柳田国男の生涯を眺めわたして民俗学者として出発する前の農政学徒になる前後の若い日の柳田を照らしだすのに、いちばんたくさん使ったのは、田山花袋の文学作品でした。また逆に柳田国男の田山花袋や自然主義に対する感想や批評でした。それが今日、花袋の故郷でもあり、『田舎教師』の舞台でもある邑楽町で柳田と花袋についてお話しすることになった理由だと思います。
はじめに柳田国男が田山花袋についてどんな感想や批判を持っていたかというところから入っていきたいと思います。それにつなげられるように田山花袋の作品と柳田国男との関係でどう考えたらいいか触れられたらと思います。そして、しまいに田山花袋の作品と柳田国男の『遠野物語』をはじめとする民俗学的な仕事のあいだに類縁や同一性があれば言及してみたいと考えます。
柳田国男は『定本柳田国男集』みたいな流布された著書で田山花袋にいくつか触れています。読んだ限りで、いちばん本気になって田山花袋に言及しているのは花袋が亡くなった昭和五年頃に書かれた「花袋君の作と生き方」という文章です。『故郷七十年』の中にも「花袋の功罪」というような二、三の文章があります。そこで述べられていることも同じです。いつか島崎藤村に田山花袋の作品の中で何がいちばんいいと思うかと聞かれたとき、『重右衛門の最後』がよいと答えたということです。これはいくつかの文章でそう言っています。柳田は田山花袋に批判的になったのは、『蒲団』という、あらわれたとき自然主義の衝撃的な作品ということで騒がれた作品からだと述べています。あれは「きたならしい作品」だというのが柳田国男のおもな批判の根拠でした。二十歳前後の青春期から仲のよい文学仲間ですから、田山花袋に会うといつでも、身辺とか家庭とか近親とかに素材をとって作品を書いて、自然主義を無理やり主義としておし通してそうするとそれに縛られて、かえって自分自身を窮屈にしてしまう、自分の方法をもっと拡げることをやったらどうだと批判していたと柳田は言っています。またそれに関連して自分は田山花袋と自然主義の関わりについて考えるたびに、時代が人間を高速する力がとてもきついものだと感じたとも述べています。つまり花袋はじぶんで築いた城のなかに立てこもり、自然主義の山の上にのったまま、そこからなかなかおりてくることができなくなった。おりてこようにも自然主義といえば花袋が象徴だと思われていることで、その思潮から出にくくなってしまった。いかに人間というものは時代に拘束されるものか、田山の生き方をおもうたびにそんな感想をもったと、柳田は述べています。
柳田国男のうけとりようなのですが、自然主義は、どうして社会的不公平とか悲惨に対する抵抗を文学の主眼にしないのか、田山花袋にたびたび話したが、自然主義にとっては社会に役立つか役立たないかは、文学の本道ではないとかたくなに固執していて、いつでも花袋に拒まれたとも述べています。
どちらの言い分が妥当なのかは微妙ですが、このあたりから柳田国男と田山花袋との別れ道がみえてきます。ここの見解をおしすすめていきますと、一方で花袋に象徴される自然主義の本質的なところにぶつかってきますし、また他方で柳田国男の民俗学の方法みたいなところにつきあたっていきます。
一方で柳田は、自分は世間からかけ離れたこと、世間の常識どおりの尺度ではないこと、あるいは世間が現実に役に立つとおもわないことでも、かまわずに気がつくと記録をとったり、考えたりしてきた。これは田山花袋や自然主義から学んだことだといっています。つまり社会に役立つかどうか、面白いか、面白くないかよりも客観描写も主観描写も含め徹底的に描ききってしまわなければならないとする花袋ら自然主義から学んで、民俗的な記録とか文章とかメモを固執して書きつづけてきたというのです。
それからもうひとつ若いころ田山花袋から、いっしょに旅して、旅の仕方をおしえられたと述べている文章があります。柳田国男は旅について、いつも考えていた人です。旅人というのは柳田国男の方法になっているところがあります。ある村を通って、そこに関心をひくものがあると寄り道したり、二、三日でも一ヶ月でも滞在して、村人の生活や風俗習慣を見聞して、関心がみたされるとその村を出てゆきます。これが柳田のいう旅人なのです。旅人が関心をもちすぎたあまり村里の内側にはいって、そこに住みついてしまうと旅人ではなくなります。おおきく言えば、大和朝廷から、ちいさく言えば個人にいたるまで、そこに定住して村人といっしょに生活し、耕したり、宗教をひろめたり、知識をひろめたりしながら、そこに居着いてしまうと、柳田国男の考える旅人から外れてしまいます。外からの眼を使ったり、場合によっては内側から経験したり調べたりするのですが、体験しおわったらその場所を出ていく。定着したら旅人ではなくなってしまいます。柳田国男はいつも関心がおわれば、そこを出ていくというやり方をしていますが、それは若いときに田山花袋から学んだことだといっていいのです。田山花袋に誘われてよく旅をし、紀行文も書いています。その観察は風景だけでなく、土地の風俗や習慣や生活にわたっていますが、これは田山花袋から影響をうけたとても重要なところではないかと思われます。
柳田は、だんだん悪口にもはいってゆくわけですが、自然主義文学は深刻めかしてもたいしたことはないと『山の人生』に書いています。あるとき自分は犯罪者の記録を読みながら、そのなかのとても衝撃を感銘を受けたエピソードを田山に話してやった。そのエピソードは皆さんもたいへんよく知っている西美濃の炭焼きの話です。炭焼きが里に炭をもっていっても、不景気で売れない日がつづきます。お米を交換しようにもできないので、育てている男の子と女の子に飢えさせる日がやってきます。お米を交換できずに疲れて帰ってくる父親の姿を見かねて、ある夕方刃物を研いで、父親が帰ってきたときに、じぶんたちを殺してくれと父親にせがんで、小屋の敷居を枕に子供たちは横になります。炭焼きはついフラフラとなって子供たちを殺し、自分も死のうとするが死にきれないで自主してきます。柳田はそういう犯罪記録を役所で調べていて感銘をうけ、その話を田山花袋に語ってきかせるのです。柳田が書いているところでは、田山花袋はそれはとても特殊で、あまりに深刻すぎて文学にならないといって、小説にすることはできなかった。自然主義は客観描写、現実暴露の悲哀みたいなことをいうが、その描写も現実もたいしたものではない、そう柳田は書いています。
これは柳田国男の自然主義文学にたいする根本的な批判だとおもいます。そうはいいながら青年期に抒情詩人として柳田国男の仲間だった人たちが自然主義文学の主流をつくっていきました。田山花袋、国木田独歩、太田玉茗、島崎藤村といった人たちがそうです。柳田国男はそういう人たちの作品に素材を提供しています。誰だってこういう境遇だったらこういうふうにしちゃうのじゃないかとおもわれる犯罪記録などを、感銘をうけると素材にして語ってきかせるわけです。たとえば、田山花袋に『一兵卒の銃殺』という作品がありますが、それは自分が提供した素材で田山花袋が書いたといっています。柳田は青年期の仲間として一面では素材を提供しているのですが、一面ではあまり深刻な素材を自然主義がこなせなかったことに不満をもらしているわけです。
柳田国男にも反省はあります。自然主義文学のまえに現実を客観的におそれず描写することが重要だと最初に身をもって示したのは二葉亭四迷だと柳田国男は書いています。なるほどこういう描写の仕方があるものなのだと感心したけれど、好みからいうとどうしてもそれについていけなかったと述べています。小説というと、美男子と美女とが出てきて、恋愛を育んでゆくという才子佳人の活躍する物語という通念がどうしても自分の中にあって、現実暴露ということになると、ついていけなかったというのです。田山花袋たちの自然主義に対する柳田国男の反発もある意味ではとても根深いわけです。そこに柳田国男なりの「歌わかれ」があって、じぶんの農政論や民俗学の方向にいく道をつけていったと思います。一方、田山花袋は美男と美女のでてくる夢のような物語が文学じゃないという道をつきつめていったわけです。そして自然主義文学が同時代のおもな思潮になるところまで、田山花袋を象徴的な担い手として移っていきました。明治以降の近代文学が思想らしい思想、理念らしい理念をうけいれた時期は二カ所しかありません。その一カ所は明治末年近くの自然主義文学です。もう一カ所は昭和初年のプロレタリア文学つまりマルクス主義文学です。うまくその理念をこなせたかどうかは別ですが、そのひとつは田山花袋が主たる担い手であったといえるとおもいます。そして田山花袋と柳田国男は『蒲団』という作品を契機として、人間としてつきあっていくのですが、文学や物事の考え方からは別れてしまいます。
田山花袋の代表的な作品といわれれば、誰でも『蒲団』をあげます。世評も高かったのですが、花袋の作品のなかでとてもいい作品のひとつです。『蒲団』という作品には、主人公の竹中時雄という作家が花袋自身に擬せられた人物として出てきます。ファンである若い女性が弟子入りを希望してきて、じぶんの家に同居させるわけです。その女弟子には同志社の学生で京都にいる好きな男があり、その男が上京してきて、女弟子は文学の修行がそっちのけになって交際がはじまります。主人公は女弟子に嫉妬心を燃やすのですが、女弟子同棲してしまいます。主人公は監督上そうはさせないといいながら、女弟子にたいする嫉妬心と恋情を燃やし男との仲を裂こうとしたり、父親を呼んで郷里に帰してしまったりするわけです。いってみれば文学上の弟子として同居させながら、女が男に夢中になってゆくと嫉妬心を燃やし、監督に名をかりて恋情を通わせたりする、そんな経緯を描いた作品です。この作品は大胆な告白ということで世評が高くなりました。柳田国男の方では、この作品が世評に高くなるほどきたならしいと称して花袋に批判的になってゆきます。この作品以後批判と苦言ばかりいってきたと柳田は述べています。現在から公平にみまして『蒲団』という作品はどういう作品なのか申し上げてみましょう。柳田国男がきたならしくて、しょうがなくて、つまらないじゃないかといっている面をことさらとり出して、『蒲団』という作品の性格を申し上げてみましょう。主人公の竹中時雄は出版社に臨時に務めています。勤めの道すがら毎日のようにおなじ時間にぶつかるきれいな女教師がいます。主人公はその女教師について空想するところがあります。どんな描写になっているかといいますと、たとえばあの女教師をうまくかたらって神楽坂あたりの待合に連れ込んだりしたらどうだろうかとか、妻君に内証で二人でどこか近郊に遊びに行ったらどうだろうかといったことを空想します。その時主人公の妻君はちょうど妊娠しています。そして妻君が難産で死んじゃって、あの女と一緒になれたらどうだろうかといった背徳的な空想をするところも描かれています。そういうところが第一に柳田国男が気に入らなかったところだとおもいます。奥さんが難産で死に、その女教師と一緒になったらどうだろうという空想は、田山花袋にすれば誰でもすることがある空想だという確かな人間認識があります。誰もがただ隠しているだけで、誰でも空想することだ。それを描写することで現実の壁、風俗習慣社会の制約というものを切り開くことが自然主義文学にとって重要なことだというのが花袋の考え方です。妻君が死んじゃったら、あの女をひきいれてということを誰も空想したことがないというのは嘘なので、どんな人でも空想することがありうる。それは万人に共通なものだというのが自然主義の確信のひとつです。もしそうだとして妄想のなかでやっているのだとすれば、それを描写してあきらかにすることくらいができなければ文学とはいえないのじゃないかというのが花袋らのもうひとつの確信でした。この二つの確信が『蒲団』のなかに含まれています。真っ当だというこの二つの確信が、柳田国男にとってきたならしく人間の卑小さを示すだけで、何の意味もないことにおもえました。皆さんはどうおもわれるでしょうか。文学という立場からは田山花袋の感じ方を肯定せざるをえないとおもいます。またそれを描くことも自由だとおもいます。文学にはその種の制約は何もないのです。
そういう個所は『蒲団』のなかにまだあります。主人公時雄がじぶんの薫陶をうけたいと、でてきている地方の文学志望の女の人にたいして空想するところがあります。そのなかで、どうぜ文学をやろうという女だから無器量な女に相違ないとおもった、けれどなるべくなら見られるくらいの女であってほしいとかんがえるところが描写されています。いまだったらとくにそうでしょうが、こんなことを書いたらフェミニズムの運動が怒りだすに違いありません。でもそういうことを全然かんがえてもみないかといったら、それはまた嘘になってしまうでしょう。だからそうかんがえたと書くことは、たぶん花袋にとって万人がおもう真実だから、真実なら描写をはばかるべきではないということがあったとおもいます。そういうことを花袋はためらわずに書いています。それは人間のもっている本性のなかで卑しい部分なのですが、卑しい部分がない人間はいないというのが人間性についての自然主義文学の確信です。かりにそんなことが人間のもつ卑しさ野真実だとしても、それを描くことにどんな意味があるのだ、というのが柳田国男の花袋批判の眼目だったとおもうのです。柳田国男は『蒲団』という作品を読んでから花袋の書くものを気にくわないといいだしました。こういう個所を『蒲団』のなかからもう少し挙げてみましょう。主人公時雄が妊娠している妻君のことをかんがえるところがあるのですが、旧式の丸髷姿で、アヒルのような歩き方をしていて、温順で貞節なことより他に何のとり柄もない妻君で、実に情けなかったというのです。道をゆくと、きれいで今様の妻君をつれて散歩している男に出会う。友達のところへゆくと夫と同席して平気で流暢に会話のなかにはいってくる妻君は骨を折って小説を読もうともしないし、夫に内面的な苦悩があっても、そんなことに関係なしに子供にばっかりかまけている、そんなことをかんがえるところが書いてあります。冗談じゃないといえば冗談じゃないわけです。誰でもこんなことばっかりかんがえているとすればとんでもない誤解になってしまうのですが、ある瞬間そんな考えがよぎらないことはないという意味でなら、万人に共通の真実であるかぎり描写されるべきだというのが花袋たちの考え方でした。それに対して、嘘ではないとしてもこんなことばかりかんがえている人間を読まされてはかなわないというのが柳田国男の批判だったとおもいます。
よく知られているように『蒲団』のいちばん最後は、主人公時雄が女弟子を郷里の父親のところにひきとらせることになって、まだ送りかえしていない女弟子の蒲団を敷いてそれにくるまって女弟子の体臭をかぎながら涙を流すことになっています。これも人間の卑少な面を語るふるまいなのですが、こういう感じ方がまったくない人間がいるかといえばそんなことはないでしょう。誰にでもありうることは確かな真実です。ただこれを描ききってしまえば、逆に人間はいつでもこんなことばっかりかんがえている存在だというイメージができますが、柳田国男はそれがあまり好きでなかったのだとおもいます。
ここで何が問題なのか、取り出してみます。『蒲団』に描かれているような自然主義の理念は、平凡な人間が感じたり、やったりすることを、平凡な人間の視点から大胆に描くことが基本にある考え方だといえます。つまり、人間の悲惨さ、もっとやわらかくいえば、人間の悲哀ですが、人間の悲哀を描くことは悲惨を描くとおなじように文学にとって重要なのだという戒律が、自然主義文学によって血肉化された一種の理念、思想だとおもいます。平凡な人間の卑少な行為もあまり崇高でない行為も全部真実であるかぎり大胆に描かなければならないという自然主義の理念、思想は、だんだんと私小説の身辺雑記みたいなところに凝縮していきます。でも日本の明治以後の文学が西欧近代に近づいてゆくためには一度はくぐるべき重要な理念、思想だったとおもわれます。
柳田国男の自然主義にたいする批判は、いい点ばかりだとはおもわれません。社会の悲惨や政治の悲惨や制度の悲惨をみている柳田国男の場所はかなり特別な(特権的な)高みの場所だからです。つまり悲惨の真只中にいて悲惨を問題にしているわけではありません。
さきの『山の人生』に描かれている悲惨な炭焼きの話もそうです。この犯罪を、柳田国男は敏感に反応して、悲惨が社会や政治の制度に原因があり、その場所にいれば誰でも犯罪を犯す可能性がある自然権的な善だとみているわけです。柳田国男がこの悲惨の外に、むしろ裁くものの場所にいるということが、逆に悲惨にたいして敏感にしているともいえます。田山花袋が『蒲団』で描いている女弟子にまつわるゴチャゴチャみたいなことは、悲惨でも何でもない瑣末な出来事で、しかも主人公が賢明ならば避けられることかもしれません。しかし花袋にとって目の前におこったもっとも切実な課題だということで『蒲団』という作品は書かれていることは確かです。花袋からすれば社会的事件でないから問題にならないとか社会的悲惨だから重要なのだという観点はないとかんがえられています。柳田国男の批判は一面では深刻な響きをもちますが、一面では外側の遠くにいて傍観しているからそういえるのだ、ともかんがえられましょう。もっといえば柳田国男はごく普通の人がどんな瑣末なことにあくせくかかずらわりながら生活しているのかほんとは知らないのだと花袋はいいたいのだとおもいます。ここが、柳田国男と田山花袋が別れるところだし、自然主義にたいして柳田国男の方法が別れる場所だったといえます。『蒲団』という作品が出てきて、世評が高まれば高まるほど柳田国男は反発して、もう『蒲団』の評判を聞くのもいやでしょうがないというふうになって、それから以後しばらく田山と行き来しなくなってしまった、しかしよくかんがえてみると、そのとき花袋は花袋なりに、自然主義文学は自然主義文学なりに成熟していった時期だとおもうと柳田国男は書いています。この『蒲団』は柳田国男の表かとはかかわりなく田山花袋にとってとてもいい作品のひとつだというのは間違いないところです。また日本の自然主義文学にとっても記念碑的作品だとおもいます。
田山花袋の代表作をもうひとつ挙げるとなると『田舎教師』ということになるとおもいます。『田舎教師』はこの邑楽町のあたりが舞台になって、弥勒野小学校に代用教員として勤めている文学好きの青年が、東京に上って文学に専念したいと願いながら、老いた親たちの面倒をみなければならず、志をとげられないうちに胸の病気になって、ちょうど日露戦争で遼陽への攻略が勝利をおさめて沸きたっているとき、死んでゆくという作品です。この作品はやはり田山花袋の代表作といえるいい作品だとおもいます。どこがいいかと申しますと、文学というのは、もとをただせばこういうものだったのだという原形みたいな懐かしさがこの作品に保存されていることです。芥川龍之介などは、田山花袋の悪口をいうときには、この『田舎教師』を例にして、こんな鈍重な作品がいいのかと盛んに批判しています。でも現在芥川の晩年の代表作である『玄鶴山房』と、この『田山花袋』を比べて、どちらがいいかということになりますと、ぼくは『玄鶴山房』の方がいいとは、いえないとおもいます。むしろ、『田舎教師』の方がいいかもしれないとぼくにはそうおもえます。文学というのは複雑になったり、方法的に高度になったからよいかというと、そんなことはありません。それを見極めるのはたいへん難しいのです。芥川は才気も教養もある作家で、よい作品を書いた人ですが、かたや芥川の代表作、かたや花袋の代表作ということで、偏見なくみてくださいといったら、どちらがいいかわからないのです。むしろ花袋の『田舎教師』の方が芥川の『玄鶴山房』よりいいかもしれないとおもっています。『田舎教師』はけっして才気のある作品とはいえませんが、文学とはもともとこういうものだといえるものがあります。それは素朴で単純な哀切ですが、文学にとってはとても重要なものです。
ところで『田舎教師』の特徴はどこにあるのか、柳田国男との関連でいくつか挙げて触れてみたいとおもいます。
すこし注意して読みますと『田舎教師』の文体は行動的な文体です。たとえば清三という主人公の振舞いを描写した場合、作者または記述者が「清三はここのところをこう歩いてこんなふうにどこそこへいった」という客観的な描写で記述するのが一般的な描写の仕方ということになります。『田舎教師』の文体はそうではなく、「清三は何々をした」と描かれているのですが、その文章があたかも清三自身がじぶんはこう行動しているといっているような文体をもっているわけです。つまり主体が行動していることを主体が描いているという文体をもっています。これは『田舎教師』のひとつのおおきな特徴になっています。田山花袋の作品を優れたものにしている理由はそこにあるとおもいます。ちょっと二、三行読んでみましょうか。
羽生からは車に乗つた。母親が徹夜して縫つて呉れた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯、車夫は色の褪せた毛布を袴の上にかけて、梶棒を上げた。何となく胸が踊つた。
そうお感じになりませんか。つまりとても解説的に描けば「清三は羽生から車に乗った。清三の母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織にメリンスの兵児帯を着ていた。―」というふうに記述者あるいは作者がひとつの場所にいて、清三という主人公が羽生から車に乗ったところを描写しているという文体になるはずです。ところでいまのようにいきなり「羽生からは車に乗った。」といったら、清三という人がじぶんの動作をそういっているように皆さんに(読者に)おもえてくるわけでしょう。しかしここで清三という言葉を入れて「制動は羽生から車に乗った」と書けば作者が清三という登場人物の動作を描いているのだとおもえてくるでしょう。しかし清三という言葉をぬかしてもう一度読んでみましょう。「羽生から」の次に「は」という助詞をつけたのは主体上たいへんな意味があるのですが、「羽生からは車に乗った。」といったら、車に乗っている清三が車に乗っているじぶんを描いているふうにきこえるでしょう。つまり何をいいたいかといいますと、「清三」という主語を省いたことと、「羽生から車に乗った」あるいは「羽生からは車に乗った」というこの「は」をつけるかつけないかというその二つのことで、文体にふくみができるわけです。そのふくみがなぜできるかといいますと、客観描写のように清三が車に乗ったことを作者が描いているのだともうけとれますし、また「羽生からは車に乗った」というと清三が車に乗ることを清三自身が書いているようにもとれるわけです。その二つの受けとられ方の幅が読む人にふくみを与えるのです。このふくみが総体で集まりますと、作品の価値がそこから出てくることになります。客観描写をしたらふくみがなくなって、そこから作品の価値に寄与するものはでてきません。だから物語のよさや面白さでみせるほかないということになってしまうわけです。ところがこの『田舎教師』の場合はそうではありません。花袋の描写にはひとりでにやってしまっている部分と意図してやっている部分と両方あるわけですが、この場合は花袋は作家として円熟していますから、多分意識的にもこのふくみある文体がひとりでできていったとおもいます。そうしますと『田舎教師』という作品は物語の意味ないようからだけでなく、言葉のスタイルからも価値をうみ出していることになります。この文体の価値は何かといえば、読む人に二重のふくみをちゃんと与えているところからきています。
『田舎教師』という作品で柳田国男との関連で第一にいわなくてはならないことがあるとすればこの作品の行動的文体が、柳田国男の『遠野物語』の文体とよく似ているということです。四の所を二、三行読んでみましょうか。
四 山口村の吉兵衛と云ふ家の主人、根子立と云ふ山に入り、笹を苅りて束と為し担ぎて立上らんとする時、笹原の上を風の吹き渡るに心付きて見れば、奥の方なる林の中より若き女の穉児を負ひたるが笹原の上を歩みて此方へ来るなり。
どうでしょうか。吉兵衛さんが山に入ったところまでは、柳田国男が吉兵衛さんを描写しているように書いていますが、すぐそのあと、吉兵衛さんが笹を苅って、束にして帰ろうとしていることを吉兵衛さん自身が書いているような文体になってしまっています。柳田国男の『遠野物語』のなかでこういった行動している主体を主体自身が描いているような特徴的な文体のものが三十篇ぐらいあります。その三十篇ぐらいの文体が『遠野物語』の特徴になっているのです。この種の文体で『遠野物語』を書いている場合、柳田国男はどんな主題を取り上げているかといいますと、たいていは里の人が山に行って、山人に出会って夢うつつのうちに奇怪な出来事に出会ったということになっています。この特徴がなければ『遠野物語』は昔話を誰それから聞いて、記録しただけということになります。そういう部分はもちろん七十くらい『遠野物語』にあり、それが大部分になっています。しかし特徴になっているのは三十何篇かのこの行動的な文体で描かれた挿話です。ここですぐに、柳田国男は『遠野物語』を書くときに花袋の『田舎教師』の影響をうけたといいたいわけではありません。またそれを確定することはとても難しいことです。
また逆にこの『田舎教師』の行動的な文体は『遠野物語』の文体から田山花袋がうけとったのだということもなかなか困難です。同時代だから、おなじような描き方がひとりでに身についてあらわれたということもあるかもしれません。はっきりいうためにはもっと突っ込んでみなければなりませんが、もしかすると柳田国男が田山花袋からずいぶん学んだといっていることのなかに、こういうことが無意識のうちに含まれているかもしれないのです。柳田国男でもわかりやすところは、花袋の影響を受けたといっていますが、ほんとうに影響を受けたところは、なかなか正直いってないとおもいます。そこは今後、皆さんが探究して決める以外にないとおもいます。
『田舎教師』という作品の特徴をもうひとつ挙げてみましょう。この作品は一種の「地名小説」だということです。それからもうひとつ、一種の「歴史地史を描いている小説」ということもできます。つまり、地名とか、野原の花の名とか、地勢地形のなかに一人の孤独な文学好きの埋もれていく青年教師をおいた物語といえるとおもいます。その青年教師がじぶんの教えた女生徒に憧れをもったり、両親を養うため給料を分け与えなければならず、東京へ行って勉強することができないと、だんだんあきらめたり、やけになって遊郭に通ったりするわけです。そういう青春を野の花のなか、地勢地形のなか、あるいは川のほとりとかたくさんの地名をちりばめたなかに、ポツッとおいた物語だと考えますと、一種の「地名地形小説」としての性格を『田舎教師』はとてもたくさんもっていることがわかります。注意して読まれると、アッと驚くほどその特徴があらわれているところがあります。花袋は紀行文を初期の頃たくさん書いています。その紀行文の延長線でひとりでに花袋の初期の特徴がこの『田舎教師』のなかに出てきているわけで、この描き方は柳田国男がどこそこの地誌を描くときの描き方とたいへんよく類似しております。それもまた、どちらがどちらに影響を与えたと確定することは難しいのですが、そこには時代の共通性か関心の共通か、それでなければ、いわないけれど相互の無意識の影響が必ず含まれているとおもわれます。これは追求するにあたいすることであり、また『田舎教師』という作品のとてもおおきな特徴に数えていいのではないでしょうか。
田山花袋の作品のなかで『重右衛門の最後』や『一兵卒の銃殺』や『一兵卒』などの作品は昔話のスタイルを意図してとっているところがあります。たとえば柳田国男の『遠野物語』の一二に「土淵村山口に新田乙蔵と云ふ老人あり。村の人は乙爺といふ。」という昔話や山の伝説をよく知っている老人のことがでてきます。この記述のスタイルは、『重右衛門の最後』などに使われています。記述者が学校の同級生の郷里なので、重右衛門のいる村里へ訪ねていきます。その郷里のことを聞くところで「二人は言ふのである。自分の故郷は長野から五里、山又山の奥で其の景色の美しさは、とても都会の人の想像などでは」わからないものだ、というところがあります。こういうのと〈土淵村山口に新田乙蔵という老人がいる。村の人は乙爺といっている〉という記述スタイルはおなじで、いずれも昔話のスタイルだといえましょう。これは花袋が『重右衛門の最後』で意識して使っているのだとおもいます。ことにこの作品など柳田国男が素材を提供して使っていることがわかります。花袋は自然主義文学をひろめておおきな潮流をつくっていった先駆者ですが、そのために昔話のスタイルはとても重要な方法になっていたといえましょう。
『田舎教師』と同じように『一兵卒』という作品など主体がじぶんの行動を記述しているという行動的なスタイルの描写で大切なところを、つくしているといってよいくらいです。たとえば一兵卒が意識がもうろうとなったところで妄想したりするところがあります。「蟻だ、蟻だ、本当に蟻だ。まだ彼処に居やがる。汽車もああなつてはお了ひだ。ふと汽車―豊橋を発つて来た時の汽車が眼の前を通り過ぎる。停車場は国旗で埋められて居る。万歳の声が長く長く続く。」これは倒れて死に瀕した一兵卒が妄想のなかで浮かべる光景を独白のように描いているところです。こういう主体の行為を主体が描いているという行動的文体は、花袋がじぶんの作品のなかでたくさん使っている方法です。花袋作品にはこういう立体感のある行動的な文体の作品がありますが、これは柳田国男の『遠野物語』などの特徴的な文体ととても類縁性が濃いものだとおもいます。
花袋と柳田国男は若い頃から和歌や新体詩の仲間として相互に影響しあっているのですが、『蒲団』で批判的になった両者がそれぞれの道へすすんでしまったあとを考えてみても、二人のあいだにたくさんの類縁性をたどることができます。そこで考えますと、花袋や自然主義の文学潮流と、柳田国男の民俗学の方法を支えたスタイルとは、それほど分離してしまったといえない気がします。田山花袋は柳田国男という桂園派の歌人の歌のお弟子さんで、仲よく行き来していました。その頃にほど遠くない頃に書いた花袋の作品で『わすれ水』というのがあります。それをこのあと書きました『野の花』という作品は、その主人公のモデルが柳田国男だという気がします。柳田国男の面影を頭に描いたうえで主人公を設定していると考えます。いずれも柳田国男の独身時代の面影らしくみえる恋愛事件を扱っているわけです。花袋の『わすれ水』の文体というのは文字通り『遠野物語』と同一の文体のようにおもわれます。ちょっと例を挙げてみましょう。『わすれ水』のなかの一節です。
おのれは(主人公のこと―注)常に此処を此上なく好みたる身の、そのままに川原に下り、奇麗なる大石に腰をかけ、暫くは茫然とあたりの風景に見惚れてありしが、霞の少しく薄らぎたる間より、ゆくりなく少女の紅なる裾のちらちらと風に■りて動くを見とめぬ。
それとたとえば『遠野物語』の三に、
此翁若かりし頃猟をして山奥に入りしに、遥かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を■りて居たり。顔の色極めて白し。不敵の男なれば直に銃を差し向けて打ち放せしに弾に応じて倒れたり。
女性の設定の仕方といい、それを見ている場所といい、山のなかと野原のなかという違いがあるくらいで、ほとんど同一だといっていいとおもうのです。花袋も柳田国男もまだ「歌のわかれ」をするまえの抒情詩時代で、この抒情詩時代に書いたのが、『わすれ水』という作品なのです。柳田国男はそういう抒情詩時代からじぶんは別れることができなくて、才子佳人が恋愛する物語が小説の主流なのだという考え方から逃れられず、どうしても自然主義についていけないのだといっているわけですが、自然主義にいたるまえの花袋の文体が『わすれ水』という作品のなかに典型的にあらわれています。その花袋の『わすれ水』や紀行文のなかにある文体から、たぶん柳田国男はたいへん影響をうけていると思えますし、また初期の抒情詩時代の二人は、おなじ文語体スタイルの圏内にあり、柳田はそれを延長して『遠野物語』へ、花袋はそこから脱出して自然主義へという経路も考えられます。このいずれかが『遠野物語』の文体と『わすれ水』を、ほとんどおなじものにしている理由ではないでしょうか。
もっともっと皆さんが探究していかれたら、存外思いがけないところで田山花袋が柳田国男の影響を受けていたり、逆に柳田国男が田山花袋の影響をうけていたりというようなことが見つかってくるのではないかとおもいます。そういうところまで入っていきますと、柳田国男自身がいっている田山花袋の影響や批判も、花袋がいっている柳田国男の影響や異論も、あまり深いところまではくぐっていなくて、表面的なところでいいあったり許しあって済ましたりということかもしれません。もっとおおきな追究の仕方ができるのではないかとおもうのです。二人が自分では語らなかった無意識の影響を含めて少し追究できますと、柳田国男自身に対してだけでなく、日本の自然主義文学に対する追究に入っていくことになるのではないでしょうか。田山花袋についても、柳田国男ほどではありませんが、たくさんの研究がなされ、たくさんの研究者がおります。しかし田山花袋と柳田国男の関わりの面で田山花袋を追究している人はそんなにたくさんはいないとおもいます。その面は皆さんの得意な場面でもありますし、とても重要な面でもありますから、これからたくさんやっていかれたらよろしいのではないでしょうか。今日お話ししたことが、そういう誘い水みたいなものになれたらたいへん嬉しいわけで、お役目が終わったようなものだとおもいます。