1 司会

お話に際しまして、わたくしのほうから、簡単にご紹介をさせていただきたいと思います。吉本先生は1924年に、東京のお生まれでございまして、作家、詩人、文芸評論家、あるいは、若い方だと、よしもとばななさんのお父さんとしても、存じあげておられる方もいらっしゃるかと思います。
 主な著書をご紹介させていただくかたちで、ご紹介に変えさせていただきたいと思います。どっかの出版社から、『吉本隆明著作集』という全集が出されております中に、詩でございましたり、評論でございましたり、本でございましたり、いろいろ収めておられます。仏教、それから、とくに、親鸞聖人のご研究、あるいは、その解釈のご研究をされておりまして、その代表的なものをご紹介いたしますと、『信の構造』といわれる、仏教論の集成といわれるものでございましたり、より有名な本でございます『最後の親鸞』、それに続くかたちで、3年ほど前でございますか、『未来の親鸞』というのを出されておられます。いろいろ、雑誌にも寄稿されておられまして、『思想読本』、これは寄稿でございませんで、編纂でございますけれども、『思想読本』の中の、親鸞の巻は、先生の編でございます。あるいは、良寛に関しての著書でございましたり、その他、いろいろな雑誌にも寄稿されております。
それから、今日も、一番前にお見えでございますけど、広橋の前登志夫先生とも、ご昵懇でございまして、「短歌」といった雑誌に、前登志夫先生の特集の中に、吉本先生の評論が寄稿されておりましたり、あるいは、前登志夫作家論の特集を、吉本先生が編まれたといったご関係でもございます。
今日はとくに、現代における親鸞というご講題を頂戴しておりまして、現代社会という時代のなかで、親鸞聖人の教えというものを、どう解釈すればよいだろうかということを詳しく、また、軽易なお言葉で、お話をいただけるということになっております。
また、あわせて、われわれ、若い僧侶に向けての、ひとつの励ましと申しますか、檄を飛ばしていただくという意味合いでの、お話をいただけるということになっておりますので、これから、1時間半ばかり、途中で休憩を挟んでいただきまして、また、最後の時間を質疑応答にあてたいと思いますので、ぜひ最後までご清聴のほど、よろしくお願い申し上げます。それでは、吉本先生にお話を頂戴いたします。お願いいたします。

2 親鸞にまつわる、重要な問題

ご紹介にあずかりました吉本です。今日は、「現代に生きる親鸞」という演題をいただきましたんですが、ぼくの家は、親父の代まで天草門徒だったわけで、おじいさんなんかは、ほんとうに、東京へ出てからも、死んだら浄土へいけるっていうふうに、ほんとに信じていて、よく隅田川をはさんで、両岸なんですけど、こちらが佃島なんですけど、佃島に住んでいたんですけど、渡しをわたって、築地の本願寺へ、よくお参りしていました。ぼく、子どもでしたけど、終いに、おじいさんもボケて、行くのは行くんだけど、帰りが迷子になってっていうか、帰れなくなって、交番の世話になって、交番から交番へ伝わってきて、「おじいさんを保護して、あれしてるから、迎えにきてくれ」とかっていう、親父から、よく迎えに行かせられたのを覚えております。でも、信仰が、おじいさんも、おばあさんも、篤い人でした。
親父の代になると、だんだん信仰が衰えて、ぼくの代になったら、もう、どうしようもないやつだっていうふうになってしまったっていうのが、ぼくの浄土真宗に対する、子どものときからの記憶っていいますか、そういうことで、はじまってきたわけです。
ただ、そういうふうに言いながらも、親鸞は、そういうことを抜きにしても、たいへん好きでもあるし、執着もあるしっていうような意味合いで、やっぱり、日本で、ぼくなんか、この人が、いちばん、いい宗教家なんじゃないかなっていうふうに思って、自分なりに親鸞について、勉強してきました。
親鸞の信仰の問題っていうのは、現在も問題であるように、その親鸞が在世中、つまり、生きているときから、すでに、たくさんの重要な問題が、いろいろ出されていて、そして、それに対して、だいたいにおいて、親鸞の考え方っていうのは、決まっていまして、お弟子さんたちへの書簡とか、あるいは、話とかの中で、そういう、お弟子さんたちがいちいち出してくる、とても重要な疑問とか、重要な問題とかに対して、よく応答して、よく答えているっていうふうに思います。その問題は、重要であるために、そのときも問題だったし、いまもたいへん大きな問題をはらんでいるっていうふうに思います。そのことをお話してみたいっていうふうに思うわけです。

3 阿弥陀如来の光に包まれる状態

浄土真宗の信仰は、法然、親鸞ともに、弥陀の十八願っていうのが、眼目なわけです。十八願っていうのは、みなさんご承知のように、非常に、言葉でいえば簡単なことで、十方にいる人たちが、そういう言葉を使ってますけど、「至心に信楽して」っていうのは、「至心」っていうのは至る心で、つまり、一生懸命ってことだと思います。一生懸命に、「信楽」っていうのは、信ずるっていう字に、楽しいっていう字を書くわけですけど、信楽して、自分はかならず浄土へ生まれたいというふうに願って、「乃至」っていう言葉を使っていますけど、乃至十遍でも念仏を称えたならば、そして浄土へいけないっていうことがあったら、自分は悟りを得ないっていうふうに、仏がお誓いになったっていう、それが十八願の眼目なわけです。
それで、その十八願の眼目っていうのは、そのとき、すでに、たくさんの重要な問題にさらされています。至心に信楽するっていう「信楽」っていうのに対して、親鸞は解説っていいますか、註釈を加えています。親鸞の註釈は、ようするに、仏の誓い、つまり、衆生を、浄土へ導いていくってことを、乃至十遍、念仏を称えたならば、かならず浄土へ導いていくっていう、そういう仏の誓いっていうのを、二心なく真実だと思って疑わないっていう、そういうことを「信楽」っていうんだっていうふうに、親鸞は註釈しています。
ところで、重要なことっていうのが、「信楽」ってことにまつわる重要なことっていうのは、真実にそれを信じてってことは、いったいどういうことなのかっていうことから始まるわけですけど、親鸞の理解の仕方は、徹頭徹尾っていいましょうか、徹頭徹尾、自分の力とか、自分の思いとかっていうのではなくて、ようするに、はじめから終わりまで、ぜんぶ阿弥陀如来の光の中に包まれてしまうっていう、その状態っていうのを、包まれてしまうんだっていうところで、その願いっていうのが遂げられるっていう、包まれてしまうってことが重要なんであって、それを、「他力」っていう言葉を使っていますけど、真実の信仰っていうのは、他力であって、つまり、自分のほうから計らいをもって、こうすれば、こうなるに違いないっていうような計らいを一切持たないで、願いのところで、すでに弥陀の光の中に包まれてしまうって、そういう状態になって、念仏を乃至十遍称えれば、浄土へいけるっていう、そういう意味合いになるっていう註釈を親鸞はやっています。
それを親鸞は、他力の中の他力だ、自分の計らいっていうものを一切出さないって、あるいは、自分がなにかいい行いをすれば、浄土へいけるとかっていうふうに、一切考えない。ただ、ぜんぶ願いを込めたときに、すでにもう、阿弥陀如来の光の中に包まれてしまうっていう心の状態っていうのを実現するっていいますか、そういう状態になってしまうっていうのが、ほんとうなんで、なってしまうってことが重要なんだっていう言い方をして、それが、「他力」だっていう、また、他力の中の他力だっていうふうに、親鸞は、それを註釈しています。
これは、法然もおんなじ十八願を眼目にしているわけですけども、法然と親鸞と、いくらかニュアンスがちょっと違うところがあるとすれば、それならば、少しでも、いい行いをしようみたいなふうに考えるっていうことも、助けにはなるんですけれど、そういうことは重要ではないんだっていう考え方が、法然の考え方だとすれば、親鸞の考え方は、極端なことをいいますと、いいことしようなんて思ったらだめだっていう、往生できないよっていうことを言ってると思います。
そこはちょっと、陰影が違っています。親鸞だったら、すこしも、そういう自分のほうから計らって、いいことを、すこしでもしようみたいなふうに、考えたら、それはだめですよ、真実の浄土へはいけませんよっていうことを、きっぱりと親鸞は云っているっていうふうに、ぼくはそう理解します。そこが、その当時から重要な問題として、浮かびあがった問題だと思います。

4 念仏は、たくさん称えたほうがいい?

それから、もうひとつは、これも親鸞は、一生懸命、註釈していますけど、乃至十遍、念仏を称えれば、その「乃至」っていう言葉の理解の仕方で、やっぱり、そのときから、いろいろ重要な問題が起こってきて、お弟子さんたちから尋ねられたりしています。
親鸞は、それに対して、乃至十遍っていう十八願の言い方っていうのは、どういうことかっていえば、念仏っていうのは、時を選んだり、場所を選んだりってことはないんだ、一切ないんだ。だから、お弟子さんたちは、ようするに、念仏っていうのは、1回でいいのかとか、たくさん称えなきゃいけないのかとかっていうことが、お弟子さんたちの間で問題になったことがあるんですけど、親鸞はそれに対して、いや一遍でいいとか、たくさん称えなきゃいけないとかっていうことが、そういう考え方っていうのが一切いけないんだって、ようするに、念仏っていうのは、時を選んだり、場所を選んだりしないで、自ずから弥陀の他力の中に包まれるってかたちで、自ずから出てくるっていうようなことで、何遍称えればいいと、十遍称えればいいってことじゃないんだと、乃至十遍ってことは、ようするに、時と場所とを選ばないってことなんだっていう理解の仕方を、親鸞はお弟子さんたちに告げています。
それは、一念か、多念かっていうことが問題になったときに、そういう言い方をしています。この言い方っていうのも、とても重要なことのように思います。重要な親鸞の考え方のように思います。至心に信楽して、一生懸命信じて、仏の誓いを疑うことなく、一心に信じて、念仏を称えたらば、そのときに、すでにもう、浄土へいく道っていうのは決まっちゃうんだ。そしたらば、「たった一遍でいいのか」っていうふうに問われたら、たぶん、親鸞は、「一遍でいいんですよ、もし一生懸命称えて、弥陀の誓いっていうのを疑わなかったら、一遍でいいんですよ」っていうことを親鸞は云ってるんだと思います。
だけれども、それは、遍数の問題じゃないんだ、一遍であっても、十遍であっても、何遍であっても、それは、時と場所を選ばず、自ずから、そういう他力の光の中に包まれたときに、自ずから出てくる念仏だったらば、それは、遍数の問題じゃなくて、場所の問題でもなく、時の問題でもないんだっていうふうに云っています。ですから、そういう称え方っていうものが、念仏の称え方ができた時には、浄土へいける場所にすぐにいけるんだ。
ですから、もうひとつ、親鸞の重要な考え方は、だから、臨終の念仏っていうのが、ことさら必要ではないっていうことを言い切っています。臨終のとき、念仏を称えれば、阿弥陀如来がやってきて、連れていってくれるっていう、そういう考え方もいらないんだと、ただ、至心に信楽して、一生懸命な状態になって、弥陀の誓いっていうのを疑うことはないっていう状態で、他力の中に包まれながら、光の中に包まれながら、念仏を称えるっていう状態が、自分で心もちが持てたら、そのとき称えた念仏でもって、かならず浄土へいけちゃうんだっていうことを云っています。
ところで、そういう親鸞の云い方も、たいへんむずかしくて、ほんとうの理解の仕方っていうのはむずかしくて、それならば、そのとき往生っていうこと、つまり、そのとき浄土へかならずいける場所にいけるんだっていうけれど、それは、どういうことなんだ。そういうふうに称えて、そういう場所にいけて、死んだら浄土にいけるとか、それとも、もう、そのとき浄土にいっちゃってるのか、どちらなんだっていうことが、またお弟子さんの間で、たくさん問題になったことがあります。たぶん、いまでも、いろいろ、きっと、専門の人たちの間では、いまでも問題になっているんだと思います。それに対して、ぼくの理解の仕方を申し上げますと。

5 浄土はどこにある?

親鸞は、そのとき、一遍でも真心から、光に包まれるようなかたちで、自ずから出てくる念仏を称えられたときに、もう、浄土へすぐにいける、すぐにいける場所っていうのを、親鸞はいろんな言い方をしていますけど、たとえば、正定なら、正定聚の位だっていうふうに言っていますけど、それはどういうことかっていいますと、ぼくが思うには、比喩でしか、喩えでしか言えませんですけど、それはちょうど、生きていることと、死んでいることと、死ぬこととの、ちょうど中間っていいますか、その間の場所のことを正定の位っていうふうに言ってると思います。
だから、親鸞の、別の言い方をしているところがありますけど、それは、たとえば、帝王の位を浄土っていうふうにいえば、正定の位っていうのは、皇太子の位だっていうふうに考えればいいっていう言い方をしています。つまり、皇太子の位っていうのは、かならず、帝王の位につくっていうことは、わかりきっていること、疑いなくわかりきっていること、だけれども、帝王の位そのものではないんだっていうことだと思います。
ですから、喩えでいえば、ようするに、生と死の、ちょうど中間のところに、正定の位っていうのがあって、真心から、他力に包まれるようにして、光に包まれるようにして、念仏を称えられているときには、もう正定の位にいける、だから、臨終を待つこともいらいないし、また、ご来迎を待つこともいらいないし、かならず浄土へいけますよっていうふうに、親鸞は、そういうふうに理解しているっていうふうに思います。

6 親鸞は「人間」をどう捉えているか

ところで、これも、たくさんの疑いっていうか、たくさんの疑問を生じていて、たとえば、蓮如上人っていうのは、どういう理解の仕方をしてるかっていうと、もちろん、他力の光に包まれて、弥陀の光に包まれたような心の状態で、念仏を自ずから称えられたら、もうそのとき、浄土へ確実にいけるっていうことは決まっていると、しかし、それじゃ、それだけ称えればいいのかっていう、それができたらそれでいいのかっていうと、そうじゃないんだって、そのあと、亡くなるまで、死ぬまで、念仏を時に応じて称えるっていうのは、仏恩報謝のための念仏だっていうふうに、蓮如は、そういうふうに言い切っています。そういう言い方をしています。
しかし、ぼくらの理解の仕方はそうではないので、親鸞が云っているのはそうではないので、いちばん正しいのは、ようするに、そういうふうに光に包まれたような状態で念仏を称えたときに、浄土へかならずいける場所に、かならずいっちゃうんだ、それでいいんだけれども、それは、ほんとうの浄土っていうこととは違うことなんだ。そのことと、それから、そのあと、また、時に応じて、場所に応じて、念仏を称えるっていうことはありうるし、また、病気になって、重たい病気になって、念仏を称えたくても、称えられないっていう時だって、人間っていうのはあるんだっていうことを親鸞は云っています。
だから、そういうことが、時を選んだり、場所を選んだりってことなしに、自ずから出てくる念仏っていうのは、それは、生涯のうちに、幾度もやるでしょうし、また、幾度も中断することはありますよっていうのが、親鸞の考え方だと思います。
ですから、そういうふうに往生にいけるっていう、そういう念仏の称え方ができたら、あとは、仏恩報謝のための念仏だっていうふうに、蓮如の理解の仕方はそうですけど、そういうことは、親鸞は云っていないのです。
親鸞の云い方はそうではありません。人間っていうのは無常なものですよ、つまり、念仏を称えたくたって、病気になったら仕方がないです。重たい病気になって、称えられないことだってありうるんです。そういうことがありうるんだってことを考えれば、ようするに、そういう気持ちになって、往生間違いなしっていう場所にいけたとしても、また、時に応じ、場所に応じ、自ずから出てくる念仏があれば、それは称えるべきでありますし、また、そういう念仏が称えられないっていう事情があって、病気とか、その他で、称えられないっていう事情があって、称えられなかったら、それでもいいんですよっていうことを、親鸞は云ってると思います。
そこは、とても重要なことのように思います。つまり、親鸞の十八願の理解の仕方のなかで、たいへん重要なことで、たいへん様々な理解っていいますか、異なった考え方が、たくさん後世になって出てきているし、また、たぶん、いまも、そんなによく、こうだっていうことは言えないで、いろんな問題が出てきているんだっていうふうに、専門家の間ではあると思います。ぼくらの理解の仕方は、そういう理解の仕方で、親鸞はそういうふうに、十八願を理解していると思います。
それは、何が違うのかっていうと、たとえば、いまのところで、親鸞と蓮如と、何が違うのかっていいますと、ようするに、人間っていうものに対する考え方が違うんです。洞察が違うんです。あるいは、信仰っていうものに対する洞察が違うんです。つまり、考え方が違うんです。親鸞っていうのは、蓮如と、どこが違うかっていいますと、蓮如っていう人は、ようするに、信仰の人なんです。親鸞っていうのは、もちろん、信仰の人なんですけど、いつでも、信ずることと、信じないことっていうのの間に、いつでも道をつけている人なんです。いつでも道がつけられている人なんです。
それから、人間っていうのを、つまらないものだと思わない代わりに、そんなに立派なものだとも思っていないわけです。
それから、もちろん、人間っていうのではなくて、自分っていうもの、親鸞自身も、そんなに立派な人間じゃないっていう自覚をもっている人なんで、つまり、信仰っていうのも、そうであって、いつでも人間っていうのは、至心に弥陀の力を信じてっていいますと、たとえば、そんなことは、誰だってできるかっていうと、誰でも、ある瞬間にはできるかもしれないけど、その状態っていうのを、一生おまえ変わらないかって言われれば、それは、そうじゃないんです。やっぱり、ときには、そんな馬鹿馬鹿しいことを考えていられないっていう場合も、人間っていうのはありうるわけですし、つまり、人間っていうのは、ほんとうの真実の信仰のいけるときもあるし、また、時に応じて、そういうふうにいけなくて、そこから逸れて、不信の状態に陥ることもあるって、人間っていうのは、そういうものなんだよっていうこと、だから、そういうものにとって、真宗の信仰っていうのはどういうものかっていうふうに、親鸞は、人間っていうのを理解しているわけです。
だけど、蓮如は、ようするに、自分も信仰の人だし、それから、真宗に帰依している並み居る人たちも、みんな、信仰の人だっていうことを、ちっとも疑っていないわけです。疑ってないっていう状態で、ものを云っているわけです。
だけれども、ほんとうは、それは、たぶん、人間に対する考え方としては、ほんとうじゃないように思います。親鸞の考え方のほうが、ほんとうなような気がします。つまり、人間っていうのは、いつでも、信ずることと、信じないこと、これは、単に、阿弥陀如来っていうのを、浄土を信ずるか、信じないかってことだけじゃなくて、他人を信ずるか、信じないかってことでも、そうなんですけど、信じているときもあるし、ときに不審に陥る時もあるっていうのが、人間のあり方で、そんなに、人間っていうのは、立派でないけれど、そんなにだめでもないんだよっていうのが、親鸞の人間に対する考え方だと思います。
そこが、蓮如のように、人間っていうのは、少なくとも、自分のところに集まってくる人、それは不信なんか起こさないで、立派な人たちばっかりだっていうことを前提として、蓮如はものを云っているので、それは、ぼくからすれば、それは疑わしいことだっていうふうに、ぼくには思います。
だから、それは、親鸞の人間に対する洞察のほうが、正しいんだっていいましょうか、いい洞察の仕方だっていうふうに思います。そこらへんのところは、その正定の位っていうのが何かっていうことで、親鸞の在世中から問題になって、親鸞は、一生懸命になって、それに対して、説いて聞かせています。

7 浄土は「死後の世界」ではない

親鸞の正定の位の喩え方っていうのは、いろいろあるわけなんです。もうひとつ、親鸞がやっているやさしい喩え方を申し上げてみますと、十五夜、満月っていうのは、15日の月っていうのは、まんまるく満月だ。それが、浄土へいったっていう状態だとすれば、正定の位にいったっていうことは、8日か、9日の月の状態なんだっていうふうに、親鸞はそういう喩えもやっています。やがて、15日の満月になるっていうことは間違いないんだけども、正定の位そのものは、けっして浄土そのものじゃないって、浄土へいけたそのものじゃないっていうふうに云っています。
また、死んだ後に浄土へいくっていうことでもないんだっていうふうに言っています。つまり、ここもまた、なかなか、問題を、さまざまな問題を生じたところであって、ぼくの理解の仕方によれば、親鸞が云ってる浄土っていう、親鸞が浄土にいくっていう場合に、浄土にいくっていうことを、親鸞は、ぼくはやっぱり、2通りに云ってると思います。
さきほど、専門のお坊さんのほうからも説明がありましたんですけれど、ぼくは、ちょっと違う説明の仕方をしてみますと、親鸞が浄土っていうふうに考える場合には、2つあると思います。ひとつは、死んだ後に、かならず浄土へいくっていう、そういう意味合いの、死んだ後にいける浄福の世界っていう場所っていうことで、浄土っていうことを云ってると思います。
それは、親鸞が、書簡の中で、お弟子さんにあげた手紙の中に、いつかまた往生したのち、浄土でいっしょにお会いしましょうみたいなことを云ってるところがあります。そういうふうに言ってるときの親鸞は、浄土っていうのは、死んだ後に、そういう浄福の世界があって、そこにいけるんだ。そこにいくと、みんなといっしょに会えるんだっていうふうに言って、死んだ後に、そういう浄福の世界があるんだ、死後に、そういう浄福の世界があるんだっていうふうに、ひとつは、親鸞も、そういうふうに言っています。
しかし、親鸞は、もうひとつ云っています。もうひとつ云っていると、ぼくは思います。それは、なにかっていうと、正定の位って、先ほどからいいましたけど、正定の位っていうこと自体を、浄土っていうふうに、もうひとつ云っていると思います。
それは、死んだ後いった世界のことを言ってるんじゃありません。ちょうど、さきほどの喩えでいえば、ようするに、生と死のちょうど中間のところに、ひとつの、親鸞の云う浄土があって、親鸞の云う浄土は、けっして、死んだ後にいける世界のことじゃなくて、生と死のちょうど中間のところで、つまり、一生懸命信仰して、弥陀の誓いを疑ったことなく、他力で光の中に包まれたような状態で念仏を称えられたときに、いけたところの場所、つまり、正定の位なんですけど、それを、親鸞は浄土っていうふうに、もうひとつ云ってると思います。
それは、けっして、死後の世界ではないわけです。それは何かっていいますと、これを、ぼくは自分の理解の仕方で、すこしも専門的な意味を持ちませんけども、そこの正定の位っていうところは、何かっていいますと、そこから、逆に、自分の生きている姿とか、人々が生きている姿とか、この社会の姿とかを、その場所から見ると、普段、同じ場所で見てる、目の高さで見てる社会とか、ほかの人間とかっていう見え方と違う見え方が、人間についても、社会についても、見えるはずだよっていうことを云ってると思います。
正定の位っていうところ、つまり、親鸞の云う、もうひとつの浄土っていうところは、死後の世界ではなくて、生と死のちょうど中間がある、ひとつの、浄土へいけるっていうふうに、自分が、確信ができた、そういう光に包まれたところの場所であって、そこの場所から、現実の世界を見渡すと、そうすると、普段見ている現実の世界と違う見え方をしますよっていうことだろうっていうふうに思います。
だから、還相廻向っていうことのなかを、信仰の問題から、さきほどご説明があったり、問答があったりなさいましたけど、信仰の世界ではなくて、還相の世界って、還ってくる世界、あるいは、還ってくる見方っていうのを申し上げますと、云ってみますと、考えてみますと、これは、そういう正定の位ところから、現実に見える世界っていうのを見たり、人間を見たりすると、違う見え方をしますよ、違う見え方をするよっていうことを云ってるんだっていうふうに思います。
たとえば、タバコをたくさん吸うと、がんになりやすいっていうふうに、云われているわけですね。タバコっていうのは、あんまり吸わない方がいいっていうふうに云われている、お医者さんの専門家は、がん系の専門家の先生は、そう云うわけです。どうして、そんなことが云えるのかって言ったら、肺がんなら肺がんで死んだ人を解剖してみると、そうするとタバコを吸って、タバコのヤニが溜まってたりっていうような人が多いんだって、だから、タバコを吸うとがんになりやすいんだ。だから、がんになるのを避けるには、タバコを吸わないようにしたほうがいいよっていうふうに、その先生は、そういうふうに言うわけです。そうすると、みなさんもそうでしょうけど、だんだんタバコを吸う人は少なくなるし、駅なんかでも、駅のプラットホームで、自分の駅は、タバコを吸ってもらっては困るっていうふうになりまして、勤めの場所でも、タバコをぷかぷかふかすと人の迷惑になるから、人をがんにしたりするから、やめてくれっていうような職場もあるわけです。
そうすると、われわれは、その医者の先生は、いいことを言ってくれたっていうふうになるわけです。そういうふうに、医者の先生が言うから間違いない、それで、解剖してみたら、ちゃんと、がんにかかってくる人で、タバコを吸って、肺の中にヤニが溜まってる人のほうががんになりやすいっていうのは、解剖してみたら、すぐにわかるんだって、それは間違いないことを言ってるんだっていうふうに、ぼくらは、そう思うわけです。で、タバコを吸うのが、おっかなくなるわけです。ところが、だけれども、もし、そういう見方をすると、そのとおりだってなるわけです。

8 「現実」を、どう見ていけばいいのか

だけれども、もしも、ちょっと違うところから、つまり、先ほど言いましたように、親鸞の云う正定の場所から、生と死の間にある、浄土にいけるところの理想の場所っていいましょうか、そこから見たら、それがどういうことになるかってことを、もうひとつ考えようとすれば、考えられるわけです。
そうすると、確かに、正面から目の高さで見ていると、お医者さんの云うとおりで、たしかに、タバコをぷかぷか吸っている、肺が真っ黒になっているやつのほうががんになりやすいっていう、たしかに、通常でいうと、それが多いってことになってるじゃないかっていって、だから、これは正しいんだってことになるんだけど、もし、親鸞の云うように、正定の位って、理想の位のところから、場所から、逆に、現実の世界を見てみたらどうかっていったら、ぼくは、かならずしも、そのお医者さんがいうのが、正しいとは思わないわけです。思えないってことがありうるわけです。
どうしてかっていいますと、ひとつは、ぼくは、別な意味で、理工系の学校を出ているからわかるんですけど、あることがらが正しいかどうかっていうのを証明するためには、2通りのことをしないといけないわけです。
たしかに、その先生が言うとおり、解剖したら、肺が真っ黒な人間のほうが、肺がんにかかる人間が多いんだっていうデータが出たと、それは確かにそのとおりだっていうことと、もうひとつは、それだけでは、理工系の学問では、証明したことにならないのです。
もうひとつ、どういうことを証明しなきゃいけないかっていうと、100人なら100人、アルバイトの学生さんを100人雇ってきて、その学生さんに、毎日のように、タバコをぷかぷかぷかぷか、一生懸命吸わせるわけです。そして、その100人のうち、何人、がんになったかとか、何人ならなかったかとかっていう実験をやらないと、ほんとうの証明にはならないわけです。
そんなことはできないです。学生さんのアルバイトを連れてきて、それで、1日24時間、ぷかぷかぷかぷか、タバコを吸わして、明日も吸わせて、がんになるのを待っててっていうようなことは、だいたいできないでしょ。だから、そうしたら、半分しか証明できないです。もうひとつ証明するのは、ネズミで証明するぐらいなものなんです。だけど、人間で証明しなければ、それは、ほんとうに証明したっていうことにならないのです。そういう意味で、それはやっぱり、真理であるか疑わしいってことが、ひとつあるわけです。

9 親鸞は、医者兼患者だった

それから、もうひとつあります。疑わしいことがあります。それは、どういうことかっていいますと、たしかに、タバコを吸わない方が、がんになりにくいと、確かにそのとおりだろうと、その先生の云うとおりだろうと、そういうふうに証明されているんだから、そのとおりだろうと、で、その人が、たとえば、ぼくならぼくが、タバコを吸わなくなったと、だけど、ぼくはタバコを吸わない代わりに、酒をいっぱい飲むようになったっていうことはありうるわけです。
つまり、なぜ人はタバコを吸うのかっていうと、それは、タバコを吸ってる人はだれだって、タバコを吸って利益になると、体にいいと思って吸ってるやつはいないわけです。でも、吸うことによって、一時的にしろ、ゆったりした気分になれるっていうようなことがあるから、吸うわけで、ぼくが、タバコを、その先生の言うことに従って、タバコを吸うのをやめたと、しかし、その人が、タバコを吸わない代わりに、酒をいっぱい飲むようになったって、それで胃を壊しちゃったと、それで胃がんになっちゃったっていうことはありうるわけです。
つまり、それが人間っていうのを、どう考えるかっていうことの問題で、親鸞と蓮如さんと違うところが、そこだとぼくは思います。蓮如さんはお医者さんです。つまり、人間をいいところに導くためのお医者さんです。しかし、親鸞は、そうではありません。お医者さん兼患者さんだ。つまり、自分は、患者さんでもあるし、お医者さんでもあるっていうことを生涯拒まなかった人です。ですから、患者さんとしての自分っていうのを考えたら、タバコ吸わない代わりに、人間っていうのは、酒をいっぱい飲むっていうふうになっちゃうことはありうるわけなんで、もっとひどいやつだったら、たとえば、タバコをやめた代わりに、大麻を吸うようになったっていうことっていうのはありうるわけです。
人間の欲望っていいましょうか、快楽に対する欲望、あるいは、煩悩具足っていうことですけど、煩悩っていうのは、お医者さんが言うほど簡単じゃないんですよっていうふうになるわけです。
それは、人間っていうものを、どう考えるかっていうことによって、違ってくるわけで、それが親鸞は、ぼくはやっぱり、自分は、お医者さん兼患者さんだって、あるいは、親鸞の別な言い方をすれば、「自分は、医者でもなければ、患者でもないんです。」っていう言い方を親鸞はしているわけですけど、そういう言い方でもいいんです。親鸞はそういうことを、いつでも忘れなかった人です。
しかし、蓮如は、自分がお医者さんだっていうことを決めているし、自分のところにやってくる人たちは、みんなお医者さんの資格が十分ある人たちばっかりだっていうふうに思ってるわけです。だけども、そうじゃない人は、どうしてくれるんですかっていうふうになるわけです。親鸞のやり方だったらば、考え方だったら、そうじゃない人でも救えるかもしれないわけです。ですけれど、蓮如だったら、やっぱり、お医者さんになる資格の人だけしか、救えないかもしれないってことだけが、ありうるわけなんです。
つまり、十方衆生っていいますけれど、衆生っていうのは、さまざまであって、かならずしも、お医者さんになりうる人ばっかりとは限らないわけですし、また、四六時中お医者さんになれるとは限らないわけです。それがやっぱり、人間に対する洞察の仕方の違いです。
親鸞は、ぼくはやっぱり、正定の位ってことで、生でもない、死でもない、しかし、そっから見ると、なんか違ったように人間が見えたり、違ったように、この社会が見えたりする、そういう見え方っていうのはあるんですよ。そっから見る見方っていうのは、重要なんですよっていうことを、ぼくは、親鸞の還相廻向っていうことから、信仰のない人でも、ものごとをとってくることができるんじゃないかっていうふうに、ぼく自身は、そういうふうに考えています。つまり、そういうところが、親鸞の十八願の眼目の中で、とても重要なことだと思います。
ですから、親鸞は、死後、死んだ後に、浄土があるっていうふうにも、云っていますけども、そうじゃなくて、ようするに、死じゃない、生じゃない、しかし、死と生の間にある、非常に理想的な場所、つまり、そこから、逆にこの世界を見たらば、とても違う見方をする世界があるんだっていう、その見え方をするところがかならずあるっていうふうに、親鸞はそういうふうに理解してたっていうふうに、ぼくが理解すると、そういうふうになります。
でも、ぼくの理解っていうのは、ようするに、いってみれば、野次馬の理解っていいましょうか、信仰薄き者、信仰なき者の理解の仕方で、けっして正しいことでもなんでもないんですけど、ぼくらなりに理解をすると、そういう理解の仕方っていうのが、親鸞は、十八願の理解の仕方、浄土真宗の眼目の理解の仕方のなかで、それを、とてもよくやっているように思います。

10 「慈悲」に対する親鸞の考え方

そういうことについて、もうひとつ重要なことを申し上げますと、これも、現代でも、しばしば、みなさんが当面されることであるし、みなさんがどうしたらいいかっていうことを考えたり、悩んだりなさるかもしれないことなんですけど、「慈悲」っていう考え方があります。仏の慈悲とか、同情するとか、推察してあげるとかっていう、不幸なことでも、幸福なことでも、推察してあげるってことだと思いますけど、「慈悲」っていうことがあります。
この慈悲について、親鸞は、2通りの慈悲っていうのがあるっていう言い方を、『歎異抄』の唯円に対して言っています。それは、どういう二様かっていうと、それは、聖道の慈悲っていうのと、浄土宗の云う慈悲っていうのは違うんだって言っています。
聖道の慈悲っていうのは、何かっていいますと、そこにすこしでも困った人があれば、いまでも、よくあるでしょう、つまり、アフリカでは飢えて死にそうな人がいっぱいいるんだ、それじゃ、みなさん毛布を持ってたら、寄付してくださいみたいなことっていうのは、みなさんの中でも、しょっちゅうあると思います。あるいは、そんなこと言わなくても、困ってる人があるから、助けてあげるために、こういう寄付をやってくださいみたいなことは、しょっちゅうあると思います。そういうことに対して、親鸞は、それじゃあ、できるだけ助けてやろうっていうふうにやる慈悲っていうのは、聖道の慈悲だっていうふうに言っています。
これも、かなりきっぱり言っています。浄土の慈悲っていうのは、そういうのじゃないんだって言っています。浄土の慈悲っていうのは何かって言ったら、そういう聖道の慈悲っていうのは、確かにそうやれば、いくぶんかは、そういう人たちの助けになるかもしれない、しかし、そういう人たちを、助けおおせるってことは、ありえないんだっていう、つまり、そういう人たちを助けおおせるってことは、ありえないってことは、わかりきっていることなんです。だから、浄土の慈悲っていうのは、そういうのじゃないっていうふうに言い切っています。
浄土の慈悲っていうのは、何かって言ったらば、ひとたび浄土へいって、還ってきて、大慈悲をもって、仏の大慈悲をもって、現世へ還って、つまり、この社会に還ってきて、縦横に人々のために、慈悲の心を働かすっていうのが、ほんとうの浄土の慈悲なんだ、だから、念仏こそが第一だ、まず、念仏第一で、弥陀の光に包まれるっていう状態に、念仏を称えて、浄土へいって、それで浄土から還ってきて、現世にまみれながら、人々を助けるっていうのが、ほんとうの慈悲なんだっていうふうに言っています。
そうすると、これもきっぱり言っています。みなさん迷わないときは、かまわないわけで、聖道の慈悲でいいわけです。だけど、みなさんが、たとえば、極端な例をいいますと、ちょっと、アフリカの困っている人たちを助ける為に、ひとり10万円出してくれっていうふうに言う人が、仮にいたとします。これはいいことなんだから、絶対出せと、出してくれっていうふうに、もし言われたら、10万円はちょっときついっていうんで、どうしようか、こうしようかと思い悩むでしょ。悩むってことがありうるわけです。それは、いまのは比喩ですけど、その種の悩みかたっていうのはありうるわけです。
それに対して、親鸞はきっぱりと、いいです、わたしはしませんって言っちゃいなさいって言ってるわけです。わたしは、出せませんって言っちゃいなさい。わたしは、念仏でも称えますっていうふうに、断ればそれでいいんですよって、悩むことはないんですよっていうふうに言ってると思います。
それじゃあ、そういうことを言うと、問題は生じるわけで、それじゃあ、目の前で、赤ちゃんがつっ転がっちゃったと、そしたら、知らん顔していればいいのかとか、目の前で人が溺れそうになったら、おれは知らんよっていうふうに、通り過ぎちゃえばいいのかってことになるわけですけど、浄土の慈悲っていうのは、そういうことを言ってるわけじゃないんです。
つまり、そういうときには、意識しようと、しまいと、自ずから、赤ちゃんを起こしてあげようとか、溺れてるのを助けてあげようっていうのは、なんか考えなくたって、フッと行動が出ちゃうっていう、そういう慈悲っていうのはいいんですよって言ってるわけです。そういうのはいいんですよって言ってるわけです。でも、なんかものすごい大ごとになるような、慈悲を働かせるか、働かせなくていいかみたいなことで、思い悩むことっていうのは、みなさんだって、たくさんあるわけですけど、そのときは、そんなことは、きっぱり、わたしは嫌です。わたしはしませんって言えば、いいですよって言ってるわけです。だけれど、心から、無意識のうちに助けたくなっちゃうみたいに助ける、それはだれでもすることは当然なわけだけど、それは、ちょうど他力っていうことと同じで、そういう自ずから、光に包まれてしまうってことが、自ずから称える念仏っていうのと同じことで、自ずから助けちゃうってことはありうるわけです。
それは、いいことなんだ。ただ、もし慈悲っていうことで、思い悩むことがあるんだったら、それは、悩むことはいりませんと、自分は念仏を大切にしますっていうふうに、言えばいいんですよっていうふうに、親鸞はきっぱりと、そういうことを言っちゃってると思います。それはとても重要なことのように思います。その種のことは、何遍でも、現在でも、親鸞が生きているときでも、当面した問題なわけなんです。

11 「悪」を、どう理解すればいいのか

それは、善行ってこと、いい行いってことについてもそうだし、悪い行いってことにもそうなわけです。つまり、親鸞は、「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」っていうふうに言ってるわけ、悪人こそ浄土へ救われる、正しい機運なんだっていうことを言ってる。悪人のほうが浄土へいきやすいんだっていう言い方さえしているわけです。
そして、当時、やっぱり、さまざまな問題が生じて、お弟子さんのなかには、それなら勝手に、悪いこといくらやったっていいじゃないかと、どうせ救われるんだから、いいわけじゃないかって、一種の造悪論っていいましょうか、悪をやっちゃったっていいじゃないかと、どうせ救われるんだからっていうふうな考え方で、思うままに悪をやっていいっていうようなことを言いだすお弟子さんたちも出てきたわけです。
それは、やっぱり、親鸞が、盛んに戒めているわけです。それは、いくら薬があるからといって、毒を飲んでいいとか、飲ませていいってことはないだぜっていう言い方をしています。そういう喩え方をしています。
しかし、その喩え方も、まだ足りないのであって、たぶん、親鸞の十八願の理解の仕方のなかには、それならば、悪をしたっていいってことになるじゃないかっていうふうに、言わせるものが、親鸞の理解の仕方にはあるのです。つまり、親鸞は、ちゃんとはっきりと言ってるわけですから、善人は往生する、ましてや悪人のほうが、なおさら往生できるんだっていうふうに言ってるわけですから、だから、それならば、悪なんて、いくらやったっていいっていうことになるじゃないかってことになるわけです。
たしかに、そのとおりだ、悪なんていくらやったっていいんだと、なぜいいかっていったらば、人間のやれる悪なんて、たいしたことないんだと、それは、浄土の宿主である阿弥陀如来の善悪の規模に比べたら、人間の善悪の規模なんてのは小さいものに過ぎないんだ。だから、もちろんいいです、悪をやったって、それは、往生できますって、あるいは、往生なおさらできるかもしれませんよっていうふうに、しかし、それは、意図して悪をするっていうことと、ひとりでに悪をするつもりがないのにしちゃったんだっていうことは、まるで違うことですよっていうことを、親鸞は云っていると思います。
たしかに、悪をやったって、往生はできます。だけれども、自分が意図して、自分が意識して、わざと悪をやるっていうことと、悪をする気は、ほんとうはなかったんだけどしちゃったんだっていう、そういうこととは、まるで違うんだ。する気はなかったんだけど、しちゃったんだとか、人殺しをする気はなかったんだけど、なっちゃったんだよっていう、そういうふうな、ほんとうの悪だって、それは救われるんだと、だけれども、わざと悪を造って、やっちゃったっていうことが救われるっていうことはないんですよって、つまり、それは救われるかもしれないけど、そういうことは言ってないんです。つまり、ひとりでにやっちゃう悪ならば、人間はいかようの悪でもする可能性はありますっていうふうに言っています。

12 誰にでも「悪」はあり得る

それは、唯円に対して、親鸞が言っているところがあります。おまえはおれが言うことは、みんな信じるかっていうふうに、親鸞が聞くわけです。唯円は、師が言うことは、どんなことでも聞きます。それならば、おまえは人を千人殺してみろと言うと、いや、自分は、いくら仰せがあっても、おっしゃるあれであっても、自分には、人をひとりでも殺すだけの器量がないんだ、だから、殺せないですっていうふうに、唯円が答えるわけです。
親鸞は、それに対して、そうだろうっていうふうに、つまり、殺すべき機縁があれば、人間っていうのは、いくらでも、千人、人を殺すことだってあり得るんだよ、だけども、殺すべき機縁がなければ、ひとりの人間さえ、人間は殺すことができないんだよ、そういうのが人間なんだよっていう言い方を、唯円に対してしています。
造悪っていうのは、わざと悪を造るっていうことの意味になりますから、それは、救われるかもしれないけれど、わざとすることと、する気がなかったんだけどしちゃったんだよってことは、違うんだよってことを云ってると思います。それは、とても重要なことのように思います。
ほんとうに云いますと、とっても、親鸞の十八願の理解の仕方っていうのは、とてもむずかしいです。ほんとうを云うと、とても微妙で、むずかしいです。ですから、たくさんの解釈の仕方、理解の仕方があるんですけど、ぼくは、親鸞の理解の仕方は、そういうところだろうと思います。
つまり、わざと悪いことをするっていうのは、あんまりいいことじゃないよってことだと思います。でも、人間っていうのは、わざとってことじゃないとすれば、いかような悪でもする可能性が、誰にでもあるんだよっていう、人間の理解の仕方だっていうふうに思います。
親鸞は、そこいらへんのところで、実に、人間に対する洞察力っていいますか、人間をどう理解するかってことと、十八願の理解の仕方とが、親鸞においては、ひとつになっているものですから、不信な人間も、信仰の篤い人間も、両方に通ずる言い方を、親鸞は、かならずやっています。
ところで、蓮如上人は、そうじゃありません。つまり、やっぱり、お医者さんであるとか、坊さんであるとか、お医者さんとか坊さんに、いつでもなりうる、そういう人たちには通じやすいけど、そういう人たちじゃない一般の人たちに対しては、なかなか通じにくいようなふうな言い方を、蓮如はしていると思います。
そこはやっぱり、違うところのように思います。ぼくらが、親鸞っていう人は、すごい人なんだなぁっていうふうに思うのは、やっぱり、ぼくらの不信っていうのに対して、なおかつ、結構、正面から向かい合って、それで、おまえの不信っていうのは、こうじゃないかっていうことを、説き聞かせるっていいましょうか、それだけのことを、親鸞っていうのは、やってる宗教家であり、思想家であるっていうふうに思います。
そういうところは、やっぱり、ちょっと類例がない人なんだなっていうふうに、ぼくらには思います。そういうところが、ぼくなんかじゃ、とてもよく理解できるように思いますし、また、ぼくらが図々しく、親鸞について、しゃべったりなんかできるところのような気がいたします。

13 親鸞の「究極の言葉」

ところで、あとふたつばかり、言うことがあります。親鸞の、究極的に、十八願の理解の仕方っていうのを、究極的な言い方で言っているところがあります。ここはちょっと、ぼくは、怖いところですけど、怖くて、ほんとうにはちょっと、ここまでおれは言えないなっていうところです。ぼくは、究極の十八願の理解の仕方だと思います。
それを、ひとつ申し上げてみます。それから、これは、誰にでも通ずる言い方だよなっていうことが、もうひとつあります。それを申し上げてみます。これは、究極の言い方で、ちょっと怖いよなっていう言い方が、どういう言い方かっていうと、十八願における、阿弥陀如来の十八願の誓いです。
つまり、念仏を乃至十遍でも称えたら、かならず、浄土へ導けると、浄土へいかしてあげるっていう、そういう弥陀の誓いっていうのは、何かと言えば、それは、人々を無上仏にさせてやろうっていう誓いなんです。無上仏にさせてやろうっていう誓いなんだっていう言い方をしています。
で、無上仏っていうのは、いったい何なんだ。無上仏っていうのは、かたちも、何もない部分なんだっていうふうに言っています。無上仏っていうのは、かたちも、何もないんだ。阿弥陀仏とは、何なのだ。それは、かたちも、何もない無上仏の姿っていうのを、知らせる手段として、阿弥陀仏っていうのはあるんだよっていう言い方をしています。
つまり、人々を無上仏にさせてやろうと、で、無上仏にさせてやろうとは、何なのだ。それは、かたちも何もない、いわゆる無上涅槃なんだと、つまり、そうさせてやろうって云うために、その十八願の誓いを立てたと、阿弥陀仏っていうのは、かたちのない無上仏に、かたちとか、様相を与える為の手段としてあるのが、阿弥陀仏ですよっていう言い方を、親鸞は86歳のときにやっています。
これは、親鸞の、究極の仏教信仰についての、親鸞の究極の言葉です。最後の言葉ですし、最後の理解の仕方だというふうに思います。こうなってくると、みなさんがそう思われるかどうかは別として、ぼくは、ちょっと怖いなって、ここまでは、言い切れないなぁって、ぼくらだったら、言い切れないなって、究極の言い方だと思います。
遠慮会釈のない言い方だと思います。誰でも通ずるように、人々に通ずるように云う言い方を、親鸞はしているんですけど、そういう通ずるような言い方をかなぐり捨てたところの、本来的な云い方っていうのは、いまのような言い方になります。
これは、たいへん、ぼくは怖いっていうふうに、ここまで、非常に丁寧な、やさしい言葉なんだけど、言ってることは、恐ろしいなっていうか、怖いこと言う人だなって思わせることを言ってるってことは、確かなことなんで、ここのところは、みなさんが、やっぱり怖い人だなっていう感じを持ちます。それが、親鸞の十八願に対する究極の言い方だと思います。

14 親鸞が偉大である所以

親鸞の、ふつうの誰にでも通ずる言い方、あるいは、親鸞自身のなかにある、ごくふつうの人っていいますか、信仰じゃない状態になる人っていうのがあるわけで、それに対して、云っている言葉っていうのもあります。それは、ぼくらなんかにも、とてもわかりやすい、非常にわかりやすく、やさしい言葉だけど、すごいことを言う人だなって、怖いっていうんじゃなくて、これはやっぱり、すばらしいことを言う人だなってふうに思うところです。
それは、やはり、『歎異抄』の中にある言葉ですけど、あるとき、唯円がお経には、浄土へいけるってことが、うれしくて、うれしくて、歓喜して踊りだしたいくらい、喜ばしいことだっていうふうに云われているけど、唯円は、わたしはちっとも、浄土へいくのが、喜ばしいっていう気持ちにちっともならないっていうふうに、ならないのは、どういうわけでしょうかっていうふうに、親鸞に聞くところがあります。
親鸞は、それに対して、おれも同じだって言っています。おれもやっぱり、浄土へいくのは嬉しいっていうような、喜ばしくて、躍り上がりたいっていうような、そういう気持ちにならないっていうふうに、唯円に対して答えています。
ぼくは、この答え方っていうのは、ものすごく、すごい人だ、立派な思想だなっていうふうに思います。つまり、自分のなかにある凡夫っていいますか、ごくふつうの人です。偉い人じゃない部分です。つまり、お坊さんや、お医者さんじゃない自分です。そういう自分っていうのを、よく知っていて、よくそれに対して、唯円に対して、よく正直に言っていますから、あからさまに、そういうふうに答えているわけです。
つまり、ぼくなんかは、そう思うんですけど、親鸞の浄土真宗のからみのなかで、非常に重要なところだと思うんですけど、つまり、不信の人、なんでもない人、信仰を持たない人にも、通ずる言い方っていうのを、いつでもしている、あるいは、そこを考えているっていう、そこがやっぱり、すごい人だなっていうふうに、立派な人だなと思います。
それはやっぱり、唯円も、正直に、おれはちっとも、浄土へいくってあれで、書かれたり、云われたりしてんだけど、ちっとも嬉しい気持ちにならないし、それはどうしてなんだって言うと、親鸞もやっぱり、おれもそうだと、おれもそういうのを、前から疑問に思っていたっていうふうに言うわけです。だけれども、おれが思うには、やっぱり、ほんとうならば、浄土へいくっていうのは、喜ばしいことなんだけど、われわれは、凡夫の浅ましさで、ちっとも喜ばしい気持ちにならないっていうのが、煩悩があるせいであって、自分の煩悩の故郷っていうのは、懐かしいところなんだけど、なかなかいく気にならなくて、いく気にならないってことは、ますます弥陀の十八願っていうのが、自分たちを救いとってくれることの、証になり得ることなんだっていうふうに、自分は思うんだっていう言い方を、やっぱり、唯円に対して、そういう言い方をしています。
こういう言い方は、十八願に対して、不信な人に、自分がなり代わるっていいますか、自分が不信な人の場所に立って、十八願の理解の仕方をしたら、どういう理解の仕方になるかっていうことを親鸞は云っているんだと思います。
このことも、現代に通ずる重要なことだっていうふうに思うわけです。なぜならば、やっぱり、ぼくらのなかには、凡夫の浅ましさで、すこしでもいいから、いいことをしようっていう気持ちっていうのは、いつでもあるわけなんです。すこしでもいいからいいことしようみたいな気持ちが、いつでもあるわけです。すこしでもいいから、いいことする気持ちがあるってことは、けっして悪いことじゃないと思いますけど、それじゃあ、本格的ないいことをする気持ちがあるかっていうふうに、今度は逆に、親鸞なり、また、浄土真宗の十八願なりから、そういうふうに問われたら、おまえは、ほんとうにいいことっていうのが何かわかるか、それは念仏だ。至心に信楽して称える念仏なんだ。おまえは、そういう気があるかって言われたら、そこまではいけないんだっていうふうになります。
だけども、悪いことよりも、すこしぐらいいいことしようみたいな気持ちは、いつだってある。つまり、何を言ってるかっていいますと、われわれはいつだって、そういう中途半端な人間なんだってことを意味していると思います。その中途半端な人間性っていうのが、この現実社会に生きている、親鸞の時代でも、いまの時代でもそうですけど、現実の社会に生きている、ぼくらの姿だっていうふうに思います。
ですから、すこしでもいいことしようかっていう気持ちが、無意識に働くときには、無意識にすこしでもいいことをしちゃってるでしょうけど、しかし、ほんとは、すこしでもいいことしようかっていうくらいな気持ちしか、ほんとはないのに、うんといいことしようって言いながら、実は、それほどのいいことでもないんだよっていうようなことがやってきたときに、それに対して、自分は、ほんとうは、あんまり賛成でもないんだよって思いながら、でも、すこしでもいいことしたらいいやと思って、ついしちゃうっていうようなことっていうのは、われわれには、いつだってあるわけで、現代でも、そういうことにいっぱい当面しているわけです。そんなときには、やっぱり、親鸞っていうのは、たいへん見事な、すぱりとした見事な言い方を、やっぱりしているっていうふうに、ぼくは思います。

15 ぼくが敗戦後に考えたこと

ぼくもそういうことで、ものすごく後悔したことがあるわけです。それは、戦争っていうことなんですけど、ぼくは10代の終わりから、20代の初めの頃ですけど、やっぱり、戦争ですから、戦争に勝たなくちゃいけないって、それで、勝つにはどうしなくちゃいけないっていう、兵隊いっていいことしなくちゃいけないとかって、そういうことは、いいことするってことをたくさん、やるべきことがたくさん、目の前にあるっていうような状態があるわけです。
あるとき、学生でしたけど、学校のリーダーみたいな人が、昼休みに、お弁当を食べて、お弁当を食べたら、1時間の昼休みなんだけど、お弁当食べて、まだ時間がどうせ余るんだから、余った時間は、近所にある、ぼくは米沢ってとこにいましたけど、上杉神社っていうのがあるわけです。上杉神社に戦勝祈願にいくことにしようじゃないかって、学生のリーダーが提案するわけです。
そうすると、それは悪いことじゃないわけです。つまり、お昼休みの空いた時間を利用して、戦勝祈願にいくっていうのは、悪いことじゃないわけです。だから、反対するいわれは、ちっともないわけです。もちろん、戦争に反対だって、確固たる理念がある人は反対したでしょうけど、そういう理念なんか、全然なくて、戦争に勝たなくちゃいけないなんて思って、一生懸命あれしてるっていうような状態で、それで、戦勝祈願にいこうじゃないかっていうふうに提案されると、悪いことじゃないよなと思うんだけど、なんとなく、浮かない感じなんですよね。
そうすると、その浮かない感じっていうのを、どうやって解消するかっていうことになるわけです。それで、ぼくなんかが、それを解消したのは、どういう言い方かっていいますと、それは、たしかに、いいことだから賛成なんだけど、もっとやるべき大切なことっていうのが、あるんじゃないかっていうふうな言い方で、異議をとなえるわけです。
でも、そんな異議は、もちろん、かき消されてしまいます。つまり、何を言ってるんだって、文句を云わずに、戦勝祈願にいけばいいじゃないか、悪いことじゃないんだからっていうんで、そういう声は、かき消されてしまう、そうすると、自分の心の中では、どうもおもしろくないわけです。おもしろくないんだけど、たしかに、悪いってことはないよなっていうことで、嫌々ながらっていいましょうか、心の中では、嫌々ながら、くっついて、戦勝祈願にいくわけです。
つまり、ぼくは、戦中派っていうやつだから、そういうふうにして、戦争を肯定し、戦争に協力してる、そういうふうに、戦争に勝たなきゃいけないって思ってきたわけです。
だけど、ぼくはつくづく考えてきたわけです。つまり、戦争終わってっていいましょうか、敗戦後につくづく考えて、ああいうときに、心の中で、すこしでも、いやーっていうか、つまり、言われたことは、悪いことじゃないんだけど、なんかやっぱり浮かない感じだなっていうようなことがあったら、かならず云うべきであるって、つまり、浮かない感じがするっていうことを言うべきであったっていうのが、戦争が終わったときの、反省したいちばんのことなんです。
それは、ぼくは戦後、自分の考え方をつくりあげていくときに、いちばんひっかかってきて、いちばん、ぼくが守ろうと思って、それだけは譲れないよっていうので、守ろうと思って、やってきたことなんで、ですから、そう、かならずしもできたとは言わないですけど、ぼくは、できるだけ、その時どきに起こってくる問題に対して、これは悪いことを言われてないけど、たしかに、しかし、いまだってあるでしょう、緑を守るとか、いっぱいあるでしょう、いいことばっかり云うやつは、いっぱいいるでしょう、それに対して、やっぱり、浮かないよ、それはって言うべきであると思ってる。
ぼくは、ずっとそういうことに対して言ってきました。ここは浮かないんだよって、おまえ、いいこと言ってるようなふうに見えるけど、思えるけど、しかし、そこは浮かないとこだよってことを、ぼくは言って、憎まれてきましたけど、そういうことを言っていきました。しかし、それは、ぼくの戦争の時の体験なんです。これはやっぱり、親鸞っていう人が、なぜ現代でも生きてるかっていったら、そういうことに対して、実にきっぱりと言ってるんです。

16 親鸞が現代に「生きている」理由

みなさんだって、きっと悩むときが、きっとおありになったと思うんですけど、念仏称えてれば、いいことなんて何もしなくていいです。あるいは、逆の言い方で、いいことしたら、あの世へは、浄土へはいけないよっていうような言い方をしているわけです。面倒くさいって言ってるわけです。
念仏称えているだけで、おまえは何にもしないのか、いいことしたって知らんぷりしてるのかって、人から脅迫されたら、なんとなく変な感じになるでしょ、しかし、親鸞は、そんな感じになる必要ないよって、きっぱりと言ってるわけです。それは、ものすごく重要なことなんです。
ぼくに云わせれば、とくに、日本の社会では重要なことです。なんとなく良さそうなことには、なんとなくひっかかっちゃうっていうふうに、なるわけなんです。だけど、心の中では、ほんとうの感じだな、これは。つまり、ほんとうは、これは、おれは、心からやってるわけじゃないんだよなぁってことを思いながら、でも、なんとなく良さそうなことを、なんとなくやっちゃうっていうことはあるでしょ。
そういうことに対して、親鸞は、実にきっぱりと、善悪っていうこと、それから、凡夫のだらしなさっていいますか、だらしなさっていうのは、誰にでもあるんだよっていう、それだってあり得るんだよ、人間にはっていうふうなことについても、実にみごとに、ぜんぶ言っちゃってますから、もし、親鸞の浄土真宗の思想、これは、信仰じゃなくて、考え方だよ、思想なんだよっていうふうな、言い方をすれば、たぶん、浄土真宗っていうのは、現在でも、全部おおうことができると思います。ぜんぶの思想の善悪、および、どれがいいのか、どれが悪いのか、どれが真理であり、どれが真理じゃないのか、どれがやるべきことであり、どれがやるべきことじゃないのかっていうことに対して、実にみごとな回答をしています。いまでも、与えることができるものだっていうふうに思います。
だから、いまでも、真宗の信者だけじゃなくて、すべての人に、やっぱり、通じる通じ方っていうのが、親鸞の十八願に対する理解の仕方は、とりようによっては、そういうふうに、誰にでもとれる、ふつうの人間にもとれるっていうふうに、ぼくはできてると思います。それが、親鸞の思想が、現在でも生きているところの、いちばん根本な問題だって思います。
ぼくはやっぱり、そういうことと、それから先ほど言いました、これは怖いなぁって、怖いこと言うなぁって、この人はやっぱり宗教家だなっていいましょうか、怖いよなっていう言い方っていうのをしているんですけど、その2つの言い方で、たぶん、親鸞は、人間の心が、手探りでいける場所っていうのは、上のほうも、下のほうも、善のほうも、悪のほうも、全部、ぼくは、親鸞が振り切ってるっていうふうに、ぼくには思います。
ぼくが思ってる親鸞は、そういうところで、いちばんよくあらわれているっていうふうに、ぼく自身は、考えてきました。これが、うまく伝えられたかどうかわからないんですけど、お伝えできたら、ぼくの今日の話はいいんだっていうふうに、考えております。これで終わらせていただきます。(会場拍手)

17 司会

それでは、せっかくの機会でございますので、一気にお話をいただきましたけど、何かご質問のあるかたは、どうぞ手を挙げて、ご質問いただきたいと思います。

18 質疑応答

(質問者)
先生の親鸞に対するご理解は、やっぱり、先生ご自身が、ちょっとおっしゃってましたように、相当、理科系的であると思います。ぼく自身も、ずっと文科系でありますけど、理科系に対する憧れ、人間って誰でも理科系と、文科系と両方あると思うんですけど、学生運動の頃とか、昨日もロックバンドの子が、ここの、先生がいま座っておられるところで、ロックの演奏をやってくれたんですけど、あの頃の、自分が思っていたこと、それから、また、時代が下って、理科系に対する憧れから、科学哲学といいますか、ああいう人間の考え方の論理構造といいますか、そういうこと自身に興味があって、そして、その後また、いろんな理由で、お寺に戻ってきて、そして、仏教や親鸞について、また勉強するようになって、わたし自身、今日ここに座っているわけなんですけど、先生は、まず、お伺いしたいことは、あの頃、学生運動の頃、先生自身、いろいろな著作も書いておられますし、いろいろな立場から、発言もされたと思うんですけど、いわゆるあの当時、1970年の初め頃、70年代の初め頃、エンツェンスベルガーという、ドイツの哲学者が、思想家がいまして、たしか、「始まりに忠実であれ、始まりは、いまだ始まり尽してはいないのだ」っていうような意味のことを言ってましたけど、あのときに、われわれが考えていた、ひとつのはじまりというもの、なにか1970年代の頃に、なにか日本の社会に、新しい思想的な芽が出て、そして、それがなにかをはじめることができるような力を持ったものだっていうように、一時、ぼくら考えていたことがあるわけですけど、先生は「共同幻想」という言葉を使っておられますけど、それが、ほんとうに、世俗的な意味での共同幻想だったのか、ああいうものは、いまは社会的なひとつの要素として、考えることはできないのかどうかっていうこと、それから、たちの悪いことに、ああいう共同幻想的なものは、ぼくらは、ぼくらのジェネレーションだけのものであって、ほかのジェネレーションの人たちとは、共有できないんだっていうような思いこみがあって、それもまずいなと、わたし自身思って、それも、いま先生のお話を聞いているときでも、あるいは、仏様にむかって、門徒の人のお仏壇の前で、あるいは、お寺の中で、お念仏しているときでも、いつも、そういう、ほかのジェネレーションとのギャップってことは感じるんですけど、そういう問題、それから、そういう共同幻想的なもの、あのとき何かをはじめられた、あるいは、それがいまでも、なにかどこかに、脈々として続いているんだったら、それが、親鸞の思想なり、浄土真宗の思想なりと、関係があるのか、ないのか、もし、関係があるとすれば、どういうところで関係があって、結び付いて、ぼくらの、血となり、肉となった思想的な手足の動かし方になるのかっていう、これは、3つの質問じゃなくて、ひとつの質問でございますけど、そういうことを、すこし先生に、お答えいただけたらと思います。

(吉本さん)
いまおっしゃられた70年代、80年代、それからいま90年代、93年になるわけですけど、何が違ったかっていいますと、外から見れば、非常に高度な歴史的事件だと思いますけど、ロシアをはじめ、東欧の社会主義国の社会主義者、つまり、社会主義者っていうのは、理想の社会を追い求めたっていう史観をもっている人たちだと思います。そういう人たちの征服っていうのが瓦解して、つまり、崩壊してしまったっていうこと、だから、それは、考え方はよかったんだけど、やりかたがまずかったんだっていうことでは、ちょっと済まされないよっていう、もうすこし、考え方自体が、真理に対して、どういうふうにだめだったのか、あるいは、どういうふうに考えれば、ほんとうによかったのかっていうことを、あらためて、もう根本的に問い直さなきゃいけないんだっていうふうになってるのかっていうふうに考えますと、ぼくは、やっぱり、根本的に問い直さなきゃならない事態っていうふうになったっていうことが、ひとつ大きな変わりようだと思える。
これは、20年来の変わりようだっていうだけじゃなくて、たぶん、20世紀の全部にとって、やっぱり、非常に重要な大事件であるし、また、大きな変わり目であるし、いまもまた、変わり目を変わりつつあるってことに差し掛かって、なっているんだっていうふうに思われます。
ぼくらが、考え方として、反省したり、だめだったりっていうようなことで、問うていることは、愚かなことで、一生涯のうち、何度も繰り返してきたなとは思いますけど、いちばんいい考え方っていうのは、ロシアをはじめ、そういう東欧の社会主義国はじめ、アジアの社会主義国も同じように、これからそうでしょうけど、ぼくの言い方をしますと、第二の敗戦っていうこと、つまり、戦争に敗けたっていう、それは、平和な戦争っていってもいいですし、あるいは、親鸞の云う十方の衆生なんですけど、つまり、大衆っていうことでも、あるいは、民衆っていうことでもいいんですけど、民衆を助けようっていうことの理念において、社会主義国のほうが悲観的に、資本主義国に及ばないっていうことによって、敗戦になっちゃったっていう、そういう考え方をすると、自分の体験と、近い体験っていうのが、できるんじゃないかと思って、ぼくは、一種の、第二の敗戦っていうふうに考えたほうがいいと、もし、ぼくの中に、社会主義国っていうのを信じている部分があったとしたらば、あそこは天国なんだっていうようなことを、多少でも信じていた時とか、信じていることがあったとしたらば、その部分の自分っていうのは、敗戦の体験を、いましているんだ。これはやっぱり、根底的に考えなおさなきゃいけないってことに当面してるって、ぼくは、そういう理解の仕方を現在もっています。
じゃあ、何が問題なんだってことがありますけど、なりますけど、ひとくちに、ぼくは、自分が言ってることの眼目っていいますか、中心っていいますか、それを云ってしまいますと、何かっていうと、こう思います。社会主義的な考え方からみると、世界はこういうふうに見えるっていう見え方があるとします。それから、また、ヨーロッパ・カトリック的な見方からすれば、バチカン的な見方からすれば、世界はこういうふうに見える見方があるとします。それから、もちろん、日本でいえば、西洋におけるカトリックと同じように、いちばん大きな宗教である浄土真宗から見れば、世界はこういうふうに見えるっていう、あるいは、民衆っていうのはこういうふうに見える見え方があると思います。ぼくが考えていることっていうのは、何かっていったらば、つまり、浄土真宗の見方からしたらば、社会主義のやってたこと、あるいは、見えてた見え方っていうのは、ここがだめなんだよとか、こういうふうに違ってるんだよっていうふうになり、また、社会主義の見方からすると、浄土真宗っていう宗教は、こういうふうに見えるからだめなんだよっていう見え方があると、ローマ・カトリック観でいえば、浄土真宗っていうのは、こういうふうだからだめなんだっていう、こういうふうな見え方、それぞれの宗教によって、それぞれ、民衆の見え方、あるいは、信仰の見え方っていうのが、違っているわけですけど、ぼくは、そんなにたくさんのことを考えたわけじゃないですけど、自分は、社会主義の理念とか、戦争中の自分の理念みたいのから考えて、自分の理念っていうのが、何がだめだったかっていうことを、いちばん、考えていって、戦後もそうですけど、党派っていいますか、宗教的にいえば、宗派ですけど、宗派の理念、宗派の見方によって、見え方が違っちゃうっていう見え方っていうのは、結局はだめなんじゃないかなっていうのが、ぼくが、第二の敗戦みたいなものを、現在、痛感して、感じていることっていうのは、そういうことなわけです。
宗派、あるいは、党派の見え方、つまり、おれのほうから見れば、こう見えるから、こうじゃなければ嘘だよって、あいつは間違ってるよとか、むこうから見れば、逆にこっちがぜんぶ間違っているっていうような、つまり、宗派の理解によって、見え方が違ってしまう見え方、理想、真理の見え方とか、民衆の見え方っていうのは、結局はだめなんじゃないかなっていうふうに、ほんとは考えるわけです。
だから、誰がどう見たって、あるいは、どの宗派が、どういう信仰を持ってる人たちが、どういうふうにどういう思想を持っている人たちが、どういうふうに見たって、やっぱり、民衆っていうのは、同じ、こういうふうに見えるよって、同じように見える見え方があり、また、真理、宗教でいえば、神とか、仏ですけど、そういう見え方っていうのは、こういうのだよ、おんなじように見えるよっていう、そういう同じように見えるっていう見え方で見える場所っていうのが、どっかにあるんじゃないのかなっていうことを考えるわけです。
つまり、そういう場所っていうのは、何なのかっていうことを、あるいは、どこなんだっていう、たとえ話でも喩えるんですけど、その場所はどこなんだ、そのところで、ときっていうのはいつなんだって、そういう場所っていうのは、自分なりに見つけたいっていうのが、ぼくなんかの非常に中心的な考えのあるところなわけです。
そうすると、親鸞が、ようするに、正定っていうふうに言っていることっていうのは、そういうふうに考える場合に、示唆に富むような気がするんです。どっかから見ると、それぞれ信仰が違ったり、あるいは、思想が違ったりしたって、ここから見れば、おんなじように、人間っていうのは見えるよとか、おんなじように、真理とか、信仰とかっていうのは、見えるよっていう見え方をする場所が、どっかにあるんじゃないのかなって、それを見つけるっていうのが、いまの課題なんじゃないかなって、そういう場所は、いつ、どういうふうに見つかるのかっていう、その、いつっていうことを問うってことも、課題なんじゃないかなっていうふうに、おおげさにいえば、そういうふうに考えています。
たとえば、もっと具体的にいいますと、データっていいますか、数字だけとりまして、日本の社会っていうのを見ます。そうすると、日本の社会を、一般的にそうされてますから、そういうやりかたをしますと、日本の社会で、給与とか所得を、5段階に分けるとします。日本の社会っていうのは、5段階のいちばん所得が少ない人と、いちばん所得が多い人の格差っていうのは、だいたいごく計算すると、4:1~4:6とか7とか、そのくらいの格差です。この格差は、みなさんは意外に思われるかもしれないけど、世界でいちばん格差が少ないところなんです。日本っていうのは、いまそういう状態なんです。
意外と思いませんか、ぼくは、自分が調べてあれしてみて、意外と思いました。いちおう、社会主義国みたいなのがあって、天国とは思ってなかったですけど、相当悲観的ではありましたけど、信じてるところがあったから、ああいうところが、貧富の格差がいちばん少なくなるんだろうなと思ったら、そんなことはなくて、ちゃんと調べてみたら、1:4てんいくつぐらいで、日本がいちばん少ないんです。その次が、オランダです。西洋諸国は、だいたい8位か9位くらいです。社会主義国はもっと、二十何位とかそういうふうになっています。そういうふうに格差が、いずれにせよ、いちばん少ない、日本っていうのは、少ないんです、現在。
それから、これは新聞なんかで出るから、ご存じでしょうけど、おまえは、自分を中流だと思っているか、中流意識をもっているかっていうようなアンケートをとりますと、日本では、9割1分の人が、去年のデータはそうですけど、9割1分の人が、自分は中流だっていうふうに思っています。そうすると、なんか、理想の社会は、理想の社会で、遠い未来にあるでしょうけど、差しあたって、現在の社会でいうと、日本っていうのは、そんなに悪い国ではないっていうことがわかります。人々の所得の格差は、とにかく、世界でいちばん少ないですし、それから、まあ、中流だと思っているのは、9割1分おりますし、そんなに悪い社会じゃないってことになります。
でも、ぼくが思うには、9割1分の人が、今度は、いまから10年ぐらい後になりまして、9割9分の人が、自分は中流だと思っていると、中流の生活をして、中流のあれをもっているっていうふうになったとします。そうしたらば、ぼくは、やっぱりそれは、ひとつのときなんだっていうふうに思います。
そのときには、9割9分の人が、自分は中流意識、つまり、この社会で、平均的なっていいますか、文句がない中流の生活をしてますよっていうふうな、9割9分の人がそうなったときには、これは天国だと思うか、そうじゃなければ、これはちょっとおかしんだよと思うか、そのどちらかしかないわけです。そのときには、たぶん、いま言いましたように、どの考え方から、あるいは、どの信仰から見ても、この考え方は正しいんじゃないかっていう、その場所があるんじゃないかっていう、その場所が、そのときまでには、見つかってないと、ぼくは、だめなような気がするんです。それがいちばん、ぼくが、いまひっかかって考えている中心のことになるんです。
もちろん、そんなこと考えなくてもいいんです。9割9分の人は中流だって、中流ってことは、おれはいいよって、それ以上欲張らないよっていうことを、9割1分いるってことですから、9割9分の人がそうなったら、もうこれは、それでいい社会だよっていえば、それでもいいんですけど、けっして悪くないです。いいと思います。でも、それはおかしいよっていうふうに、もし、そのときになってみて、おかしいよっていうふうになるんだったら、それじゃあどうするんだって言ったときには、どっから見たって、どういう信仰を持ったり、どういう考え方を持ってる人が見たって、この考え方は正しいよっていう場所が見つかってなければ、また、おんなじような混乱とか、おんなじようなインチキとか、出てくるんじゃないかなって気が、ぼくはします。
そのときは、また、あなたが、70年代にやったときに、大暴れしてやれっていうふうに、こんな馬鹿な社会ないっていうふうになるのかもしれませんし、そういうのは、今度、9割9分満足してるんだからいいんじゃないのっていうふうになるのかもしれないし、その満足は嘘だよって、正面から見ると、ほんとうに見えるけど、還相のほうから見たら、うしろのほうから、それから、むこうのほうから見たら、全然だめだよっていうふうに見えるかもしれないですよね。
その場所っていうのは、そのときにはわかっていなければ、いろんな人が知恵を働かせて、そういう場所がちゃんと見つかっているっていうふうになってないと、だめなんじゃないかなっていうふうに考えて、すこしぐらいは、それに寄与できたかなって、そのときのことに寄与できたらなっていうふうに思ってるっていうのが、精一杯なところなわけです。

19 司会

ありがとうございました。最後の話は、非常に、大事なお話であったように、聞かせていただきました。ちょうど、時間のほうも参りましたので、本堂のほうのお話は、これでいったん終わらせていただきまして、もし、個人的にまだ、ご質問がある方は、先生、もうすこし、むこうの書院の広間のほうで、ご休憩をとっていただきますので、そちらのほうに、お運びいただきまして、お話を伺っていただければと思います。こちらのほうのお話は、これで終わらせていただきます。もういちど拍手をもって、終わりとします。先生、ありがとうございました。(会場拍手)

 

 

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