっていうことについては、まったくといっていいくらいなにも解明されていないから、論理が非常にあいまいになるっていいましょうか、恣意的になってしまう。つまり、でたらめになってしまう。調べたそのこと自体は非常に足を使い、それで文章を調べっていうふうに調べられているんですけれども。しかし、そのことがどういうこと、つまり調べられているそのことはいったいどういうことなんですかっていうことについての把握というものは、民俗学、ないしは人類学っていうようなものが日本について把握する場合には、まったくそれがわからないでなされているっていうことがあります。だからそこでも、それを調べながら、読みながら、大変歯がゆいっていったらおかしいのでしょうか、つまり大変な混乱とか、大変な思い違いっていうものがあるんだなぁってことを感じたりすることがあります。
だから、たぶんそのことがかなりスッキリするっていうような、みなさんがスッキリするかどうかわかりませんけれど、とにかくそれがある程度スッキリさせられたら、あぁそうかっていうようなことでスッキリさせられたら、僕がスッキリしている度合いと同じくらいの意味合いではスッキリさせられることができたら、今日のお話はいいんじゃないかっていうふうに、僕自身は考えてまいりました。
まず、アジア的な共同体、共同体論としての〈アジア的〉っていうこと、つまり共同体としての〈アジア的〉っていうことはどういうことなんだっていうことから、お話ししていきたいって思います。
で、共同体としての〈アジア的〉っていうのはどういうことなのかという場合に、その共同体っていうものを外から把握する場合と、それから共同体の内部がどういうふうになっているのかっていうようなことを把握する場合と、そのふたつのことが重要なことになります。
どうしてかっていいますと、共同体論あるいは共同体って概念がもともとそうなわけですけれども。つまり、それはそのなかの個人個人のメンバーがいるわけですけれども、メンバーがいても、共同体っていう単位でしか事物が考えられない。あるいは、共同体っていう枠組みがどんな場合にもついて回るっていうことが、共同体論としての〈アジア的〉っていうことの非常に重要な要素ですから、共同体単位で中がどうなっているのかっていうのと、それからそれが外に対して、あるいは外からそれを把握した時にどうなってるのかっていうことの、そのふたつの面を把握しないと、まったく問題が混乱してきてしまうっていうことがあります。
で、まず中からの共同体論ということとしてみていった場合の〈アジア的〉っていうことの第一の特徴っていうのはなにかっていいますと、それは、非常に大きな把握をしますと、それは農耕の共同体だっていうことが非常に重要なわけなんです。農耕の共同体としての共同体っていうようなのが〈アジア的〉っていうことの非常に大きな枠組みです。
それで、農耕の共同体にもたくさんの共同体のあり方っていうのがあるわけですけれど、その場合に、まず〈アジア的〉っていうふうにいえる段階の農耕体の特徴っていうのはなにかっていいますと、農耕共同体の、共同体の占めている地域、あるいは土地っていうものがあるとしますと、土地は全部共同体が所有してもっているわけです。土地は共同体が全部所持しているわけです。そして、わずかに私有している、つまり個々の人が私有している共同体があるとすれば、アジア的共同体のなかでは自分の家屋敷といいましょうか、つまり宅地と宅地の周辺に、庭とおんなじように、まず、耕す畑みたいのを作っているとすると、庭の宅地とその周辺にある、これを学問的にはあれなんですけれども、庭畑地っていうんですけれども、つまり庭的な耕す土地、耕地っていうことですけれども、その家の周辺にある庭畑地と、それから家が建っている土地ですね、そこだけが共同体のなかで私有に属している。つまり、そこに住んでいる人間に属している。その他のほか全部は共同体の共有地である。しかも本来的に、最も本来的に本当の意味合いでいえば、宅地としてもっている、あるいは庭畑地としてもっている、家が建っているそこの場所ですら、共同体の土地であるっていうふうな、本来的には、もともとはそうなんだと、ただ自分がそこに住まっていて、そこでそのまわりを耕しているから、それは自分のものだっていうふうに、見かけ上も実質上もなっちゃってるけども、本来的にいえば共同体がもっている土地なんだっていうふうな、そういう観念でしか庭畑地とか宅地とかも、自分のもの、私有に属さないっていう、そういう段階に人間の共同体、群で住んでいるわけですけれども、群れで住んでいる住み方がそういう段階になった時に、それをアジア的な共同体、あるいはアジア的な農耕共同体っていうふうに言うわけなんです。
ところで、非常に重要なことは、今言いましたように、土地も本来的に共同体の所有であって、個々の人間のもっている土地なんかどこにもないんだっていうふうな観念がそこで支配しているわけですから、今度は農耕以外のことをしている人間っていうのは、いったいどういうことになるのかっていうことになるわけです。そこが非常に重要なことなんです。で、今のアジア的な共同体がどういうふうになっているのかっていうことと、具体的な土地のなかでどういうふうな住まい方をしているのだっていうことをちょっとはっきりイメージに浮かべたいわけなんですよ。浮かべていただきたいわけなんですよ。
アジア的共同体っていうふうに人間の社会がなる以前の段階を原始的共同体っていうわけですけれども。原始的共同体っていいますと、土地は全部、共同体単位でもって所有しているっていうふうになるわけなんです。それで、それじゃあどこが土地を所有している共同体っていうふうに言えるかっていうと、ここに一例が、これはアメリカの原住族なんで、どんな学者も古代社会っていうものを捉える場合に、例に挙げるわけですけれども、イロクオイ族っていう種族があります。種族といっても部族といってもいいわけですけれど、それはだいたい6つぐらいの部族に分かれている。で、6つぐらいの部族っていいますか種族っていいますか、分かれていると、そして、各々がふたつの大きな氏族っていうようなものに分かれている。それで、氏族っていうようなものに、個々の氏族はまたたくさん枝分かれしている氏族に分かれている。小氏族に分かれている。
そうすると、これがいわゆる、自分のところはクジラを祖先だと考えてトーテムとして奉っている。つまり、祀っているそういう集団だっていう場合の、氏族っていうのはここにあるわけです。この段階にあるわけです。それで、その氏族っていうようなのはいくつかの大家族から成り立っているっていうふうなイメージを思い浮かべてくださればいいわけです。大家族のなかには親子兄弟三代ぐらいと息子とか、あるいは近い親戚がひとつふたつ一緒に入っていたり、それから雇っている人がそこに入ってたりしますけども、そういう意味合いの大家族です。それがいくつかあって、それでひとつの氏族をつくっているっていうイメージを思い浮かべてくださればいいわけです。
そして、それはある地域を、共同体としてある地域を占めているっていうふうに考えます。そのある地域の大きさっていうのはどの程度と考えればいいかっていうと、そのなかに何個かの村落、つまり村ですね、何個かの村が含まれているっていうような、そういう地域っていうものを占めているっていうふうに考えてくださればいいわけです。そうすると、わりに具体的なイメージが、共同体って言った場合の具体的なイメージが浮かべることができると思います。
そうすると、何か村かの村が、村落が集まって、それが共同体みたいなものを形成してるとすると、共同体っていうのはだいたいここいらへんか、6つに分かれている種族とか、大氏族とか、ここいらへんがある地域に共同体を営んでいる。それで、その広さはだいたいいくつかの村落がその地域に含まれて共同体を組んでいるというふうに考えてくださればいいと思います。
そして、そのなかで、原始的共同体の場合には村落のなかで、これはどういう組み方もできるわけですけれども、村落のなかで、ある共同の家屋がここに建っていて、そのなかに大家族がいくつか入っている。それで、その真ん中には、村落の人たちが共通で使える集会場的なものっていうのがある。それで、こういうようになってて、個々の家族は個々の家族なんですけれども、共同家屋に住まっているっていうような、こういうイメージを思い浮かべてくだされば、原始的共同体っていうようなものの広さの範囲と、それからだいたい人数も計算すれば出てくると思うんですけれど、どのくらいの人数がいて、どのくらいの家族が、どのくらいの土地に住んでいた、それを共同体と言っているのだなっていうことがわかってくださると思います。
それで、〈アジア的〉って言った場合に、原始的共同体から少し進んだ段階なわけですけれども。何を契機にして進むかっていうと、こういうことは偉い学者先生がすでにはっきりさせていることなわけですけれど、それはたとえば、共有の土地を共同体の個々の大家族の人たちが、あるいは個々の村落の人たちが耕すとしますね。村落の内部にも耕作地があるし、共同体の内部だけれども、村落の外部っていうようなところにもありうるわけですけれども。
そこを耕していく場合に、耕す道具っていうようなものを持っているわけですけれども。耕す道具っていうなのは、むずかしい言葉でいえば、故意にむずかしく言えば生産手段っていうわけでしょうけども。耕す道具っていうようなものは、個々の家族が自分たちで作ったりして持っているわけです。ところが個々の家族によって人数も違いますし、女性が多いか、男性が多いかってことも含めまして、いわば個々の家族によって、耕すための道具というものの持ち方っていうのが、まず違ってきちゃうわけです。つまり、たくさんの道具を非常にうまく作って、たくさん持っていて、それでそれを使って共有地を耕すっていう人もいますし、また、人数が少なくて、あるいは女性の方が多くて、あんまり立派な道具が作れないとか、たくさんの道具が作れないっていう家族も生じてくるわけです。
で、道具自体は決して共有じゃないですから、そのように自分たちが作って持っているわけですから、そうすると、段々耕すための道具、つまりむずかしく言いますと、故意にむずかしく言えば生産手段ですけども、生産手段っていうようなものが、大規模に持つ人と、つまりたくさんの耕す道具を持つ人と、そうじゃない人が分かれてくるわけなんです。そうすると、土地は共有であり、分けるのも共有なんだけれども、しかし、それを耕すための道具を持っているその道具はそれぞれで、たくさんの道具を持っている人も、そうじゃない人も段々段々分かれてくるわけです。
そういう矛盾っていうようなものが、段々きわまってきますと、きわまってきたところで次に、アジア的共同体っていうものが出てきて、個々の家族は自分の周辺のところだけは、自分らなりの規模を、自分らなりにつくっていく、そこでは自分らなりの畑をもっていると、また共有の耕すべき畑ももっていると、田畑もあるんだと、しかし、自分らの周辺で耕す畑っていうようなものも個々にもっているんだっていうふうな形になっていくわけです。その時に、その段階にきた時に、〈アジア的〉っていうふうに、アジア的共同体あるいはアジア的な農耕共同体っていうふうに言うわけです。
で、問題はなんなのかっていいますと、アジア的農耕共同体っていうようなものは、ひとたび形成されますと、形成された時に、ヨーロッパにおいてはなぜか知らないけれど、この段階はすみやかに進んでいってしまうわけです。進んでいって、今度は自分の庭畑地をどんどん拡張する奴が出てくる。それから、どんどん取られちゃう奴も出てくるっていうような形で、共同体が共同に所有している土地もあるんです、耕す土地もあるんですけども、私有地は個々バラバラになってきますし、大きな私有地を拡大しちゃう奴もいるし、それからそうじゃないやつもいるっていうふうに段々なっていくわけです。
そして、共有地と私有地がいわば対立状態に段々なっていくっていうようなところへ、ヨーロッパではなぜか知らないけど、とにかく進んでいってしまったわけです。ところで、それがもっと進んでいきますと、私有地なんかどこにもない、共有地なんかどこにもない、みんなだれかのものであって、だれかのものになっちゃってて、それで囲いがしてある。それでそこは絶対武器をもっても守るみたいになっていて、共有地はなくなっちゃうっていうふうに、段々展開していくわけです。そうするとヨーロッパ的に言いますと、そういうふうになった時には、ゲルマン的共同体って言うんですけれど、つまり、封建的な共同体って言うわけですけれど、そういうふうになっていくわけです。
ところが、なぜかしらっていうことが重要なことなんですけれど、アジアでは今言いましたように、せいぜい自分の庭畑地とか宅地とかいうものだけが私有なんだ。それで、あとは全部共同体の土地なんだ。そして、自分のもっている宅地とか庭畑地ですら、本来は共同体のものなんだとかいうふうな段階で、なぜか、なぜか知らないけども、アジアではとどまってしまったわけです。とどまって少なくとも数千年、たとえば中国・インドでは数千年の間とどまったまんま過ぎてきてしまったわけなんです。
で、日本でも、たぶん、みなさんはもうないと思うんですけれど、みなさんのおやじさんとか、そのおやじさんとかだったら、自分の田畑をもってて、それでなんとなく税金かなにか払うのに、これはもともと国家のものだから払うんだっていうふうな、頭だけはそう考えが抜けきらないみたいな、そういうあれっていうふうなものは、たぶんみなさんのお父さんとかそのお父さんだったら、たぶん、それはもう普遍的だったってふうに僕は思います。つまり、そのくらいつい最近まで、これは天ちゃん、天皇の土地だとか、王道楽土だとか、知らないですけど、つまり全部王様の土地であって、本来は王様の土地なんだ。それを、ありがたいものをいただいているんだっていうあれっていうのは、つい僕、4、50年前までそういうようだったって、僕はそう覚えています。だから、たぶんみなさんのお父さんとかそのお父さんなんかだったら、たぶん本当は自分の田畑だと思っていたわけですけども、でももともとこれは国家のものだからなぁとか、王様のものだからなぁっていうふうな観念だけはまだ残っているみたいな人は必ずいると思います。そのくらいアジアでは、アジア的農耕共同体の段階のまま、数千年とにかく過ぎてしまったわけなんです。過ぎてきてしまったっていう特徴があります。
その特徴はたいへん大きな特徴なわけなんです。そのことはプラス点、つまり、いいという意味合いでも、悪いという意味合いでも非常に大きな特徴だっていうこと、それでそれは、ヨーロッパつまり世界でも先進的な資本主義国、つまり最も発達した欧米の国に、もはや自動車だけは追い越したんだっていう、そういう日本でもたぶん心の中にはまだ残っているはずだっていうふうに、僕には思われます。つまり〈アジア的なもの〉っていうのは、アジア的な農耕共同体の段階で、数千年前で、日本では数千年ぐらい前でしょうけれども。その数千年前の段階で、人間がもった意識っていうようなものが、今だってたぶん、僕は絶対にふっ切れてないっていうふうに確信して疑わないです。つまり、それほど重要なことなんです。そのことを無視しては何も語れないくらい重要なことなんです。それは、単に日本だけではありません。中国がそうであるし、東南アジアがそうであるっていうふうに、それからまだ、そういう段階に行こうとしている第三世界っていうものを考えたりすると、とにかくちょっとかなわないくらいみんなそういうものが、そういう違いが世界的な視野のなかに全部浮かび上がってきちゃったっていうのが今の段階だと思います。現在っていうのはまさにそういう段階だと思います。それほどたぶん重要なことのように思います。
そういうふうにしていきますと、何が問題になるかっていうと、ひとつは農耕以外のことを、アジア的な共同体の段階では、農耕以外のことをしている人はいったいどういうことになるのだろうかっていうことがあります。つまり、どういうあり方をするのだろうかっていうことがあります。これはインドでもありますし、中国でもありますし、日本でももちろんあるわけです。で、そのアジア的な共同体において、農耕をしている、つまり農民以外の者ですね。農民以外の業務にたずさわっている人を、民俗学は〈神人〉っていうわけです。
〈神人〉っていうのは神である人です。神である人っていうふうに言われているものは、民俗学が言っているものは、それは言い換えれば、非常に露骨にリアルに言ってしまえば、農耕共同体のメンバーであり、農耕共同体の掟と法則に従いっていうふうな人じゃなくて、農業以外の仕事をしている者っていうふうなものが、それを〈神人〉って言うわけです。
民俗学あるいは日本の古いなんていいましょうか、みなさんのところでもそうでしょうが、古い地方に今でも神様として祀られたり、あるいは、神様的な待遇を受けてきているっていうような、つまり神様的っていうのは、同時にひどい差別をされていることと同様のことなんです。つまり、神様的ということは、太古において、アジア的共同体の発生地点においてこそ、名実ともに神様的でありましたけれども、しかし、時代が下るにつれて、神様=乞食であったり、神様=被差別部落であったりっていうふうに、だんだん時代が下るにつれて、逆に聖化される、尊ばれると同時に卑小化される、両方の作用を受けるわけです。それが、〈神人〉なわけです。
それで、〈神人〉っていうのはいったい何なのかって言ったら、それは農業以外の、アジア的な農耕共同体において、農耕以外のことにたずさわっている職業の人たち、あるいはそういう農耕以外のことをやってきた人たち、それが要するに〈神人〉なわけなんです。〈神人〉なわけだ。つまり、このことが重要なわけなんです。
そうすると日本でいいますと、非常に多くの神人として典型的に、典型的な形で、それが残されていると考え、典型的として考えることができるのは、ひとつは山窩といわれているものです。山窩といわれているものは、アジア的な農耕共同体に対して、農耕の用具ですね。たとえば農具です。農耕の生産手段とか、たとえば鍬なんかの場合には、鍛冶屋です。鍛冶屋さんですけども。製鉄ですけども。それからもうひとつ、まだ多くある、つまり、芸能なんてのもそうですけども。農耕の用具を作って、農耕共同体に対して、この場合にはアジア的共同体においては、それに対して、無料で奉仕したわけです。
つまり、それは農耕共同体に対して、〈神人〉っていうようなものは無料で奉仕するわけです。無料で農具を作るとか、農具を修理するっていうようなことをすると、そして、その代償として、農耕共同体から、現物として、たとえば穀物を付与されたり、貸与されたり、それから物々交換で必要なものをもらったりして、農耕村落の公有地のなかに住まう場合もありますし、住まわないで一時的にそういうふうに農耕用具を無料で提供し、そして、無料で現物の穀物をもらったり、副食物をもらったりして、そして交換して、それでまた、次の村落に行ってしまうっていうような、そういう移動する神人っていうようなものと、そこに住み着いてしまう神人っていうようなものと、両方ありますけども、いずれにせよアジア的な共同体においては、農耕共同体に対して、農業以外のものを営んでいる者っていうようなものは、農耕共同体に対しては、いつでもそれは無料で農耕に対して、ある役割を演じ、無料で立ち去っていくとか、その代わり無償で住まわして、無償で穀物の提供を受けるみたいな、そういう形で存在したわけです。それらを〈神人〉って言うわけですけれども。
この神人の存在のあり方っていうようなことが、非常に重要なことなわけです。これはまた、アジア的なことでも非常に重要なことなんです。それはどういうあり方をするかっていうと、たとえばインドのカーストっていうのをとれば、いちばんわかりやすいわけですけれども、日本の山窩っていうのもこれもわかりやすいんです。つまり、これはどうするかっていうと、アジア的な農耕共同体では農耕以外の職業にたずさわる者っていうようなものは、いわば種族的っていいますか、種族別的に、あるいは氏族別的に、あるいは大家族別的に必ずある農耕以外の職業を世襲したり、それからその単位でもって、農耕共同体と関係をもつっていうような形を必ずとるということが、アジア的っていうことの非常に大きな特徴なわけなんです。
つまり、たえず共同体っていうこと、それがアジア的共同体っていうことは、とくにそうなんですけれど、共同体が要するに事物の単位であって、そのなかの個々の人間が、そのなかで演ずる単位っていうようなものは、非常に過小なわけです。つまり、すべては共同体が単位なわけです。したがって農耕以外のことにたずさわる人々のふるまい方、それから生き方っていうようなものを、やはり種族的、あるいは大家族的、あるいは氏族的っていうような形で、やっぱりふるまっていくわけ、ですから一村すべてがたとえば鍛冶屋さんであるとか、あるいは一群すべてが鍛冶屋さんであるとか、その人の親もそうであれば子どももそうであるっていうような形で鍛冶屋さんであるとかっていうような形で、アジア的な農耕共同体のなかでは農耕以外にたずさわる人間っていうのは、そのようにして存在するわけです。
で、そのように存在する人たちは、それは農耕共同体のひとつからは神として立ち去り、そしてまたやってきて福をもたらしてくれる人間、それから福をもたらしてはまた立ち去っていく人っていうようなイメージも含めて、それは神として扱われるっていうふうに扱われたわけです。神として扱われるっていうことは、みなさんは神という概念を非常に神聖なる概念だけで受け取っているかもしれないですけれど、そうでないので、人間が人間以上のものとして、神っていうものをつくり出した時には、神っていうようなものは尊いものであるとともに卑小なものであり、あるいは非常に崇め奉られると同時に、それは場合によっては共同体の、農耕共同体の犠牲に供せられるものっていう形で、つまり、神っていうのは、いつでも両義性として存在するっていうようなことが非常に重要なことです。とくにアジア的な社会では、それはいわば何千年もそのことがずーっと停滞しておこなわれてくるっていうようなことがある。そのことが非常に重要なことだって思います。
だから、この〈神人〉っていうようなものの、もうひとつ重要なことは、人類の社会を発展させたり、それから文明を発展させたりするのは、だいたい神人であるわけです。つまり、農耕共同体の農耕をする人は、たぶん数千年前も今もさして変わらない。たとえば戦後には耕耘機っていいますか、そういうようなヤンマーディーゼルとかなんとか作って、多少は使われていますけど、それ以前まで考えますと、みなさんが僕なんかよりずっとよくおわかりのように、農耕にたずさわる人々が文明の発達とか、文化の発達とか、それから生産手段の発達とか、生産メカニズムの発達とか、そういうことにはあまり寄与しないんです。何千年経ってもおんなじことをしているわけです。春が来たら種まいてっていう、こういうおんなじことをしてるの。だから、どうしても精神っていうようなものが、けっして発展的にならないのです。農耕共同体の人は、そのように重要なのでありますけれども、しかし、社会の発展っていうようなものに対しては、間接的な寄与しかしない。
また、精神的にいえば社会の発展とか、人類の文化の進展っていうようなものに寄与したのは、ヨーロッパでももちろん推進していったのはやっぱり神人です。つまり、農耕共同体の人たちから、崇められると同時に卑しめられたっていうような、そういう人たちが社会の文化っていうようなものを、世界の文化っていうようなものを発展させていったっていうようなことが言うことができます。だから、そのことが非常に重要なことだっていうふうに思われます。
ところで、もうひとつ僕が考えて、混同してはいけないし、しかし、得てして混同されているっていうふうに考えられることは、もうひとつ、このアジア的な共同体においては、国家にまで発展してしまって、政権を、政府をつくってしまうっていう場合に、アジア的専制っていうわけですけれど、それでまた、共同体論の呼び方でいえば支配的な共同体っていうわけですけれども。支配的な共同体もまた、あくまでも共同体としてふるまうっていうことが、非常に重要なことです。アジア的な共同体にとって非常に特徴的なことなんです。
そうですから、たとえば明治維新でも政治的な権力っていうようなものを握っていくのは、それは明治維新に大活躍した個々の志士であったり、そういうわけでしょうけれども、それは同時に志士としてふるまっているかっていうと、個々の志士としてふるまって、有能な政治運動家であって、そしてそれで、明治維新の政府の高官になって、で、個々の高官としてふるまっているかっていうと、そうでなくて、みなさんがたびたび聞かされたり、ご自身でもお考えになったかもしれないですけども。藩閥として行動するわけで、だから、薩長、みなさんは薩長じゃねぇだろうな、薩長の藩閥だって、明治政府なんてのは、別に近代国家でもなんでもない、薩長の藩閥政府にすぎないっていうように、反政府的な人たちが、つまり自由民権の人たちもそうですし、また、ほかの小藩出身の志士たちも、明治維新になってすこぶる冷遇された人たちも、やはりあんなのは近代国家の政府でも、天皇のなんとかでもなんでもなくて、あれは薩長藩閥にすぎないって、藩閥政府にすぎないっていうふうに、そういう言われ方っていうのがあるでしょ。その言われ方は真理なわけです。ある意味で非常に真理です。
それはなぜかっていうと、そういう政治的な支配階級っていいますか、支配階級のメンバーになったんですけども、個々の個人の自我をもった個人としてふるまったひとりひとり、西郷隆盛でも大久保利通でも誰でもいいですけれども、そういう人たちは個々の人格として政府高官だったっていうだけかっていうふうに考えると、そうでなくて、それは共同体の意識っていうようなものを非常に基盤にしてるし、また共同体の意識っていうようなものを自らもまた体現いたしますし、それから、自らもそのようにふるまうっていう面があるわけなんです。あったわけです。それだから、藩閥政府にすぎないって言われ、藩閥政府っていうことがなにかっていいますと、それは〈アジア的〉っていうことなんです。
つまり、アジア的専制構造っていうことの、ひとつの現れなわけなんです。それは、なぜかっていうとアジア的共同体においては、農耕共同体を営むのは非常に強固ですし、それ以外の職業にたずさわるものも、そのように、いわば氏族、あるいは大家族、あるいは種族としてふるまうっていうふうな形にどうしてもなるので、全部が共同体的な単位でもってふるまう要素が非常に多いわけです。だから、アジア的な国家においては、支配共同体っていうようなことを考えることが、非常に考慮に入れることが、非常に重要なことだってことがわかります。
で、僕はここいらへんは、本当はもっと勉強して、調べなければいけないんですけれど、あたらなければいけないんですけど、山窩っていうふうにいわれているものはなにかっていいますと、支配共同体に属する当初においては、アジア的共同体っていうようなものが、日本において成立した数千年前ですけれども、数千年前においては、支配共同体になりつつある、あるいはなりかかった、そういうところに従属していたっていうか、そういうところに付随していた神人であろうというふうに思われます。
ところで、現在、被差別部落っていうふうなものとして、残されているところがありますけど、それはなにかといったら、たぶんこの農耕共同体っていうようなものに付随したり、そこのところで、農耕以外の職業にたずさわってきた人たちを起源とするだろうというふうに、僕自身がそう考えます。そういうふうに考えないといけないような気がします。そのように支配共同体も支配共同体として、また、ひとつの共同体構成をもっている。
で、それがなんらかの形で、こういう共同体のなかから飛びぬけてって、武力で飛びぬけていくのか、あるいは知力で飛びぬけていくのか、あるいは策略で飛びぬけていくのか、それはさまざまでありましょうし、また現在でも日本でも違う説があるように、それは大陸から騎馬民族みたいなものがやってきて、そして大和地方にあれを決めて、そして支配共同体になったのかもしれませんし、そのことには、さまざまなことがありうるわけですけれども、支配共同体は支配共同体としてふるまうんだっていうことが非常に重要だと思います。それはここの中から、いわばほかの共同体を圧して、自らがのし上がっていったっていう場合も、あるいは全然別のところからやってきて、支配・被支配っていう関係をとる場合もあります。そういう場合もありますけれども、それがいずれであろうと、あるいは、それがどこの土地で始まろうと、そのことはどうでもいいとは言いませんけど、そのことは第二義的であって、支配共同体もまた、自ら共同体としてふるまうんだってことが、非常に著しいアジア的な特徴なんだっていうことが、非常に重要な要素でありますし、現在でも、僕ら日本人の働き方とか、集団の作り方とか、そういうのを考えていった場合に、たぶん、みなさんだって思い当たることがあると僕は理解しますけれど、確信しますけれど、つまり、共同体的にふるまうっていうことが非常に大きな要素なんだ。また、アジア的な大きな特徴なんだっていうふうに、考えてくださった方がいいと思います。
日本において、山窩っていうようなものの研究っていうもので、よくやったのは三角寛っていう小説家ですけども、三角寛っていう人がいちばん、三角寛の山窩の研究っていうようなものが、これは東洋大学に出されました学事論文ですけれど、三角寛の山窩の研究っていうようなのが、どうもいちばんよく山窩について研究しています。で、三角さんの山窩の研究は、今、申し上げたこととも関連するわけですけれども、これは丹念に三角さんが自分の私財を全部なげうって、山窩の人たちに接触し、そこから固い口を開かして、そして、その聞き書きを丹念に蓄積し、そしてそれを整理しっていうようなことを、生涯にわたってやることによって、はじめて獲得した調査記録を主体としているわけです。
で、そこで誤解があるっていうふうに、三角さんの山窩の研究を読みましても、誤解があると思われるところがあります。それ以外にないっていうほど大きな業績なんですけれども、しかし、誤解があると思われるところがあります。で、それはどういうところかっていうと、今、言いましたこととおんなじことなんですけれど、つまり、山窩が種族共同体的にふるまって、集団を組んでやってきましたから、そのなかで伝承されていることと、事実そうであるかっていうこととは、別でなければならないわけなんです。そこを選り分けることは、大変むずかしいわけなんです。で、むずかしいし、それは嘘だろうと言っても、数千年にわたって伝承してきたものですから、つまり何代かにさかのぼってそれは嘘だろうって言ったって、いや、そういうふうに言い伝えをちゃんと受けてるって言うことで、もちろん内部的には事実として信じられているわけですし、また、それを嘘だろうって言ったって、どこで嘘であるかないかって、どこでつきとめていくかっていうことが大変むずかしいために、つまり伝承がそのまんま事実のように記載されているところがあるというふうに、当然、論理的にっていいますか、理論的に考えられるわけです。
つまり、そういう意味合いで、たぶんこれは伝承なんじゃないかって、伝承にすぎないんじゃないか、事実とは違うんじゃないかって思われると、やはりその伝承を信ずるほかに、承認するほかにどうしようもないじゃないかっていうふうに思われる点と両方あります。だから、そういう欠点を除きますと、そういう欠点がありますけど、三角さんの仕事っていうものが最も大きな仕事で、また唯一の仕事と言っていいくらいのものです。
もちろん、柳田国男やなんかもふれてあれしていますけれども、それはとても三角さんの調査したあれにはまったくおよびもつかないっていうような形で、で、三角さんの仕事っていうようなものが、なかなか学問的に承認されないっていうようなことがあるとすれば、いわば伝承部分っていうようなものを、事実のように記載しているっていうことの問題がそのなかに含まれているために、それが学問的にはなかなか、つまりアカデミズムな学問の分野の人が、なかなか信じて承認してくれないっていうようなことがあると思います。けれども、それは今申し上げましたとおり、山窩っていうようなものは、これを学問的に承認してくれない人だって、学者の人たちもこれが、アジア的共同体に付随するものであるっていうような問題意識はもうとうないわけです。自分たちはもっているわけではありません。ですから、もし三角さんの仕事っていうようなものを、今後選り分けていくとすれば、それはあくまでも、アジア的共同体から必然的に出てきたものなんだっていうような、そういう理解の仕方から、三角さんのやった仕事を振り分ける以外に方法がないというふうに、僕は思います。
で、たぶんこれは、アジア的共同体にとって、非常に大きな要因のひとつだと、つまり、日本におけるアジア的な共同体をみるのはどこをみればよいか、もちろん、農耕共同体のあり方、その編成っていうのをみることが非常に重要なことです。しかし、もうひとつ重要なことは、農耕共同体以外の種族的な形、あるいは大家族的な形で、農耕以外の業務にたずさわった人たちのあり方っていうのはどうなっているかっていうような問題は、それを明らかにすることがやはり、日本におけるアジア的な共同体を明らかにするための非常に大きなポイントだってことがわかります。非常に重要なことだってことがわかります。
こういう三角さんのやった山窩のせぶり数っていう、これは我々でいえば所帯数っていうのと同じ意味合いにとってくださればいいんですけども。せぶり数っていうものの分布っていうようなものと、こっちは船越さんの被差別部落の人口の分布っていうようなものを赤い方であれして、どういうことになっているのかっていうことでみてみますと、いずれにせよ、集中点っていうのはいくつかあります。その両方の集中点っていうのは、だいたい一致します。それが一致するっていうのは、ある意味では当然のことなので、つまり、農耕共同体あるいは農耕のたくさんやられているところの地域、それが第一にそこに集中するだろうってことは、いずれの場合でも明らかなことです。だから、そこが農耕の盛んなところに、それは集中するだろうっていうことは、非常にはっきりといえることだろうと思います。
それから、もうひとつはやっぱり、先ほど言いましたように、もしかすると山窩っていうようなものは、支配共同体っていうもののメンバーとして存在したことがいえるかもしれませんので、それはたぶん、支配者層が非常に存在するとか、存在したとかそういうところにおいては、やっぱり多く分布するだろうっていうことが、分布することは、もちろんいえるわけです。それは、いずれの場合ももちろん一致します。
こういうことの研究っていうものは、現在これをストレートに政治的な問題にしてしまう風潮っていうのはありますけど、けっしてそんなことではないのであって、そんなことじゃないっていうのは、そういうやり方をしちゃダメなんだって、つまり、これは日本におけるアジア的共同体っていうものをつかまえる場合の、非常に大きな要因なんだ。つまり、非常に大切な問題なんだ。これは、大切な問題かつ非常に科学的、非常に冷静に追及されて、そして、それはどういう問題をはらむか、たとえばインドにおけるカーストっていうものとどう違うか、あるいは中国における制度とどう違うか、つまり中国における神人のあり方っていうようなものとどう違うかっていうことは、冷静に検討されていかなければならない問題で、それは非常に大きな問題です。特殊な問題ではけっしてありませんし、非常に大きな問題です。
これは、もし日本にたとえばマックス・ウェーバーって人がいたとしたら、真っ先に日本の社会を把握するために、真っ先に僕はここに目を付けたに違いないっていうことを、僕は確信します。それはなぜかっていうと、ウェーバーが様々な、もちろんインドの共同体についてもやっていますけれど、ウェーバーが最も着目していることのひとつは、やっぱりインドにおけるカースト、つまり、神人っていうようなもののあり方っていうようなものを、最もよく目を付けているわけです。そこで、インドにおけるアジア的共同体のあり方っていうようなものを明らかにする鍵っていうようなものをつかまえる、非常に大きな主題にしているわけです。
だから、もちろんこんなものは、けっして特殊なものでもありませんし、特殊なことを追及することでもありませんし、追求することに、なんか躊躇することでもありませんし、これはもう非常に重要なことでして、大きなポイントとしてある。少なくても、日本におけるアジア的要素のあり方、共同体のあり方、あるいはアジア的な要素のあり方っていうようなものを追及する場合の、それは農村を追及するのと同じウェイトで、もちろん追及されねばならない問題っていうふうに存在しています。
しかし、それはみなさんがご承知であるように、民俗学の人も、もちろんそれから人類学の人も、社会科学の社会学の人も、全部そうでないでしょう。つまり、民俗学の人が扱う場合には趣味として、趣味って言ったら悪いんですけども、そういう扱かわれ方をするでしょう。つまり、まともな扱われ方っていうのはないでしょう。しないでしょう。しないでしょうっていうのは、どうしてかっていいますと、なにかっていうことがわかってないんだと思うんです。わからないんですよ。だから、被差別部落っていうのは徳川時代にできたっていうふうに思ってるわけですよ。冗談じゃないのであって、もちろん徳川時代にもありますし、制度化されて一地域に集められたみたいなことはあるのですけれど、そんなことは、もう何千年も前に発祥していることなのであって、それはなにかって言ったら、アジア的農耕っていうようなこと、つまり農耕共同体っていうようなものに付随したものとしてあるっていうこと、発生してるっていうこと、そのことの把握っていうのがなければ、なかったらこの問題をどんなふうにつついたって仕方がないっていうのが、僕の考え方です。
だから、そういうふうに考えていくと、非常に重要なテーマだって、重要な問題だっていうふうに、僕にはそう思われます。この重要さはやっぱりどんなに強調しても足りないし、もちろん様々な研究があって、あるいは様々な追及の仕方があっていいわけでしょうけれども、しかしそれは追及されていること、あるいは調べられていることが何なのかっていうことについての、明晰な把握っていうのは、僕はたいへん重要であるっていうふうに、これからの課題であり、またそれは重要なことだっていうふうに、僕自身は考えます。そういうことは、今日僕は申し上げたいことのひとつ、大きなひとつの問題です。
しかし、今度は政治制度としての〈アジア的〉っていう概念の問題を申し上げてみたいと思います。これは、共同体論っていうようなものと一見すると同じように思われるかもしれませんけれども、それはそうでないのです。つまり、これは共同体の外からの、あるいは共同体を外からの関係として把握することで、共同体っていうようなことに関わりはありますけれども。しかし、それは共同体の内部構造がどうなっているかっていうこととは、関わりはないことはないんですけど、それはそのことと混同されてはならないことなんです。
つまり、政治制度としてのアジア的共同体っていうのはなにかっていえば、その共同体が、アジア的な農耕共同体が各地に散在していると、それ対して、支配的な共同体っていうようなものが、どういう関係のもち方をしているのかっていうことが、アジア的専制っていうことの問題なんです。日本においてそれが、どういうあり方をしているかってことが、日本におけるたとえばそれは、天皇制の問題であったり、政治権力の問題であったり、それで政治権力と農村との関係の問題であったり、あるいは農村共同体との関係の問題であったりっていうようなことになるわけです。
ですから、共同体も、共同体論と、もちろん重要な接し方をするのですけれども、共同体論が政治制度としての〈アジア的〉っていう概念ともイコールではないわけです。それから、アジア的専制っていう場合には、共同体論ではなくて、共同体と共同体との関係とか、共同体と支配共同体との関係がどうなっているのかっていうような、そういう問題として、それは把握されるべきだって思います。
それで、われわれがたとえば、日本史っていうふうに、日本の歴史っていうふうに考えているものは何かっていいますと、それは神話的な記述から連続して、それは支配共同体の歴史的変遷っていうようなものを記述しているのが、日本の歴史っていうものです。
つまり。僕らが日本歴史っていうふうにして、学んできているものは何かっていうと、それは、支配共同体がどういうふうに拡大していって、それでどういうふうに政治制度を改め、どういうことを、つまり被支配の共同体に対して、どういうことをしたかっていうことの歴史が、それが、いわば日本歴史っていうようなことで、学校で習ってることなわけなんです。
それは、あきらかに、ただ支配共同体の発展生成の歴史、発生の歴史とか、神話の歴史とか、起こりとか、そういうことをいっているにすぎないのですから、日本の国民とか、大衆とかっていうものがそのなかにほとんど含まれていない。その歴史のなかに含まれてこないのは、ごく当然なわけですけれども、それだったらたくさん片手落ちじゃないかっていう考え方っていうのは誰にでも生ずるわけです。とくにアジア的な制度においては、とくにそれは生ずるわけです。
だから、そこで、市民社会における社会的な構造はどうなっているのか、あるいは共同体のなかで、人々はどういう暮らし方をして、どういう風俗習慣があるのかっていうようなことだけを追求しようっていう、たとえば民俗学とか、人類学とかいう学問が発生していくっていうような場合には、この被支配共同体のなかの大多数の人たちの生き方とか、生活のあり方とか、それから、それがどういう神様を祀って、どうしているかっていうようなことを調べていくのが、たとえば人類学であり、民俗学であるっていうふうなものになって、これとは別なかたちをとって存在するわけです。
ですから、みなさんが、学校で習う日本歴史は、ここの歴史だけとはいいませんけれど、ここの歴史を主体として記述されているわけです。ですから、非常に大きな部分が欠落してしまうわけです。また、生産社会がどうなっているのかっていうようなことについての追及っていうのは、まったくこの影の方にいってしまいますから、だから、経済・社会学っていうようなものが、その段階の問題をやはり追及していく、あるいはその次元の問題を追及していくっていうようなかたちで、さまざまな補い方がなされるわけです。
だから、しばしばそれは、誤解してしまうんですけども、日本歴史っていうふうに教えられてて、習ってきたものっていうのは、本当に日本の歴史だってふうに思いこみやすいんですけれど、それはそうでないわけです。それは支配的な共同体のふるまい方を主体にした歴史が、歴史であり、神話でありっていうようなものが、日本歴史っていうようなものとして記述される。そういうものになっているわけです。
それは、本当はそうじゃないので、そうでないっていうことが、どういうふうなかたちになっているのかっていうことを調べていくためには、やはり先ほど言いましたように、数千年来それほど変わらないでやってきたアジア的農耕共同体のなかの農耕共同体のあり方と、それから、そのなかの農耕共同体以外の農耕以外のものにたずさわっていた者、その人たちが、どうなっているかっていうようなことを追及することが、ここの問題を追及することになって、それがやはり日本の歴史を追及することの非常に大きな部分、大部分の部分を占めていくっていうことがわかります。
大部分の部分を含めた日本の歴史っていうようなものを、再構成していくためにはどうしても、そこからいくより仕方がないことがあります。つまり、ここはここの共同体に必要であった文書とか、記録とか、神話とかしか、あんまり残していないわけですから、ここに残されたものから、なかなか見つけにくいわけです。ここは探りにくいと、そうすると、ここはやっぱり固有で探っていく以外にないって、それでもって日本の歴史っていうようなものを補っていくほかないっていうことになっていくわけです。
アジア的専制っていうようなものは、先ほど言いましたように、同列にあるさまざまな農耕共同体のなかから、とくになんらかのかたちで、そこから、ひとつのものが頭角を現してきて、支配的な共同体として存在していったというふうに考えられる場合もありますし、それから、そうじゃなくて、騎馬民族説の人がいうように、大陸から、大陸で様々な事件が起こって、その大圧力が日本にやってきて、それで、それが日本で支配共同体っていうようなものを形成していったんだっていう考え方の人たちもいます。
で、これに対して、いまのところ、確定的な結論を僕は、僕の知っている範囲では、与えることができないと思います。できない段階にあると思う。かつそのことは、僕の考えでは、あまり、第一義的な重要性をもたないだろうというふうに思います。ただ、そのことよりも、日本におけるアジア的な共同体のあり方、あるいはアジア的専制っていうようなもののあり方はどうなのかっていうことは、あり方の構造っていうようなものを、はっきりさせることの方がはるかに重要なことだっていうふうに、僕自身の問題意識から、どうしてもそうなっていきます。で、アジア的専制っていうものの構造はどうなっているかっていうふうに考えていきますと。
アジア的専制における支配的な共同体っていうようなものは、ほかの共同体と、どういうふうなつながり方をするだろうかっていうことを考えてみますと、まず第一にアジア的な共同体では、どうやって支配・被支配っていうものの関係を、どうやってつくりあげていくのだろうかっていうことを考えてみれば、いちばんよくわかるわけです。
で、そのひとつは、非常に重要な、これは生産方式っていうか、経済・社会的な構成っていうようなことと関係があるわけですけれども、アジア的な専制の政治構造、政治制度においては、支配共同体とそうではない被支配共同体との関係っていうのは、どうなされるかっていうと、それは貢納制っていわれてるもの、一般に貢物をとるっていわれているもの、貢納制っていうものがアジア的な専制の段階での、非常に大きな、支配共同体と被支配共同体を結ぶきずなになるわけです。貢納制っていうようなことが重要なわけです。
貢納制とは何かといいますと、先ほど言いましたように、アジア的な農耕共同体ですから、農産物が耕作されます。それで、農産物が耕作されて、村落でもって共同で耕作され、そして、共同で分配される。で、分配されない部分は、共同体に、共有地に建てられた共通の倉みたいなものがあって、倉のなかに収めておいて、それを皆で必要な時に使うみたいな、こういうかたちを必ずとります。
それで、そのほかに各家族は、大家族は、自分の宅地の住宅の周辺に、自分なりの畑作地、耕作地をもって、それで、そこから収穫したものは自分自身の家族でもって食べるみたいなことをしますけれども、大部分の耕作された耕作は共同体の所有に属しますから、それは共同体の共通の倉みたいなものの中に収めて、必要な時にそれを分配するっていうようなかたちをとります。
そうすると、この農耕共同体が生産した穀物、農産物ですけれども、農産物の余剰農産物っていうものが存在するとすれば、その余剰農産物っていうようなものが、いわば支配共同体に対して、貢物として提供されるっていうかたちがとられるわけです。その制度がアジア的な農耕共同体においては、非常に特徴的なことです。これは〈アジア的〉っていう概念が、世界史的な概念である限りにおいて、中国でもそうですし、インドでもそうですし、どこでもそうだっていうふうに、つまりそれはどこでも〈アジア的〉っていう概念が通用する段階では、場所では、貢納制っていう、貢物を差し出すとか、貢物をとるっていうような、そういうかたちが、ひとつ非常に大きな特徴だっていうことがいうことができます。
それから、日本の場合にはどういうことがあるかっていうと、たとえば、被支配共同体が支配的な共同体に対して、異議を唱えたとか、反抗したとか、反乱したとかっていうことが仮にあるとします。そうすると、支配共同体との間にいざこざが起こるわけですけれども、いざこざが治められてしまう。治められてしまいますと、被支配共同体は、あなたのところに対して、異議を申し立てて、悪いことをしたっていうようなことの代償として、村落共同体の一部分に、支配共同体に直属する田んぼとか、耕作地っていうようなものを一角提供して、そして、そこに村落共同体から人を出して、そこで耕作してもらって、そして収穫したものは、屯倉っていいますけれども、本部にある倉に収める場合もありますし、それから、村落に直属、専用の倉を置いて、そこの中に収穫物は収めて、いつでもこれは持っていけるようにするっていう。
いわば、被支配共同体が支配共同体といざこざを起こした時に、罪の贖いといいましょうか、罰といいましょうか、そういうものとして、その支配共同体の直属の農耕地っていうようなものをここに提供するっていうようなことが、日本の場合にあります。それを屯倉って言ったり、屯倉だって言ったり、それから、穀物倉庫を言う場合もありますけれども。そういう倉庫を設けたりっていうようなことがあります。そういうことによって、支配共同体と被支配共同体っていうようなものは、つながっていくっていうことがあります。
それから、もうひとつ農耕共同体にとって、それは非常に重要なポイントになるわけですけれども、それは、水利灌漑用水っていうようなものをどうするかっていうようなことです。水利灌漑用水っていうようなものをどうするかっていうようなことを考えますと、みなさんがよくご覧になるからわかるでしょうけれども、日本の支配共同体にとって、灌漑用水をどうするかっていうことは、もちろん個々の農耕共同体にとってと同じように重要なことに属するわけです。
そういう場合、日本の場合にはどういうふうにされていくかっていうと、だいたい日本の場合には、灌漑用の池を掘るっていうようなことが、盛んになされています。その池を掘る場合には、だいたい支配共同体っていうようなものが、共有地とか村落の近くに池を掘る。自分たちの共同体の負担において、つまり支配共同体の負担において、池を掘ったりして灌漑用水を作るっていうようなことをやっています。やります。
それから、もうひとつやられていることは、井戸を掘るっていうことです。井戸を掘るっていうことは村落共同体が個々にもちろんやっているわけです。井戸を掘って、灌漑用水に備えるっていうようなことをやっています。
で、中国なんかの場合には、中国でもオリエントでもそうなんですけれど、大砂漠地帯とか、大農耕平野地帯とか、そういうようなところ、あるいはエジプトみたいに大河川の流域の大平野みたいな、そういうところの場合には、日本における池を掘ったり、井戸を掘ったりくらいではおさまりがつかないので、黄河をどうやってひらくかとか、どうやって氾濫を防ぐかとか、そういうようなのは、このアジア的専制政府の、支配共同体の、大きな仕事になります。大事業になります。
だけれども、だからその大事業については、しばしば記載がされていますけれども、日本においては、みなさんがご承知のように、こんな狭い土地で、細長い土地で、そんな大灌漑水利工事なんてことは、めったにされたことがないのであって、めったにされないのであって、大部分灌漑用の場合には、池を掘ったり、それから井戸を掘ったりっていうようなことが、支配共同体にとっても、もちろん個々の共同体にとっても、非常に重要な仕事になっています。その水利灌漑っていうようなものを、よく整えない限り、農耕収穫物は期待できないわけですから、それは非常に重要な問題なものですから、そのことは非常に古くからなされています。
たとえば、風土記なんてものを見ますと、この井戸を掘る記述っていうのは、たとえば常陸風土記っていうのはいちばん多いわけですけれども。常陸風土記を見ますと、井戸を掘る話とか、井戸でもって、これは伝承とない交ぜられていますから、たとえば常陸の何々というところに日本武尊がやってきた時に、ここで手を洗ったんだとか、飲み水はないかと言ったら水が湧き出てきたとか、そういう神話的な、伝承的な記述としてなされていますけれども、井戸を掘るっていうような記述は、常陸風土記なんかにはたくさんあります。
それに対して、たとえば出雲風土記っていうのは、非常に対照的なわけですけれども。出雲風土記の場合には、神社に、もしくは専制共同体に、またひとつ特有なあれなんですけれども、お祭りですけれども、つまり祭祀ですけれども、お祭りに関係したり、お祭りに関係した者の田んぼとか、つまり神社に所属する田んぼとか、そういうようなものとか、神社に所属する田んぼを耕す人とか、そういうのをもうけたみたいな記述が、出雲風土記には非常に多いんです。
いずれにせよ、それは支配共同体っていうようなものが、どこに何をしようとしたのかっていうことの場合に、よくみるとそれは灌漑用の水利っていうようなもの、あるいは用水をどうするかっていう問題が、いずれにせよ伝承的な記述、神話的な記述であるっていうふうに考えたらいいと思います。
それから、神話の中にも崇神天皇のところには、非常に著名な歌なんかにもよく出てくる、古代歌謡にも出てくる、よさみの池を掘ったっていう、よさみっていうのは、たぶん今の大阪だと思いますけれど、そこによさみの池を掘った、あるいは、さかおいの池を掘った、あるいは、かるさかの池を掘ったっていうようなことが、古事記あるいは日本書紀の崇神天皇記のところに記載されています。
そうすると、池を掘ったってなんのことだっていうふうに考えると、それはもちろん灌漑用の池を掘ったっていうことなんで、そんな池を掘ったくらいなことを、なにも神話のなかに書かなくてもいいじゃないかってことになるんですけれど、本当はそうじゃなくて、アジア的な専制の段階における支配共同体にとっては、池を掘ったり、灌漑用水をどう整えるかっていう問題は、非常に大きな問題としてあったものですから、たぶん、池を掘ったっていうことは、非常に重要なことだったんだっていうふうに思います。だから、そういう記載っていうようなものがあります。
それで、貢納制っていうふうにいいましたけれども、貢納制っていうようなものと一緒に今度は同時に、制度が少し整ってきますと、これは、みなさんが歴史のなかでおなじみなわけですけれども、各地方の共同体に対して、国造とか、県主とか、稲置とかっていうものを置くわけです。
たとえば、稲置っていうのはたぶん、数か所の村落共同体に対する支配共同体と関わりのもつ役人だと思います。役職だと思います。
それから、県主っていうのはたぶん、今の何々郡ぐらいの単位の地域の共同体に対して、支配共同体との連結主となる、そういう役割だと思います。
国造っていうのは、今の県とか、県をふたつに割ったくらいのものだとか、そういう程度のところの地域の、支配共同体とのわたりをつけるっていいますか、連絡をつける役割のものを国造というふうに言ったと思います。
それで、もちろんここで神話的な記述っていうのは問題になるわけですけれども、国造っていうようなものは、この支配共同体の中から、神話をみますと、イザナギとイザナミが何々っていうのを生んで、何々が何々を、目を洗ったら何々が生まれてっていうふうにして、それが国造何々、県主何々の祖先であるって、こういうふうに神話のなかに書いてありますけれど、それはすこぶるあてにならないわけです。つまり、そうである場合もあるわけですけれども、そうでない可能性の方が、僕は多いと思いますし、そうでない可能性として、アジア的共同体っていうのをみた方がいいと思うんです。
つまり、アジア的共同体においては、支配共同体は被支配共同体のなかに対しては、手をつけないっていうことが、非常に大きな特徴なわけなんです。つまり、これは、ヨーロッパの共同体のあり方とか、政治支配のあり方と、非常に違うところだと思います。
アジア的共同体においては、支配共同体っていうのは、できるだけ個々の共同体ないしは、個々の、昔でいう国なんですけれども、個々の国に対しては、なかに対しては、あんまり手をつけないっていうこと、なかに対しては、村落共同体なら村落共同体自体の、いわば内部的な問題に全部委任する。
そして、それが、貢納制とか、貢物をとるとか、とらないとか、ここから共通の池を掘るために、人手を出せっていうふうに、そういう人手を出させるとか、そういう時にだけ、被支配共同体に対して、要求をしたりなんかしますけれども、できるだけ被支配共同体に対して、支配共同体は内部に手をつけることをしないっていうようなのが、非常に大きなアジア的共同体、あるいは、アジア的な専制政治行動の大きな特徴です。
これは、このこともたぶん現在、みなさんがたくさん思い当たることがあるというふうに、僕は思います。けっして、地域の特殊性の問題のなかに、中央の政治のあり方っていうようなものが、およんでくるっていうふうなことが、およんできたことが肌身に感ぜられるっていうことが、非常に少ないっていうことがわかるでしょう。
僕らのところでいえば、東京都知事は美濃部さんっていう人から、鈴木さんっていう人に変わった。それで、政治党派でいえば、社会党、共産党応援候補から自民党の代議士に変わったわけです。それでもって、僕の日常生活のなかで、僕のところまで変わったことが現れてくることは、まずひとつもないと言っていいくらいです。つまり、誰でもおんなじじゃないかっていう、極端なことを言いますとそうなります。
どっかもっと支配共同体の内部とか、そういうところでは、鈴木都知事であるか、美濃部都知事かっていうのは、たぶん、大変な違いなんだと思うんです。だけれども、被支配共同体のところまで、あるいは個々の家族のところへきた時には、なんだちっとも変ってないじゃないか(笑)、どこがよくなったんだとか、どこが悪くなったんだとか、変わってないじゃないかっていうことになるわけなんです。
そうすると、非常に政治的な啓蒙家っていうのは、躍起になって、おめえらそれはよくわかんねぇからそうなんだけど、鈴木と美濃部はこう違うんだっていうふうに、啓蒙してくれたりします。選挙になったりすると啓蒙してくれたりするけど、それはどこで違っちゃってるかっていうと、たぶん、支配共同体、この場合は地方自治体ですけども、そこのところで、うんと違っちゃってるんですよ。なにかが、違っちゃってるんです。
だけれども、個々の家族のところに、日常生活のところまで、その違いがくるっていうことは、なかなか、少しは違いが現れたりするんですけれど、ほとんどあらわれないっていうことがあります。このことは、たんに東京だけでなくて、たぶんみなさんが体験しているだろうって気がします。
そのことは、いろんなことで思い当たることがあるに違いないって、僕は思いますけれど、それはなぜかっていうと、アジア的な政治構造においては、政治支配の構造においては、とにかく、個々の共同体に対して、支配共同体っていうのは、中まで手をつけたりしない、中まで自分の制度的考えを押しつけて、むちゃくちゃにかき回してしまえっていうやり方をしないっていうのが、非常に特徴的なことなんです。これはインドにおいても、中国においても同じです。同じだと思います。その構造は変わりないと思います。
だから、たとえば、中国共産党が文革派からなぜか、近代化になぜか変わったって言ったって、個々の何億人かいる農民のところはちっとも変わらないと、僕は確信して疑わないですけれども。そのことは非常に大きな特徴です。アジア的な共同体における、非常に大きな特徴だっていうことが言えると思います。
利点であるとともに、いい点であるとともに、それは非常に、なにをやられたって全然めくらだよっていう、つまり、ここのところの周辺で、重要なことがいろいろ変わってるんだけど、そんなのは全部めくらになってるよっていう意味では、非常に欠点の多い構造、逆にいいますと、ここがどう馬鹿がいても、馬鹿がやってても、俺のところは変わらないよ、つまり個々の生活に関係ないよっていうこと。
それから、ここのなかだけで、つまり村落共同体の内部だけでみてみれば、そこのなかでは相互扶助っていいますか、隣人とは愛し合えとか、隣人とは助け合えとか、隣人とは仲良く、それはある意味では非常に利点です。ヨーロッパ、アメリカみたいにぎすぎすしていないです。そこで、ぎすぎすして、つめたくて、冷酷で。やりきれない、私の隣人がやりきれないっていうようなことが、アジア的な共同体的な要素が残っているところであればあるほど、たぶん少ないだろうって言えます。
そこでの神話性とか、そこだけを考えれば、たいへん平和だとか、平穏だとか、たいへん暮らし心地がいいとかいう体験が、みなさんにおありだろうと思いますけれど、そのことは、いわば利点というふうに考えることもできますし、また、どんな馬鹿な人がいても、支配者になっても、大して変わりがないよっていうふうに考えれば、それは利点だっていうふうにみることも、それはできるわけです。
だけれども、逆にいえば、ここのあたりで、いろんな重要な変更がなされているっていうこと、まるで知らないでも、まるで関係の知らないで過ごしちゃってるよっていうようなこともあると思います。つまり、そういう欠点もあると思います。
しかし、この欠点と利点っていうようなものは、欠点を拡大するんじゃなくて、利点を拡大し、欠点の方は抑えてみたいなふうに、ここのところは非常によく考えていかないといけないと思います。
これをヨーロッパ化すればいいっていう問題でもなく、これをヨーロッパ化すれば、全部できるかっていうと、必ずしもそうでないので、もちろん、これ具体的にはできるんですけど、やがて、そうなるだろうというふうに思いますけれど、しかし、いわば精神構造のなかで残っているアジア的な構造の利点っていうようなものと、欠点っていうようなものは、たぶん、これはいままで数千年来残ってきたのと同じように、たぶん、これからも非常に長い間、残っていくだろうと思います。
つまり、この問題も利点と欠点を含んでいるはずなんだって、このこともやっぱり、非常によく考えていかなければならないことだろうというふうに思います。これは、モダンな先進的な資本主義、世界の先進的な資本主義国に追従すれば、そこで起こった精神現象を全部追従すればいいっていう問題でもないように思います。
それからもうひとつ、逆にたとえば、先進的な資本主義国の精神現象、文化現象っていうのは退廃的だからっていうので、ラテン、アフリカとかっていうところのなんかに目をつければ、ここでなにか全部わかるか、全部いいことだらけになるかっていったら、そんなのまた嘘で、裏返しの嘘で、だけれども、日本の、現在でもそうでしょう。日本の人はどちらかの型しかとらないのですよ。
つまり、非常にモダニスト、モダンな人は、非常にモダンで優秀な人っていうのは、非常に先進的な資本主義的、これこそは手本だっていうふうに、手本で、これを追いつけ追い越せっていうふうにやりますし、ここにあるのはとにかく、なんでも退廃からなにから全部引き受けようっていう、そうなろうっていうふうにしますし、これは退廃だっていう人は、アフリカとか、非常に未開のところとか、アジア的な段階にだんだん入りつつある、そういう地域における、精神的な意味で素朴であり、そしてまた、退廃っていうのは、資本主義的な意味合いでの退廃っていうのは、知らないで済んでるっていうのは、そういうところの問題をもってくれば、それで済むっていうふうに考えて、そんなことはないのですよ。そんなことは絶対ないのであって、人間の精神構造っていうのはもとには戻りはしないのですよ。それだからといって、先に手本があるからそこにいけばいいかって、そんな問題でもないのであって、今あるところのものっていうのが、どうなってるかってことを非常によく知るっていうことが、知るが上にも知るっていうことが非常に重要な要素のように僕には思われます。だから僕はそういうことを言いたいように思います。
で、そうしますと、そのアジア的な共同体っていうようなものは、専制構造っていうようなものは、そういうふうになっていきます。それで、もうひとつ、日本の場合に非常に大きな特徴があります。これはインドでも、中国でも、そうですけども、今言いましたように、インドでも、中国でも、外敵が来てっていいますか、異民族が来て、外敵が来て、支配共同体に戦いを挑むわけです。つまり、国家に対して戦いを挑むわけです。そうすると、それに対して支配共同体は、全部をあげて、自分たちの共同体が固有にもっている兵力と、それから、ここから徴収した兵力と、全部集中して、それと戦うわけです。戦った挙句、敗けたとします。そうすると、外国の、つまり異民族の支配者がやってきて、今度は、これに取って代わるわけです。そうすると、取って代わって支配がはじまるわけです。
もちろん、取って代わったって、アジア的である限り、ここに対して手をつけることは、あんまりしないのです。しなければならない時はするでしょうけれども、そうじゃない時には、ここに対して、アジア的な支配者っていうのは、どこの民族でも、どこの種族でも、そうですけれど、これに取って代わったって、ここに対して、けっして、この中までごちゃごちゃに、今度は俺が支配者なんだから、俺のとこに従え、俺のところの民族の習慣に従えって、むっちゃくちゃにかき回しちゃうっていうようなことは、まず、なかなかしないのです。それは、任せるわけです。
だけれども、ここはたえず異民族であったり、たえずほかの部族であったり、ほかの支配者になったりっていうことを、たえずやっているわけです。たえず、そういうことにさらされているわけです。しかし、ここの段階では、そんなものはだれがやってきたって、われかんせずだよっていうふうに、ある意味でそういうふうに済んでしまうっていうところがある。しかし、ここはたえず交代しているっていうようなことがあります。異民族であったり、同民族であったりしますけど、たえず覇を争って交代しているっていうようなことがあります。
ところが、日本の場合には、それがアジア的っていうことの大きな特徴ではあるのです。ところが、日本の場合には、みなさんがご承知のように、あんまり異民族の支配者が取って代わったっていうようなことは、まず、そんなにないのです。
騎馬民族説によりますと、一等初めにそれがあったとおっしゃいますけれど、しかしそれは、一等初めにあったっていうことで、それで一回きりなんです。あとは、どなたであろうと、万世一系ではありませんから、たくさん交代していますけれど、でもそんなに違った人が、かわり映えのあるのが支配者になったことっていうのはないのです。それは、非常に日本の大きな特徴です。
これは、中国やインドでは考えられないことです。たえず、異民族にここはやられています。そして、異民族に支配されています。そのたびに戦火にさらされている。しかし、ここではカタツムリのように、ここの中にこもっている限り、それはだれがやってきたって、たいして変わり映えないよって、俺たちは、苦しいとすれば苦しいことには変わりないし、楽しいとすれば楽しいことには変わりないしっていうふうに、誰が来ても変わりないよっていう考え方っていうようなものは、アジア的なところでは、すべてに共通な考え方だと思う。もちろん日本でも、もちろんそれはそうだと思います。日本人にとっても、そのとおりだと思います。
だけれども、違うところは、そこで場慣れはしていないっていうことです。支配階級が異民族に代わるとか、異民族の支配者になるとか、そうじゃなければ、またとんでもないのがここから出てきて、支配者になったっていうようなことには、すこぶる慣れていないっていうこと、そういう意味合いでは、非常に変化が少ないっていうこと、これはやはり、日本における支配共同体っていうような、あるいは、アジア的専制構造の、非常に大きな特徴だっていうふうに言うことができます。
そうしますと今度は、いまのことから、当然帰結されることの問題なんですけれども、アジア的な諸国家においては、いまのことを普遍しますと、すぐにだれにでもわかる、出てくる結論なんですけれど、アジア的な専制構造のところでは、革命っていうようなことは、どういうふうにおこなわれるか、おこなわれてきたかってことを申し上げますと、それは、タイプはいくつかに決まってしまうわけなんです。
ひとつは、まず申し上げてみますと、ひとつ考えられるのは、この支配共同体のなかで、たとえば、物部氏が支配して、専制君主のところにくっついていたんだ、物部氏が実質上、支配共同体を支配していたんだって、そこのところに、今度は蘇我氏が興ってきて、こいつをぶっ倒しちゃった、だれかと組んでぶっ倒しちゃったっていう、その種の革命っていうのがあります。革命があります。
その種の革命は、一種の宮廷革命ってふうに言うことができます。それを、宮廷革命って言うわけです。宮廷革命っていうのは、べつに宮廷じゃなくてもいいのです。つまり支配共同体の内部で、だれかがだれかと替わるって、だれかの勢力がだれかと替わる。その場合に、神聖的な君主とか、ホメイニとか、そういうのは替わらないのです。その下の方が替わるんですよ。それはなにかっていうと、支配共同体の内部で替わる革命っていうようなのがあります。それで、内部で替わったうえで、替わった人の勢力によって、たとえば、多少の施策とか、政策っていうのが変わってくるとか、対外関係が変わってくるとかっていうのはあります。
それは、アジア及び、ホメイニなんて言っちゃったからいけないんだけど、オリエントもいれますけども、アジア及びオリエントっていうものの、大きな革命の特徴のひとつは、それが支配共同体の政治革命であるっていうことが、ひとつあります。
それから、もうひとつあります。もうふたつぐらいあります。もうふたつっていうのは、たやすく考えられることは、ここ側の問題です。ここで、つまり、村落共同体、あるいは農耕共同体、あるいは、それらがいくつか連合したくらいの範囲の中で、たとえば、大土地所有者で、あるいは、大農耕者である、大耕作者である地主と、それから、小耕作人であるとか、小土地しかない小さな農民であるとかの間に、対立を生じて、そしてこれが、小農とか貧農とか、小作人とかが、要するに、大土地所有者であり、大耕作者である地主の村落共同体内部における支配っていうようなものを壊してしまうっていうことです。それを、取って代わってしまうっていうようなことがある。
そして、取って代わった変わり方を、地域共同体を横に連結するように、それを連結していく。これが、一種の地域共同体における社会革命なんですよ。社会革命なんです。つまり、これとは、あんまり関係ないところからでてくわけです。社会革命から発っしていって、全体の地域革命っていうようなものを占めていくっていう、革命の仕方っていうようなのが、当然あります。それは、中国がそうです。中国がそういう革命の典型的、中国革命っていうのは、典型的にそうだっていうふうに考えることができると思います。
それから、もうひとつは、政治革命なんですけども、支配共同体のなかの、だれかがだれかに替わったっていうような、そういう政治革命ではなくて、こいつを根こそぎ、それ以外の勢力がこれを根こそぎ転覆しちゃって、そして自分たちが、政治権力、政治中央権力、支配共同体権力を獲得していって、それで、その施策っていうようなものを、ここに及ぼしていく。
で、ここのところは。そんなに変わり映えがしていないっていうような、そういう革命っていうことが、もうひとつ考えられます。それがロシア革命です。ロシア革命っていうものが、典型的にそうだと思います。つまり、レーニンのように、知識人と、それから、労働者のある部分と、それから、非常になんでもない普通の大衆のある不満とか、要求とか、そういうふうなものが折り重なって、そして、これを根こそぎ転覆しちゃって、自分たちがここに座るわけ、そして、いろんな施策をするんですけど、いかんせんここのところの、つまり、ロシアのミール共同体っていう、またこれも、世界史的に著名な、強固な農耕共同体ですけども、共同体の残存っていうものに対して、これはしかるべき施策っていうのはできないっていう問題が、たぶんそれが、スターリン主義の問題であり、そのぶん様々な弱点としてあらわれた問題っていうのが、そこのところにあると思います。革命のタイプとしては、そういう革命のタイプっていうものが、ロシア革命のタイプとして、ロシアのアジア的専制革命、つまり、アジア的革命っていうようなものの型っていうのが、そういうひとつとして、それは考えられます。
つまり、よくよく考えてみて、アジア的構造の、なんらかの意味で残存しているところにおける政治革命のタイプ、つまり支配共同体っていうようなものの、移り変わりの交代、あるいは、個々の共同体とどう関わるのか、あるいは、関わらないで、われかんせずってことなのかっていう問題のポイントから考えて、アジア的な地域における、アジアあるいはオリエント的な地域における革命っていうようなものを考えますと、それは、いま申し上げました3つの型に尽きてしまいます。
大なり小なり、いままでなされた革命っていうようなものは、アジア的革命ですから、そうでない革命っていうようなものは、もう少しあとで、このあと申し上げようと思いますけれど、ともかく、その3つタイプしか整理してございません。そして、3つのタイプの利点と、そして弱点っていうようなものは、いま僕が〈アジア的〉っていうようなことで申し述べてきたことのなかに含まれている利点と弱点に尽きると言っていいと思います。
つまり、その利点と弱点っていうようなものが、いままでなされてきた革命の、さまざまなアジア的あるいはオリエント的革命のタイプのもっている利点と、そして弱点だと思います。そのことの問題もまた、非常によくよくそのことがわかり、よくよくそのことを考えて、それならばどういうのがいいんだろうかってことは、よくよく考えていくべきだって問題が、やっぱりあるだろうと思います。
それで、それに対して、残るタイプで考えられる革命っていうのは、ふたつしかありません。そのひとつは、たとえば、ポーランドがそうであり、チェコがそうで、ハンガリアがそうでありっていうふうに、支配的な革命政治権力、あるいは政治国家っていうようなものの庇護下に革命を成し遂げたっていうような、そういう革命っていうのは、ヨーロッパ、とくに東欧諸国に存在します。東欧諸国のタイプっていうのは、それに尽きると思います。そのことの弱点、利点っていう人もいるかもしれませんが、利点と弱点っていうものは、現在、チェコ、ポーランドっていう、そういうのが当面しているさまざまな問題のなかに、全部集約して含まれているだろうっていうふうに思います。
それと、もうひとつあるとすれば、あとひとつしかないので、高度資本主義が最も高度に発達したところでの革命っていうようなものは、いったいなんだろうかっていうことがあります。それで、このなんだろうかっていうことは、すこぶるわからないわけなんです。
これをどういうふうに考えられるかっていうことは、すこぶるわからない現在の問題のように思います。で、そのわからないことのポイントはどこにあるかっていうのは、なんとなくわかるような気がします。
それは、なにかって言ったら、現在、あまりに高度化してしまったために、さまざまな要因をはらんできている。かって、資本主義が勃興期に存在した弱点、欠点と、それから利点っていうようなものと、まったく違った利点と弱点っていうようなものが出てきてしまってるっていうような、そういうことをどういうふうに考えたらいいのかっていうことが、非常にわかりにくいことのひとつです。
で、このわかりにくさっていうものを、どこで、どういうふうに、解かれようとしているかっていうふうに考えますと、僕なんかの考え方では、西洋あるいはアメリカでもそうですけれど、欧米における最も発達した、最も進歩した革命として、いままでアジア的革命をやってきたマルクス主義っていうのはそうですけども、マルクス主義はアジア的革命を担ってきた理念なんですけども。
マルクス主義が、たとえば、現在の欧米とか、先進的なところで、どういうかたちになっているかっていうことを考えてみますと、そうすると、なんとなく、それがわかるところがあります。それは何かって言いますと、僕の考えでは、西欧およびアメリカにおける最も進歩したマルクス主義のかたちっていうのが、今の構造主義だっていうふうに考えます。
現在、構造主義だって言われているものは何かっていいますと、あれはマルクス主義の放棄ではありません。マルクス主義を捨てたのではありません。捨てたのではなくて、最も発達したかたちなんです。
で、最も発達したかたちっていうようなものの、特徴っていうものを、こういう政治制度の問題に関してだけ、その特徴を抽出してみますと、言えることは何かっていいますと、直接的、支配・被支配の間に起こる、間の関係に起こる倫理性ですね。倫理的、悪であるとか、善であるとか、直接的倫理性の解除っていうことです。直接的倫理性を解除してるっていうことが、支配・被支配の間にある直接的倫理性を解除してるっていうのが、マルクス主義の最も高度な発達のひとつとしての、構造主義の非常に大きな特徴です。
このことのなかに、様々なことが含まれていると思います。このことの意味っていうのを考えることは、いわばアジア的かたちで行われてきた革命の理念っていうものが、どうなっていくのか、どうなっちゃうのか、あるいは、どこにそれが弱点をもつのかっていうような、またしかし、不可視的に高度になっていくと、そこに行かざるを得ないんだっていう、それも含めて、そこの問題の中に、集約されているというふうに、理解することができると思います。
それが、たとえば、非常に先進的な、西欧とかアメリカにおけるマルクス主義の到達したところであり、同時にそれは、なれの果てっていうふうに言えるのかもしれないですし、また、それはしかしそうじゃない、高度な到達点だって言えるのかもしれません。つまりそれは、被支配・支配の間の倫理的関係性っていうようなものの解除、それを解除してしまっていることです。つまり、そこで中性化してあるってこと。そのことが非常に大きなポイントだっていうふうに、理解することができます。
型として申し上げる限り、現在まで行われ、そして現在考えられる革命っていう概念は、いままで申し上げました型のなかに、全部含まれてしまいます。そのなかに、未知のものがあり、既知のものがあり、そして、弱点があり、利点があり、そして、それは型ではなくて、具体的な問題なんだっていうこともありますし、また、そのなかで、非常に実際に、そのことをちゃんとはっきりさせていかなければならないっていうような、さまざまな問題っていうのがありますけど、しかし、たぶん、いま申し上げました型の中に、型の問題の中に、全部の問題が含まれてしまうだろうっていうふうに言うことができます。
それが、たぶん僕たちが、〈アジア的〉っていうような、〈アジア的〉って概念の、現在における意味合いってものに対して、多少でも執着せざるを得ないところがあるとすれば、その問題から発出していく問題っていうようなものは、発出していく外在的な問題っていいましょうか、そういう問題は、たぶん、そこのところに至りつくのではないかと思われます。
また、内在的な問題になりますと、それは日々、自分の内面の問題にまでかかわってきますし、またそれは、いまも私たちの意識の中に残っている〈アジア的〉っていうような、アジア的精神構造みたいなものの問題にもなりますし、さまざまな問題をそれははらんでいるのですが、外在的な問題としても、いま申し上げました問題っていうものが、きっとこれからの問題になるでしょうし、また、今もたぶん、非常によく考え、きわめられなければならない問題として、かならず存在するだろうっていうふうに、僕には思われます。だいたい、僕の申し上げたいことっていうのは、いちおう言えたような気がいたしますので、これで、いちおう終わらせていただきます。(拍手)
(司会)
もう少し時間がございますんで、もし質問の方がございましたら、吉本さんお答えいただけるそうですので、お手をあげていただきたいと思いますけど。
(質問者)
先ほどの説明の中で、農耕従事者と、それから、それとは違う神人とおっしゃいましたけれど、そういうふうな区別と、それから、支配共同体のなかで、支配共同体が変わっても、変わらずに存在する。たとえば、ホメイニみたいな、そういう存在としての権威、象徴的な権威だと思いますが、そういう関係のなかで、日本の天皇ですね、これはどこに、どういうふうに位置づけて、考えたらいいのでしょうか。
たぶん、言われた、神人のなかの一部分の、ちょっと特別なかたちというふうな理解をしたらいいのでしょうか。そうすると、たとえば、神人が山窩として残ってきたとか、あるいは、被差別部落として残ってきたとか、というようなことがありますけれども、そうすると、天皇といえば、そういう特別に差別されるような人たちとの関係っていうのは、いつ、どこで、どういうふうに、区別されていったのだろうかと、そういうことをちょっと、簡単に説明していただければありがたいです。
(吉本さん)
いま、おっしゃられたことって、僕、こうだと思うんですよ。日本における天皇の処遇のされ方って言い方をしますと、処遇のされ方、遇され方、待遇のされ方っていうのは、たぶん、村落共同体における神人の処遇のされ方、待遇のされ方とおんなじだって、つまり、イコールである。つまり、鏡であるっていうふうに僕は思います。正確な反映だっていうふうに、僕には思えます。
ところで、処遇でなくて、され方でなくて、政治的な機能のあり方としていえば、天皇っていうのは、専制君主じゃないでしょうか。記するところ、アジア的な専制国家においては、国王一人のもとに、一人が土地所有者であって、全土地の所有者であってっていう意味合いの、もうほんとに全知全能の所有者っていうのが、支配共同体の支配者、長、チーフ、首長っていうことだと思います。そういう意味合いでは、専制君主じゃないでしょうか。たった一人の君主じゃないでしょうか。つまり、かけがえのないっていうか、替えることのできない君主、取って代わることのできない君主じゃないでしょうか。それは、あり方だと、存在の仕方だと思います。
それと、処遇の、遇され方っていうのは、村落共同体における神人の遇され方と、おんなじだっていうふうに考えられますから、外側からの遇され方っていうものと、それから、支配共同体の首長としての機能っていいましょうか、あるいは、存在っていいましょうか、そのこととのふたつの問題があるように、僕は思いますけど、それが天皇制の問題なんじゃないかってふうに、僕自身はそう思いますけどね。
だからもう、デスポットとしては全能ですから、だれも異議を唱えることができないというふうになると思うんです。存在したと思うんです。
だから、そういうの、いちばん露骨にあらわれるのは、たとえば、摂政関白制時代のあり方で、たとえば、藤原氏が、摂政関白を自分の血族、一族から、次々に出すわけですね。で、そのことと、それから、自分に娘があれば、かならず、天皇または皇太子っていうようなものの配偶者、ちゃんとしますね。で、男の子どもが生まれれば、それは自分が摂政なり、関白なり、してるんですから、天皇の位に据えることができるわけです。そういう力があるわけです。で、実際にそうしますけれど。それならば、そんな回りくどいことしないで、自分がなっちゃえばいいじゃないかって、こういうふうになるんだけど、僕が知っている限りでは、自分でなっちゃうって発想は、けっしてしないわけです。
それから、もうひとつは、それじゃあ、馬鹿にしているかっていうと、自分の娘の婿さんであるとか、娘の産んだ子どもであるとかっていうのが天皇なんだから、自分は馬鹿にしてるかとか、こうせいああせいと言ってるかっていうと、けっして、そうでないです。やっぱり、いうことを聞いてます。そのことについては、違反をしていないですね。
それならば、本当に違反していないのかっていうと、そうではなくて、ちゃんと自分の実際の政治ってものは、自分がちゃんと自分の意向どおり、ちゃんとできるようにはしていますけれど。自分が取って代わるっていう発想はしていないところがあります。取って代わるっていうのは、単に、いつだって取って代われるんだけれど、ただ、しないだけだよっていうのじゃ、けっしてないです。取って代わろうっていう発想自体がないように思います。だからそれは、なんかそういう日本のデスポットのあり方っていうようなものの非常に大きな象徴なんじゃないかって僕はそう思いますけどね。
(質問者)
神人の両義性ってことで、尊ばれる人と蔑まされる人ということで、たとえばの例として、農耕に従事しない人を神人っていわれましたけど、たとえば、そこに住人の神人がいるとした場合ですね。どういう基準で、ある人は尊ばれ、ある人は蔑まれたのかっていう、その辺がわからないんですけど、その辺を少し教えてもらえますでしょうか。
(吉本さん)
いや、ある人が尊ばれて、ある人が蔑まされたんじゃないんです。尊ばれることが蔑まれることなんですよ。蔑まれることが尊ばれることだったって、つまり、おんなじなんですよ。人間がなにかを尊ぶ心のはたらき方っていうのと、なにかを尊ばない、つまり蔑む心のはたらき方とは、おんなじなわけなんですよ。
今でこそ、分離しますけども、今でこそ、それが分業化されていますけど、つまり、あいつは蔑まれる役割とか、あいつは尊ばれる役割とか、分業化されていますけれど、人間が原始的あるいはアジア的共同体ってものを組みはじめた、そういうところの段階では、それは分離されてはいませんから、尊ばれることと蔑まれることと、それから、聖なるもののとされることと、犠牲者とは同じことだと思います。
同じだったものが、だんだん分業化されていったと考えれば、考えることだって、僕が言いましたことは、尊ばれることが蔑まれることとおんなじだって、たとえば、らいの患者っていうのは、古代においては、尊ばれたわけですよ。それは、神の病気だって言われたわけなんですよ。だから、特別に食べ物を無償で、村落共同体の人は持ってきてあげる。それで、特別に働かなくてもいいように住んでもらって、それで、無償で、食べ物も、衣類からなにから、全部提供するってなふうに、神の病とされていたわけなんで、それは、近代の概念からいうと、馬鹿にしてんじゃないか、差別してんじゃないかってなるわけですよ。らいの患者っていうのを差別しているじゃないかっていうことになるわけでしょ。そのことは、古代においてはおんなじだったっていうことなわけです。それが、だんだん細分化されていったことの問題じゃないでしょうか、あなたのおっしゃることは。
(質問者)
非常にスケールの大きい歴史の見方という意味で参考になったんですけども、〈アジア的〉という言葉の概念、だいたい自分なりにわかってきたように思うんですけども、そうすると、それで捉えきれない世界というんでしょうか、いくつかの言葉のなかにヨーロッパとか、そういうこと出ましたので、そうすると、農耕ということでひとつ、数千年も観念を変えなかったって言われたんですけども、そうすると、ヨーロッパの近代ということは、どういうことが契機として、これだけ社会を、世界を変えていったかという疑問がひとつあります。
それから、ちょっと細かいことですけども、山窩のところで、農耕社会はずっと変わらなかったわけで、神人といわれる人たちが社会を変えたっていうか、吉本さんは進歩、発展とか、そういうこと言われましたけど、価値の問題として、そういう変わらない農耕社会の方をとるべきなのか、まあそれは、できないことなのかもしれませんけれど、そうじゃなくてやっぱり、神人といわれる人たちの観念の世界とか、あるいは技術の世界とか、そういうことの方をわれわれはとっていくべきなのか、ちょっとそこは私自身、整理つかないんですけども、そこら辺のことについて、少しお話ししてもらいたいと思います。
(吉本さん)
僕自身も整理つかないわけです。整理つかないので、ただ要するに、アジア的農耕共同体の何千年もそんなに変わらないあり方とか、そこの精神構造とかっていうものを、そういうものの利点っていうのと、弱点っていうのがあって、利点っていうのは、けっしてなくす必要はないことだと思うんです。
弱点っていうのもある。つまり、進歩とか発展とかいうものに寄与するっていうような意味合いでは弱点になりますね、それは、変わらないってことは。それに対して、それを収縮させる力になりますね。その意味合いでは、それは弱点なんじゃないでしょうか。
つまり、利点と弱点っていうものの振り分けっていうことが、非常にそれをよく考えることが、考えて、利点は膨らむし、弱点は消滅するみたいな、そういうことは何なのか、どういう考え方なのかってことを、はっきりさせていくことが大切なんじゃないかっていうことが、僕は言えるだけであって、だけなんですよね。
それは、あなたとおんなじで、僕もそのことはどういうことなんだってことを、できるだけはっきりつかまえたいっていうモチーフをもっているってことなんですけどね。そんなに、わかりきっちゃってるっていうことは、ぜんぜんないんですよ。だから、言えることはそのことだけだと思うんですね。
それから、もうひとつの、どうしてヨーロッパの近代っていうものが、さまざまな発展した社会っていうのをもたらしちゃったみたいなことになったっていうことも、たいへんスケールの大きい問題で、なかなか僕、答えにくいんですけどね。ただ、近代っていうのは、ふたつなんですよ。つまり、人間がアジア的な段階でもっていた、あるいは、もう少しあとの、古代的な段階でもっていた人間のさまざまな思想とか、それなりの文化とか、文明とかっていうのはあるわけですけれども。
そういうものっていうのは、現在では、どういうかたちで、そのまんま残っているかっていうと、いちばんわかりやすいのは宗教だと思うんですよね。たとえば、アジア的な宗教っていうのはあるでしょ。仏教もそうですし、ヒンズー教もそうですし、それから、オリエントまで拡張すれば、回教っていうのもそうでしょう。そういうものっていうものの原型が、要するにどこで発生したかっていうと、インドならインドのアジア的共同体の段階に達した時に、それは発生したものだっていうことができます。つまり、その思想は、仏教の思想は。
だから、それをみればわかるように、そのアジア的な思想の、思想って、今、宗教として現存しているアジア的思想っていうのは、よくみればわかるように、そのなかには、人生訓もあれば、一種の幼稚ではあるけど、科学もあるんです。それから、医学も入ってるんです。それから、もちろん宇宙に関する哲学も入ってるんですよね。それから、人間いかに生きるべきかっていうのもありますし、神と人はどうちがうか、仏と人はどうちがうかみたいなことも入ってる。つまり、あらゆるものが、全部そのなかに入ってるってことなんです。つまり、古代的とか、〈アジア的〉っていうものの段階における人間の考え方っていうのは、非常に総合的なわけなんです。
それが、その総合性っていうものに対して、ヨーロッパの近代っていうものは、なにを対峙させたかっていうと、そういう総合的なものを把握するところのエゴっていうか、個我っていいますか、個人っていうか、自我っていうか、それは、すくなくともそれを把握する時には、その外にいるっていうふうに考えていったと思う。つまり、外にいる一人の個我が、非常に総合的な古代思想であり、総合的かつ偉大である古代思想であるアジア的思想、そういうものに対して、どういうふうにふるまうべきなのか。
たとえば、ヨーロッパでいえば、ヨーロッパの古代思想っていうのは、ギリシャ思想に代表させるとすれば、ギリシャの思想のなかには、科学もあれば、哲学もあり、いかに生くべきかもあり、宗教も入ってます。つまり、全部入ってるわけなんです。それを把握する場合に、ヨーロッパの近代最初の萌芽っていうのは、エゴがそれをつかまえる場合に、エゴっていうものを、把握されたそういうギリシャ思想の体系の外に置こうじゃないかっていう考え方をしたわけです。
エゴっていうものが、そういう思想をつかんだ場合に、総合的な思想だったものが、分化せざるを得ない。分化してみえざるを得ないので、そのなかに、科学的なことがいってんのはこれだけだって、で、それは錬金術的なものにいくわけです。で、錬金術から近代科学にいくわけです。そういうふうに、はじめに個我っていうものを、そういう総合思想に対して、総合思想の中側にいるって考えないで、共同体的に思想の中側に、思想共同体の中側に自分がいるって考えないで、思想共同体の外に、個我がいて、その思想共同体である古代思想、あるいはアジア的な思想っていうのを、どう把握するかっていうふうに、まず、考え方の場所を変えていったっていうのが、ヨーロッパの近代のはじまりだと思うんです。
そうすると、総合的だった思想が全部分化されて、科学であり、哲学でありとか、医学でありって、全部分化していっちゃったわけなんです。それを分化してここに追及していったっていうのが、ヨーロッパの近代の発展過程だと思います。それが、いまの医学とか、科学とか、哲学とか、まあ宗教はキリスト教ですけれども、そういうのが生まれていった、そういう考え方が生まれていった、一等初めの近代のはじめっていうのは、たぶん、そういうところに場所を、考える場所を変えていったんじゃないでしょうか。つまり、共同体的な考え方っていうのの、まず外側に、自分が考える場合には、すくなくても出ようっていうふうに考えたことが、近代のはじまりなんじゃないかっていうふうに、思われるんですけどね。
(質問者)
アジア的共同体っていう概念で、現代の日本がどこまで捉えられるってふうにお思いですかっていうことが質問なんですけども。つまり、農耕共同体というかたちで生まれてきた共同体の質の変化が、昔と比べて流動性にも富んでいますし、そして、昔はある程度、人々、運命を共にしてましたと思うんですけれど、いまはただ、たとえば北九州市小倉北区の住民というかたちでみたとしても、もっとせまいレベルでみたとしても、ただ一部分での、その人のかかわりであって、日本人でいえば、ほとんど、生活の糧を得る企業内部とか、そういうことに、共同体的な側面っていうのは移っているのではないかと思うので、先生のおっしゃったような共同体っていう捉え方で、いまの日本がどこまで捉え得るのでしょうかっていうことです、すみません。
(吉本さん)
僕、こう思います。共同体的なところで、いまの日本がどこまで捉えられるかってことじゃなくて、共同体的な捉え方っていう捉え方っていうものが、どこまで残っているかっていうことを、非常にはっきりさせなければいけないっていうふうに思います。
その意味合いでは、あなたのおっしゃることのとおりだと思うんです。つまり、ある地域では、まったくそんなものかけらも残っちゃいない。それから、ある農村の地域に行くと、いまでも、そういう農耕共同体的な、アジア的な農耕共同体の要素っていうのは、たくさん残っている地域があると思います。
それから、全然そんなものは払底してしまったところもあると思います。それから、もう払底も、ほとんど全部払底されてしまっていて、そして、ただ個々のわれわれの心性っていいますか、心のはたらき方のなかに、それがあらわれてきて、さまざまな規制をしているかもしれない。そういう要素として、残っているかもしれないし、また、もっと先進的な人たちのなかには、個々の人の心のはたらきの中にも、そんなものは一個も残っていなくて、まったく個人っていいますか、個我っていうことに徹している。そういう部分も心の中からでさえそうなっているっていうのは、そういう人たちも、もちろん存在するはずです。そのことは非常に具体的に、見極められなければならないっていうふうに、僕は思います。それで僕、いいと思うんです。
つまり、あなたのおっしゃることでもいいと思うんですけども、僕、ちょっとあなたのおっしゃることで、ニュアンスが、受け取られ方のニュアンスがちょっと違うように思うのは、僕はべつにアジア的共同体の考え方を加味して、それを通していかなくちゃいけないなんていうことを言っているのではなくて、〈アジア的〉っていう概念を、なんかヨーロッパと対立概念で考えたり、特殊的な、地域的な考え方として、考えたりする従来の考え方っていうのを、まず払底しなきゃだめだ。それは、だめなんだ。
それはぜんぜん意味がないんじゃないかっていうことと、それから、世界史的な意味合いで、普遍的に〈アジア的〉といわれている要素は何なのかってことは、いままではっきりさせられたことがないんだから、はっきりさせなければいけないし、これはヨーロッパの思想がしてくれるはずがないのですよ。
だけれども、それをはじめてしてくれたのは、ヨーロッパの思想家なんですよ。つまり、マルクスであり、マックス・ウェーバーであり、それからウィットフォーゲルでありっていうふうに、それはヨーロッパの思想家がしてくれたんです。してくれたんだけど、もともと自分たちの問題でもありませんし、それをすることが、世界史的な問題でもなかったものですから、それはある程度、放置されてしまったっていうことがあるわけなんです。
そして、そのあとで、その問題をはっきりさせなければいけないっていう課題は、これは現在の問題なんであって、けっして遺物でもなんでもないんですよ。現在の問題なんです。それで、だれもしてくれないんですよ、それは。してくれない問題なんですよ。ヨーロッパっていうのはしてくれるはずがないんですよ。どうせするくらいなら、第三世界のことでもしようっていうふうに、ヨーロッパの人は考えると思うの。
だけれども、僕の考えではそうじゃなくて、それは間違いなんだって、第三世界っていうのは、つまり〈アジア的〉になろうとしている社会なんですよ。だから、〈アジア的〉っていう概念は、そうじゃなくて、非常に重要なんですよ。そのことは、いまの問題なんだってことが、もうひとつあると思うんです。だから、けっしてそういうニュアンスで受け取ってほしくないっていうことが、僕はあると思います。くれぐれもそうなんです。
日本だって、アジア主義者っていうのはいたわけですよ。近代にもたくさんいます。アジア主義者っていうのはたくさんいたわけですし、アジア主義者がまた、なぜ天皇制みたいなものの支持者になっていくかっていう理由も、僕が今日申し上げたことのなかに、非常に明瞭に出ていると思う。
それで、これに対するアンチテーゼっていうのは、まったくだめなアンチテーゼなんです。つまり、右翼か左翼かとか、農村主義かそうでないかなんて、そういうアンチテーゼしか出せてきていないっていうことも、また事実なんです。そんなことは、どうでもいいことなんですよ。どうってことないんですよ、いまいう概念でいう右翼であったって、左翼であったって、どうせ変わり映えはないんですよ。
つまり、そんなことはどうでもいいわけで、そうじゃなくて、もっと根底的な把握っていうのは、非常に重要なんだっていうことの問題なんです。それは、けっして特殊な問題でないのであって、世界史的な問題としての把握なんだし、世界歴史的な問題のある段階での問題なんだっていうことなわけで、そこのニュアンスの受け取られ方っていうのは、僕はちょっと違うんだけど、違うような気がしたんですけども、あとのことはあなたのおっしゃるとおりじゃないんでしょうか。僕はそう思いますけども。
(司会)
よろしいでしょうか。時間がもうちょっと過ぎてしまいました。今日は、この会をはじめるにあたりまして、今日は非常にうしろの方は、書かれているものは見にくかったと思いますけれど、吉本さんが5枚書かれてこられたんですよね。それを見たときに、ほんとに、吉本さんは、このテーマを私たちにおっしゃってから2か月ちょっとくらい経つんですけれど、ずっとこのテーマを勉強しますっていうふうにいわれて、そのことに答えたくて、一生懸命なんとか会場設営からなにからやってきました。ほんとにみなさん、ちょうどいい具合にお集まりいただきまして、ほんとにありがとうございました。ほんとにお礼申し上げます。またいつか、この前もそう言いまして、おととしもそう言いまして、来ていただきましたので、もう一回言わせてもらいます。また、いつか来てもらいたいと思います。どうも今日はありがとうございました。吉本さんに拍手。(拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま