(※「□□□」は聞き取り不可能の箇所)
戦中からということに成りますから、10代の後半、20代の初めの頃からと言うことに成るから、もう40年か、そこら経つ訳です。それで、大変なことを言われましたけれども、自分も宮澤賢治と同じ様になれるし、同じ関心の持ち方というのが判る様に思うというふうに考えていたのは、10代の後半の時だけでして、宮澤賢治と違って、段々堕落していきまして、宮澤賢治が求めたことで何が自分に残っているかとよく考えたりするんですけれど、結局引っ掛かっているのは、宮澤賢治が『銀河鉄道の夜』の中で、登場人物のブルカイニロ博士というのに言わせている言葉なんですが、ほんとうの考えとうその考えというのを分けることが出来れば、そういう実験の方法さえ決まっていけば、宗教と科学は同じに成るんだという言い方をしているところがあります。ほんとうの考えとうその考えをどういうふうに分けたらいいのか、どういうふうに分けられるのかとかいう問題というのは、かすかに僕の中に引っ掛かっていまして、それは宮澤賢治から僕は関心が離れないで来た理由だっていうふうに思います。僕は割合初期の、戦争中から戦争(終結)直後―学生の時ですけれども―かけて割合初期の宮澤賢治の研究家なんです、僕は。その後怠けまして、時々お喋りで言及することはあったのですけれども、辛うじて何となく自分の関心の総まとめみたいなことで、今年『宮澤賢治』という本を出したと言うことなんです。その中には40年間見え隠れしてきた宮澤賢治に対する関心と、関心の場所はどこに在るかということと、それに対して自分はどう考えているかみたいなことは、一応全部投げ込む様にして、自分なりの纏まりは付けたと言う所で、今日こういうお話しをするというテーマを与えられた、その為だって言うふうに思っています(?)。それについて、それから後、自分が勉強しましたことについて、お話しできたらというふうに思う訳です。
宮澤賢治―どこでどういう持ち方をするかっていうことは、人それぞれであるし、また非常に多角的な人ですから、いろんな関心の持ち方に耐える人だっていうふうに思います。童話作家として、詩人としての宮澤賢治というふうに考えれば、別にそれは宗教と関係なしに文学・芸術作品として、それを論ずることが出来ますし、また宗教作品として論ずることができますし、またそういうふうに読むことも出来る訳です。また、実際問題として宮澤賢治は大体17・8歳、旧制の中学校―盛岡中学ですけれども―旧制の中学校の高学年の時に初めて和漢対照の『妙法蓮華経』(?『漢和対照 妙法蓮華経』)というのを読みまして、もの凄く衝撃を受けている訳です。衝撃を受けて深い信仰―法華経信仰に深入りしていく訳です。最期には、死ぬ時には―確か人に伝えられていますけれど―臨終の床から起き上がって、「南無妙法蓮華経」というお題目を唱えて死んだというふうに言われています。その時に遺言があって、妙法蓮華経を千部刷って、それを知己の人・知り合いの人に分けて遣ってくれないかというふうに、父親に遺言して死んだって言われています。ですから生涯に亘って法華経の信者、或いは信仰者・行者と言いましょうか、行う人として終始したんだって思います。ですから宗教家としての宮澤賢治を見たいのならば、宗教家としての宮澤賢治というのを見ることが出来るというふうな、そういう人だと思います。宗教者としても見ることが出来る人だと思います。勿論、農民運動と言いましょうか、農村のユートピアみたいなものの構想を持って、それを周囲の農民の人に啓蒙しながら一生を終わった、そういう人として見ようと思うなら、そういうふうにも見ることが出来る訳です。だから非常に多角的でどう見ても、見られるという感じがする訳ですけれども、今日は宮澤賢治の文学と宗教ということの関わり合い、またその違いということで、宮澤賢治はどういうふうに考えていったかと言うことを中心にお話ししてみたいというふうに思います。
先ず、その宮澤賢治が生涯手放さなかった妙法蓮華経なんですけれども―法華経なんですけれども―法華経って、宗派でいえば日蓮宗ということに成ります。当時、宮澤賢治の青春時代でいえば日蓮宗の僧侶であって、大変宗門―日蓮宗自体を改革しようということで、社会的にも大変な活動をして、大変な布教をして人で田中智学という人がいる訳ですけれども―近代の日蓮宗の思想家ですけども―日蓮宗的思想家として言うならば、この田中智学と戦中戦後における創価学会の創始者である牧口さん(牧口常三郎)、この2人は日蓮宗の思想家として、それぞれ独自なものを持っていた人ではないかと思われます。宮澤賢治は田中智学の法華経を読んで衝撃を受けて信仰に入って行くんですけれども、その過程で田中智学の国柱会というのがある訳ですけれど、そこに入って布教をしながら童話作品を書いていくと言うことを、遣ろうというふうに考えていきます。そして、あるところから多分田中智学の考え方から離れていきまして、直接日蓮の妙法蓮華経に対する理解の仕方というものを自分の基本にしまして、考えを進めていったと思いますけれども、最期のところに成ってきますと、日蓮からもまた離れていきまして、直接自分と法華経というものとの対話を通じて、自分の考え方というものを突き詰めて行った人だと思います。どこが日蓮と離れるかというと、それはやっぱり科学だということだと思います。科学ということと宗教というのと、或いは科学と日蓮、妙法蓮華経でもいいんですけれども、日蓮の宗派でもいいんですけれども、それとは一般的にどこで結びつくのかという問題意識は、勿論日蓮にはあり得ない訳ですし、また田中智学にもなかった訳です。それは宮澤賢治だけしか、その関心の持ち方というのは出来なかった訳で、そこのところで突き詰めていったというのは、宮澤賢治が直に、自分の法華経理解を深めていったことを意味すると思います。ですから非常に独自な思想です。宗教家としてみても独自な人な訳です。で、皆さんは多分キリスト教についての情景(?)があられる訳でしょうから、それと対比する意味で妙法蓮華経と言いましょうか、法華経と言われていますけれども、法華経というのはどういう内容のものかということを大雑把に、一寸お話ししまして、宮澤賢治というのは法華経を(の?)どういうところを中心に読んだのだろうかということをお話ししてみたいと思います。
法華経を(の?)どういうところを眼目にして読むかということは、それぞれの法華経の行者・信仰者の個性とか資質とか、それから考え方とか(で)、それぞれ微妙に違う訳です。ですから、日蓮と勿論宮澤賢治とは違いますし、宮澤賢治と日本で文学者で法華経の信者・宗教家と言える程の造詣を持った信者というのは、岡本かの子という女流作家が大正末期から昭和にかけておりましたですけれども、岡本かの子と2人が宗教家として、優に□□□出来るだけの宗教的信仰心と造詣を持っていて、尚且つ文学の創作を遣った人だと思います。それぞれ皆法華経の読み方が違う訳です。仏教の大乗教と言われているものは全部そうなんですけれど、何を最終・最高の目的とするかというと、悟りを得ることだと思います。悟りを得ると言うことが最高の目的、そこにどうやって到達するかというのが目的な訳です。法華経というのはどういうことを言っているかというと、先ず、登場人物が出て来まして、法華経というのはあらゆるお経の中で最も優れたお経である。法華経に説かれていることこそがほんとうの最高の悟りに行く道であって、それ以前に説かれていたことは皆ほんとうは違う、全部間違いであるということを、先ず言っている訳です。宮澤賢治がよく「ほんとう」と言う言葉を使う訳ですけども、使っている訳ですけれども、その「ほんとう」という意味合いを、法華経もまた内容でもって主張しています。ほんとうの悟りへの道というのは何かといえば、この法華経に説かれていること自体がそうなんだということを先ず言っています。どこが違うのかということな訳ですけども、これは信仰のある人が法華経を読むのと、僕らが読むのとでは―僕らみたいな信仰の無い人が読むのとは―自ずから違う訳ですけれども、僕なりの解釈の仕方をしますと、どこが法華経の特徴に成るか。つまり、法華経がこれこそがほんとうの悟りへの道だ。今迄説かれているものは全部違うんだという言い方の、ほんとうという意味をどういうふうに理解できるかと言いますと、2つあると思います。
1つは今までの悟り、それまで説かれていた悟りというものは個々の人間・個人が修行を重ね、修練を重ね、力を尽くして、信仰して、そして自分が個人として完成した悟りに道へ行くというのが悟りだというふうに思われていた。ところがそれはそうじゃないんだということを初めて、法華経が主張していると思います。つまり、ほんとうの悟りというものは個々の人が自分で、自己完成していって悟りの道に行くと言うこととはまるで違うことなんであって、万人がどの様な境遇で、社会のどんな場所にいる人にとっても、万人が最高の悟りに行く道をつけられなければ、ほんとうの悟りではないということを先ず言っていると思います。今の言葉で言えば、一種の大衆化と言うことなんだと思うんです。つまり、自分自身が個人として完成した悟りに達するということは、ほんとうの悟りではないんだ。本当の悟りの一部分でもないんだ。それは悟りと思われたけど、それはそうではないんだ。万人がどんな場所に居る人からも、最高の悟りに行く通路というのがつけられる、見つけられてつけられるんだという道を創っていかなければ悟りじゃないんだということを、1つ言っていることが法華経の要旨だと思います。
もう1つあると思います。もう1つは何かと言いますと、悟りがない、ほんとうの悟りを持ってない人に対して、お前間違っているから、こういうふうにしなきゃ駄目だという様な言い方って言いますか、そういう道のつけ方は先ず駄目なんであって、要するに何だか判らないけれども万人が通れる道が、どんな境遇にいる人にとってもつけられていたというふうに、ひとりでにそう成っていたというふうに道がつけられなかったなら、ほんとうの悟りじゃないと言っています。その2つが法華経が主張しているほんとうの悟りだっていうふうに内容からみて―不信者の眼でみて―感じられるのはその2つだと思います。その2つが法華経の重要な要旨だと思いますし、また法華経がほんとうの悟りとは何かということについて言っている、「ほんとう」ということの意味はその2つに成ると思います。
で、そのことについて喩え話を出している訳ですね。これは新約聖書と同じで法華経も物語として読むならば比喩の物語だと思います。つまり喩え話で出来ている物語だというふうに思います。これも新約書もある意味でそうなんで、喩え話で出来ている物語だというふうにいえると同じ様に、この法華経も喩え話の物語だと思います。物語としてはそういう性格のものだっていうふうに理解することが出来ると思います。
で、ひとりでに道がついているというつけ方でなきゃあ駄目なんだと言ってることについても、喩え話はしてあります。
長者と火事の話なんですけれども、長者の家に子供が3人いまして、子供3人が遊びほうけていたんです。そうすると火事に成って、周り中に火がいっぱいに迫ってくる訳です。だけれど子供たちは夢中になっていて、全然火事の火が近づいていると言うことも全然知らないで、夢中になって遊びほうけている。それに対して長者が「炎が来たから危ないぞ」という言い方をしても、遊びに夢中になっている子供を振り向かせることは出来ないという訳です。それで自分が急いで炎を潜り抜けて、子供たちを1人ずつ炎から引っ張り出して来て助けるという遣り方をしても、3人が3人助けられるか、1人助けられて後の2人は炎に巻かれてしまうということになるかも知れない。1人助けられるかどうかも判らない。で、どうするんだという場合に、喩え話がしてありまして、予てから3人の子供は、1人は牛車が欲しいと言っていた、1人は鹿車が欲しいと言っていた、1人は羊車が欲しいと言っていたということを思い出しまして、向こうに牛車と鹿車と羊車をちゃんと持ってきたから、お前たちはそれで遊ばないかというふうに言う訳です。そうすると子供たちは予てから欲しいと思っていたものだから、行くということで喜んで炎を潜り抜けて、炎の外に出たという喩え話がしてある訳です。つまり、法華経の万人に対する、万人を最高の悟りにもって行く為の遣り方というのは、それなんだということを言っている訳なんです。
「お前、そんなことをしていて危ないぞ」とか、「いまに炎に巻かれて死んじゃうぞ」とか言う様なことも言わないし、また自分が急いで行ってご本人が了解するもしないもない、兎に角引っ担いで炎の外に連れ出しちゃうということもしない。唯欲しいと思っていた牛車と鹿車と羊車が外にあるから、それで遊ばないかというふうに言うことで、ひとりでに子供を炎の外へ救い出すということをしたという喩え話がしてある訳です。つまりその遣り方というのが出来なければ、最高の悟りだというふうには言えないんだということを言ってる訳です。
その場合に勿論、ほんとうに牛車がそこにあったか、鹿車があったかどうかということは、その後に論議してそれでもいいんだ。ほんとうは無かったとして、嘘をついた。嘘であってもいいんだということを、その後で結論づけてますけれども、兎に角嘘であるかほんとうであるかは兎も角として、炎の外に出したかった、そういう遣り方で無意識の内にと言いましょうか、何も意識しないで、ひとりでに道がついている、そういう道のつけられ方がしないんならば、それはほんとうの悟りじゃないんだ。万人をそういうふうに導けなかったなら、ほんとうの悟りじゃないんだというふうに、法華経は先ず主張しています。つまりその2点と言うことが、個の完成という意味合いでの悟りではないということと、今のどんなふうにしても意識させたなら駄目なんだ。つまり意識しないで行ける道というものを万人に対してとれなければ、それは悟りではないんだ、というその2つが多分法華経がこの中で説かれていることはほんとうなんだということも眼目に成っているんだろうなと、傍から読むと、信仰者でない眼で読みますとそういうふうに読めると思います。勿論宗教の書ですから、『聖書』と同じで、やがてこのお経を護持して信仰する人々は、必ず次にどういう国に生まれて如来と呼ばれる者に成るだろう。つまり未来に対する保証といいましょうか、宗教的保証みたいなものを主な弟子たちに対して遣っています。それも法華経の中に含まれています。そういうことも遣ってる訳です。
ところで法華経が、例えば日蓮なら日蓮が、その前なら最澄ですけれども。最澄を捉えた、どこが捉えたのかということに成って来る訳ですけれども、それは受難と言うこと。これは『聖書』と同じなんで。受難と言うことと護持と言いましょうか、護ることと言いましょうか、そのことについて極めてラジカルなことを言ってる訳です。どういうことかと言うと、後の世で法華の中の1つの言葉でもいいし、1つの偈の言葉でもいいのだけども、その偈の言葉を聴いた時に喜んで聴く耳を開くことが出来るならば、その人は必ず最高の悟りに達することが出来るということを段々中段、一番クライマックスに成っていきますと、そのことを断定的に断言しています、法華経自体は。このお経を1つの言葉でもいいから聴いて、聴く耳を開いて喜んでそれを聴くことが出来るならば、必ず最高の悟りに達することが出来るということを、この中で言い切っています。
それからもう1つ言っていることが、受難と言うことなんですけれども。それも極端なこと、際どいことを言い切っています。それは、この後世においてこのお経を護持する者は、必ず人から妬まれたり、恨まれたり誹謗されたり、もっと極端な場合には刀杖―刀と杖―という言葉を使っていますけれど、その為に処刑されたり、首を切られたりということがあり得ると。だけども逃げないで御教(?)を護持するならばやはり最高の悟りに行けるのだということを言い切っています。
宮澤賢治に段々近づいていく訳ですけれども、まず日蓮なんですけれど、日蓮はどこで法華経を読んだのか、どこを主体にして読んだのか、ということなんですけれど、受難と言うことを主体にして法華経を読む訳です。
で、これは法華経の十三章目に「勧持品」という「勧める」ということと手に「持つ」という「勧持品」というのがありまして、そこに書かれていることなんですけれども、日蓮は受難ということを中心に法華経を読む訳です。この経を護持し守る者は、必ず末世においては人から誹謗されたり、妬まれたり、讒言されたり、もっと酷い時には刀丈を加えられたり、そういうことがあり得るんだ。それでもこれを護持しなくてはいかんということが書かれている訳ですけれども、日蓮はそこで法華経、「勧持品」を中心にして法華経を読む訳ですけれども、どうしてそうかと言うと、日蓮自身は自分が体験上、確かにそういう目に遭っている訳なんです。そういう受難を受けている訳です。鎌倉幕府から捕らえられるということが何回かありますし、1度は龍ノ口(たつのくち)という所で斬首刑に処せられそうに成る訳です。偏に法華経を護持し布教した為に、自分はそういう目に遭ったという実感があるものですから、「勧持品」を中心にして、受難ということを中心にして法華経を読む訳です。
日蓮の自己主張というものを申し上げてみますと、法華経は、あらゆるお経の内で最上のものだ、法華経に書かれている内容と同じ様に読んだのは、日本では最澄・伝教大師ですけれども―天台宗の―伝教大師・最澄だけだということを言っている訳です。勿論中国の天台宗の始祖である智顗という人が居る訳ですけれども―天台大師といわれているんですけれども―この智顗と伝教大師だけが、法華経に書かれている内容と同じ様な意味合いで読んだのはこの2人だけなんだ。だけども、よくよく考えてみて自分は最澄や智顗に比べて、仏教について(の)知識とか修行とか、そういうのはこの2人に比べたら千万分の1にも及ばないのだけれども、唯「勧持品」を基にして、つまり受難と言うことを基にして法華経を読めたのは自分が唯1人なんで、これは最澄も智顗も読めなかったんだ。自分だけが受難ということを中心に、この「勧持品」というのを中心にして法華経を読めた人間なんだ。後の人は―日蓮は激しい人ですから―真言宗の空海から始まって浄土宗の法然とその弟子たちに至るまで全部くそみそに否定し批判する訳です。特にひどく批判したのは浄土宗で、法然とその門下というのに対してくそみそに批判している訳です。「こういう奴らは全部仏教の末世には必ず現れてくる禿人であり、僧侶だか在俗だか判らない様にして、戒律を守る訳でもなく修行する訳でもない奴で、唯念仏(を)唱えれば浄土へ行けるみたいなことを民衆に言いふらしている。こういうのはもう外道だ、外道でこんなのは末世に成ったらこういうのは必ず出てくる奴なんだ」という否定の仕方で、口を極めて否定している訳です。空海も弘法大師も勿論否定していますけれども。最澄だけな訳です。究極のところにおいてに受難ということを中心にして法華経を実感的に読めたのは自分だけなんだというふうに日蓮は言っています。もっと言いますと『新約聖書』の主人公と似ていることも言ってる訳です。「それなのに自分の受難のところに、いかなる救いらしき兆候も、よき兆候も出てこない。ますます苦しい目に遭うばかりだ。善なる神はこの国からもう去ってしまったのではないのだろうか。絶望的だ」ということ。丁度新約主人公と同じ様なことを日蓮もやっぱり言っています。それが日蓮の、法華経に対する読み方な訳です。
その読み方が多分逆に言いますと、日蓮宗を1つの宗派として、しかも相当激しい宗派として蘇生させたものだと思います。本当は日蓮宗というのは天台宗と同じな訳ですから、最澄と同じな訳ですから一種の復古主義と言いましょうか、復古主義的仏教の宗派な訳なんですけれども、他の鎌倉新仏教―道元にしろ、親鸞にしろ―鎌倉時代の新宗教の教祖達は皆国家がどうあるかということよりも、なによりも個人・人間の救済だ、万人の衆生の救済だ、或いは大衆の救済だというふうに考えたんですけれども、日蓮だけはそうじゃなくて、復古主義で、国家仏教としての面を決して―天台宗最澄と同じ様な面を―鎮護国家と言いましょうかね、国家を鎮めると言いましょうか、仏法を以て鎮めるという考え方を復古した人なんです。だから非常に特異な人なんですけども。
日蓮宗の信者で偉い人(は)幾人かいる訳ですけれども、宮澤賢治もそうなのかも知れませんし、政治家で言えば2・26事件を、思想家だった北一輝という人がいますけれども、これも激しい法華経の信者ですけれども、天下国家に対して一定の経綸を持っている。そういう人達は日蓮宗から生まれてくることが多いのですけれども、それは多分宗祖日蓮の受難―受難ということは個人的受難ということも、国家としての受難、当時として言えば元寇の役といいましょうか、蒙古軍が丁度日本に攻めて来た時です。外から国難、それから仏教・法華経を守る者は苦難であるという内外の苦難という面で、法華経を護持していくということが日蓮の眼目に成って、その種の偉い人というのは日蓮の行者の中からしばしば、日本の近代史の歴史の中でも現れてきているというふうに思われます。
さて、国柱会の田中智学もやはり日蓮の支持者ですけれども、日蓮の『立正安国論』みたいな、どちらかというと鎮護国家、国家天下というものに対する仏法の心構えて言いましょうか、そういうことを割に全面に出した人ですから、宮澤賢治もそこから入っていったことは確かなんですけれども、本当に法華経を自分なりに読む様に成ってから、後の宮澤賢治というのはどこで法華経を読んだか、そんなことはちっとも言ってないんですけれども、こちらで推測・推察していきますと、十四章目―「勧持品」の後なんですけれども―十四章目に「安楽行品」という章があります。「安楽」は「楽だ、楽だ」の「安楽」です。「行」は行うです。「安楽行品」という章がありますけど、多分宮澤賢治はそこを中心にして法華経(を)読んでいった、読み込んでいったというふうに考えることが出来るというふうに思います。この「安楽行品」の要旨はどんなことかと言いますと、法華経を護持するに対して、こういうことはしては駄目なんだということを挙げている訳です。それはどういうことかと言いますと、1つは文学・芸術・娯楽・芸能、そういうものに近づいてはいけないということを1つ言ってる訳です。もう1つは女性に近づいてはいけない、女性を近づけてはいけないということを言っている訳です。それからもう1つは権力に近づいてはいけない、ということを言っている訳です。つまりこれは相当法華経が大変厳しいところなんで、厳しく要請しているところな訳です。と言うのは、法華経は元々自分自身でそういうことを書いていますけれども、「このお経は菩薩に説かるべきお経なんだ、一般人に説かるべきお経なのではない」ということを言っている訳です。ですから初めから高度な、仏教でいう高度な―本当に高度かどうかは別にして―仏法でいう高度な要求をきわどく遣っています。特にインドですから、女性蔑視の国の総本山ですから、女性を近づけるなみたいなことは、戒律の中の非常に大きな部分として入ってきて、それを真っ正面から主張しています。それから権力に近づいてはいけない、ということを主張しています。それから宮澤賢治にとって堪えただろうなと思えることは、文学・芸術とか娯楽・芸能とかいうものに近づいてはいけない、近づけてはいけない、というふうに言っています。
そうすると、よくよく考えてみますと、宮澤賢治は17、8歳(で)法華経を読んで感銘を受けた時から最期まで、初めは短歌でしたけれども、文学―つまり童話とか詩とかいうものから遠ざかったということは、まず1度もないんです。初めから終わりまで法華経の信仰と、文学・芸術の創造と言うことは自分が終始並行して止めなかったことなんです。そうしますと法華経信者である宮澤賢治は「安楽行品」について自分なりの解決の仕方と言いますか、文学・芸術に近づけるな(近づくな?)と言っていることと、自分が遣っていることとの間に一種の乖離・離反がある訳ですから、この離反については宮澤賢治は終始一貫、考えた筈です。考えた挙げ句にそれでも文学・芸術の童話、詩の作品という形で終わりまで止めなかった訳です。そうだとしたならば「安楽行品」に対する自分なりの一定の読み方というのを、宮澤賢治は確立していたというふうに考えるのが極めて妥当だ、当然の様な気が致します。それをどういうふうに解決したかったということが、ある訳です。
どういうふうに見たらいいかと言うことに成る訳です。つまりどういう様に解決したんだろうかというふうに考えていくことで、宮澤賢治の童話とか、人(と)かの世界に近づくという問題が出てくる様に思います。そうすると、一番通俗的に考え易いことは、要するに好感(?)□□□文学・芸術を以て―確か文学・芸術とかそういうものに近づけてはならんとか、近づいてはならんというふうに法華経には説かれているけれども、しかし法華経の信仰に人々を引き入れる、勧誘していく為に童話や詩を書くんだというふうに考えれば、まあぁまあぁ非常に通俗的に通りがよくて、まあぁまあぁ許されることなんじゃないかというふうに考えたというふうに思えば、一番通俗的に考え易い訳です。で、確かに宮澤賢治の童話の作品でごく少数ですけれども、そういうふうに言えないことはない。つまりこれは人々を法華経の信仰に組み入れる、勧誘するという意味合いを含めて書いているというふうに言えなくはない作品がないことはありません。しかし皆さんがご承知の通り宮澤賢治の作品というは、はるかにそういう領域を越えている訳です。人々を信仰に引き入れるというモチーフを以て書かれていようがいまいが、これを読んだ人が受ける芸術的感銘は全く感銘としても独立しているものだし、この芸術的感銘を通じてもし何かが感ずることがあるとするならば―無形のものがあるとするならば―それは宗教かも知れないという形でならば、宮澤賢治は文学を生み出している訳です。そうだとすればもう少しこの問題は突っ込んでいかなきゃいけない、ということに成る訳です。
そうすると一番高度なといいましょうか、高度なところで、宮澤賢治はこの「安楽行品」の文学・芸術に近づいてはいけないという問題をどう解決したかということを、高度なところで考えてみる必要があるというふうに思われます。それを一番、特に相応しい代表的な作品といえば『マリンヴロンと少女』という作品とか、『銀河鉄道の夜』という作品がその問題に対する、宮澤賢治の解答・最高の解答に成っているというふうに思われます。解答の為に別に書いた訳ではないのですけれども、結果的としてそうなっている様に思われます。これは高度なところで宗教というものと文学というものとの問題を、ここのところで解こうとしているし、解いている部分と解けているかどうか判らない面と(が)含まれていて、一番高度なものだと思われます。勿論宮澤賢治は『農業芸術概論綱領』という文章も書いていますけれども、主旨はほぼ同じことだと思います。ですからその2つを見ていけばいいんだろうなと思われる訳です。
『マリヴロンと少女』という短い作品なんですけども、クライマックスで典型的にその問題をハッキリとぶつかっているところがあるんですけれども、それはマリヴロンという女流の声楽家がいる訳です。それに牧師の娘さん・少女がいる訳ですけれど、それがマリヴロンのファンであり信仰者であり、という様なそういう少女な訳です。少女の方は、明日父親の牧師さんと一緒にアフリカへ布教に行く、伝道に行く前の日なんですけれども、マリヴロンの歌を聴いて、マリヴロンが会場から丘の所で休んでいる時に、少女が近寄って行って、私も一緒に連れて行って下さいと言う訳です。それで、「どうしてですか」とマリヴロンが訊く訳ですけれど、「あなたは素晴らしい人で、人々を非常に素晴らしいところへ、気持ちのいいところへ連れて行ってくれる。それだけの力のある人なんで、自分は尊敬しているんだ。だから一緒に連れて行ってくれないか」とこういうふうに言う訳です。で、マリヴロンの方は、「そんなことはないんだ。あなたと私とは同じだ」って言う訳です。「同じなんだ。私が人を楽しませたり出来るとしても、せいぜい歌っている間の15分とか、歌を歌っている間だけの問題なんだ。それに比べれば、あなたは明日アフリカへ行って人々の為に何かするみたいな、そういうことに携わる訳でしょう。あなたの方がずっと立派なんだ。私なんか唯15分位人を楽しませるだけなんだ。」と言う訳です。だけれども少女の方は承知しないで、「あなたは輝いている。人々を輝かすことが出来る。そういう人なんだ。それに比べて自分はどんな輝きも光も、自分のところには持っていないし差していない」と言う訳です。それに対してマリヴロンは、「そうではないんだ。そうではないんだ。どんな人でも自分が生活してきた後ろ側に、ちゃんと1つの世界を持っているんだ。その世界が、それが芸術なんだ。誰でもそれは皆同じなんで、誰でも生活それ自体において、その生活の後にちゃんと世界を残してきて、それがある人の芸術なんだ。だからちっとも別問題じゃあないんだ。別問題じゃあない。だから違うことじゃないだ」というふうにマリヴロンは言う訳です。しかし少女の方は、それは納得しない訳です。「それは違う。そうじゃない。あなたが輝かせる輝かし方と自分に光が差してこない、そういう生活のところで埋もれていくということはまるで違うことなんだ。そう思う」って言うふうに言う訳です。けども、マリヴロンは、「そうじゃない。あなたには見えないだけ。自分は歩いて来た後に1つの世界があって、それがあらゆる芸術なんだ。自分の芸術なんだ。あなたには見えないけども私に見えるんだ。だからあなたのはそうじゃないんだ」と言うんですけれども、少女の方はそれを納得しない訳です。
こういうことと言うのは、沢山、いろんなことでなかなか解決できないで、今も在る問題の様に思うんです。主観的に芸術・文学とかが公開されることで受けるいろんな問題がある訳(です)。それは名前であったり―富の方はあんまり当てにはならないのですけれども―名前であったり、富であったり、称賛であったり、名誉であったり、また逆に批判であったり、罵倒であったりとか、ある訳ですけれども。そういうこととそうじゃないただの・普通の生活者というものとは、もし芸術に対する考え方として、生活それ自体において人は誰でもその後ろに1つの世界を残すものだ。その世界は芸術なんだというふうに芸術というのを、そういう考え方をしようとしまいと、名前とか―もし栄誉ということがあるんなら―栄誉とか、称賛とか、罵倒とか、そういうことが一種の光として集約されているそういう場所と、そうじゃない―そういう意味合いでは、そんな意味の―公開された光とか、そういうものは何もないだというところの問題とは、まるで違うんだということの主張は、つまりこの作品で言えば少女の主張は―それは違うことだと言う主張は―それはそれなりに今でもなかなか解決しがたい問題としてある様に思います。それからこの場合では歌ですけれども、公開することによって受ける称賛とか光とか罵倒とか、そういうものに対してそのご本人がそれを気持ちよいもの、快いものと感じたり、酷いもんだと感じたりする感じ方というのは、そういうことがない、唯の生活者というところの面での芸術という考え方とは、どうしてもどこか質が違うんだということが残ると思います。そして残るんだろうと思います。
そうするとそれに対して、宮澤賢治は唯1つだけ―僕がマリヴロンという少女に―唯1つだけ解決・解答を与えていると思われることがあります。それは何かというと「あなたは―そういう言葉じゃないですけれども―私と一緒に来なくたって、来ると言うことはあんまり意味がないことだ。意味のないことのもう1つの理由として根拠として、私はあなたがいる、あなたがいるところそのところに私はいつだっているんです」と言う言い方をしている訳です。つまり「あなたが考えたり悩んだり、働いたり生活したりするその場所にいつだって私はいるんだ。一緒に付いてこなくたって、そんなことはいいことであって、いつでもあなたが考えるそこのところに、自分はいるんだ。だからあなたはあなたの生活をするということ自体が芸術なんだ」というふうにマリヴロンはそういうふうに言うところがあります。そうすると僕の理解仕方では、宮澤賢治が宗教と文学ということについて解決している問題はそこにかかっている様に思う訳です。
文学・芸術というものはどんな場合でもそうですけども、書く人のモチーフがどうだった―あるモチーフである作品を書いたとしても、それを受け取る人はそれぞれの場所でそれぞれ違う受け取り方をする訳です。その時その人が1番関心のあることに従って作品を読みますから、全然別の受け取り方をすることも可能な訳です。文学・芸術というものをもし伝道・伝えること―交通と言ってもいいのですけれども―究極的に言えば伝道ですけれども、それが伝えようとするモチーフと、伝わるモチーフ・伝われてしまったモチーフとは、全然別々だというのが文学・芸術の本質にはあります。必ずしも書いた人のモチーフ通りに読者が受け取るかどうかは別な訳です。全く別です。そういう意味合いでは読者万人と、書いた人・創った人との間には目に見えない障壁といいますか、壁がありますし、壁の向こう側は本当は見えないんだ、壁の向こう側でどういう受け取られ方を文学・芸術がされるかということは、本当に全く自由でもありますし、全く勝手でもあります。それはまた、創った人のモチーフとは違うもので、充分ありうる訳です。それは免れないと言うことは文学・芸術の本質にあります。
ところで宗教というのは多分―宗教というものが1つの伝道として成り立つということを考えるとすれば―多分そうじゃないであって、その人が考えた・その信仰が考えたそのことは、いつでも受け取った人が思い悩んだその所にちゃんと、側にちゃんといるんだ、側にちゃんとあるんだというふうに多分宗教というのは、そういうことが無しに伝道ということが成り立たないものだというふうに思います。これはいろんな伝説とか説話とかに、宗教的な伝説・説話の中にはいつでもある訳です。例えば新約書だって同じ意味の言葉がある訳で、一種の新約書も伝道の技術論みたいなものとして読めるところもありますから。伝道する時には、何も持たないで杖一挺の他は何も持つな。受け入れてくれたらそこに留まれ、受け入れてくれなかったなら立ち去る時に足の塵を払えみたいなことが書いてありますけれども、一種の伝道ということの技術論みたいな(ことが)ある訳ですし、やっぱり「お前達が迫害を受けている時に私の名を護持することによって、迫害を受けるかも知れない。だけども堪え忍べ、堪え忍べ」ということの裏には、無言の内に私はそこにちゃんといるんだよということを言ってるところがあります。そう受け取れるところがあります。親鸞なんかにも伝説があります。親鸞の遺言状の中で「一人で喜ばば二人と思え。二人で喜ばば三人と思え。その一人は親鸞なり(一人いてしも 喜びなば 二人と思え 二人にして 喜ぶおりは 三人(みたり)なるぞ その一人こそ 親鸞なれ)」と言う遺言をしたと言う伝説があります。嘘だと思いますけども。それは何かと言ったら、「あなたたちが悩むのなら、或いは喜ぶのならば、その喜んでいる時には私もそこにいるんだと思ってくれ」と言うことだと思います。それは宗教的な伝道ということの本質にある問題な様に思います。
だから、マリヴロンが少女に対して、「否、私はあなたがいる、いつでもそこにいるんです」というふうに言った時には、声楽家・芸術家から宗教家にパッと、パッとその言葉だけで移っていると思います。パッというその移り方というのは、多分宮澤賢治の宗教と芸術との関わり方に対する1番の・最高の解決の仕方だったろうなと思う訳です。その移り方、―見するとなんでもない様な、けれどもよくよく考えると芸術・文学というのは、「お前が俺の作品を読んでくれたら、そこには私はいつでもそこにいるんだよ」ということは文学・芸術は言えないのです。絶対的に言えない訳です。文学・芸術をどう受け取られるか(というと)、全く自由な訳ですし、全く自由な受け取られ方しかされない訳ですけれども、マリヴロンがフッと、「あなたがいるそこには、いつでも私はそこにいるのです」というふうな言い方をした時に、マリヴロンは芸術家からスッと宗教家に変身している訳です。そのスッと変身している、その変身の仕方というのは正に法華経が□□□。「俺の本当の悟りへの道なんだと言ってる、あんまり人に気付かれない様にちゃんと万人が行ける道をつけられなけれ、本当の悟りではないんだ」と言っていることと丁度宮澤賢治が同じことをそれで遣ってると思うんです。「お前は俺の文学・芸術、或いは声楽・歌をどう聴こうが、それはお前の自由なんだ」というのは文学・芸術の立場だとすれば、「否、そうではないんで、あなたがいる場所にはいつでも私はいるのです」と言うのは宗教な訳で、その時にマリヴロンはスッとひとりでに宗教家に変身していると思います。その変身の仕方というのは、ものすごく理想的な、法華経が説く理想の変身の仕方です。宗教の在り方というのが、そこで宮澤賢治には考えられていると思います。そこが(を?)追い詰めていきますと、宮澤賢治の宗教と芸術、或いは文学についての考え方の一番高度な解決の仕方みたいなふうに、理解の仕方みたいなふうに成っていると思います。
で、もう1つ問題があります。それは必ずしも、宗教・信仰自体とは直接には関わりないことですけれども、倫理ということがあります。倫理という問題が宮澤賢治にはあります。また、宮澤賢治の作品には宗教的ではなくて、倫理的な情操というのがしばしば作品の中に出て来ます。この倫理ということは一体何なのか、ということがある訳です。宮澤賢治の倫理というのは、法華経でいいますと法華経の中に、多分二十章だと思うんですけども、「常不軽菩薩品」というのがある訳です。常不軽菩薩という人の事績を書いた、書かれた章なんですけれども。「常不軽菩薩品」というのがあるんですけど。それが多分宮澤賢治の倫理、作品の中にある、宗教までいかない、宗教的要素までいかない倫理というものとしてある問題の要だと思います。「常不軽菩薩品」というのが宮澤賢治にもう1つ、副次的ではありますけれども引っ掛かったところなのではないか。そこで法華経を読んだとか、読まざるを得なかったということがあったのではないか、というふうに思われます。「常不軽菩薩品」とはどういうことか(と言いますと)、常不軽菩薩というお坊さんがいる訳ですけれども、そのお坊さんは悟りを開く為に座禅をしたり、修行をしたり、お経を読んだりということをあんまりしない人な訳なんです。唯人と会うとどんな人と会っても―万人ですけど―その人を伏し拝んで、「あなたはやがて菩薩に成れる人だし、最高の悟りに達せられる人なんです。だから自分はあなたを礼拝するんだ」というふうに、どんな人に出会っても礼拝だけしかしないというのは常不軽菩薩、常不軽菩薩というのはそうな訳なんです。これは別に人を選んでではなくて、どんな人に会ってもそれしかしないお坊さんな訳です。それ以外のことは何もしない。
(ここの部分、録音無し。参照:春秋社『ほんとうの考え・うその考え』(P42L4~(同)L6)
それを1番簡単な分かり易いところでいえば、宮澤賢治の童話の中に虐げられた人とか、差別された人とか、弱小な人とか、動物とか、そういうものに対する一種のシンパシーといいますか、同情心みたいなのが作品の中に流れている、そういう作品がありますけども、それらは非常に分かり易い倫理だと思います。
宮澤賢治が描いている最高の倫理というのは、それ程分かり易いものではないと思われます。それは例えば―僕、本の中でも挙げたんですけども―『銀河鉄道の夜』の中で、「鳥を捕る人」というのが出て来ます。鳥を捕る人は途中から列車に乗り込んできて、主人公である「ジョパンニ」と「カムパネルラ」の側に寄ってきて、いろいろ話しかけたり、「この鳥はおいしいですよ」なんて言って分けて食べさせてくれたり、「あなたはどんな切符だ」と言って、ジョパンニが持っている切符を見て、「あなたの素晴らしい切符だ。すごいんだ。どこへでも行ける切符なんだ」と感心したり、そうかといって列車から降りて鳥を捕るところを実演して、帰ってきたりとか。何て言いましょうか、ごく普通の人のよい人で、幾分かは狡さを持ってるし、商売人でもあるというごく普通の人のイメージですけども、ひとりではしゃいだり、ひとりで鳥を分けてくれたり、ひとりであなたの切符は素晴らしいとか言ってみたり、どこまで行くんですかと訊いてみたり、善意を振りまいたり、人の良さを振りまいたりする、ごく普通に人のイメージなんですけれども。ジョパンニとカムパネルラがやや当惑気味に応答している、対応している訳です。その内に鳥を捕る人は先にフッと列車から消えてしまう。消えた後でジョパンニが「自分はあの人と何となく話したがらない様な、避けてる様な感じをいつでも持った。何か避けているということの中には、軽い侮りと言いましょうか、侮りみたいなのがその中に入っていて、何となくしち面倒なことを言われている様な感じがして、うまく応答しないでしまったけども、それは間違っていたな。もっともっと、ちゃんと親切に会話に応じていくべきだったな」と突然、反省するところがあるんです。本当ならばあの鳥捕りの人の代わりに100年でも、銀河鉄道の外に出て捕りを取って上げても良い位に思うんだ、というふうに、鳥を捕る人が列車かいなくなっちゃってから、急に反省するところがあるんです。
これが多分法華経で言えば「常不軽菩薩品」に該当するところで、常不軽菩薩の行いということに該当するところで、分かり易く、弱小な人に対してシンパシーを持つということは、分かり易くて誰でもそれは多分持っているものなのですけども、そうではなくて誰でもしばしば当面する訳ですけれども、何とも言えずその人を意識して馬鹿にしているということではないけれども、何となくその人を軽い感じを持ちながら、その人から厚意を受けているみたいなことというのは誰でも体験、万人が体験していると思うんです。それで、宮澤賢治の最高の倫理というのは、結局そこなんですけれども。つまり万人がフッと次の瞬間には忘れちゃうんですけれども、何となくその人を侮る様な感じを持ちながら、その人からさり気ない厚意を受けているみたいな。そういうことがちっとも痛みでなくて、一瞬痛みとして感じたとしてもフッと忘れてしまって、過ぎてしまうみたいなことは、我々日常誰でも非常によく体験していることなんですけれども、宮澤賢治は結局そこが最高の倫理だと考える訳です。もっと言えば、こういう人というのは本当は菩薩とか、最高の悟りへの1番近い人なんだという感じ方をするのが、宮澤賢治にとって最高の倫理な訳です。つまり弱小の人に同情すると言うことではなくて、誰でもが体験している、いつでも日常体験していて、問題にあんまりしたがらないと言うことで、フッと考えると「おやっ?」と言うことがある。そのことを自分の倫理の問題として引き受ける。そのことに気か付くと言うことが、倫理として最高のものなんだというふうに考えるところが、宮澤賢治にはある訳ですけれども、『銀河鉄道の夜』で言えば、鳥を捕る人というのがそれに当たると思います。
一般的に言えばこれはなんでも無い人で、どこにでもいる、多少がさつで多少善意で、多少ずるくて、どこにでもいる人で、本当に1番いる人なんだというのが多分、僕らが考える考え方の一般論なんですけれども。宮澤賢治は逆にそうではなくて、この人が1番悟りとか、菩薩とかに行く道への1番近道にいる人なんだというふうに宮澤賢治はそう考えたと思います。つまりそういうふうに考えられた時に、倫理というのは非常に最高の形で完成されると言いましょうか、そういうふうに宮澤賢治は考えたと思います。それが鳥を捕る人というのが『銀河鉄道の夜』の中で唯一、異質の人の様に見える訳です。後の人は大なり小なり信ずる人であり、信仰者であり、真剣にものを考える人達であり、人達ばっかりの訳ですけれども。この鳥を捕る人だけがそうじゃない訳です。異質の人で、別に信仰を持っている訳でもないし、真剣に物事を考える人でもなくて、本当にありのままの開けっ放しで、はしゃいでみたり、善意を振りまいてみたり、またびっくりしてみたり、また狡くもあってみたりと言うごく普通の人なんで、異質な登場人物なんですけれども、多分この登場人物の意味は今申し上げました、これが判ると言うことは、「人間の最高の倫理よ ! 」というのが、宮沢賢治の倫理観の究極なところだと思われます。それは多分法華経の「常不軽菩薩品」の常不軽菩薩というのは、どんな人が来ても、「あなたを礼拝します。なぜならばあなたは最高の悟りにやがていかれる人ですから」というふうに誰に会ってもそういうふうに言ったという。常不軽菩薩を倫理の問題として読んだというのは、多分宮沢賢治のもう1つの要であったろうなと思われます。この2つの要で法華経を究極的には読んでいったと思われる訳です。
そういうふうに読んでいったところで、多分日蓮という人を媒介にした法華経信仰というものが終わりまして―無形の内に終わりまして―法華経と自分との直接の対話みたいな形で、信仰者としての自分というものを考えていったでしょうし、また童話作品もそういう形で芸術的完成と、本当にもしそれをみようとしないならばこれは芸術作品だ、しかしもしみようとするならば芸術作品ではなくて宗教かもしれないよというふうな、そういう形で多分、文学と宗教との係わり合いというのを宮沢賢治は突き詰めていったというふうに思える訳です。
宮沢賢治にあともう残るのは宗教と科学ということしかない訳です。これは多分宮沢賢治は、あんまりうまく解けないままに終わったんだろうなというふうに思います。それはなかなか仏教、特に日蓮なんかの古典主義的な・古典的な仏教では、仏教というのは前世観と後世観と言いましょうか、前世と現在と未来―つまり死後の世界ですけれども―そういうものとの連続性と言いましょうか、繋がって流れているんだという考え無しには成り立たないところがありますから、そこのところでは宮澤賢治が科学者としては大変引っ掛かったところだろうなと思われます。つまりその世界観自体に対して引っ掛かったところだろうなと思います。
科学的に言ってどうしても死んだ世界があって、そこに魂が行くという考え方を是認することがどうしても難しい、是認の近くまで行くのですけれども是認することが難しい。それは先程の言葉で言えば、「ほんとうの考え」と「うその考え」というのを分ける遣り方というのが、もし人間にとって出来ればそのことは解決できると思えるんだけれども、それはなかなかどうしたらいいのか判らない。それは解けないのだというふうに考えていたと思います。唯解けないのだと言うのではなくて、宮澤賢治なりに解こうとする糸口はちゃんとつけてある。糸口というのは自分なりにつけてみたんだけれども、そこで完全に解けたとは言えないところで終わったと思いますけども。それは宮澤賢治の言葉で言えば、「ほんとうの考え」と「うその考え」というのを分けることが出来る様な実験の方法さえ決まれば、宗教も科学も同じものに成っちゃうんだという言い方をしていると思います。
実験の遣り方・方法さえ決まれば、という言葉はとても重要なこと(言葉?)なんで、その言葉は誰も、誰もと言うことは日蓮も言わなかったし、最澄も言わなかったし、天台大師・智顗の言わなかったことで、宮澤賢治だけが言ったことだと思います。勿論宮澤賢治だけが近代西洋の科学というのをちゃんと体験し、自分が習ったりしている訳ですから―身につけている訳ですから―宮澤賢治だけがその問題意識を持つのは当然なんですけれども、しかし宮澤賢治の宗教者としての特徴を単なる法華経信仰者、或いは日蓮宗信仰者というのからはみ出させる要素があるとすれば、実験の方法さえ決まれば、「ほんとうの考え」と「うその考え」というのを分けることが出来る。そうすれば科学と宗教は同じに成っちゃうんだという、そこのところが宮澤賢治が最後に到達した、つまり誰も法華経というものをそういうふうに読むことは出来なかったんだけれども、宮澤賢治だけはそういうふうに読んだんだと言えるところだというふうに思います。
それならば実験の方法とはなんなのか、ということに成る訳です。実験の方法とは何なのか。宮澤賢治は何を構想して・イメージしてそう言っているのか、或いは言葉だけで言ったのか、それは判りませんけれども、その言葉のいきさつ・文脈からいけば、実験の方法というのは2つしか意味が取れない訳です。1つは、そういう実験が出来る様な装置というのを―機械という意味だけじゃなくて、形而上学な・メタフィジカルな意味も含めて装置という言葉を使えば―そういう装置を作っちゃえばいいのではないか、そういう装置を作って、例えばこれは比喩だと思って聞いて下さってもいい訳ですけれども、その装置を使ってボタンを押した、そこにどんな考え皆入れてボタンを1つ押した。そうしたならば、「お前の考えは3割がほんとうだけれども、7割は嘘だとちゃんと出て来た」と言う、そういう装置を作ると言うことなのか、そうでなければ自分自身をそういう装置にしてしまう。宮澤賢治の言葉で言えば一心に勉強しなきゃあいけない。一心に勉強して自分自身を「ほんとうの考え」と「うその考え」分ける装置にしてしまう、というふうにするのか。どちらかしかその言い方ではありえない訳です。ですから多分どちらかのイメージを持ちながら宮澤賢治はそういう言い方をしたんだろうと思います。
で、ブルカニロ博士というのはそれを言う訳ですけれども、ブルカニロ博士の言い方では、要するに「どうやったらそれを求められるか」ってジョパンニが訊く訳ですけども、それに対してブルカニロ博士は、「私もそれを求めているんだ。お前も持っている切符を手放さない様にして、一心に勉強しなければいけない」という言い方をする訳です。「一心に勉強しなければいけない」という言い方をしている訳ですけども、どんな勉強の仕方をすれば、実験の方法が判るんだということについて、何も言ってる訳ではないですし、言う訳でもない訳です。つまりそこのところが多分宮澤賢治の、最後のところで引っ掛かった宗教と科学の問題に入っていくことに成るんだというふうに思いますけれども、少なくとも宗教と文学の問題、或いは宗教と芸術の問題については、多分倫理についても、信仰の問題についても、法華経の今言いました「安楽行品」と言うのと、「常不軽菩薩品」というのを中心に読むことで、宮澤賢治は解く道をつけていったと思います。
それで、童話作品は芸術作品でありますから、芸術・文学として読むのは勿論当然な訳なんですけれども、もしそういうふうに読みながら、しかしもしかしてこれは無形(?)であるけども、一種の宗教的な情操とか情念とかを表現したものとして読める、という読み方がもし出来るとすれば、宮澤賢治が非常に自然に、ごく自然にスッと移る、芸術家から宗教家にフッと移る、さり気なく移ってあんまり判らない様にさり気なく移ってるという、そういう移り方というのを見つけたということが、1番肝要な点なんじゃないかっていうふうに僕はそう思います。
で、宮澤賢治の宗教と文学ということで言いますと、そこいら辺のところまでで解けていることと、解けないことというのを言えてしまえば、それでいい訳ですけれども、もしかすると判らないけれども、皆さんの方は菩薩なのかも知れないから、もう少し敷衍して申し上げてみたいと思う訳です。それは何かと言うと、受難と言うことな訳です。受難ということの問題では、旧約聖書・新約聖書の受難という考え方・対応の仕方というのと、法華経・或いは法華経の信者である日蓮の考え方と言うのは似ているところがあります。また似てないところもあります。違うところもあります。それはどういうところってことを少し申し上げてみたい訳です。
キリスト教の聖書の読み方で、1つの流れを辿ってみますとね、「サムエル記」の中に羊番のダビデというのが登場します。ダビデって何か。どういうふうに描かれているかというと、身分としては羊番であったり、サウルという王様に召し抱えられて、自分も王様に成ってみて戦をしてみたり、艱難辛苦を受けてみたりということを繰り返す訳ですけれども、繰り返す苦難・受難に出会う訳ですけれども、ダビデというのは聖書を貫く原形な訳です。その原形というのはどこに集約されるかと言うと、1つは受難するのだけれども、聖書の言葉で言えば義なる行い、つまり正しい行いというのをどんな受難をした時でも、艱難に遭った時でも正しい行いというのを止めたことがないというふうに描かれていると言うことがあると思います。
もう1つは主とか神とかに対する信仰というのは、どんな艱難な目に遭った時でも、動揺しない・動かない、そういう2つのことだけが典型的にダビデというのに守れて、一種の聖書を流れる典型に成っていると思うんです。その苦難・艱難と言うことにも2種類ありまして、ダビデというのは政治に関与する人です。種族の共同体の運命に関与した人物ですから、王様に成ってみたり、また斥けられてみたりとか、嫉まれてみたりとかいろいろ艱難辛苦を受ける訳です。その艱難辛苦は他の部族と戦争をして負けたり、負けて敗走したりとかとかいう艱難も含まれますし、また自分が王様に成りながら妬まれて迫害されるとかいう、そういう艱難辛苦・受難の仕方もしている訳です。この受難の仕方というのは日蓮なんかの受難の仕方と似ているので、一種国家とか共同体とか種族とか部族とか、そういうものの運命に関与したところで受難をする訳です。しかし不正なることは1度もしないということと、神を疑ったことはちっともない。「神よ 何とかしてくれないか。どうしてこんなに自分が苦しんでいるのに、遠くにいて自分を助けてくれないのか」と言う様な言い方はしますけれども、神への信仰を捨てたりということはしない。その2つのことがダビデが象徴している原形的な役割だというふうに、聖書の中での役割だというふうに思える訳ですね。
ダビデのイメージは「サムエル記」から「列王記」を通じて「詩篇」の中のダビデの死というのに繋がっていきます。新約聖書の主人公イエスというのは、人からダビデ王の再来なのか、お前はユダヤの王かとからかわれたり、また尊敬されたりということをする訳です。つまりそのダビデの原形は新約書の主人公まで受け継がれて、その原形は流れ込んでいるということが1つ言える訳だと思います。
ところで聖書というのはどこを中心にして読むか、特に旧約聖書というのはどこを中心にして読むかということは様々であり得る訳でしょうけれども、僕らが読んで面白い・興味深いのは「ヨブ記」な訳なんです。「ヨブ記」がとても興味深くて、旧約聖書の精髄だというふうに僕らは読むと、そういうふうに読めてしまう訳です。どうして面白いかというと、ユダヤの部族・種族、或いは国家というものの運命ということにダビデは勿論係わる訳だし、モーゼもそれに係わる訳ですけども、「ヨブ記」のヨブは全然そういうことは考えない、関係ない訳です。つまり部族・種族の運命ということとは何の関係もない訳で、唯一地方の幸福なるお金持ちですけども、そういう人物の受難な訳です。それが1つ僕らが関心を持つところなんです。
純粋に個人の在り方、受ける受難の仕方というものと神の問題とを純粋に対決にさせているのは、「ヨブ記」が唯一なんで、「ヨブ記」のヨブの考え方・感じ方、神への感じ方、或いは受難への感じ方というのは大変典型的・大変革新にあると思える訳です。そういうことと、この人は共同体とか制度とか政治支配とか権力とか、そういうこととあんまり関係ない、一地方の大変幸福なお金持ちだという設定以外、何もないということ。それの受難がどういう具合に起こるかという問題だということと、もう1つはダビデ(ヨブ?)を試みる神ですけども―神が試みる訳ですけども―この神が試みる試みの仕方というのが、要するに自然じゃないと言うこと、つまり意図的だということです。意図的に神がサタンに「ヨブは優秀な、優れた、本当の信仰者だ。自分の信仰者だ。だからお前はどんな悪いことをしたって、ヨブの信仰は変わる訳はないのだから、おまえ遣ってみろ」というふうに、サタンに・悪魔に遣ってみろと神は意図的に言う訳です。意図的にこれでもかこれでもかと艱難辛苦をヨブに下す訳です。そこがまた僕は典型だと思う訳です。つまり神は人間を救うということが前提にあってということではなくて、神というのは悪魔を使って試みるものだという、そういう形で神が出て来て、それとヨブの持っている信仰とがギリギリ際どい、ギリギリいっぱいなところで対峙するということが、典型的に描かれているということがもう1つ「ヨブ記」のいいところ、優れたところだ、或いは生粋な問題が出てくる、受難の問題が出てくる・来ているというふうに、僕には思われますから「ヨブ記」が聖書の読み方の中心になるんだろうなと思いますし、ここでならば多分、ヨブの受難の仕方というのは多分、法華経を護持する日蓮の受難の仕方とは全く違う要素が出て来て、受難ということの本当の意味を考える場合には、大変いい考え方・主題になっているところだというふうに思います。
で、ヨブの受難の仕方というのは、1つは悪魔が教唆して、神が悪魔を教唆して盗賊にヨブが持っている牧場の人とか馬とか、そういうものを全部殺させてしまうし、それから仕舞いにはヨブの子供がいる訳ですけれども、子供たちも全部殺害させしまう訳です。最後にはヨブ自身も全身に皮膚病が出来てしまうというふうに、悪魔を教唆してヨブを皮膚病でいたたまれない様な、そういうふうにして仕舞う訳です。つまり持っていた財産の全部、全部の財産を相続する子供たち全部殺害、殺されてしまうし、自分も全身に皮膚病を持って(という)、そういうふうに成る訳です。そのこところでヨブが神に対して、訴えるところがある訳です。その訴え方は、ある面でダビデの訴え方と似ているので、「自分がこんな苦しめを受けているのに、どうして助けてくれないのだろうか。どうしてやって来てくれないのだろうか」と言う、そういう言い方もありますし、またヨブが、「否、私が生まれてきた時には、全く裸で生まれてきたのだから、どんなことがあっても全然私の信仰は揺るぎないんだ」というふうな、そういう言い方もある訳です。
ところでダビデと違って特異だと言いますか、別な言い方があります。それは受難の仕方の段階が違うんだということ。ダビデが受けていた程度の受難とは、全然受難の段階と意味が違うんだということに成る訳ですけれども、ダビデは「神は神を信ずる者も不信の者も、また神に逆らう者も神に従順な者も、共に同じ様に残酷な目に遭わすんだ」ということも、ダビデやヨブが言う訳です。つまり神というのは信ずる者に対しても信じない者に対しても、両方に対して残酷無残なことをするものなんだということを1つ言うことがあるのです。つまり1つ、受難ということで言えば、新しい・違う段階―ダビデとは違う段階―にある問題の様に思われます。
もう1つあるのですけれども、ダビデは「もう生きていく・生きているということは苦痛である。俺はもう死にたいと思っているのにどうして神は死なせてくれないのだろうか」と言う、そういう神に対する訴え方をする訳です。どうしてこんな艱難に遭ったのに助けてくれないんだろうか、という言い方も勿論する訳ですけれども、それを極端なところで、嘗てダビデも、「言わない、誰も言わない」という言い方で、「俺はこんなに死にたいと思っているのに死なせてくれないで、生かしておくのだろうか。自分を生かしておくのだろうか。自分を生かしておくのだろうか」と言い方をヨブはする訳です。これは受難の新しい、違う段階だと(思われます)。
この段階の受難と信仰の問題ということを明示しているのは「ヨブ記」だけの様に思います。この「ヨブ記」のヨブの受難の仕方とそれに対するヨブの考え方というのは、多分とても聖書的な信仰という問題を非常に特異なものにしている・変わったものにしている・特別なものにしている理由の様に思います。ここのところでは新約書の主人公は殆どこれを、ヨブの持っている受難とその受難の仕方と、それに対するヨブの対応の仕方というのだけは、新約書の主人公もそこまでは受難と受難に対する対応の仕方では、そこまではいってないというふうに思われます。つまり新約書の主人公の受難の仕方というのは、ダビデの受難の仕方と大変よく似ているのであって、ヨブの受難の仕方とはあんまり似てないというふうに思います。ヨブの受けている受難の仕方というのに対しては、多分新約書の主人公が責任を負うことが出来ない問題である様に思います。これはキリスト教信仰の問題にはなかなかならない問題で、それをある意味ではみ出してしまう問題に成ってきて、この受難の仕方というのは特異なものの様に思います。
「ヨブ記」には最後のところに問答がある訳です。それは誰の問答かというと、ヨブとヨブの親友がいる訳ですけども(その)親友と、神自身の言葉というのと三つ巴の問答というのが詩の形で述べられている訳ですけれども、ヨブの言っている言葉は、今申し上げました様に「神というのは信仰する人も反逆する人も、同じ様にそれに対して残酷な判定を下し、残酷な目に遭わすものだ」という認識と、「死にたいと思っているのに死なせてくれない。死んだ方が楽だから死にたいと思っているのに、もうこれ以上の受難というのは耐えられる訳はないのだから、死にたいと持っているのに死なせてくれない。こういう神が一体あるのだろうか」(?)という言い方で言われていることは、非常に特異な訳です。ところで、ヨブの友達がそれに対して、「お前は神を恨む様な資格なんか、何もないんだ。大体、神を恨むと言うことは烏滸がましいことであるから、神に対しては従順であることでもって、神がそれに対して報いてくれると言う様なことなんで、お前みたいに神に対してそういう恨み方、そういう認識の仕方をしたら、神が救ってくれるということは元々あり得ないじゃないか」という言い方を友達はする訳です。
もう1つ友達がそういうことで重要なことは、「神と人間とは違うんだ」と言う訳です。つまり、「お前―ヨブに対して―お前が訴えていることは、人間と人間との関係でだけ成り立っていることであって、その訴えも通ずることだし、また報いも通ずることなんだけれども、神と言うものは全然それとは違うものなんだ。人間の訴えとか人間関係の中で出てくる、訴えとか妬みとか怨恨とか絶望とか、そういうものは神の次元に全然届かないことであって、それなのにお前は神との間に妬みとか恨みとか受難とかいうことを考えようとしている。それは全然違うことだ」。そういうことを友達が神に対する認識として、「お前のは違うんだ。それじゃあ駄目なんだ」と言うことを言う訳です。
で、それに対して神の言葉というのがある訳です。この神の言葉というものは、びっくりする程、単調な訳です。どういうふうに言ってるか、ヨブに対して言う訳ですけれども。「お前、私を恨むけど、恨む資格なんかお前にあるのか。恨むことによって私の遣ろうとしている世界を創る構想を邪魔しているだけだ。暗くしているだけだ。お前にはそんな資格があるのか」と言うことで、神が言のは、「私は天地の万物を創った者だ」。これは聖書の神話の非常に特徴的なとこ(ろ)だと思いますけど。「創ったのは私だ。あらゆる天地の始まりから全部自分が創ったものだ。その中にいてお前は私を恨んだりして、私の遣ろうとしていることを暗くする資格なんかお前には無いだろう」という言い方をする訳です。天地を創ったのは自分である。だからこの暁をもたらしたのも、太陽を昇らせたのも、全部自分が昇らせたものだ。昇らせるものであって、これをお前は少しでも昇らせたり止めたりと言うことが出来るか。また動物とか生き物とか小鳥とかも、人間と同じ様に自分が創ったものだ。お前はこれらの動物や小鳥や虫たちとかを、お前はお前の考えで自由に出来るか。出来るだろうか。お前にはそんなことは出来ないだろう。つまりお前は弱小であり、私は天地を創った者だ。私に背いたり私を恨んだりすることは、とんでもないことで(?)、私の遣ろうとしていることを妨げる暗い行いなんだ」というのが、「ヨブ記」の問答の中で神がそういう言い方をする訳です。その場合の神と言うのは、天地自然を創った者という意味合いに受け取れる様に、神の言葉として述べてあります。最後結末は結局、神はヨブの友達に対しては、「お前達が言っていることは、ヨブが言ってる(こと?)より全然駄目だ。だからお前達はヨブから祈って貰えば救われる。救われる。そういうもんだ」というふうに言う訳です。ヨブに対してはスッと奇跡を現して、再びヨブは幸福に成るというところで終わらせている訳ですけれども、ヨブとヨブの友達と神とが三者で問答するところで、これは信仰(の)ある人と無い人の違いもあるでしょうけれども、僕らがみて1番立派なことを言っているのはヨブであって、神の方はあんまり立派なことは言ってない訳です。
ヨブの問題というのは、多分聖書の流れから、聖書の流れを越えて普遍的に現在に至るまで問題をいつでも孕んでいる、そういう問題をヨブの言葉とヨブの受難に対する考え方だけは現している様なもので、その他の点は多分、ユダヤ教とキリスト教、つまり新約聖書の主人公に対して集約的に流れて行く流れの中に全部入ってしまうというふうに思われる訳です。新約聖書の主人公とは何なんだ。それは多分ダビデが受けた受難の質というのを全部受け取っていると言いましょうか、全部一心に受け取っている、全部集約しているというのが新約書の主人公の場所の様に思います。
ところで新約書とは何なのか。旧約の流れからみて何なのか。特にヨブ記を中心にしてみた旧約からの流れ(は)、どうなっているのか。多分ヨブ記のある面、今申し上げました特異な面、ヨブに固有な特異な面というのは、多分新約書の主人公がそんなに受け取ってない訳で、それ以外のダビデに象徴される様な受難の型と信仰の型というのは、全部新約書の主人公が受け取っている様に思います。勿論時代が違う訳ですから、新約書の中には特異な問題があります。その特異な問題というのは何なのかということですけれども、それは新約書自体が何をユダヤ教から・旧教から受け継いだ掟の内、何が重要なものだと考えるかということに対して、新約聖書は「心を尽くして力を尽くして、お前達の主である神を愛せよ」ということと、「自分と同じ様に隣人を愛せよ」ということが、重要な掟だと言ってる訳です。そのいずれを取ってきても愛ということが、ユダヤ・キリスト教的宗教の流れの中で2つの愛―神への愛と隣人への愛―というのが眼目に成るんだと思います。これは法華経みたいな、つまり大乗仏教が眼目にしているのは悟りだということ。悟りとは何なのか。それは涅槃だということなんですけども。それを理想としていると同じ様な意味合いでは、愛ということが眼目に成ってくる訳でしょうけれども、新約書は愛と言うことを主眼にしながら、愛の技術と実際という問題について、幾らかのことをリアルに言ってると思います。それを抜かしたなら新約書は奇跡物語になってしまう訳です。本当らしい奇跡と本当らしくない奇跡とがありますけれども、奇跡物語に成ってしまうんですけども、奇跡物語としての面を抜かしてみれば、愛ということと愛の技術の問題についての、非常にリアルなことを言ってる様な気がします。先程も言いました様に愛の技術ということの中には、それを伝える技術・伝道の技術というのが入っていて、伝道の仕方はこういうふうにしなくてはいけないよという言い方をしているところがあります。
それから人間と人間との間の愛・結びつきというものの中には、必ず離反と言いましょうか、背きと言いましょうか、離反と言うことが必ず起こるよという問題についても、非常に見事な・突き詰めた技術、実際的な技術をきちんと例(?)で示していると思います。1つはユダの物語で、「ここにいて、自分がパンを上げるその人が私を裏切るだろう」というふうに預言する訳です。つまり離反と言うこと。愛があって愛の離反というのが起こりうるということ。起こりうる起こり方というのは、2つのタイプがあって、1つはユダ的な離反の仕方というのが、人間と人間との愛の関係の中ではあるんだよという問題について、非常に適切に言っていると思います。もう1つの離反の仕方はペテロの離反の仕方で、「否、自分はそんなにあなたを裏切る様なことはしない。あり得ないんだ」というふうに、「あなたの行くところには、どこまでも行く」というふうに言うんだけども、「否、明日の朝、鶏が3度鳴かない内に、裏切るよ。あなたはわたしに離反するよ」といふうに言う訳です。「そんなことはあり得ない。あり得ないんだ」とペテロは言う訳ですけども、その日に成ってみて、「おまえ、あの処刑される男と一緒にいたのではないか」と言われて、「否、いた覚えはない」と言って、ペテロは3度否んで3度目には鶏が鳴いて、甚く鳴いたという物語が創ってありますけれども、愛の技術のうち離反の仕方ということについても、大変リアルな原形を述べていると思います。
それから、「自分は殺された上で、3日後に復活するだろう」というふうに言っているところがあります。殺されて3日経って復活するだろうというのは、旧約書の中にはあんまり見かけないタイプの言い方なんです。このタイプは新約書が大変強調したり、遠慮しながら述べたりしているところだから、特異だって言えば特異な点なんですけれども、どうもあんまりこの特異な点は読む方の側にはあんまり響いてこない特異な点だと思われるのです。つまり何かな? これが象徴しているのは何なのかな? これは象徴と言うことではなくて信仰なんだということなのか、或いは何かの象徴なのかなというふうに考えるのですけれども。これ、ヨブの受難の仕方の象徴みたいなふうに考えるべきかな、というふうにも思うのですけれども、しかしこれは相当違う様に思います。
ヨブの場合には、「俺、死にたいと思っているのに死なせてくれないのだ」。もう1段、段階が違う受難の仕方とそれに対する神への訴え方というのが、もう1段違うところの様な気がします。つまり新約書の主人公が殺されて、殺され方・受難の仕方というのはダビデの受難の仕方と似ている訳で、ダビデの死として詩篇の中に、「私の神よ、どうして私を見捨てるのか」という言葉がありますけれども、その言葉、そっくり新約書の主人公も処刑される時、言う訳です。言うからダビデの流れなんだ、ということではないのですけれども、どちらかというと同じ言葉だと言われていると同じ様に、「なぜ私を見捨てるのか」という場合に、「なぜ私は信じているのに、私の仕事を完成させてくれないのか」とか、「なぜ私は信じているのに、あなたは私を死に至らしめてしまうのか」という意味合いで新約書の主人公は言っているので、「自分は死にたい。嫌で嫌でしょうがないから、死にたくて仕方が無いのにどうして死なせてくれないのだ。神よ どうして死なせてくれないんだ」と言うヨブの訴え方とは、一寸違う様な気がします。段階が違う様な気がします。
新約書の主人公が死して3日後に復活すると言う言われ方の中に、何か重要な象徴性を見つけようと考えてもなかなか見つからない様な気がします。そうではなくて、信仰として、この人の信仰が同時代的に流布されていたというふうに考えれば、とても分かり易い気がしますけれども、そうではないと、なかなか象徴的な意味を捉まえられない様な気がするんです。そうすると旧約書の「ヨブ記」の流れの方から聖書の流れを見ていった場合に、何を僕らは受け取れるかと言ったら、受難―信仰と不信と―受難ということにはある1つの段階・ある質の違いと言うことがあり得るんだということを、とてもよく「ヨブ記」は言ってる様な気がするんです。
これは例えば宮澤賢治は法華経の信者で、国柱会・日蓮宗からみれば宮澤賢治は日蓮信者でということに成るでしょうけれども、しかし宮澤賢治自身は日蓮信仰とか、法華経信仰というものに当て嵌まらない―当て嵌まる部分も沢山ありますけども―当て嵌まらない部分があると思うんです。当て嵌まらない部分は宮澤賢治の文学の中に流れている訳で、その流れて行くものを捉まえて行くと、そこでも信仰が象徴されているとすれば、それは所謂法華経信仰、或いは仏教の大乗教が述べている教義を(から?)はみ出したところで、なお宗教的なものがあるというふうに理解しないととても理解できないというふうに成ると思うんです。これは例えばいろんな人でも言える(のです)。
僕が知っている人で言えば、良寛みたいな人でもそうなんです。良寛は曹道宗(道元)の僧侶ですし、僧侶だった訳ですし、10年間修行して曹道宗の師家という訳ですけれども、師家の資格を持ってる人な訳です。人だった訳です。だけれども曹道禅という禅の流れの中に良寛を入れようとしても、そこからはみ出してしまうものがあると思うんです。はみ出してしまうものというのは、良寛の割合に本質的なことで、これは歴史的にいって仏教、特に曹道禅の宗派が良寛は自分の宗派の人だっていうふうに言おうと言うまいと、それとは関わりなくて良寛が曹道禅のところからはみ出してしまうものというのは、どうすることも出来ない訳で、良寛の場合にはどこではみ出したかと言うと、宮澤賢治が倫理ではみ出したと同じ様に、法華経の「常不軽菩薩品」というところの問題で曹道禅を(から)良寛ははみ出してしまう訳です。誰に会っても子供に会っても村の人に会っても、手を合わせて拝んだかどうかは別ですけれども、礼拝するという仕方というのを良寛が遣る、そういう仕方を遣るというところで、良寛は曹道禅をはみ出してしまった訳です。自分のお師匠さんが死んだ後、お寺を継ぐべき資格がある人だったんですけれども、本山から人が来てそこの住職に勤めるというふうに成った時に、自分が寺を出て修行しながら郷里の越後へ帰ってしまって、隠棲・隠遁生活をするというふうに成っていく訳です。そこではみ出すものが文学である形をとる訳です。とる訳ですけれども。(音声、ここで中断)
もう1つ読み方を変えていくと、それはもう1つ宗教だというふうに、その宗教は多分日蓮信仰だとか法華経信仰だというふうに、或いは仏教信仰だという様に限定出来ない、何かもっと違う宗教なんだって言うふうに、宮澤賢治の作品を読むことが出来る様な気がします。その問題が多分宮澤賢治が文学と宗教の問題で考えた最終的な問題の様な気がしますし、特異な問題である様な気もする訳です。これは仏教とキリスト教、或いはユダヤ教から入ってきたキリスト教というものの考え方というもの(ことについて)の、受難ということにつての特別な考え方の違いというのがそこに含まれて、それは両者の流れからはみ出していくところで問題が出てくる。その問題は沢山の方向から照らし出していかないと、どうすることも出来ないという問題が残される様な気が僕はします。それで宮澤賢治は最終的なところで、そこいら辺のところを考えただろうと思われるのですけれども、1つは取り出してしまえば、ある1つの事柄があるとすると、その事柄を往きの目というのと還りの目で見るということとは、同じ事柄が全く違う様に見えるということはあり得るということがあると思うんです。「マリヴロンと少女」で言えば、マリヴロンと少女は同じ様に、「あなたは芸術家、あなたは芸術(家?)ではないのか」、「あなたは単なる生活者で、あなたは芸術家であるのか」、「あなたは宗教(家?)であり、自分はそうでないのか」という問題について、この問題を中心に2人はそのことを見ようとしているんですけでも、マリヴロンの見え方と少女の見え方とは同じものを(でも?)見え方がどうしても違っちゃうんだということ。そういうことはあり得るということが1つあると思うんです。
それからこれは、宮澤賢治が『銀河鉄道の夜』の中で盛んにジョパンニに言わしているところですけれども、それぞれの人はそれぞれの神を持っている。神と名付けるかどうかは別にして、神を持っている訳です。『銀河鉄道の夜』で言えば、青年とかおる子兄弟というのはキリスト教信仰を持っている。それからジョパンニはそう言われないけれども―言ってないけども―多分宮澤賢治は法華経の信仰の切符を持っているんだと言わせたかったと思います。そういう信仰を持っている。「お前の神は本当なのか。俺の神が本当なのか。自分の神は本当なのか」。なかなか解決が付かない。しかし、もしも神が宗派の信仰である限りは解決が付く訳がない。それから宗派という観点を宗教だけに限らないで、あらゆる理念というものにまで拡張していきまして、あらゆる理念の宗派、或いは思想の宗派を考えて、「お前の神は何なんだ、俺の神は何なんだ、お前の神はこうだ、俺の神はこうなんだ」って、これで争ったってこれは解決が付かない。そして・・・。
(音声:フェードアウト)
沢山ある訳です。だから決めたくて仕方がないのだけれども、なかなか決められない。せめて、現在のところ出来る、可能なことは何なのだろうかというふうに考えますと、宮澤賢治はあらゆる宗派の神を信じている人が、宗派の神を信じていない人よりも下位・下なんだ、下にあるんだ。あらゆる宗派の神に対しては宗派の神を信じている人の方が、信じていない人よりも下にいるんだ、下にあるんだということを信じている人が保てたなら、そういう考えを持てたなら、そしたら多分神の神は何だか判らないだろうとしても、今のところ判らないとしても、それが出来たなら多分1歩だけ解決・判ることに近づくんじゃないかというのが、多分宮澤賢治の考えた最後のところの様に思われるんです。
私達は連日の世界では、そういう人を見つけることはなかなか出来ない訳です。思想でも同じなんで、自分が持っている思想・信じてる思想とか、考えていった思想がいいと思ってる。それは他の人も自分の思想がいいと思っている。それだからそこでも対立も起こるということがある訳ですけれども、それはそれとして現にある訳です。その上に自分の思想を持っている人・或いは信仰を持っている人は―信仰を持ってないで全然関係ないところにいれば別ですけれども、持ってないで、その近くにいる人に対しては―自分の方が上位にあると思わない信仰者というのは、誰もいない訳です。また、思想者は誰もいない訳です。皆そう思っている訳です。遠くにいる人に対しては思わないのだけども、近くにいる人に対しては自分の方が上位にあるというふうに思う訳です。で、宮澤賢治に依ればそれは違うのであって、そういう信仰者は信仰してない人よりも、下位にあるんだ、あり得るとすれば、そういうあり方が摑み得るとすれば、或いは行い得るとすれば、そこのところではあらゆる宗派の神というのを越えた神、或いは宗派の思想を越えた思想というのに到達できる1歩があるんじゃないかということは、宮澤賢治はそういうことを説いているので、そこは多分宮澤賢治の童話が・詩が文学芸術であり、宗教じゃないんだと言いながら、尚かつ宗教的な情念としてこれを受け取ることも、読むこともできるという、そういうものがどこからかちゃんと作品の中から匂ってくる理由な様な気がします。宮澤賢治の到達地点はどうもそういうところの様な気がするというのは、僕らの論理・考えを詰めて行ったところの訳です。判らないところが沢山ある訳ですけれども、そこいら辺までのところは自分なりに追い詰めて―宮澤賢治について追い詰めていったところなんで、お話ししてみました。時間も過ぎました様でどうも・・・。(拍手)
最後に仰ったところが1番大事だっというふうに思います。御本の中でもそうだったんですけれども、本当の神というのがあるとすれば、それは所謂宗派、仏教でありキリスト教であり、そういった神よりも、そういう神の方が下にあるんだと。そして所謂信仰者よりも信仰しない、所謂―否信仰というのがあるとすれば、信仰を持っている人というのは、所謂信仰者よりも下位にあるんだ(?)。そこのところが本の中でも、焦点だったし、今日の話でも結論に成っている部分が1番素晴らしいところだというふうに思いました。
大変長時間、非常に深くお読みに成っているということがよく判りました。有り難うございました。後、飯食いながらいろいろ質疑応答したいと思います。有り難うございました。(拍手)
【質問者】
(感想)私、大阪からやって来た□□□。今日は法華経の話を聞かせて頂いて□□□。それと方便として誰にでも判る様にしなくてはならない。(以下、聴き取り不可能。故記述不可能)
【吉本さん】
後の方から実感があるから申し上げますと、理想的に言いまして自分が文章で表現する場合でも、誰にでも判る様に書けたら、というのが理想でありましてね、それでその理想というのがなかなか出来なくて、急いでしまえば、急いで結論まで持って行ってしまおうとすれば、自分だけ―極端なことを言えば自分で自己確認が出来ればいいや、というところに文章が近づいていってしまうと言うことがあると思うんです。要するに充分に遣ってないんだ、充分に遣れば、誰にでも通ずる様な書き方が出来るんだけども、残念ながら全然その理想に到達しないで、いつでも途中で切られたり、途中で急いだりということをしてしまうから、そういうふうに成っちゃうという、全く自分の方の責任しか残らないと思うんです。唯、1番問題なのは誰にでも判るように、しかし教えるという書き方ではなくて、教え諭すという書き方ではなくて、誰にでも判る様に書くと言うことが理想なんですけれど、なかなかそれが出来ない。もし意図して易しい言葉で易しく書こうとすると、それは何か万人を侮蔑するというか―侮蔑するということと啓蒙すると言うことは似ているところがあるのですけども―そういうふうに成ってしまうから、それも避けたいということがあって。そうするとなかなか思い通りの文章が書けないなーというのが、今以て嘆きなんですけど。うまくいってないんだ。出来るだけいきたい(?)とは思っているので、自分さえ判ればいいというふうには決して思っていないだけど、そう成っちゃう。それだけのことのような気がするんです。それ以上のことは意図しても無いんで、やっぱり判るように書きたいなと、いつで憧れをもって、だけどもなかなか実現できないことだけなんですけどね。
それから、「ほんとうの考え」と「うその考え」ということなんですけども、何か自分が文学とか芸術に関わっているところでは、そんなことは無いのですけれども、僕には宮澤賢治の様なアレが無いのですけれども、そうじゃなくて一般的に物事を考えて処理していくということの過程では、何か自分のいろんなことの問題が全部、「ほんとうの考え」と「うその考え」、どうやって分けられるんだということに、全部集約して来ている様な気がしているので、そこのところは一生懸命、自分なりに考えていこうとするんですけれども、本当は判りませんというのが、1番正直な答な気がしています。本当は判りません。だけどもこうじゃないかなと思えることというのは、何か少しでも手応えがあれば、それを言ってみたり書いてみたりということはするんですけれども、それ以上の、どうしたらいいんだということはなかなか上手く解けない。じゃあ宮澤賢治の言う様に、「うその考え」と「ほんとうの考え」分けてしまう実験の方法さえ決まればという、実験の方法さえ決まればというふうな考え方が妥当かどうかというのも、僕は判らない気がするんです。
だけれども、問題は何かと言ったら、「ほんとうの考え」と「うその考え」とをどう分けたらいいかということに対して、1歩でもと言いましょうか、微かでもいいし兆しでもいいから、それがあったならば、持てたなら、それを言ってみる、言ってみなくてはいけないのだということが僅かに原則で出来ている訳で、僕らは唯言葉では「脱」―脱出するの「脱」ですけれども―「脱」ということがどうも問題の気がするということを、近年は盛んに言ってる訳ですけれども、「脱」というのは何かというと、自分の場所というのは外から決められたり、自分の資質の流れから決まったりする訳ですけれども、いつでも―そこの場所というのはいつでも―蝉の抜け殻みたいに置いといて、一寸違うところに視点を移せるかどうかということ、自分の場所・自分の考えということを、もう1つ見てる自分という、そういうことが出来るかどうかと言うのが、僅かな僕なんかの第1歩の様な気がしているんですけど。上手く出来ているとは決して言えないのですけれども、「脱」ということが出来るかどうか。「脱」ということは自分を見ている自分というのが可能かどうか。もし(?)見ているということが、どこから見ているかと言ったならばメタフィジカル、つまり形而上学的に言えば、向こうから見ている。向こうからとは何かというと、<死>じゃないかと思っている訳です。死。死。死ぬこと。<死>の視線というのから自分の今の考え方とか場所とかが、よく見えているということが可能だったならば、「脱」ということが少しは出来ると。自分が出来るということが、万人が出来るということだったなら、もしかすると「ほんとう」という場所が見つかるのかも知れない、という感じがするもんですから、何か向こうからの視線でもって、自分の今の場所というのを自分の方から向こうの方へ・未来の方へというのでは無くて、そういう未来の方へ(の)場所というのを向こうの方から・<死>の方から見(ら)れる視線というのはあるか、捉まえられるかということが差し当たって(?)自分が考えている、「ほんとうの考え」と「うその考え」という場合の、第1歩だと思っている訳ですけれど、それ以上何もアレが無いんです。こう遣ればいいんだよみたいなことは何にも無い、判らないんですけどね。それで<死>の方からの視線って何となく抹香臭い訳ですけどね、その場合に<死>というのを、一寸違う様に考えたいのです。つまり実際に肉体の死とか救済宗教(?)が言う、死んだ後には浄土へ行けるとか、天国へ行けるんだとかとか言う意味合いの死と言うのと一寸違う場所で、死というのを考えたい訳です。どう言ったらいいでしょうか。中間の場所でと言ったらいいんでしょうか、その中間の場所に<死>というのがある。そこからの視線だというふうに考えたい訳です。その中間の場所というのを、ちゃんと決めないといけないのですけれども―中間の場所ってこうなんだよって決めないといけないんですけれども―それを上手く簡単な言葉で言うことが出来ないんですけども。本当、肉体が死んじゃったとか、病気で死んじゃったとかという死とも違いますし、死の後救済が・世界があるかないかとかいうふうに、宗教が、仏教なんかが論議している、その死とも一寸違う、それとも違う。その中間にある<死>というのがあって、そこから照らし出せるかというふうなことが、僕は自分の問題な様な気がしているんですね。それから具体的な視線としては、よく上からの視線だっていうふうに、上からの視線というのをどこのところに摑まって現在を見るかということが問題なんだと言う言い方をするんですけれども、本当に具体的な視線という意味、目に見えるものという意味ではそうなんですけれども、目に見えないものを含めて言えば、そういう場所からの視線という目で、自分の場所というのを照らし出せればなぁということを頻りに考えて、それが、□□□と思っていますけれども。
【司会:笠原芳光さん】
今、「脱」ということを仰ったのですけれども、「超」という(こと)、「超越」の「超」という言い方がありますね。超えるという(こと)。今仰った「脱」というのと「超える」ということの違いがもしあるとすれば、超えるというのは上の方へ超えると。「脱」というのは下というか、上に比べると下だという感じがするんですけれども、そういう「超」と「脱」の違いはどういうふうにお考えでしょうか。
【吉本さん】
あのー、つまり「超」というところまで行けないし、それは判らないから差し当たって「脱」だって言ってるだけで。つまり知識を追究するということはその人にとって本能(本望?)であるとすれば、「脱」ということは知識でないものを―目(?)って言いましょうか―知識でないものの場所というものに、とりあえずその場所が判ると言いましょうか、客体視(?)出来るといいましょうか、そういう場所から自分の、今の知識を追究している自分というのが、知識で無い場所から見えていればいいなぁって言う。差し当たって「脱」というのはそういうふうに、それだけのとことで、それを超えるかどうかということはなかなか・・・。
【司会:笠原芳光さん】
親鸞の最後ですね。『最後の親鸞』という御本にもありましたけれど。親鸞の(が?)最後に到達した地点というのは、今、仰った様な□□□。
【吉本さん】
あのー、僕死がそんな様な気がして。親鸞の<死>というのは―親鸞が考えている<死>というのは、本当言うと、言葉では「死んだ後、浄土でおあいしましょう」って手紙なんかでよく書いていますけど、そういう言い方でも、仮にしたっていい訳なんですけれども、本当は死んだ後で浄土があるなんて、本当は思ってない。親鸞は思ってないと思うんですよ。そういう理解はしてないと思う。浄土というのがあるとすれば、考えているとすれば、<死>と言うところなんです。その<死>という場所というのは、一般的に言われている死というのも、生というのも両方が見渡せる場所というのが、差し当たって親鸞の浄土であって、そこが<死>だっていうふうに、本当はそう考えていたと思うんですけどね。
実際死んじゃったら向こうの方に世界があって、そこに行ってというふうにはちっとも考えていないと思うんですけど。
【質問者】
あのー、法華経からの喩え話で、火に囲まれた子供たちを救う時に□□□、あれは確かに子供たちを自然な形で意識せずに救い出すとみいてもいいですが、解釈に拠っては子供たちの持っている密やかな(?)欲望に訴えて救い出すという面がありますね。人間の無意識と言いますと、自然さというか賢しらさがない(?)という面があるかも知れませんけど、ごくごく普通の欲望だけみたいな感じですね。それから鳥捕りの喩え、あの話でも確かに知識で□□□られると、そういう素直さ・正直さと言いましょうか、そういうものに憧れたりすることがあるんですけれども、でも、そういった自然さを素朴に肯定するということは、私個人引っ掛かる(?)ことがありまして、例えば悪いことをする人間というのは自然と悪いことをする訳ですね。プラトンに『メノン』という本があるんですが、その中で同じ悪いことをするのだけども、悪いと知ってやるのと何も気が付かないでやるのとどっちが良いかと言っていて、やはり知っていている(? やる)方がいいと。なぜかというと反省(?)が出来ると。次の行動が考えられると言うんですね。□□□子供たち、それから鳥捕りも大変よく判るのですけれども、果たしてそう素朴に自然さを肯定□□□。
【吉本さん】
あのー、僕そういう素朴を肯定すると言うことは、肯定するって言いますか、そこに最高の倫理があるとみるということは、素朴な考え方というふうには思えないのですけどね。例えば親鸞なんかで言えば、「善人が往生するんだ。まして悪人が往生しないことがあろうか」という言い方をしますね、それから弟子・唯円に訊かれて、「俺は念仏を唱えたって、ちっとも嬉しくも何ともない。念仏唱えて浄土へ逝けるとアレしても、念仏唱えても嬉しい気持ちが起こらないのは、なぜかどうしてなんだろうか」と訊かれて、俺もそうなんだと親鸞は言いますね。結局、結論は何て言ってるかというと、「浄土へ逝くべき時が来たらひとりでに逝けばいいんだ」と教えていると思うんです。その場合に。「何も自分の方で意思して逝くと言うことはないので、そういう時が来たらひとりでに死ねばいいんだ」。そういうふうに言っていると思うんです。僕は、それは死についての考え方としては最高のものだというふうに思う訳で、だけどよくよく考えてみると、「死ぬべき時が来たら死ねばいい」というのは、誰だってやってるじゃないか、普通の人がやってるんじゃないか、(そう)したならば信仰なんて要らないじゃないか、要らないことに成るんじゃないかっていうことに、□□□成りそうですけども、僕はそうじゃなくて、そういう結論まで到達していく・いった過程というのが、死についての最高の講義(?)じゃないかなっていうふうに、僕は思いますけどね。それを早急に遣りますと、浄土はいいとこで、現世は苦しいとこで、急いで逝けば良いじゃないか。急いで逝くのが本当じゃないかという考え方を―当時もあったと思うんですけども―その場合にそれを解決する方法として、当時のラジカルな念仏者・浄土希求者というのは、「やっぱり、それじゃ急いで死のう」という言うふうな遣り方をしたと思うんです。実際遣っちゃう。断食したりして何かして遣っちゃう訳ですね。往生しちゃう訳ですね。それに対して例えば一遍みたいな人はそこのところで考えまして、「その遣り方はどうも遺憾なんじゃないか。現世より浄土がいいんだ。浄土へ急いで逝けばいいんだ。遣っちゃおう。断食して、何も食べないで座禅をしたまま死んじゃうという遣り方は駄目なんじゃないか」と、一遍は逆に考えて、この世を浄土にしちゃえば良いんじゃないかって考えたと思うんです。その為にはどうすればいいか。万人に通ずる道というのはなかなか言えないけれども、主観的には言える。それは何かと言ったら、現世に執着のあるもの、全部持たなければ良いじゃないかという、つまり勿論妻君も持たないし、家財道具も持たないし、家も持たない。兎に角無一物ということで生きていれば、いつだって浄土に即座に逝けるというのと同じで、執着するものは何も無い生き方をすればこの世自体が浄土と同じじゃないかというのは、例えば一遍の考え方だと思うんですけれども、親鸞の様な考え方、「否、そんなのは駄目なんだよ。そういう考え方は駄目なんだよ」というふうに言っていて、「結局どうして浄土がいいとこ(ろ)だと言うのに、念仏を唱えて浄土へ逝こうとすることが、自分がちっとも嬉しくはないのだろうか」と訊かれて、「そうだ。俺もそうなんだ」と言って、「しかしそれはそうなんじゃあない。死ぬべきそういう時が来たら、ひとりでに死ねばいいんですよ。いいんだよ」というふうに言う場合には、何か僕はもう一遍の考え、「急いで浄土へ逝く」という考え方も、「この世を浄土にしちゃう」と言う考え方もそれも全部含んでしまって、なんでもないことに成っちゃっている。ごく普通の人が、誰でも遣っていることと同じことに成っちゃっているというふうに思えるので、同じことは同じことなんだけれども、僕は一廻りグーとまわって言ってることと、それは先程からの話の続きで言えば、還りの目で言ってること・見てることと、往きの目で見ていることとは、まるで同じことなんだけれども、まるで違うんだと言うことと同じことの様な気がするんですけどね。僕だったらそう成ると思いますけどね。
【質問者】
先程、笠原さんが言われた「超」と「脱」ということに関連してなんですけれども―あんまり上手く言えないのですけれども―吉本さんが<死>というところから見ていくという死者の目、そこから自分をもう1つ見る目、男の人が創っていった思想というか、私にはキリスト教の中で育ったので□□□そういう死の頂点□□□初めに言葉は無いんだよねと言われてびっくりして、「私は初めに言葉があった。言葉は神であった」と言う中で育ってきたのですけども、初めに言葉はないと言うことは、生まれてくる前の闇の方が死んでからの闇よりも暗いじゃないと言われたんですね。□□□自分がキリスト教という社会の中で育って、何か違う、違うと自分で感じていた。(以下5分05分まで省略)
【吉本さん】
1番最後のことから言うと、僕は判らないことを判るというところに出て行くって、言われましたけれども、そこのところはまるで僕が言ってることが違うことを言ってるので、判ると言うことは判らないことに近づいていくことを同時に含んでいなかったら、「脱」にはならないと言う意味で言ってるので、全然違う様な気がするんです。判らないことを判る・・・。
【質問者】
判らないことを判るというふうにする場合は、何々教(?)となるんだと思うんですけれども、だから判らないことを判るというふうに言ってしまう部分が、キリスト教というのにあると思うので(?)、そこにはぐらかされたり、ぼやかされたりという部分というのがそこに出てくる□□□。だから判らないことを判らないよと言うことが「脱」というところ(?)□□□なんじゃないかと思います。判らないところを判るよと言ってしまうところが、宗教のまやかしの様に私は思ったんですけど。判らないところを判らないよというところが「脱」ということじゃないかな。そしてそうした混沌としたものを、人間の中に抱え込んでいけるというところが、宗教性と関係があるんじゃないうかと私は思ったんです。それは違うんですか。
【吉本さん】
とても判るんですけど。僕は違うところを関心の場所にしている様に思いますね。それからもう1つ。これ、女の人でないと判らないだろうと。まるで本当は判らないんですね。判らないことの訳なんです。この人亡くなったのですけど、三木成男さんという生物学の人がいるんですけど、その人は凄いなと思う(んです)。発生みたいなことについて凄いことを考えた人だなぁっというふうに思うんですけど。その人が発見した1番の発見というのは、結局人間の―仰るからアレして言う訳だけども―お腹の中にいる子供・胎児は受胎後・受精後、32日から38日の間に「上陸する」のだそうです。つまり海に棲んでいた魚類みたいなものから、陸に上がってくるのに32日から38日の間なんだそうです。その時には―僕、判りませんけども―受胎している母親というのは、要するに、ぼんやり、遠くの方を見てぼんやりとした顔をしているんだそうです。それが終わってから悪阻が始まるんだと言っていますけども。32日から38日の間に「上陸する」する、魚類から両生類みたいな、陸上の爬虫類みたいに変わっていく。それが人間だと32日目位から起こって1週間位の間にそれを完成する。それは胎児の顔をアレしながら見付ける訳です。鶏ならば4日目なんだそうですね。その時は鶏もおかしいのだそうです。そして今のアレで言いますと、三木さんという人は食の相―食べる―と性・セックスですね、性の相と言ってるんですけどね。要するに原始的な動物は、例えばシャケというのはどこか遠くのアラスカの方まで泳いで行っちゃって、その間食べて成長して、元の川のところへ帰ってきて産卵して死んじゃ。その食の相・成長する相と性の相と言いますか、受胎して分娩して子どもを産むという、それとは明瞭に分離していて、子どもを産んだら直ぐ死に向かう。それもハッキリしている、それは非常にハッキリしていることだ。
人間の場合にはそれが食の相と性の相、成長の相と性の相、受胎とか種族保存とか、それはいつでも二重に重なっていて、なかなか分離できない。だからまた受胎して子どもを産んだら、例えばシャケならその女の人は死に向かう訳ですけども―死に向かう他何もない訳だけども―それ程人間の場合にはハッキリしていないと言うんですね。だけど本当言うとその中でも、受胎して子どもを産んだ時には、ある細胞はもう死に向かうし、ある細胞は衰えに向かうしというふうに考えたら、非常に動物的な考え方ではそうなるのだということを、確定し言うんですけどね。確定してて。
だから今言われたことは、男性には実感的に理解しにくいですけれども、それは宗教的に考えたところに結び付けた―もりさきさんが言われる様に―そういう様に結び付けるだけではなくて、すごく生物的に考えたらいいということもあるのではないでしょうか。非常に生物学的なことなんだというふうに考えた方が。つまり両方から考えた方がよくて、あんまりそのことに重たい意味をくっつけますと―受胎と分娩とかに重たい意味をくっつけますと、きつく成っちゃうから、だからシャケと同じだというふうに考え、(笑い)僕ら沢山のことをその人から学んだんですけどね。植物と動物のことも非常に連続的・発生的考えですね。植物の幹ってあるでしょ。それはね動物の腸があるでしょ。腸管。食道から腸があるでしょ。その腸を裏返しにめくり返して、腸の中側を外側にしてね、中側にあった腸の血管というのは、葉脈に成ったりそういうふうに成っていると考えると、ものすごく連続(?)しているんだそうです。動物で言えば腸管をひっくり返したのが丁度植物の幹だって、枝葉のアレというのは葉脈みたいな血管、腸の血管が表に現れて出ていると、そう考えるともの凄く考え易いだということは、その人の本から教わったんですけれどもね。それで人間というのは十ヶ月の間にもの凄いスピードで、つまり魚類から始まって爬虫類とか哺乳類とかを全部経て行くんだそうです。スピードで行くんだそうです。その経る場合に典型しか通らないと言うんですよ。例えば、原始動物で植物と1番繋がりとして考え易いのは、八目鰻なんだったね。八目鰻は女性(両性?)の時には、尻尾の方だけを海底に入れて、立って鰓呼吸をしているんだそうですね。植物から一寸だけ違うんだそうです。それから段々成長してしまうと、横に海底だけを這って移動して産卵して死ぬということになって。哺乳類でも典型を通る―典型を通るとは例えば、ラッコみたいな温和な顔をしている動物がいるでしょ。あの顔が典型なんですよ、哺乳類で。それを通るんですよね。サメを通るんですよね。典型を通って胎児生活があって。
今お話し聞いててね、あまり神秘的な受胎と言うことを、もりさきさんのお考えがあまりに神秘的な様に聞こえたものですから、こりゃあ、男には判らんなあというここと、□□□もらっても困るから、シャケと同じだ。
【司会:笠原芳光】
時間が段々無くなってきたんですけれども、さっき手を挙げたあめみやさん、どうぞ。簡単に。
【質問者】
今日は本当に、楽しみに圧倒された(?)お話しを伺いに参りまして、楽しみしていただけそれ以上の価値(?)があって感激して聴いておりましたけども、笠原先生にお出会いしてから私は宗派というものを越えたところで、突然1つの出会いがあって、中学の時□□□しました、所謂プロテスタント□□□ところから、仏教の入り口のところ辺りをぐるぐると彷徨って、まだ□□□今日は□□□お話しの中にも出て来ました様に、あらゆる神を越えたところの神というふうな、宗派ではない□□□ではないと、宗教とも呼べない□□□。私はまだ摑み切れていないのですけれど、要するに1つ抜け出たというか、多分抜け出ただろうと思うんですけど、そういう体験をしたばかりの、まだ6ヶ月程しか経っていないのです。その間に吉本先生を紹介された□□□現在の中で□□□会話してらした親鸞、宮崎は救われるかというテーマですけど、親鸞お教えを□□□語り尽くされてなかったと思うんですけど、それを読ませて頂きまして、今日は2つ、1つは、宮澤賢治の世界ということで、今丁度、笠原先生の講義の、宗教の続きの文学で賢治の作品を取り上げて読む機会がありましたので、宗教と文学と2つ欲張って□□□してきた訳です。その2つとも聴けることが出来て、非常に嬉しく思いました。その中で先生が仰った賢治が結局、科学と文学、或いは芸術と言う言葉に変えてもいいと思うんですが、同一であると言うところを、実験の方法さあればというもどかしい思いで終わっているというところの中で、『銀河鉄道の夜』の中でジョパンニがカムパネルラの死を前もって知ってしまうという、私はあそこが凄く、「あれっ」という感じがしたんですね。通俗的な言葉ですけれども、死を知ると言うことはいっている(?)三次元の、ズッと彼方にある世界が□□□見た中で、見えてしまったという、それに何か科学的な裏付けというか、必要だったんだろうか。それが五感に訴えてきて感じられた□□□判断をするのはどういうことかなってズッと疑問に□□□。そのことに対して宮澤賢治はあの時点で、死という世界□□□タイタニック号でしたか、舟が沈んだ時の死んだ人達が現れているんだと思うんですけども、あの長い□□□会話が、あちらの世界とこちらの世界で出来る(?)という、書き表せているという、□□□科学とどういうふうに結びつくのかな。それと、それが1つと。
【吉本さん】
今言われたことで、生きてる人と死んでる人との違い(は)何だみたいな感じをちゃんと読む人に与える様に(?)書かれただけですけども。最後のところで今言われた、夢から覚めて街へ行くと川で溺れた人を探していてカムパネルラの親父さん、父親がいて「もう駄目かもしれない。45分経ったから。もう助からない」というふうに言うところがあるんですけども、そこのところでジョバンニが、「僕はいたところを知ってる。銀河の外れのところにしかいないと思うんだ」というふうに感じて、それをカムパネルラのお父さんに言おうとするんだけども、止めるところ□□□もう銀河の始めにしかいないのは、要するに夢の中で今遭ってきたからそうなんだと思っている訳だけど、それはジョバンニの夢が―正夢だったんですかね― 一種の予知の夢だったということが言われている、言えている様な気がするんです。そこいら辺のところは科学だとも、宗教的な妄想・幻想的な妄想だとも宮沢賢治は注釈しないのですけれども、そこいら辺は、しかしこれが本当に科学なのか、宗教的な幻想なのかということについて宮沢賢治は考えていたところなんだけれども、考えとしては言わないで、「否、もう銀河の始めにしかいない。そういうふうに思えた」というふうに、そういう描写をしていて、そこが1番肝心なところじゃあないでしょうか。つまり宮沢賢治だってそんなことは解けなかったんだという意味でも肝心かもしれないのですけど、そうじゃなくて解けなくたって、解けなくたって、科学的に判ろうが、判るまいが、こういうふうにして夢の中で遭っちゃって、だからもう覚めてから探したって無駄だから、銀河の外れにしかいないよという様に、何か言えそうな気がするということがあり得る訳ですね。だけども科学的にちっとも確立していない。だからそこのところは文学として留まっていて、後は読む人のアレに委ねる外はない。読む人の追究に委ねる外はないみたいなことというのはあったんだろうと思うんです。そこのところで早急にこうだというふうに結論出来なかったでしょうし、またしなかったんじゃないかっていう気がするんですね。
【司会:笠原芳光】
誠に残念ですけども、次の会がありますので、これで終わらせて頂きます。これだけではなくて、またいつかお出で頂きたいと思っていますので、それを期待して最後に拍手して終わりたいと思います。ありがとうございました。(拍手)
テキスト化協力:石川光男さま