1 農村との対立ではとらえられない都市

 今日は都市論ということなのですけれども、私はもう何年くらい前になるのでしょうか。都市という形の、『都市はなぜ都市であるか』いう僕にとっては正面きって都市について論じた唯一の文章なのですけれども、文章と幾らかのフィールドワーク。下町、?住んでいた谷中のかいわいのフィールドワークも兼ねて書いた文章があるのです。その文章を書きましたのが十何年前だと思うのですけれども、十何年間の間に東京という町も大変貌を遂げているわけです。
 その大変貌を遂げているので僕自身もそのとき持っていた自分の考え方、つまり都市についての考え方、あるいは東京についての考え方というものがそのときのままではどうしても通用しないのではないかというふうになっていると思います。変貌していくと思います。だから、その変貌の問題も踏まえまして、ごくかいつまんだお話をまずとにかくやってみたいと思います。
 本当にいいですか。立ったままで。座って、もしあれだったら。
 その都市というものを現在分類してしまいます。分類というのはおかしいですけれども、分けてしまいますと三つの分け方が出来ると思います。三つのタイプがあると思います。
 その一つのタイプは要するに近代以降の古い型の都市です。つまり言ってみれば古典的な都市といいましょうか。つまり農村に対立する意味での都市です。あるいは農業に対して、工業その他産業を中心にして集まってきた人たちの集まりが作った都市というものです。つまり農業と対立する意味での都市。あるいは農村に対立する意味での都市というものが一つ考えられるのです。これはいわば古典的な、あるいはオーソドックスな都市という概念になっています。
 ところで難しいのは、面倒くさいのは、そうではなくてそれ以降に生まれた新しいタイプの都市だというふうに思います。その新しいタイプのもう一つの都市は何かと言いますと、呼び方は様々でいいのですけれども、もはや農村と対立する意味での都市というようなところでは捕まえようがなくなっている。それは流動的でありますし、また本当は何がどうなっているのかよく分からない。それからもちろん農村との区別もよく分からない。大体農村というのが逆に言いますと都市とどういう区別になっているのかも分からない。
 つまり言ってみれば農村との対立でもって都市だという意味で都市というのは捕まえられなくなってしまった。そういう都市というものが一つ考えられます。多分、現代の東京というのは大部分がそういうものから成り立っているように思えます。つまりもはやここからここまでが下町で、ここからここまでが山の手。それでというような考え方も出来ませんし、もちろん埼玉県も群馬県も農村に比べて都市、東京というふうな意味でも東京の境界はどこにあるのか。臨界がどこにあるのか全く分からなくなってしまっているというような意味合いで本当はよく分からなくなってしまっている都市というものが、何とまとめていいのかよく分かりません。そういう流動的な都市というのが一つ考えられます。
 もう一つタイプを考えればこれは東京でも多分少ないわけです。日本全体を探しても少ないでしょうけれども、いわゆる流動的な都市というものだと思います。ある非常に大きな共同体という場合があります。大きな共同体を所定の敷地というところにガチャッと持って行きまして、そしてそこに人工的な都市を作ってしまうというようなそういう都市とか。もっと流動的な場合を考えれば、要するにトレーラーみたいなもの。あるいはそれに類したいつでも車について移動出来る、そういう住居がある場所に一固まりになって集落を作る。それで、それがある季節なり年月がたったり、あるいはある経済環境、社会環境が変わったために新しいところへ移動していってしまう。そういうつまり、一つの永続的な意味での都市という概念に当たらないというような都市というのが考えられます。
 これはちょっと日本だと最近大坂のほうに何か西武が「つかしん」という都市を作ったと僕は聞いているのですけれどもその実態を知りません。だから、東京ではあまりないのではないでしょうか。また、部分的にはそういうのはあります。また、夏になったり何かすると文字通りそういうふうに車で住居ごと移動してしまって、レジャーを楽しんでまたどこかに行ってしまう。また帰ってくることはあり得るわけですから、そういう小規模の移動都市というのは日本でも考えられているわけでしょうけれども、大きな意味では日本ではまだそれは全面的になっていないのではないか。しかし、これもやがてある意味では時間の問題で、そういう都市というものも考えに入れないといけないのではないかというようなことを考えますと、大体現在都市のタイプというものを考える場合に、その三つを考えれば大体その中のどこかにどの都市も入ってくるのではないかと考えます。

2 空から見た東京――イメージとしての都市

 この三つのタイプのうち現在のところ一番重要な意味を持つだろうと思われるのは、あるいは重要な意味をはらんでいると思われるのは、二番目に言いました何が何だか分からなくなってしまった。つまり、えたいの知れないように膨張し、農村と対立する意味での都市みたいな考えから、とてつもなくちょっとイメージが狂ってしまうといような二番目に申し上げましたその都市というのは、多分一番現在重要な意味を持つのではないかというふうに思われます。
 もちろん東京も多分その範疇に入っているわけで、東京という都市も、もはやえたいの知れなくなってどこまで膨張していくのか。どこが農村、あるいは近隣の都市、あるいは近隣の県とどこが国境になっているのかも全く分からない、一続きに広がってしまっているというのが多分東京という都市の本当の姿ではないかというふうに思います。東京の都市というものを含めて今申し上げました二番目の範囲にある都市についてもう少し突っ込んで申し上げたいと思います。
 これは東京をモデルにすれば一番いいわけなのです。それでこの東京をモデルにしてその問題を考えていく場合に、一番考えやすいのはどういうことかと言いますと、どういうふうにすれば考えやすいかといいますと、これは上から見てみる。上から見ている東京を見てみた場合にどういうふうになっているか。あるいはどういうふうに見えるか。どういうふうになっているかという問題をまず考えてみると一番考えやすいところでありますから、そういうところから考えてみます。また、そういうことの意義が何かということも申し上げてみたいと思います。
 上から見た場合の東京というものについて論じている人、あるいはやった人、あるいはことというのは二つありまして、一つは磯崎さん。磯崎新という建築家の人がいまして、この建築家の人がやはり上空から見た東京についていろいろなことを論じておられます。これが多分まとまったものとしては唯一のものなのではないかというふうに思われます。
 それから、もう一つあります。それは別に論ではないのですけれども、これは交通公社の出版局から出ている本なのでこれはいい本です。『空から見た東京』というものがあります。これが、もちろん全体を見られないので、例えば豊島区池袋目白付近というふうに上空から見た東京というのが各地域に分けて全般的に載せてあります。
 これを見ますと例えば皆さんの家が、おやじさんの家が東京にあるとすると、これ分かりますね。つまりこれは千六百メートルくらいの高度から見た垂直航空写真なのですけれども、これで見ますと例えば普通の民家で、あ、これはおれの家だというように分かるようになっています。
 これは大変珍しくて大変いい本だと思います。つまり僕が知っている限りは東京を上空から見て何か言っていたり、上空から観察したりというのはこの本とそれから磯崎さんの論議とその二つしかないのではないかと思われます。といっても僕は専門家ではないから、もっとたくさんあるのかもしれませんから、ぼくの見た範囲でということですから、範囲ではその二つすぐに見つかりました。
 それで、上から例えば都市を見るということはどういう意味を持つかということは申し上げたいと思います。それは、どなたも多分言っていないのでそれはどういうことを意味するかと言いますと、東京なら東京という都市をイメージとして見るということを意味していると思います。つまり、そこに住み、そこで生活し、そこで遊び、そこで働きという人の目から?というのは、空から見た限りでは全然隠れているわけです。つまり本当にリアルな生活をして、動いて、そして働いて、スポーツをして、遊戯をして、遊んでというようなそういう人たちの姿というのは上から見た限りでは全然見えないわけです。
 つまりこれは非常に重要なことであって、そうしますと上から見た都市。東京なら東京という都市の写真というのはつまりどういったらいいのでしょうか。イメージとしての東京といいましょうか。あるいは空虚としての東京といいましょうか。あるいは虚塔としての東京といいましょうか。実際にそこに働いて、そして住んで、笑い、そして恋愛し働きというようなそういうような人たちの有様が全然見えないわけです。しかしこれは紛れもなく東京の、上から見た東京という都市の姿であるということは間違いないわけです。ですから、上から見た東京、上から見た都市とは何かといいますと、イメージから見た東京、あるいはイメージから見た都市ということを意味します。

3 無限遠点から見た都市の究極のイメージ

 ところで、そのイメージから見た東京というのは、もちろん中から、つまり我々はこういう空間に住んでいて、あるいは現に生活していて、そこからだって東京というイメージは思い浮かべられるわけです。
 それと何が違うかといいますと、本当はもしも僕たちが、つまり東京なら東京という都市の訳の分からない中で何か笑ったり泣いたりしている。そういうところから思い浮かべられる東京というイメージ。それから上のほうからという場合に、この上のほうからというのはたかだか千メートルとか千五百メートルとかという航空機からとった上ですけれども、本当をいうと無限円というのが一番いいのです。無限円点から無限の宇宙のかなたから、の視点から見た東京というのがはっきり見えると仮定して見た東京というのと、それからその中に生きて、動いて、笑って、泣いてというふうに生活している個々の人間がイメージとして浮かべる東京というものとをいわば交差させたときに出来上がってくるイメージというものをもし十全な形で我々が思い浮かべることが出来るとすれば、それはいわば東京という都市なら都市の究極のイメージです。
 つまり東京という都市が究極にどうなっていくのか。あるいは究極にどういう感じになっていくのかというようなイメージを浮かび上がらせるには無限円点の上方から見た東京というもの。つまりその中の人影なんか誰も見えないとか、ここに生活のニュアンスは何も見えないというその無限円点から見られた東京というのと、それから、個々のその中に生きて、生活している人間が自分のイメージで思い浮かべた東京というようなものと、もし交錯させることが出来れば、それがいわば東京なら東京という都市の究極のイメージであるわけなのです。
 だから上から見る東京、上から見られた東京のイメージというものと、あるいはこの場合は航空写真ですけれども、これは非常に重要な意味を持つということが言えます。つまり都市の究極的なイメージを作る場合にどうしても一つは、やはり個々の人間が精一杯創造力を働かせ、あるいは知識、経験を働かせてイメージする以外にないわけですけれども、そういう意味で思い浮かべられた都市のイメージ。あるいは東京のイメージというものは究極のイメージではありません。
 究極のイメージというものを知るためには、作るためにはどうしても無限円点から見られた東京というそういうものと一種重ね合わせる。あるいは交錯させることが必要なわけです。つまりそういうふうにして交錯させられたイメージが、いわば東京というものについて思い浮かべられる我々の究極的なイメージだというふうに思われます。だから、そういう意味でこれはとてもいい本だと思います。

4 磯崎新の東京論

 それから磯崎さんが上空から見た東京をもとにして書かれた東京の特徴というのを述べておられますけれど、それも大変いい考察だと思います。ただ、この考察は磯崎さんは建築家ですから、あくまでもそういう観点を貫かれているので別にイメージとしてどうということの問題ではなく論じられております。しかし、東京のイメージというのはやはり専門家ですから、ものすごくよく捕まえておられます。
 磯崎さんの挙げられている上から見た東京のイメージというのは幾つかの特徴というのは挙げておられますから、それをちょっと挙げてみます。第一に、東京の町というのは中心があって、中心に例えば官庁の公共的な施設が、あるいは建物があって、そしてその周辺に民家があって、住宅地があってとかあるいはビル街があってというそういうイメージで上空から見るとすると、それは大変考え方が狂ってしまうというふうに、現在の東京というのは狂ってしまうというふうに言っておられます。
 第二に、中心街の例えば国会議事堂の付近でさえ、現代では絶えず道路工事とか建物の工事みたいなものが絶えず行われていて、つまり本来的にいえば官庁街のはっきりと出来上がってしまった町でいいはずなのですけれども、そうではなくて東京では官庁街といわれている公共施設が割に多く集まっている。そういうところでも常にいろいろな道路工事とか、地下鉄工事とか、建物の工事とか絶えず行われて、少しも公共的な地域というようなふうにどうしても見られなくなってしまっているといようなことを言っておられます。
 それと同じようにまたビル街、住宅街というものを含めて東京というものは何か絶えず工事なり何なりされていて、絶えず流動していて、固定的にこの地域はこうであって、この地域がこうであってというようなことを言うことが出来ないということを磯崎さんは言っておられます。
 もう一つはそれと同じことなのですけれども、もしある固まりというものを考えようとすると、例えば環状線の、つまり山手線の沿線の、例えば池袋とか新宿とか渋谷とかというような幾つかの地域を中心に何か盛りあがって町らしきものが形成されている。そしてそれらがお互いにそのほうが重なり合っているというようなことが、わずかに何といいますか。特徴として言えそうな気がするけれども、どこかに例えば中心があってそこを中心にして町が出来上がっていくようなことは全く考えらない。
 東京の場合にはほとんどのっぺらぼうに近い形で、町はのっぺらぼうみたいにどんどん広がっていくという感じで、わずかにいくつかの盛り場、つまり環状線に沿った盛り場というようなものが、やや盛り上がった分散された多中心といいますか。いくつかの中心点の一つみたいなことになっていそうに見えるというようなことを磯崎さんは言っておられます。
 もう一つ、特徴的なことを挙げるとすれば、要するに磯崎さんは消えてしまった町。消えてしまった都市みたいな言い方をしているわけですけれども、つまり、もう東京の町は道路が通っていて、そしてその道路沿いにこういう建物があってというようなことなども考えられなくなってしまって、つまり、下から見ると、地上から見るとそうじゃないのですけれども、上から見たら道路の上まで何かがもやもやと全部覆いかぶさってしまっているそういうふうな東京。そういうものになってしまってつまり東京ということ自体が隠れている。つまり消えてしまっているのだ。
 それで上から見たら訳が分からない。つまり点々とした建物がもう無限の広さみたいにダーッと広がっていて、道路は何かそれで覆い隠されてしまっているみたいになっていて、もはやその中に人が住んで、笑ったり、泣いたり、生活したり、働いたりしていることなど全部覆い尽くされてしまって全部消えてしまっている。
 だからえたいの知れないぼつぼつという点々と、筋みたいなものが何か縦横に、あるいはむちゃくちゃに走っている。ただそういう訳の分からない、消えてしまった都市といいましょうか。そういうようなものが東京の姿であって、これは世界で東京ほど極端なところというのはほとんどんないのだというようなことを磯崎さんは言っておられます。
 磯崎さんが、何十年か前には例えばロサンゼルスなんていうのは大体そういうような町だった。例えばロスアンゼルスという町で、もしある日突然自動車というもの、車です。自動車というものを人間が使わないことにしたとか、なくなってしまったとかいうことにしたら、ロスアンゼルスという町は廃墟と化してしまうというふうに完全にそういうふうに思われるというふうに磯崎さんがそういう例を挙げておられました。つまり、今や東京というのはロスアンゼルス以上に何かえたいの知れない町になってしまっている。それでえたいの知れない形でどんどんすそ野を広げる。近隣の都市というようなものとどこが境界かさっぱり分からない。
 また、近隣の農村というようなものと、どこが境界なのかさっぱり分からないというふうになっていて、それでまたこれがどこまで果てしなく続くのかそれも分からなくなっていている。こういう一種えたいの知れない町になってしまっている。あるいは都市になってしまっているというようなことを言っておられます。

5 灌漑用水と都市交通

 つまり東京はそうでもないのですけれども、ロスアンゼルスみたいな車がなくなってしまったら、その日からこれは都市ではなくて廃墟になってしまうのだというような言い方を磯崎さんがしておられますけれども、これは割合に農村というものと対比させてみるととても面白いことが分かるわけです。
 そういうアメリカならアメリカのある種の都市というもの。先ほど言いましたように第二類型。二番目に申し上げました都市の類型のところでは、車がなくなってしまったらすぐに廃墟になってしまうとしか思えないというふうに言っておられますけれども、例えばこれは農村といいますとあれなのです。
 つまり昔の農村で言いますと水です。あるいは灌漑用水なのですけれども、つまり農耕の用水なのですけれど、灌漑用水がなくなってしまえば農村というのはすぐに絶滅してしまうというようなのが農村の、あるいは農耕村落のあり方であったわけです。だから、農村における水というものに相当するのが、例えば第二類型の都市のつまり現在的な都市のいわば車に該当する。つまり交通に該当するというようなことが言えるわけです。
 例えばこれはアジア、オリエントでは特にそうなのですけれども、アジア、オリエントでは例えば昔、二千年くらい前に栄えた都市というのが現在では砂に埋もれてただ骨格だけしか残らないなんていうのは、オリエントとかアジアとかにあるわけです。そういうオリエントとかアジアとか、また第三世界とか、つまり廃虚となった都市という数千年前に栄えたのだけれど、廃墟となった都市というのがあるわけです。それはどうして廃墟になってしまったかというと水を管理する、あるいは水を灌漑の用水、あるいは工事をしつらえる政府といいましょうか。あるいは国王といいましょうか。国王というような者が、例えば他からの征服者に滅ばされてしまうとします。東洋では特にそうなのですけれども、つまり中央政府が水を管理するというのは東洋の国家の特徴なわけですけれども、そういう場合に東洋の国家というのはある国家が滅ぼされたりしてしまうと、水を管理する人がいなくなってしまって、そうすると今まで栄えてきた大きな都市というのが、たちまちのうちに廃墟になってしまうというようなのが東洋における都市とか農村とかというものの特徴であるわけなのです。
 だから、しばしばオリエントとかシルクロードとかというところに行きますと、昔の廃墟の跡が砂に埋もれてとかあるわけですけれども、そういうのはなぜこんなになってしまうのか。えたいが知れない、分からないわけですけれども、それは要するに水を管理する。灌漑用水を管理するものは要するに中央政府なのです。
 つまりアジア的な社会では割合孤立的社会、村落共同体を営むのが孤立的に営まれていて、孤立的に営まれた村落が相互に連絡して、連合してそれである連合体を作るというようなことをアジア的な社会は大昔ではしないわけです。
 だから自分たちが連合して灌漑用水をしつらえて農業を盛んにするみたいなことはやらないというのが東洋社会の特徴なので、灌漑用水とかそういうものをしつらえるのは中央政府の役割になるわけです。だから中央政府が滅ぼされたり、他の政府と換わってしまったりするとたちまちのうちに今まで栄えていた都市が滅んでしまうし、住民がそこから解散していってしまうというようなことがあるわけなのです。
 それがある意味で第二類型の都市の交通機関がただちに停止したらすぐに都市が滅びてしまうというような、そういうことというのはあり得るということは大変興味深いことです。つまり多くにおける農耕共同村落の灌漑用水に該当するものが、いわば交通のかなめである車だ、自動車だ、交通機関だということに当たっているということは大変興味深いことです。この交通機関のあり方自体がある種の都市の衰滅、あるいは合流に係っていくのだということは非常に興味深いことだと言えると思います。

6 一戸建て住宅と伝統的な町のつくられ方

 このようにいわば究極的なイメージを交えた情報からのイメージも交えた都市というものを、都市の構造というのを本当に捕まえていくために、どういうふうに類型を考えたらいいか。今、申し上げました通り、一つは情報から見た、つまり虚像の都市といいましょうか。その中にどんな人がいて、どういうやり方をして、生活をして、どういう働き方をしてとか、どういう遊び方をしてとか、そういうようなことと全然係りのないようなそういうところから見た都市というようなものを一つ考えていくことが重要な要因になると思います。
 そういうふうに考えていった場合には、例えば東京というのはもはや情報からもそうですけれども、全貌を捕まえるのは大変で、広さもそうですけれど、錯綜している複雑さもそうで、上から全貌を捕まえるということはほとんど困難になっています。例えばこの全貌を捕まえる方法というのはただ一つしかないわけで、それは例えばもちろん交通機関を使うということもそうですけれども通信機関を使う。例えば電話、テレビを使うとか。そういうような形で東京なら東京の都市の全貌をつかむという以外になく、それ以外のつかみ方だったらとてもつかめないというふうになっているということは上から見た、上からのイメージを交えた東京というのは、東京という都市なら都市というようなものを考える場合に言えることではないかと思います。
 つまりこの都市の捕まえ方というのを、全貌を捕まえることは困難であるけれども、ただ、いわゆる高度になった情報機関とか交通機関とかというものを使えば、これはある程度その場所にいながら全貌を捕まえることが出来るということが言えるのではないかと思います。
 それからもう一つは、もしかすると日本人の好みかもしれないのですけれども、いわゆる一戸建て住宅というのでしょうか。小さいけれども一戸建て住宅をどこまでも広げていくというような形の都市のかっこうが東京の場合には、特にきっと他の西欧の都市などに比べて大きく違ったイメージを与えるのではないかというふう思われます。
 僕もそうなのですけれども、何となくそういう思考があってしようがないのです。小さいけれども一戸建てみたいな考え方、あるいは感じ方というのがあって住居というもののイメージをマンションのイメージで作るのは大変難しいというようなことがある。これは割合に多数の人がそういうことがあるらしくて、東京も上空から見たら一戸建ての小さな、それこそ外人がいうウサギ小屋なのですけれども、ウサギ小屋みたいなものがどんどん広がっていて、近郊の都市と連結し、連結しながらまたどんどん広がっていて農村の真っただ中を侵食してといいましょうか。そういうところを侵食していくみたいな。そういうイメージを浮かべますと東京のすそ野のあり方、あるいは膨張の仕方というのが大変よくつかめるのではないかというふうに思われます。
 いわば上空から見た、上から見たイメージとしての、つまり虚像としての東京というものと、その中に住んでいる人間から出来る限りイメージ出来る東京というようなものとを合わせたところで考えると、何かそこら辺のところが非常に特徴になってくるところ。
 それからもう一つは、もともと日本の、東洋のというふうに言うことは少し危険なわけで、そう言いたくないのですけれども、日本の町の特徴というのはどういうふうにできているかと言いますと、決して中央に官庁街とか皇居街とかいうのがあって、それで周辺をめぐって都市が広がっていくというようなふうには、町が広がっていくというふうにはならない。もっと言う場合に、日本の町の作られ方というのは要するにそういうのではなくて、割に?区域ですから、小さな盆地とか、小さな谷とか、山とかに区切られた地域、海岸とかに区切られた地域というのは多いですから、日本の場合には、大体ある所定の方角にある非常に目印になる山なら山というのがあります。それを一種信仰の?なふうに考えまして、そのすそ野に町をどんどん作っていくのが一般的なあり方。
 そしてそのすそ野の一番いい場所といいますか。一番それに近い場所で全体の町を、村を展望出来るような場所に村なり町なり共同体なりのチーフの、つまり長の家がそこにあって、だんだんそれからすそ野のほうに向かって村なら村を開いていく。そういう開かれ方というのが、日本の古代的な村落の作られ方です。東京でもよくよく探っていきますと、多分分かりませんけれど、これは富士山とか東京で言えば富士山とか、筑波山とか、あるいは玉川の丘陵とかそういうようなものが多分非常にはっきりと見える山だったと思います。多分その山を目印にしてその山に真っすぐ通る道をまず作って、それに向かうようにして町を開いていくというような形。あるいは村を開いていくというような形をまずいっとう?ではとったのだろうと思われます。
 しかし、それはヨーロッパ的な都市の作り方というものと少し違うのだ。近代になってもやや作られ方が違ってくるために多分中央に強固な皇居街、官庁街があって、あるいは政府機関があって、そして町が広がっているみたいな作られ方は、少しはあってもあまりはっきりとはしないというのはそういうあれですし、また、どうしてもそんなにはっきりした区別を今でもつけられないというのも、これももしかすると単なる膨張係数の問題ではなく、我々の、言ってみれば東洋的な社会での町の作られ方、あるいは都市の作られ方の本当は基本的なパターンというものがそこに入っているのかもしれません。つまりそういうことはよくよく考えてみないとあまりはっきりしたことが言えないということがあると思います。

7 高島平と新宿――隣のない空虚と重層的な都市

 それから、もう一つ。それでは都市、東京なら東京についてのイメージのもう一の作り方というのはもちろん、個々のその中に住んで生活し、笑ったり泣いたりしているそういう個々の人間が作る、自分の行動できる範囲、あるいは経験した範囲から作る町のあるいは都市のイメージというのがあるわけです。
 そのイメージはあくまでも個人個人によって違いますし、また個人個人の好みによって偏差がありますし、また個人個人がどういうふうに、東京なら東京という町を考えているかによっても違うわけです。だから、そのイメージが個々の人によって違っていいわけですけれども、ただ、違っていいたくさんのイメージでもって自分自身が行動範囲と、それから生活と住まれ方とそういうもので作っていく東京という都市のイメージというものが作られると思います。
 これは、典型的に皆さん例えばそういうようなことにそういうイメージを持っておられるでしょうけれど、幾つかの典型を申し上げてみます。例えば一つは高島平みたいなところがあります。高島平みたいなところというのは、本当は一つの田んぼであったのが畑であったのか、森だったのか分かりませんけれども、とにかく人の住まっていない一つの大きな空間があったとしますと、そこのところにマンションとかアパートとかを?一戸建ての小さな住宅地とかそういうようなものを人工的に造ってしまったというようなものが高島平的な都市、東京のイメージだと思います。
 これはもし高島平に住んでおられる方がいて、住居のイメージを作られるとすれば、高島平の町で作るか、あるいは町に反発して作るか以外にないわけです。この町というのは自殺者というのがとても多いのだというふうによく言われていますけれども、それはなぜ自殺者が多いかということは、町の皆さんが行かれてここの自分の中に町のイメージを作ってみて、イメージでもって個々のマンションとか一戸建ての住宅地とか建売住宅とかそういうようなものの間の空間を自分のイメージで埋めてご覧になればすぐに死にたくなる。ちょっと死にたくなってしまうのですが。何となく分かるような気がすると思います。
 つまり一種の冷たい空虚と言いますか。何か根のない空虚と言いましょうか。あるいは隣のない空虚と言いましょうか。マンションの隣の部屋もあるわけですし、また隣の一戸建ての隣の家もあるわけですけれども、何となくその空間自体は隣は何をしている人か分からないとか、隣の人と顔を見たことがないというふうにしか感じられないイメージが空間を満たしているということが分かります。この都市はつまりロスアンゼルスに比べたら小さい町ですから、多分自転車だと思います。つまり自転車がなかったらこの町はちょっと壊れちゃうぜという感じがすると思います。
 つまり例えば歩いて買い物に行くとか、出て行くというのにはちょっと遠いのではないか。遠くてやりきれないのではないかというようなことがあって、それでは車があればいいじゃないか。車ではちょっと大げさすぎてというような感じがあって、そうするとやはり自転車がないとこの町はダメだという感じが何となく実感されます。
 つまり、例えば個々の人が思い浮かべる東京の町というようなイメージを考えてみますと、この高島平というところは、町のイメージは大変典型的な東京の町の一つを語り得ていると思います。
 それは浦安地区とか、行徳のあたりとかつまり人口埋立地のところに町を造ったり、そういうマンション街が造られているというようなそういう町でも同じような感じというのがあると思います。ですから、東京の町を考える場合に非常に典型的なイメージというのをこれは個々の人が思い浮かべられるイメージだと思います。
 それから、もう一つ。これはどこでも皆さんがすぐに体験出来るわけですけれども、例えばこれは新宿でも渋谷でも池袋でもいいのですけれども、飲み屋さんなら飲み屋さんみたいなところへ行きますと、一つのビルの中の何階かが一つの飲み屋さんだ。そういう飲み屋さんがたくさんあります。これは昔の掘っ立て小屋みたいなものに似ている。のれんを下ろしてそこが一軒ずつの小さな飲み屋さんだ。そこをはしごして歩いたというようなイメージがあるわけですけれども、多分そのイメージがちょっと少なくなってしまっていて、本当はビル街の中の一階にこういう飲み屋さんがあって、三階にはこういう飲み屋さんがあって、二階にこういう食べ物屋さんがあって、はしごをするのならエレベータではしごをする。そういう感覚になっていると思います。
 つまりもっとそれを極端な誇張した例で言います。例えば新宿なら新宿のすぐNTTビルのところに柿傳(かきでん)という日本料理屋さんがありますけれども、この柿傳が何階かに行きますと、かなり見事に作った茶室みたいな?しています。つまり割合古典的な茶室みたいなものが作られていたりします。だから、お茶室といって昔のいわゆる数寄屋造りのそういうところに部屋があって、そこが茶室になってそこでというような形で茶室というのを考えるとそれも勘が狂うのです。東京でまず貸してくれる茶室というようなものを考える場合、いろいろな古くからの公園の中の茶室とかいうのももちろんあるにはあるのですけれども、本当はそういうビルの中の建物の中に料理屋さんが開いている茶室があって、中に入ってみたらまったく古典的な茶室がちゃんとできているのだけれども、それはちょっと外へ出たらつまり超近代的な?がすぐに開けているというような感じになって、つまりこういうふうな形でいわば縦走しているというようなのが、東京の町の一つのまた大きな典型だというふうに思い浮かべることが出来ると思います。
 これは高島平とは非常に対照的な、非常に重層的になってしまった、既に重層的になった都市のイメージ、東京のイメージなのでこのイメージはやはり忘れることは出来ないというふうに思います。

8 東京の変貌――大友克洋、諏訪優、荒川洋治の作品から  

 これは例えば大友克洋という漫画家、劇画家がいます。大友克洋の劇画があって、『ハイウェイスター』という初期の非常にいい劇画の世界があるわけでして、例えばここでの大友克洋の都市のイメージというのはどこで作られているか。例えばサラ金で金を借りて、一戸建ての建売住宅を買った。その夫婦と子どもがいて、そのサラ金の取立てで返せなくなってしまって、その夫婦が心中、夜逃げして死んでしまおうというふうにして、死にに行くという例えば『ハイウェイスター』の中に「家族」という漫画があります。
 サラ金に金を借りて建売住宅を借りてというような、それでそれが払えなくなってというようなものが、例えば十年前なら前の、例えば大友克洋が描いた都市のイメージだとすれば、例えば去年なら去年の『童夢』なら『童夢』という漫画の世界というようなのは高層マンションというようなものを、例えば上のほうから、あるいは斜め上から鳥瞰(ちょうかん)した一つの不気味な世界。不気味なそのマンションの世界というものがあってそこの中で高島平とちょうど同じですけれども、何かえたいの知れない自殺者が出てきて、というようなところで始まっていく劇画の世界なのです
 つまりこの十何年間の間に、例えば大友克洋が描いたそういう動画の世界、あるいは劇画の世界というようなものにおける都市というようなものの捕まえ方のこしらえ方というのは、正に今、言いました重層的な東京という都市の世界のあり方の違い方という?の仕方というようなものをよく象徴していると思います。
 これは僕らのやっている詩の世界みたいなものでも言えるわけで、例えば諏訪優という詩人がいて、その諏訪さんが『谷中草紙』という谷中地区を描いた詩の世界というのを非常に強固な世界として描いているわけです。
 この世界は一種僕らが十数年前に谷中地区で「都市はなぜ都市であるか」という論文を書いたときの谷中地区のイメージと割合よく似ていて、一種回顧的でもあるし、動画的でもあるし、一種の懐かしさのイメージである。下町情緒を懐かしむイメージみたいなものも混じっている。そういう世界で強固に作られた詩の世界ですけれども、この諏訪さんの詩も、『谷中草紙』の詩の世界というようなものと、それから例えば若い詩人で荒川洋治なら荒川洋治という詩人がいるわけです。荒川洋治の、例えば去年出たのですけれども、『倫理社会は夢の色』という詩集があります。こういう詩集の中にある詩の世界が描いている都市というのが全く今の言葉でいうと一種ポストモダン、あるいはポストモダンなもう一つ壊れかかったというようなそういう詩の世界でもって都市の風俗といようなもの。あるいは情念というようなものが描かれています。
 ちょっと不気味ではありませんけれども、一種非常に乾いたある意味ではやりきれない。ニヒルであるし、ある意味では非常にたくさんの込められたイメージが重なりあっているというような感じの詩の世界ですけれども、つまり諏訪さんの詩の世界と例えば荒川洋治の『倫理社会は夢の色』というのは……
【テープ反転】
……詩の世界のイメージが、イメージの違いというようなものが東京の十何年の、あるいは二十年近くの間のものすごく著しい変貌の姿というようなものをよく表していると思います。時間があれば読んで差し上げてもいいのですけれども先へ行きたいと思います。
 つまり、これは幾つかの典型を挙げますと、個々の東京の住人、あるいは東京で生活の喜怒哀楽を送っているそういう人間が、自分の中で思い浮かべられる東京のイメージというものの特徴は幾つか挙げればその中に尽きるのではないかというふうに思われます。

9 『ブレードランナー』に描かれた境界がない奇妙な空間 

 もう一つ、空から見たと言いますか、つまり全くその中に生きている人間の生活がどうなっているかなんていうのは考えもしないような空から見たイメージで浮かべられる東京のイメージというようなものと、それから今言いましたように個々のその中に住んでいる喜怒哀楽を共にしている人間が、想像力で描ける東京のイメージというもののパターンというもの、両方とあまり関係ないのですけれども、どうしてももう一つだけ考えればいいし、また考えないとどうしても東京のイメージというようなものをつかめないのではないかという感じがするものがあります。
 これがちょっと難しいので、少しそういう例えば写真がないかとか写真家がいないか、何かないかと思って非常ににわか勉強ですけれども、盛んにめくってみたのですけれどもどうしてもそういうものがないのです。
 けれども、僕にはどうしてもこのイメージはちょっと特徴的、捕まえていないと東京というのは分からないのではないかというような、あるいは第二類型の都市というのは分からないのではないかというふうに思えて、どうしてもそれを何か言葉で言いたいわけですけれどもなかなか言えないのです。つまり、今言いましたどちらでもないのです。
 どちらでもないし、また両方が重なっているというのも言えそうな気がするのです。「ブレードランナー」という映画をご覧になった方は思い浮かべられるかと思うのですが、主人公がレプリカントというあやしい女で何か人造人間なのですけれども、それが東京ではないです。アメリカですけれども、都市に紛れ込んで逃げていくのを追いかけて殺してしまうという映画なのです。追いかけて逃げていくところもそうなのですけれども、追いかけていくところのイメージでビルの中なのですけれども、ビルの中でぼんやりしていてはっきりとあれはないのですけれども、ただこういうことだけは覚えている。つまり、スポーツ用品とかゴルフ用品みたいなものがたくさん並んでいる何階かのビルの中の一つのショッピングの部屋があって、そういうゴルフ用品とかスポーツ用品みたいなたくさんごたごたに並んでいて、その間をスルッと逃げていくのです。そのレプリカントが。それを追っかけていくのです。
 それで主人公がその間を追っかけて行って、すり抜けるとそこに別に区切りはないのですけれども、同じフロアでその向こうが違う何かの店になってしまっている。つまりこの間に境界があるのではないです。境界があるわけではなくて、もちろん仕切りがあるわけでも何でもなくて、そういうスポーツ用品みたいな店の間を、非常に複雑なごちゃごちゃした間をくぐり抜けてスルッといくと、同じフロアなのだけれど違う何か店になってしまっている。
 それをカメラの撮り方が一方の奥のほうから撮っているものだから、それが非常に重層的に撮れているわけなのです。僕が言いたいことは境界がどこにもないのだけれども、全然違う何か。その場合はショッピングの店なのですけれども、そういう違う何かが重なってしまっている。しかし、重なって同時に存在してしまっている。
しかしそこの間には境界が何もない。
 そういう一つの奇妙な空間なのです。それはもちろんその中に人がいなかったら意味がないわけなので人はいるわけなのです。つまり人がいるわけなのだけれども、人がその中で自由に通り抜けられるというような、そういうことで人がいることが必須条件なのだけれど、ただ単に人が何か町筋のイメージとか、そういうものとはまるで違います。
 また、上からはそれは絶対見えないわけです。つまり上からそれを見ることが出来ないわけです。つまり、上から見る都市といいましょうか。上から鳥の目で見る都市というものからは絶対にそれは見えない空間なわけなのです。
 さればといってそれがショッピングセンター、あるいは飲み屋さんが重なっていたとか、ビルの中に飲み屋さんがいっぱいあったとかそういうこととは違うので、ある何か人がいて、そして人が行動的に動き得る空間、あるいは通路があって、しかし、廊下側に通路とあまり境界線がなく、そこに自然に店の品物が並んでいるところがあって、そういう細いところをやたらにくぐり抜けていくとまた違う種類の店にまた境界がなく、そこに存在する。そういう間を何か人はそれをぬって歩くみたいな。それでそれ全体が一つのビルの中に入っているみたいな。そういうイメージなのです。そのイメージは、僕は東京という都市というようなものを内在的に考える場合、つまり上からの鳥瞰図ではなく、上からのイメージではなくて内在的に考える場合に、とても重要なイメージではないかというふうに思います。

10 都市はどこへ行くか

 そのように重層されたイメージというものを考えますと、何となく考えに入れますと、先ほどの個々の人間が思い浮かべられる都市のイメージ、東京のイメージというものと、それから、上からの鳥瞰図というようなあるいは上からのイメージ。つまり虚のイメージと考えられる東京あるいは都市というものと、それからいわば両者の間に挟まって何か境界がない重層的になって、しかし明らかにその中を人間がぬって歩いたり、歩いて通路になっていく。そういうような重なった、いわば無形のものが重なった空間というようなものを考えに入れますと、少なくともその三つの要素を特徴的に捕まえますと、多分東京という都市のイメージというようなものを思い浮かべることが出来るのではないかというふうに思われます。
 その都市がどこへ行くのだろうかということがとても重要なことのように思われます。どこへ行くのだろうかという場合に本当にはっきりしたイメージを思い浮かべる方法というのはちょっと考えにくいわけで、つまり先ほど言いましたように、東京というのは世界で僕はどこも行ったことがないのですけれども、多分世界で最も複雑怪奇な、最も発達した、ある意味ではもっとも複雑怪奇で分かりにくい。ある意味で最も興味深い。つまり迷路に満ちたと言いましょうか。迷路に満ちてどこまでも好奇心をたどってきて、どこまでも行けてしまうというようなそういう意味合いでいきますとこれほど興味深い町はないというようなそういう町で多分あるのだろうと思います。
 この町は基本的にどうやってできてしまったのだろうかというのを、いちいち考古学みたいにさかのぼっていって取り出していって、そしてまたそれを重ね合わせてみるということは大変難しいのではないかというふうに思います。したがってこれからどういうふうになっていくかということも大変つかみにくいのだというふうに思われて仕方がありません。
 ただ、今、現在考えてみますと東京というのは多分先ほど言いました第二の類型に属する全く現代的な世界都市の中で、現代的な最も複雑で、最も興味深くて、最もある意味でごちゃごちゃになったと言いますか。無秩序なと言いますか。そういう町であって、これの問題はこれがどこに行くのか。どういう形になるのかというようなことを追求していくことは単に都市論と言いますか。都市について関心がどうなるかということだけじゃなくて、大体日本の社会、あるいは日本の社会を底辺とする高度な資本主義社会というものがどこへ行くのだろうか。それから、高度な資本主義社会にもかかわらず都市というものの成り立ち自体からいうと、全く東洋的な都市の成り立ち方の起源を、そういう都市である要因をどこかに含んでいるわけで、これはどこへ行ってしまうのだということを示唆するという意味でもとても重要な問題のような気が致します。
 現在の世界都市の真ん中の周辺に終始住んでいて、一日の中の少なくとも何時間はそこのところをくぐり抜けなければ生活出来ないというような形で存在しているわけですから、この都市のあり方というものに対してはたくさんの興味を注いでみることがとても得るところが多いのではないかというふうに僕には思われます。
 そしてなかなかくみつくせない問題というようなものが第二類型である東京という都市の中にはあるのではないかというようなのは、今のところ僕が考えている東京という都市、あるいは第二類型の都市、あるいは第二類型で考えられる先進社会での都市というようなものの大きなあり方ではないかというふうに考えております。
 一通りこれで終わらせていただきます。