今日は、家族問題について話をということなんで、で、どういうお話をしようか考えたんですけど、いろいろな本をめくってきたんですけど、自分で考えて、今日の話とかっていう場合、いちばん引っ掛かってくるのは、家族問題っていう話をしますと、いずれにせよ、自分を抜きにして、自分の家族を抜きにして話せない、そうすると危ないことなんですね、つまり、非常にヒヤッとすることに、全部ふれていかないと、家族問題の話にならないっていうことが、ひとつあります。
それから、もうひとつが、これはいろんな人の、家族問題についての著書っていうのを読みますと、すぐにわかるんですけど、みんな、当たらずといえども遠からずっていうか、ようするに、まあまあ間違ったことは言ってないよなぁっていうふうに思いますけれど、つまり、何を言ってるのか、何を言おうとしているのかっていうことが、あまりはっきりしないですね、本を読んでも。つまり、家族問題について論じている、あるいは、触れている著者自身が、自分が家族問題のどこに触れようとしているのかっていうのに対する明瞭な自覚っていいますか、測定度がないっていうことは、いちばん、ぼくには、著書をみまして、感じたことです。その両方です。
それから、もうひとつはやっぱり、先ほど言いましたように、これは自分の家族抜きにして、いい加減なこと言えないなっていうことと、また、自分の家族を考えに入れた上でいうと、たいへんきわどいことを言わなければならないとか、きわどいことに触れなきゃならないっていう、そういうことがあります。
つまり、その2つのことが、ぼくは、いちばんの、家族問題について、何を話そうかって考えたときに感じたことです。そこで、ぼく、よくよく考えまして、結局、僕自身のもっている考え方っていうのをお話したほうがいいんじゃないかなっていうふうに思ったんです。つまり、自分の考え方っていうのを話すのが、考え方っていいましょうか、場所といいましょうか、それを話したほうがいいんじゃないか、そうすると、一般的にこれは、ヒヤヒヤすることには、できるだけ触れない、触れざるを得ないところは触れますけど、触れなくていいところは触れないようにして、一種の方法論、自分の方法として触れればいい、それから、もうひとつは、自分が家族問題について、何を言おうとしているのかっていう場所を、はっきりさせられると、その両方の利得がありますもんですから、やっぱり、自分の考え方からいくのが、いちばんいいっていうふうに考えてきました。
さっそく、ぼくの考え方から申し上げていきたいと思います。最初に書いてありますけど、人間の心の仕組みっていうのは、どういうふうにできているかっていうことについて、ぼくの考え方があります。それが、一等最初の「1」っていうところに書いてあります。まず、人間の、フロイト的にいえば、無意識なんですけど、無意識の世界っていうものは、あるいは前意識の世界でもいいんですけど、それを3つの層に分けるのが、とてもわかりやすいっていうふうに、ぼくは考えます。
つまり、ひとつは表面層っていうふうに書いてあります。それから、ひとつは中間層です。それから、もうひとつは核です。つまり、非常に奥深くにこしらえてある、その人の無意識の核っていうのがあります。
つまり、その3つの層に分けて考えるのが、いちばんいいだろうと、そして、世にいわれている家族問題についての著書っていうのは、それをどっかでやってるか、これを混合してやってるか、混同してやってるか、それだと思います。だから、そういうふうにみられた上で、お読みになれば、それぞれお役に立つんじゃないかっていうふうに思います。だけれども、無意識の表面層だけで、家族問題を論じている著書もありますし、それから、ここで、中間層っていうのは、いわゆる様々な葛藤が起こる、無意識の中で、葛藤が起こる層、これが中間層なんですけど、もうひとつは核、奥深くに潜んでいる、これはなかなか出てこないっていうことです。だから、家族問題を論ずる場合にも、よほど精神神経的な病者でとか、異常者がいるっていうところで、家族問題を論ずるとすれば、この核っていうところまで、ほんとは論じなければならないかもしれません。そこまで入っていかないと、だめかもしれません。
だけども、めったなことでは、ここまでいかなくて、表面層、あるいは、中間層までで、家族問題の問題は済んでしまう、あるいは、そこのところでうまく鎧をつけると、結構まあまあ壊れることないけど、親密でもないっていいましょうか、一種の家族っていうのは成り立っております。みなさんの家庭でも、たぶん、親密でもないけど、まあ壊れもしないっていうところで成り立っていると思います。
それは、どうしてかっていいますと、だいたい表面層ないし中間層のところで、みなさん方が防御するからだと思います。つまり、これ以上、心の中に入ってこられて、子どもの問題なんか考えられないよと、考えたら、ちょっと収拾がつかないよっていうかたちで、みなさんが、心の中で、防御装置をもっていますから、だから、表面層と中間層くらいでもって、済んじゃうと思います。済ましているのが、みなさんの家族だって思います。
なかにはやっぱり、ひでぇもんだって、とことんまでいっちゃったっていう、子どもの問題ないしは、精神医療の問題とかっていうことで、とことんまでいっちゃったっていう場合には、やっぱり、どうしても、全面的ではないですけど、やっぱり核まで入っていかないと、いかざるを得ないっていう、非常に苦しい場所に立たされる、家族が立たされるってことになっていると思います。それは、みなさんの中で、そういうご家族もおありかと思います。
けれども、混同してはならないこと、あるいは、よく考えなきゃならないことは、人間関係、あるいは、人間の社会生活の中では、どこの場面で、つまり、ここでいいますと、表面層だけで処理しちゃうっていうことも、ある場合には可能ですし、また、ある場合には必要であるっていうようなことがあります。それから、中間層までで、これで止めて、なんとかこれで収拾しようっていうようなかたちで、収拾されるっていうこともあります。それから、どうしてもそれではだめなんだと、もうどうしても、とことんまで、ギリギリのところまでいっちゃったんだっていう家族もあるわけです。
それは、どれがいいとか、どこまで突っ込めばいいかってことで、どれのほうがいいんだってことは、べつにないのです。しかし、考え方としていえば、この全部に触れなければ、触れるような考え方でなければ、意味を成さないことは確かなんです。だから、みなさんが、そういうことで、そういうつもりで、ご参考までにお聞きくださればいいと思います。
その人間の無意識の心の仕組みっていうのは、どういうふうにできあがるかっていうことのお話に入っていくわけです。それには、どうしても、胎児と、それから、乳児っていうのは、つまり、生まれてから1年間かそこらです。母親が授乳するとか、授乳に変わる世話をしなければ、その子どもが生きることもできないし、栄養も取れないし、動くこともできないっていうような、その乳児です。胎児と乳児っていうことの問題は、どうしても引っ掛かってきます。とくに、無意識の核っていうものの形成には、重要な影響がそこにあると思います。
まず、胎児っていうことを、みなさん、もちろんご体験の方もおられるでしょうけど、あらためてあれしますと、ちょっと肝要なところだけ復習してみましょう。胎児の履歴書みたいなものなんですけど、これはだいたい受胎してから、36日目に、胎児は上陸します。つまり、魚類から爬虫類、あるいは、両生類みたいな、つまり、陸上にあがってきます。それは、受胎から36日目だって確定されています。これは三木さんっていう人の確定ですけど、確定されています。そのときに、三木さんが書いておられますけど、母親はそのときにぼんやりするっていう、あいまいな表現して、ぼんやりしちゃうんです。そのときは、だいたい胎児が上陸する時だっていう、魚類から、つまり、水棲類から丘に上がってくる両生類、爬虫類みたいなものに変わっていく、そのときに母親は、ぼんやりして、つまり、上陸っていうことは、生物の歴史にとって、たいへんなことだったんだっていうことが、それでもわかるっていうふうに、三木さんは書いておられます。それで、その頃から、それを過ぎた頃から、ようするに、つわりっていうのが始まるわけです。それは、重要なことのように思います。人間が生物の歴史を、体内で経過していきますから、それは、わりあい重要な履歴だと思います。
それから、8週間目、体長として4cmぐらいです。そのときに、胎芽から胎児になる、それで、人間の器官がそこのところで出そろうっていうふうに云われています。
それから、胎児3か月ごろには、夢を見るようになる。つまり、REM睡眠っていうんでしょうか、夢を見るようになる。それから、触覚、つまり、非常に原始的な感覚ですけど、触覚がだいたい生まれてから後の、赤ん坊の、乳児の触覚とおんなじだけ発達する。それから、味覚が、だいたいその頃生じるって云われています。
それから、6か月以降、受胎6か月以降に、耳が聞こえるようになって、父母の声は、ほかの声と聴き分ける。それから、母親の心音が聞けるようになるっていうふうに云われています。
それから、7ないし8か月で、意識が芽生える。それで、8か月過ぎると、REM睡眠、覚醒っていうのが、わりに頻繁に繰り返されて、それで、母親と子どもの絆っていうのは、だいだいそのころ完成するって云われています。
これが、だいたい十月十日と云われていますけど、10か月に至る、胎児の主な履歴です。もっと詳しい履歴をお知りになりたかったら、三木成夫さんっていう人が、中央公論新書っていうので『胎児の世界』っていう本を出しています。これは、画期的な本だと思います。つまり、たいへん、世界的水準に到達している、日本ではめずらしい本だと思います。それをご覧になったらいいと思います。
今度は、胎児から乳児へ転換するわけです。その転換のところに出産っていうのがあるわけです。出産を経て、胎児から乳児へ転換するわけです。胎児から乳児への転換は、どういう特徴で捉えられるかっていうと、だいたいエラ呼吸的なものから、肺呼吸的なものに移るわけです。それから、母親と子どもとが、体内のコミュニケーションっていうのが、つまり、内コミュニケーションっていいましょうか、内的なコミュニケーションっていうのが、いままで、体内ではあったわけです。
たとえば、母親がなにか恐怖感に駆られるとか、母親が父親と夫婦喧嘩をして、それでショックを受けて、暗くなっちゃうって、そうすると、胎児が萎縮して、それに反応するっていうことが、現在では、とてもよくわかっています。つまり、体内の状況っていうのは超音波とか、そういうので、はっきり映像化できていますから、つまり、母親が驚いたり、怒ったり、父親と夫婦喧嘩したりとかっていうふうにあれすると、胎児がどういう態度をとるかっていうのは、たいへんよくわかる、そういう内コミュニケーションっていうのは通じていることがわかります。
それから、もうひとつ重要なことは、たとえば、分裂病もそうですけど、精神神経症みたいなところで、ご本人が、自分だけでわかってるとか、自分だけでこういうふうにしたつもりなんだけど、外から人が見たら、全然そういうふうになっていなかったとか、つまり、自分では、こういうふうに思いこんだんだけど、妄想したんだけど、全然それは意味を成さなかったとか、外から見たら、ぜんぜん意味を成さない行動だったとか、言動だったっていうようなことは、病者の場合、あるいは、異常者の場合にあるわけですけど、そのときのコミュニケーションの仕方っていうのは、内コミュニケーションにたいへんよく似た仕方だっていうことがあります。
そっくりそうだとは言えないのですけど、わかりやすく言えば、人間が妄想したり、妄想に駆られたり、あるいは、妄想じゃなくても、たいへん鋭い人がいて、神経が鋭い人がいて、相手が何を考えてるか表情でわかったとかっていう人が、たくさんいるわけですけど、とくに、たとえば、男女が恋愛しているような、恋愛の最中だっていうときには、相手の表情のちょっとの変化でも、こういうことを感じているなっていうのが、わかっちゃうっていうのが、あるいは、わかったつもりになっちゃうことっていうのが、正常な人でもありうるわけですけど、そのときの、そういうふうにわかっちゃうっていうのは、なんでわかっちゃうか、あるいは、わかった気になるかっていえば、かつて体内のときに、母親との内コミュニケーションの体験があるから、だから、精神異常っていうのは、そうとばっかりいっちゃうと、問題になるわけですけど、しかし、かつて、胎児、乳児、それから、幼児っていいましょうか、その間に、かつて体験したことがないような、あるいは、行動したことがないようなことをやる精神異常者っていうのはいないわけです。また、歴史的にいえば、未開原始の時代に、人間が考えたり、行動しなかったりしたこと以外の、そのふるまいっていうのは、病者はすることがないんです。たいてい全部、昔やったことです。あるいは、自分がやったことじゃなければ、人間が、歴史の未開原始の時代にやったことに、ある意味では、退化して、帰ってるっていうふうに考えると、考えやすいわけです。まったくそうだっていうと、誤解を生ずるので、そういうことは言いませんけど、大体において、つかむのに、たいへんつかみやすいってことがわかります。
だいたい内コミュニケーションから、体外に出たら、今度は外コミュニケーション、つまり、外に、人間として周囲の人と、コミュニケーションがはじまるわけです。だけど、体内では、内コミュニケーションがすでに、8か月以降ぐらいには存在するっていうことが云えるわけです。
あと何かっていいますと、母親の体温が36.5度だったら36.5度から、常温、だいたいの常温、つまり、20度なら20度に、急激な温度変化を体験するっていうことです。それから、だいたいお医者さんが出産するとすぐ、足もって逆さにして、ピシャッピシャッと、お尻なんか叩くと、そうするとオギャーっていう産声っていいますか、それをあげるわけです。たいていそういうふうにするわけです。そういうふうにして、肺呼吸が泣くことによって、スムーズになるっていうことがあります。それから。そこまででも大変なことなんですけど、たぶん、人間の無意識層の核の部分っていうのは、それまででだいたい形成されるっていうふうに考えたらよろしいと思います。
ですから、それまでに、胎児から乳児へっていうふうにいきまして、それから、乳児の世界は、あと1年間ばかり続くわけですけど、1年間ばかり、母親の授乳ないしは、授乳に変わる栄養補給っていうのは、はじまるわけですけど、そのとき、たとえば、母親が嫌々ながら授乳してたら、だいたい拒食症みたいな、長じて、青春期に拒食症みたいなものになりやすいと思います。
それから、だいたいそういう例を挙げると、キリがないんですけど、だいたいにおいて乳児期における、母親の子どもに対するふるまい方っていうのは、全部、隅から隅まで全部、無意識のうちに、子どもに全部、刷り込まれてるっていいましょうか、移されているとお考えになったほうがよろしいと思います。動物でも、ある程度、刷り込みっていうのがあるわけですけど、人間の場合には、もっと微妙な、表面はかわいい、かわいいってかわいがってるように見えながら、ほんとは、心の中ではかわいがってないっていうようにしながら、たとえば、授乳したとしたらば、それは、完全に子どもには、わかられているとお考えになったほうがよろしいと思います。それくらい無意識層の形成っていうのは、微妙なものだと思います。そういうふうにお考えになったほうがよろしいと思います。だいたい、そういうふうにして、乳児の時期が1年間あと続くわけです。
ところで、この1年間のところで、さまざまな出産、あるいは、誕生にまつわる、様々な習俗といいましょうか、民俗的な違いといいましょうか、種族的な習慣の違いといいましょうか、そういうのがあります。それからが、相当分かれてくるわけです。
たとえば、われわれが、あいまいに民族性っていうふうに呼んでいるもの、たとえば、キリスト教の民族性とか、あるいは、西洋人の民族性とか、日本人の民族性とか、アラブ人の民族性とかって、民族性の違いみたいに考えているものは、その乳児からの分岐していく、育て方の分岐の仕方っていうので、決まっていくだろうって思います。そこで決まっていくとお考えになったほうがよろしいと思います。
極端な例のために、上のほうにユダヤ・キリスト教的っていうふうに、下のほうに、まったくそれと対照的といってもいいくらいな、日本的っていうのを、この習俗の違いっていうのを、極端に誇張して取り出してみますと、たとえば、ユダヤ・キリスト教的っていうのは、ひとつ特徴を、生まれたらすぐ、母親から離しちゃうっていうようなことがあります。それから、これは非常に極端に誇張した場合です。現在の西洋社会とか、ユダヤ的な社会が、イスラエルでは、そういうことが習慣になっているかどうかは、まったくぼくは知りません。つまり、極端に誇張すれば、そういうことになります。
もうひとつ、極端な誇張をすれば、割礼っていうのが、生まれてから2週間目以内に、割礼っていうのがあります。割礼っていうのは、ご承知だと思いますけど、男の子だったら、包茎っていいましょうか、包皮っていうのを、とがった石で切るとか、ナイフで切るとか、そこを切ってしまうわけです。切ってしまう出産儀礼があります。この割礼っていうのは、いまでも、非常に厳格な、やってるところは、ユダヤ教でも、それから、キリスト教でも、厳格な宗派っていうのは、やってるところがあるんじゃないかなっていうふうに思います。それでも大部分は廃れちゃってるんだっていうふうに考えられますけど、そうすると、この割礼っていうのは、なにかっていうことは、なかなかうまく決められないんですけど、どういうことかっていうのは決められないんですけど、これを生理的な、一種の去勢儀礼だっていうふうに、理解するとします。
なぜ生まれてすぐ、去勢儀礼をやるのかっていうことになるわけですけど、これを去勢儀礼だっていう理解の仕方を延長していきますと、なぜ去勢儀礼っていうのを、ユダヤ・キリスト教的な世界で、そういうことをやりはじめたのか、あるいは、やったのかっていうことを、考えてみますと、そのことによって、たとえば、いちばん典型的なのは、フロイトの弟子で、ライヒっていう人がいるんですけど、ライヒなんかの考え方は、いちばん典型的なんですけど、そうすることによって、ようするに、人間を内向的にしちゃうんだ。つまり、去勢することによって、外へ出ていってっていいますか、外へ出ていくっていうことよりも、内向的にさせる。ある意味で、神に対して従順に、あるいは、神に代わる人間に対しても従順にとか、あるいは、内向的に暗く、そのかわり、精神の内面の世界は、非常に豊富になっていくっていうような、そういうために、割礼っていう儀礼があるんだっていうふうに、その延長線で解するとそうなります。
つまり、いってみれば、動物と違う、人間の人間的特徴っていうのを、内面の世界、心の中の世界をもっているんだっていうことに、あるいは、心の中の世界の表現、たとえば、文学とか、芸術とか、そうですけど、そういうものをもっているのが、人間的特徴なんだっていうふうに、理解するとすれば、人間的な特徴を極端に誇張するっていいますか、極端に引き出す、あるいは、引き伸ばすために、割礼っていう儀礼はあるんだっていうふうに、理解すればできるわけです。
つまり、これがあるために、人間的であり、内面的であり、それから、神に対して従順であり、それから、目上の人に対して、あるいは、支配者に対して従順であるとか、そういうふうな特性っていうのが、人間の中に生じてくるのは、このときに割礼することによって、つまり、去勢することによって、人間を内向的にしちゃうんだっていうふうな理解の仕方をとってきますと、極端なところまで、いくことができます。つまり、人間が内向的であるっていうこと、あるいは、その内面の世界をもっているっていうことは、いいことなのか、悪いことなのかってことの、根本的な問いに到達してしまうわけです。
この問いを、ほんとうに思想的に、キリスト教文明に対して突きつけたのは、フリードリッヒ・ニーチェっていう思想家なんですけども、この思想家は、極端に、そんなことはいいことなのか、つまり、人間が内向するっていうこと、あるいは、内面の世界が豊富になるっていうことは、いいことなのか。ぼくのモデルでいえば、中間層ですけど、中間層のところで葛藤するっていうことを、人間に、そういう能力を得させたことは、いいことなのかどうかっていうことを、それは、ほんとは悪いことなんじゃないか、つまり、キリスト教的罪悪じゃないか、あるいは、西欧文明的罪悪じゃないのかっていうことを、ニーチェは、根本的にその問題を問うています。
これはやっぱり、根本的な問いなんで、これは、うかうかと答えることができません。誰にもできないでしょう。つまり、すでにもう数千年経っちゃってるわけですから、少なくとも2千年経っちゃっているわけですから、経ってそうやっちゃってきたんだから、これを、根底的に否定するならば、これに等しいだけの、ほかの文明の体系っていうのがつくれなければ、それを否定、ほんとうはできないわけですから、ニーチェのように否定することは、妥当なのかどうかっていうことは、たいへんむずかしいことであるし、これはいいことなのかどうかってことも、たいへんむずかしいところだと思います。
でも、いずれにせよ、人間が内面の世界をもってしまったっていうことは、今日のお話でいえば、胎児期から乳児期にかけて、母親との対応関係っていうようなこと、それから、ユダヤ・キリスト教的に誇張すれば、割礼とか、そういう出産儀礼っていうのがあるわけです。それから、もっと極端にいえば、たくさんあります、そういう問題っていうのは。
つまり、何かっていいますと、たとえば、いままで、母親の体内で、36度5分のところで、母親のところから栄養を受けて、それで、母親に保護されて、体内で育ったのが、急に外に出てくるわけです。しかも、人間の特徴っていうのは、本来的ならば、体内で過ごすべき、乳児っていうのは、体内で過ごすのがいちばんいいわけです。
なぜならば、乳児っていうのは、生まれて、外に出ても、自分で動くこともできないし、それから、自分で栄養をとることもできない。母親がそばにいなければ、あるいは、だれか栄養を与えてくれる者が、そばにいなければ、死んでしまうわけです。それなのに、もう生まれてきちゃうわけです。だから、これは、体内にいて、もう、そういうときは、体内に過ごしちゃって、体外へ出たらば、なにはともあれ、自分で栄養をとれるっていうようなところで、出てくればいいんですけど、そうじゃなくて、たとえば、人間と、チンパンジーと、どこが違うかっていうと、人間がはやく出てきちゃうってことが、人間の特徴なんです。
早く出てくることによって、どうしても母親と接触せざるを得ない、1年間、接触せざるを得ない。そこから栄養を受けたり、世話してもらう以外にない。そうすると、その間に、母親がもっている文化的水準、それから、感覚、心の構造っていうのは、全部、いま言いましたように、乳児に刷り込まれるわけです。その刷り込まれることが、重要であるために、1年だけはやく出てきちゃうんです、人間っていうのは。それは、たとえば、類人猿みたいなものと比べて、人間的特徴っていうのは、そういうことなんです。
つまり、ある時期からある時期までは、チンパンジーのほうが育ちがいいし、ものわかりもいいわけです。ところが、ある時期からっていうのは、1年何か月だと思いますけど、厳密に言えば、そうだと思いますけど、その時期から、人間のほうが先にいっちゃう、知恵もつきますし、先にいっちゃうんです。それは、出産が早いっていうこと、自然段階的な成長よりも、出産のほうが早いっていうことに、たいへん依存します。
ましてそれを、ユダヤ・キリスト教みたいに、割礼みたいなことで強調しますと、それは、なおさらそういうふうになっていくっていうようなことで、たとえば、ユダヤ・キリスト教的世界、いってみれば、西洋世界っていうものが、人間の内面の世界っていうものを、あるいは、内面に引きこもっている世界っていうようなものを、育ててって、だから、西欧文明っていうのは、全部、その所産であるっていうふうにいえば云えるわけです。それを、たとえば、ニーチェはものすごく罵倒しています。つまり、否定、拒否しています。そんなのは、ちっともよくないんだっていう否定の仕方をしています。
それじゃあ、日本の場合はどうでしょうかっていうことを、極端な誇張をしていいますと、生まれるとすぐ、逆さに吊られて、ピシャッと、おしりを叩かれて、産声を上げるっていうのはおんなじでしょうけど、それから、典型的に、いまはどうか知らないですけど、わりあい近所のお医者さんで出産したみたいにしますと、たいていすぐに、母親のところに添い寝をさせてくれて、おっぱいの飲み方っていうのを、そこですぐに、はじめます。訓練をはじめます。それで、吸えるようになるっていうことをやります。
そうすると、ユダヤ・キリスト教的なあれと、まったく対照的で、そこで、母親と子どもの、悪く云う人は、甘えの構造っていうふうに云うわけですけど、よく云えば、たいへん親密な、親和感のある母と子の関係っていうのができるわけです。それで、割礼なんていうのはしないわけです。それから、母親の心がすぐに、心の問題っていうのはすぐに刷り込まれていく、母親の問題がすぐに刷り込まれていくっていうことは、とても重要なわけです。
だから、いいことばかりが刷り込まれるとは限らないわけです。たとえば、日本の母親っていうのが、亭主と仲違いしていて、それで、あいつの子どもなんか、ほんとは産む気がなかったんだけど、仕方なくて産んじゃったんだっていうふうに、母親が思っているとすれば、添い寝のときに、そういう二重性っていうのは、お乳を飲ませてくれるっていうことと、それから、心の中では、嫌で嫌でしょうがないんだとか、おまえみたいな子ども、ほんとうは生まれない方がよかったと思ってるんだとか、心の中の問題も全部刷り込まれますから、いい面も、悪い面も、両方、いずれにせよ、刷り込みが、たいへん敏感に起こるっていうのが、たぶん、日本的な出産の風土っていいますか、習俗といいますか、それのたいへんな特徴だと思います。
だから、もちろん、家庭内暴力っていうのは、日本的な特徴です。どうしてそうかっていうと、いまの生まれたときから、すぐに親和感をもつような関係を結んで、しかも、その親和感の中で、ちゃんと、母親の思っているものっていうのは、ちゃんと刷り込まれていきます。もちろん、栄養も刷り込まれますけど、心の中の世界も全部刷り込まれます。で、経済的に困っているとか、亭主と仲が悪いんだとかってことで、母親が悩んでいたりして、仕方なしに産んじゃったよな、なんて想って授乳していれば、それは完全に、子どもの、胎児の中に、移っていきます。これが、家庭内暴力の非常に根源的な理由です。
つまり、家庭内暴力っていうのは何かっていうと、一般的に、本を見ますと、こういうふうに書いてあります。父親が、子どもの教育とか、成育とか、成長とか、そういうことに、父親があんまり関心をもたないで、会社を忙しがって、帰りはどっかで一杯飲んで、酔っ払って、すこし遅く帰ってくる。子どもの用は母親任せで、そうすると、母親のほうは、亭主と、疎遠になって、性的にも疎遠になっているし、心情的にも疎遠になっているから、子どものほうに気持ちがいく、親和感がいく、そうすると、子どもに対して、一種の教育ママになっていく、教育ママになっていくと、過剰に甘えを生じさせると、子どものほうは、わがままをいっぱい言って、ちょっと気に食わないと、なんか茶碗でもぶつけて割っちゃったりとか、母親に食ってかかったり、殴りかかったりとかっていうふうになっちゃう、いわゆる、家庭内暴力が生ずるっていうふうに、ものの本をみると、そういうふうに書いてあります。
しかし、それは、いってみれば、心の表面層と、中間層のところで、解釈している解釈に当たります。しかし、核のところまで入れた解釈の仕方をすれば、そうじゃありません。つまり、たいてい、家庭内暴力が生ずるところの、母親と子どもの関係は、胎児、乳児のときに、大変よくなかったっていうことは、たぶん100%普遍的だっていうふうに、ぼくはそう理解します。
つまり、家庭内暴力を生ずるところのあれは、胎児、乳児のときに、母親が疎遠に子どもを扱ったとか、心の中では、嫌だ嫌だと思いながら、授乳したとか、育てたとか、そういうことが第一次的な理由だっていうふうに、ぼくは思います。それがなければ、家庭内暴力なんか、べつにどうってことはないわけ、ほっとけばいいわけです。そうじゃないと思います。根深い家庭内暴力っていうのは、そうじゃないと思います。
そうすると、母親のほうから見ていえば、自分は、子どもが学校に上がる前後の頃から、子どもをかわいがって、子どもの教育には、一生懸命世話してやって、それなのに、なぜ、この子は、こんなになっちゃったんだろうか、あるいは、逆に、自分がそうやり過ぎたから、甘えが高じて、家庭内暴力を振るうようになっちゃったんだって、そう理解をされるかもしれません。そういうふうに理由づけるかもしれませんけど、それは、だいたい嘘だと思います。ぼくは、嘘だと思います。
それは、そうじゃないので、つまり、幼児になって、一生懸命、教育ママになって、育てたって、それは遅いんです。こういう問題については、遅いんです。ほんとは、乳胎児のとき、その母親が、子どもに対して、そんなに、いい環境をもったり、いい育て方を、あるいは、いい授乳の仕方をしなかったっていうことが、第一原因だと、ぼくは思います。
それは、よくないことだけど、しかし、それは、ある意味で、致し方ないことでもあるわけです。たとえば、その子どもが生まれたときに、乳児のときに、家の経済状態がたいへんよくなかった、それだから、母親も共働きで、働かなくちゃいけない、そうすると、ろくすっぽ乳児の世話もしてなかったと、あるいは、乳をやっているときだって、ほんとは、心はそこになくて、早くこれで、仕事をすぐ続けなきゃだめなんだと思いながら、焦って、子どもに授乳したりしていることが、ある期間続いたっていうんだったら、やっぱり同じですから、そういうふうに、やむを得ざる不可抗力である場合もありますし、それから、ほんとうに冷淡である場合もありましょうし、また、亭主との仲がものすごく悪くなっているっていうこともあるかもしれません。いろんな理由がありますから、それぞれ、理由は、必然的な理由で、つまり、生活の必然の理由であって、それは、致し方ないことなんですけど、致し方ないっていうことは、少しも弁解にはならないのです。家庭内暴力の子どもができてきちゃったっていうことの弁解にはなりません。
だけども、それは母親のせいではない。つまり、社会のせいかもしれませんし、亭主のせいかもしれないし、いろんなせいがありますから、致し方ないんですけれど、でも、けっして、幼児のとき、非常によく育てて、教育にも熱心にしたから、甘えが高ずるとか、それなのに、こんな暴力を振るわれる覚えはないとかっていうふうにお考えになるのは、それは違うので、そこのところの理由は、たいして、それほどの意味は、第二次以下の意味しかありません。
つまり、家庭内暴力に対して、ほんとうに意味があるのは、母親のメンタルの刷り込っていいましょうか、つまり、乳児の期間、あるいは、胎児の期間に、どうだったかっていうことが、第一次的な理由です。つまり、そこを避けて、家庭内暴力の問題を解こうとすれば、だいたい、表面層か、中間層のところで解いていくことになります。もちろん、そういう解き方だっていいんです。つまり、なあなあといいながら、子どもがさしておかしくもならないで、大過なくいけばいいってこともありうるわけですから、それだっていいんですけど、それで、ぜんぶ理解したと考えたら、それは、たいへん違うことで、ほんとうに理解するなら、表面から中間層、核に至るまで、全部の問題を、やっぱり理解しなければ、家庭内暴力の問題を理解したことにはならないと僕は思います。
それは、日本的な母子関係の、あるいは、乳児、胎児と、それから、母親との関係の、非常に特徴として、家庭内暴力っていうのは出てきていると思います。これは、日本だけに固有かどうか、つまり、アジア的な地区では、そういうことはどこにでもあるのかもしれませんし、それは、よく調べなければいけませんけども、少なくとも、それを日本的っていうことで、それを補強していうならば、だいたい、乳胎児期のときの、母親との関係の不全っていいますか、不全っていうのが、だいたい、家庭内暴力の根本理由だと思います。
それから、利点っていえば、いいところで云えば、母親から切り離さないで、生まれたらすぐに、母親が添い寝してやって、授乳してやってっていうことを、徹底的なものとすれば、それは、いい面でもあります。つまり、親和感をもてる面でもあります。あんまり、残酷なことは、将来でもできないっていうことになると思います。
それは、いい面でもありますし、また、逆に言ったら、あまりに、母子の関係が、親和感があり過ぎて、それで、親和感がありながら、心の中に、二重三重、鎧が隠されていると、全部それは、子どものほうに刷り込まれますから、それがやっぱり、家庭内暴力の原因になるっていうことは、弱点でもあると思います。すくなくとも、家庭内暴力っていうのは、日本的な母子関係に、特有なものだっていうふうに、西洋では、あまりありえないっていうふうに思われます。
ところで。それだったら、たとえば、極端な考え方からすれば、36度5分の高い羊水の中から、急に表へ出てきて、出てきた途端に、呼吸の仕方が違ってくるし、それから、産声あげて、泣くわけだけれども、どういうふうに泣いているかっていうと、泣いてるから、元気な子供が生まれたっていうふうにもいえるでしょうけど、もっと別な考え、つまり、ユダヤ・キリスト教的なものに、ニーチェのように異を唱える、つまり、反対の考え方からすれば、そのときに、子どもは、なぜピシャピシャひっぱたかれて、なぜ泣くかっていうと、急に孤独な外の世界にやってきて、それで、まわりを見回しても母親はいない、こんな孤独なことっていうのは、ちょっと絶望状態だっていうように、赤ん坊のほうでは考えて、それだから、こういうふうにして、それでおまけに、2週間以内に割礼なら割礼される。こんだったら、赤ん坊っていうのは、生まれた乳児っていうのは、おまえはもう生きるなっていう、死んじまえっていうふうに言われているのとおんなじだっていうふうに、ライヒなんかはそう言っています。
こんな馬鹿馬鹿しい話はないので、乳児は、ただ外に出てくるだけでも大変なのに、ピシャピシャひっぱたかれて、母親から遠ざけられて、それで割礼はされる、これでもって、おまえ生きろっていうのは無理だって、ぼくは思ってます。つまり、生きるのは無理だっていう考え方を、無意識の層の中で、無意識の核の中で、ちゃんとそのとき、赤ん坊は手に入れちゃっているっていうのは、ニーチェとか、ライヒとかっていう人たちの考え方はそうです。
だから、そのときに何が生まれるかっていうと、ようするに、根源的なっていいますか、根本的な生に対する、つまり、生きることに対する、生命に対する根源的な否定、つまり、NOだって、NOがそのとき、赤ん坊の無意識の中に、無意識の核の中に、根源的なNOっていうのが、そこのところに生ずるんだっていう考え方をとっています。
ですから、その考え方からいきますと、だいたい、西欧文明に象徴されるような、ユダヤ・キリスト教文明を主流とする文明のあり方っていうのは、根本的に病気なんで、どうしようもない病気の人間をつくって、病気の文明をつくっているんだっていうふうな考え方になります。
ライヒなんかは、だいたい、そういうやり方で、出産以降の乳児を扱うと、だいたい、女性の90%は病気だって言っています。それから、だいたい男性の約70%~80%は、病気だっていうふうに、つまり、異常者だって考えたほうがいいっていうふうに言っています。
だから、そういう考え方っていうのは、なぜ異常者かっていうと、根底のところで、無意識のところで、NOっていうことを植えつけられたって、NOっていうことを植えつけることは、逆にいうと、人間的な特徴で、つまり、内面性が豊かになるっていう道であり、内面性の表現が豊かになる道だっていうふうに、西欧文明を主体とする人類の文明は、そういうふうに進んできましたから、それは病気なんだ、病気の文明なんだっていう観点になります。そんなことは、果たしていいのだろうか、どうだろうかっていうようなことを、根本的にニーチェとか、ライヒなんかは、根本的に問うています。
その考え方ですれば、みなさんの中に、90%あるいは80%は、病気だってお考えになったほうがよろしいっていうことになります。自分は病気だってお考えになったほうが、で、どこで病気かっていうことは、たくさんあるわけです。表面層で病気っていう人もあるわけで、つまり、人付き合いが、どうもおれは苦手だとか、ぼくなんか典型的にそうですけど、人付き合いが苦手だとか、どこか社会的な場面っていうのは、どうも苦でしょうがないとか、いろいろ表面層での病気っていうのは、いろいろあるわけです。
だから、みなさんの場合でも、表面層で病気であるか、中間層で、つまり、人には言わないけど、心の中では、自分はこういうことが、ほんとうは心配で心配でとか、こういうところが自分はだめなんだっていうふうに、心の中で、みなさんが思っていることがあるとすれば、それは、ようするに、中間層で病気なわけです。
それから、核のところで病気だっていうこともあります。それは、たぶん育ちだと思います。つまり、母親との関係で、どういうふうに育ったかってことで決まると思います。これは、自分ではめったにわからないのです。これは、母親に聞くか、聞いても正直には言ってくれないと思いますけど、母親に聞くか、あるいは、自分より年上の兄弟に聞いて、あの頃、母親どうだったとかっていうようなことを聞くか、それじゃなければ、自分で、ひそかに思い当たるっていうようなかたちで、それを知るか以外にないですけど、核のところで病気かっていうふうに、どこかしらで病気だっていうふうに考えれば、だいたい90%はそうだっていうふうに言っています。
これを治せっていうのは、だいたい無理であって、ライヒなんか、それは無理だっていうふうに、たかだか家族の問題で、たかだか治せるのは、表面層で治せる。たとえば、ほんとは、亭主とあんまり口もききたくないんだけど、まあまあ表面的なあれで我慢して、なんとなく、親和感があるような、口のきき方をするとか、子どもに対しても、子どもとほんとは口もききたくないとか、子どもをほんとは憎んでいるんだけど、表面に出さないで、表面層のところで、適当に言っていることで、家族は保てるっていうようなことがありますから、そういうふうに保つとか、つまり、なんらかの意味で、そういう保ち方をしているわけで、核のところの病気だったら、これはちょっと大変だと思います。治すのが大変でありますし、治るのがいいのかどうかわかりませんけど、そうなってくると、精神病者っていいましょうか、そういう世界の極端なものに入っていくと思います。
これは、治らないというふうに言うことはできないのですけど、たいへんむずかしいことになってきます。たいへん辛抱強くお医者さんが、専門家が、むずかしい過程を経て、治るかもしれませんし、そうじゃないかもしれないっていうことになっていくと思います。だから、その意味では、核のところの問題っていうのは、すでに成人に達したときには、それは遅いんだっていうふうになります。
それじゃあ、それは何が云えるのかっていえば、結局、防衛っていいますか、精神防衛っていうこと、防御っていいますか、防衛っていいますか、あるいは、精神衛生の問題っていいますか、そこのところで、これからの人たちっていいますか、これから生まれてくる人たちとか、これからの世代の人たちに対して、精神衛生の問題で、非常に適切にアプローチしていくことができるかどうかっていうことに関わってくるっていうことが、問題になってくるんだっていうふうに思います。それほど、どこで病気かっていうことは、たいへんむずかしいことのように思います。
ただ、自分がどこで病気なのかっていうことを、自分でよく知るっていうことは、とてもいいことだと思います。そのことを知るっていうことは、そのことに対する救済のひとつではあるんです。だから、自分がどこで病気か、自分は健全なのに、子どもは病気だっていうふうに思わないで、自分はどこで病気か、表面層で病気か、あるいは、中間層で病気か、あるいは、核のところで病気かっていうことを、自分でとてもよく自分を知っているっていうこと、あるいは、よく極めているっていうことは、とても大切なように思います。つまり、それは治療っていうことの大きな根拠になると思います。
さて、その次に、乳児っていうのは何なのか、乳児っていうのはどんなことなのかっていうことになってきます。出産を転機としまして、人間は乳児に転換するわけです。それは、ニーチェとか、ライヒのように、それを衝撃っていうふうに考える考え方もできますし、その衝撃は、今度は逆に、母親のほうから見ると、子どもの出産っていうのは、喜びかもしれません。ですから、子どもの領域からいえば、まず衝撃がやってくるんですけど、母親のやじるしからみれば、それはたいへん幸福感っていいますか、満たされた幸福感であるかもしれません。つまり、衝撃と幸福感、あるいは、否認、つまりNOということと、それから、母親における喜びっていうこと、それは、たいへん表裏の関係にあるっていうふうにいうことができます。
つまり、生まれたばかりの乳児っていうのは、典型的にいいますと、ようするに、母親のお乳に接触するのが、一等最初であるし、お乳を飲むっていうことが最初であるし、目が見えたとしても、母親のお乳を見ている時間がいちばん長いわけです。だから、いずれにしても、母親の物語っていうのと、それから、乳児の物語っていいましょうか、出産した物語っていうのは、ちょうど裏表の関係にあるっていうふうに、典型的にはいうことができます。
衝撃を受けて、子どもの中では、ニーチェ・ライヒ流にいえば、否認が起こります。NOが起こります。それで、母親のほうから見れば、逆にYESが起こる。つまり、産んでよかったなっていうことに、典型的に裏返しすればなります。で、否認の次に、なんで生まれてきたんだってことになるわけです。なんで生まれてきたんだってことになって、だんだん鬱陶しく、乳児のほうはなり、母親のほうは、だんだん喜びっていうことに、習慣づけができるようになります。それで、だいたいにおいて、最後には、生まれたっていうことを、赤ん坊のほうでも、乳児のほうでも受け入れますし、母親のほうでも受け入れて、日常的な生活、つまり、恒常的な生活っていうのが、進んでいくっていうことになると思います。
ですから、母親の物語からみるか、乳児のほうからみるかってことになるわけで、乳児のほうからみれば、否認、NOであるかもしれない。生まれてくるっていうことから、その後の出来事っていうのは、根源的なNOをつくりあげることかもしれませんし、母親のほうからいえば、かつてない幸福感とか、喜びとか、そういうのを体験する時期かもしれません。そういうふうにしながら、乳児と母親との関係っていうのは、進んでいくっていうことになっていきます。
それは、たぶん、心の仕組みからいえば、核から中間層へかけての世界の形成っていうのは、そういうかたちで、できあがっていくんだっていうふうに思います。で、母親っていうのは、授乳期の1年間っていうのは、母親の物語っていうのは、どういうふうな要素からできているかっていいますと、それは、いちおう抱くことです。それから、授乳すること、それから、眠らせること、それから、排便とか、着衣とか、そういうのの世話っていうのは、たったこれだけの要素から、母親の物語っていうのはできています。
そのときに抱くことの中で、母親がどう感ずるかとか、授乳しながらどう感ずるかとか、眠らせながらどう感ずるかって、たとえば、早く眠らせなきゃ、仕事してまだ途中なので、早く眠ってくれないかなと思いながら、子どもを寝かせようとすると、なかなか意地悪く眠らないんです。そういう体験っていうのは、みなさんもおありだと思いますけど、ぼくらもあります。焦れば焦るほど、早くしないかなって思ってると、なかなか眠らないってことがあるのだけど、つまり、いずれにせよ、そこには全部、中身はあるわけですけど、構成要素としては、このくらいの要素しかないわけです。
それから、人間の基本的な動きっていいましょうか、人間の動作、動きっていうのの基本は、このくらいしかないわけです。このくらいを組み合わせて、いろんな複雑な人間の構造っていうのは出てきて、できるわけです。基本的には、これだけのことを、かつて乳児のときに、母親からもらったっていいますか、受けたっていう、それが、だいたい人間の行動っていうものの基本要素だっていうわけです。
だいたい、どういうところが病気っていうこと、母親か、あるいは、子どものほうに、乳児のほうに、病気っていうのが移植されるかっていうふうなことを考えてみますと、いくつもあるわけですけど、考えてみますと、子どもから、やさしい母親だっていうふうに思われそうになると、不安になってきて、子どもに対して、腰が引けちゃうっていう、そういうお母さんっていうのはいると思います。これは、みなさんのほうで、ご自分を考えてごらんになれば、すぐわかると思います。つまり、そういうお母さんがいるとしますと、とても病気になる垣根が低くなっちゃうと思います。つまり、垣根が高いと、いろんなむずかしい目にあっても、精神の病気にはならないで、引き返してこれるんですけど、垣根が低いと、スーッと超えちゃうっていう、病気になりやすいっていうこと、そういう垣根が低くなるだろうっていうふうに思います。
それから、ほんとは子どもに、不安感とか、敵意をもっている、あるいは、憎悪しているんだけど、ほんとは憎悪してるってことを、子どもに移らせれば、まだいいんですけど、それを移らせないで、心の中で、憎悪を抱いているんだけど、表面は、とてもやさしい母親の役割を演じてるみたいなふうにすると、やっぱり、異常になるときの閾値っていいましょうか、つまり、垣根が低くなってしまうと思います。だから、むしろ憎悪であったら、積極的に憎悪を表現した方が、まだいいっていうふうになります。
そういうことっていうのは、無限に微妙で、無限に複雑ですけど、それは全部、子ども、乳児には、感受されるっていうふうにお考えになったほうがよろしいと思います。
それから、父親との関係っていうのが、性的に云っても、経済的に云ってもそうだと思いますけど、うまくいっていない。子どもに過剰に親しいよう強制する。そのために、幼児に移っていくにつれて、教育的な母親になり、それに伴って、父親をだんだん後景に、つまり、退いてしまうっていうような、そういうふうになっていきますと、やっぱり、垣根はたいへん低く、異常になりやすいっていいましょうか、垣根が低くなるっていうふうに、お考えになったほうがよろしいんじゃないかと思います。
たとえば、分裂病の作為体験とか、幻覚とか、妄想とかっていうのがありますけども、これは、だいたい母親の物語っていうのが、ぜんぜん枠がない母親の物語っていうような場合に、垣根は超えやすいし、これを分裂病の症状とすれば、そうなりやすいってことが云えると思います。
それから、いつでも、おんなじ言葉しか言わないとか、おんなじ行為をするとかっていう病気っていうのは、結局、そこのところで、母親の物語の枠組みが、たいへん不安で、不定だっていうような、そういう乳児期っていうのを送っていきますと、だいたいそういう病気に退く場合、そういうふうな退き方を、常同的な行為で退くっていう退き方をするんじゃないかっていうふうに思われます。
だいたいここいらへんのところは、母親と子どもとの間の関係の、心の仕組みでいえば、核ができあがる過程だっていうふうにお考えになればよろしいんじゃないかと思います。たとえば、偉い人でも、ぼくなんか知っていて、かつ、好きなあれでいえば、太宰治とか、三島由紀夫とか、それから、西欧でいえば、ルソーなんていう思想家がいますけど、そういう人たちが、だいたいここのところで、根源的なNO、つまり、生きるなっていうNOが多かったんじゃないでしょうか。
太宰治の場合には、やっぱり母親から、すぐに離されて、乳母っていいましょうか、婆やっていいましょうか、そういう人から授乳されて育っています。三島さんも、すぐに引き離されて、それで、独占的におばあさんの側に寝かされて、外には出されないでっていう育ち方をしたと、これは、こういうふうにやられたら、たぶん、おまえ生きるなっていうふうに言われているのと同じだと思います。
それは、核のところにありまして、それで、太宰治も、三島さんも、それをバネにして、いい作品、いい文学活動をして、強靭的な意志力をもって、おまえ生きるなっていう、生きちゃだめだっていうふうな、核のところから、無意識の声っていうのを、たえず聞きながら、それを克服していこうとして、生きていったんだと思いますけど、結局のところはだめだったよなっていうふうに結論するのが、心の問題としていえば、そう言えるんじゃないでしょうか。
人が一生の中で何をするか、何をしたかっていうことでいえば、たいへん常人以上の優れた仕事をしたんでしょうけど、そうじゃなくて、心の問題からいけば、たいへんきつい生涯を送って、たえず、おまえ生きるな、生きるなっていうふうに、無意識の核のところからいわれて、それを克服するために、一生懸命に、仕事に打ち込むとか、勉強に打ち込むとかみたいなことをして、それで、超えようとしたんだけど、結局は、やっぱりだめだったっていう理解の仕方をするのが、妥当なような気がいたします。つまり、それくらいきついことに、核のところの問題は、たいへんきついことのように思います。
ここまで、三島さんだって、太宰治だって、核のところに接触しないところで、生きられたらよかったと思うし、自分もそういうふうに努めたと思うんです。つまり、中間層ないし表面層のところで、適当にやっていけたら、生きられたらいいわけですから、それでいこうっていうふうに、たぶん、考えたと思うんですけど、やっぱり危機に際してはどうしても、核のところに、無意識にささやきかけるNO報っていう、つまり、生きるな生きるなっていうのが、どうしてもピンチのときには出てきちゃうっていうことがあったんだと思います。
普段は、自分でもよくわかっているわけですから、それなしで、表面層で、なあなあで、適当に仲間と付き合えばいいし、適当に家族と付き合えばいいし、適当に、中間層と表面層で処理していけば、まあまあ大過なくやっていけるっていうことなんですけど、それでもいいんですけど、それをやろうやろうともしたでしょうし、核を超えようと思って、努力したと思うんですけど、やっぱり、危機に際しては、核の問題が出てきちゃって、生きるなって声のほうが、大きくなっちゃってっていうことがあったんだろうなっていうふうに思います。
つまり、それほど、核のところの問題っていうのは、重要な問題で、それほどむずかしい問題です。フロイトの弟子のライヒなんて人は、不可能だ、つまり、核を変更することは不可能だから、精神的な異常っていうのは治らないって、治らないから、予防っていうより以外ないんだ。極端なことをはっきり云うと、そういう言い方すらしているくらいで、つまり、そのくらい核の問題っていうのは、むずかしい問題だと思います。とくに分裂病の問題っていうのは、むずかしいんだっていうふうに思います。いずれにせよ、そこいらへんのところが、心の問題で、われわれのなかで、たいへん重要な問題になって出てくる問題だっていうふうに思います。
すこし実際的なことを申し上げましょうか、ひとつは、さっき垣根っていうのを申し上げましたが、自殺っていうのを申し上げましょうか。これは、ものの本に書いてあるのを引き写してきただけで、たぶん、多少の数字の違いはあっても、間違いないと思うんですけど、だいたい、自殺者っていうので、年齢は、65歳以上のご老人っていうのは22%ぐらい、それから、50代の人は19%、22%っていう数値もあります。それから、40代が21%、25%っていう数字もあります。30代は17%、これを差っ引きますと、100から引きますと、だいたい20代以下が、やっぱり20%ぐらい、そうすると、これをみますと、だいたいにおいて、自殺っていうことは、年齢にはそんなに違いがないってことが言えそうに思います。
自殺っていうことは、何かっていうことなんですけど、3つ理解すべきだと思います。ひとつは、やっぱり、表面層の自殺っていうのがあります。たとえば、借金がかさばって、利子がどうしても返せないって、これは死んじゃうよりほかないみたいな、そういう自殺の仕方があると思います。その場合の自殺っていうのは、心の表面層での自殺だと思います。もちろん、遠因はあるわけです。つまり、先ほど言いましたように、異常っていうのとおんなじで、壁が低いものですから、自殺しやすいみたいなことがありますから、そういう意味では全部に関わるわけですけど、そういう原因をいえば、表面層の自殺だっていう、だけど、根本的には、核の自殺っていうのもありうるわけです。それは、三島さんも、太宰治もそうだと思うんですけど、核のところで、生きるな生きるなっていうふうに、言われていることが、表面に出てきちゃったんだっていう理解の仕方をしたほうがいい自殺っていうのもあると思います。
だから、自殺っていうのもやっぱり、どこでの自殺かっていうことは、やっぱり3つだけ考えれば、たぶん大過ないと思います。それで、だいたいは尽せると思います。だから、自殺っていう場合に、3つお考えになったほうがよろしいと思います。だいたい年齢において、そんなに差がないっていうことがわかります。
じゃあ、動機は何かっていうのを、このデータですけど、どういうふうにひっくり返しても一番多いのは、病気と障害っていいましょうか、身体の障害だと思います。それが、一番多いです。圧倒的にそうです。それから、ここでは、アルコール依存症とか、精神障害とかっていうのが、その次に出てきまして、それから、経済生活問題っていうのが、その次に14%でして、それからあと家庭の問題が、家庭のいざこざの問題っていうのが10%、それから、職業とか、職場の問題が、そのあとにきて5%っていうふうになっております。
それで、中年だけとってきますと、やっぱり1位は、病気と障害が1位です。2位は家庭問題っていうのが、2位にやってきます。つまり、中年層では、家庭問題が2番目にやってきます。で、3番目が経済生活問題、で、4番目が職業・職場の問題っていうようなことで、自殺っていうことが起こってまいります。
精神的・肉体的な病気の問題っていうのは、これは2つのあれしかないので、つまり、ひとつはやっぱり、一種の保証制度っていいましょうか、そういうものが完備しているっていうことは、非常に重要なんだと、それから、もちろん経済問題が、各家庭で解決されているってことは、重要な要因なんだってことがあると思います。そういう問題なんだっていうことが云えると思います。
ところで、病気とか、負傷とかの問題のために、経済的な支障をきたすってことは、たいへんやさしいっていいますか、単純なようにみえて、ほんとうはなかなか大変な問題のように思います。つまり、これは、社会保障制度がうんと発達して、国家がそれを保証すればいいかっていうと、解決かっていうと、そうでもないのです。つまり、病気とか、障害っていうのは、傷病っていうのは、各家庭、それぞれ固有の条件っていうのを備えていますから、固有な条件に即して、それが解決されるってことが、とても重要なことだっていうふうになってきます。最後は、その問題になって、それは、とても、たいへん後々まで、そんな簡単じゃなくて、後々まで引っ掛かってくる、人間の社会が引っ掛かってくる問題だっていうふうに思われます。
次に、登校拒否っていう問題なんですけど、登校拒否ってういことと、家庭内暴力っていうことと、ある意味では、自殺っていうことと、それから、まったく逆であり、ここに書いてありますけど、学習塾へ勉強したいから通うっていうのとは、それぞれ、たいへん密接な関係があると思います。
登校拒否っていうのは、だいたいにおいて、10年なら10年間のあれをとってきますと、だんだん増えていく一方であるわけです。たぶん、これからも、わりあいに増えていくんじゃないかなって思います。
それと、まったく一見逆である、学習塾へ通う人が多くなったっていう、そういう学習塾へ通うっていうこととを関連付けて云ってみますと、たとえば、これは昭和60年のデータですけど、小学生で学習塾へ通っているのは、約180万人で、これは全体の16.5%だと、で、昭和51年とか、それより9年前ですけど、それは、約130万人っていうデータが出ています。12%です。それから、中学生の場合には、約270万人いて、つまり、全体の44.5%っていうのが、塾へ通っています。これは、51年には180万人だったのですから、ずいぶん増えているわけです。塾へ通う人の数っていうのも、だんだん増えております。これは、昭和60年のことですから、現在だったらば、10年間にだいたい6.5%ですか、増えているわけだから、6.5%足すと、だいたい50%ちょっと超えるっていうのが、たぶん、現在の数じゃないかっていうふうに、中学生の数だっていうふうに思えるわけです。
それは、同時に、塾へ通わせる理由っていうのも出てましたから、それを申し上げてみますと、子どもが希望するからっていうのが第1位です。子どもが希望するからっていうのが52%です。自分だけじゃ勉強しないからっていうのが35%、むずかしくて、家で教えられないからっていうのが29%、つまり、1位になっている、子どもが希望するからっていうのが、半分以上なわけで、第1位なわけです。子どもが希望するからっていうことは、希望して塾へ行きたいっていうことを、非常に平易に解釈しますと、子どもは勉強したくてしょうがないんだっていうふうに解釈することができます。つまり、勉強したくて仕方がないんだっていう、だから塾へ通うんだっていう理由が第1位であって、しかも、それが現在、中学生で、だいたい50%超えると思えるんですけど、そのことは何を意味するかっていうことになるわけです。
つまり、もしも塾へ通う人の数が、現在50%超えているということでしたら、何を意味するかっていうと、中学校の教育っていうのはだめだっていうことを意味すると思います。中学校の教育はNOである。つまり、それは全然だめだと、ぜんぜん変えなくちゃだめだってことだと思います。半分以上の生徒が、ここへいくと同時に塾へいくっていう数が、半分以上いるっていうことは、学校教育自体が否認されていることを意味します。つまり、極端にいいますと、そういうあれがありまして、中学校の、いまの教育は全然だめだっていうことになります。つまり、否認されているっていうことだと思います。この問題は、もうすこし父兄と、生徒は我慢しているかもしれませんけど、もうすこし経ったら、必ず反乱が起きると思います。父兄の反乱か、生徒の反乱か、どちらかが中学校で起こることは、まったく自明のことだと思います。
いまでもほんとうは、潜在的にはそうです。50%以上は、塾へ通っているわけですから、学校教育は無効であるっていうことを意味します。つまり、半数以上は、塾へ通っているわけですから、学校教育自体が変える以外にないっていうことを意味していると思います。そのことは、かならず顕在化するだろうっていうふうに、ぼくには思います。
なぜ、そういうことになるのかっていうことは、登校拒否っていうことと関わるわけです。つまり、現在の中学校の教育っていうのは、こういうデータからみれば、もうこれじゃ成り立たない、つまり、変えるほかないんだっていうことを意味します。それは、どうしてかっていうと、一方では、50%以上が塾へ通わなければならないような教育しかしていないっていうことですし、一方では、登校拒否にする以外に方法はないんだ。つまり、塾へ通うか、登校拒否かっていう、そういう、極端にいいますと、そのどちらかにいく以外に道はないんだっていうように、中学の教育はなっていることを意味します。
これは、ぼくらだってそうです。つまり、中学とか、高校にいくときに、内申みたいなのがあるでしょ、数字がいくら以上はここの学校にいけとか、いくら以上はここだ、いくら以上はここじゃなくちゃだめだって、もう決まっちゃうわけなんです。そういうふうに決められちゃえば、高校が決められちゃえば、今度は、大学が決められちゃうわけです。大学も、ここの学校出たら、ここしかいけないんでみたいなとかいうふうに決まっちゃうわけです。そうだったら、もう塾へいって、どっかの高校へすべり込める人は、それでいいけど、そうじゃなければ、もうだめだっていう、学校行くのやめだっていう以外にないわけです。
登校拒否者っていうのは、さっきのあれでいえば、垣根が低いってことがあるんですけど、低い人が象徴的に、登校拒否してくれているわけですけど、それはいってみれば、内申書が、ある高校にどうしてもいけないっていう内申しか取れないんだから、もう登校拒否する以外ないよっていう、学校行くのやめるっていう以外ないよっていうふうになっているわけです。
それは当然なわけで、そうじゃなければ、塾へいくって、半分以上が塾へいくって、こんな馬鹿な教育をやっている学校なんてないわけで、たぶん、公立の中学校だと思うんですけど、これはもう成り立っていないっていうことを、ぼくは意味していると思います。だから、かならず生徒さんが、登校拒否を先達とする生徒さんたちの反乱か、じゃなきゃ父兄の反乱か、どちらかが起きてくることが間違いないだろうと、ぼくは思います。かならずそうなるだろうっていうふうに、ぼくにはそう思います。
核の問題っていうのは、深刻な問題でいうと何かっていうと、結局、幼児期を過ぎた後っていうのは、学童期っていうふうに発達心理学者はいうわけです。学童期っていうのは、いったい何なのかっていうのは、ものすごく難しいんです。ぼくなんかの知ってるっていいますか、読んでる偉い人でいえば、ヘーゲルなんかはもちろん、この時期にぎゅうぎゅうな目に遭わせて、道徳と学問技術をどんどん詰め込むっていうことは、たいへん、重要なことなんだっていう見解を云っています。
それで、そうじゃなければ、こんなところで、無理して勉強させるっていうのはおかしいんだっていう教育学者もいるわけです。日本の進歩的な教育学者っていうのは、みんなそういうふうにいいますけど、そんないい加減なものじゃないような気がします。
ヘーゲルはいい加減じゃないですけど、じゃあ、自由にしたらいいのかっていうことを、つまり、学童期っていうのは何なのかっていうことを、この時期に学問的なっていいますか、勉強的な技術と、それから道徳倫理っていいますか、それを植え込むっていうことは、はたして、根本的に云って妥当か、根本的っていうことは、つまり、今日お話ししました、胎乳児期を核とする人間の心の発達の仕方っていうのに照らしまして、それが妥当なのかどうかっていうことは、根底的に問い直さなければいけない問題だと思います。
いい加減なことを云う進歩的な教育学者は、これは自由にしなくちゃいけない、じゃあ、おまえの子どもは、学校行きたいって言ったらどうするんだっていうふうに聞かれたら、困ってしまうでしょ。いや、おれのところは別だっていうふうに言うとか、口ではこの時期に子どもは自由にさせなくちゃいけないっていうのは、てめえの子どもはそうじゃなくて、ちゃんと受験勉強させて、どっか入れてっていう、それじゃあいつまでたってもおんなじなんです。だから、嘘言っちゃいけないっていいますか、いい加減なこと言っちゃいけないんで、ヘーゲルみたいに徹底的なことを言うか、徹底的にこれはだめなんだと、ここの学童期っていうのは意味を成さないんだっていうふうに言うまで、徹底的にその問題を突き詰めていくかっていうことが重要だと思います。
どうしてかっていうと、この学童期と云われているもの、思春期に入るまでですけど、そこのところで、人間の心の仕組みでいえば、核と中間層との間だっていう問題が噴出する時期のように思います。つまり、核と中間層は、どういうふうに、その子どもの心の無意識の中であるかっていうことが、噴出してくる時期だと思います。この時期にぎゅうぎゅうな目に遭わせることはいいのか、道徳を植え付けるのがいいのか、学問技術を植え付けるのがいいのかっていうことは、根本的に問われなければならない。なぜならば、その学問技術っていう問題は、たぶん、中間層までいかないので、表面層の問題のように思うんです。だから、これをやっちゃうことはいいことなのかどうかっていうことは、根本的な意味で問わなければいけないっていうふうに、ぼくには思われます。
だから、いい加減なことを言うことはできないんですけど、ただ、いまの中学の状態をみたらば、データからみて、これはかならず問題が、文句が出てくる、あるいは、反乱がいまだって起こっているんですけど、登校拒否児や非行、中学生を中心にして、いまだって問題は起こっているんでしょうけど、そんなものは学校の先生が抑えつけようったって、そんなことは無理なんだって、これは根本的に問われなければならないだろうってことは、データからみて、まったく明瞭なことだって、ぼくには思われます。だから、かならず、何年か後にはかならずくるというふうに、ぼくはそう思っています。
じゃあ、この問題に対する、つまり、登校拒否とか、学習塾へ50%以上も通っているなんていう、これで教育が成り立つかって、こういう根本的な問題について、どこを、どうすれば、解決するかってことがあるわけです。これは、やっぱり根本的に云うならば、きわめて簡単なことです。つまり、簡単で、かつ、むずかしいことです。簡単なことっていうのは何かっていいますと、こんなところから変えたってしょうがない、つまり、文句は中学校から出るっていうふうに、ぼくは思いますけど、変えるのは、こんなところから変えたってしょうがないので、大学から変える以外にないわけです。
つまり、大学でたとえば、東京大学なら東京大学の教師が、学生は4年間とすれば、4年なら4年、最低4年は、たとえば、法政大学へ行って、講義して、学生を受け入れる、卒論を受け入れる義務があるっていうふうに、そういうふうに決めればいいんです。それから、法政大学の教師は、ようするに、東京大学へいって、最低4年は講義をして、学生を引き受ける義務があるっていうふうに変えればいいんです。そういうふうに変えれば、だいたいこの問題は、ぜんぶ解けてしまいます。どっからみても簡単なことです。東京大学の教師のプライドとか、法政大学の教師の劣等感とか、いろいろあるから大変でしょうけど、そんなことは問題じゃないっていえば、ようするに、法政大学の教師は、東大とか、京都大学に行って、4年間以上はかならず講義する義務がある。それから、学生を引き受ける義務があるっていうふうにして、また、東京大学の先生は、逆に、地方大学でも、私立大学でもいいんですけど、そこへいって4年間以上、とにかく講義して、学生を引き受ける義務があるって決めれば、この問題はぜんぶ解けてしまいます。だけれども、それは簡単であるし、個々の先生に対して、すこしも不等な圧力を加えてはならないわけです。すぐにできそうに思われるわけです。
簡単だけど、むずかしいってことは何かっていいますと、根底的に、ライヒとか、ニーチェとかっていう人たちに云わせれば、つまり、人間の中にある上昇意識っていうのがあるでしょう。向上心っていうふうに出てくれば、たいへんよろしいのですけど、向上心と上昇意識っていいますか、優越感とか、エリート意識とかっていう、あるいは、逆に劣等感っていうのがあるでしょう。つまり、それは、上昇意識と、ちゃんと表裏一体くっついているわけです。これを、人間の心の問題から払底するには、だいたい乳児・胎児の時期から、払底させる以外に方法はないわけです。
だから、いまの大学の先生に、そんなことやれって言ったって、だいたいできないでしょう。つまり、できる人がいたら、さっさとやめてますよ、先生なんてやめてますよ。それは、できないんです。それほど、それはいってみれば、それは根本的な問題になります。人間の無意識の核の問題から解いていかなければならないっていいますか、とても重要だけれど、とてもむずかしい、とても簡単だけど、それはなかなかむずかしいんだっていうことになります。
だから、それは徐々に移行していくっていうふうにするか、あるいは、みなさんの中からでもいいから、偉い人っていいますか、制度をつくるような人が出てきて、もうそういうふうに決めればいいんです。文部大臣かなんかになって、そういうふうに決めちゃえばいいんです。決めちゃえば、そういうふうになります。そしたらば、こういう問題はぜんぶ解消して、いっぺんに解消してしまいます。そこに触れないでやる改革の仕方っていうのは、ぜんぶ一時しのぎっていいますか、部分的な改革にしかならないっていうことは、たいへん明瞭なことだと思います。でも、やっぱりそれは、ほんとうを言うと、根本的な問題に全部つながっていってしまいます。
最後にあれしますけど、くれぐれもお断りしておきますけど、人間の心の問題、あるいは、心の異常の問題とか、それに伴う家族問題っていうようなものは、表面層で解けるならば解いちゃってっていいましょうか、そこで大過なく過ぎることかできるっていうならば、それでもよろしいんです。それから、中間層のところまでで、解いて、大過なく、家族っていうのが成り立っていくんなら、それは、それでもいいわけです。それでも解決なわけです。
どの家族問題も、ぜんぶ根底的に核の問題から、根底的に解決しなきゃ解決にならんっていうことはないのです。人間が生きるっていうことのなかには、いくつもの層がありまして、その層のどこのところに重点を置けばいいのか、あるいは、この場合にはここに重点を置けばいいかみたいなことが、それぞれでありえますし、表面層で解決してもいいし、中間層で解決してもいいし、もう万やむを得ず、これをやる以外に方法はないんだっていうふうになれば、やっぱり、核の問題まで入っていって、家族内の、たとえば、精神障害なら精神障害の問題を解いていくっていうようなことをやる以外にないだろうっていうふうに思います。
ぼくの考え方は、根本的には、心の仕組みの問題で、いちばん重要なのは、胎児・乳児のところにあるっていう考え、とくに母親と乳児との関係にあるっていうふうに、それが第一次だっていう考え方をとります。
でも、そうじゃない人もいます。たとえば、ヨットスクールの戸塚さんっていう人がいます。戸塚さんは、そうでないんです。戸塚さんはかえって後ろのほうの、母親の物語のところで言いましたように、後ろのほうの問題で、つまり、父親が頑強に立ちふさがって、それで、家庭内暴力をやるような子どもに対して、父親が退いているっていうのが、もう100%そうだから、父親が前面に出てきて、母親よりも、父親が前面に出てきて、家庭内暴力の子どもの前に立ちふさがって、強い父親のイメージを与えるっていうことが、何よりも重要だっていうふうに、戸塚さんの理論っていうのは、そういうふうになります。
だから、自分は、母親から、問題児を抱えた家庭から委嘱されれば、なんか非常に厳しい訓練を課して、それで、父親の代理人となって立ちふさがることをして、それを訓練の主眼にしてるんだっていうのが、戸塚さんの考え方だと思います。
それでもいいんです。つまり、それは、嘘ではちっともないと思いますから、嘘ではないんですけど、しかし、それは、たぶん一種の結果論なんです。それで解けるのは、たぶん、心の表面層と、中間層のあたりくらいまでだっていうふうに思います。それで解けるだけでも、よろしいわけなんで、それは戸塚さんがきっと、自分のやりかたは効果をみれるんだっていうふうに自信をもっている理由だと思いますけど、それはそうだと思います。だけど、根底的には、根本的には、ぼくはそうじゃないように思います。
第一次的には、この乳児・胎児のときの問題っていうのが、第一次的なものだっていうふうに、ぼくには思います。そこを顧みないで、きわどい問題っていうのを、あるいは、非常にピンチに陥ったときの家族の問題っていうのを解くことっていうのは、なかなかでき難いだろうっていうふうに、ぼくには思われます。
そこらへんのところは、ほんとうに、けっして核までいかなきゃいけないっていう問題でもないし、表面層だけでいけないってことでもないし、中間層で止めてはいけないっていうことでもないと、しかし、どうしても、核まで入っていく以外ないっていうときには、やっぱり、そこまで入っていく以外にないんだっていう、そういう心の問題っていうのは、家族の心の問題っていうのは、そういう問題だっていうふうに、ぼくなんかはそういう理解の仕方をしています。つまり、そういうところから、家族問題に起こっていく現象っていうのを、理解していきますと、ひとつの一貫した理解の仕方っていうのができるっていうふうに、ぼくは考えてやってきました。それで、みなさんに、ご参考に供することができれば、ありがたいと思います。これで終わらせていただきます。(会場拍手)
(司会)
それでは、4時までお時間がまだありますので、さきにみなさまのほうから質疑応答がありましたら、お受けしたいと思うんですけど、いかがでしょうか。
(質問者)
2つお聞きしたいんですけど、ひとつは、さきほど三木さんというかたのあれで、魚類から両生類で、陸上に上陸して、爬虫類、そのときに、胎芽の時に残っている、見た過程でわかるということ、これが乳児といいますか、人間の基本的な中に、痕跡みたいにわかるといいますか、それはどういう意味があるのかっていうのをちょっとお考えを。
それから、もうひとつは、乳児とはどんなことかというところの図で、母の物語というところで、衝撃で、否認があって、怒りがあって、拒否があってっていうあれで、死の位相学のところで、がんの告知をされたかたが、はじめに否認をされてというのと、その部分はおんなじだと思うんですけど、これは結局、生まれたときが、ようするに、死と同じ境遇だという意味で、乳児が神秘的に、そういう体験を一時して、受容して、それから生きているっていうようなかたちになるっていうことが、生まれてからすぐの瞬間にあるっていうことなんでしょうか。この2つのお聞きしたいです。
(吉本さん)
この受胎から、人間の胎児っていうのは、36日目に上陸があり、38日ぐらいに終わるっていうことを、確定したのが、三木さんっていう人が確定したんだと思うんです。三木さんは、ひとつひとつ、それは確かめて、写真を撮っていますし、『胎児の世界』っていう、安い本ですから、それをお読みくださればと思います。そのほうが正確だと思います。
ぼくはたいへん画期的なっていいますか、世界的な発見だっていうふうに思いますけど、これを確定したっていうのは、たいへんなことなんだなって思います。呼吸の仕方とか、磯から陸へ動物が進化の過程で、移っていく、その過程っていうのを人間の胎児っていうのが、踏んでいって、明らかに、ここが、魚の顔をしていたのが、爬虫類の顔に変わったっていうことを確定して、それで、そのときに母親がちょっと異常を訴えて、それから、つわりがはじまるっていうようなことを確定したっていうことは、たいへんなことのように思います。
つまり、人間っていうのは、やっぱり生物なんだっていう感じと、それから、やっぱり人間っていうのはすごいなぁっていう感じと両方で、ぼくはとても衝撃で、こんなことを発見した人は、日本かっていう、これはとくに衝撃的でした。
その本は、安くて、やさしく書いてあって、写真もありますし、たいへんな本、なにか啓蒙書のように、中公新書なんですけど、たいへんな本だと思います。だから、どうかお読みになってくださると、もっと衝撃うけると思います。
それから、三木さんの思想の選集っていうか、全集っていうか、それはもっと専門的にっていいますか、啓蒙的でなく専門的にやって書いてあります。ぜひそういうのをあれしていただきたいと思います。ニワトリっていうのが書いてあって、4日目か7日目で上陸するって書いてあります。
それから、これはあなたのおっしゃるとおり、ロスっていう人の『死の瞬間』っていうのがあります。ぼくが考えたことは、ようするに誕生っていうことと、死っていうことっていうのは、おんなじなんじゃないかっていうふうに思ったんです。
だから、ロスのやってることは、使えるんじゃないかと思って、やってみたんですけど、若いときは、そういうふうに思わなかったんです。誕生というのと死っていうのは違うと、若い人っていうのと、お年寄り、老年っていう、それは違うと思っていたんですけど、ちょっとぼくも老年っていうか、そういうふうになってきて、すこしそういうふうに考えるようになったんです。ちょっとわかってきたよっていうふうに思えることが実感的にある。それで、存外、死っていうことと、誕生っていうことは、おんなじで、逆行しても同じっていうふうじゃないのかなっていう、厳密にいうとそうじゃないかなっていうふうに、思えるようになってきたんです。だから、使えるっていうか、応用できるんじゃないかっていうことなんです。
それ以上のことはないので、もっとちゃんとやらなきゃいけません。そのうち、ちゃんと表現して書いてあれしたいと思ってますけど、だいたいそのくらいの意味で、死っていうのは、誕生の逆じゃないかな、逆でおんなじなんじゃないかってふうな考え方は、ぼくのお手製です、いまのところ、考えっていうのは、そんなところです。
(質問者)
こういう具体的なことをお聞きしていいか迷うんですけど、家族というよりも、父親ということです。10年ほど前に、吉本さんが、『教育の森』という雑誌で、インタビューされまして、たしかお嬢さんのことを言われてたと思うんですけど、お嬢さんが、大学へ行かないっていうこと、おふたりいらっしゃって、どちらのお嬢さんか知りませんけど、そのときに、大学なんてのは、単なる通過儀礼なんだから、黙って出てしまえ、たいした意味はないんだということを、たしか吉本さん言われてたと思うんですけど、その頃は、わたしもまだ若くて、子どもが小さかったものですから、やはり、吉本さんのご家庭にも、そういうことがあるんだなぁぐらいに思ってたんですけど、いまになってみますと、通過儀礼というふうに、吉本さんは、お子さんに対峙されたんだと思うんですが、そのなかで、お嬢さんがたが、最終的に、大学という教育の場を通過されたのかどうかはあれなんですけど、そのときに、通過儀礼だということで、吉本さんは、父親として対峙されたのか、ちょっと具体的で、失礼かなと思ったんですけど、その辺ちょっとお聞かせいただければと思いまして。
(吉本さん)
ちっとも失礼じゃないです。こういうことは全部ちゃんと言わなきゃ意味がないので、それは上の子なんです、大学行きたくないって、上の子が行きたくないって言ったんです。それで、ぼくは、どうせどこの学校に行っても、大学行ってもおんなじだから、ただ、ようするに、3年とか、4年とか、あるいは、短大だったら2年とか、遊ぶっていうこと、遊べるっていうこと、何にもしないで、親のすねをかじって遊んでるってことになる。だから、なるんだけど、遊んでる期間が、一生の間に、2年でも、4年でも、3年でも、あるほうがいいのか、ないほうがいいのかっていうのは、あるほうがいいっていうのが、経験的におれはそう思う。だから、まあ行きたくない、行かないっていうのはいいんだけど、遊ぶつもりで行ったほうがいいんじゃないかっていうのが、おれの意見だっていうふうにして言って、それは上の子ですけど、無理やり短大に行かせたわけです。無理やりにって言っても、まあ納得したんですけど、それじゃあ行くって納得したんですけど、行かせました。
ところが、ご当人が学校に出ていったのは、だいたい1学期間、1学期間だけ学校に出てたんだけど、あとは、学校に出ないで遊んでいるのと、それから、親の元は離れてたんですけど、離れて、京都にいたんですけど、遊んでいるか、それじゃなきゃ元々そういうつもりだったんでしょうけど、下宿で漫画を描いているか、どっちかであって、学校へは出ていないです、ほとんど出てないです。で、先生に知り合いの人がいたんで、子どもが出てこないんだけど、どうなんですかとかって言われたことはあるんですけど、ぼくはわからないって、ご当人のあれだから、わかんないなんていうだけで、けっこうあと3年半遊んで、経済的には、なんとかやれてたから、4年間遊んで、うちへ帰ってきたっていうあれです。
で、下の子は、自分の入れる大学行くんだって言って、日大の芸術学科に行きまして、学校へ入ってからは、やっぱり、クラブっていいましょうか、仲間っていうのもあれでしょうけど、クラブには出ていっても、授業には出ていかないっていう、で、適当にお茶を濁すっていうようなことで、出ることは出たと思います。学校出たことは出たと思いますけど、ぼくがみている範囲では、授業のほうじゃなくて、クラブ活動のほうとか、文学部仲間とか、茶道部とか、そういうところは出てたと思います。でも授業には出ていかないっていうふうにして、学校行ってたと思います。
だから、強制はしないし、ぼくもそうなんですけど、結局、通過儀礼、通ればいいんだ、それは目をつむってもいいし、歓迎してもいいんだから通ればいいんだ。それじゃ通らなくてもいいじゃないか、たしかに通らなくてもいいんだけど、ぼくの理解の仕方では、一生の中で、なんかすねをかじって、あるいは、アルバイトしてもいいんですけど、ぷらぷらと遊んでても、あんまり世間からなんだって言われないのは、学生だっていうようなところで、なんかかんか言われないで、遊んでるなんていうのは、一生の中にも、それだけしかないわけです、その一間しかないので、あとは遊んでたら、なんて野郎だっていうふうに他人から言われるし、自分も生活することができないことになるわけだから、こんなことしていていいんだろうかと思いながら遊んでる、あのなんとも言えない気持ちっていうのは(会場笑)、あれは僕の考えでは、日本人は勤勉だって言われていますけど、働く時間の過ぎかたと、それから、遊んでいる時間の過ぎかたのギャップっていうのが、自分の中で、きつくてしょうがないっていう、それできついの我慢しながら遊んでいるっていう、あるいは、それを楽しみながら遊んでるっていうことになるわけでしょうけど、そういう体験っていうのは、ぼくの体感では、たいへん役に立っているというふうに思います。
自分は、それがなかったら、貧乏人のこて屋ですから、ぼくなんか今日のお話に関連しまして、えらい倫理的な人間になっちゃってるような気がするんです。たとえば、宮沢賢治なんてとってくるでしょ、そうすると、農学校の先生ですから、生徒に、おまえたちは、田畑を耕しながら身につけていく勉強が、ほんとうの勉強で、学校へ行って、テニスをやって、遊びながら教えている先生から教わる、そういうものは、ほんとうの勉強じゃないんだっていうようなことを、宮沢賢治は言うわけです。
それは、ぼくに言わせれば、宮沢賢治の唯一の弱点なわけです。ぼくなんかも、ギャップっていうのの体験がなかったら、やっぱり、一種の原理主義になって、ほんとに原理主義になると間違えることがあるわけです。宮沢賢治は、そこで間違えていると思うんです。つまり、テニスをしようが、どんな遊びをしようが、そんなことは、その先生が教えることには関係ないのです。まじめな先生だろうが、遊び好きの先生だろうが、教えることは、それでもって等級がつくわけでもないし、遊んでる先生が、教え方がまずいってこともないし、勉強していないってことでもないので、そういうことは、あんまり関係ないんだけど、やっぱり、倫理主義からいくと、苦労して田畑を耕しながら身につけた、そういうのがほんとうの勉強だって言う人はたくさんいるでしょうけど、世間には、ほんとはそういうふうに言いたくなっちゃうんです。
だけど、それはたぶん間違いなんです。つまり、遊ぶっていうことの時間、あるいは、勉強するとか、働くっていうことの時間っていうことを間違えてるんだと思う。ぼくに言わせればそうじゃないんです。それは間違えてはいけないのであって、ようするに、まじめであろうが、不まじめであろうが、あることを教え、あることを学ぶことに、べつに関係はないっていう、そういう考え方にたったほうがよろしいと、ぼくは思っています。つまり、人間の心っていうのを、たいへん広くするっていうことがあると思います。あるいは、自大さを獲得することがあると思います。ぼくはそう思ってる。
だけど、やっぱり、一生懸命、最短距離、経済距離だけをとっていこうとすると、どうしても倫理主義になっちゃうんです。倫理主義になっちゃって、宮沢賢治的な言い方をしちゃうから、だから、ぼくは通過儀礼で、ぶらぶらして、いい年をした人間がふらふら遊んでいられて、それで、あんまりなんにも言われないっていう時間っていうのは、一生のうちに、ほんとに少ないあれしかないんだから、それはもし行けるんなら、あったほうがいいよって、ぼくはそう考えて、通過儀礼っていうふうに言っちゃうわけです。
これは、人によっていろいろだから、なんとも言えないんですけど、やっぱりさきほど言いましたように、ほんとはむずかしい問題だと思います。ぼくが、そういう理解のところでみなすっていうのは、正当だとはちっとも思わないので、ほんとはもっと根本的に考えるならば、学童期っていうことと関連させてみますと、人間の学童期っていうのは、増えていく一方なんです。文明が発達していって、増えていく一方なんです。
いまだって、生涯教育っていう人がいるくらい、冗談じゃねぇっていう、ぼくに言わせれば冗談じゃねぇっていう、はやくやめてくれっていう、教育なんかやめてくれっていう、ぼくは学校行くのが息苦しくて、小学校とか、それから、大学なんてのはサボってるからそうじゃないですけど、息苦しくてしょうがなかったです。
だから、生涯教育っていうのはとんでもなくて、そうすると、いますけど、文学者でも、頭はいいんだけど、こいつ幼児じゃないか、幼児で、ちっともそういう意味では発達してねえ、だけど頭はよくて、いるわけですよ、そういうのが、文学っていうのは、だんだん落ちていくなっていう、つまり、文学っていうのは、だいたいなまけ者で、なまけ者だけど、みずから頼むところがあってっていうようなのが、だいたい小説家になったとかっていう、そういうのが文学のある意味でよさでもあるし、また、文学の幅の広さなんです。つまり、悪を許容したりできるところなんです。
だから、この頃の日本の文学者っていうのは、自慢するようにやって、もう冗談じゃねぇって、そういうのは、生涯教育っていうようなことを言うんです。それで、文部省とくっついてるんですよ、だから、こんなのはよくないですよ、つまり、堕落ですよ、でも文明っていうのは、そういうふうにいくので、これはいきつつあるわけで、西洋の後を、いま日本が追っているところです。
だいたい10年から15年遅れて、だいたい西欧ヨーロッパの後を追っていますから、ヨーロッパもだめですから、頭がいいと人間がなくなっちゃうっていう、これもニーチェとか、ライヒとか、そういう人たちの言い方のあれからすると、たいへんな文明の堕落なわけなんです。だけど、それは堕落だけど必然なんです。だから、できるだけ、そういうのは避けたほうがいいですよ、せめて、文学の低位置の国だくらいに、そんなのはないほうがいいですよっていうふうに思うんだけど、なんかこの頃は、そういうようなエ゛ーっていう感じで出てきまして、これは一昔前の文学者がみたら、いまのは全部ぶん投げちゃえって、冗談なんですけど、そのくらい変わってきてる。だから、もうほんとに息苦しさっていうのは、ほんとうなのかって、生涯、教育したり、学校行ったりしなきゃならない、すくなくとも、いまの勢いでいけば、ようするに、大学行って、今度は大学院に行って、修士課程に行って、博士課程行くみたいにドクターコース行って、そういうやつがだんだん増えつつあるので、これも半数を過ぎたら、今度はドクターコースのもっと先ができるっていうようになりそうな気がするんです。いまの勢いならそうなりそうな気がするんです。
それはほんとにいいことなのかっていうことは、やっぱり、どこかで根本的に問わなきゃ、えぐってみないといけないような気がしますので、どっかでみなさんがたも、えぐってほしいわけです、その問題を、いい加減じゃなくて、えぐってほしいわけです。ぼくがいま言ったことは、いい加減です。つまり、通過すりゃいいんだ、こんなのはっていうのは、いい加減なことです。あれでいえば、表面層のところで済まそうじゃないかそれはっていう考え方で、ちっとも、ほんとうはいいと思ってないですけど。
(質問者)
わたしは、都立の商業高校の教諭をしているんですけど、さきほど先生が、東京大学、法政大学とおっしゃられたんですけども、わたしの実感としては、大学進学率が、大都市圏でせいぜい50%程度かなって気がしますので、東京大学、法政大学自体の違いは小さいんじゃないかと思うんですけど、というのは、商業高校の子は、実質的に、ほとんど就職ですから、そうすると、だいたい就職していくのが、日々のルーチンの仕事がやはり多いです。都立高校の現在の教員でも、ほとんど私立中学に自分の子どもを入れて、いわゆる有名大学に入れて、わりと主導的な立場に立てる、オリジナリティーを発揮できるワイドオン、ホワイトアンドカラーっていうような言葉が、昔でいうと対応すると思うんですけど、そういうような仕事につかせたいというのが、まだ多いと思うんです。
それで、学校教育、中学は否定されているっていうようなことをおっしゃられましたけど、学歴をはじめとする、そういう振り分け機能に終始しているっていうのが、現在の学校教育じゃないかなっていう気がするんです。
その法政大学、東京大学という話が、さきほどおっしゃられたわけですけど、そういうのが突出化された場合に、最終的にオリジナリティーの発揮できる仕事と、それ以外にわりとルーチンでしなければいけないような仕事ってありますから、そういうようなもの、振り分け機能はどの辺が担っていくようになるのか。
そういうことと、あとひいては、教育っていうのが社会にとって、ぼくはいつも思ってるんですけど、自己防衛機能であるというのか、それか、あるいは、自己変革を促していく機能のひとつであるのか、どちらのものなのかなっていうのは、その辺を、先生の実感を含めてお聞かせいただけたらと思います。
(吉本さん)
申し上げますと、ぼくも工業高校、いまでいう工業高校ですけど、そこを出たんです。やっぱり、大部分は就職してしまったわけですけれど、なんとなくそこらへんで、すこし勉強したいっていうのが少数いて、それでまた学校へいくみたいなふうになって、ぼくらもそういうふうにして行ったわけですけど、ぼくらは特殊で、戦争中だったですから、そういう制約を受けたりしたんですけど。
おっしゃることで、ひとつだけ、おととしか、さきおととしになると思うんですけど、トヨタって自動車の会社がありますよね、トヨタの多摩地区にある工場があるんですけど、そこを見学させてくれって言って、見学したことがあるんです。それは、ようするに、自動車製造の工程っていうのは、どういうふうにやられているかみたいなことが知りたくて、行ったわけですけど、そのときに、それはそれで結構おもしろかったんですけど、そこの案内してくれる人の説明の仕方の中で、いま質問されたかたの、すこし思い出したことなんですけど、そのときに説明してくれた案内してくれた人の話の中に、日本の自動車工場っていうのは、どこが世界各国に比べて、どこが優れているかっていうふうに、優れていることになったかって説明をしてくれたんです。
そのなかに、商業高校、工業高校っていいますか、もし学歴に換言するならば、そこに該当する人たちの、勤めている人たちの、質と量が、ようするに、格段に諸外国より優れているっていうのが、その説明の中にあります。それはなにかっていうと、諸外国の、いわゆる工員さんっていいましょうか、つまり、流れ作業をあれする工員さんっていうのと、いわゆる大学を出た技術者っていうこと、それは立派で優れたのがいるんだけど、それじゃその中間っていうのを誰がやるんだ、どうするんだって言った場合に、ちょっと格段に見劣りがするようなっていう、つまり、手薄なんだ。ところが、日本の場合には、そこがものすごく、担い手は、商業高校とか、工業高校になるわけですけど、そこの人たちっていうのが、格段に、量質ともに優れているんだっていうんです。つまり、そこは非常に問題なんだっていうふうな説明をしました。そこ以外に、ぜんぶ格別変わったところもなければ、特別なところもないんだけど、そこだけはちょっと、たいへん違うところなんで、そこをもって、日本の、ここでいえば、自動車っていうのは、車っていうのは、優秀で安いんだっていうことの原因っていうか、理由に数えるほかないんだっていうことの説明をしておられたんですけど、ぼくはいまのあれを聞いてて、やっぱりそこの問題を、すこし考えるべきことがあるんじゃないかな。
つまり、登校拒否でも、それから、学業拒否でもいいんですけども、あるいは、上の学校行きたくないっていうのでもいいんですけど、そういう人たちの数が増えるっていうことと、それから、商業高校、工業高校を充実させていくっていうことを、非常に大きな問題として考えれるっていうことは、重要なんじゃないかなって感じを、ぼくはもつんですけど、自分もそうなんです。
つまり、工業高校で終わるっていう、銭がないからそこで終わりだってなったら、そこで就職しようと思ってましたし、それから、たまたまそうじゃなくて、当時の場合でいえば、高等工業ですけども、また上の専門学校みたいなものに行けるっていうふうになりましたもので、またそこへ行って、また終わるころになって、就職、それから、軍隊に取られるか、どちらかなんですけど、どちらでもあるわけなんですけど、そうするか、またすこし学校行くかっていうふうになって、また、経済的に行けそうなんで行くっていうふうになったっていう、なんかいちいち文句つけながらそういうふうに学校行ったような感じなんですけど。
ぼくは、商業高校とか、工業高校の問題っていうのと、それから、登校拒否とか、学校拒否みたいな問題と、いまのところは、同じになっちゃっているような気がするんですけど、そうじゃなくて、同じっていうんじゃなくて、ほんとうに一体の問題として考えることっていうのは、そういったことだけじゃなくて感じます。
それから、教育の問題っていうのは、教える側からも、教わる側からも、今日のあれでいえば、どこの段階まで教えるかとか、どこの段階まで教わるか、先生から教わるかとか、教えるかってことは、はっきりさせることはできるような気がするんです。
さきほど、東京大学の先生、あるいは、京都大学の先生は、どこか地方の大学とか、法政大学とか、私立の大学とか、そういうところに4年間以上あれする義務があるとか、逆に法政大学の先生は、東京大学とか、京都大学に行って、4年間以上教える義務があるってすれば、終わりなんだ、大丈夫なんだ、解決なんだっていうふうに申しましたけれど、それはもっぱら精神的な問題だけに、還元しましたけど、もうひとついえることは、家族の問題っていうのは、ここでいいますと、表面層の問題、あるいは、意識領域の問題、つまり、技術の問題っていいましょうか、そういう問題に限定することもできるわけです。
大学なんていうのは、たいていそうなわけです。つまり、どこの大学に行っても、文科であろうと、工科であろうと、あるいは、法科であろうと、だいたい意識領域と、それから、人間の一種の表面の層っていいますか、そこでもって、教育っていう問題は成り立っているように思います。
ところで、それじゃあ商業、工業高校っていうのは、中間層の問題まで、教育の問題が入っているかっていうふうになるわけで、これは、そこの問題のようになるような気がするんですけど、むかし、昔っていうのはおかしいですけど、旧制の高等学校とか、旧制の高等工業とかっていうのは、ある程度、中間層のところまで、心の無意識の中間層のところまで、ある程度、踏み込んでいっているんです。学生のほうも、中間層のほうで、教師にこれはどう思うかとか、どうやって処理したらいいのかとか、どういうふうに生きたらいいのかみたいなことを先生に尋ねることもありましたし、つまり、昔の旧制の高等学校とか、高等工業とかっていうのには、そういう中間層のところで、教育が成り立っているっていうことがあったんです。ありえたんです。
それは、教育にとって邪道であるかどうかは別として、そういうところでは、いわゆる名物教師みたいなのがいるんです。あいつは話がわかるとか、あいつと一緒に飲みに行ったとか、飲みに連れてってくれたとか、そういうふうなことっていうのはあったんです。それは、いってみれば中間層のところまで、教育自体が入っちゃったことを意味するわけです。
たぶん、いま質問されたかたのことの問題っていうのは、大学の問題で言われたけれど、ほんとうは、ぼくは中間層の教育っていいましょうか、そこまで入ってくる教育っていうのは、いったいどこにあるのか、ないのか、どこで消えちゃったのかっていうような問題が大切なような気がするんです。それは、いまの高校ではなかなか、それこそ、こっちのほうで忙しくて、大学受験で忙しくて、それはとてもできないだろうと思います。ですから、またこれも商業高校とか、工業高校っていうのは、もしかすると、そういう中間層の教育っていうのをやれるかもしれないなっていう可能性を、ぼくはもつような気がするんです。だから、その問題を考えることはいいんじゃないかなって気が、ぼくは聞いててしたんです。
大学の問題じゃ、たぶん、ないと思います。大学っていうのは、ほんとに体験的にもおわかりでしょうけど、ようするに、教師から教わることっていうのはないんです。知識しかないわけです。知識だってほんとうは教わらないので、この本読めばちゃんと書いてあるっていうふうな、本の読み方を教わるみたいな、あるいは、てめえでやれ、自分で勉強しろっていうことを、おっ放される。そういう意味しか、大学にはまずまずないと考えたほうが、ほんとうはいいんです。
だから、たぶん、いま大学の問題で言われたけど、たぶんそれは、中間層の教育の問題だというふうに思うわけです。それから、あとはもう核の問題、核の問題は、これは教育なのかどうかわからないのです。つまり教育であるのか、社会的救済の問題であるのか、あるいは、救済を含む問題であるのか、ちょっとわからないんです。
先ほど言いました、ライヒってフロイトの弟子ですけど、ライヒなんか、これは社会制度の問題だみたいに考えたことがあるんです。でも、それは違います。ライヒはだめだって考えるのがあってます。つまり、核の問題っていうのは、乳胎児の問題だ、つまり、母親の問題だ、あるいは、もっと文明の問題だと、ユダヤ・キリスト的文明、あるいは、西欧文明のだめなところであって、そういうところまで、極端にいくわけです。ここがだめだから、人間っていうのは、ライヒがそう言ってますけど、ヒットラーとか、スターリンとか、そういうやつの人間を、いい年をして、いい頭をもったやつが、スターリンの言いなりになってみたいに、ヒットラーの言いなりになってみたいに、日本の東條英機ですとか、天皇が東條英機の言いなりになってみたいなふうになっちゃうのは、なぜかっていうと、ようするに、核のところがだめなんだっていう、こういうアホの言いなりになっちゃうっていうのは、ぜんぜんどこでだめかっていうと、割礼されたからだめなんだって、ライヒはそう言ってるわけです。
割礼っていうのは、精神の割礼もあれば、肉体の割礼もあるわけですけど、精神的にも無気力否定、内向性、そういう服従心っていうものを、そこの核のところで、つまり、乳胎児のときに植え付けられちゃったから、ヒットラーとか、スターリンとか、そういうやつの言いなりになって、いい頭をしたやつがそうなっちゃうんだっていうのは、そこがだめなんんだっていう言い方を、ライヒなんかはしています。
つまり、核の問題っていうのは依然として、解決することができないんです。さまざまなアプローチはできるわけで、それぞれの専門家は、それぞれアプローチして、必死になってやっておられるわけですけど、なかなか核の問題まで到達することはむずかしいっていうのが、現在の状態だっていうふうに思います。
だけど、中間層の問題までは、たぶん教育の問題、それから、学童期っていわれている問題、それから、学童期がどんどん延長していっちゃう、こんなんでいいのかとか、文明が発達していったら、いつまで経ったって学生だって、精神の成り立ちはまったく幼稚で、頭だけはいいけど幼稚だっていうのができちゃう、それでいいのかしらみたいな問題に、重なっていきますから、でも中間層までは、教育的な問題たりうるっていうことが言えると思います。ぼくは、いまのかたのお話を聞いてて、ぼくは、そういう感想をもったんですけど、商業高校とか、工業高校とか、中間の教育の問題っていうのは重要なんじゃないかな、むかしの高等学校とか、高等工業、高等商業っていう役割を背負えるのは、そこなんじゃないかなっていう感じが、ぼくは聞いててしたんです。
(司会)
たいへん申し訳ないんですけど、時間のほうが押してしまいましたので、対談の時間がなくなってまいりましたので、最後に、わたくしどもの所長の武藤のほうから、先生にご質問がございますので、お願いいたします。
(武藤所長)
いちおう対談ということだったんですが、みなさんからいろいろ質問が出ましたので、わたしもですね、ちょっと対談にひとつ見せかけてというふうにしたいんですけど、実は、先生の意識領域、表面層とか、中間層、核という、この前提ですね、これからはじまったわけなんですけど、わたしはどちらかというと、肯定主義的にものごとを考えたいという感じで、いま仕事をやっているんですが、そういう取り方をしていきますと、先生が話したことはどのように伝わったのかっていうことになるんです。
たとえば、基本的な問題としては、核の問題になってくるということになりますと、それが非常に悲観的なものなのか、楽観的なものなのか、それは伝わる人によって、伝わり方が違うと思うんです。
たとえば、その登校拒否の問題が、核の問題だってことになると、あきらめて、あきらめた結果よくなる場合もあるわけですね、あまりかまわずに、それとも、非常にだめなものだというふうに、悲観してしまうというように認知してしまうかもしれない。しかし、それは聞いてみないとわからないと思うんです。
つまり、このことが、どう伝わって、そして、どのようにそれが子どもたちなり、あるいは、ほかの方たちに伝えられていくのか、そういう意味でわたしは、コミュニケーションが現実をつくっているのではないか。つまり、中間層とか、核とか、表面層というふうなことを伝えていくことが、現実をつくっていってるのではないかというふうなことが、ひとつの考え方があるのですが、先生はそれをどのように捉えてらっしゃるでしょうか。
(吉本さん)
どうしてこういう言い方をするかっていうと、ぼくが、今日のお話をするために何を準備したらいいかっていうことで、先ほども言いましたけど、家族問題についてのさまざまな論議の書籍っていうのを、急いで買ってきまして、4,5冊買ってきまして、読んだんです。そうしたら、何に気が付いたかっていうと、ようするに、みんな嘘は言ってないよなっていう、つまり、みんなそれぞれもっともなことを言ってるなっていうことを感じたんです。
だけど、もっともだっていうのを感じたんだけど、たいへん空疎なんです。もううんざりしたなっていう、もっともだ、もっともだと思われることを、こうも言われちゃうと、うんざりしたなっていうことを言わなかったんです。
それから、もうひとつは、やっぱり、論者、著者っていうのは、みんな自分が何について言っているのか、何を解こうとしているのか、あるいは、どこから解こうとしているのかっていうことについて、具体的、現実的には言ってるんだけど、基本的に、根本的には、自分が何を、どこで、家族問題に近づこうとしているのかっていうことが、すこぶるはっきりしない、曖昧であるっていいますか、その2つのことを感じたんです。
それで、その2つのことの弱点っていいましょうか、いちばん干渉できるやりかたって、考え方っていうのをどういうふうに説明したら、あるいは、どういうふうに解いたらいいかなっていうふうに考えまして、それで、こういう図面を設えたわけです。
ですから、べつにあなたたちの心が、こういうふうに図には書けてるって思えるわけでもないし、図面どおりが出ると思ってるわけじゃなくて、そうじゃなくて、わかりやすく、解きやすくしていったら、自分は何に引っ掛かっているのかっていうことを、自分で知ろうと思う場合に、都合がいい図式はどうかなっていうことで、こういうふうにやっていったっていうだけで、これが、心の世界の実態は、こういうふうにできてるっていうふうに言おうとしていることでは、別段ないんです。
それから、よくよく見てると、本なんか読んでると、みんな3つのことを触れているんですけど、みんなごっちゃごちゃには、全部出てるんですけど、どれひとつとして、自分はここに限定して、ここでもって、追い詰めるよとか、こんなところ、表面層の問題だけで、つまり、コミュニケーション論だけで、追い詰めるという比較をしてるのもしょうもないし、それから、中間層まで入り込んでやってみるぞっていう、それぐらいで自覚的にやってるっていうのもないし、それから、核のほうまで、やらずんばおかずっていう、そういう深刻極まりない、いま言われた暗くなって、ここまでがっくりきちゃうっていうような、そこまで暗くさせるような本もなかったんです。ちっとも暗くなんないんです。みんな、治るよなんて、もっともなことを言ってるんだけど、ちっとも暗くならないですし、また、明るくもならない。うんざりした。
しかし、それでは困るわけで、ぼくは、それならば、暗くなるか、そうじゃないか、なんでもいいからとにかくやろうじゃないかっていうことなわけです。ぼく自身の、いまのお話でいうと、ぼくはどちらかというと、すごく悲観的なんです。だから、心の問題については、そんなに教育的でないんです。
さればといって、自分の身内って、家族、第一次的家族の枠組みで、みんな正気な顔をしてやっていますけど、第二次的な眷親っていいましょうか、親戚っていいましょうか、そこまでいくと、もう数えたら、3人か、4人くらいおかしいって、先生にかかってる、精神科のお医者さんにかかってる、かかってるって入院しているって意味じゃないですけど、通ってる者が、3人か、4人いるんですけど、つまり、このくらい何かが迫ってきてるっていいましょうか、それで、これにさまざまに対応を自分がしてみたり、経験的にはあるんですけど、やっぱり、相当、絶望的にならざるをえないっていうのが現状で、ぼくはそういう感じ方をもっていることは確かなんです。
だけども、先生方は、そんなことを言っていたら、だいたい教育にならないし、人を治癒するとか、そういうことは、自分が疑問をもっても、治癒することはできませんから、だから希望をもっているのは当然なんだ。
ぼくは、そういう経験上、相当に暗いなっていうことがありましたから、それから、もうひとつ、全体的にいいますと、みなさん、たとえば、耳にたこができるほど、緑を守れとか、自然を大切にしろとか、なんかそういうことを耳にたこができるほど聞いていると、しかし、ぼくは、申し上げますと、それは本格的じゃないです。
つまり、何かといいますと、現代の日本の社会の産業構成っていうのを見てればわかるんです。農業・漁業に従事している人は9%です。働ける人の9%ぐらいです。それから、製造業に、工業、製造業に従事しているのは、30%ぐらいです。それから、いちばん多いのは、みなさん、そう思わないかもしれないけど、50%、60%近くは、第三次産業、つまり、流通業、それからサービス業、教育、娯楽、医療も含めまして、そういうのにたずさわっている人間が、人口が、だいたい56%から60%ぐらい、つまり、大部分は、第三次産業に従事しているんです。
農業に従事している、つまり、緑に従事している人は9%です。大切にするっていうのは結構だけど、こんなものは、社会の主要な問題だって思ったら大間違いです。つまり、これは第三世界、つまり、アジア、オリエントアジア、それから、アフリカ世界、そこでは、まだ依然として、農業、漁業、森林業っていうようなことと、製造業の問題が第一次的でありましょう。だけど、日本とか、西欧とか、アメリカとか、そういう先進諸国では、ようするに、60%くらいはもう、第三次産業が、人間が従事している産業なんです。
ここいらの、主な、ようするに、公害問題は何かっていったら、これは、今日のお話ししたことなんです。つまり、精神障害なんです。精神障害が、主たる、いまもそうだし、これから起こってくる、ようするに、公害です。公害っていうのは、それが主だっていうことを、よくよくみなさんが心の中に刻んでおいてほしいんです。緑の問題だと思ったら、それは違います。それは9%です。9%の問題っていうのはあるんだから、それを云うのは間違いではないですけども。しかし、これが主たる問題だって考えたら大間違いです。
世界における主たる問題だと思ったら、大間違いであって、世界の、少なくとも先進社会は、すでにそんなのは、完全に解脱しているんです。それで、緑の問題を先端にしてあるのは降りると、それから、第三世界、それから、アジア、アフリカ世界、そういうところは、主たる問題としてあります。ところで、先進社会では、主たる問題は、そこにはありません。つまり、疲労困憊、精神障害っていうものが、これが主たる公害になっているわけです。
だから、これはよくよく考えていかなくちゃいけないことは、先生方は、いまもそうなんでしょうけど、一生懸命取り組まなければならないものが、そこにありますし、ぼくらが重要だと考えている、もっとも重要だと考えている公害問題は、そこにあるんだっていうふうに思っています。だから、けっして、緑の問題に従うことはないのです。そういうことは、徹底的に考えなきゃいけないと思います。
つまり、怒りをもってるやつは多いですから、とくに社会運動みたいにやりたがるやつは、そんなのは好き嫌いの問題でいいわけです。緑を好きだっていうなら、緑があるところに行けばいいし、植木鉢でもなんでも買ってきてつくればいいので、つまり、そういう問題なのに、社会問題、文明問題だみたいに考えて、そういうふうに主張しているやつはが言ってると、緑の問題みたいに言うでしょ、とんでもないことだと、これはやっぱり、先進社会に残そうっていうので、それは9%しかいないんで、9%の問題だと、言うやつは、たぶん、これなんです。緑の問題だって言ってるやつは、ここの問題なんです。くたびれちゃって、それでもう緑がほしいわけですから、それはいいですよ、欲しい人は勝手にやってますから、だから、そういうのを集めて自分を癒してたって、自分をなだめてますけど、こんなものは、社会問題になってるのは、これの問題が社会問題になってることの象徴なんでしょう。緑の問題自体の問題じゃないんです。
緑がなければやりきれないっていうのは、たった9%のくせに、100%みたいな顔をして言わないと、自分が我慢できないって、精神障害になって、そういうふうになってることなんです。それが現状だと思います。
これは、とことん考えたらよろしいように思います。ぼくはそう思ってます。ぼくはたいへん悲観的な要素を、核には悲観的要素をもっています。みなさん、先生が結果的に希望的なことを申しますと、ぼくなんか聞いてて、こいつは暗いなって思われたかもしれないけど、それは、誤解であって、ようするに、先生方が一生懸命、これから、取り組まなければならない問題は、そういう60%以上はそれなんです。
アメリカ行ってもそうですし、ヨーロッパ行ってもそう、それは間違いなくそう、それは近く大問題になって、しかもこれは目に見えないでしょ、だから、隠そうと思えば、ある程度は隠せるわけです。ほんとうは、それでは治らないかもしれないですから、ほんとうに表面か、中間層までかっていう場所、表面で、治らなくても、そこらへんでおかしな人同士○○じゃないのってふうなところで、できれば、それがいちばんいいことですかね。無理に核までもっていって、ぶち壊しにして、解体っていうふうにしないほうがいいと思います。終えれるなら、表面で終えてもいいし、みなさんお互いに家族が全部もたなくても、40%ぐらいは確定だけど、○○。
(武藤所長)
どうもありがとうございました。悲観的になると、誰かが楽観的になったり、人間関係は、ほんとに複雑だななんて思います。先生が悲観的になれば、われわれは楽観的だったり、いろいろなって、そういう人間関係のコミュニケーションっていうのは、どこでどうなるのかわからないなというふうな気がいたします。それから、最後に吉本先生が、メンタルヘルスとは、頭の使い方であると、何遍も頭を指していただいたから、これからメンタルヘルスというのは、いろんな頭の使い方をしていくことによって、うまくいくのかなぁというふうに、グリーンの問題もそうなのかなぁということを感じました。どうもありがとうございました。(会場拍手)
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