柳田国男の「遠野物語』について、いままで気にかかったままになっていたことがあります。せっかくこの機会を与えられたので、そのことを少しお話ししてつきとめられたらとおもいます。
それは『遠野物語』は物語としてどんな性格をもっているかということなのです。本当は自分ではよくわからない、うまく説明できないままに、過ぎてきましたので、どこかで、わかったというところまで追いつめて、きちんと位置付けしてみないといけないとかんがえてました。
『遠野物語』は明治43年に公刊されています。これがどういう性格のものなのかをかんがえるにあたって、明治43年頃の文学の世界の状況はどうなっていたかということがまずあります。それをはじめに話しておくと、おおよそのイメージは掴めると思うのです。
明治43年は、まだ森鴎外、夏目漱石が健在でした。鴎外は漱石の『三四郎』に対抗する気持ちで『青年』という作品を書きました。漱石は三部作のひとつである『門』という作品を書いた年です。たいへん高揚していい作品を書いている頃です。そして、そろそろ次の世代といいましょうか、白樺派の作家たち、武者小路実篤や志賀直哉なんかが作品を書き始めました。たとえば、志賀直哉は『網走まで』という作品を書いています。また浪漫的、耽美的な作家でいえば、まだ泉鏡花は健在で、『歌行燈』なんかを書いているし、谷崎潤一郎は代表作のひとつである『刺青』を書いています。それからもちろん、自然主義も次の世代にむかって、だんだんと私小説化していくわけですが、徳田秋声が出てきて『足迹』という作品を書いています。
こんなふうに網羅していっても仕方ないのですが、いまお話しした作品だけみましても、このなかに『遠野物語』になんらかの意味で、影響を与えたり、思想を与えた傾向があるかといえば、まったくないといっていいくらいです。『遠野物語』は同時代の文学の世界からの刺激で書かれてはいないと一応はいえます。そうするとどういう刺激で、柳田国男はこれを書いたのかということになります。文学的にいいますと、柳田自身の文章にも固有名で出てきますが、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』のような古典物語のイメージが、柳田国男の頭にあって、それにどこかであやかりたいということが、柳田国男の主な関心だったのではないかとおもわれます。
そこで『今昔物語』や『宇治拾遺物語』と、柳田国男の『遠野物語』は似ているか、またはおなじところがあるか、というふうに考えてみます。そうしますと、『遠野物語』の性質をもう少し微細にわけいってみることが必要になってきます。いわゆる日本の古典物語とどうおなじで、どう違うかということを見ていかないといけないわけです。そうすると『遠野物語』の性格がある程度はっきりしてくるのではないでしょうか。それをこの場でできるだけやっていきたいわけです。
『今昔物語』は、平安朝の末頃に生まれた昔話の物語で「今ハ昔」で始まって「~トナム語リ伝ヘタルトカヤ」という形で終わるひとつのスタイルをもっています。その中にはいろんな言い伝えや伝承、または同時代の面白い話が集められています。日本だけでなくて、もちろん中国やインドの昔話もあります。『今昔物語』には『今昔物語』のタイプというものがあるわけです。
このタイプにのっとって、柳田国男の『遠野物語』をすこし分類してみたいとおもいます。するとどういう分類の仕方ができるかといいますと、これは何について書かれているかという内容の分類ではなくて、スタイルの分類になるわけです。このスタイルを三つ取り出してみます。
これは僕が勝手に名前をつけたものですが「体験体」、話でいいますと「体験譚」というものがひとつあります。それから「事実体」、「事実譚」というのが一つ、もうひとつあえて分類すれば「伝承体」、「伝承譚」というのがあります。『遠野物語』をおおよそこの三つに分けますと、大雑把に次のような数値になるとおもわれます。「体験体」あるいは「体験譚」というのは、数えてみると三十一から三十三です。「事実体」あるいは「事実譚」は七十三くらいあります。「伝承体」というものは、後でどういうものかを申し上げますが、三篇くらいあります。足しても『遠野物語』全部にはならないのですが、それは両者の中間というものがありまして、そのためです。数えるというのは難しいことで、おおよその数がそうだということで考えて下さればいいのです。もちろん『遠野物語』の特色、それはいってみれば、記述者、言い換えれば作者である柳田国男の特色です。いま言いました三十三篇ある体験譚に『遠野物語』のおおきな特徴があらわれているといえるでしょう。
さて、この体験譚とは何かということです。ここで体験譚といっているものはべつに作者が体験した、あるいは記述者が体験した話ではないのです。体験した人は遠野の住人であったり、また遠野の住人であって本当に誰かわかっている人であったり、そういう人が体験した話を記述しているのです。けれど『今昔物語』のように「今は昔、こういうことがありました」、「現在こういうことがありました」という記述の仕方ではありません。記述者がいて、たとえば体験した猟師がこういうふうに山に入って行ったら、こういうことに遭遇してこうしたんだ、というような記述の仕方をしていないわけなのです。普通は体験者がいて、記述者がいて、体験譚を記述するというスタイルの場合、これは昔話になります。ところが、ここでいう体験譚は、そういう記述の仕方をしていない。はじめは記述者と体験した人が別々のように書き始めることもあるのですが、途中で記述者と体験者が一緒になってしまう。まるで記述者自身が体験しているような文体に変わっていってしまうわけです。いまの言葉でいえば行動的な文体になっています。
これは『遠野物語』のたいへんな特色で、この特色は、内容的な特色とともに、この物語をとても特異なものにしています。これまでにこんな記述の仕方をした古典物語は存在しません。記述する人、つまり作者と、それから体験した人が途中から一緒になってしまうような文体のあり方というのは、記述者があたかも自分が体験しているようなところへ身を乗り出しているということを意味しています。ではなぜ身を乗り出したかといえば、記述者自体がそのことに関心が深いから、あるいは記述者自体が何かをもっているから一緒になってしまったということです。これはとても大切な特色です。
もうひとつ言えることは、この種の体験譚あるいは体験体は、たとえば山のなかで猟師さんが体験したというような話でも、必ずいまの言葉でいえば入眠幻覚、つまり夢かうつつかわからない状態で、里の物語でもないし、山の物語でもなく、里の人と山の人とが一緒にどこかで遭遇しなければ、とてもこの文体はできないという記述の仕方がされています。そうかんがえなければ、とてもこの体験体の文体、記述の仕方は出てこないんだということです。そう考えますと、柳田国男が一番関心をもっていたのは、この体験譚というべきものだったということができます。ですから、それが『遠野物語』のおおきな特色で、これは物語として、もちろん同時代の小説にもありませんし、古典物語にもない独特なスタイル、文体だということになりそうです。
たとえば『遠野物語』の三を見ますと、こうなっております。
三 山々の奥には山人住めり。栃内村和野の佐々木嘉兵衛と云ふ人は今も七十余にて生存せり。此翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。其処に馳け付けて見れば、身のたけ高き女にて、解きたる黒髪は又そのたけよりも長かりき。後の験にせばやと思ひて其髪をいさゝか切り取り、之を綰ねて懐に入れ、やがて家路に向ひしに、道の程にて耐へ難く睡眠を催しければ、暫く物陰に立寄りてまどろみたり。其間夢と現との境のやうなる時に、是も丈の高き男一人近よりて懐中に手を差し入れ、かの綰ねたる黒髪を取り返し立去ると見れば忽ち睡は覚めたり。山男なるべしと云へり。
その次の四もそうです。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立と云ふ山に入り、笹を苅りて束と為し担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負ひたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。極めてあでやかなる女にて、これも長き黒髪を垂れたり。児を結び付けたる紐は藤の蔓にて、着たる衣類は世の常の縞物なれど、裾あたりぼろ〻に破れたるを、色々の木の葉などを添へて綴りたり。足は地に着くとも覚えず。事も無げに此方に近より、男のすぐ前を通りて何方へか行き過ぎたり。此人は其折の怖ろしさより煩ひ始めて、久しく病みてありしが、近き頃亡せたり。
この記述の仕方は、よく注意してみますと、吉兵衛さんとか佐々木嘉兵衛さんの体験を、記述している柳田国男がおなじように、つまり記述している人自体が、体験したみたいに書かれていることに気づかされます。言い換えれば、記述者柳田国男が、この種の話になってくると、自分があたかも体験したように事態のなかに入っていきます。それくらい関心の深い話だったということがわかります。
これは『遠野物語』のおおきな特色です。ことばとしては、「山男なるべしと云へり」と昔話風に「~ということだ」という言い方をして終わらせているところもあります。けれど、その場合でも昔話の「こういう話があるよ」というような「なるべしと云へり」という意味ではなくて、そのことが夢か現かわからないところで体験したものだからあまり賛成できない、それで「云へり」ということばを使っているのだという意味の「云へり」です。だから決して『今昔物語』みたいに、昔こういう人がいて、こういうことがあったんだよ、という意味ではないわけです。ですから柳田国男の『遠野物語』の記述の仕方、記述者と体験者がおなじになってしまう記述の仕方、それ自体が『遠野物語』のおおきな特徴的な要素になっています。
こういう体験譚が三十三篇くらいあるとしますと、七十三篇くらいが事実体あるいは事実譚です。この事実体というのは、いってみれば『今昔物語』のような古典物語とおなじではないですが、古典物語とおなじ記述の仕方をしているものとかんがえられます。これは『遠野物語』が古典物語とおなじ記述の仕方をしているのだといってもいいとおもいます。これが七十何篇あるということが、大部分が古典物語と同じ昔話を語る記述の仕方を採っているということです。柳田国男がじぶんの文章でいっているように、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などの物語や昔話とおなじスタイルで書いている部分なのです。
この事実体というのは、書かれている内容が必ずしも全部事実だということではありません。書かれていることがあやふやであったり、伝承であったり、夢と現のうちで行われたことであったりしても、事実を記述するのとおなじような記述の仕方をしているという意味です。内容が事実そのものだということではありません。内容はどんなに幻想的なことであっても、事実こういうことがあったと記述していくのとおなじスタイルで記述されているということです。
たとえば『遠野物語』のはじめのほうにこういうのがあります。
二 遠野の町は南北の川の落合に在り。以前は七七十里とて、七つの渓谷各〻七十里の奥より売買の貨物を聚め、其市の日は馬千匹、人千人の賑はしさなりき。四方の山々の中に最も秀でたるを早池峯と云ふ、北の方附馬牛の奥に在り。東の方には六角牛山立てり。石神と云ふ山は附馬牛と達曽部との間に在りて、その高さ前の二つよりも劣れり。大昔に女神あり、三人の娘を伴ひて此高原に来り、この来内村の伊豆権現の社ある処に宿りし夜、今夜よき夢を見たらん娘によき山を与ふべしと母の神の語りて寝たりしに、夜深く天より霊華降りて姉の姫の胸の上に止りしを、末の姫眼覚めて窃に之を取り、我胸の上に戴せたりしかば、終に最も美しき早池峯の山を得、姉たちは六角牛と石神とを得たり。若き三人の女神各〻三の山に住し今も之を領したまふ故に、遠野の女どもは其妬を畏れて今も此山には遊ばずと云へり。
こういう言い伝えがあるというのを、あたかも事実こういうことがあったというがごときスタイルで記述してあります。これはもちろん事実ではないことがはっきりした伝承・伝説なんですが、その記述の仕方、書き方は、記述者があたかも事実を記述しているというスタイルが使われています。これは日本の昔の物語のおおきな特徴です。たとえばおなじような話が『常陸国風土記』にあります。それは、富士山と筑波山の話で次のようなものです。
古老のいへらく、昔、神祖の尊、諸神たちのみ処に巡り行でまして、駿河の国福慈の岳に到りまし、卒に日暮に遇ひて、遇宿を請欲ひたまひき。此の時、福慈の神答へけらく、「新栗の新嘗して、家内諱忌せり。今日の間は、冀はくは許し堪へじ」とまをしき。是に、神祖の尊、恨み泣きて詈告りたまひけらく、「即ち汝が親ぞ。何ぞ宿さまく欲りせぬ。汝が居める山は、生涯の極み、冬も夏も雪ふり霜おきて、冷寒重襲り、人民登らず、飲食な尊りそ」とのたまひき。更に、筑波の岳に登りまして、亦客止を請ひたまひき。此の時、筑波の神答へけらく、「今宵は新栗嘗すれども、敢えて尊旨に奉らずはあらじ」とまをしき。
爰に、飲食を設けて、敬ひ拝み祗み承りき。是に、神祖の尊、歓然びて謌ひたまひしく、
愛しきかも我が胤 巍きかも神宮
天地と竝斉しく 日月と共同に
人民集ひ賀ぎ 飲食富豊く
代々に絶ゆることなく 日に日に弥栄え
千秋万歳に 遊楽窮じ
とのたまひき。是をもちて、福慈の岳は、常に雪ふりて登臨ることを得ず。其の筑波の岳は、往集ひて歌ひ舞ひ飲み喫ふこと、今に至るまで絶えざるなり。
つまり『遠野物語』もこれとおなじような話になります。これは『風土記』にもあてはまりますが、事実そうなっているという記述のスタイルなわけです。おなじように早池峯の三山をめぐる伝説も、事実を記述する仕方のスタイルになっています。こういうものが七十数篇あります。もちろん事実譚ですから、まったく実話のように記述する以外ないわけです。たとえば、一一番の話がそうです。
一一 此女と云ふは母一人子一人の家なりしに、嫁と姑との仲悪しくなり、嫁は屢〻親里へ行きて帰り来ざることあり。其日は嫁は家に在りて打臥して居りしに、昼の頃になり突然と倅の言ふには、ガガはとても生かしては置かれぬ、今日はきっと殺すべしとて、大なる草苅鎌を取り出し、ごしごしと磨ぎ始めたり。その有様更に戯言とも見えざれば、母は様々に事を分けて詫びたれども少しも聴かず。(中略)倅はよくよく磨ぎたる大鎌を手にして近より来り、先づ左の肩口を目掛けて薙ぐやうにすれば、鎌の刀先炉の上の火棚に引掛かりてよく斬れず。其時に母は深山の奥にて弥之助が聞き付けやうなる叫声を立てたり。二度目には右の肩より切り下げたるが、此にても猶死絶えずしてある所へ、里人等驚きて馳付け倅を取抑へ直に警察官を呼びて渡したり。警官がまだ棒を持ちてある時代のことなり。母親は男が捕へられ引き立てられて行くを見て、滝のやうに血の流るゝ中より、おのれは恨も抱かずに死ぬるなれば、孫四郎は宥したまはれと言ふ。之を聞きて心を動かさぬ者は無かりき。孫四郎は途中にても其鎌を振上げて巡査を追ひ廻しなどせしが、狂人なりとて放免せられて家に帰り、今も生きて里に在り。
これは警察官が出てくるくらいですから、明治以降の出来事で、実話だとおもいます。こういう実話も事実譚の記述の仕方に入っています。これが『遠野物語』のおおきな部分を占める記述のスタイルです。
もうひとつ、伝承体の物語というのは、人によってはもっとおおく数えることができるでしょうが、ここでは伝承の物語は三つだとかんがえました。これは伝承ですから、長いあいだの時間が積もり積もっていったというスタイル、事物の起こりや伝承、あるいは神社や寺院の起源を語る起源譚などで、縁起譚のスタイルとおなじです。これは純粋にいって三つ取り出すことができます。この伝承譚のなかには、たとえばオクナイサマの起源の話なんかもあります。
一四 部落には必ず一戸の旧家ありて、オクナイサマと云ふ神を祀る。其家をば大同と云ふ。此神の像は桑の木を削りて顔を描き、四角なる布の真中に穴を明け、之を上っより通して衣装とす。正月の十五日には小字中の人々この家に集ま来りて之を祭る。又オシラサマと云ふ神あり。此神の像も亦同じやうにして造り設け、これも正月の十五日に里人集りて之を祭る。其式には白粉を神像の顔に塗ることあり。大同の家には必ず畳一帖の室あり。此部屋にて夜寝る者はいつも不思議に遭ふ。枕を反すなどは常のことなり。或は誰かに抱起され、又は室より突き出さるゝこともあり。凡そ静かに眠ることを許さぬなり。
それから地名の起源の話もあります。また霊験あらたかなことがあったという、神社や寺院の縁起譚のようなものもあります。
いま申し上げました三つのタイプを取り出しますと、『遠野物語』の物語としての性格というのを取り出すことができるのではないかとおもいます。その三つのうちで、最初に申し上げましたように体験譚が、『遠野物語』の特色をなしている部分です。この記述のスタイルあるいは話のもっていき方は、かつての日本の古典物語や物語絵巻、お伽話やお伽草子なんかのなかで、一度も現れてこなかったものです。ですからこの部分が、『遠野物語』のおおきな特徴であり、柳田国男自身を一人の作者というようにかんがえれば、柳田国男の独創的なところであるとおもいます。これは体験譚であって、同時に夢か現かわからないものであり、里の人と山の人とがどこかで接触したときにはじめて生まれる物語であるという意味で、おおきな意義があります。
『今昔物語』や『宇治拾遺物語』などは作者が特性できなくて、誰であってもいいのです。そして「今は昔、こういうことがあったということだ」というスタイルをもっているわけです。この話のスタイルは山や川の地勢といいますか、日本の自然の在り方と結びつけることができるとおもいます。「昔々こういうことがあった」という、そういう話し方のスタイル、定型は、平地の農耕社会の物語の定型だということができましょう。これは平地の物語だということです。
山地の物語は、そういうスタイルではあまり存在できないし、伝承としてもなかなか伝えられにくいのです。なぜかというと、山地にもし人間が住んでいたとしたら、食べ物を求めたりしてたえず移動して一所に長く止まっていないことから、伝承とか昔話のようなものが積もり積もっていくということは難しいといえます。だから山地には「今は昔」あるいは「昔々こういうことがあったとさ」という物語は出来にくいということがわかります。ですから「今は昔」「昔々」というスタイルは、平地の物語、もっと限定していえば、農耕社会だけの物語ということもできます。
これら日本の大部分の物語を作ってきた地形、日本の山や川の地勢を考えると、農耕ができる地形は大別して二つのタイプしかありません。ひとつは背後に山を控え、前に川とか海を控えている、そのわずかな平地なのですが、そこに村があって農耕が行われています。これが日本の地勢のひとつの大きなスタイルです。もうひとつのスタイルは、遠野などは典型的にそうだとおもいますが、周りに低い山があって、かなり海抜があり、山に囲まれた盆地のような窪みに、村落ができて、そこで農耕をやっています。いわゆる山村です。おおきくいいますと日本の地勢では、その二つに大別できるとおもいます。もちろん中間にもいろいろありますが、大別しますとそうなります。この地勢のタイプと「昔々こういうことがあったとさ」という物語のタイプ、あるいは昔話の定型とはパラレルで、対応させることができましょう。
それに対して、いまいいました柳田国男の『遠野物語』の特色である体験体は、山の人と里の人がどこかで遭遇しないと生まれてこないタイプの物語になっています。このような物語を作文化したことが、柳田民俗学の大きな特色のはじまりになったとおもいます。里人だけですと「昔々こういうことがありましたとさ」という話、先ほどいった事実譚だけになってしまいます。そして山の人たちには、定型ある物語というのはないとおもったほうがいい。あるかもしれないけれど、ないといったほうがいいくらい少ないのです。それは生活のやり方でわかります。
柳田国男は山の人にも里の人にも両方に関心をもったわけです。その両者の接点というか、その境目のところで、『遠野物語』は作られました。あるいは『遠野物語』の特色は作られたといってよいでしょう。このことはとても重要なことにおもわれます。そこに着目し、そこに関心をもったということは、柳田国男の民俗学的な特色であり、見識です。この種の物語は他に求めようとおもっても、日本では求めることができません。これは柳田国男のたいへんなお手柄であり、また『遠野物語』が物語として冠たるものがあるとすれば、その部分がおおきな役割を及ぼしているといえます。
さて、もうひとついいたいことがあります。それは『遠野物語』が物語の時間といいますか、歴史的な時間というものを、圧縮してもってきているということです。柳田国男の『遠野物語』がどれだけの時間を包括しているか、どれだけの時間をそのなかにはめこんでいるか、ということについてお話ししてみたいとおもいます。これはどういう時間か。その例をいくつか挙げてみます。さきほど佐々木喜兵衛さんが山のなかで女の髪を切って懐に入れて帰る途中で、物陰でまどろんでいて夢か現かわからないときに、男がやってきて懐に手を入れてその髪の毛をもって立ち去ってしまった。そしてはじめて眼が覚めたという話をしました。もうひとつ山口村の吉兵衛さんが、やっぱり山のなかにいるとき、ぼろぼろの着物を着た若い女の人が子供を背負って、すーっと前に通っていった。あまりに驚き、里へ帰ってきて病気になったという話があります。
これを、時間という問題として対応させるために、たとえば『古事記』『日本書紀』ともってきてもいいのです。その中つ巻の神武天皇記のところで、神武が大阪の方へいくのに近畿地方に入れない。それで熊野のほうを回って後ろからまわって入っていく記述があります。
神倭伊波礼毗古の命、そこより廻り幸して、熊野の村に到りましし時に、大き熊、髣かに出で入るすなはち失せぬ。しかして、神倭伊波礼毗古の命、たちまちにをえまし、また、御軍もみなをえて伏しぬ。この時に、熊野の高倉下(こは人の名ぞ)、一ふりの横刀を■ち、天つ神の御子の伏しませる地に到りて献りし時に、天つ神の御子、すなはち寤め起きて、「長く寝ねたるかも」と詔らしき。
この話はすぐわかるように、山口村の吉兵衛さんや佐々木嘉兵衛さんの体験したのとおなじ体験の位相だということです。つまりおなじ話だということがわかります。
それからまた、吉野川の川尻に到ったとき、尾っぽのある人間が出てきたという話。
吉野河の河尻に到りましし時に、筌を作せて魚取れる人あり。しかして、天つ神の御子「なは誰ぞ」と問ひたまへば、「あは国つ神、名は贄持之子といふ」と答へ白しき(こは阿陀の鵜養が祖ぞ)。そこより幸行せば、尾生ふる人井より出で来。その井に光あり。しかして、「なは誰ぞ」と問ひたまへば、「あは国つ神、名は井氷鹿といふ」と答へ白しき(こは吉野の首等が祖ぞ)。すなはち、その山に入りませば、また尾生ふる人に遇ひましき。この人巌を押し分けて出て来。しかして、「なは誰ぞ」と問ひたまへば、「あは国つ神、名は石押分之子といふ。今、天つ神の御子の幸行しぬと聞きつれば、参向へつるにこそ」と答へ白しき(こは吉野の国巣が祖ぞ)。
神武が山のなかで熊に遭遇したりする神話のなかに出てくる話は、『遠野物語』に出てくる吉兵衛さんや嘉兵衛さんの体験した話とおなじで、おなじ物語の位相にあるのだといえます。一方は遠野地方の民譚ですけれど、これは両方ともおなじではないか。つまり物語として、おなじ位相にあるということがわかります。少なくとも神武記というのが、実在の歴史時間としてどこに位置するのか、弥生時代の初期に位置するのか、また弥生時代の象徴としてあるのか、縄文時代の末期になるのかということは、きちんと対応できるかわかりませんし、確定することは難しいですが、少なくとも神武記の時間、歴史時間の凝縮したものとおなじ時間を『遠野物語』の話が包括していることがわかります。
民話と神話との違いということがあるんですが、われわれの考え方では、民話が制度の歌詞後というか、社会制度、政治制度ですけれど、その制度の梯子をどんどん登っていったものが神話だということです。それ以外何も民話と神話は違うところがありません。本質的に何も違わないのですが、制度の梯子をどれだけ登ったかということで神話というものの性格が現れてきます。民話的要素が少なくなってしまって、その神話の支配者などの祖先の合理化のようなことになってくるわけです。制度の梯子を、民話がどんどん登っていくときに、どうしても制度に濾過されるために、その制度の網の目に合格したものだけが、次の制度の網の目に入っていえる。そうして神話が出来る、と同時に神話の持ち主であるその支配的な共同体の合理化といいましょうか、祖先物語にどんどん近づいていってしまうわけです。しかし、民話と神話の本質はちっとも変わらないのです。制度の梯子をどれだけ登ったか、登らないかということで、さまざまな形態をとり、よけいなものがくっつき、面白いところがなくなっていったりします。
いまいったのは、『古事記』中つ巻による神武記とおなじ時間を、『遠野物語』が包括している、含んでいるということです。
それでは『遠野物語』で一番原始的な時間、一番遡れる時間とは何だろうかということを申し上げてみましょう。この辺になると僕の主観的な考え方が出てきますから、妥当性があるとは主張しませんけれど、たとえば『遠野物語』に飯豊の菊池松之丞という人の話があります。
九七 飯豊の菊池松之丞と云ふ人傷寒を病み、度々息を引きつめし時、自分は田圃に出でて菩提寺なるキセイ院へ急ぎ行かんとす。足に少し力を入れたるに、図らず空中に飛上り、凡そ人の頭ほどの所を次第に前下りに行き、又少し力を入るれば昇ること始めの如し。何とも言はれず快し。寺の門に近づくに人群集せり。何故ならんと訝りつゝ門を入れば、紅の芥子の花咲満ち、見渡す限も知らず。いよ〻心持よし。この花の間に亡くなりし父立てり。お前も来たかと云ふ。これに何か返事をしながら猶行くに、以前失ひたる男の子居りて、トッチャお前も来たかと云ふ。お前はこゝに居たのかと言ひつゝ近よらんとすれば、今来てはいけないと云ふ。此時門の辺にて騒がしく我名を喚ぶ者ありて、うるさきこと限りなれど、拠なければ心も重くいや〻ながら引返したりと思へば正気付きたり。親族の者寄り集ひ水など打ちそゝぎて喚生かしたるなり。
これは瀕死の体験をして生き返ったという話で、しばらくはおなじような話が出てくるわけです。僕は、神話の時間として、あるいは民話の時間としては、これが一番原始的な、一番遡れる時間ではないかというようにかんがえます。
これはなかなか難しい問題なのですが、『古事記』でいえばイザナギとイザナミの話があります。イザナミが死んでしまって黄泉の国へ行ってしまう。そこでイザナギが連れ戻そうと黄泉の国へ旅していくけれども、簡単には帰れない。しかし迎えに来てくれたので、帰ろうとおもうから自分の姿を見ないでくれとイザナミがいいます。イザナギが覗いてみると、イザナミの体から蛆がわいていて、ぞっとして逃げ出すわけです。
ここに、伊耶那岐の命見畏みて逃げ還ります時に、その妹伊耶那美の命「あに辱見せつ」と言ひて、すなはち予母都志許売を遣はして追はして追はしめき。(中略)いやはてに、その妹伊耶那美の命みづから追ひ来ぬ。しかして、千引きの石をその黄泉つひら坂に引き塞へ、その石を中に置きて、おのもおのも対ひ立ちて、事戸を度す時に、伊耶那美の命の言らししく、「愛しきあがなせの命。かくせば、なが国の人草、一日に千頭絞り殺さむ」しかして、伊耶那岐の命の詔らししく、「愛しきあがなに妹の命。なれしかせば、あれ一日に千五百の産屋立てむ」ここをもちて、一日に必ず千人死に、一日に必ず千五百人生きるるぞ。
これは『古事記』の上つ巻にあるのですが、その比良坂のところをおおきな石で塞いで、そこが黄泉の国と現世との境界になっているという物語です。その神話と死体験の飯豊の松之丞さんの体験とは、たぶん時間的に同時性があるだろう、といいましょうか、時間的に対応するのだと、かんがえます。
もう少しその例を挙げますと、アイヌの神話などによくあるのですが、たとえば、これはふくろうの神様が歌ったという形で神話になっています。ふくろうが空を飛んでいる。そうしたら、子供たちが弓で射落とそうと追っかけてくる。そのなかにとても貧しい家の子供がいた。その貧しい家の子供は木の弓しかもっていない。他の子どもたちはみんな金属の弓をもっている。それでかわいそうだから貧しい子供に撃たれてやろうとおもって、例の貧しい子が木の弓を射たときに当たって落ちてやったというのです。これはふくろうが語っている形になっていて、ふくろうの側から記述しています。その後その貧しい子が、一等最初に駆けつけてきて、自分の小屋に帰った。小屋にはその子の親の老夫婦がいます。老夫婦はやはり貧しくて持ち物は何もない。それで、イナウというのは木を削って枝葉をつくったものですが、それを供えて、自分の家、すなわち死んだふくろう家、それはあの世ですけれども、そこに送り届けてやろうと話しあいます。
夜になって寝静まったころ、じぶんは―両耳のあいだに座っていたというふうに書かれています。要するに、自分の間に座っていたというふうに書かれています。要するにじぶんの両耳のあいだに自分が居て、よく見ていたというのです。それでみんな寝静まってしまったあと、バタバタと室のなかを飛びながら、羽音とともに宝物をいっぱい降らせた。宝物が室の上のほうまでいっぱいになったところで、じぶんはまた耳のあいだに止まってみていた。それから老夫婦にいつの間にか宝がいっぱいになったよという夢をみせてやった。夜があけて老夫婦が目を覚ました。そしたら家のなかにいっぱい宝物がある。老夫婦は宝物やお酒を供えてくれて、自分をあの世へ送ってくれた。アイヌの世界観でいえば、あの世とおなじで、ただ反対だというだけなのです。おなじ光景があり、おなじ生活があるというのが、アイヌの世界観です。だからじぶんがあの世に帰ってみると、老夫婦が供えてくれたものが、じぶんの家にちゃんとあった。そういうふうにふくろうが語るという形になっています。
じぶんが自分の耳のあいだで見ているというのは、われわれの考えでは、さっきの瀕死体験の菊池松之丞さんの話と時間的に同時性をもつ、おなじことを語っているのだとおもいます。あとで詳しく申し上げますけれど、仮にこれを中間連続といってみます。つまり中間は連続しているものだという考え方があります。中間というものは連続していて、この世からあの世へ行く場合にもスムーズに行ってしまう、あるいはこちらからあちらへ行くときにもスムーズに行くのだということです。こういう世界かなは神話的イメージがあるところにしか成り立たないでしょうと思うのです。また松之丞さんの瀕死体験とか『古事記』とか神話のそういう記述の仕方というものも、神話的な時間のところでしか成り立たないだろうと思います。
だから、これはかなり古い、原始的な時間だというふうに考えるのです。つまりイザナギ・イザナミ時代から神武記中つ巻の歴史的な時間というのは、どこに対応するのかということは確定することはできないし、単なる神話で作り話かもわかりませんけれども、歴史時間を共有してきたものとしては、『遠野物語』がたいへん古いところを包括しているということができるでしょう。
いまいったことは、体験譚のところから抜き出すことができる『遠野物語』の時間の働きを指しています。けれどもまた、事実譚のなかからもおなじように取り出すことができるのです。もちろん年号が書いてあって、大同という年号が出てきます。
二四 村々の旧家を大同と云ふは、大同元年に甲斐国より移り来たる家なればかく云ふとのことなり。大同は田村将軍征討の時代なり。甲斐は南部家の本国なり。二つの伝説を混じたるに非ざるか。
二五 大同の祖先たちが、始めて此地方に到着せしは、恰も歳の暮にて、春のいそぎの門松を、まだ片方はへ立てぬうちに早元旦になりたればとて、今も此家々にては吉例として門松の片方を地に伏せたるまゝにて、標縄を引き渡すとのことなり。
大同という時代でいえば、桓武天皇の延暦年間の次です。だからもちろん大同という年号で九世紀初頭の時間というのが具体的に出てくることはあるわけですけれど、もう少し事実譚のところから原始的時間が典型的に出てくる例を見てみます。『遠野物語』一一六、一一七に父親と母親の物語があります。
一一六 昔々ある所にトゝとガゝとあり。娘を一人持てり。娘を置きて町へ行くとて、誰が来ても戸を明けるなと戒しめ、鍵を掛けて出でたり。娘は恐ろしければ一人炉にあたりすくみて居たりしに、真昼間に戸を叩きてこゝを開けと呼ぶ者あり。開かずば蹴破るぞと嚇す故に、是非なく戸を明けたれば入り来たるはヤマハゝなり。炉の横座に踏みはたかりて火にあたり、飯をたきて食せよと云ふ。其言葉に従い膳を支度してヤマハゝに食わせ、其間に家を遁げ出したるに、ヤマハゝは飯を食ひ終りて娘を追ひ来り、追々に其間近く今にも背に手の触るゝばかりになりし時、山の蔭にて柴を苅る翁に逢ふ。おれはヤマハゝにぼつかけられてあるなり、隠して呉れよと頼み、苅り置きたる柴の中に隠れたり。(中略)此間に再び此所を走り出で、一つの笹小屋のあるを見付け、中に入れて見れば若き女ゐたり。此にも同じことを告げて石の唐櫃のありし中へ隠してもらひたる所へ、ヤマハゝ又飛び来り娘のありかを問へども隠して知らずと答へたれば、いんね来ぬ筈は無い、人くさい香がするものと云ふ。それは今雀を炙つて食つた故なるべしと言へば、ヤマハゝも納得してそんなら少し寝ん、石のからうどの中にしようか、木のからうどの中がよいか、石はつめたし木のからうどの中にと言ひて、木の唐櫃の中に入りて寝たり。家の女は之に鍵を下し、娘を石のからうどより連れ出し、おれもヤマハゝに連れて来られたる者なれば共々に之を殺して里へ帰らんとて、錐を紅く焼きて木の唐櫃の中に差し通したるに、ヤマハゝはかくとも知らず、只二十日鼠が来たと言へり。それより湯を煮立てゝ焼錐の穴より注ぎ込みて、終に其ヤマハゝを殺し二人共に親々の家に帰りたり。昔々の話の終りは何れもコレデドンドハレと云ふ語を以て結ぶなり。
これは、まったくそのまま『今昔物語』や『宇治拾遺物語』、つまり日本の昔話によく出てくる話になります。たとえば『今昔物語』の巻二七の十五に、お産をする女が南山科に行って、鬼に会って逃げる話がありますけれども、それはほどんとそっくりというほふぉ同じなのです。
昔、人の屋敷に仕えている若い女が、誰の子供ともわからないような子供を妊娠する。それでその女は主人にいうのも恥ずかしいし、どこか田舎の方へ行って、お産をして帰ってこようとおもう。下女を一人連れて、産気づいたときに山のなかへ行って、それでお産をしようと考える。そして北山科までやってくると家があって、入っていくと一人の白髪の老婆が住んでいる。泊めてくれないかというと、喜んで泊めてくれる。そこ無事にお産する。そうしているうちに老婆が、寝かせた赤ん坊をみて「穴甘気、只一口」といっているのを聞く。女は驚いて、これは鬼に違いないとおもって逃げ出してくるという話です。
そうすると『遠野物語』は、いわゆる古典物語、昔物語の時間も同時に含んでいるということがいえるのではないでしょうか。こういう古典物語がだいたい平安末期から中世にかけていっぱい作られたとすれば、平安末期から中世の歴史時間というものも、やっぱり『遠野物語』が包括しているということがわかります。
もう一つ例を挙げてみます。たとえばこれは『遠野物語』の六八でしょうか、一種の地名起源譚というのがあります。
六八 土淵村には安倍氏と云ふ家ありて貞任が末なりと云ふ。昔は栄えたる家なり。今も屋敷の周囲には堀ありて水を通ず。刀剣馬具あまたあり。当主は安倍与右衛門、今も村にては二三等の物持にて、村会議員なり。安倍の子孫は此外にも多し。盛岡の安倍館の附近にもあり。厨川の柵に近き家なり。土淵村の安倍家の四五町北、小鳥瀬川の河隈に館の址あり。八幡沢の館と云ふ。八幡太郎が陣屋と云ふもの是なり。これより遠野の町への路には又八幡山と云ふ山ありて、其山の八幡沢の館の方に向へる峯にも亦一つの館後あり。貞任が陣屋なりと云ふ。二つの館の間二十余町を隔つ。矢戦をしたりと云ふ言伝へありて、矢の根を多く掘り出せしことあり。此間に似田貝と云ふ部落あり。戦の当時此あたりは蘆しげりて土固まらず、ユキ〻と同様せり。或時八幡太郎こゝを通りしに、敵味方何れの兵糧にや、粥を多く置きてあるを見て、これは煮た粥かと云ひしより村の名となる。之を隔てゝ足洗川村あり。鳴川にて義家が足を洗ひしより村の名となると云ふ。
『風土記』にもちょうどおなじような物語、こじつけ話といっていいのでしょうか、そういう話がいっぱい満ちています。だから、『遠野物語』で地名の起こりを語っているところは、『風土記』とおなじ時間性だということもできます。『風土記』は八世紀か九世紀でしょうか、この時間性をも『遠野物語』はおなじように含んでいるということです。『遠野物語』のそういう伝承はべつに『風土記』を真似してできたわけでもなく、独立して出来たわけでしょう。でも「似田貝」というのはそうでもないので、ニタとかヌタは湿地帯のことを意味します。ニタガイというのはアイヌ語からきていて、湿地を後に控えた土地みたいなことを意味します。だから、「煮た粥」であるというのは全然お話にならないのですが、『風土記』でもやはりそういうことをやっているわけです。
しかし、柳田さんが一生懸命地名の研究でやっているように、日本の地名というものの起こりは、地勢や土地の形態を語るものが多いのです。そういう地名がついているということは、そういう地勢を表す、つまり地名のことばは地勢のことばを起源としているというわけです。だから、偉い人が通ったときに「煮た粥」があるから「似田貝」になったんだという話は、まったくの作り話で、時間としても八世紀や九世紀で、それほど古いものではないのです。ある場所で、つまり遠野なら遠野の「似田貝」という村の名前はいつできたかというと、もう遥か以前に出来ているわけです。本来地名は地勢の名前や土地の山川の名前を語っているのですから、この起源譚は『風土記』とおなじことをやっていることになります。つまりそれは八世紀とか九世紀とかの時間に外堂するわけですけれど、「似田貝」という地名が出来たのは、ほんとうはもっとずっと以前、原始時代のころのことです。そのような地名の起源譚としていえば『遠野物語』は『風土記』とおなじような時間が含まれているということです。これは伝承物語からいえる時間です。
そうしますと、『遠野物語』というのは物語の事案として原始時代から八世紀、九世紀、つまり『風土記』、あるいは少し遅れて中世に近い『今昔物語』や昔物語のまとまったものが出来た時代も入って、大きな幅で物語の時間を含んでいるということがわかります。これは『遠野物語』が物語としてたいへん本格的なものだということです。文体はやや古くて、昔物語になぞらえて「~たり」という文語調で書かれていますけれど、記述の内容としては、明治末年の頃には新しい記述のタイプなのです。そういうタイプをもちながら、『遠野物語』は時間としてはたいへんおおきな多様な時間を包括している物語だといえるわけです。これは何に匹敵するかというと、『今昔物語』や『宇治拾遺物語』です。それらの物語もかなり多様で幅のある時間を包括しています。しかし記述のスタイルその他も含めて総合的にいうならば、そんなにたくさんの時間、つまり成立した中世初期からそんなに長く遡れる時間を包括しているとはいえないでしょう。それは物語の単一性ということを意味しているとおもうのです。
だけれども、『遠野物語』の場合は、たいへん見事に多様な幅のある時間を包括しています。これは半分は無意識のうちに伝承によっているのでしょうけれど、半分は柳田国男の事実と幻想をとってくる取り方にかかっています。これが柳田国男の民俗学がもっている時間の幅を決定しているとおもいます。柳田国男は山林の世界というのは戦士時代の時間なんだということをいったりしていますけれど、柳田国男の見ん独学のもっている固有性とか特有性が、この『遠野物語』におおきな時間の幅を与えているのだということができます。
だいたいここまで述べてきたことは、『遠野物語』がいったい物語としてどういう物語なのか、どういう性格をもっているかという疑問、またどこにも類例がないとおもわれてきたのはなぜかということ、その疑問にたいするにわか勉強の成果です。いままでいったようなことを皆さんが総合してくだされば、『遠野物語』が同時代の文学とはあまり縁がないところで独創的に作られていたこと、それからこの物語が昔物語とどこが違って、どこが特色かということについて、イメージが得られたのではないかと思います。僕もだいたいのイメージはそういうところで捉えられているような気がしています。
おわりに少し楽しい話をしてみようと思います。たとえば、僕は楽しいと思いますし、たぶん柳田国男自身が楽しみながら記述しているとおもわれるところは、『遠野物語』の五〇から五三で記述されています。僕はここが『遠野物語』のなかで一番楽しいとおもったのです。たぶん柳田国男も楽しいとおもって書いたんだろうとおもえます。
五〇 死助の山にカツコ花あり。遠野郷にても珍しいと云ふ花なり。五月閑古鳥の啼く頃、女や子ども之を採りに山へ行く。酢の中に漬けて置けば紫色になる。酸■の実のやうに吹きて遊ぶなり。此花を採ることは若き者の最も大なる遊楽なり。
「カッコ花」という花の名前の起源譚です。こういうものはものすごく楽しんで書いたのだろうなとおもいます。これは『遠野物語』のなかでは意味をつけなくても、それ自体がなかなか楽しいというような個所だとおもいます。
また「オツト鳥」というのが五一にあります。
五一 山には様々な鳥住めど、最も寂しき声の鳥はオツト鳥なり。夏の夜中に啼く。浜の大槌より駄賃附の者など峠を越え来れば、遥に谷底にて其声を聞くと云へり。昔ある長者の娘あり。又ある長者の男の子と親しみ、山に行きて遊びしに、男見えずなりたり。夕暮れなり夜になるまで探しあるきしが、之を見つくることを得ずして、終に此鳥になりたりと云ふ。オツトーン、オツトーンと云ふは夫のことなり。末の方かすれてあはれなる鳴声なり。
もう一つ今度は馬が鳥になるというのが、これ「馬追鳥」です。
五二 馬追鳥は時鳥に似て少し大きく、羽の色は赤に茶を帯び、肩には馬の綱のやうなる縞あり。胸のあたりにクツゴコのやうなるかたあり。これも或長者が家の奉公人、山へ馬を放しに行き、家に帰らんとするに一匹不足せり。夜通し之を求めあるきしが終に此鳥となる。アーホー、アーホーと啼くは此地方にて野に居る馬を追ふ声なり。年により馬追鳥里に来て啼くことあるは飢饉の前兆なり。深山には常に住みて啼く声を聞くなり。
この種の話は僕がしゃべったって、ちっともいいなあとはおもわないでしょう(笑)。けれど全文をお読みになるとものすごくいい。簡単に記述してあるのですけれど、含みがあって見事で、楽しそうなところです。
柳田国男の『口承文芸史考』のなかに「夢と文芸」という一節がありますけれど、そこにこういう話があります。信州の山のなかの村の農家の人が自分の馬を里方の親類の人に貸してあげた。そしたら里方のほうから借りた馬が病気になったと知らせてきて、主人の方が急いで里方へ出かけていった。その夜女房が夢を見ます。馬が夢のなかで起き上がって、俺は病気じゃないから殺さないでくれという。女房が恐ろしくなって気をもんでいると、主人が帰ってきます。そして病気でとても助からないから、殺して皮を剥いで売ろうとおもって殺してしまったというのです。女房が夢を見たときがちょうど馬を殺したときにあたるのかもしれないわけです。そしてその女房は一日中泣いたという話が出てきます。
これは馬が人間になってといいますか、人間らしくなって立ち上がって、俺を殺さないでくれと夢の中でいったとという話ですけれど、いってみれば『遠野物語』の人間が馬になるとか、馬が鳥になるという話とちょうど反対になっていますが、一脈相通ずるものがあります。人間と動物や植物との間柄というものを、とてもよく語っているでしょう。『遠野物語』のなかでこういう話はすごく気分がいいというか、楽しい話になっています。
それでは、この種の楽しいお話はなぜ可能か、あるいはなぜこういう話が生まれるかということになるわけですが、それは、植物と動物とのあいだ、また動物と人間とのあいだ、生物と鳥とのあいだに境界線がないんだ、あるいは中間はいつでも連続しているのだというような思考方法が、柳田国男の潜在的な方法にあるからだとおもいます。
僕らがもっている思考方法では、ここにAがあってBがあってここに中間があるという言い方をしますと、AはA、BはB、中間は中間で決まっているというように、中間の概念は端とおなじようにいつでも決まっています。そのような論理的なイメージをもっています。それが僕らのもっている中間の概念なのですけれど、柳田国男の思考方法の特徴は、文体もそうなのですが、中間は必ず連続しているのだというスタイルなのです。柳田国男の文体のスタイル、思考方法のスタイルは、何かわれわれ日本人のもっている伝承や風俗・習慣や性格の特質ととてもよく掴んでいたといえます。
日本人というのは、あまり際立って人と対立したりするのが嫌いなものだから、なあなあになってしまうといわれます。AかBかでなければならないのにうやむやにくずれた中間になってしまうのだということです。これは日本人の悪いところだということになっています。論理的な言い方をするとたしかにそうなりましょう。人間と人間の関係をいう場合でも甘えの構造とかいわれ、日本人というのは甘えの構造があって良くないということになります。ところが、甘えの構造というのは、ある場合にはよくないですけど、いい場合もあるわけです。つまり甘えの構造みたいなもの、中間の構造みたいなものは、なあなあの構造といってもいいんですけど、それはいい悪いの倫理の問題と短絡すべきではなくて、それ自体としてきちんと分析しなければいけないことに属するわけです。柳田国男は分析しなくても、もちろん分析する場合でも、中間は連続するということを自然にいっているところがあります。
中間が連続するということを、ひとりでいっているということは、柳田国男のとてもおおきな特徴だとおもわれるのです。これはどこから生まれるのかといいますと、さっきいったように、鳥と獣のあいだ、植物と鳥とのあいだ、あるいは人間と獣とのあいだは、獣は獣、人間は人間、そしてこっちからこっちへ移るんだというようなものではなくて、これらのあいだには中間連続しているものがあって、すーっと移行してしまうのだという考え方、大袈裟な言い方をすると世界観、ちいさくいえば思考のタイプがあるのだと思います。これは日本の風土・習慣の弱点になるときもありますし、利点になることもあります。やはり、冷たい社会だなあとおもわないで済むところがあって、なかなか利点もあるのです。この問題はいい悪いに結びつけるよりも、そのこと自体をよく解明したり、掘り下げたりしなければいけない問題のようにおもえるのです。柳田国男は自然にそういうことをやっています。これは柳田国男の思考のおおきな特徴だと思います。
柳田国男が挙げている例で言いますと、僕らがこういうことをいってもうまくいかないのですが、柳田国男が言う記述のスタイル自体がそういうふうになっていきます。たとえば日本人というのは、自然の音調をことばと同じように聞く、そういう特性があるんだと彼はいっています。自然の形を目で見たときにやっぱりことばとおなじように見るところがあるともいいます。本来人間の脳の作用として、脳の視覚領域と聴覚領域とがうまく重なったところが、ことばになる領域だといわれています。ところが、柳田国男の考え方によれば、聴覚の領域と視覚の領域はぴしっと領域が決まっているというようにはならないで、中間が連続しているという概念になります。中間が連続する概念でもって、自然のものごと、風の音とか水の流れというものを、日本人はことばとして聞いているところがあるという言い方をします。
つまりこういう場合に、ひとりでに中間が連続しているんだということを、柳田国男は記述自体で体得しているところがあるのです。柳田の個々の文章を読んで、僕らがいつでもびっくりするところはそこです。一般的にはことばは左脳、視覚聴覚は右脳なんだといわれていますが、角田忠信さんの研究によれば、日本人は左脳を右脳的に使ったり、右脳を左脳的に使ったりしている、それが日本人の脳の特徴なんだということです。そういうふうにいうと、「そんな曖昧なことをいうな、学問になってないぞ」と騒ぐ人もいます。けれども、そんなことで騒ぐか騒がないかではなくて、われわれが「そうだ」ということが実感として思いあたることがあるところが大切なのです。
たとえば、典型的な例として考えてみますと、『源氏物語』の主人公光源氏というのは、いまでいえば内閣総理大臣に該当するわけでしょう。そういう人が冬の月を見ながら涙を流したとか、庭の草木を見やって涙を流したとかいう描写が出てきます。そうするといやしくも一国の総理大臣みたいな人がこれでいいのかなとか、そんな感傷的なことで務まるのかなとかおもってしまいましょう。でもそういう場合に、ある意味では、月をことばと同じようにみているところがあるわけです。これは現在の僕らにもいくらかなりとも残っているところがあります。だからそういうのを実感としてはわかりますが、これを理屈づけしようとすると曖昧な理屈というのはありえないですから、厳密な理屈に耐えないみたいになってしまいます。柳田国男はそういう意味ではきちんとした理屈づけではないんですが、自然に中間は連続するという論理をいっていることになります。視覚は、ことばの作用とどこかでつながっているということを自然に文体自体が語ってしまっているところがあります。もちろん内容としてもそれを入れてしまっているところがあって、これは柳田民俗学のおおきな特徴をなしています。
たとえばフレーザーと比べて、西洋的論理なり思考方法で照らし合わせれば、柳田民俗学は問題にならないんじゃないかといわれるかもしれません。分類も出来てないし、何一つ明確な結論も出していないじゃないかというように見えてしまうわけです。しかしそうではない特質を探る読み方をしますと、柳田国男さんの文章はやはり西洋的思考が含まれています。われわれから見ると、一冊の本でよくできるなとおもうくらい、そういうものが多く含まれています。しかしそれは論理ではないのです。だから中間は連続するものだという柳田さんの思考方法の特徴だと思います。
境界の問題として、西洋的思考方法に従えば、甘えの構造、なあなあの間柄の構造だといわれるような、あるいは情緒と論理を勘違いしているのではないかといわれるような構造が、どこで出来たのかということがあります。どうしてこれが日本人の特徴だと思われてしまうのか、また実感的にもある程度そうおもってしまうのか、ということです。これもなかなか解決するのが難しいでしょう。ただ僕が近頃おもっていることは、日本人は難しい、日本人はよくわからないところがあるということです。
違う言い方をしますと、日本人という構造、あるいは日本という構造は、相当以前に壊れてしまっているとおもいます。そこで再現するのがすごく難しい人種です。これはことばでもそうです。日本語というのも僕は本当はよくわからないのです。また日本の風俗・習慣、それから中間は連続するという情念、情緒の持ち方というのも、どうもわかりにくいところがあります。何といいますか、日本人は何かわからない、難しいというのが、僕の実感です。日本語もまたわからないとおもっています。
『古事記』や『日本書紀』の最古の記述された文章をみても、「これが日本語かね」とおもえるところがたくさんあります。人名にも、地名にもあります。訳の分からない長ったらしい名前などは、どこから出てきているのだろうかということもあります。これが日本語で日本人のことを書いてあるとはとてもおもえないようなわからないことがたくさんあります。
そういうことの解明は、これからの問題に属するわけですが、こどばの問題でも、近隣のことばと全然にていないのです。琉球、沖縄語とか、アイヌ語とかにわずかに似ているところがありますが、他のところとはどことも似ていない。似ているというのは嘘だとおもいます。似ているというためには、時間幅をこの時代だと特定してかんがえなければならないとおもいます。時間幅をとらなければいけないような対比の方法はダメだとおもいます。そういう観点からいいますと、いままでの日本語は何に似ているかという議論は、ことごとくだめだったと思います。それほど日本語の難しさや月を見て涙を流すというような日本人の感性のわからなさというのは、どこに求めて解明していくかというのはこれからの問題ですが、僕は縄文時代と弥生時代の中間あたりで、なんとなく何かあったような気がするんです。つまり縄文人と弥生人が征服しあっていくことがあっただろうけれど、そうではなくて、なあなあとやったところもあると思います。そのなあなあのやり方におおきな根拠があるのではないかとおもっています。これはいいかげんなことをいっているだけですけれど、僕はそのようにおもっています。
地名なども、先ほどの「似田貝」ではないですが、残っていたりするわけです。なあなあでなかったら、こんな地名はやめにして、新しい地名を作ろうということにもなるわけです。極端にいえば、地名はもう番号でいこうと、いまみたいになってしまうわけですけれど、なあなあの構造があってなかなかそうはならなかったと思います。なあなあのはじまりは、たぶん縄文人と弥生人のあたりにあって、そこのところで日本という構造、日本語の構造が、壊れたのだと思います。その壊れ方がたいへん早い時期だったので、われわれがその痕跡をどうやって辿ったらいいかが、なかなかわからず、肉迫できにくくなっています。
柳田国男は、その問題意識を当初からもっていきました。そして山人と平地人という言い方で、稲をもってきた人たちと、それ以前に住んでいた人たちの区分が、はじめからおわりまで関心の的になっていました。ここでたぶん中間は連続するという考え方にいきついたのではないでしょうか。そこから柳田国男の考え方のスタイルは生まれてきたと推測することができます。この中間についての論理は整えるのは難しいことですが、柳田国男の場合は論理というよりも、文体の実質の力でそれをひとりでやってしまったとおもいます。
『遠野物語』の体験譚というものの中核に理念を与えるとすれば、この中間は連続しているということだとおもいます。これは、他の古典物語と比べて比類のないほど長い多様な時間を包括していることと一緒に、『遠野物語』が問いかけてくる問題にちがいありません。僕が勉強してきましたことは、これくらいでちょうど尽きましたので(笑)、おわりにしたいと思います。