1 スミスの思考法

 いま、ご紹介にあずかりました吉本です。ぼくは日本大学にこれで来るのは2度目なんです。1度目はなんかすごい時で、バリケードの間を学生さんに案内されて、おしゃべりしたのは、たいていそういう時ですから、学生さんも知識に飢えてんじゃないかってんで、ちょうど僕は『言語にとって美とはなにか』っていう本を出したばかりぐらいの頃だったんで、言語っていうものがどうやって、どういうふうなかたちで、美につながっていくのか、つまり、文学になっていくのかっていうお話をしたのを覚えています。
 で、今日はそれを思い出しながら、題目は「経済における記述と立場」というような、かっこがいい題名でありますけども、できるだけやれるとこまでやってみますけども、まず、アダム・スミスはどういう歌を歌ったのかっていうようなところからはじまっていきたいっていうふうに思います。
 時間があって、うまくいきましたら、マルクスはどういうドラマを描いたのか、つまり、『価値論』でどういうドラマを描いたのかっていう、そういうところまで、うまくいったらいきたいってふうに考えてきました。
 アダム・スミスの『国富論』とか、『国富論』の草稿っていうのを読みますと、記述の仕方と、それから発想っていいますか、着想っていいますか、あるいは考え方でもいいんですけれども、思考方法っていいましょうか、そういうものが歌にあふれているっていいますか、牧歌にあふれているっていうような感情をだれでもがもたれるんじゃないかっていうふうに思います。
 たとえば、スミスは『国富論』の草稿のなかで、今はあれになってしまったけど、田園的な風車とか、水車とかが回っている。それで、風車とか、水車を最初に考えて、発想にした人っていうのは、きっと哲学者だったに違いないっていうふうに言っています。で、哲学者であって、風車とか、水車っていうものを、動力を使うことを考えついた。すると、哲学者ではないけども、技術者である人たちが、代々、風車とか、水車とかをつくっていって、手仕事でつくっていって、そしてずっとやってきた。
 しかし、産業革命時代に入ってきてしまって、そこで、分業ってものが、非常に細分化されていくにつれて、そういう哲学者である風車の発明者とか、水車の発明者っていうのは、だんだん専門家になってしまった。つまり、専門の哲学者になったり、あるいは、専門の大工さんになったり、あるいは、専門の技術者になったりっていうふうなかたちで、分業によって細分化されてしまったというようなことを述べております。
 で、スミスの経済についての学っていいましょうか、そういう考え方っていうのが、どこから始まるかっていうのを、スミスは非常によく考えていますし、非常によくそれをすくい取っているふうに思います。
 で、分業っていうようなことについて、スミスの基本的な考え方はなにかって考えてみますと、それは、けっして外から強制されて、それぞれ違う職業の専門家に細分化されていったっていう、つまり、産業構造によって、そういうふうにいったっていうよりも、人間の本性のなかに、自分はこのことをやり、そして、ほかの人が違うことをやり、また別の人は違うことをやり、そういうふうに、それぞれが違うことをやっていきながら、しかし、そのあいだに、それでは自分がつくったもので、ほしいものがあったら、それは、自分がほしいもので、自分がつくっていないものと取り替えようじゃないかって、取引するとか、あるいは、交換するとかっていうふうな考え方がでて、けっして外からの要因じゃなくて、人間の本性のなかにそういうものがあるから、そういう分業みたいな細分化とか、交換みたいなことが起こるのであり、それは、だいたいにおいて、人間の本性に根差しているっていうふうに考えた方がいいので、べつに意図して、分業した方が都合がいいからとか、便利だからって考えるよりも、むしろ人間の本性には、そういう考え方があるんだっていうふうにみなした方がいいんだっていうふうにスミスは言っています。
それは、スミスの経済的な思想の中心にある考え方なんだっていうふうに思われます。で、スミスが例を挙げていることでいえば、例えば、肉体労働をする人と、哲学者みたいにもっぱら物事を考えるだけで、なにも手足をつかって、体を動かしてなにかするって人じゃない、そういう人間との間の、本性とか、特性っていうようなものの相違っていうのは、スミスはそういう例えを引いていますけど、犬でいえば、猟犬もいれば、愛玩用の犬もいると、そういう犬における愛玩用の犬と、猟犬との違いほどに、哲学者と肉体労働する人とは、そんなに差があるものじゃないんだ。
ところが、そういうふうに差があるものじゃない人間っていう方が、かえって差があること、それぞれ違った差があることを専門として、それに従事するようにだんだん分かれてしまった。しかし、もともと猟犬と愛玩用の犬とは、人間に比べれば、はるかに差があるにもかかわらず、その差を、動物、犬なら犬っていうものは、もっと細分化してみせて、協力して生きたりとか、交換して生きたりとかってことを、犬は考えなかったんだっていうふうな言い方をしました。
たとえば、猟犬と愛玩用の犬と、それから牧畜用の犬というようなものが、それぞれ自分の得意とする分野をもちながら、しかもそれが、猟をするときに協力してやったとしたらば、相当いいことができるはずなのに、一般に動物っていうものは、そういうような意味合いで、協力しないで、あくまでも自分が取って、自分が取ったものを食べて、そして自分が生きてるってことを、猟犬は猟犬なりに、愛玩用の犬は愛玩用の犬なりに、そういうことしかしない。
それでは、協同体制っていうのはできないし、また逆に、分業ってことも、細分化していくってことも、動物にはありえない。だから、たぶん人間と動物との最初の違いっていうものは、そういうふうに、もともとそんなに差異がない人間の本性から出発して、しかし、考えればとてつもないほど違ったような、細分化された職業に、専門に分化していく、分化していって、それが、全体としては、協業体制っていいますか、協力体制ってなものをつくれるってところに人間的な本性ってなものがあって、その本性のいちばん基本にあるのは、たぶん交換とか、自分がないものを相手から売るとか、相手がないもので自分がつくったものをあげるとか、またそれを交換するとか、そういう本性が人間にあるってことが、いちばん根本にあるんじゃないかってふうな言い方をスミスはとっています。
スミスのこの考え方っていうものは、たとえば『国富論』みたいな、スミスの主著のなかにも、全体的にばらまかれている考え方だと思います。

2 起源にまでさかのぼる考え方

 スミスの考え方で、もうひとつ言えることがあるとしますと、特色をいえることがあるとしますと、それは、起源っていうことなんです。ある事柄を考える場合に、ある事柄を起源のところまでさかのぼって考える。そうすると、もともと起源のところまでさかのぼらないで、そのまんま眺めたら、どうしても本性がわからないってことがあったとすれば、それは、だいたいにおいて、起源のところまで、歴史的な起源であり、それから、原型であるっていうようなところまでさかのぼって考えると、だいたい本性っていうようなものがつかまえられるものである。
また、本性のところまでさかのぼって物事を把握するってことは、たぶん本当の把握の仕方なんだって考え方が、スミスには一貫してあります。この一貫性っていうようなものは、さきほどいいました人間の本性としてある分業性っていいますか、交換性っていいますか、交換するとか、ないものを取り替えるとか、そういうような考え方ってものと2つ合わせて、経済理念といいますか、方法っていいますか、そういうものの根底に横たわっている問題のように思います。
そのスミスの思考方法っていうのは、非常に抽象的な言い方をしてしまいますと、動物にはそういうものはないんだけれども、人間にはさまざま異なった外観、あるいは、異なった才能を持つ者、違いを持つ者のなかから、なにが同一なのか、あるいは、なにが共通に同一なのかというものをつかみとる能力ってものが人間にあって、動物にない、いちばん重要なことで、さまざまな違いある者、外観と違いのある者から、同一なものをつかみ取ってくる能力っていうものが、たぶん、スミスの考えた「交換」っていう経済概念にあたるもののように思います。
だから、そこのところでスミスが、さきほどいいました牧歌的な歌を歌いながら、歌のなかから経済的な概念っていうものをつくりあげていくっていうふうに、スミスのやり方がそういうところに厳選しているように考えられるわけです。
さまざまな場面で、スミスは興味深い、いまのでいいますと、「起源」っていうことと、それから、「交換」っていうことですけれども、その2つの基本的なスミスの考え方の基端から、さまざま興味深い経済的な概念をつくりあげています。
たとえば、取引っていう、つまり、「交換」ってことを言い換えれば、それは、商品の販売だったり、交換だったりすることであって、それは言い換えれば、すべての人間が、まずはじめのところでは、「交換」っていうことをやる限りでは、物々交換をやる限りでは、すべての人間は一商人であって、そうすると、すべての人間が商人である社会ってものは、いわば商業社会だ。で、その商業社会っていうものは、近代社会のなかの一部門で商業社会っていうのが成り立っているのではなくて、っていうことだけじゃなくて、最初の商業社会っていうものは、すべての人がはじめに物々交換で、自分にないものを自分が持つように、それから、人がないもので自分が持っているものを人に与えたりっていうような、そういうことをやりはじめたときに、商業社会の起源がはじまるんだっていうような考え方をしています。
そういうことはたくさんあるんですけど、経済にかかる主要な概念について、スミスはほとんどすべてそういうことを言っているわけです。たとえば貨幣っていうものを考えて、貨幣っていうのはいったい何なんだっていう場合に、貨幣っていうのは要するに、物と物とを交換するっていうようなことをやってるうちに、非常に交換する仕方が、仕方の種類も非常に多岐にわたる、複雑になってきたと、そうすると、そのとき人間はどういうことを考えるかっていうと、この物ならば、この商品ならば、だれでも何かと交換しようっていった場合に、嫌だとは言わないだろうっていうような、ある種の商品っていうものがあるとすれば、それをたぶん、人間っていうのは、物々交換が煩雑に耐えなくなったら、次の段階で考えることは、だれでもこれだったら換えるのを嫌だとは言うまいっていうような商品を、とりあえず一定量蓄えていって、そして、何か自分がほしいものがあったら、これとどうだ換えないかって言うと、たいていの人はそれでいいと、換えてやろうっていうふうに言ってくれる、そういう商品の種類を一定量蓄えるってことを、次の段階で人間っていうのは考えていくだろう。その場合、これならばだれでも嫌とは言うまいっていうふうに蓄える商品っていうのが貨幣っていうものの原型だと、つまり、元にあるもの、起源にあるものっていうふうにスミスは言っています。
この考え方も、たいへんおもしろい考え方だと思うんです。非常に牧歌的でありますけれど、非常にみごとなっていいますか、非常にわかりやすい考え方で、貨幣の本性っていうものを説明するためには、たいへんいい考え方のように思われます。
しかも、この考え方は、いわゆる物々交換とか、ないものを人が持ってたら、それと自分の持ってるものと換えようっていう、いわば人間の本性にある欲求っていうものから、そういう交換的になって、貨幣っていうものが、次の段階で貨幣に近いって考えられるっていうのは、そういう考え方として非常に素朴で、かつ、人間の古い時代から人間社会で、人がやってきた、そういう牧歌にあふれた時代からのおもかげをずっとすくい取りながら、しかし、貨幣って概念までもっていこうとするスミスの発想っていうのは、じつに、歌にあふれているっていいましょうか、経済学っていうのは、おもしろくない学問だって思いますし、つまんないんですけど、一般的につまんないと思うんですけど、主著の『国富論』にあらわれたスミスっていうのは、じつに、おもしろいっていうか、いいなって思います。つまり、みごとだと思います。いいなっていうふうに思います。
経済学の、あるいは経済的な関心、あるいは経済的な概念をつくりあげるつくりあげ方が、じつに自然にスムーズにいっているわけです。で、そのスムーズにいっているいき方のなかで、スミスの基本的な考え方の特徴である「起源」っていう概念と、「交換」っていう、「交換の本性」っていいましょうか、そういう概念とを、いつでも生かしながら、じつにみごとな経済概念、つくり方をやっているように思います。
で、いちばんおもしろい、興味深いのは、スミスが価値っていう概念を説明する場合の、つくっていく場合の、スミスの説明の仕方なんです。スミスは価値っていう概念を説明する場合に、靴の例を挙げていますけども、靴っていうのは、それを履いて歩くために、靴っていうのは使われると、そのような使われ方をするときは靴っていうのは、使用価値として使われるって使われ方なんだっていうふうに言っています。
しかし、靴にはもうひとつの使われ方っていうのがあると、それはなにかっていうと、自分がほしいなにか別のものがあって、人がそれを持っていたとすれば、この靴と、人が持っていて自分がほしいものと換えないかっていうふうなときに、靴っていうのを使うこともありうると、一般的にすべての商品っていうものは、そういうふうに、それ自体として使われる場合、それから、それをもとにして、それと別のほしいものと換えようっていうような、一種の購買力の代用品として使うっていう使われ方もあると、そして、その場合に、靴として履いて使う使い方が、使用価値っていう概念の元にあるんだっていうふうに説明しています。それで、靴でもって購買力の代用をすると、つまり、ほしいものと換えようっていう場合に、靴を使う使い方で靴を考えた場合には、靴は交換価値っていうものを有すると、もっているというふうに考えることができるんだってふうに、スミスはそういう説明の仕方をしています。
ところで、この考え方、つまり、スミスが使用価値っていうもの、それから、交換価値っていうものを説明するために出してきた概念が、かならずしも、スミスの、基本的な意味で、最初の発想ではないわけで、これはマルクスもそういうのを挙げてるんですけど、アリストテレスが政治学のなかで、やっぱり、ものの用法っていいますか、役立ち方っていうのには2つあって、ひとつはそのものとして役が立てることだろうし、もうひとつは、そのものをほかのものと換えるっていうようなそういう役立たせ方と、事物にはかならず2つの役立たせ方っていいましょうか、役割っていいましょうか、そういうものがあるんだってことはアリストテレスがすでに非常にはっきりした言い方で、のちの使用価値と交換価値っていうような概念がまったくすぐに出てくるような、そういう言い方ですでに言っています。で、スミスはアリストテレスのその概念をたくさん借りてきて、そのなかで使用価値、交換価値っていう概念をつくりだしているっていうふうに思います。

3 「価値」とは何か

 ところで、スミスの使用価値とか、交換価値っていう概念のつくり方っていうようなものを、もう少し元に戻してしまったら、いったいどういうことになるのか、つまり、「国富論」のなかでやってるよりも、もっと元に戻しちゃったら、もっと自然のなかに、歌のなかに戻してしまったら、どういうことになるのかっていうふうなことを、余計なことですけど、ちょっと考えてみますと、それはどういうふうにすればわかるかっていいますと、ひとまずとにかく、「価値」っていう言葉で思い浮かんでくる感覚的なことでも、感情的なことでも、もちろん、論理的なことでもいいわけですけども、そういうことを全部思い浮かべてみればいいわけです。
そうすると、「価値」っていう言葉を聞いたときに、みなさんがどういうことを思い浮かべるか、あるいは、「価値」って何だいっていう、「価値」っていう言葉を聞いて、「価値」って何だと思うって聞かれた場合に、どういうふうなものを思い浮かべるかってことを考えてみますと、それは人それぞれによって違うと思います。
つまり、「価値」っていう概念を、なにかすぐにダイヤモンドみたいな高いものを思い浮かべる人もいるだろうし、なんとなく貴重なものっていうような感情を思い浮かべる人もいるでしょうし、なんか大切なものっていうことを、なにか具体的にイメージを思い浮かべる人もいるんだろうと思います。つまり、その思い浮かべ方はさまざまであると思います。
 そうすると、さまざまな思い浮かべ方のなかで、「価値」って言われてしまうと、なんとなくおおげさに思われる事柄で、しかし、なんとなくしかそれは、心のなかでは大切なもんなんだっていうような、そういうものを思い浮かべるってことが、たぶん「価値」っていう言葉を思い浮かべたときの非常に根底にある感情なんじゃないか、あるいは、感覚なんじゃないかっていうふうに思います。
 そうすると、その根底にある、なんかしらないけど大切なものであって、しかも、大切な具体的ななにかっていうんじゃなくて、なんとなく大切なものなんだ。しかし、その大切なものっていうのを、どういうものだって、してしまったら、もうそれは大切なものがどっかで壊れてしまう。ましてそれは、「価値」っていう言葉でも言ってしまったら、なんか非常に重要なものが、そこから抜け落ちてしまうような感じがするってことがあると思います。
 そうすると、「価値」っていう概念というものは、どんどん経済学の方にではなくて、歌の方に、あるいは、自然感情の方に、あるいは、人間の自然本性の方に、どんどんどんどん放ってしまいますと、歌の方に放ってしまいますと、それは非常に漠然とした、なんとなく大切なものっていうふうなところに、源泉があるっていいましょうか、そこまでいってしまうっていうふうに思います。
そこまでいってしまえば、本当の歌っていいましょうか、本当の昔の、古代の素朴な牧歌といいましょうか、そういうようなものになっていくわけです。つまり、なにが大切なもの、しかし、かたちがなんだったってことは言えないし、それは外にあるものなのか、あるいは、かたちのない心のなかにあるものなのか、それも言えないっていうところまで、ずっと歌の方に、概念に放してしまいますと、そこのところがたぶん起源にある、「価値」っていう概念の起源にあるものなわけです。
 スミスといえども、そういうようなものから次々、感覚とか、それから回答とかってものを次々絞り込んだり、削り落としたりして、「価値」あるいは「交換価値」と「使用価値」っていう経済学上の概念をスミスはつくっていったと思います。
 ところで、問題なのは、スミスがそういうふうにつくっていったときに、すでに、なにかしらないけど大切なものっていうところで、人間がイメージを思い浮かべるものっていうようなものから、なにか重要なものっていうものが抜け落ちてしまうっていいますか、こぼれ落ちてしまうっていうことが確かなわけで、そうすると、そのこぼれ落ちてしまったものは、ふたたび経済学に対して、あるいは、経済的な範疇に対して、逆襲するっていいますか、どっかで復讐するだろうっていう、あるいは、復讐することがありうるってことが、ぼくはまず、アダム・スミスの『国富論』で、経済的な経済概念をはじめてつくりあげたそのところで、すでに、そういうこぼれ落ちていったものが、いつか経済学的範疇を、もし主要なもの、それをいちばん重要なものとして考えるとすれば必ず、どっかでそれが復讐していく、こぼれ落としたものが復讐することがあるだろうってことが考えられるわけです。
 こぼれ落ちたもののなかで、非常にわかりやすいものは、もちろん、いわゆる文学とか、芸術とか、音楽とか、そういうふうに言われているものが、まず、こぼれ落ちたものをもとにして、それになにか、別のかたちを与えていったものが、たとえば、文学であり、芸術であり、そして絵画であり、音楽でありっていうようなものとなって、そして、それは経済学に対して、あるいは、経済概念に対して復讐をしているか、また、調和しているかわかりませんけども、それはさまざまな場合がありうるでしょうけども、とにかくそれは、そういうかたちで、経済学の範疇から離れていくけども、別の分野をそれぞれがつくっていったってことはいえると思います。
 そのことはたえず、経済的な範疇ってものを考える場合に、経済的範疇からこぼれ落ちたものから、何がいったい生まれたのか、あるいは、何をそれは生みだしていったのか、そして、それは経済的な範疇に対して、どういう復讐の仕方をしたり、また、どういう調和の仕方をしたり、また、どういう別れ方をしたりしているのかっていうことを、たえず思い浮かべるってことは、たいへん重要なことのように思われますけども、その重要さっていうようなものを最初に、非常に見事に、そういう重要な過程、経済学的な概念とか、範疇とかがすくい上げられるところで、何がこぼれ落ち、そして、何が残されたのか、それからまた、経済的範疇っていうものを、元々歌の方に放してしまえば、そこにどういう人間的な歌が存在したのかってことを、いつでも思い出させてくれるのが、アダム・スミスの非常に大きな方法であり、また、大きな思想であり、大きな意味合いだってふうに思われます。

4 牧歌の豊かさ

 これは、スミスのもっとも正統的な後継者であるリカードとか、それからリカードのまったく正統的な後継者であるマルクスとか、そういうふうになっていきますと、すでにスミスがもっていたよさっていいましょうか、つまり、起源っていうものをたえず思い浮かべさせてくれる、起源の感情の方に、あるいは、歌の感情の方に、いつでも人間を引きもどしてくれるっていうような、そういう方法的な冴えっていいましょうか、豊富さっていうようなものは、すでにもうなくなってしまうわけなんです。
 で、スミスだけがたぶん、最初の経済学的な概念をつくりあげ、同時に、経済的な概念の残余といいますか、そこからこぼれ落ちたもののなかに何があるのか、どういう歌があるのかっていうのをたえずいつも思い浮かべさせてくれるっていうようなものが、たぶんスミスの非常に大きな特徴のように思います。
 このスミスの特徴っていうようなものをいたるところで、もちろん、スミスがつくりあげた経済的な範疇、たとえば、地代っていうようなものについてもおんなじなんです。いつでもそうなんです。地代とはなにかっていう場合に、その住んでる土地がだれのものだってふうに、なんにも区別もなしに、だれかが独占してるっていう土地がなにもなかったことを考えてみなさいって、そうすると、その時にそこに植わってる木から木の実を採ったと、木の実をたとえば10個採って、それを食べる為に持ってったと、そしたら、その場合に、木の実を10個っていうのは、いわば、木の実を10個採るために、木にはしごを架け、それをのぼり、そして、実を10個もぎ取り、そしてまた、はしごを降りてきて、それでかごに入れってなことをした、つまり、その労働ですね、労力、その労力だけが、木の実ってものに対して支払ったものであって、支払った労働の量であって、それが自然に考えられる生産物っていいますか、採集物っていいましょうか、ある商品っていいましょうか、そういうものと、それが労働の量ではかられるっていうことの、いちばん起源にあるのはそういう問題であって、つまり、ある土地に入って、木の実10個を採れば、とにかく10個採るだけの労力をつかったっていうことだけが支払いである。
それが、木の実10個の価値に該当するものであって、それは掛け値なしにそのとおりであるんだと、ところが、木の生えてる土地がだれかのものであったっていう場合には、そうはいかなくて、だいたい採らせてくれないかって断ったり、あるいは、10個木の実を採った分だけじゃなくて、要するに、すこしお宅の木の実を採らせてもらいましたとか、お宅の土地に入らしてもらいましたとかっていうことで、たとえば、その中から木の実2個分だけは、土地の持ち主にやらなきゃならない、あるいは、10個以外のいくらかのお金を、土地を持ってる人に支払わなければならないってことになります。
 そうすると、土地を持ってる人に、10個採ったっていう労力だけじゃなくて、ほかにお金を支払って、採らせてもらいました、すみませんって言って、支払ったっていう、それが要するに、そもそも地代っていうことのはじまりなんだっていうような、地代の規定の仕方をしています。
つまり、この地代の規定の仕方と同時に、たとえば、ある生産物、採集物の価値っていうものは何なのかっていうならば、どっから考えても、木の実10個採るために、はしごを架けたり、のぼったり、もいだり、また、はしごを降りてきたり、それだけ労力をつかって、つまり、労働力をつかったその量が、だいたい木の実10個の価値と等しいというふうに考えるのがいちばんいい考え方っていうなのが、スミスの考え方で、そこにもやっぱり、スミスのなかにある一種の歌っていいましょうか、牧歌的な精神っていいましょうか、牧歌的な思考方法っていいましょうか、そういうようなものがあふれているように思います。
 このあふれ方っていうようなものは、たとえば、後代で経済学の高度に発達した概念といえば、まったく素朴で、ある意味では、間違えやすく、また、間違えていろんなものを混同して、スミスは考えているっていうふうにも、もちろん言えるわけですけれど、しかし、そうじゃなくて、逆にその後の経済学が失ってしまった、ある歌っていいましょうか、自然感情っていいましょうか、自然と人間とのかかわりあいのいちばん根底のところにある問題を、いつでもスミスは見ながら、また、そこから経済的な範疇っていうようなもの、あるいは、経済的な概念っていうようなものを全部つくりあげていってるっていう、それで、その痕跡を非常にみごとに残しているっていうふうに思われます。
 だから、スミスの『国富論』あるいは『諸国民の富』っていうんでしょうか、その『国富論』っていうのを読んでご覧になった方は、すぐにわかるでしょうけども、スミスっていうのは、非常に『国富論』のなかで、聡明であって、つまり、頭のいい人だなぁって思います。つまり、聡明であって、やさしくて、それで、一種の起源に対する、つまり、もとに対して、自然感情に対する思い出みたいなものをいつでも含んでいて、そして、そのくせに非常に緻密な論理を、そのなかに含んでいて、たいへん見事な歌を歌っているっていうようなことが、『国富論』っていうものを読むと、だれにでもそれを感じられることができると思います。
 つまり、この大きさっていいますか、偉大さっていうんでしょうか、偉大さっていうものは、ちょっと後には考えようもないので、つまり、文学の方でいえば、ゲーテみたいな、あるいは、シェイクスピアみたいな、そういう一種の巨人ですけども、一種の巨人の面影っていうようなものをスミスはもっています。
 それから、たぶんそれは、スミスだけがもってるって言ってもいいんだ。つまり、後もさまざまな巨人がいますけども、経済学の巨人っていうのはいますけども、しかし、スミスのような意味合いで、歌をもっていないと思います。つまり、経済学が歌を歌うことができなくなってしまったっていう時代的な趨向もありますし、さまざまな要因はあるんですけども、とにかく、スミスのような一種の豊かなやさしい歌を歌いながら経済学の概念をつくりあげていくっていうような人は、スミス以降に、たぶん求めることができないんだってふうに思います。

5 〈歌〉の時代から〈散文物語〉の時代へ

 で、スミスの価値概念とか、商品の使用価値とか、交換価値とか、地代とか、あるいは利潤とか、そういうようなものについて、スミスの考え方っていうようなものをいちばん忠実に、いちばんみごとに凝縮して結集しているのは、リカードなんだというふうに思いますけれども。
 リカードにはすでに、スミスのもっていた牧歌っていいましょうか、歌はすこしも残されていないっていうことが、たとえば、リカードの主著である『経済学及び課税の原理』っていうのを読みますと、もうすでに、スミスがもっていた牧歌っていいますか、歌声はどこにも聞こえないっていうふうに、リカードの『経済学及び課税の原理』とスミスの『国富論』とは、ほとんど同じ世代のうちに、20年くらいしか違ってないと思います。しかし、スミスのもっている歌っていうようなものは、リカードにはないっていうことがわかります。
 リカードはだから、文学でいえば、歌の時代ですね、つまり、抒情詩とか、叙事詩とか、歌の時代はすみやかに過ぎ去ってしまって、そして、一種の味気ない散文の時代に入ったんだっていうふうにいうのとおんなじように、リカードになっていきますと、スミスのもっていた歌どりは、もうなんにも聞こえなくなってしまいますし、また、スミスがもっていた起源っていいますか、発生とよびましょうか、つまり、スミスっていうのが起源っていうものを訪ねていって、その起源のところで事物について考えることが、最も本性をつかむ、いいつかみ方なんだって、そのスミスの方法的な原理ですけども、起源っていうものも、リカードではすでにもう断ち切られてしまっています。
 リカードが実現したのは、スミスの概念を緻密にし、もっと整えて、いわば構成力を格段に精密にしていったわけですけども、しかし、そこにはもう、スミスのもっていた歌っていうようなものは、すみやかに失われてしまって、味気ない経済的概念と、それから、現実の社会の経済的な動きっていいましょうか、それとの照応関係をどういうふうに考えていったらいいのかっていうような問題が、リカードの主な関心を占めてしまっているわけです。
 つまり、これはいってみれば、散文あるいは一種の物語の時代みたいなもので、歌がそこにはなくなってしまって、ただ物語があるのかもしれない。そうすると、リカードがつかった物語の材料っていうものは、スミスとまったくおんなじもので、ある商品が生産されるためには、土地と資本とそれから働く者、あるいは、働くことが要素として必要なんでっていうスミスの考え方ってものは、もちろん、リカードの場合も、そのまんま、物語につかわれているわけです。
 つまり、同じ素材といいましょうか、同じ概念をつかって、かたっぽの方は、スミスの方は、一種の豊かなやさしい歌を歌ったわけですけども、リカードの方は、同じ材料をつかって、堅苦しいっていいますか、息苦しい物語をつくらざるをえなくなったっていうようなことがいうことができると思います。
 リカードが関心をもったもの、たとえば、働く者の賃金っていうものが、これだけ上昇した、そうするとその時に、利潤っていうものは、資本をもっている者に、どれだけ影響を与えるか、つまり、どれだけ利潤を増やすだろうか、で、利潤を増やしたときの、つくられた商品の価値っていうものに対して、影響を本当は与えるだろうか、与えないだろうかっていうような、そういう問題を考えるみたいな、非常に目の詰まった、3人の主要な人物が物語のなかに登場して、さまざまなドラマを演じる。
たとえば、賃金であり、それから、一商品の価値でありと、つまり、3人の主要な人物が登場して、ドラマを演ずるのですけども、かたっぽの人物が、すこしいわれるようになったときには、かたっぽが、あとの2人はどうなんだとか、物語として考えると、たいへん息苦しい物語として考えられていて、一定の物語の枠組みはすでに決まっていて、それで登場する人物も決まっていて、ただその登場する人物の三者の関係が、どういうふうに歩むだろうか、つまり、Aなる人物が強大になった時には、BとCはどうなんだろうかとか、Aなる人物が衰えたときには、BとCはどうなんだろうかっていうような、つまり、物語としても、非常に堅苦しい物語といいましょうか、そういう物語を描き切るっていうようなものが、リカードの物語のつくりかたっていいましょうか、リカードの経済学の、経済的な関心の主要なものになってしまっているわけです。

6 正しい経済学的〈物語〉

 ただ、そのなかに救いがあるとすれば、リカードはなにが正しい、まあ正しい物語っていうのはおかしな言い方なんで、物語、文学の場合に、正しいとか、正しくないっていうのはないわけですけども、経済学の場合には、もしかすると、それがあるかもしれないので、正しい物語っていうような、つまり正しい経済学的物語っていうものは、どういうものを指しているのだっていうことなわけですけれども。
 その正しい物語っていうものについて、リカードがひとつの、自分なりの考え方をもっていたっていうことが、唯一、堅苦しい物語のなかで、救いがあるといえば、救いがあるというふうにいえるのではないかっていうふうに思います。
リカードが、たとえば、地主と、資本家と、働く労働者っていうような三者がいるとすれば、三者がどういうふうにあったときに、いちばん正しい物語といえるかっていえば、三者が同じ労働量に該当するだけの価値の分け前っていうようなものを受け取るっていうようなかたちが、もしとれたならば、それがいちばん正しい物語なんだっていう、原理っていいますか、哲学っていいましょうか、理念といいましょうか、そういうようなものがリカードのもってるいちばん大きな理念なわけです。
 つまり、この理念がわずかに、堅苦しい経済学の物語っていいましょうか、経済概念でつくりあげられた物語っていうようなものを、唯一、堅苦しいところには違いないんでしょうけれど、歌ではないけれども、ひとつの人間らしさっていいましょうか、人間らしさの糸口みたいなものを、そのなかに含むことができているっていうふうに思います。
 だから、リカードがスミスの経済学の概念っていうものを緻密にして、本当の意味での、いわば、経済学の諸概念の基礎をつくりあげた人だと思いますけれど、しかし、スミスがもっていた歌とか、豊富さとか、豊かさとかっていうものは、すでにリカードのなかには、なにもなくなっちゃっているっていうようなことを考えますと、それはたいへん、目の詰まったっていいましょうか、抜け目のないっていいましょうか、抜け目のないことを考えざるをえなくなっている社会的な状況とか、状態っていいましょうか、現況といいましょうか、そういうものをたいへんよく反映していて、どういう分け前の仕方っていうようなものを、経済学の起源にある範疇ですけども、三大範疇がどういうふうな分け前の受け取り方をしたらいいんだって場合に、それが公正なっていいますか、平等な労働量に該当するだけの価値の受け取り方をするっていうようなことが、いちばんいい受け取り方なんだ。
 それが、もしかすると、経済学が現実の経済的な動き、あるいは、社会的な動きに対して、なにか言うことがあるとすれば、言えることがあるとすれば、そういうことがどういうことができるんだってことを、ある非常に素朴な、また、堅苦しい緻密な概念のつくりかたをやりながら、そういうことをはっきりさせていったっていうようなものが、リカードが、経済学をすくい上げたいちばん大きな仕事じゃないかっていうふうに思います。
 そうすると、この仕事はいってみれば、まったく散文的な仕事で、あるいは、物語的な仕事で、この仕事がうまくつくられたか、つまり、この物語がうまくつくられたからといって、現実がそのとおりになるっていうわけでもなんでもないわけですけれども、しかし、現実が歪まれていたら、それを映す一種の鏡として、そういうふうなかたちの物語を、もし、現実にも展開されるならば、それがいちばんいい物語なんだっていうことを、リカードはある程度、スミスの経済学を緻密にしながら、発揮させていったっていうことがたいへん救いになることじゃないかってふうに考えることができます。

7 「対立」の〈ドラマ〉

 リカードもまったく、スミスがつくりあげた概念が、全部それなりに緻密につくりあげていったわけです。つくりあげてしまったわけです。リカードのつくりあげたものは、そのまんまで、一種の鏡としてこれはいちばんいいんじゃないかっていう、物語としての鏡っていうようなものを提出しただけにとどまりますけども。
 しかし、リカードにもやはり、いちばん緻密で、正当な後継者であったマルクスが今度は、リカードの物語あるいは小説、物語に対して一種のドラマっていう、例えてみますと、ドラマっていうものを同じ経済学的な概念、あるいは、その規定を使いながら、ドラマを打ち立ててみせたっていうことが言えるんじゃないかって思います。
 マルクスのドラマの主要なテーマっていうものは、はっきりしているわけです。それは、社会の経済的な範疇、あるいは、経済的な過程っていうものは、自然の歴史の延長線にあるっていうような考え方が、それがいい考え方であれ、欠陥のある考え方であれ、それは別として、そういう考え方が、マルクスの描いたドラマのいちばん根底にある考え方です。
 つまり、社会の経済的な範疇っていうのは、自然史の延長とおんなじなんだ。つまり、自然の、太陽で、その周りを地球が動いているとか、地球上ではこれこれの元素があって、それがだんだん、水素からさまざまな過程を経てつくられてきたものなんだ。そういうのとおんなじような意味合いで、まったく自然の過程の延長線に考えられるのが、延長線とおんなじように考えられるのが、社会の経済的な過程なんだっていうようなものが、マルクスの描いたドラマの根本的なテーマになっているわけです。
 ですから、たとえば、スミスがもっていた使用価値、交換価値っていう概念も、もっとマルクスでは緻密にされています。それは、価値概念の出どころ、あるいは、労働概念の出どころっていうのは何かっていえば、それは、根本的にいってしまえば、人間と人間以外の自然との間の固執的な代謝関係なんだ。
つまり、人間はたとえば、頭とか、神経とか、筋肉とかをつかって、自分の体を動かして、なにかをつくったりするわけですけど、つくったものが商品としてできあがっていくっていうことであって、それがいってみれば、人間と自然物との物質代謝っていう、あるいは物質交換っていいましょうか、物質代謝なんだ。それは、基本的に価値概念と労働概念の根底にあるもんだっていうようなものが、マルクスのドラマで一番多く、考えられているモチーフになっています。
 それで、マルクスの根底的にいちばん大きく、マルクスのドラマの中心的なものとして考えた対立概念っていうのはなにかっていいますと、労働を積み重ねることによってつくりあげられた商品っていうものは、もしこれを価値っていうふうに、スミスの言った使用価値と交換価値っていうふうな価値っていう概念と、物っていうものを、いったん眺めた場合には、この物っていうのは、2つに分裂するものだっていうことです。
 これは、2つに分裂し、葛藤するものなんだ、あるいは、対立するものなんだっていうのが、マルクスのドラマ、演劇のなかにおける基本的な概念です。これはなにかっていいますと、マルクスは等価概念っていうものと、相対的価値概念っていうふうに分けています。
 つまり、あらゆる商品っていうものは、その時々の役割に応じて、その時々の役割っていうのは、交換っていうことですけども、交換の場合に、相対的な価値形態となるか、あるいは、等価形態となるかどちらかに、あるいは、両方に分裂するものだって、分裂してその2つは葛藤するものなんだっていうふうに考えたところが、マルクスの描いたドラマのいちばん中心にあるものです。
 それは、簡単な例を挙げることができますけども、たとえば、マルクスの挙げている例でいいますと、麻布がひとつあったと、1反の麻布の価値は、1着の上着に該当するんだっていうふうに、そういうふうに考えた場合に、その麻布の方は、要するに、相対的な価値形態なんだ。それで、その価値は上着1着に該当するんだっていうふうな役割の考え方をした場合に、上着に該当するのが、要するに、等価形態なんだと、1着の上着っていうのの価値は、1反の麻布に該当するんだと、1反の麻布に等しいんだっていう場合に、今度は逆に上着の方が、相対的な価値形態であり、また、麻布の方が等価形態であるっていう言い方になります。
 で、これはそういうマルクス流の言われ方をしますと、相対的な価値形態っていうのは、一種の能動的な、積極的な形態なんだ。それで、それに対して、等価形態っていうのは、消極的なっていいましょうか、受動的な受け身の形態なんだっていうような、そういうふうなかたちになります。しかしながら、あらゆる商品っていうものは、いってみれば相容れない2つの形態にかならず分裂、分割するわけですし、することができますし、分割されたものは、けっして混同されることはないということが、それが、いわば葛藤、ドラマを演ずるっていうようなことが、マルクスのつくりあげたドラマの概念のいちばん重要な、あるいは、いちばん主要なことにある概念です。
たとえば、このマルクスのドラマの概念っていうものを、言語学で、つまり、近代言語学、あるいは、現代言語学の基礎に据えたものは、たとえばソシュールです。ソシュールはここのところで、相対的価値形態っていうものに該当するものを意味するもの、それから、等価形態に該当するものを意味されるものって考えるわけです。あるいは、概念と、ソシュールの言い方をすれば、聴覚映像なんですけども、そういうものに該当するものって考えたわけです。
ですから、価値のドラマを演じている商品のかたちっていうものは、これは言語が記号としての言語っていうようなものが、やはり社会のなかで流通していく仕方っていうのと、まったく同じように考えることができるっていうことが、ソシュールが自分の言語学をつくりあげていった最初の起点になっているわけです。
起点になっていることがどっかに書いてあるわけでなくて、ぼくはそう思います。つまり、ソシュールは自分の言語学をどっからしたのかっていいますと、マルクスの『資本論』からとってきたわけです。とってきたとぼくは思っています。
で、どっからとってきたのかっていいますと、マルクスの経済学的なドラマのいちばん主要なものと考えてる相対的価値形態と、それから、等価形態に、あらゆる商品っていうのは分割される、そしてそれは愛によるものじゃなくて分割される。そしてその愛のない両者は、葛藤のなかで様々なドラマが、さまざまに演じられるものだっていう、そういう概念の中心にあるところから、ソシュールは自分の言語学の概念をつかんできたんだろうなっていうふうなのが、ぼくらの持てる推測です。
ついでに申し上げますと、ぼくは、『言語にとって美とはなにか』っていうものを、十何年かくらい前に、日大にやってきましたときにお話ししたのも、それなんですけど、『言語にとって美とはなにか』の言語概念っていうようなものをどっからつくったかっていいますと、やはり、マルクスの『資本論』からつくりました。
ぼくも商品を、どうしたら価値形態としての商品の持ち方っていうなのが、言語の持ち方とおんなじなんだっていうふうに、やはり、そういうふうに考えたわけです。そして、ぼくはどこをとってきたかっていうと、それは、使用価値っていう概念と、交換価値っていう概念が、言語における指性っていうもの、つまり、ものを指す作用と、それから、交換価値っていう概念が、貨幣とおんなじで、万人に共通に、万人の意識の中に、あるいは、内面のなかに共通にある働きかけの表現っていいますか、表出っていいますか、そういうものに該当するだろうなっていうふうに考えたわけです。
ですから、ぼくはそこから、言語における「指示表出」と「自己表出」っていう概念を、まったくマルクスの「使用価値」と「交換価値」っていう、そこに、商品の使用価値のと交換価値の二重性をもつっていうような、そこのところで、ぼくは記号の言語概念をつくっていきました。
そして、そこからぼくは『言語にとって美とはなにか』というものをつくりあげてきました。そこで、ぼくのしたことは、ぼくの考え方はいい考え方だっていうふうに、今でも思っていますけども、残念ですけれど、たとえば、ソシュールって人とぼくと比べていったら、格段に頭の能力とか緻密度が、格段に違うわけです。ですから、ぼくはたぶん、それをよく展開しえなかったんだと思います。
それからもうひとつは、ぼくの『言語にとって美とはなにか』っていうのに凝縮された言語的な概念っていうようなものの展開の仕方に、あんまり魅力がなかったのだと思います。ですから、みなさんがご承知のとおり、初心者が全部、ソシュールの学徒になると言っていいくらいに、たいへん隆盛を極めています。
しかし、根本的な言語の価値概念、あるいは、言語の美の概念っていうものをつくりあげていくと、最初の考え方としていったならば、いまでも僕は、自分のつくり方のほうが機能主義的でなくてよろしいっていうふうに思っています。ですけれども、残念ですけれども、あんまり魅力がないものですから、大したことでないところで終わっているっていうようなことになっています。

8 マルクスの息苦しさ

 それはいいんですけども、要するに、マルクスの描いた最も大きな経済学的なドラマってものは、相対的価値概念と、等価形態っていうものと、そういうふうに真っ二つに割れてしまうっていう、真っ二つに割れて、両者の対立、あるいは、葛藤っていうようなものが、これが経済学的なドラマの大きな演じかたをやるんだって概念が、マルクスの経済概念のなかで、いちばん大きな、主要な概念じゃないかっていうふうに思われます。
 だから、その概念の葛藤が、たとえば、社会の段階がどういうふうに進むならば、どういうふうにいくだろうかって考えたのが、マルクスの『資本論』に該当するわけです。マルクスの『資本論』は、リカードの散文物語に比べれば、ドラマであるわけです。で、ドラマでありますけれども、緻密であり、そして、ある意味でやりきれないことになっているわけですけれども。
 やりきれないことになっているのはなぜかといいますと、それはすでに歌が失われてから年月が経っているってことはひとつありますし、それから、はるかにスミスの時代に比べて、マルクスの時代はいわば資本主義の勃興期で、しゃにむにみんなが自由な経済的な競争っていうのを目指して、富む奴は極限まで富み、さきほどの概念でいえば、三大登場人物でいえば、働いて報酬を得るっていうような人間がどんどんどんどん貧困になっていくみたいな、そういう状況にさらされたことと、もうひとつはスミスの描いた分業っていう概念がもう、はるかに遠いくらいの細分化と膨大化を極めた時代に、マルクスの時はなってしまっているわけです。
 そこでは、本当に抜け道をつくろうにも、つくりようがないわけになっていますし、また、経済学的な牧歌を歌おうとしても、経済学の範疇の中では、範囲の中では、歌を歌うことができなくなっていっています。
だから、マルクスの詰め方は非常に緻密で、見事な詰め方をしておりますし、マルクスがつくっている、さきほどいいました、相対的な価値形態、等価形態っていう概念のつくり方もそうですけども、いわばすべての事物っていうのは同一物でなければ左右で違うっていいましょうか、いってみれば、ヘーゲルのつくりあげた緻密な論理学の体系っていうようなものは、縦横に駆使されていまして、そして、それらの駆使に抜け道をつくることができない。つまり、これに理論を挟むことができないほど、非常に緻密にできています。
 ですから、それはまことに見事なドラマになるんですけども、しかし、歌はすでにないわけです。この歌のなさっていうことは、さまざまな意味合いで、マルクスには『資本論』以降、現在に至るまで、さまざまな意味で、マルクスの考え方の系統の経済的な考え方にいった様々な意味合いで、反抗、反撃をくらっているっていったらいいんでしょうか、つまり、マルクスの経済学のドラマはあるけども、歌はないんだ、なくなっちゃって、それは致しかたないんだっていうようなことの問題っていうようなものが、さまざまな意味合いで、いわば問われているってことは言えると思います。これは、様々な場所から問われているってことは言えると思います。
 で、もうひとつ、リカードの散文物語に対して、マルクスのドラマがもうひとつ、やり遂げたことっていうのは何かっていいますと、それはただひとつだと思います。それは、リカードの、スミスもそうですけど、すべての分け前っていうのは、それに対して、それをつくるために加えた労働の量でもって分けられるんだと、量の割り合いで分けられるんだっていう考え方ですけども、その考え方に該当する労働の量っていう考え方を、マルクスは労働の時間っていうふうに変えることができたっていうことだと思います。
 それは、どうしてできたかっていいますと、あまりに分業が緻密化し、そして、あまりにそれが膨大になっていったために、Aという分業の作業にたずさわっていることと、Bという分業にたずさわっていることと、Cという分業にたずさわっていることとは、もうあまりに微細に分業化されていて、それが、極点に達したと考えれば、それは区別しなくてもいいっていうことに、またしたりするわけです。
 はじめに、分業っていうようなものは、スミスの概念では、動物と違って、人間っていうのは、それぞれの役割をはたして、それぞれ専門化して分かれて、そしてそれぞれ補い合うってことができるんだっていうのが、分業の概念のはじまり、起源であったわけですけども、マルクスの時代に至っては、すでに分業があまりに微細化されて、あまりに微細化された分業っていうようなものは、いってみればAという部分とBという部分を取り替えたっておんなじじゃないかと、なぜならば、あまりに細分化されているから、全部均質だと考えても、あまり間違わないっていうふうにまで微細化されている。
 そうすると、そこで労働の量っていうふうにいう必要はないのであって、それは、労働の時間というふうに言えばいいんだと、つまり、労働の時間というふうなものが、あるできあがった商品の価値を決定する大きな要因なんだっていうふうに、マルクスは言い換えることができたっていうふうなことが言えます。
 これは、リカードに比べて、マルクスの時代ははるかに、分業が発達し、細分化し、それから膨大になったっていう事柄がそう言わせたわけでありますし、それはリカードの考え方をもっと追い詰めていって、人間が、たとえば、むずかしい仕事を1時間するのと、やさしい仕事を2か月するのとは、もしかすると労働の量は、むずかしい仕事を1時間することの方が多いんじゃないかみたいな疑問っていうようなものは、至る所に存在するわけですけども。
 マルクスは、それはそうじゃないと、いってみればそれは一人の個人のなかで、そういうことはありうるけども、つまり、むずかしい仕事を1時間やったときの方が、やさしい仕事を1か月やったよりも、ずっとくたびれたりとか、ずっと苦労したよってなことは、それぞれの個人個人の主観的なこと、または、個人個人のなかではそういうことはありうるけども、全体的な社会過程で、微細な分業が行われ、微細な細分化が行われ、膨大な商品がつくられるっていうような、そういうところでは、そういうことを言う必要はないのであって、もう時間なんだと、時間が1時間かかってできたものと、2時間かかってできたものとは、2倍の価値の違いがあるんだっていうふうに、そう言えばいいんだってことを、マルクスは相当はっきりさせることができたってことが、マルクスがもうひとつ、リカードの物語に比べて、マルクスのドラマがいってみれば一段、抽象化といいましょうか、均一化といいましょうか、そういうものを一段すすめた所以だっていうふうに思います。
 で、マルクスの考え方っていうものは、現在でも、その当時でもそうですけど、さまざまな批判にさらされているわけです。その批判っていうようなものは、主として、どういうところから起こるかっていいますと、スミスがはじめ経済学的な範疇って考えた、たとえば、働いて賃金を得る者っていうような概念をみますと、それを労働者っていえば、その労働者っていう概念はけっして、生のままの労働者っていうのではなくて、社会的な労働者っていう意味ではなくて、経済学的な範疇としての労働者なんだ。
だけれども、マルクスの労働者っていう概念の中には、しばしば経済的範疇の労働者っていうものと、それから社会的な労働者っていうものとの混同が起こっているというような言われ方をされます。
マルクスの、たとえば、労働価値概念と、それから実際に具体的な現実の市場での、商品の価格っていうものとのつながり方っていうようなものは、うまくつながっていかないっていうような、そういう批判のされ方っていうようなものもあります。
こういう批判のされ方の根底にあるのは何かっていいますと、要するに、いってみればマルクスのドラマはやっぱり、歌を喪失したっていうこと、否応なく喪失してしまったんだっていう、その否応なく喪失してしまったそういうところでつくられたドラマであったっていうことを、いわば問いただされているっていうふうに言えば、言えなくもないと思います。
つまり、あらゆるマルクスのつくりあげた価値概念とか、経済学的な範疇に対する批判っていうようなものは、そういうところから起こっているので、いってみればそのドラマには、自然の歌が聞こえないじゃないか、自然の歌っていうのはどこいっちゃったんだっていうような問題を、あるいは、自然の歌とのドラマとのつながりっていうのはどうなるのか、その間に空隙はいったいどういうことになっているんだっていうようなものが、言い換えれば、マルクスの経済的なドラマに対する批判っていうようなものの根底にあるものだと思います。
だから、その根底にある問題っていうものは。最初にスミスがもっていた歌っていうようなものは、どこで失われてしまって、どこで失ってしまって、どこでそれが回復できないんだ、あるいは、緻密化がすすんでそういうことは回復できないのかっていうような問題と大きくつながっていると思います。

9 古典経済学の可能性

 そして現在の経済学的な範疇、あるいは、経済学的な概念というものは、たぶん、その物語っていうようなものも、ドラマっていうようなものも、なくなっちゃっているんじゃないのかっていうふうに思われます。そういうことは、さまざまな考え方がありうるわけですけども、かつてスミスが緻密に自然の歌から、緻密に経済学的な範疇、あるいは、経済学的な概念をつくりあげていったっていうような過程っていうようなものをみることができません。
 つまり、そういう過程にある強固さとか、論理の積み重ねの緻密さとか、それはまずまずみることができないと思います。今はどうなってるのか、今をどうするのかとか、今の状態から経済学的な範疇をつくるとすればどうなるのかって、あるいは、それをどう思うかって問題だけではじまり、そして、それで終わらなければいけないっていうような、終わるほかないんだ。
つまり、そこでは、どんな物語も、ドラマも、もうつくることができないんだっていうような、そういうことに、現在の経済学的な考え方はなっていると思いますし、また、マルクスのドラマを継承しようとしている人たちは、マルクスのドラマってものが、どうして、どこで、区切ってしまったのか、つまり、どこで自然の歌を失ったってことの復讐を受けつつあるのかっていうことについて、もはや、あんまり考えることができなくなっているように思われます。
 だから、そこでは一種のドラマの中毒みたいなものが起こっている。自家中毒みたいなのが起こっていて、いつでも刷り込みっていうようなものばかりしていて、なんかどこか沈下してとかできなくなっちゃって、刷り込みばっかりだって、刷り込みの循環ばっかりしているようなことになっていると思います。そこらへんのところで、マルクスの描いたドラマっていうものが、いちばん大きな問題にさらされているんだっていうふうに思われます。
 このスミスとか、リカードとか、マルクスとかっていう人たちは、古典派経済学っていうふうに言われる範疇にあると思います。ところで、古典派経済学っていう範疇にあるのが唯一の範疇ではないので、様々なかたちの経済学的な主張、あるいは、学説っていうのはあるわけですけども、ぼくは、スミスとリカードとマルクスの三者の三角形の間でつくりあげていく、歌と物語とドラマと、それから歌の喪失と、そして、ドラマの運命と、つまり、ドラマが歌を失ったことからなにを受けているのかっていうようなことを、思いめぐらすことが、いちばん、ぼくらみたいな素人っていいますか、それ以外の範囲にある者にとって、いちばん大きな刺激になる場所なんです。
 これはたぶん、みなさんの場合でも、たぶん、ここのところはいちばん刺激を受けるところでありますし、また、根底的な考え方、つまり、起源の、発生論的な考え方もありますし、物語もありますし、また、ドラマもありますから、ここからさまざま別の問題に引き出していくっていう場合の、素材といいましょうか、原料といいましょうか、そういうものとしても、いちばん実りのある、いちばん豊富なところで、ぼくが何度でも、やはり、自分もそうですけども、みなさんの方も何度でも、3つのところからなんでもいろんなことを汲み取って、自分の分野の事柄のところにいって、何かつくれないかっていうようなことを考えていかれたら、非常に実りが多いんじゃないかなって気がします。
 たとえば、文学をもとにして、文学をつくることもできますし、文学の歴史を確かめて、そして、文学の現状を見直すこともできるわけですけども、もうひとつのやり方は、全然それとは違うところにある根底的な考え方の原型があるとします。その原型っていうものを、ある自分なりの読み方をして、そこから、あることを汲み取っていくっていう、そういう考え方もまた、成り立ちうるわけです。
 ですから、ぼくが、自分の言語っていうものの考え方をつくりあげる場合に、やはり、そういうことをやって、やっぱりマルクスの『資本論』から、たくさんのことを得てきました。それで、これはぼくだけじゃなくて、もっと比べものにならない偉い人ですけども、優れた人たちも、ソシュールなんて人も、ぼくはマルクスの『資本論』からたくさんの言語学的な範疇っていうようなものをとってきていると思います。
 つまり、そこからヒントを得て、それを言語学の自分の考え方の循環に、それを使ってきたっていうふうに思っています。だから、それらの検討をなさる場合も、現代のこの言語学の検討をなされる場合も、それから、言語学そのものをどういうふうに考えていったらいいのかっていうようなことを検討される場合も、もちろん、言語学の著書によってもいいわけですけども、その著書による場合には、現代の言語っていうものは、具体的には民族語ですから、どうも民族語ですから、ソシュールの言語学も、どうしてもヨーロッパ語についてよく知っていないと、どうしてもうまくつかめないところがあるから、それと同じようにっていうようなことはありますから、そこにいきますと、経済学的な範疇ってものは、そういう意味合いの特殊性っていうのはございませんから、いわばもっと言語学っていうものの概念をつくりあげていく場合にも、あるいは、ドラマっていうものはどうしたらいい、どうやったらつくれるんだっていうふうに、あるいは、戯曲を書くにはどうしたらいいんだってことをつくりあげていく場合、あるいは、小説を書くにはどうしたらいいかってことをつくりあげていく場合にも、あるいは、歌っていうようなものは、だいたい、どういうふうにやったらいいんだ、つくったらいいんだ、詩はどういうふうにつくったらいいんだっていうことを考えていく場合でも、ここには概念が、民族語によって遮られるような概念が、経済学のなかにはありませんから、だから、ここからとっていかれると、類推していかれると、たくさんの得るところがあるんじゃないかっていうふうに考えます。
 ぼくは、自分の体験的なものから、それを言うことができますし、また、自分がこれからやろうとすることに対するヒントっていいますか、それこそ端を知ることがいえるんじゃないかって思います。だから、みなさんの方でも、ぼくはいちばんよくそう思ってるから、そこの、スミス、リカード、マルクスっていうようなとこの経済学的な範疇から、たくさんのことを得られると思いますから、どうかもし、今日お話ししたことを機縁に、なんかもう一回それをちょっと見てもみたいな気を起こされることがありましたら、そこいらへんのところで、どうかもう一度読んでみてくださると、ぼくはおすすめしたいと思います。簡単ですけども、時間がきたのでこれで終わらせます。(会場拍手)

 

 

 

 

テキスト化協力:ぱんつさま