いまご紹介にあずかりました吉本です。これから親鸞の声について、お話をしてみたいってふうに思います。べつだん、親鸞の声はこういう声だったっていうふうに、音声を再現するって意味ではないのですけれども、親鸞の語った言葉っていうものが、仏教でいわれている声っていうもののなかで、どういう意味をもっていたんだろうかっていうようなお話をできるだけやってみたいってふうに思ってきました。
で、仏教だけじゃなくて、東洋での思想とか、宗教とかっていうものは、みんな、進んでっていきますと、「自然の声」っていうものを、どういうふうに、どういう状態で、どういうふうに聞けるか、あるいは、聞くかということが、なにか修行の眼目になって、また、それが、煮詰めてしまいますと、東洋の思想とか、宗教とかの最後の到達点っていうのは、どうも自然に対して、どこまで近寄ることができるか、あるいは、心を研ぎ澄ました場合に、「自然の声」とか、「自然のしゃべっている言葉」とか、そういうものをどこまで聞き取ることができるかっていうようなことが、どこまで修行を積んだか、修練を積んだかっていうようなものの、大きな眼目になってるっていうふうに思われます。
たとえば、空海、つまり弘法大師の『声字実相義』なんていう本のなかには、天然自然のつくっている6つの要素っていうのが響きあって、それで、それが音響になって、音響が滞るっていいましょうか、集まって、それが「人間の声」になるんだっていうふうなことを言っておりますし、道元も『正法眼蔵』なんかにあれしますと、25章っていうところに、谷の声を、つまり、谷の渓谷の水の流れの声を、聴き澄ますことができるっていうこと、それから、山の色っていうものが、なにか言葉を語って、語りかけているっていうようなことが、わかるといいましょうか、そういうふうな心境のなかに入っていくっていうことが、それは仏になるっていうことの、非常に根本的な問題のひとつなんだっていうふうな言い方をしているところがあります。
これは宗教だけではなく、たとえば、仏教にいちばん近い思想っていいますか、老子とか、荘子とかの思想なんですけれど、老子とか、荘子とかの思想でもやっぱり、同じようなことが、違う言い方ですけれど、言われています。たとえば、おまえさんは人籟っていう、つまり「人の声」っていうものを聞くことができるかもしれないけど、「地の声」っていうことは、「地の声」を聞くことが、まだ、できるかどうか、もし「地の声」を聞くことができても、「天の声」っていうのを聞くことができるかどうかっていうことが、つまり、それを聞くことができるっていうところまでいかなければ、だめなんだっていうことがいわれています。
そういうことを、自然の修練を積んで、修行を積んでいきまして、なにか「自然の声」を聞くっていうこと、それから、自然の声の果てに、超自然といいましょうか、「超自然の声」もまた、聞くことができるってことを、どうやって修練によって手に入れていくことができるかってことが、仏教の大きな修行の眼目みたいなことでありますし、また、東洋の宗教・思想ってものを突き詰めていきますと、どうしてもそういうことが、大きな問題になってくるように思います。
これに対して、親鸞の声っていうのは、どういう声なんだろうかってことを考えてみますと、根本的にいいますと、親鸞っていう人は、法然もそうなんですけれども、日本の浄土教っていうものは、そういう天然自然の声を聞き、そして、そのなかに心を同化させることができるってことが、修行の眼目なんだっていう、そういう考え方を否定してしまったと思います。とくに、親鸞は著しく、きっぱりとそれを否定してしまったっていうふうに思います。
その否定の仕方って、言い回しはいくらでもあるのですけれども、たとえば、法然の言い回しも、親鸞の言い回しも、多少ニュアンスが違いますけれども、否定の言い回しが違うんで、つまり、われわれのような煩悩具足の凡夫は、平凡な人間っていうのは、修行を積んで、自力で修業を積んで、天然自然の声を聞き、そして、自分がそこに同化していって、そして、自分自身が仏になるっていうようなことっていうのは、不可能なんだと、それは、むずかしいことなんだと、だから、自分たちは、平凡な人間なんだから、そういうむずかしいことはやめにして、ただ、名号を称えるっていうことで、人間の生とか、死とかっていう問題を超えることができるっていうふうになるんだと、つまり、自力で修業して、自分が仏になるとか、あるいは、自分が菩薩になるとか、あるいは、そういう菩薩に近づいていくっていう修行をこの世でするっていうことは、平凡な人間にはできないから、だから、自分たちはそれを捨てて、他力っていいましょうか、ただ浄土の宿主といいましょうか、主っていいましょうか、である阿弥陀仏の本願にすがるっていうこと、名号を称えてすがるってことなんだってことが眼目なんだっていうふうに、それが他力なんだっていうふうに言い方をしています。
しかし、それは言いようでありまして、そういうふうに言いながら、ほんとはなにを言ってるかっていいますと、修練を重ねていって、修行を重ねていって、「自然の声」を聞き、それで、自然が、山川の声とか、谷の水の声っていうのが、あたかもなにか語りかける言葉であるとか、語りかけている音楽であるとか、そういうふうに聞こえる状態になっていて、もっと修練していけば、自分がその声を発しているのか、山川、つまり自然が、それを発してるのかわからないっていうような、つまり、区別がつかない状態にもっていくと、もっと修練していって、そこである修練の仕方をすると、浄土の荘厳な姿が、ちゃんと浮かんでくるし、また、阿弥陀仏が来迎して、迎えにくるっていう、そういう姿も浮かんでくるんだ。修練っていうのも、修行っていうのも、そういうふうに進んでいくと、限りなく先があるんだ。そういう修練の仕方っていうのは、はっきり言ってしまえば、それはだめなんだと言ってると思います。
法然も、親鸞も、それはだめだって言ってると思います。つまり、そういう修練の仕方っていうのは、さまざまな言い方があるでしょうけれど、それはむずかしいからだめなんだと、凡人にはできないから、そういうことを、だれにでも強いることはよくないんだっていう言い方をしていますけれども、ほんとは法然のなかでも、親鸞のなかでも、そういう修練の仕方自体を否定してしまったっていうことだと思います。
つまり、そういう修練の仕方っていうのは、到達できるひとつの境地といいましょうか、修練の、修行の境地っていうものは、ほんとはだめなんだ。つまり、ほんとはあんまり意味がないんだっていうことを、一等最初に気が付いたのは、日本の浄土教の祖師たちである。とくに、それをきっぱりと言い切ってしまったのが、親鸞だっていうふうに思います。
親鸞は、そういうふうに「天地自然の声」が聞こえる、あるいは、「天地自然の声」を聞くっていうような、そういう声っていうものを、声を聞くっていう状態に自分をもっていくことを、親鸞は、それは自力だからだめだっていうふうに言ってしまっていると思います。
そうするとはっきり言えることは、親鸞はもちろん若いときに、そういう修練をした挙句に、そういうふうに言っているわけですけれども、ただ、そういうふうに親鸞が言ってしまいましたときに、どういうことになるかっていいますと、少なくとも、伝統的な仏教がいっている「天地自然の声」を聞くって、そういう声が聞こえるっていう状態を自分で断ち切ってしまったっていうふうに、言うことができると思います。
そうすると、そういう行為はもはや親鸞の耳には聞こえない、あるいは、聞こえなくなっている。一般的に仏教がいっている「天地自然の声」っていうようなものは、全然聞こえなくなったっていうふうに考えていいと思います。あるいは、親鸞は聞くことをやめてしまったっていいましょうか、その「天地自然の声」を聞くとか、「天地自然の声」が聞こえるようになるまで、修行を積み重ねるっていう考え方を、親鸞自身が捨ててしまいましたから、もはや、親鸞の声のなかには、声を聞くという耳のなかには、「天地自然の声」っていうものは、全然聞こえなくなっているっていうふうになったって考えているっていうふうによろしいかと思います。また、親鸞自身も天地自然に語りかけるような声っていうようなものは、それ以後、自分でも聞かなくなってしまったっていうふうにいうことができます。
この聞かなくなってしまったってことは、なかなか微妙なことで、晩年に親鸞が〈自然法爾〉ってことをいってるわけです。その場合の〈じねん〉あるいは〈しぜん〉ですけれども、その自然っていうのが、やや「天地自然の声」に近いっていうふうにいえば、いえるのですけれど、それは微妙に違うことだって思われます。
だから、親鸞自身は、自力を捨てろ、自力の修練を、修行を捨てろっていうような、あるいは、自力の修行っていうものには、あまり意味がないっていうふうに言ってしまったときに、「天地自然の声」を聞くっていう親鸞の耳は、もはや、なくなっているし、また、自分も「天地自然の声」を聞くって意味合いの修練の仕方をやめてしまったっていうふうに思います。
そうすると、親鸞の耳とか、親鸞の声のなかには、どういう声が残るのだろうかっていうふうに考えてみますと、それは、人間と人間との間に起こる、あるいは、人間と人間との間に交わされる声っていいましょうか、それだけがたぶん、親鸞のしゃべる声であり、親鸞が聞く声っていうのも、いつも人間が人間に語りかける声だっていうふうに、そういうものが非常に大きな、親鸞に聞こえる声であり、親鸞が発する声の性質といいましょうか、質だっていうふうにいうことができると思います。
そうすると、親鸞の声っていうものは、そういう意味合いからいいますと、仏教が聞いている、「天地自然の声」も聞こえると、それから、もちろん「人間の声」も聞こえると、それから、もちろん「死者の声」も聞こえると、そういうような声っていうものの、世界全般からみますと、親鸞の声は、非常に自分自ら、たいへん範囲を狭めてしまったっていうふうにいうことができると思います。
つまり、親鸞は「人間の声」しか聞かないっていうふうに、極端にいいますと、「人間の声」しか聞かないし、「人間の声」しか自分の耳には聞こえない。また、そういうふうに、自分は、自分をもっていくんだっていうふうに思いきめてしまって、そうすると、「人間の声」しか聞こえないっていうふうになっていったっていうふうに思います。
しかし、本来的にいいまして、「人間の声」しか聞こえないっていうのは、人間の耳にとって当たり前なことなんだって、もちろん、自然の山川の発する声っていうのは聞こえるけども、それは山川の響きが伝える声であって、それは人間に語りかけてくる言葉、意味のある声ではないと、つまり、ただの響きである。あるいは、音楽であるとか、そういうふうには聞こえますけれども、しかし、それはなにか人間に語りかけている声ではけっしてないっていうふうに、そういうふうなのが、たぶん、人間にとって、当たり前なことなんだっていうふうに思います。
もし、そうじゃなくて、「天地自然の声」も、どこからかわからないところからやってくる声でも、聞こえてしまったら、今の言葉でいいますと、それは幻聴でありまして、幻聴っていうのは、つまり、一種の精神異常の兆候としてなら考えられるわけなんです。つまり、今だったら、お医者さんにかかってこいって言われるところだと思います。「天地自然の声」が聞こえるっていうことは、お医者さんにかかってこいって言われることだと思います。
しかし、仏教の修練っていうものが究極的に、親鸞以前、つまり、日本の浄土教以前に考えた修行の眼目は、それは密教であれ、そうでない天台宗教であれ、みんな極めつけのところ、極めつけていけば、やっぱり、自分の耳を研ぎ澄まし、心を研ぎ澄まして、そして、「天地自然の声」とか、他界から、ほかの世界からの声を聞くとかってことに、修練の眼目があったってことは、確かなことであって、それは、親鸞は、そういう声を聞くっていう修練はだめだっていうふうに言ったときに、もはや、人間と人間との間に交わされる声しか、ほんとは聞かないし、聞こえないっていうふうに、自分の耳をもってったっていうふうにいうことができると思います。
そうすると、あと何が残るんでしょうか、つまり、少なくとも宗教に、信仰っていうものに、かかわりあることで、それじゃあ親鸞の声のなかに、あるいは、親鸞が聞く声のなかに、何が残るかっていいますと、それは、善悪っていうことの声だと思います。
つまり、善悪の声っていうのだけが、ほんとは聞こえるんだと、つまり、人間にとって何が善であるか、何が悪であるかってこと、その声だけは、自分も発しなければならないし、また、人からも聞こえてくる声なんだと、つまり、何が善で、何が悪なんだってことが、非常に大きな問題として、親鸞のなかによみがえってきたといいましょうか、本来的な意味でよみがえってきたっていうふうにいうことができると思います。
ですから、親鸞ほど、信仰っていうことと、善悪の問題とを突き詰めた宗教者っていうものは、ほかに考えられないくらい、善悪ってこと、人間の善と悪ってことを非常に大きな問題にしていると思います。それから、善悪ってことと、信仰っていうようなものはどういうふうにつながっていくかってことを、親鸞は非常に重要に考えたっていうふうにいうことができます。
親鸞の声っていいますか、発した声っていうようなものの、現在、文字に残されているのは、『歎異抄』っていう、唯円っていうお弟子さんが書きとめたものですけども、『歎異抄』っていうのが、親鸞が残した声を、それを文字にして、書きとどめた唯一のものだっていうことができます。
これは、唯円が一等初めのところに、そういうことをいっていますけれども、親鸞がいろいろ物語った言葉で、耳に残っていることを自分が書きとめておくんだ、それで、親鸞聖人が亡くなってから、数十年経ってから書かれたと思いますけれども、数十年経って、いろんな異端邪説といいましょうか、いろんなおかしなことを言う人たちがたくさん出てきたと、それを正さなきゃならないということも含めて、自分が直接、親鸞のおしゃべりするのを聞いて、そして、とくに耳のなかの、耳の底に残っている、そういう言葉をここに書きとめておくんだっていうふうに、初めのところに、ことわってありますように、『歎異抄』っていうのが、たぶん唯一、親鸞がしゃべった言葉っていうのが、書きとめられた言葉だと思います。
そのなかで、いちばん、やはり、眼目になっているのは、やっぱり、善悪っていうことと、信仰、信ずるってこととは、どういうふうにかかわっていくんだろうかってことが、非常に大きな突き詰められた問題だっていうふうになっていきます。
そこで親鸞は、ごく通常の声っていいましょうか、通常のことをしゃべってるところがあります。それは、阿弥陀仏の四十八願っていうもののなかで、十八願っていうのが大切なんだってことを、非常に丁寧にしゃべってます。十八願ってものは、なにかっていいますと、それは、みなさんの方がよくご存じであって、それは、心の底から阿弥陀仏を信じて、名号を称えれば、かならずその時に、浄土へいけるんだっていうのが、阿弥陀仏の十八願の眼目だって、このことは、ごく普通の言葉として、親鸞も『歎異抄』のなかで、よく語りかけているように思います。
そうすると、しかし、これはごく普通の言葉で語りかけているので、それじゃあ、そういう状態、心の底から信ずるっていう状態、人間っていうのはどうやって、もっていけるんだっていう、あるいは、どうやって心の底から、十八願を信じて、信じた限り、そして、名号を称えた限りは、かならず浄土にいけるんだっていうことを、どうしたら信じられるんだっていう問題をさまざまかたちで語っているわけです。
そして、それはみなさんがご存じであるように、それから、だれが考えてもそうであるように、それは、たいへんむずかしいことではないのでしょうか、つまり、心の底から信ずるってこともむずかしいことですし、信ずるとかならず、浄土へ連れてってくれるんだっていうふうに、それを信ずることもまた、むずかしいことでありますし、それから、そういう状態は、けっしてなにか自分がいいことをしようとか、自分が修行して、なにかしようっていうような、自分の方からなにか、はからってっていいますか、自分の方からそういうことをちょっとでも考えて信じたら、それはだめですよっていうことも、そのなかに、十八願のなかに含まれているわけです。つまり、自分の方ではからったり、自分の方で修業をしてそうしようとか、善行を積んでそうしようみたいなことを、つまり、自分の方で少しでもはからった状態で信じるっていうふうなところにもっていったら、それはだめですよっていうことも、親鸞は相当はっきり言っています。
そうすると、それはたいへん本当いうとむずかしいことで、そんなことはだいたいできるのかってことがあるわけです。そのことがいちばん親鸞がおしゃべりをする場合に、いちばん大きな問題になってきます。それは、先ほど言いましたように、親鸞が発する声が、善悪っていうことと、いちばん重要にかかわりをもっている。それから、人から聞こえる声っていうのも、善悪の言葉っていうのは、いちばんよく聞こえるっていいましょうか、それがいちばん大きな声として聞こえる。そういうようなのが、親鸞の声の性質といいましょうか、特徴といいましょうか、そういうものだっていうふうに思います。
そうすると、そこで親鸞は、どういうふうに言ってるかっていいますと、みなさんがよく知っている言葉があるように、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」っていうふうに言ってるように、ごく普通の言葉でいえば、それは悪人でも往生できるんだと、まして、善なる行いを積んだ人は、なおさら浄土にいけるんだっていうふうなのが、ごく普通の人の、普通の声ですけれども、親鸞はそういうふうには言ってないのであって、善人すら往生をとげるんだ、ましてや悪人の方が、なおさら往生をとげられるんだっていうふうな言い方をしています。
これは、たぶん、どんな仏教も、祖師といいましょうか、そういうことは言っていないので、どう考えても、それは反対じゃないかっていうふうに言われる問題なんですけれど、しかし、親鸞は、やはり、人間の善悪っていうことと、信仰っていうことが、どうやってつながるか、つなげられるかっていうと、普通一般のつながり方では、どうともつながっていかない。それで、親鸞は逆に、悪人の方が善人よりももっと、浄土へいきやすいんだっていうふうな言い方をしています。
なぜかっていうことについて、親鸞の説いてる理由があるんですけれど、もともと阿弥陀仏の十八願っていうものは、もともと煩悩具足の凡夫っていうもの、あるいは、悪人成仏のために、つまり、煩悩がたくさんあって、それで、少しもいい人間じゃないっていうような、そういう人のためにある眼なんだから、もちろん、だから悪人の方がたしかに近道なんだって言い方もしています。それは、もともとそうなんだっていう言い方をしています。
それから、もうひとつは、善なる人っていうのは、なにかしらいいことをしたい、あるいは、自分でいいことをして、いいことをしたいっていうふうに、善なる人はどうしても考えやすいと、そうすると善なることをするっていう、あるいは、したいってことが、ごく無意識に出ている時には、それはそれでいいんだけれども、善なることをしたいって、あるいは、善なることをするっていうことが、いわば、人をかき分けてするっていうようなふうに、もしなっていったとすれば、それは一種のはからいであり、あるいは、自力である。つまり、自力のはからいになってしまうと、だから、それは本願、十八願が近づきにくいんだと、あるいは、信仰には近づきにくい考え方なんだっていうふうになっています。
それに比べると、悪人っていうのは、もともと自分は悪いって思っているんだから、あんまり、いいことしようっていったって、どうせ、あんまりできそうにないっていうふうに、もともと思ってるとすれば、その人の方が、自力でなにかいいことをしようとか、自力で人をおしわけていいことしようとか、そんなことを考えないから、この方がはからいっていうものがない状態になりやすいから、こちらの方が近道だっていうふうな言い方もしています。
この言い方は非常にむずかしいと思いますけれど、むずかしいことなんですけれど、むずかしいから、あんまり通俗的なっていいますか、普通の言い方を、通俗的な言い方をしてはいけないのですけれども、こういうことは、しばしば、だれでもやっちゃうことなんです。だれでもやっちゃうんです。
ぼくなんかもそうだけれど、よくそういうことは注意するんですけれど、やっちゃうんですけれど、だいたい、いいことしている時とか、いいことを言ってる時っていうのは、だいたい図に乗ることが多いわけです。やっぱり、図に乗ることが多いし、逆なことを言いますと、他者が悪いことをしている場合には、けしからんじゃないかっていうふうになってしまうことが多いわけなんです。
だから、それは、そうではないのであって、だいたい人間っていうのは、微妙なところでいいますと、いいことをしていると自分が思っている時には、だいたい悪いことをしていると思うとちょうどいいっていうふうになっているんじゃないでしょうか。それから、おれちょっと悪いことをしているんじゃないかこれはっていうふうに思ってる時は、だいたい、いいことしてると思った方がいいと思います。
つまり、だいたいそのくらいで、バランスがとれるんじゃないかっていうふうに思います。それが、人間のなかでの善悪っていうもの、あるいは、倫理といいましょうか、善行、悪行っていうようなものにおける非常に大きな微妙な問題なんです。これは、善行、悪行っていうのが、いい行い、悪い行いっていうのが、自分の心のなかにあるだけの時にはいいのですけれど、それが、いわば、行為としてあらわれる時には、いいことしているのを見ても、不愉快な場合っていうのはたくさんあるわけです。つまり、不愉快だなぁ、あいつがいいことしてるの不愉快だなぁって思う時も、みなさんもおありでしょうけど、ぼくもあります。
たとえば、電車のなかでお年寄りに席を譲って、それはいってみれば、それだけとってくれば、いい行いなんだけれど、それは人によりまして、なんかおもしろくないなぁっていう譲り方をする人もいますし、照れくさそうにして譲っている人もいます。少なくとも照れくさそうに譲っている時には、悪い気持ちしないなぁっていうふうに思うけれども、なんか、なんとなく、いいことをしているみたいに譲ってると、おもしろくないなぁって思うことがあるでしょう。
それから、自分でもあります。自分でも、よくよく気を付けて、なんかいいこと、よさそうなことをしている時には、よくよく照れくさそうにして、気を付けているんですけども、それでも、ときどきそうじゃなくて、やっぱり排他的になってしまうってことはあるわけです。
つまり、そこのところは、人間のなかにおける善悪っていうもの、あるいは、倫理っていうものの、非常に微妙な問題なんで、この問題っていうのが、今でもさまざまなところで、なんかもう、ぼくらもやり切れないっていうふうに、ひしひしと身に迫ってくるっていうような感じがあります。
たとえば、たくさんの人がいるところで、たばこをぷかぷか吸うとよろしくないっていうふうに、たしかに、よろしくないんですけれど、今度は逆な意味で、それを、あなたはたばこ吸うのはけしからんっていうふうに、言うとすると、それはたしかに悪いことを言ってるんじゃない、いいことを言ってるんですけど、たいへんおもしろくないなぁっていうふうなことがありうるわけです。まして、これは嫌煙権だっていうふうに、これは権利があるから、法律を決めようじゃないかってなってくると、甚だおもしろくないっていうようなことがあります。
つまり、そういうことは、たばこを吸うとか、ご飯を食べるとか、身辺で日常やってることのなかに、善悪の問題が、現在もひしひしと迫ってくるでしょう。そうすると、ものすごく息苦しいでしょう。いいことばっかり言うやつと、いいことばっかりやるやつと、身辺に満ちてくると、そうすると、なんじゃこりゃって、なんか息苦しくなるってことがあるでしょう。
なぜ、息苦しくなるかっていうと、それは、親鸞にいわせれば、この人たちは善悪っていうことをほんとは知っていないんだよ。つまり、本当ならば、いいことしている時は、だいたい悪いことをしていると思ったらちょうどいいんだよっていうことを、ほんとは知ってないんだ。そういうことを、非常に鋭敏に、親鸞っていう人は突き詰めた人だって思います。
だから、信仰っていうことと、善悪っていうことと、どうやってつながるかっていうと、たぶんそれは、逆につながるんだっていうような言い方を、親鸞はしていると思います。妻帯もするし、魚も食べてもいい、精進もしなくていいっていうような、親鸞は当時にすれば、あらゆる仏教の、お坊さんのやることは、お坊さんの決まりになってることは全部、親鸞は破っています。全部破っちゃってます。
だから、今考えたらぞっとするほどの破戒坊主であって、当時でもきっとそう思われたに違いないと、つまり、もうこの人は坊さんじゃないっていうふうに言われたと思います。また、親鸞自身も、自分は坊さんでもないと、しかし、俗人でもない、しかし、坊さんでもないと、自分でも言っておりますけれど、当時にお坊さんの常識からいったら、全部、やっていけないっていうことを、全部やっています。全部自分でやっちゃっています。
なぜ、やっちゃっているかっていうことは、非常に重要なことで、それは親鸞が「自然の声」を聞くとか、仏の声を聞く状態に、自分を修練してもっていくっていう考え方を、まず最初に、比叡山を降りたときに、捨ててしまったからです。
青年時代に、そんなことはやってしまったと、これはだめだよって、これは何にもならんよっていうふうに考えたときに、もう親鸞に聞こえる声は「人間の声」しかないと、「人間の声」しかないとすれば、「人間の声」でいちばん信ずるか信じないかってことに対して、いちばん関係のあるのは、善と悪っていうことであって、そうしたらば、善と悪っていうものを突き詰めて、どこまで突き詰めていけば、それは、信ずるっていう状態に近づいていくかってことと、つながるかってことを、突き詰めていく以外に親鸞にはなかったわけで、それで、そのように自分自身をもっていきましたし、それから、人にも、声でもってそういうふうに説きましたし、人の声もそういう声は鋭敏に、親鸞は聞き分けていったっていうふうに思います。
で、親鸞の『歎異抄』のなかで、もうひとつ重要な問題が、重要な声っていうものは聞いたり、自分でしゃべったりしています。それはなにかっていいますと、ひとくちに信ずるっていう状態を、どうやったら続けられるのかっていうことなんです。どうやったら続けられるのかっていう問題なわけです。
これは、みなさんの方が、信仰っていうことに対して、みなさんの方が優れているのであって、ぼくらは不信の徒ですから、信仰の状態っていうものを、言葉でどのようにうまくおしゃべりできても、そのことと、信仰ってこととは違うことです。どんなに信仰っていうものを言葉でもって、どんなに緻密にしゃべることができても、それを分析することができても、そのことは信ずるってこととはべつのことです。
ですから、ぼくらがいくらこういうふうにしゃべっても、信仰ってことに到達できないかもしれません。ですから、そういう意味で、みなさん、優秀でもなんでもないので、そういうところは、どうか誤解されないようにしてほしいと思います。ただ、こういうあれだったんじゃないですかっていうことをお話ししているにすぎないので、そんなこといくらお話ししたって、いくら緻密にそういうことをしゃべれたって、それは信ずることとはべつなことですから、それは違うことですから、それはいくらやってもだめなんです。だめなことなんです。そのだめなことをしてるってことは重々承知なんですけれど、しかし、だめなことは、どこまでだめかっていうと、あるいは、どこまでだめなのか、これから先はだめなんだ、これから先はどうすることもできないんだ。そういうことは、自分なりに、だめなりに、突き詰めてみたいっていう考え方がぼくのなかにありますから、それで、断ってるだけなんですけれども。
親鸞のもうひとつ、どうやったら信仰っていうのを続けられるのか、それはちょっとむずかしいんじゃないかってことなんです。それは『歎異抄』を書きとめた唯円って人が、あるとき、親鸞にそれはたずねています。それは『歎異抄』のなかで、ひとつの問答になっています。『歎異抄』のなかで、たずねる人と、それを答える親鸞の声っていいましょうか、それが問答になっている箇所がふたつあります。
そのうちのひとつがやっぱり、信仰についての、どうやったら続けられるのかっていうことについての、唯円っていう『歎異抄』を書きとめた人の問いかけ、それと親鸞の答えです。その問いかけはどういう問いかけかっていったら、自分は名号念仏を称えたって、少しも、よろこばしい心にもならないし、そんなに浄土がいいところだっていうんだけれど、ちっともそこへいこうっていう気持ちも起こらないと、気持ちにもならないと、それはどうしてだろうかというふうな問いかけを、やはり、親鸞に対してしています。
この問いかけは、やはり、善と悪っていうことを、非常に鋭敏にっていいますか、敏感に突き詰めていきますと、ある意味で当然出てくる問いかけなんです。自分は悪だって、なかなか善になれないとか、自分は悪なんだっていうふうに、あるいは、煩悩がどうしても断ち切れないっていうような状態に、だれでもあるわけですけれども。そういう状態で、どうしても出てくる問いかけなんです。
そんなに、いい、いいって、おっしゃるけども、死後に安養浄土に往生できるっていうふうにおっしゃるけども、しかし、自分は念仏名号を称えても、ちっともよろこばしい気持ちにもならないし、急いでそこにいこうって気持ちにもならない、これはどうしてなんだって問いかけています。これはたいへん、いってみれば、鋭い問いかけでありますし、また、微妙な問いかけです。
みなさんにしてみれば、そういうことをだれかに、そのてのことをだれかに聞いたら、そしたら、怒られるんじゃないかとか、それは悪い問いかけなんじゃないかっていうふうに、あるいは、ぶん殴られちゃうんじゃないかってふうな意味合いの、そういう問いかけです。しかし、この問いかけっていうものは、いってみれば、天の声っていいましょうか、天地自然の声とか、仏の声とか、そういうものを聞くんだ、聞く状態に自分の心をもっていくんだっていう修行を、修練を捨ててしまった、つまり、自力の修行を捨ててしまった限りにおいては、どうしても、それを捨ててしまって、なおかつ、浄土の声を聞こうっていうふうに考えれば、どうしても、こういう鋭い問いかけといいましょうか、きわどい問いかけといいましょうか、そういうところで問いかけることをする以外に方法がないわけです。
この問いかけに対して、おおまともに答えてもらわなかったり、あるいは、この問いかけをしたら、自分は破門されるかもしれないとか、自分はだめなやつだ、あいつはみかけだけ名号念仏を称えてるけど、だめなやつだと思われるじゃないかとか、さまざまな思惑があるでしょうけれど、そういうのを全部排除して、しかし、これはしょうがないんだ、自分の声なんだから、あるいは、善悪を問うことの最後の声なんだから、この声を出すより方法ないんだっていうところで、その問いかけは、なされていると思います。
これに対する親鸞の答え方っていうのがあります。この答え方も親鸞がどうしても、天地自然の声を聞くことをやめたとか、仏の声を聞くっていう修練をやめたって時からもう、その問いかけに対して、どう答えるかってことは、はじめになければならないし、また、最後にその答えはなければならないはずなので、やっぱり、そういうぎりぎりのところで、親鸞はやっぱり答えていると思います。
親鸞の答え方は、簡単といえば簡単なんで、おれもそうだっていうふうに答えています。おれだってそうだ、おれだってあんまり、よろこばしい気持ちも起こらないし、はやく浄土へいこうって気持ちも起こらない。おまえとおんなじだっていうふうに親鸞は答えています。
しかしながら、問題はやっぱり、その先にあります。そこの先に、問いかける人は、その先は未知数だから、つまり、未知であるから問いかけたわけですけれども、親鸞の方は、そうだ、おれだってそうだよと、おれだって嘘つかないでいえばそうだと、おれだって、ちっともうれしい気持ちもないし、浄土へ急いでいこうなんてちっとも思わないと、そんなところだと、おれだっておんなじだっていうふうに答えてます。
しかし、その答えたあとの言い方っていうものが、やっぱり問う人には未知数であり、親鸞には未知数でなかったと思います。そのあとで、なんて言ってるかっていうと、だからこそ、われわれは煩悩があるからこそ、この悩みの多い、つまり、苦しみの多い現世っていうのが、なかなか捨てがたいので、いってみれば、悩みはあんまり多いものだから慣れっこになっちゃった。つまり、ふるさとみたいなもんなんだ。
だから、まだいかない浄土っていうものは、たいへんすばらしいところかもしれないけれど、やはり、ふるさとっていうのが離れがたいっていうのと同じように、この煩悩、苦しみのあるこの世っていうのは離れがたいんだっていう、そうなんだと、それは、そのとおりなんだと、だからこそ、また逆にいうと、阿弥陀仏四十八願のうちの十八願っていうのは、だからこそ、ますます信頼できるんじゃないかっていうふうに思うんだと、われわれは、そんなに離れがたいとか、煩悩具足の人間だっていうことが、こんなに当たり前なんだから、なおさら十八願っていうのは、だからこそ必要なんだし、これは煩悩具足の凡人のためのものなんだ。だから、これが信じられるんじゃないかっていうふうに、だから、自分たちはごく自然に命の命脈が尽きたときに、そのときにあの世へ、つまり、浄土へいけばいいんだよっていうふうに答えています。
その答え方は、たいへんみごとな答え方なんです。いってみれば、善悪っていうものを突き詰めて、鋭く鋭く敏感に突き詰めていって、その挙げ句の果てにパァッと善悪の問題が開いてしまうことだと思います。開いてしまったところの答えだっていうふうに思います。ですから、ごく当たり前のことを言っていることになります。
要するに、人間だれだって、自然に老いて、自然に死を迎えたときに、死ねばいいのであって、そんなことは言われなくたってわかってるさ、だれでもやってることさっていうことに、いってみればなってしまいます。
しかし、親鸞がいうように、それは人間、善と悪っていうことと、信仰っていうことをどんどんどんどん突き詰めていって、それで突き詰めちゃった果てに、それがパァッて開かれたときに、出てくる答えっていうのが、まったくいってみれば、一見平凡な答えなんですけれども、それは、その答えのなかの、平凡なんだけど、それは、いってみれば、一回りした挙げ句に出てくる平凡な答えってことになります。
そのことが、一回りまわった挙げ句、パァッと出てくる平凡な答えってことが、たいへん重要なことなんで、これは、人間、善悪っていうことを開くっていうことの大きな問題だと思います。つまり、親鸞はだから、たとえば、先ほどのあれでいえば、あんまり嫌煙権とかそういうことは言わない人だと思います。
それじゃあ、衆人環視のなかでたばこを吸っちゃいけないとか、たしかに、それはよくないだろうと、自分もよくないだろうけど、まわりのたばこ吸わない人にもよくないだろう、たしかに、今の医学によれば、煙を吸うと、すこし胸が悪くなるとか、何本吸うとなにしたのとおんなじだとか、盛んにいうでしょう。だから、たしかに自分も吸うのも悪いけど、その煙を人に吐きかけるのも悪い、それだからたしかに、たばこ吸わないでくださいっていうのは、それはいいことを言っていることになるでしょう、それをどんどんどんどん、それがいいことっていうならば、そのいいことをどんどん突き詰めると、じゃあ嫌煙権だ、法律で決めようじゃないかというふうになるでしょう。そうすると、それはますます鋭い善ってことになります。
その鋭い善っていうものは、対照的に照らし出す悪っていうのは、たばこ吸うやつは悪だっていうことになります。たばこ吸うやつは悪だっていうふうになるでしょう。そうすると、たばこ吸うやつは悪だっていいますけど、しかし、それは体に悪いから悪ってこと、その体に悪い悪ってものと、それから、体に悪い悪を人に吐きかけることが悪だっていうことになるでしょう。しかし、人間っていうのは、体の悪いってことを重々承知の上でも、しかし、たばこが好きで好きで吸ってる人ってのはあります。それは、やめられないって人もあります。それを吸ってると気持ちが和むんだっていう人もあります。
つまり、人間っていうものの善悪っていうものは、けっして一重底のできあいにはできてません。一重底の善悪を否定すると、また、二段目の善悪の問題が出てきます。二段目を否定すると、また、三番目の善悪っていうものが出てきます。それをどんどん無限にあれしていきますと、そうすると、その果てに本当の善悪っていう問題が、開かれるっていいましょうか、開かれるっていう状態が出てきます。
それが親鸞のいう、自然のままに老いて、それで、自然に命が終わったとき、浄土へいけばいいんだっていうふうな言い方に出てくる問題は、いわば、善悪の問題を何回も何回も積み重ねて、また否定して、また出てくる善悪を、また否定してってことを何回も何回もやった挙げ句、人間っていうのは、いったいどういうようなできあいになっていくかってことで、重々とことんまで突き詰めまして、それで、その果てに出てくる本当のうぁっていう平凡な答えってことになると思います。
人間の善悪っていうもの、あるいは、倫理というものは、ほんとに大変警戒しなければならないことです。ほんとに警戒しなければいけないことだと思います。いちばん警戒しなければならない、これは信仰ってことを除けば、いちばん警戒しなければいけないことだと思います。また、それが思想っていうことのいちばん大きな眼目だと思います。
なにを善として、なにを悪とするかっていうことをよくよくみますと、この思想がどの程度の思想か、あるいは、どの程度のできあいの思想か、あるいは、相当優れた思想かってことを判断する目安になります。
このことで、いってみれば、親鸞っていう人の善悪の判断の仕方っていうのは、たぶん、究極のところまで、人間が考えられる最後のところまでいってると思います。最後のところまでいってる善悪だと思います。ですから、この善悪っていうことを、なまじのことで、いいことをしてるとか、悪いことをしてるとか、あるいは、いいことをしてるから、悪い人をとがめることができるとか、逆にいいますと、悪いことをしてるから、ほんとに悪いのかっていうふうに思いこめるかとか、そういうことっていうのは、ほんとによくよく考えていかないといけない問題で。
その問題が、たとえば、現在みたいな息苦しい社会になってきますと、ますます身辺に近くなってきます。身辺に近くなって、善っていうのも、もちろん近くなります。悪も、それにともなって近くなります。近くなってきますと、そうすると、悪が息苦しいのとおんなじように、善もまた息苦しいっていうふうになってきます。善が息苦しいはずがないっていうのに、しかし、また善も息苦しいっていうふうになってきます。
やり切れないくらいに近くなって、この近づく理由は単純なといいますか、親鸞が出てきた時代でいえば中世ですから、武士階級が興ってきて、たえず、内戦っていいましょうか、武士階級が国内で、反乱を起こして、それで、貴族階級と戦ったり、また、あっちの貴族が雇っている武士と、こっちの貴族が雇ってる武士とが戦ったり、領地を取り合ったりってことが、たえずやられている、そういう社会だったわけです。
ですから、たしかにそれは息苦しいわけです、普通の人は。だから、善悪の問題も非常に息苦しい問題として身に迫ってきて、どうしてもそれを解決しなければならないってことが宗教のなかにも出てくる。それはある意味で、現在は平和で、戦乱ではありませんけれど、これは現在でいいますと、目に見えない戦いといいましょうか、目に見えない戦いとか、目に見えない、人を支配してとか、支配してないとかいう、そういう問題が、目に見えないかたちで、非常に息苦しく重なっていますから、やはり、今みたいになっていきますと、善悪の問題っていうものが、ことごとく、だんだん身辺に近づいて、なに食っちゃいけないからはじまるわけです。はじまって、玄米だけしか食っちゃいけないとか言う人もいるわけです。
しかし、そんなことは、親鸞はとにかく、魚食っちゃいけないとか、獣食っちゃいけないとか、酒飲んじゃいけないとか、結婚しちゃいけないとか、そういうふうに言われた時、まっさきに親鸞っていうのは破っちゃったわけです。今だって破るのはむずかしいでしょうけども、しかし、その頃のお坊さんがそれを破るっていうのは、奇想天外なことであって、こんなのは袋叩きにあって、追放されるっていうのと、同じことをされたわけです。
そういうことをやっちゃってるわけ、それはなぜかっていうと、善悪の息苦しいっていうこと、それから、信仰がなんか変な修練になってしまっている、修行になっちゃってるってことに対する大きな、根本的な疑いがあって、それで、親鸞はそういうふうに自分をもっていってるわけです。
だから、今でもおんなじなんで、今は平和な息苦しさですけど、平和な息苦しさになってきますと、善悪の問題がどんどんどんどん身辺に迫ってくるっていうようなことがあります。それをどうやって考えたらいいのかっていう問題は、それは親鸞の大きな眼目になって、その問題が唯円のような、親鸞の一番偉いお弟子さんだと思いますけれど、このお弟子さんから、そういう問いかけがなされ、それで、親鸞がそれに対して、それに答えているわけです。
それから、もうひとつ、親鸞とお弟子さんとの会話といいましょうか、受け答えの会話っていうのがもうひとつ、『歎異抄』のなかにあります。それは、どういうことかっていいますと、あるとき親鸞が唯円っていうお弟子さんにむかって言ったと、なんて言ったかっていうと、おまえさんはおれの言うことを信ずるかっていうふうに聞くわけです。で、もちろんそうだと、わたしはあなたのおっしゃることは信ずるし、また、あなたのおっしゃることはなんでも聞きますっていうふうに言うわけです。
それじゃあ、おまえさんは人を千人殺してみろっていうふうに親鸞は言うわけです。唯円っていう人は、とても偉い優れた人ですから、もちろん答えられるわけです。いや、わたしには一人の人間でも殺すだけの器量がないっていうふうに言うわけです。
つまり、自分に器量があれば、師匠の仰せだから、殺せるかもしれないけど、自分には人を一人殺すだけの器量すら、自分はもっていない。つまり、それは、自分はそういう器ではないからっていう答え方をするわけです。
つまり、あんたの言ってることは悪いことだから、おれはやらないよっていうふうに、あなたはお師匠さんだけど、あなたの言うことはとんでもないこと言ってるんだから、おれはやらないよっていうふうに、唯円は答えているわけではないんです。もし、そういうふうに答えたらやっぱり、ごくありきたりの、ごく普通の善悪っていうことで答えてることになってしまいます。つまり、ごくありきたりに、人を殺すのは悪いんだっていうから、お師匠さんの言うことだってできないよって、こういう答えになるわけです。
しかし、唯円はそういうふうに答えていません。自分には器量がないっていうふうに言っています。つまり、自分はそういう人を殺せるような器じゃないんだ。だから、一人でも殺すだけの器がないから、いくら師匠が言うことだって、殺せませんっていうふうに答えます。
その答えまでは、唯円は優秀な人ですから、答えられるわけです。しかし、その先は、たぶん、唯円にはわからないところです。親鸞にはわかってて、唯円にはわからないところです。その先に親鸞はなんて言ったかっていうと、そうだろう、そうだろうと、つまり、人間っていうのは、業縁っていっていますけど、これはみなさんの方がよく知っている言葉で、業っていいましょうか、因縁っていいましょうか、なにか因縁があれば、人を千人殺せって言われて、自分が全然殺す意思がないとしたって、人間っていうのは千人殺しちゃうこともありうるんだよというふうに言っています。
それから、業縁あるいは因縁っていうものがなければ、人ひとりさえ殺せないんだよっていうふうに、それがやっぱり人間なんだよっていうふうに言っているわけです。つまり、どういうことかっていいますと、唯円が自分には器がないから、人を殺すだけの器がないから、殺せませんって言ってることを、親鸞はもうすこし先まで引き伸ばして、唯円が器がないからって言ってることを、親鸞は因縁がないからとか、業縁がないからっていうふうな言い方に変えています。業縁がなければ、仮に殺そうと思ったって、千人殺そうって思ったって殺せないで、一人殺そうったって殺せないもんだ。しかし、もし因縁とか、業縁とかってものがあれば、自分は全然殺す意思がなくても、人を殺しちゃうとか、そういうことっていうのはありうるんだよって、人間はそういう可能性をもった存在なんだよってことを言っていると思います。
そういう言い方をいたしますと、善悪っていうものは、あるいは倫理っていうものは、いってみれば、横の方に最大限に広げられていることがわかります。たいへん俗な受け取り方をすれば、親鸞っていう人はおしゃべりで、言葉でいう時には非常にあぶないことを言う人だっていうふうにいえます。つまり、あぶないことで本当のことを言う人だっていうふうに言うことができます。
一般論でいえば、人を殺すのは絶対悪いってことになります。人間の倫理からいって、絶対悪いってことになります。しかし、もし業縁があると、因縁っていうのがあると、絶対悪いことだって人間っていうのはしかねない存在なんだよっていう言い方で、べつに人を殺すことを肯定しているわけではないんだけど、しかし、因縁っていうか、業縁っていうのからいえば、それは、そういうことだってありうるんだっていうふうに、そういう言い方になると思います。
この業縁とか、因縁とかっていうふうに、親鸞が言っているものっていうのはなにかっていいますと、それは、たぶん親鸞が、この世で人間と人間との関係のなかで出てくる声ですね、善悪の声っていうのは、こういう声から、親鸞の浄土教でいえば、浄土なんでしょうけれど、浄土っていうものをそのなかに、故意にじゃないですけども、また、意思していかないけども、そういう世界を漠然と、つまり、自然にそれをフッと含ませてしまったっていうふうに、含ませたっていうふうに考えた場合には、業縁とか、因縁とかっていう考え方が出てきて、そこで善悪の問題が、たとえば業縁、因縁っていうものがあれば、人間っていうのは、そういう意思して、倫理的にいえば、絶対悪であるっていうことにも、フッてしちゃうことっていうのは、ありうる存在なんだよって言い方で、親鸞は唯円の答えをどんどん引き伸ばしているわけで、引き伸ばされたところで、非常に自然なかたちで、浄土っていう概念が、考え方が、そのなかに含まれていると思います。その範囲のなかに含まれていると思います。
その範囲を含ませると、いわば、親鸞が言ってることは、おっかないことを言ってるとか、一見するととんでもないことを言ってるっていうふうに、人間の世界だけの判断でいえばそうなりますけども、いわば、親鸞のいう、あるいは、浄土教のいう、浄土っていう概念を自然に含ませて言ってしまえば、それはもっと大きな意味合いで、そのことがありうるってことが言いうることになる。そうすると、そこまで人間の善悪とかっていうものを引き伸ばされていくっていうことを言ってると思います。
やはり、そこまで考えていきますと、最後に親鸞なんかが到達した考え方っていうのは、〈自然〉とか〈自然法爾〉っていう言葉で言われていることですけれど、つまり、どうやって、信ずるっていう状態を持続していくのかっていうようなことにかかわるわけですけれど、それは要するに、自分の方から全然逆らわない方がいいんですよっていうことと、それから、だいたい逆らわないっていえば、そういう状態になるのか、ならないのかっていうことになりますけども、つまり、信仰の状態が得られるのか、得られないのかっていうことになるわけですけれども。
それは、ごく普通の言い方ですれば、つまり、唯円のような言い方ですれば、それは、ある時には、なったような気持ちになる時もあると、しかし、ある次の瞬間には、あるいは、次の時間には、あるいは1年経った後には、どうもこれは、あんまり信仰っていうのは当てにならないっていうふうに自分で思ったりすることもありえるっていう状態、つまり、信仰と不信仰の間をどちらにも行き来するっていうような状態になっていると、それに対して〈自然法爾〉って考え方はなにかっていいますと、自分の方でそういうふうに思わない方がいいですよっていうふうに、思わない方がいいんですよ、思わないで名号念仏をしたらいいですよっていうふうになります。
そうすると、思わなかったら、いくら念仏を称えても信仰の状態に入れないんじゃないですかっていうことになります。そうすると、親鸞の答え方は、入れないかもしれないし、入れるかもしれないと、つまり、やっぱり、浄土へいけるかどうか、いけるのか、あるいは、いけないのか、地獄へ堕ちるのかっていうことについては、自分はあんまり存知してないと、自分はあんまりそんなことはわからないと、知らないと、むしろ逆にいえば、自分は地獄っていうものが、自分の住処だっていうふうに、自分は思っていると、思っている状態で自然にしていると、もうそれ以下の状態はないわけですから、それはもしかすると信仰っていう状態に入れるかもしれないし、それから、入れないかもしれない。
しかし、それはかえりみてみれば、自分が、地獄が住処だっていうふうに思っているところは、それは、ごく当たり前に出てくる問題であって、そこでは、なんかごく自然なかたちで、浄土っていうのは出てくると、この浄土っていうのが出てきたとき、自然なかたちで出てきたとき、それはなにか知らないけど、自分の方からなにかしたとか、こうしたいと思ったわけじゃないけれども、いつのまにかあるひとつの状態、つまり、その状態っていうのは、自分が判断するさまざまの判断の状態のなかに、ひとりでに浄土っていうのがフッて含まれている、あるいは、この世界だけでなくて、もっと違う世界みたいなのがあるみたいなのが含まれて、そういうだから自然にやってくるんだって、そういうふうに自分は考えるんだっていうふうに親鸞は言っていると思います。これが、たぶん親鸞が、たいへんお年寄りで、晩年になって、親鸞が辺りにいる人に語った言葉として残されている言葉がありますけども。その言葉として語られた〈じねん〉っていう、あるいは〈しぜん〉っていう言葉の意味合いだと思います。
この〈自然〉という意味合いは、声ではありません。声ではないわけです。つまり、この親鸞が到達した〈自然〉っていう状態は、仏教は、親鸞以前の仏教が自然の声を聞く、山川の声を聞くとか、谷の水の声を聞くとか、非常に鋭敏に、どんな山川も水の音もみんな人間なにかを語りかけてくる、言葉を語りかけているっていう、で、その言葉を語りかけているのを聞くことができる状態に自分の心をもっていけたら、それは自分が仏に一番近いみたいなんだっていうふうに、そういう意味合いの自然の声っていうのは、たいへんある意味では近いところにいってると思います。
しかし、親鸞がいう〈自然〉っていうことは、自然の声が、山川が響かせる声って意味合いではないのでして、もちろん、声でもないと、つまり、〈自然〉っていうのは声でもないと、これは声でもなくて、それはなにか知りません。親鸞は、たとえばそれは光だ、無碍光だっていうふうな言い方をしてると思います。これは光みてぇなもんなんだと、つまり、ホワァっとしてやってくる光みたいなもんなんだっていうふうに言ってると思います。
ただ、この光みたいなものっていうのに近づいていく、手段っていいますか、方法っていうのはなにかっていったら、それは名号念仏だ。つまり、言葉だっていうふうにいってると思います。
言葉っていう、名号念仏っていうのを仲立ちにすれば、〈自然〉っていうものからくる光っていいましょうか、たぶんそれは、フワッとやってくることが起こりうる。だから、名号念仏っていう声が、声っていいましょうか、言葉っていいましょうか、それはひとつの、あるいは唯一のひとつの、仲立ちであって、そうすると、光みたいなのがやってくる。
この〈自然〉っていうものは、山川自然の、谷の水の声という意味での自然とは違うので、やっぱり、人間の善悪っていうものの果ての方にすぅっと出てくる、そういう〈自然〉っていうのの光なんだって、それは、浄土教がいう最後の声なんだし、また、親鸞が発している最後の声だし、もしその声を、声にならない声っていうのならば、信っていう状態がつかまえることができる、声にならない声っていうのはそういう声なんだっていうふうに、親鸞は最後にそういうふうに言ってると思います。
ですから、この親鸞の声っていうものは、あくまで人間の善悪についての声なんですけども、人間の善悪についての声をどんどんどんどん突き詰めたときに出てくる、フッとした出てくる〈自然〉っていうものの、声のない声っていうもの、それが最後の、親鸞が言いたかった信っていいますか、信仰の状態のように思います。
残念ですけども、思いますっていう言葉でしか、僕自身は言えないので、それはみなさんの方がひとりでにそうなってる状態になってるのかもしれませんから、ぼくはただ思いますっていうふうにしか言えないわけで、ただ、申し上げますと、親鸞っていうものは、仏教が、インドの大乗教が、インドから中国に渡って、中国で浄土教が、中国なりにさまざま展開されまして、そして、それが日本へ入ってきたって、そういうインドから中国、それから日本へ入ってきた、そういう浄土教の流れからいいますと、その浄土教の流れっていうものを、最後にそれを集大成して、最後にそれにつづまりをつけたっていいますか、結論をつけたっていう、いってみれば親鸞は別の顔でいいますと、当時でいえば、世界的な大思想家でもあります。つまり、たいへん論理的な理屈をいうことができる人だったと思います。
ただ、親鸞はぼくらみたいなのと違って、たぶん生きてるときには理屈を書いた『教行信証』っていいましょうか、著書がありますけど、それは、たぶん生きてるときには、みなさんのところでしゃべったりなんか全然しなかった人だと思います。また、そういうものを自分が書いておいてあるってことさえも、人にはたぶん言ってなかったっていうふうに思います。
しかし、親鸞はあとから考えてみると、そういう意味合いでも、たいへん当時でいえば世界的な大思想家ですから、理屈の方から近づいていくってこともできる橋はちゃんと架けてあるように思います。ですから、ぼくらみたいなものが、その道をたどっていくことができるみたいなふうに考えて、それをやるわけですけども、しかし、それはたぶん、そういうことをいくらやっても、信仰ってこととは別なことであるし、信仰ってことに到達することはないのだと思います。
つまり、親鸞っていう人はたいへんな人で、そういう意味合いでは、そういう理屈、理論家っていいますか、理屈家っていう、理屈を唱えることができる、そういう人としては、してる自分っていうのは、生きてるときには、ちっとも人に見せなかった人で、たいへん不思議な人だっていうふうに、ぼくは思いますけども、ただぼくらみたいなものは、そういうふうにそれをまねすることが、到底できないものですから、要するに得てして、こういうことをしゃべってしまうわけで、ただ、しゃべってしまうけど、けっしてしゃっべってるからえらいわけでもなんでもないですから、そういうところは誤解のないようにしてほしいわけです。また、しゃべったからといって、ぼくのしゃべったのを聞いて、信仰は変わるかってこともないし、信仰をやめたっていう人も、あるいはいるかもしれないし、それから、やめるっていう人もいるかもしれないし、なにか助けになることも存外ないのかもしれないのですけれど、せっかくそれこそ与えられた機縁ですから、ぼくの思ってる限りの親鸞というのをお話ししてみた次第です。(会場拍手)
(司会)
せっかくの機会でございますから、1、2、ご質問がございますか。なにかお尋ねのことございましたらどうぞご遠慮なく。ございませんでしょうか。
(質問者)
ちょっとお伺いします。わたくし、いつも疑問に思っておりますのは、親鸞聖人が京都に戻りましたね、京都でお亡くなりになる間の経済生活はどうだったのか。いつも疑問なんです。
(吉本さん)
あれじゃないんでしょうか、ごく当たり前に考えて、関東へ、越後で流されて、御赦免になって、関東へやってきたと、それで、ぼくの想像ですからあてにならないですけど、どこにいたのかっていったら、たぶん、常陸の国のどこそこの村の村長さんとか、もう少し上の、領主であるとか、そういうところのはなれみたいなところに寄宿していたんじゃないかっていうふうに思います。
そうすると、それは寄宿してたんだから、たぶん、食べることは、食べさせてくれたんじゃないかっていうふうに思います。ところが、そうしてるうちに、どうもあそこにいるおじさんっていうのは、相当偉い人らしいよっていう、都の偉い人だったらしいよっていうようなことになってきて、ぼちぼちと話を聞きにくる人が来て、それじゃあなんかしゃべってあげるか、あるいは、村長さんが、あの人は、うちのはなれにいる人はすごい人だっていうふうに言ったのかもしれませんし、領主の人がそう言ったのかもしれません。そうしていろんな人が聞きに来た。
たぶん、そういう時には、食べさせてもらってたんじゃないでしょうか、それで、今度は関東から晩年に京都へ帰ってしまうわけですけれども、そのときには、だいたい弟さんのお寺とか、そういうところに寄宿して、これも親鸞っていうのは不思議な人だなぁと思うんですけれど、都で自分も布教したらいいじゃないかと、自分のあれを広めたらいいじゃないかと思うんだけれど、それは少しもしてないです。
やはり、そこではわけのわからないひとりのお坊さんだとか、わけのわからないお坊さんというふうにしか、自分は思われるようにしかふるまってないので、そうすると、やっぱり知り合いのお寺さんに寄宿してるんですから、それは食べさせてくれたんじゃないでしょうか。
それから、書簡をみますと、関東の方のお弟子さんから、お金を送りましたっていうふうにあれしてあります。手紙のなかに書いてあるのがありますが、ですから、関東のいろんなところにいるお弟子さんたちが集めてはお金を送ってくれたんじゃないでしょうか。それを、喜捨を受けて食べていた。
それは、お坊さんっていうのはそうなんじゃないでしょうか、つまり、お坊さんっていうのは、たいへんむずかしいんで、そのころでいえば、なおさらむずかしいので、つまり、お坊さんっていうのはなにかっていうことがむずかしいので、お坊さんっていうのは、要するに、ごく普通の人、当時でいえば農民であるとか、親鸞でいえば、漁師さんとか、漁民だとか、お百姓さんとか、そういう人たちに対してどういうふうに、自分がどういう位置を取るかってことが、たいへん重要なことです。
それから、もうひとつは、そういう人たちから食べさせてもらうっていいますか、喜捨を受けるってことは、お坊さんにとっては重要なことだと思います。つまり、逆なことをいいますと、喜捨を受けなかったらお坊さんとしての資格がないっていいましょうか、お坊さんとしてはだめなんだってことになると思います。
つまり、喜捨を受けるって、もっと極端にいいますと、むずかしいことで言っちゃえば、ごく食べられるだけ喜捨を受けると、そういう喜捨を受けるってことは、お坊さんにとっては重大な条件だと思います。条件であって、喜捨を受けない方がいいっていうことはうそであって、その方がいいっていうのは、それこそだめなんであって、仏教からいえば、その喜捨を受けるってことが重要なことです。
そうすると、喜捨を受けるってことはなにかっていいますと、いま流行りの言葉でいいますと、贈与を受けるってことなんです。贈与を受けることによって、逆に今度は、精神を与えるっていいましょうか、信を与えるとか、あるいは、なにかを与えるっていいますか、目に見えないものが入るってことが、逆に受けるってことと同時に、与えるってことがそこに生じると思います。
つまり、布施を受けるってことは、あるいは喜捨を受けるってことは、必須条件であって、それを受けないで、たとえば、自分はそんなの受けないんだと、それで、山川の声を聞き、山川の木の実を食べ、草木をしゃぶってっていう、それで自分は修行するんだっていうのは、仏教のあれからいえば邪道なわけです。外道なわけです。そんなのはいいと思うのは大間違いで、それで、そんなのやって大きな顔して、すごい修行者だみたいな顔をしてもだめだっていうのが、仏教の根本的な考え方で、やっぱり、受けるってこと、ごく普通の人の生活から受けるってことが、非常に大きな、重要なあれですから。
(質問者)
托鉢みたいにして歩いたんでしょうか。
(吉本さん)
それは僕にはわかりません。つまり、浄土教で托鉢っていうのがあるのかどうかわかりませんけども、親鸞はくれるものはもらったでしょうけども、あんまり、そういう姿を、ぼくのイメージでは思い浮かばないですけども。
(質問者)
さきほど、関東から金もらったってそれだけで。
(吉本さん)
食えるか?食えたんじゃないでしょうか、自分一人とか。
(質問者)
子どもとか。
(吉本さん)
子どものことなんか心配しなくても。
(質問者)
住まいはとか。
(吉本さん)
自分の寺はべつにもってないわけですけども。
(質問者)
それから、いまみたいにお説教してお布施をもらうって、それもないでしょ。
(吉本さん)
それはくれたものはもらうんじゃないでしょうか。(会場笑)
ぼくだってもらっちゃうと思います。(会場笑)
(質問者1)
先生、たいへんお話の内容とは関係ないですが、先生にお会いして、先生のお人柄も知りたくて今日うかがったんですけども、それで先生ここに、先生のいらっしゃるのをお待ちしていまして、係の方が先生がお見えにならないって言うと、ここにいますって後ろでおっしゃって、この経路は、先生どういうことなんですか。(会場爆笑)
(吉本さん)
遠いものですから、時間を、時間のかかり方を間違えたんですね。ですから、ぼくはだいたい1時間45分かかるっていうふうに思ってきたら、存外はやくて、はやく着いちゃったんですよ。それで、はやく着いちゃったんで、あそこで署名してくださいって言うから、ぼくのがいちばん先に書いてあります。(会場爆笑)
それで、休んでてくださいって言うから休んで、まあ10時から時間になりますって言うから、それまで休んでて、で、10時近くになってここにきたって、それだけのことです。(会場笑)こちらの方がわるいんで。
(係りの方)
いや、先生すみません。
(吉本さん)
そんなことないです。それは全然違います。
(質問者2)
ちょっとお願いします。今日のお話と違うかもしれませんけども、ちょっとわたし、密教っていうのがよくわからないんですけど、密教っていうのはどういうことですか。
(吉本さん)
ぼくもよくわからないんですけども、結局あのぉ…(フェードアウト)
テキスト化協力:ぱんつさま