今日は「高次産業時代の構図」っていうテーマをいただきまして、だいたい、わたくしが考えるイメージのもっている構図を、まず申し上げまして、そして、何が問題点なのかってことと、もし、最後に時間があるならば、わたしだったら、いま、どういう立場をとるかっていうことを申し上げてみたいっていうふうに思います。
高次産業社会の時代っていうのに対して、みなさん、たいへん自分は満足しているって方もおられるでしょうし、不満があるって方もおられるわけだと思います。満足しているっていうことには、どういう意味があるのか、あるいは、意義があるのかっていうことがあると思います。それから、不満だっていうことは、どういうことなんだっていう、そういうことについても、きちっとイメージをつくっておいたほうがいいんじゃないかなって感じがします。それじゃ、不満っていうのは、どういうふうにすれば、除けるんだろうかとか、どういう不満を解消する方途っていいますか、道があるんだろうかみたいなことも、やっぱり、もし考えられるならば、考えたほうがいいんじゃないかっていうふうに思います。それから、また、考えられなかったらば、いやちょっと、いまのところ考えられないですよっていうふうに、高次産業時代っていうことに対する不満っていうのは、ちょっと、解消する方法っていうのは、考えられないですよっていうことでしたら、そういうことをはっきり煮詰めておいた方がよろしいんじゃないかっていうことだと思います。まだ、みなさんのほうで、そういうことは、あんまり関心がないので、消費税問題とか、お米の自由化とか、そういう問題のほうが関心があるんだっていうことがございましたら、また、時間がありましたら、そういうことについても、ぼくの考え方をお話ししてもいいんじゃないかっていうふうに思っております。
いずれにせよ、1時間半の時間をあたえられておりますので、その範囲内でやっていこうっていうふうに思います。時計がないんだけど、1時間半になったら、注意を喚起していただきたいんですが(会場笑)、ここにしゃべりやすいように、もろもろのデータっていうのと、それから、いろいろ考えたことを、ここに書いてあります。ほとんど、意匠と同時に、ぼくのあんちょこみたいなもんで、これ見なきゃしゃべれないっていうことでもあるわけです。
いちばん苦心しましたのは何かっていいますと、これなんです。この3つ正方形が、3つ重なっておりますけど、これが、現在の日本の高次産業社会のモデルなんですけど、これが、モデルとして、いちばん苦心したところです。だから、みなさんは、日本の高次産業社会の構図って言ったら、これを思い出してくださればいいって、思い出して、いろいろ考えてくだされば、よろしいのだろうというふうに思います。
ちょっと説明いたしますと、書いてございますけど、一番下の小さい正方形がございます。この小さい正方形は、第一次産業の人口構成の概略をとってあります。申し上げますけど、データはいろいろありますんで、どっからとったか云ってないですけど、だいたい60年から63年頃にとられたデータで、どこにでもある本から集めたもので、ちっとも、特別、ぼくが調べてあれしたってことは、あんまりないんです。どこにでもありますから、そういうふうにお考えください。
まず、第1次産業っていうのは、どういうことかっていいますと、ようするに、自然を相手にしている産業っていうことです。つまり、農業、それから、林業、漁業みたいなものを指して、第1次産業と言うわけですけども、それは、現在、全人口の9.3%、まあ10%とお考えください。10%を占めているわけで、あんまり本気にしないで、概算だと思ったほうがいいです。541万ってなってますけど、だいたい、そのくらいの人数です。だいたい10%です。現在の日本の産業社会では、10%です。
それの約3倍です、約3倍の33%、1933万人っていうのが、第2次産業、第2次産業っていうのはなにかっていいますと、だいたい製造業とか、建設業とかって、ものをつくる産業です。それは、33%です。それは、だいたい、農業、林業、つまり、第1次産業の3倍だっていうふうにお考えくだされば、だいたいあっていると思います。だいたいのイメージは浮かぶと思います。
それから、第3次産業っていうのは、サービス業とか、飲食業とか、小売業とか、いろいろありますけど、そういう類の産業を、第3次産業っていうふうにいうわけですけど、呼んでるわけですけど、それは、現在57.3%、約60%あります。また。この第2次産業の3倍ぐらいだっていうふうにお考えになればよろしいわけです。
このことは、わりあいに重要なことだと、ぼくは思っているわけです。つまり、どうしてかっていいますと、みなさんのほうは、そんなことないだろうと、みなさんはそうじゃないだろうと思いますけど、だいたい、これが逆だったら、つまり、農業とか、林業とか、漁業とかが、だいたい60%で、そのほかの産業、製造業がその次に大きくて、サービル業がちょっとだったっていうのは、だいたい、年代でいいますと、大正末期です、大正9年とか、10年とか、そういうときが、だいたい農業、林業のほうが60%ぐらいあって、それで、製造業はその次に大きくて、サービス業なんっていうのは、一番ちっちゃかったっていうのが、だいたい大正9年頃、50年か、60年前でしょうかね、そうすると、資本主義社会っていうののイメージっていうのは、だいたいみんな、そういうふうに思ってるんです。そういうイメージで思っている人が多いんです。だけど、そうじゃないってことを、よくよく頭に置いといたほうがいいと思います。それじゃないと、勘が狂っちゃうと思います。つまり、考えることが狂っちゃうと思います。
いまは、まったく逆で、頭と足のほうが逆であって、農業のほうが、わずか10%ぐらいです。ほんとは製造業がものすごい大きなウェートを占めるっていうイメージを、みなさんがお持ちかもしれないけど、そうじゃないです。製造業は2番目に、だいたい30%ぐらいなものです。サービス業なんて、あるかないかわかんないってみなさん思っているかもしれませんけど、それのほうが、すでに50%オーバーしているっていうことです。つまり、60%だっていう、こういうイメージなんです。
これが第3次産業、もちろん、第4次産業、第5次産業っていうふうに、どんどん第n次産業まであるわけです。あるわけっていいますか、いくわけです。4次産業はなにかっていうのくらいまでは云えると思います。つまり、それは、情報とか、文化とか、それから、教育とかも含めるかもしれないですけど、そういう産業っていうのが、たぶん、第4次産業として、この上に乗っかってくるだろうと思います。
現在の4次産業的なものは、そんなにパーセントとしては多くないかもしれないけど、いまのとおり、外挿していくっていいますか、未来を、このとおりいくに違いないって思えば、大正9年から考えて、どんどんどんどん、あれが逆転していって、農業が少なくなって、サービス業が多くなって、こういう逆転を考えると、あと50年経つと、今度は第4次産業っていうのが、一番大きなウェートになって出てくるかもしれません。つまり、それが、ほかのことは何も起こらなかったっていう時に、予測される高次産業社会のイメージです。日本の社会のそういうイメージだっていうふうにお考えくださればいいと思います。
そのところで、もうこれだけのイメージが3倍、3倍っていうふうに、3つ重なってますよっていうふうに、こういうイメージがみなさんの頭の中にあれば、応用はいくらでもきくわけで、そのイメージをいつでも思い浮かべられて、現在の社会の、すくなくとも、産業社会のイメージっていうのをつくっていかれるし、また、どういうふうに変わるかみたいなものを考えていかれれば、たぶん、わりあいに正確に、いろんなことが判断できるんじゃないかっていうふうに思われます。
だから、これでもう、ほんとはよろしいわけなんですけど、すこしだけ、具体的なことを申し上げてみたいと思います。これは人によって、なにを高次産業社会の、現在に対して、現在を象徴するものとして、なにをとってくるかってことは、人によって違うでしょうけど、ここでは、まず、ぼくの好みとか、関心とかに従って、3つばかり挙げてきました。もっと挙げることができますけど、まあこれだけ挙げればいいんじゃないかと思います。
まず、第一に雇用問題っていうことを、申し上げたいと思います。ぼくは、主婦の友社だから、きっと女性の、主婦のかたとか、働いてるかたとか、そういうのが多いんだろうなと思って、まず一番目にあれしたわけですけど、だいたい家庭の主婦の女の人と、婦人と、大なり小なり働いている、パートか、全面的に働いている婦人の数とは、現在、ほぼ同数です。だいたい1500万人くらいです。概算で、1500万人くらいで、家庭婦人と、どっか働き出ておられる婦人の数は、ほぼ同数だっていうのが、だいたい昭和60年から63年の間のデータです。いま、そういうふうになっております。それで、婦人の賃金の平均は、男性に比べて6割です。あんまり平等ではないです。6割くらいになっています。だけれども、数としては、たいへん多いわけで、また、女の人は家庭にこもるっていいますか、結婚したら家庭に入ってとかいうふうなイメージで、現在の日本の社会を考えると間違えちゃうわけで、やっぱり、同数になっていることを、働いて出ておられる人と、それから、家庭におられる人と、ほぼ同数になっているイメージが、ひとつ思い浮かべてくださったら、よろしいんじゃないかっていうふうに思います。
それから、2番目に、労働組合の組織率っていうのを挙げてきました。現在、労働組合の組織率っていうのは、全働いている人の3%以下です。つまり、労働組合問題っていうのは、だいたい、3%以下の人数の問題として、問題が出されているっていうのが現状です。これは、製造業が、膨大に、べらぼうに大きく膨張しつつあって、農村、それから、山林、漁業の社会、つまり、村落共同体っていうのを、どんどん侵食しつつあって、それで、製造業が猛烈に膨張してたって、マルクスなんか、初期の社会主義者が描いた、資本主義の興隆期のイメージっていうのになりますと、労働組合っていうのは、だいたい肉体を労しとして働いている人の大部分が労働組合に組織されていたっていう、そういうイメージになっていくわけですけど、現在の組織率は、だいたい3%以下だっていうふうになってます。
これは、ある意味で、当然なわけです。つまり、労働組合っていうのは、どこで、いちばん組織されうるかっていいますと、製造業、建設業とかっていう、その業種のところ、それから、日本でいうと、官公庁ですけど、つまり、官公庁みたいなものが中心でもって、労働組合っていうのはできるっていうのが、古典的な労働組合のイメージなんですけど、すでに、いま申し上げましたとおり、製造業、建設業、それから、国営なんとかみたいなのもそうかもしれないですけど、これの数が、だいたい3分の1になっちゃてるわけです。
だから、労働組合の組織率って、サービス業、飲食業、小売業のところで、労働組合の組織っていうのは、なかなかできないってことがあります。だから、こっちのほうが多くなっちゃう、社会が多くなっちゃってるわけですから、労働組合の組織率が3%以下になっちゃってるってことは、ある意味では、非常に当然だし、また、そのこと自体は、高次産業社会のイメージを、たいへんよくあらわしているってことを意味します。
だから、3%以上にしたいんだったらば、労働組合の幹部の人は、やっぱり考えないと、つまり、製造業がいっぱいだった時代のイメージでもって、労働組合とか、労働者っていうのを考えたら、ぜんぜん勘が狂ってしまうわけで、そういうことだと思います。だから、3%以下だってことは、ある意味では、たいへん象徴的なんで、現在の、日本の社会をたいへんよく象徴しているっていうふうにいえるわけだと思います。それから、別の意味では、もっと労働組合の組織率を増やすってことが課題ならば、いろんなことを考え直さないといけないだろうなっていうふうに思います。
それから、もうひとつ3番に、完全失業率が2.9%と、だいたい2%~3%の間っていうのが現状だと思います。ここ数年間の現状だと思います。それは、可もなく不可もなくってことだと思います。つまり、とくに失業率が多すぎるっていうわけでもないし、とくに少なすぎるっていうわけでもなく、ごく普通、平均的な数だっていうふうに思います。
これは、ぼくらが好んで挙げたわけで、みなさんが、別なインデックスっていいますか、指標を挙げて、現在の、日本の高次産業社会のイメージをつくられたらいいんじゃないかと思います。それから、もうひとつ、次に挙げてきましたのは、生活意識と生活程度っていうことです。現在、自分は中流だっていう意識をもっている人たちが75%、もうすこし多いかもしれません。75%~80%の人が、自分たちは、中流の生活意識と、生活状態は中流だと思ってる人が75%になってる、あるいは、80%近くになっています。内訳をいえば、自分は中の上だって思ってる人が、その中の31%、それから、中の下だと思ってる人が44%、合わせて中流意識といえば、75%の人が中流意識をもっています。もってるっていうデータがとれます。
中流意識っていうのは何かっていったら、ようするに、いろんな言い方ができるでしょうけども、自分の生活程度、それから、文化程度、それから、知識、教養、それから、娯楽、その他の程度は、だいたい社会の半ばぐらいを占めているんだという、特別じゃないけど、半ばぐらいを占めてると思っている人が、だいたい70%いるっていうことです。
そうすると、こういう人たちが、あと何をすればいいんですかっていうか、何を求めればいいんですか、上流になればいいんですか、上流って思ってる人は、だいたい3%います。それになればいいんですかっていうふうに、みなさんに聞いたとしたら、みなさんはそう思うのかなぁ、つまり、上流になりてえと思ってるか、そんなことは、べつになりたくねえと思ってるか、ぼくはすこぶる上流になりたがっていると思っているとは思わないんです。それは、確かになりたがっている人もいるでしょうけども、それほど切望してないんじゃないかっていうふうに、そういう人は、いったい何をしたらいいんだっていう、何を求めたらいいんだっていうふうに、みなさんもきっと思っているに違ぇねえっていうふうに、ぼくはそう思ってます。
つまり、それは、何したらいいんだ、何が問題なんだっていうことは、ものすごく重要な問題で、誰もそれに対して、ほんとうの回答を、ぼくに言わせれば、ほんとうの回答をあたえてくれた人は、誰もいないわけです。くれてる人もいないわけです。だから、ほんとうは何が問題なんだ。中流になっちゃってんだから、つまり、社会の半ばってところを、自分は占めていると思っている、文化的にも、いろんな意味でも、給料もそうだし、生活でも占めてると思ってる人は75%も、80%もいるんで、これ以上、何をすればいいんだっていうか、何が問題なんだっていうことは、みなさんがたいへん重要なことだっていうふうに思われます。
それはみなさんも考えておられるんじゃないかなと思うんです。つまり、それは何だっていう、どうすればいいんだ、それに対して、正当なる回答をあたえてくれる、すくなくとも、ぼくが見ているところでは、そんな人はひとりもいないです。みんな、先知主義っていうか、違うことを云ってるか、じゃなければ、そういう問題意識さえもっていないっていう、そういうことになっちゃってると思います。しかし、みなさんはそう思ってると、この中だって75%の人は、自分は中流だって思ってるわけですから、つまり、中流だってことは、あとやることあるかっていったら、上流になることだと思っているかもしれませんし、そう思っていないかもしれません。つまり、遊ぶ時間が多ければいいんだっていうのかもしれませんし、家庭の幸福がいいと思ってる人もいるかもしれない。とにかく、それがイメージだっていうことは、とても重要なことだと、ぼくは思います。
それから。もうひとつやってきましょうか、平均貯蓄額は、だいたい821万円っていうふうになってます。だから、みなさんはだいたい、人には言わないでしょうけど、だいたい貯金通帳みると821万円もっているわけです。つまり、821万円っていうのは、なにかっていいますと、みなさん、給料で1年分くらい、あるいは、もうすこしあるかもしれません。1年か、1年半分あると思います。いずれにせよ、1年か1年半ならば、遊んでたってっていいますか、ジタバタしなければ、とにかく食べていけるっていいましょうか、やっていけるっていう額をみなさんはもっていることを意味します。だから、これは、平均だから、おれはそんな持ってねえって、そう言うかもしれませんけど、それは、そういうものだっていうふうに思います(会場笑)。だから、そうだっていうことに、嘘偽りはないことだっていうふうに、ぼくは思います。だから、そういうデータが出ています。
それじゃあ、もうひとつ、ぼくは挙げておきますけど、人が挙げたデータですから、やった調査ですから、ぼくはただ、それをとってきているだけですから、充実感を感じるときは、どういうときだっていうデータをとったのがあります。第1は、家族のだんらんが第一、それから2番目は仕事に打ち込んだいるとき、それから3番目は、ゆったり休養しているとき、第4番目になるのは知人友人と会合したり、雑談しているときが、充実感をもつっていう、それから第5番目が、趣味やスポーツに熱中しているときが充実感をもっている。第6番目に、勉強や教養に身を入れているときが充実感をもつ、それから第7番目に、社会奉仕とか、社会活動をしているときには充実感をもつ、こういうデータが出ております。このデータもまた、たぶん、みなさんに、そういうアンケートをとったら、やっぱり、こういう順序になるんじゃないかっていうふうに、ぼくは思います。だから、これが、現在の社会でのみなさんのもっておられる充実感を感ずるときのイメージだってことになります。これは、ある意味では、ここで言いました、やることねえっていうことを、おのずからあらわしているものいるものでもありますし、また、別な意味からいえば、ようするにこれは、どんな時代が来ても、この順序になるんじゃないかなっていう、わりあいに普遍的なデータでもあるような気がします。
つまり、なにを云いたいかっていいますと、それは、ひとつは現在の社会のイメージとしてこうなんだと、つまり、ほかにやることねえんだってことで、充実感をもてることっていったら、こういうことなんだっていうことで、現在の、高次産業社会の時代の、社会のイメージっていうのを、象徴しているデータでもありますけど、別な意味でいえば、わりあい、人間の生活にとって普遍的な順序じゃないのかなっていう感じもします。その二重の意味があるような気がいたします。これが、だいたい、みなさんのように、都市に住んでおられる方の、現在の高次産業社会の時代におけるイメージだというふうになります。
もうひとつ、ついでですからっていいましょうか、すこし農村のことも、農業とか、つまり、第一次産業に従事している人たちのことも、もうすこし詳しく云ってみたいんです。農家のうち、専業農家っていうのが、だいたい4~5%です。つまり、自分は農業だけやっているっていうのは、全農家のうちの4ないし5%です。
それで、今度は第一種兼業農家っていうのがあるわけ、それから専業農家の戸数が14.8%っていうデータが出ています。それから、第一種の兼業農家っていうのが、同じくらいの数で、専業農家と同じくらいの戸数で、15.2%っていうふうになっております。
それから、第二種の兼業農家っていうのは、なにかっていいますと、ようするに、家の農家の主人がどこか勤めに出て、正規のサラリーマンとか、労働者とかいるわけですけど、正規の勤めをしているのが、第二種の兼業農家です。つまり、主要な働き手っていうのは、どっかに勤めちゃっている、完全に勤めちゃってるってこと、それから、第一種っていうのは、パートで勤めちゃっているってことです。それから、第二種っていうのは、完全に働き手っていうのが、どっかにお勤めに行っちゃってるっていう農家です。それが、第二種兼業農家です。それが69.9%の戸数です。つまり、70%です。
これも、みなさんがイメージ、農家っていうのは、みんなこういうふうに畑耕したり、田んぼをあれしたりってやってるんだってお考えになると、そればっかりやってるんだってお考えなイメージをもっていたら、ぜんぜん違いますから、もう、第二種兼業みたいな、つまり、その家の農家の主人が働きに行っちゃって、ちゃんとしたお勤めに行っちゃってるっていう農家のほうが多いわけです。70%がそうです。それで、ほんとに農業だけやってるっていうのが、もう少ないんです。戸数でいって14,5%です。それしかないんです。
このイメージも、とても大切だと思います。みんながみんな、農家っていったら、みんながみんな、農業ばっかりやっているところは、大多数だってイメージをおもちになっていたら、それは、まったく勘が狂いますから、そうじゃないですから、第二種兼業農家の人はもう、70%くらいになってるんだってことは、よくよく勘定に入れておかれたほうがよろしいんじゃないかっていうふうに思います。そうじゃないと、全部、判断の勘が狂っていくと思います。つまり、お米の自由化問題なんていうことが出てきた場合に、そういう問題が出てきた場合に、自分たちが兼業しちゃっているわけですから、70%、だから、冗談じゃないんですよ、つまり、自由化反対とか、賛成とかっていうのは、全農家の問題みたいに思ったら、全然それは違いますから、このイメージも、とても重要だと思います。つまり、ほんとうは、こういうイメージのギャップっていうのを申し上げられたら、もうそれでいいくらいだと思います。つまり、何もあと言うことないよっていうくらいなことだと思います。このイメージが狂っていると、全部、判断が狂ってしまいますから、この産業社会の問題でもそうなんです。農業っていうのが、製造業っていうのが、全産業人口の大部分を占めてるみたいなふうにお考えになっていたら、まるでイメージが狂ってしまいますから、つまり、そういう社会になっているってことだと思います。
それから、ついでに、農家と一般大衆でもいいですけど、一般所帯との、収入の比較をしてみますと、年収ですけど、60年度だったら、農家が576万だとして、一般大衆のほうは、都市とか、その周辺の労働者のことですけど、農家以外の働いている人のことで、それは449万円、つまり、概していえば、農家のほうが、収入は多いわけです。概していえば、多いっていうふうになっています。
もうひとつ、ついでに、こんなことは余計なことなんだけど、いま盛んに、あれだから、申し上げてみますと、ソ連、ロシアですね、ソ連の農業っていうのを、82年度のあれですけど、どうなってるか、ちょっと申し上げましょうか、コルホーズ、コルホーズっていうのは、協同組合経営ですけど、コルホーズが43.3%、これは耕地の面積の割合です。それから、ソルホーズっていうのは、国営農場です。これがだいたい50%、まあ半分ぐらいです。で、個人がすこしだけ、自分の土地をもって、所有して、耕していいってなってるわけですけど、それは2.9%です。
ところで、なにがペレストロイカかっていいますと、個人の副業です。たった2.9%の耕地しかもっていない、個人副業でやってる農家が、ソ連の全農業生産物に対して、だいたいジャガイモで63%っていうのは、個人経営の農業で作って、つまり、2.9%の土地でもって、ジャガイモは全生産の63%を出しているわけです。それから、野菜は32%を出しているわけです。肉は30%を出していますし、牛乳は27%出している。つまり、これはものすごい矛盾であるわけでしょ。これが、ようするに、いま、ソ連で問題になって、改革だっていっているのは、こういうことなわけです。
こういう阿呆なことはないわけです。ないけれども、そうなっちゃっているわけです。こんなことは、なにも名目上、固執することはないので、こんな馬鹿なことはやめたほうがいいってなってると思います。本音をいえば、やめたほうがいいよっていうふうになってると思います。なぜ、こういうふうになってるかっていうのを、もし、あれがあったら、申し上げてもいいですけど、そういうふうになっています。
だいたいこれが農業の、現在の高次産業社会における農業の現状です。これでも、みなさんに申し上げたいことは、たったひとつで、農業っていうのを、専業農家、つまり、農業ばっかりやってるところが、農家のうちの大部分を占めてるっていう、少なくとも過半数を占めていてっていうふうなイメージで、みなさんが農業の問題を考えられたら、それはまったく違ってしまうってことなんです。だから、そのことのイメージを申し上げられたら、まず、もう言うことないですよっていうくらい、言うことないと思います。そのイメージは、とても大切なことだっていうふうに思います。
そこで、第2番目の問題はどうなっているのかっていうことに入ってしたいっていうふうに思います。問題はどうなっているのかっていうことを、ちゃんと、そういうのをとったデータがありますから、そっから入っていきましょうか。ひとつ、一般の人たちが、日本の国の経済力っていうのを、どういうふうに評価しているか、それと自分の実生活の、生活実感とは、どう一致するか、どう食い違うかっていうことの、データをとったのがあります。
まず、国は、日本国は、高い経済力をもっているっていうふうに思っている人が81.6%です。つまり、日本国っていうのは、高い経済力をもっている、で、新聞なんかでもよくみますと、世界第2のGNPをもっているっていうふうに、ちゃんと出ていますから、アメリカに次ぐGNPをもっているって、新聞なんかで見たり、テレビでもよく言いますから、みなさん、だいたい高い経済力をもっているっていうふうに思っておられるわけです。そういう人が、81.6%です。それで、そうは思わないって人が12%、それから、わからないっていう人が6.3%です。
ところで、国民の生活が豊かになっている、つまり、自分の生活実感ですけど、豊かになっていると思っている人は、58.9%です。そうすると、このギャップは、だいたい22.7%あります。つまり、22.7%のギャップっていうのは、何を意味するかっていうと、ようするに、日本国は高い経済力をもっていると、すくなくとも、GNPでいえば、世界2番目の高い経済力をもっていると、それなのにもかかわらず、どうも生活実感からいうと、豊かになっている気が少しもしねえっていう、そういうふうに考える人がいるために、ようするに、この22.7%のギャップを生じているわけです。このギャップがまた、とても重要なことのように思います。
これは、さまざまな人が、さまざまな視点といいましょうか、場所から、分野から、なぜそうなのかっていうことを追及していると思います。たとえば、だれでもいいんです。経済の専門家っていうのはいるわけで、たとえば、大前さんでもいいです。大前研一さんなんかに言わせると、ようするに、日本国の経済力を支えているのは、少数の優秀な産業、少数の優等生産業があって、それが、日本の全GNPの相当な部分を支えているものだから、だから、国としては、平均すると高い経済力があるっていうデータが出ているけど、かなり多くの部分の産業は、それほどのGNP形成力っていうのはないんだっていう、だから、非常にとびぬけた優等生の企業の少数があって、それが、だいたい平均を高めちゃっているんだっていう云い方をしていると思います。
ぼくがとってきたデータがあるんですけど、そんなにたいへんなところからとってきたんじゃなくて、どうせ新聞かなにかからとってきたんですけど、たとえば、優秀産業っていうのを挙げまして、松下電器なら松下電器を挙げますと、だいたい、円高ドル安、輸出産業として考えた松下電器ですけども、それは、だいたい円高ドル安で、円が59円1ドルっていう割合まで、円高になっても、だいたい耐えられるっていうふうにデータが出ています。それから、京セラっていう会社があるでしょ。だいたい京セラだったら、80円1ドルくらいまで、円高ドル安になっても、なお、経営的にやっていける、つまり、利潤をあげられるっていう、それだけのたいへんな優等生です。それから、日立だったら、93円1ドルっていうところまで、円高ドル安になっても、なお、輸出産業として、利益を、利潤をあげうるっていうふうに、そういうデータが出ております。
つまり、この種の少数の優秀産業が、ようするに、日本の経済力が高いっていう評価に、たいへん多く寄与しているために、そうみえるんだ、だから、実際上、われわれの生活は、ほんとはそれほど豊かじゃないんだけど、つまり、日本国は富んでいるのに、ちっとも生活が豊かな実感が生じないっていうのは、そういうことなんだっていう説明の仕方がとても、ひとつ有力な説明の仕方だっていうふうに思います。
それから、ぼくは、もうひとつ考えたいことがあるわけです。それは何かっていいますと、速度だっていうふうに思うわけです。生産でも、消費でもいいんですけど、あるいは、流通でもいいんですけど、そういうものの回転していく、速度がきわめて速いってこと、そのために、いくら給料をもらって、その給料は、十分生活に耐えるほど豊かで、つまり、中流意識をもてるほど豊かであると思える給料をもらってるにもかかわらず、たえず追っ立たてられているような感じっていうのがあって、ちっとも豊かな時間が得られないっていうのは、第一次産業でもないですけど、第二次産業、第三次産業のスピード、現在でいえば、第三次産業ですけど、第三次産業のスピードっていうものが、回転するスピードっていうものが、だいたいきわめて速いために、ちっとも、給料はたくさんあって、もらってて、十分その余暇とか、娯楽とか、遊びに耐えるんだけど、そういう時間がとれない、たえず追っ立たてられてるっていう、そういう実感が、どうしても伴うために、豊かだっていう感じがもてないっていう、それは、精神的な理由っていいますか、心理的な理由っていうのが、ひとつあると思います。
これもまた、とてもぼくは、高い経済力をもっているにもかかわらず、生活がちっとも豊かじゃないっていう、そういうギャップを生ずる大きな理由じゃないかっていうふうに思われます。そういう、とりあえず経済的理由と、心理的な、精神的な理由っていうのを、挙げとけばいいんじゃないかなっていうふうに思います。つまり、ギャップの説明としてはいいんじゃないかと思います。
われわれの生活のスピードっていいますか、時間は、何が占めるか、何に支配されるかっていいますと、いちばん常識的にいえば、サービス産業とか、製造業、建設業っていうもののうちの、たいへん大きなウェートを占めている産業における、たとえば、製品の回転の仕方とか、流通の回転の仕方っていうのが、だいたい全社会の時間っていうものを支配していると、だいたいそのスピードが支配的になって、われわれの時間間隔とか、そういうのを全部、右へならえみたいなふうにしていっているって考えるのが、いちばん常識的な考え方だと思います。
だから、少数だけれど、大きな影響力のあるサービス業とか、製造業とか、建設業とかで行われている商品の回転の仕方とか、製品の回転の仕方とか、それを流通している仕方とか、売れてる仕方とか、回収する仕方とか、そういうののスピードっていうものが、だいたい全社会の時間感覚と、それから、実際の時間っていうのを支配していると思います。それに、だんだん集約される傾向にあると思います。
おれは、そんなの集約されないっていう人もおられるでしょうけども、それは、たいへんいいことなわけで、自分が自分の時間をちゃんと確保して、自分のスピードでもって、生活ができるって人が、もし、多くいるってことになれば、それは、たいへんいいことなんですけど、たぶん大部分の人はそうじゃなくて、大きなサービス業とか、大きな製造業の回転の時間に支配されるので、8時半になったら起きて、遊びすぎて眠くても、駅かなんかの立ち食いのそばかなんかこう、かき込んで、会社行くみたいなことをやるみたいなふうになっちゃうんだと思います。そういうことっていうふうになって、その時間を支配しているのは、たぶん、大きな影響力のあるサービス業とか、製造業とか、そういうところの時間の回転の仕方が、われわれの生活時間の回転の仕方をだいたい支配しているっていうふうに考えれば、いちばん考えやすいんじゃないかっていうふうに思いますし、また、それがきわめて常識的な考え方じゃないかなっていうふうに、ぼくには思います。だから、そういうことが、生活が豊かじゃないっていう、豊かっていう感じがちっともしないっていう、そういう実感の原因につながっているんだっていうふうに思われるわけです。
そういうことと、だんだんデータをあれしていきますけど、つまり、問題点のデータを挙げていきますけど、次に言ってみたいことは、いわゆるエンゲル係数っていうものです。エンゲル係数っていうのは、全家計支出の中で、食品、あるいは、食料関係の占める割合っていうのを、エンゲル係数っていうふうに云っております。だから、エンゲル係数っていうのが50%以上、たとえば、さっきの大正9年っていうのはあれですけど、つまり、わりあいに大正の末から、昭和の初年っていいますか、前半のくらいのところまでは、たぶん、そうだったと思うんですけど、エンゲル係数が50%以上、つまり、全家計支出の中で、50%以上が食費にあてられているっていうふうな、そういう時代っていうのがあったわけで、また、あるわけで、そういう時代っていうのは、食うために働いているんだっていう言い方っていうのがありますけど、つまり、食うために働いているっていうのは、なにかっていいますと、エンゲル係数が家計の50%以上を占めちゃっているっていう、そういう家庭経済の状態のときには、やっぱり人間は食うために働いているわけです。食う食料を確保するために働いていると言っていいわけです。
ところで、現在、エンゲル係数はどうなっているかっていいますと、データが出ているから申し上げますと、68年で35.5%です。それから、78年で30.2%です。それから88年、推測も含めますけど、25.5%です。それから、1995年っていうので、推定23.2%です。それから、紀元2000年、その時には21.9%、つまり、エンゲル係数っていうのは、減る傾向にあります。30%ないし20%ってことは、いずれも50%以下です。つまり、それをふつうの言い方でしますと、ようするに、自分たちは、食うために生きているんじゃねえってことを意味します。みなさんの方は、食うために生きているんじゃないってことを意味しています。つまり、食うためには30%支出すればいいので、あとの70%っていうのは、なにか食う以外のことに支出しておられるわけです。ですから、自分たちが、食うために生きているんじゃねえっていう、平均していいますと、食うために生きてるんじゃねえっていう状態に、平均の生活状態があるってことも、とても、ぼくはイメージとして重要だと思います。
もちろん、現在だって、みんな平均しているわけじゃないですから、75%の人は中流意識をもち、3%の人は上流意識をもってるかもしれないけど、あと15%の人はそうじゃないと、下流、下層意識をもっていることになります。下層意識をもっているってことは、もしかすると、いまでも、エンゲル係数が50%以上のところの人たちもまた、十何パーセントの割合でいるってことを意味すると思います。
もちろん、ひとさまざまでありますし、また、みなさんだって、ある月はエンゲル係数は30%ぐらいだったんだけど、ある月はなにかの、つまり、借金を払っちゃったために、どうも支出の50%以上になっちゃったっていうことは、みなさんは月々でまた、それは違うかもしれませんから、個々別々のイメージっていうのは、また別につくらないといけませんけども、平均イメージでいえば、食うために働くっていう、つまり、エンゲル係数が50%以上っていう時は過ぎてしまったってこと、平均していえば、だから、食うために働いているではないのであって、みなさんは、たぶん、ほかのことのために、それは何かわかりません、教育のためとか、受験勉強させるためとか、自動車買うためとか、娯楽教養のためとか、いろいろあるでしょうけれども、とにかく、家計の支出のうち、食料が占めているパーセントは、だいたい20ないし30%くらいに、平均してなっているっていう、このことも、とても重要なイメージのように、ぼくは思います。だから、そこの問題も、とてもよく考えていかないといけないっていうふうに、ぼくには思えます。
ところで、食うために働くのではないっていうことと、こちらの最初のイメージですけど、製造業よりも、サービス業のほうが多くなっちゃったんだってこととは、何か対応関係がありそうに思えるわけです。どういうことかっていいますと、たとえば、至近な例で、いちばんみなさんも覚えておられると思いますし、ぼくも新聞やテレビで見て覚えているんですけど、北海道かなんかで、世界のグルメ博覧会みたいなのをやったんだけど、あんまり人が入らないで、赤字になって、そういうことを計画したやつが悪いんだっていうことになって、知事からはじまって、みんな減棒になっちゃったっていう、減給になっちゃったっていう、何か月かの減給になっちゃったとかいう話が、つい何か月か前か、去年の終わりだったか忘れましたけど、そういうことがありました。
それはどうしてか、いろんな理由があるんでしょうけど、ぼくは、それはただ材料に使えば、この場の話の材料に使えば、ようするに、いくらうまいものが目の前にたくさん、世界のうまいものがここに並んでたって、だいたいお腹がいっぱいになったら食えないわけですよ。それから、お腹いっぱいになると、うまいものも、まずくなっちゃうんですよ。腹空いていると、まずいものも、結構うまいってことがあるわけですよ。だから、そんな博覧会やって、フランス料理のなんとかとか、世界中の料理のグルメを集めて、博覧会やって、これは人が入るかっていったら、それはもう、はじめっから無理な話なんで(会場笑)、冗談じゃないです、どんな好きなやつだって、3食ぐらい、3か国のあれぐらい食ったら、もうどうしようもないわけです。だから、世界中なんか集めて、どうしようもないわけです。第一そういうこと考えるやつがどうかしてるわけです(会場笑)。つまり、ほかの理由もあるんでしょうけど、ぼくなら考えません、そういう馬鹿なことは、そんなことはわかりきったことです。
つまり、それとおんなじことで、かって大正末から昭和の初めっていう戦争期にかけてですけど、製造業、鉄鋼業みたいなのも、軍艦つくる、戦車つくるのでっていうようなことで、鉄鋼業みたいなのは、おおいに盛んだったでしょ、製鉄業みたいなのは、そういう製造業、第二次産業っていうのは盛んだったわけです。
ところで、これもおんなじなんです。もし、鉄材とか、いまでいえば、人工樹脂のいろんな材料ですけど、そういうものは、ある一定限度まで、生産量がいってしまえば、それ以上はいらないわけです。あらゆる製造するものっていうのには、どっかに限度があるわけです。それ以上は、いくらつくってくれたっていりませんよっていう、使いようがないですよっていう限界っていうのがあると思います。
つまり、ものを生産するってことは、資本主義の興隆期には、それがいちばんの資本主義の財源でありますし、それのために、さんざん労働者っていうのは痛めつけられて、病気になっても働かせられてっていうようなことがあったんですけど、それは、資本主義の興隆期までのことであって、現在みたいに、資本主義の成熟期、爛熟期、それから、もしかすると、衰亡期かもしれませんけど、そういう時代になっていきますと、どんなに大規模な製品の製造をやろうとしたって、いらなければ使いようがないわけです。
それは、例を挙げますと、たとえば、手ぬぐいでもなんでもいいですけど、おれは手ぬぐいを1日に1本ずつ使うのであって、1本捨てるという人は、いくらなんでもいないわけです。強制されない限りはいないので、ある程度使って、古くなったら、また違う手ぬぐいを使うってことなんで、そういうことを考えますと、手ぬぐいの製造には限度があるわけです。つまり、手ぬぐいだけってことでいえば、それは限度があるわけです。いくら金でつくった手ぬぐいを使えって言われたってしょうがないわけで、やっぱり、布でつくった手ぬぐいがいるわけです。いくら贅沢をしてもいいって言われたって、これを1月に100本も使ってくれって言ったって、それは使うことができないわけです。それは、ひとつの例なんですけど、そういうふうにつくられたものっていうのは、かならず、それを消費するのに、かならず限度があるわけです。
ですから、製造業っていうのは、どっかまでいけば、かならず頭が打たれるわけです。つまり、それ以上つくっても、まったく無駄であるっていう、あるいは、つくったって意味がないんだっていう限度が、あらゆる製品について、かならずどっかにあるわけです。
もちろん、限度がないように見えるそのものは、どこへいくんでしょうかってことになるわけです。そこのところではじめて、第三次産業、つまり、サービス業とか、飲食業とか、小売業とかっていうのが多くなっていく理由があるわけです。根拠があるわけです。
その根拠っていうのは、すこし、食品なら食品の例で説明してみましょうか。たとえば、いま、食料を生産するっていうのは、このイメージでいいますと、農業です。林業はそれほどではないですけど、果樹園とかも含めれば、農業、林業、漁業っていうようなものが、食料を生産する第一次産業なわけです。もし、現在みたいな、農業を主として、頭打ちっていうよりも、衰退しつつある戸数は、だいたい1%~1.6%、3年に1%ないし1.6%、農家の戸数は減少しつつありますけど、そのように、減少する一方になっていく、それを成長率でいいますと、ゼロないしマイナスなんだ。つまり、食糧生産っていうことは、ゼロないしマイナスになっているっていうのが、現状だと思います。
ところで、これをなにか、魚でも果物でもいいんですけど、それを加工するっていうこと、加工食品をつくるってことは、これは第二次産業、つまり、製造業に類するものって考えていいと思います。そうすると、食糧生産っていうのは、衰退する一方だってなっているわけです。ところで、この食料を加工して、加工食品をつくるっていう産業、第二次産業です。これは、現在、2ないし3%の成長率をもっているってことになります。
今度はもうひとつあって、それじゃあ今度は、食品加工っていうのは、この程度だっていうなら、自分たちはサービス業、つまり第三次産業として、外食食堂っていうものを、あるいは、レストランでもいいですけど、そういうものを経営して、加工食品をそこで使うっていうようなやりかたをしたとします。これは、第三次産業、ここのところに入るわけです。そうすると、現在これは、たとえば、10%の成長率っていうのがあるっていうデータが出ております。
そうすると、製造業、製品には頭打ちがあって、どうしても限度があるんだ、つまり、エンゲル係数でいえば、もう50%割っちゃってるんだから、いくら食品を生産したって、食料を生産したって、そんなの食うやつがいねえじゃないかっていうことになるわけです。そしたらば、食糧生産っていうものは、第一次産業としては減る一方、いま現在そうですけど、減りつつあるわけです。あるいは、成長率がゼロなわけです。ところが、食品加工、つまり、第二次産業にすれば、同じ食品は、2ないし3%の成長率があると、それを第三次産業みたいに、レストランみたいなサービス業をあれしまして、加工された食品をそこで使用するみたいなことをやれば、10%の成長率があるっていう、これは、一例に過ぎませんけど、こういうことっていうのが、現在の問題なんです。製造業が製品の頭打ちをされたときに、どうなるんだっていうことなんです。そうしたらば、第三次産業ってことに移行する以外にないわけです。それが生き延びていくあれがないわけです。
現在すでに、全部の産業部門がそうではないですけど、ある種の産業部門では、もう製造業として、ものをつくるってことでは、頭打ちがきちゃった。つまり、限度がきちゃったと、これ以上つくっても意味はないっていうふうに、高次産業社会はなりつつあるっていうふうになっているわけです。そしたら、その産業はどうするんだろうか、それは、ぼくらには関係ないことで、経営者とか、資本家っていう人は、いっぱい考えるでしょうけど、原理的に方向だけは指摘することはできるので、理論的に簡単なわけで、そうしたらば、より高次産業に移転するっていいますか、高次産業に移るってこと以外に、生き延びることはないわけです。その必然的な集約っていうのが、現在、すでに60%近くになっちゃってるっていう意味になってきます。
そうすると、このことは何を意味するんだってことになります。もうすこしあるんです。つまり、第四次産業まで考えるとすれば、知識とか、文化の産業になるわけです。これはもう、食い物ではないわけです。食い物とか、形あるものではないわけなんです。ほんとは、ものではなくて、もちろん、教科書つくるとか、本つくるとかってことは、形があるんですけど、ほんとは中身を読むわけですから、中身としては、形あるものじゃないんです。そうすると、次にサービス業っていうのが、たとえば、もうこれ以上いくらサービスして、競争して、安くしたって、もうここが経営が成り立つ限度だよっていうところまで、サービス業が、あらゆる分野で発達してしまったら、そこは頭が打たれるわけです。そしたら、どこへいくんだって、それは、第四次産業にいくわけです。
四次産業とは何かっていったら、それは、ものから精神へっていいましょうか、目に見えるものから、目に見えないものの産業へっていうふうに移る以外に方法はないわけです。ですから、そうなっていくに違いないってことは、まず、間違いないってことだっていうふうに、原理的に思われます。
しかし、よくよくこういうことは、個々の産業家っていいましょうか、個々の資本家とか、経営者っていうのは、そういうことを一生懸命考えているでしょうけども、ぼくらはそういうことを考えないで済む立場にあるものですから、考えないですけど、ただ、原則として、理論的っていいますか、原則的にどうだっていうことを指摘することは、きわめて単純かつ明快かつ簡単なことなわけです。つまり、ぼくが言えるのはそれだけのことであって、また、それだけ言えば十分なわけだと、ぼくには思います。だいたいこっちが考えてやる必要もないわけですから、それはそれで十分だと、ただ原則的にいえば、いまみたいに頭打ちされたところから、目に見えない産業へ、目に見えないものを売るっていう産業へいくだろうっていうふうに理解することができるわけだと思います。
そうすると、そのことは何を意味するかっていいますと、この最初のイメージでいいますと、すでにサービス業、第三次産業とは何かってことになりますし、第四次産業とは何かってことにもなるわけですけれど、第三次産業、つまり、サービス業みたいなものっていうのは、なにを意味するかっていいますと、だいたいサービスみたいな、目に見えないものだっていうふうに言いたいところですけど、サービス業っていうのは、かならず、目に見えるもの、たとえば、食べ物なら食べ物とか、薬なら薬とか、お医者さんでいえば薬とか、学校でいえば学歴っていいましょうか、社会に出ていく手形みたいなものですけど、学歴とかなんかとくっついていますから、かならずしも、まるまる目に見えないものじゃないんだと思いますけど、自然を相手にした産業との脈絡をつけて、循環する通路をつくることっていうのが、ようするに、サービス業の本質なわけです。
第三次産業っていうのはなにか、あるいは、サービス業とか、代理業っていいましょうか、代行業っていいましょうか、そういうものの本質はなにかって云ったらば、自然を相手にしてつくられたものですね、いまの例でいえば食料なんですけど、食料みたいなものを、目に見えないところに近いところまで、連関させてしまうってことです。連関したものを関連付けてしまうってことが、そういうふうになっていることが、第三次産業であり、それがサービス業っていうものの本質であるように思います。
ほんとうは、ぼくはそういうことを、すごく考えたんです。つまり、サービス業っていうのは、60%以上になっちゃってる、あるいは、なっちゃうってことは、いったい何なんだってことを、ものすごく考えたんです。ぼくらは、学校出たときに、製造業っていうのは、戦争であれしたこともありますけど、まだ大部分なウェートを占めているみたいな時だったですから、そういう固定観念があるもんですから、だいたいサービス業のほうが多くなっちゃったっていうことは、どういうことなんだってことを、自分なりに全部考えたんです。
結局、ぼくなりの納得したっていいますか、わかったっていうふうに思えたことは、なにかっていいますと、サービス業っていうことは、一見すると、うまいこと言っちゃって、お客を集めてなんとかっていうふうに、表面的に見るとそう見えますけど、産業の本質としてみますと、第一次産業、つまり、自然を相手にする産業と、それから、精神を相手にする産業との連関をつけるっていうことです。それが、サービス業なんだっていうふうな結論に到達したんです。
そのところで、ぼくは、はじめて、自分を納得せしめたっていいますか、納得したように思っています。経済の専門家っていうのは、おまえが言っているようなことは、とうにわかってるんだっていうふうに言うかもしれないけど、ぼくは、そういう言い方を信じてないので、自分が考えたことを、ちょっといいだろうっていうふうに思ってるわけです(会場笑)。そういうことは、なかなか考えられないんだぜって思ってるわけです。だから、サービス業っていうのは、単に、なにかうまいことを言って、あっちより安く、うまいことを言って提供してっていう、それで金を集めるみたいなふうに、そういうふうなことで考えないで、本質的に何なんだって、やっぱり、第一次産業、つまり、自然を相手にする産業っていうものとの脈絡をつけるっていうこと、脈絡をどうつけるか、産業として、また、脈絡がついている産業っていうのを第三次産業だっていうふうに考えれば、これでいいんじゃないかっていうのが、とりあえずの、ぼくなんかの結論です。
ぼくは製造会社をやめた後に、サービス業っていう、ぼくの場合は、弁理士さんですけど、弁理士さんっていうのは、特許とか、そういうものの代行をするところですけど、特許の事務所ですけど、そういうところで、アルバイトの下役をやったことがあるんです。下請けっていいますか、下働きをしたことがあるんです。
あるから、サービス業っていうのは、わかるわけですけど、なにかっていったら、ぼくは、そのときやっぱり、製造業っていうのは、自分は学校で、そういう会社にいましたから、製造業っていうのしか、ぼくには産業の頭がないわけです。そういう特許事務所、つまり、弁理士さんみたいな代行業の、つまり、興業所有権っていいましょうか、特許の出願の代行をするわけです。代理をするわけですけど、それでお金をもらうわけですけど、ぼくが驚いたっていうのは、つまり、はじめて、そういう世界に遭遇したとき、こんなことをして人間っていうのは食えるのかっていうことにびっくりしたわけです。ぼくらはものをつくって、工場へ行って、物をつくってとか、技術的にどうつくればいいかっていうのを考えて、それをまたやってみてとか、そういうことばっかりやってたから、だいたいこういうことで、こっちとこっちとの、つまり、特許を出願する人と、それから、特許庁ですけど、許可する人の間に立って、いってみれば、代行してやって、鞘を取るってことになるわけですけど、こんなことをして食えるのかってことが、不思議でならなかったんです。
そのときの驚きっていうのは、いまでも覚えていますけど、それがいろいろあれにつながるわけですけど、ところが、だんだんあれしてみると、なるほどこれは、こういう産業っていうのは成り立つんだっていうことを、すこしやってきたら納得したわけで、どう納得したかっていうと、たとえば、特許の場合でいいますと、特許出願する人がいるわけです。そうすると、たいてい発明家です。自分が発明するわけです。なにかを発明するわけです。それでこれを特許出願したんだってやってくるわけです。話を聞いてあげるわけです。ぼくは、法律のことは知りませんけど、技術のことならわかりますから、聞いてあげるわけで、内容を聞くわけです。聞いてあれしますと、発明家っていうのは、第一次産業とおんなじなんです。
つまり、自分が、あるものを新しく改良したりなんかして発明しちゃったわけです。発明っていうのは、まったく新しい場合もありますし、いままでやられていたものを改良したんだっていうのもあります。そういう人なんです。だから、いってみれば、第一次産業なんです。これにたとえてみればです。そうすると、そういう人たちをよくあれするとわかるんですけど、あぁだめだって思うわけです。なにがだめかっていうと、個人の発明家として優秀な人っていうのはいるでしょう、そうすると、出願して、代理してあれすると、してやって、特許が取れる場合も、取れない場合も、もちろんあるわけで、それをやってやればいいわけだから、言うことはないんですけど、あまりに、発明家っていうのは、一種の勘と頭がはたらく人なんだけど、ようするに、まっしぐらって人が多いですから、ほかのことはわかんねぇわけです。考えもしないっていうわけ、そうすると、あなた、これは出願しねぇほうがいいっていうふうに、ときどきそういう人もいるわけです。
どうしてかっていうと、こんな出願して出して、特許出願のあれってことで、公表されて、特許おりるまで公表されるわけですけど、これを資力のある会社とか、製造業者の技術者が、これをみて、黙って取って、多少改良して、要件を変えて、先つくっちゃったら、こんなの終わりですよ、だから、こんなものは出願しないほうがいいです。出願するくらいなら、大きなところに行って、特許課っていうのはかならずありますから、そこへいって、これ買わないかって言って、売っちゃったほうがいいですよ。そうすると、いろいろ買い叩かれたりしますけど、ただ取られちゃうよりも、出願して公表されたって、ご本人のほうは嬉しがるかもしれないけど、そんなのはどうしようもないので、まねされて、ちょっとでも改良して、つくっちゃったりしたら、それまでなわけです。それに対して、今度は争うわけです。裁判争ったって、お金があるところといくら裁判やったって、続かないんです。個人の発明家がいくら頑張ったって、途中で手をあげる以外ないんです。だから、みすみす敗けるのはわかってるんです。だから、こんなものはやめちゃって、売り飛ばしちゃったほうがいいですよ、売っちゃったほうがいいですよ、それで、もちろん買い叩かれるでしょうけど、それでも、ただ取られるよりいいから、そうしたほうがいいですよって言っても、発明家っていうのは、なかなか納得しないんですよ(会場笑)。
それは、第一次産業とサービス業の違いなんです。サービス業っていうのは、そういう意味では、地味にずるいっていうか、なにもてめぇがつくったりするわけじゃないんだけど、ただ、こっちからこっちの橋渡しをしてやるだけで、食べてるわけです。ところが、そっちのほうが、ようするに、高次だっていうふうにいえる面があるわけです。それは、第一次産業、つまり、発明家なら発明家っていう人たちが、いかに良心的で、いかにいい人で、いかに頭が働く人で、わりあいにいいこと発明したっていっても、これをどうしたらいいんだっていう場合に、どうしようもないわけです。やれば、大きいところに取られてしまいますし、裁判すれば敗けるし、途中で資力がなくなっちゃう、それじゃあ、はじめっから、これは売っちゃったほうがいいっていう言い方が可能なときのほうが、得てして多いわけです。もちろん、そうじゃないときもありますけど、得てして多いわけで、そういう意味合いて、代理業の必然性っていうのがあるわけです。
いちばんいいのは、発明家にして、代理業的な知識もあり、興業所有権についての法律的知識もあり、また、これをどういうふうにもっていったらいいかってことのあれも働くっていう人が、もしいれば、いちばんいいわけでしょうけど、そんなことが分業上不可能だとすれば、やっぱり、そこのところで、代理業の必然性っていうのが出てくるわけで、そうすると、第一次産業とおんなじで、その人たちは、物をたしかにつくったり、なんかしたんだけど、取ったり、つくったりしたんだけど、それはだめなんだっていう、それは、どうしても高次産業社会では、どうしても代理業的なもの、サービス業的なもののほうがいいってことになってしまう。また、これが不可欠に必要だってことになってしまっているってことがありうるわけです。
このことが、やっぱり、サービス業産業の必然的に出てくる事由で、製造業をもとにして、産業っていうのを考えたら、間違えますよっていう段階になりましたよっていうことの、非常に大きな指標なような、つまり、インデックスなような気がします。つまり、その手のことは、レジャーとか、レクリエーションとか、学校文化産業とか、外食とか、家事を代行したりとか、保険とか、また、ビジネスを代行したり、ぼくらがやっていたのはそうですけど、ビジネスを代行したりっていうような、そういう産業が60%くらいを占めてしまう、つまり、過半数を占めてしまっている現在の段階の大きな理由なわけです。
つまり、製造業がどっかで頭打ちされる、また、製造業以前の人が、どっかで勘が狂っちゃうから、どうしても処理できないっていう問題が生じてきて、それで、必然的にサービス業のほうに入っていかざるをえない、産業社会としては、入っていかざるをえない。サービス業っていうのが、もっと頭打ちのところが出てきたとしたらば、それはたぶん、知識とか、文化っていうものの、目に見えないところの問題っていうのが、主たる産業の場面に出てくるってことになっていくように思われます。それが、およそ現在の状態を外挿していくっていいましょうか、未来へ外挿していった場合の、高次産業時代のイメージなわけなんです。
それならば、おまえは、黙ってたって次第に高次化していく、高次産業時代が続くであろう、そういうものに対して、おまえはどういう場所をもっているんだとか、どういう立場をもっているんだっていうことになっていくわけで、さきほど一等初めに言いましたように、高次産業時代っていうものに、あるいは、時代の社会に、時代層っていうもの、あるいは、そういう社会に対して、なんら不満がなくて、これはいいものだっていうふうに思っておられる方も、たくさんおられるわけです。つまり、個々の場面で、いろいろな不満はあっても、全体としては、これはいい、高次産業社会っていうのはいい社会だ。それで、生活も豊かになったし、いい社会だっていうふうに思っておられる方が、大多数だと思います。だいたい70%、80%の人は、おおよそのところで、そういうふうに思っておられると思います。つまり、多少の不満があっても、これはまあいい社会だっていうふうに思っておられる方が、それだけおられるわけです。
それにはどういう根拠があるのかっていうことがあるわけです。ひとつの根拠があると思います。そんなことには根拠はいらないんだと、自分はこれで結構満足しているからいい社会なんだって、これで、もちろん結構なわけなんですけど、あえて、なんかそういうのに根拠があるかっていうことを問うてみれば、ぼくは、2つぐらい根拠があると思います。
ひとつはなにかって云ったら、それは、高次化していくってことは、ある意味で、中核の中心の核のところでいえば、中核のところでいえば、それはたぶん、文明の歴史のある自然な移り行きにのっとってるってことが、ひとつあると思います。だから、これはいい社会といえばいい社会なんで、つまり、これでいいますと、大正9年なら9年で、農漁村っていうようなものが60%ぐらいで、製造業があと30%や40%を占めてたと、サービス業はちょっと10%ぐらいだったっていう、そういう逆さまの社会であったときには、やっぱり、エンゲル係数っていうのも、50%、60%ぐらいありまして、それじゃあ60%エンゲル係数があるってことは、やっぱり、食うために生きてたってことになります。それから、食えない人がやっぱりいたんだと、だから、そういう社会だったことを意味します。だから、それに比べれば、いまはたぶん、食うために働いているって人はいるんですけど、平均でいえば、50%以下のエンゲル係数になっちゃってる、そうだったら、それだけいいことじゃないかっていうふうに思われるわけで、ぼくも基本的にはそう思います。これいいじゃないですかっていうふうに思います。そこのところでは、そう思います。
それから、もうひとつあります。ぼくに言わせれば、もうひとつあります。これは農業を例にしましたけど、社会主義社会の代表的な国ですけど、ここよりもはるかに民衆は富んでいるし、はるかに合理的、合法的なことができてるわけです。50年か60年、半世紀競争してみたら、こっちのほうが、だめだったっていうふうな結果が出ていることがある。そうだったらば、これがいかにいろんな欠陥があっても、これをいいっていうよりしょうがないじゃないか、現状でいえば、こっちのほうがいいっていうふうに、満足するよりしょうがないじゃないかっていう観点はありうると思います。それは、たぶん70%を占めていると思います。75%を占めている人はそうだと思います。
これに対して、不満があるとすれば、どういう立場が可能なのかっていうことがあると思います。それには、もうすこし、問題がどうなっているか、もうすこし、みなさんの実感っていうものに、もうすこし近づくかたちで、なにが不満なんだ、つまり、この社会で満足だっていう人は、70%~80%いると、しかし、あと20%の、人って言わなくても、自分の中ででもいいんです。自分の中で70%は、この社会でいいと思ってるよと、しかし、どうも20%~30%は、どうも不満であるという、その不満っていうのは何なのかっていうことがあるわけで、それは、いくつか数えられると思います。いくつか、みなさんの実感のほうに即していえば、いくつか言えるっていうふうに思います。
さきほどは、時間っていうことで言いましたけど、これは産業社会って言ってもいいわけですけど、産業社会っていうのは、どう考えても、自分たちが自分たちの時間をもって、自分たちの好きなものを好きなだけ製造して、それを売って、好きなだけお金を儲けて、そして、自分の好きなことをするっていうのは、第一次産業時代の、そういう牧歌的に理想化すれば、そういうことっていうのは、まったくできなくなっているじゃないかと、少数のサービス業と、少数の大きな製造業との、それの時間とか、精神の販売とか、流通とか、そういうのに、やっぱり左右されて、生きてるので、なかなか、もし、レジャーをみつけて、自分なりの時間を持とうとすれば、よほど苦心して、かつ、自分の主体性を非常によく確立していないと、やっぱりゆったりして、自分なりの生活ができるっていうようなことっていうのは、なかなかむずかしくなっているっていうようなことがあります。つまり、産業が、大きな少数の産業に時間としてもそうだし、気分としてもそうだし、みんな支配されちゃっているってことは、どうしても、それは不満だと、それから抜けようと思えば、ぜんぜん違うところに、自分なりの場所を設定する以外に、どうしても、自分なりの楽しみとか、自分なりの求職とかっていうのは、得る手段っていうのはないと、もちろん、そうする以外にないっていうふうになってるってことは、どう考えたって不満だってことみたいなものもあると思います。さまざまな不満っていうものがあると思います。
しかし、慨していえば、現在出されている処方箋っていうのは、ようするに、牧歌的だと思います。ほんとはできもしないことを言ってるじゃないかっていうことになっているような気がします。いろんな処方箋を、いろんな人が出すんですけど、どうもそれは全部、言ってみるだけじゃないかっていう、それでまた、そんなこと言ってることだったら、べつに、大騒ぎしなくて、自分たちで、仲間だけでやれば、いくらでもできることじゃないか、ただ多少、会社なら会社っていうもの、つまり、産業社会の現場っていうものに対して、多少ごまかして、つまり、おれは、叔父さんが死んだとか、叔母さんが死んだから休ませてくれとか言って、すこし、ごまかして休暇を取る以外にないけども、なんかそういうふうにしてやれば、できないことはないっていう感じだと思います。
ことごとく、全社会的に、つまり、高次産業社会全体に対して、異議申し立てができるような現実性っていうもののある処方箋っていうのは、だれも出してない、出せないと思います。出せていないと思います。また、出してる人たちは、まだこういう時代の出し方しかしてないんです。結局、それもだめなんです。だめだとぼくは思います。つまり、ただの反動だっていうふうに思うんですけど、全社会的な意味合いで、全産業社会時代に対して、異議申し立てをするっていうのは、そういうだけの処方箋っていうのは、なかなか出せないわけなんです。
それで、おまえ出せるかっていうと、出せないから、とりあえず言ってみますけど、とりあえずは、「脱」だってこと、高次産業化っていうのは、その一方なわけですけど、それに対して、「脱」っていう立場を取ろうじゃないかっていうことが、それ以外にどうも、高次産業時代に対して、異議申し立てをするっていうことは、できそうもないような気がしております、現在の段階では、そう思ってます。だから、ぼくは、おまえはどうするんだっていったら、おれは「脱」だっていうふうに、「脱」っていう立場を取るっていうふうに、ぼくはそれが精一杯いえるところだっていうふうに思っております。それで、もっと景気がいいこと言う人とか、ユートピア的なことを言ってる人いるけど、そんなのは、ことごとくだめだっていうふうに思いますけど、ぼくは、これだぜっていうふうに思うわけですけど、思うから言うわけですけど、ぼくは「脱」だっていうふうに思っております。
それで、「脱」っていうのは何かっていうことなんです。それは、高次産業社会、及び、産業の高次化っていうことに対して、あるいは、高次産業社会に出てくる諸々の問題に対して、いってみれば、「メタ」の位置に立つっていうことなんです。「メタ」って、「脱」の一種なんですけど、「メタ」の位置っていうのは、たとえば、ここならここに、高次産業社会の問題があるんだと、つまり、全体を集約する問題があるんだと、これに対して、この中に、泥まみれ、血まみれ、肉まみれ、それで働いているっていうようなのが、みなさんの現状だし、ぼくの現状でもありますけど、そういうふうに支配されているんですけど、それに対して、自分の視点っていいますか、理念っていいますか、これに対して、斜め45度の、こういう場所からここに立つっていう、そういう理念っていうのをつくるっていうこと、つくれるかどうかっていうことだと思います。その理念のつくれるかどうかっていうことは、やっぱり、「脱」の一種だって思います。
つまり、高次化に対して、高次化を肯定するんじゃなくて、それに対して、とにかく「脱」の場所から、それを見れるか、つまり、高次化の産業社会っていうのを見ていけるか、あるいは、そこで出てくる様々な利点、弱点、含めまして、問題に対して、斜め上方からの、「メタ」の位置からそれを見るっていう視点を、自分がつくれるかどうかっていうことに関わってくるっていうふうに、ぼくには思います。それがひとつだと思います。
それから、もっと純粋な、理念とか、思想とかっていうことについて言うならば、ぼくらの言葉でいえば、「パラ」の位置なんですけど、これに対して、まったく上方からの、上からの、つまり、高次産業社会に対して、上からの視点でこれを見れるかっていう、つまり、上から見た視点で、ここに弱点があるとか、ここに利点があるとかっていうようなことについての見方っていうのを、上から、それを統括的に見れるかっていう、見る視点がつくれるかどうかっていうことが、とても重要なことのように思います。
つまり、それができなかったらば、ここまでいえば、ぼくの勝手な言い方になりますけど、高次産業社会に出てくる様々な問題に対して、全体的な異議申し立ては、まず、できないっていうふうにお考えになったほうがよろしいんじゃないでしょうか。つまり、どうしても、全体的な異議申し立てをしたいっていうことが、まず20%、自分の中にあるとしたらば、その20%はどうもおもしろくないって、どうして、このおもしろくなさっていうのは、なかなか解消しないっていうような気分が、もしお持ちでしたら、それはどうしたらいいんだ、少なくとも、ぼくは、こうしたらいいんだっていうふうに、究極的なことは指さすことはできませんけども、とりあえずは、ようするに「メタ」の位置とか、「パラ」の位置とかっていうふうに、自分が眺められるっていうような、そういうことができるかどうかっていうことを、そういう見方っていうのを自分が手に入れることができるかってことが、とりあえず、その20%の不満を解消するための第一歩としてっていうところまでは、なんとなく言えそうな気がしております。だから、そこの問題なような気がします。
これでもって、たとえば、高度産業社会で起こってる問題を、全部、眺め渡してご覧になれば、いろんなことが一様に、一様にでもないかもしれないけど、とてもよく、はっきりしてくることがあります。たとえば、さきほど、はじめに申し上げましたからあれですけど、消費税の問題っていうのは、高次産業社会のあれとして出てきています。そうすると、自民党は、消費税を強引にやって、4月から実施した。で、社会党、共産党をはじめとする野党っていうのは、ようするに、消費税を廃止しようっていうふうにあれして、選挙あるかないかとかっていうふうにやってるわけです。
ぼくの「メタ」ないしは「パラ」の位置からの判断を申し上げますと、現代の先進的な高次産業社会を下部構造としてもった国家っていうものが、国家を認める限りは、ようするにそれは、消費税に移行するっていうことは必然であって、それは方向として、いい方向です。つまり、これを見たらすぐにわかります。所得税っていう、源泉所得税っていう、たとえば、みなさんが製造会社に勤めていれば、給料から、ここから差っ引くっていうことがされているわけでしょ、つまり、ここを主体にして、税制を考えていた時代っていうのは、終わっているわけです。少ないんです、いくらここで税金を取ろうったって、30%しかないわけですから、全体、だから、どうしても、高次産業社会を下部構造に控えた国家っていうのは、もし、国家を認めるならば、つまり、社会主義国家とか、資本主義国家とかっていうのが、現在、世界にありますけど、この両方の国家を認めるっていうならば、みなさんが認めるっていうなら、やっぱり、消費税に移行するってことは、必然だと思います。つまり、もうすでに60%こっちのほうになってるわけだから、場面になってるわけだから、消費税になるのは必然だと思います。だから、そうすれば、消費税反対っていうのは、反動以外の何ものでもないってことになる(会場笑)。
ところで、もうひとつある、あなたがたが誤解されないように、つまり、見通しっていうものを誤解されないように申し上げますけど、だけれども、やがていつか、必ずそうだと思います。やがて、社会主義国家も、資本主義国家も解体していくっていう時代が来るわけで、来ると思います。また、解体させるでしょうし、解体していく時代が来ると思います。黙ってたって解体していく時代が来ると思います。そうしたらば、もちろん、税金をどうかするとか、税金を増やすとか、減らすとかってこと自体が問題にならなくなります。それはしかし、まだ夢のまた夢っていう段階の問題になります。
だから、少なくとも、国家を認めていて、そこのところで、70%は満足だっていう、まあまあいいんだこれでっていうふうに思ってる。あと、20%、30%、不満だっていうみなさんにとっていえば、ここが、税金の場面、国家財政の場面になるっていうこと自体は、たぶん、必然なんです。つまり、こっちのほうがいいに決まってるんです。だから、みなさんは、選挙目当てで、自民党はこれを見直しだって言ってる、それから、社共はもう、引っ込みがつかないですから、廃止だっていうふうに(会場笑)、こんなことは、どちらもだめだっていうことは、「脱」の立場からも、非常に明瞭なことなんです。どちらもだめです。だから、どういうのが、人間の高次産業化社会における、より高次化になっていく時を、下部構造にもった国家において、なにが必然なのかってことを、みなさん、自民党とか、社会党、共産党なんてのに煩わせられないで、みなさん自身の判断で、そういうことがわかっていかないといけないっていう課題をもっているわけです。
なんとなれば、みなさんは中流意識をもっているわけだから、つまり、自分は社会の半ばまで占めている、いってみれば、いろんな意味で社会の半ばまで占めている主人公だっていうふうに思っているわけだから、だから、主人公としての自負もありますし、主人公としての形式もなくちゃいけないわけで、つまり、自民党と、社会党が、選挙目当てに、なんかうまいこと言ったって、そんなのは、どこが嘘か、どこがほんとうかってことは、ちゃんと、みなさんが自分の判断で、それを持てなければいけない課題にならないわけです。それが「脱」だっていう問題だと思います。
こんなのは、非常に明瞭なことなわけです。労働者っていう組織は、3%以下ですけど、たとえば、3%、労働者でも組織があります。総評は解体して、連合にあれするとかっていうふうに、いまなっています。それじゃあ、総評の時代より、まだこれのほうがましかもしれないですけど、だけれども、ほんとうはそうじゃないんです。ほんとうは、労働組合の課題っていうのは、たったひとつ、「脱」です。
つまり、労働組合員であるものは、政党員たるべからず。政治政党に対するクローズドショップ制っていうのを、労働組合がとって、そういう労働組合ができるっていうのが、現在の労働組合の課題なわけです。だけど、みなさんが労働組合の現状っていうのを見てみれば、幹部が言っていることを見てみれば、総評のやつから、日教組のやつから、連合のやつまでみんな含めて、言ってることをよく聞いてごらんなさい。なんにも形式なんかないんです。もちろん、労働者としての自覚もないのです。何をしたらいいのか、どういう労働組合をつくったらいいのか、政党引き回しの組合からそうじゃない組合へ、それは、非常に明瞭なことなんです。つまり、自分が主人公だっていうところにいくことが、課題なわけです。だから、そんなことは明瞭なわけです。
だから、みなさん、「脱」なんていうと、こんな夢みたいなこと言うなっておっしゃるけど、これは、現実問題に、ただちに適用することができます。それが、いかに、「脱」っていう立場でも、こういうことを言っただけでも、いまやられていること、いま行われていること、いかに違うかっていうこと、そんなのはすぐにわかります。それは、ぼくはそうだけども、みなさんは、自分たち自身で、それを、そういう見方を、それぞれに獲得していかないといけないっていう課題が、ぼくはあると思います。つまり、ぼくに言わせれば、それがいちばん、現在の緊急な課題だっていうふうに、ぼくには思います。これは、ほかのことは、あんまり、緊急ではないと思います。全部そうだと思います。そういうことは、自分で判断できるようになったら、それは、万々歳なんです。みなさんが、「パラ」の位置っていうのをもし獲得して、理念として獲得して、それで、みなさんがひとりでに、ひとりでに下のほうに降りていくっていうことが可能だったら、もうそれは、それでもっていいわけです。それができれば、文句はもう何も言うことはないっていうことになるわけです。だから、そういう問題だと思います。それが、立場としての「脱」だと思います。ぼくだったら、そこまで、考えていくってことで、たぶん、あと20%の、現在の高次産業社会に対する不満っていうのをどっから解いていったらいいのかっていうことの、糸口っていうのは、そういうふうにつかめるんじゃないかっていうふうに思います。
たとえば、イリッチなんて人がいるでしょ、日本にも影響力ありますけど、エコノミストに影響力ありますけど、イリッチなんて人はいいこと言うんだけど、だめなんです。全部だめ、つまり、言ってみるだけです。うまいこと言ってるけど、ちっともおまえの言うことは、具体的に実現可能性っていうのはないじゃないかっていうこと、つまり、高次産業で、自分たちの小さなコミュニティとかなんとか、気分よく満たされて、気分よく生産して、気分よく消費して、そういうことっていうのは、そういう社会っていうのをつくるのが理想なんで、そういうところから異議申し立てしなきゃいけないなんていうことを言うんだけど、そんなことは、べつに言ってもらわなくてもいいわけです(会場笑)。意味がないことですから、やるんなら、てめえらがやればいいわけで、全社会的な意味があるなんていうふうに思わないで、自分たちのグループで、グループで休暇、余暇をつくったり、あれをしたりして、お金を集めたりして、そういうあれをつくれば、部分社会として、そういう共同体をつくればいいんだから、つくって、そこでやれば、製造も含めて、それから、第一次産業の、自然を相手にした産業っていうのやりながら、そういうのできるから、そんなの言わなくたってできるわけで、だけど、それは全社会的な意味があるみたいなことを言ったら、それはとんでもないことなわけなんです。そういうことを言うやつは、たくさんいるんだけど、全部だめだとぼくは思います。
やりたいと思うなら、つくれば、やればいいんですよ、部分社会でできるわけです。現に、うまくいっているかどうかは別として、そういう共同体をつくってやっているところも、つまり、山岸会みたいなところもあるわけで、そういうふうにやればいいんで、なにもそんなことが、全社会的な意義、あるいは、全体制的な意義があるみたいなことは言わなきゃいいと思います。言わなければ、それはそれだっていうふうに、ぼくは思いますけど、ぼくは、そういう問題だと思う。
で、全社会的な問題として、ぼくなんかが、かろうじて言えることは、いま申し上げましたように、立場としての「脱」っていうことのように思います。つまり、それ以上のことをぼくが言ったら、嘘になるような気がします。それから、それ以上のことをやれって言っても、嘘になるような気が、ぼくはします。だから、精一杯のところ、ぼくなんかが言えることは、そこいらへんのところに尽きるような気がします。
これから、もっと産業は高次化していきますと、どんどん息苦しさっていいますか、スピード感がどんどん多くなってきて、物質的な豊かさっていうのはあるでしょうけども、なんか息苦しさと、それから、しょっちゅうきりきり舞いしているみたいな、そういう生活の場っていうのが、そういうふうになっていくっていうのが、著しい現象として、これからも、まず、減っていく可能性がないような気がいたします。そこのところで、どういうふうに、それに対して対応していったらいいか、もちろん、自分が、せめて自分一人でもいいんですけど、自分一人でも、それができないなら、家族だけでも、会社なら会社、お勤めのところは多少ごまかしてもいいから、ちゃんと休暇を取って、ちゃんと休養して、ちゃんと栄養とってっていうようなもの、それで、自分勝手な時間のあれで、なんかやるっていう、そういう期間を、2週間でも、3週間でも、手に入れてやるっていう、まず、大勢の人、周りでできなければ、自分だけでもやる、自分ができなければ、家族だけでも、そういうふうにやっていくっていうようなことをやって、対応するより、もうくたびれちゃってしょうがないっていうふうになりそうな気がします。
ますますなりそうな気がしますから、そういうことをやっていくっていうこと、それは自分一人でもいいわけですし、また、家族だけでもいいわけですし、数家族でもいいわけですし、また、それは、自分の地域のみんなとっていうのでもいいわけですし、どんなかたちでもいいわけなんですけど、そういうふうに対応していくっていうことと、理念としては、そういうふうに対応すると、得てして、素朴自然主義者になっちゃうんです。第一次産業のところへ、自分の意識を逆戻りさせてしちゃうんです。
だけど、それはだめなんで、それを必然的に超えてきて、サービス業までいったわけだから、サービス業からこれを逆に見ていくっていうようなことができなければ、円環して見ていくことができなければ、ただ自然主義に退化していったってしょうがないわけです。だから、そういうことじゃないんで、そういう視点を獲得していくみたいなことが、ぼくなんかが、みなさんにおしゃべりして、唯一、もしかすると役に立つこと言ったかなっていうことっていうのは、そのくらいのような気がします。
あとは、ほんとうに、だれでも、どこにでも書いてあることを、ここに集約させたってだけで、取り立ててぼくがしゃべらなくても、経済学者だったら、もっとうまくやるべきかもしれませんし、ただ、ぼくは、なんかぼくなりのあれがあるとすれば、そういうことが、みなさんに最後に申し上げられるってことになっていくんだっていうふうに、つくづく思います。いちおう、これで終わらせていただきます。(会場拍手)
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