1 遺伝子と宇宙的な生体リズム

今日は、最後の生命論っていいましょうか、生命とは何かっていう問題がテーマなわけです。生命とは何かっていうのは、日本のずっと明治以降でもいいんですけど、戦後に限っていいますと、戦後の主題としたら、非常に新しい主題の取り方だと思います。
もちろん、生命現象っていうのは、昔からありますし、それに対する科学的とか、さまざまな考察、考えっていうのはあるわけですけれど、いま、生命とは何かっていう問題が、日本の文化的な世界で、大きく取り上げられてきているっていう、最近の傾向っていうのは、ひとつには、遺伝子生物学っていいましょうか、あるいは、遺伝子工学でもいいんですけど、そういう遺伝子に対する知識とか、情報とか、研究とかっていうのが、圧倒的に、ここ10年以内に圧倒的に進んできたってことがひとつのあれなんです。
そうすると、遺伝子の問題がわかるようになってくると、少しずつわかるようになってきたことは、生命っていうことの問題は、つまり、動物、植物、人間とかっていう、そういう次元だけじゃなくて、もうすこし、細かいところで、微細なところで、微妙なところで扱えるっていう可能性が出てきたってことがひとつ、生命論っていうのが、近年起こってきたことに拍車をかけているわけです。
それからもうひとつはやっぱり、エコロジカルな意味での生命に対する考察っていうことが、非常に問題として大きくなってきたってことが、ひとつあるわけです。そのエコロジカルなことってことは、どういうことかっていいますと、人間の生命、つまり、あるいは、生態、生きているものとしての人間っていうのを、ひとつは、動物や植物、つまり、人間以外の生き物と同じように、ひとつは宇宙論的にっていいましょうか、春夏秋っていうような、そういう四季の移り変わりみたいなものを、太陽を回っている地球の公転ってことと関係するわけですけど、そういう宇宙論的な意味でのリズムっていうものと、それから、人間も含めた生態のリズムっていうものとを関連させて考えようっていう、そういう考え方が、エコロジカルなところから出てくるわけです。当然でてくるわけですけど、そういう考え方っていうのは、非常にやっぱり、ここ数年の間に、10年以内に、たいへんよく考えられるようになったっていうことがまた、いま起こっている生命論っていうのの考察に拍車をかけているってことが言えそうな気がします。
 ぼくが生命っていうときには、戦中派なもんですから、いつでも生命を倫理的にって言ったらいいんでしょうか、つまり、なぜ人間は生きているのかとか、人間の生きている価値は何なんだとか、あるいは、戦争中ですと、誰のためっていうふうに考えれば、生命を投げ打つことができる、つまり、犠牲になることができるかっていうことを、しきりに考えさせられたから、生命論って言っても、いまみたいな生命論ではなくて、生命を倫理と、つまり、生き死にってことと結び付けて考えて、それもしかも生き死にの覚悟っていいましょうか、自分の生き死にということと、どういうふうに結び付くかとか、あるいは、どういうふうに結び付ければ納得するかっていう、そういうものとして、つまり、一種の人生論っていうのと、それから、死に対する覚悟性っていいましょうか、そういうものとして、生命っていうのは考えたことがあるんですけど、いまみたいな意味での生命論、あるいは、生命についての考察っていうのは、やったことがなかったわけです。まったく、ぼくらにとっても、ここ数年来ある生命についての様々な考察とか、そういう関係の著書とか、そういうものっていうのは、非常に新しいっていいましょうか、はじめてぶつかる新しさっていうのを持ってるわけです。
それから、生き死にってこと、生命を倫理的に扱うっていう扱い方でも、ぼくらが持っていた自分の死ぬ覚悟とか、人は何のために生きるかとか、そういう意味合いの倫理性っていうのと違って、いまの場合には、一種の前世っていうのが人間にあるのかとか、人間に来世っていうのがあるのかとか、立花さんの領域ですけど、臨死のときに起こる、死に瀕したところから、帰還してかえってきたときの体験談のなかに含まれているものっていうのは、どういう意味があるのかっていうようなこととか、それはつまり、宗教的な意味から、死の後にまだ世界があるかとか、生まれる以前に世界があったかとか、そういうことが、死について、生命についての倫理的な考察、考え方っていうふうに現在ではなっていると思います。

2 三木成夫さんの考え方

あとで、そういうことにも触れられるって思いますけど、そういう現代の生命論っていうようなものを、どっから考えていったらいいのかってところから始めていこうと思います。ぼくらのそういうことについての考え方は、新しくぶつかったことのなかで、いちばんこれが影響を受けたのが、三木成夫さん、成功の成を書く、三木さんっていう人の考え方にいちばん大きな影響を受けてるわけです。三木さんの考え方っていうのは、エコロジカルであります。つまり、宇宙論的でもありますし、また、生体論っていいましょうか、身体論的でもあると思います。
三木さんって人は、いちばん根本的に考察していることは、生命っていうのは何なのか、あるいは、生命現象っていうのは、どういうふうに基本的に押さえればいいのかってことについて、非常にはっきりしたことを言っているわけです。
そのひとつは、ようするに、生命現象っていうのは、全般的に、全体に対して、生命現象について言えることは、大きく云えばふたつあって、ひとつは、渦巻きっていいますか、螺旋だって言っているわけです。生命現象の主たる基本的な要素は、ひとつは螺旋だって言っているわけです。たとえば、螺旋っていうのは、朝顔の蔓なら、朝顔の蔓の先を見ていくと、幹と葉が伸びていく伸び方っていうのは、螺旋状にとくに左巻きで巻きながら伸びていくっていう、植物でいえば、そういう現象があって、もっと三木さんが指摘するけど、ぼくらはよく観察したことがないからわからないんですけど、大きな大木の幹っていうのも、よく見ると、螺旋状の溝がちゃんとできてるってこと、つまり、これもまた、螺旋状に樹木は大きくなっていくってことがとてもよくわかるんだっていうふうに言っています。これは、ぼくらには、言われたから、あっそうかって思うだけで、自分で観察したことはないです。でも、すべての植物の幹っていうのは、幹の溝っていいますか、外皮の溝っていうのは、螺旋状になっているってことを三木さんは言っています。
それから、もちろん、人間が生まれる時ですけど、つまり、出産の時ですけど、出産のときは、胎児は螺旋状に回りながら、母親の中から出てきます。これは、ぼくは実際に見たことはないんですけど、写真は見たことがあるんです。そういうふうに螺旋状であるぞっていう写真は見たことがあります。ですから、ぼくはそういうふうに思ってなかったんですけど、つまり、胎児が生まれてくる時には、医者か産婆さんがこういうふうに引っ張って、出してたんだと思っていたら、そうじゃなくて、出すのには違いないでしょうけど、螺旋状に出てくるんだそうです。それは写真で見たことがありますから確実だと思います。そういう指摘をしています。つまり、生命あるものの生育、あるいは、成長ってものを考えると、それは、かならず、螺旋がひとつ大きな標識になるんだってことを三木さんが言っています。
もうひとつ、生命現象の標識になるのは、リズムだっていうふうに言っています。天体に四季の変化があるように、1日24時間のうち、昼間と夜とがあるように、あるいは、人間の生理的な、身体的な整理でいえば、夜は眠ることによって機能を休めて、昼間起きて活動するっていうような、昼夜のリズムがあるように、それからまた、一週間、7日ですけど、一週間っていう曜日のリズムがある。この一週間っていう曜日のリズムは、それもぼくはまったく知らなかったんで、三木さんの指摘するところによると、それは、人間の歯なら歯の成長の断面をあれすると、一週間ごとに、樹木の年輪と同じように、一週間ごとに年輪に近いあれがあるから、とてもよくわかるんだけど、一週間っていうのはけっして、暦屋さんがつくったわけでもないし、習慣がつくったわけでもなくて、非常に人間の、人間だけじゃなくて、生体の成長のリズムってことと関係があるんだってことを指摘しています。つまり、一週間おきのリズムっていうのは、たとえば、樹木の場合の年輪で一年間の区別っていうのは誰でもわかるけど、もっと微細にいうと、一週間ごとに違うっていう、その様相も見つけることができるってことを指摘しています。
つまり、渦巻き状に成長の仕方をするってことと、これは、生体から天体にいたるまでおんなじで、渦巻き状の成長の仕方をするってことと、それから、リズムをもっているってことと、そのふたつが生命現象の基本であるっていうふうに三木さんは指摘しています。
たとえば、人間の生体のなかでも、さまざまな昼夜24時間のリズムっていうのもあるわけですけれど、もうすこしリズムがあって、たとえば、25時間のリズムっていうのも、生理現象として、人間なら人間にあるっていうことを言っています。25時間の人間の体内リズムと、それから、24時間の、なかば習慣的になった昼夜のリズムと、それのギャップが、どんどんどんどん積み重なっていくと、たとえば、不眠症っていうようなのは、そのリズムのギャップが非常に激しくなったときに、不眠症っていうのは起こるんだっていうことも、そういう指摘もしています。
それから、もうちょっと違うリズムもあるんだっていう研究もあります。ですから、生体のリズムと習慣のリズムもありますし、また、それに基礎的には依存するわけでしょうけど、躁うつ病っていう精神的な異常とか、病的な状態っていうのがありますけど、躁と鬱の、もし、これが関連のある波をもっているとすれば、非常に規則正しい躁うつ病みたいなものを考えると、それはやっぱり、ちゃんとリズムがあって、躁と鬱の状態とは内的に関連している、それは個人によって違うことはありますけど、やっぱり生体の生理的なリズムっていうものを基礎に置いてそういうことが考えられるってことも、指摘しています。
それは、身体機能的に考えられる生命現象のリズムなわけです。これをもうすこし、人間の、生命あるものの肉体っていいますか、身体っていいますか、身体に即していいますと、三木さんって人は、人間には成長する位相と、それから、増殖するっていいますか、生殖するっていいますか、それは性の位相ですけど、性の位相っていうのと、それから、成長する位相っていうのは、食の位相っていうふうに三木さんは言っていますけど、食の位相と、それから、性の位相と、そのふたつの位相の母体っていうのがあるっていうことを、生体にはみんなあるってことを三木さんは指摘しています。
たとえば、三木さんがいちばん典型的に言っているのは、シャケならシャケの回遊っていうのがあります。シャケの稚魚っていうのを、ある川なら川で稚魚を放つと、それは川を下って、海洋っていいますか、広い海に出ていって、海を回遊して、回遊している間に、シャケの稚魚は栄養を取っている、どんどんどんどん成長して、それで、シャケでいえば、それが、シャケの食の、成長する相、つまり、食の相っていうのがあって、その間、シャケはどんどんどんどん栄養物を取って、海を回遊しながら、どんどん大きくなっていくと、それでもっと回遊して、もとの稚魚として放たれた川に戻ってくると、戻ってきてどうするかっていうと、できるだけその川をさかのぼっていって、そこで、性の位相に移って、シャケの卵と精子とが、川をさかのぼって、へとへとになりながら、川をさかのぼって、石なら石の裏とか、石の間とかに、卵と精子とを、そこに、射出して、それで、子どもをつくって、それで、自分は、生殖、つまり、性の位相を実現した後では、シャケの場合は典型的にそうだけれど、数日のうちに弱って死んでしまう、それが、シャケの一生の、成長の位相と、SEXの性の位相とのありかた、で、非常にはっきりして、食の位相のときには、性の問題はなくて、成長していって、それで、もとの川に帰ってきて、性の位相に入ったときには、生殖を営んで、それから、たちまちのうちに衰えて、数日間のうちに、たいてい死んでしまうっていうのが、シャケの一生なんだ、それは、典型的にシャケでいうとそうであるように、すべての生命があるものは、そういうふうにできているっていうふうに指摘しています。
つまり、性の位相と食の位相と、あるいは、性の位相と成長の位相と、その両方の位相が交代するっていうことが、すべての生命をもつものの一生のありかただっていうふうに言っています。

3 生命体としての人間の特徴

そのところで、人間ももちろん生命あるものですから、つまり、生物ですから、人間もそうなんだ。基本的にいえばそうだと、ところが、人間っていうのは、なぜかっていうところが人間の特徴なんですけど、そういう性の位相と、食の位相と、両方の位相が交代するのが、生物の生涯なんだっていうことを、人間っていうのも、自分で実行しながらっていいますか、生物としてはそういうことを実行しながら、だけれど、自分で実行している食の位相と、成長の位相と性の位相とを、そういう動物としての自分を、あるいは、生命あるものとしての自分を、もうひとつ、ある場所から眺めて、この性の位相はこうだとか、そういうことをもうひとつ考えることができるっていうのが、人間の特徴であるっていうふうに、人間は生物のなかでもあるわけです。
ですから、自分でも、生物としては、食の位相と性の位相があって、性の位相が終わったら、あっさり死ぬっていうことにできあがっているんだけども、ひとつだけ余計なものっていうのは何かっていうと、そういう生物としての、食の位相と性の位相の循環っていうのを、自分自身が考察して客観的にっていいましょうか、客観的に考えたり、それを把握したりできるっていうのが、人間の特徴だってことなんで、それを把握しているうちに、人間だけが、性の位相と食の位相がピタリ分離できなくなって、曖昧になっちゃったっていうのが、人間の特徴なので、人間の場合には、食の位相と性の位相っていうのとは、ほんとはきっぱりと別れて交代して、性の位相が終わったら、あっさり死ぬってことになってるはずなんだけど、そういうふうに客観的に、自分のあれを眺められる、そういう理性といいますか、悟性というか知りませんけど、そういう客観性をつくってしまったために、性の位相と食の位相と、曖昧に重なってしまうっていうふうになってしまった。重なりができて曖昧になってしまった。はっきり分離できなくなってしまったっていうのが、生命あるものとしての人間のありかただっていうふうに、三木さんはそういう指摘をしています。
それはたぶん、当たっていると思います。つまり、人間の場合には成長期があって、それで、一定の成長期があってから、性生活の位相があってっていうふうに、大雑把にいうと、なんとなくそうできているように思いますけど、はっきり分離しているっていうふうには、つまり、シャケみたいに分離しているってふうにはいかなくなって、両方が重なって曖昧になって、したがって、どういうふうに出てくるかっていったら、シャケの場合には、生殖を終わったときには、もう数日のうちに死んでしまうわけですけど、人間の場合には、生殖終わったって、終わったかどうかわかりませんけど、生殖自体も非常に長い期間、だらだらと長い期間、性の期間をもちますし、その間に食の期間も結構あったりして、だらーっと続いていって、死を迎えるっていう場合にもなんか、お年寄りになって、そんなにはっきりとどうだったから死ぬっていうふうにはならなくて、終わったら死ぬっていうふうにならなくて、だらだらと老いていって、それで死ぬっていうふうに一般的にそうなっている、そういう性の位相と食の位相っていいますか、成長の位相と性の位相っていうのは、ほんとははっきりと、生物的な基礎としては分離されてあるべきものを、人間だけはそれが曖昧になって、いつでも二重性の間で、生涯を終えていく、だから、非常にはっきりしないんだってことになっているって言えるわけです。
だけれども、ほんとうに生命あるもの、あるいは、生物としての人間っていうのは、考察をよくよくやると、やっぱりなんとなく成長期間っていうのと、性の期間っていうのがなんとなく分かれているっていいましょうか、分かれているってことは、生物学的に突き詰めていけば、人間を突き詰めていっちゃえば、なんとなく、その痕跡は残ってるってことは言えると思います。これは、自分で自分を観察してもそうですし、それは言えるんじゃないかなって思います。
それから、もっとラジカルにっていいますか、微細に言ってしまうと、ぼくはそういうことは鈍感だから、自分の生理について、身体について、そういうことを気がついたのは、10年くらいだと思うですけど、それくらい鈍感だと思うんですけど、ようするに、お腹がうんときつかったら性的な欲望は起こらないっていうふうに、ぼくには思います。性的な欲望っていうのは減少するって思います。むしろお腹が空いているときのほうが、性的欲望は非常に鋭敏にあらわれてくるっていうふうに、ぼくは、そういうことに気がついたっていうのは、ほんとに10年たらず前であって、それまではそんなことは全然わからなくて、わからない人が多いんじゃないかって気がするのはなぜかっていうと、精力をつけるために、なんかいっぱい食べろとか、それは冗談じゃないよ、そうじゃないよってことになると、ぼくは思います。だけど、そういうことをいう習わしっていうのはあるわけだから、相当気がついていないやつも多いと思いますけど、ほんとうに鋭敏な人は、そういうふうにできているっていうふうに、ぼくは思います。そういうことを考えてもそうなので、人間だって生物だけに詰めていっちゃえば、そういうふうになっています。
しかし、人間の人間たる所以は、そういうはっきり分離されるべき性の位相と、それから、食の位相っていいますか、それが曖昧に、ある程度、二重性として、はじめから終わりまで、もしかすると、赤ん坊のときから死ぬまでそれは続くって、二重性として続くっていうのが、人間の特徴だっていえば言えると思います。
だから、赤ん坊が授乳している1歳未満のときには、すでに母親との関係において、それは性の関係だっていえば言えるのであって、そのときには、手の触覚とか、唇とか舌の触覚とか、そういうものとか、目は母親の乳房とか見てないんだけど、そういうことの体験がやがて、人間の目の作用に、成長してから、たいへん影響を及ぼして、たとえば、何かを見たときに、その距離感っていうのがあるわけです。その距離感っていうのが、視覚自体に距離感っていうのは備わっているんだって言い方もできましょうけれど、距離感を測る場合に、かつて乳児のときに、母親の乳房を手で触ったり、舌で触れたり、あるいは、匂いで嗅いだりっていうような、そういう働きが、人間の目の距離感っていう、目と対象物の距離感っていうのをつくるのに、たいへん大きな役割をしているっていうふうに言ってもいいくらいで、そうだったら、1歳未満から、性っていうのが人間にあるじゃないかっていう言い方もできるわけです。
ぼくもそうですけど、いわゆる高所恐怖症っていうのがあるわけですけど、高所恐怖症っていうのは何なのかっていうと、めったにないような高いところに登ってとか、高い場所に行って、それで下を見たらおっかなくてっていうことが、一般的に高所恐怖症なんですけど、誰にでもそれはあるわけですけど、ほんとうの恐怖症の人はそれがやや病的に出てくるってことになるわけです。それは、たぶん、母親との関わりで、授乳のときに、手の触覚によってとか、舌の触覚によってとか、それから、匂いによってっていうようなかたちで、母親との接触感を確かめるっていう、そういう確かめ方に不足があったんだっていうことで説明すると、高所恐怖症っていうのは、とてもよく説明できるというふうに、ぼくは思いますけど、そういう習慣の距離感っていうのが、自分がどれくらいの高さにいるのかっていうことが、目の感覚でうまくできないと、高所恐怖症みたいなのが起こるわけです。
つまり、そういう理解の仕方をすると、もう1歳未満のときから、人間は性的じゃないかっていう言い方もできるわけですし、フロイト流にいえば、もう子どものときの生理的な欲望っていうのは、あらゆる、大人になって、これは変態性欲だとかなんとか言われるような、そういう性欲も、子どものときにぜんぶ備わっているっていうふうに、フロイトはそういうふうに言っていますけど、それほど、性っていうことを、フロイト流にリビドーっていうところまで拡張して、あるいは、エネルギー、性的エネルギーってところまで拡張していえば、もう生まれたときから、人間に限っていえば、性的だっていうふうに言えますし、また、死ぬときまで人間は性的だし、また、食の相も合わせ備えた二重性を付してるんだっていうのが人間だって言い方もできるわけだと思います。つまり、これが生命体としての人間の特徴ってことになります。

4 人間は植物と動物と人間からなる

もっと身体構造的な特徴っていうのも云えるわけです。これは、三木さんの発生学的な解剖の見解から出てくるあれで、ぼくはとても好きですっていいますか、影響を受けた考え方なんですけど。人間の身体のなかで、胃とか、腸とか、心臓とか、肺臓とかっていうのは、一般的に自律神経っていうふうに言われているもので動いているわけです。つまり、意識しないでも動いて、呼吸やなんかを意識しないでもやってることになるわけです。それは、植物神経系で動いているわけです。
それで、三木さんの言い方をすれば、人間の腸から食道まで、つまり、喉仏から下までですけど、それは植物でいえば、木の幹だっていうふうに、あるいは、草の幹だっていうふうに考えると、いちばん考えやすいんだ。だから、腸管をめくって、裏と表をめくって、血管が露出しているっていうふうな、そういうふうなイメージを浮かべると、そういう血管が露出している人間の腸管を基幹とする、そこから枝分かれしている肺臓とか、心臓とかもそうですけど、それは、木の幹が枝分かれすると、葉脈でもって、あれしながら枝分かれするのとおんなじで、人間の腸っていうのは、めくり返して、そして、中にある血管っていうのを外に出してみたら、それは植物の幹とおんなんじで、その血管に当たるのが植物の葉脈なんだっていう言い方をしています。それは、人間の内臓っていうのは、みんなそういうものであって、そういうふうに植物神経系で動くし、また、植物的に生きているっていうふうに言っています。
この内臓系っていうのの中心っていうのは心臓だ、どうしてかっていうと、心臓から血管が出てて、つまり、植物でいえば葉脈が枝分かれして、枝をつくり、葉っぱをつくりっていうのとおんなじで、そのもとになっているのは心臓だから、こういう植物神経系で動くものの中心は、心臓だと考えればいい。肺臓っていう呼吸器官で、ほんとうは枝分かれの途中にちょっとたまり場があったんだけど、それが発達して肺臓になったっていうふうに考えるのがいちばんよろしいでしょうっていうことを言っています。これは、人間の内臓系をかたづける、あるいは、植物系をつくってる。
それから、もうひとつは、いちばん典型的なのは、感覚器官ですけど、つまり、目とか、耳とか、鼻とか、手で触ったとか、舌で触ったとかいう、そういう触覚ですけど、そういうのとか嗅覚を含めていうと、それを動かしている中心は、脳である、頭であるというふうに、考えればいちばんいいでしょう。
これは、いってみれば、動物神経系でもってつくられていると、動物神経系のたまり場が脳だっていうふうに考えれば、たいへんわかりやすい。それで、人間の感覚はそういうふうにして、脳に伝わって、たとえば、動物神経系がそうですから、人間の行動とか、思考、考えることも行動の一種だと考えれば、精神的な行動ですけど、精神的な行動であるもの、それから、身体的な行動であるもの、それは、動物神経系が司っていて、動物神経系の中心というか、たまり場っていうのは脳なんだって考えれば、いちばん考えやすいっていうふうに言っています。
もちろん、血管系と神経系とは、相互に乗り入れているっていうか、交錯しているから、内臓系にも神経が少しはいってるってこともありますし、つまり、脳系統の神経がいっているってことはありますし、それから、感覚器官のところにも血液が、血管から、毛細から通っておりますけど、基本的にいえば、そのふたつだと、つまり、脳が動物神経系の中心、または、たまり場であって、それで、内臓系の、植物神経系のたまり場っていうのは、心臓なんだっていうふうに考えれば、とても考えやすいんだっていうことを言っています。
そのふたつからできているっていうふうに考えて、その上にまた、人間っていうのは、いってみれば、そういうふうにできてくるぞって、つまり、同じ人間の体を解剖して、何がどこにあるとか、こういう機能をしているとか、解剖して、それをまた、知識として得たり、それからまた、考えたりってことを、また余計にやっているのが人間なんだって考えれば、余計にやってるのが少ないのが、哺乳類以下の動物なんだ。それが多少、多くやって、自分の内臓機能は解剖するとこうなってるとか、形はこうなってるぞってことをあらためて、人間は考えたり、やったりすることができるっていうのが、ようするに、人間の特徴であると、そういうふうに考えますと、身体的にいいますと、人間とは何者かっていうのをいえば、人間は、植物と、それから動物と、それから人間性っていうのと、その3つを自分の身体の中に持っているのが人間なんだっていう考え方をするのがいいんじゃないかなっていうふうに思います。

5 環境問題とは何か

ぼくがエコロジカルな主張をするとすれば、なぜ緑が大切なのかとか、なぜ空気はいいほうがいいのかとかいう根拠としていえば、人間っていうのは、植物とか、動物とかっていう、その上に、人間もそうですけど、それを身体に全部、総合しちゃって持っているから、だから、それは外界の環境っていうのも大切なんだ。つまり、植物としての自分っていいますか、人間っていうのは、それは緑が多いほうがいいっていうのがあるわけですし、また、動物としての人間っていうのは、行動しやすくできていれば、つまり、行いやすくできている社会のほうがいいとかってことになりますし、人間としての人間っていうのは、そういうのを全般に考えて、それじゃあ、よりよい社会っていうのは何なんだみたいなことを、余計なことみたいに考える、そういう能力も人間はありますから、つまり、緑が大切だっていうけど、緑があるとどこがいいんだっていったら、それは、肺臓系か、内臓系がいいわけです。人間のなかの植物が、そういう環境がいいっていうわけで、それだけのことで、それで、動物がいいっていうのは、行動しやすいとか、考えやすい環境っていうのは、動物としての人間にとってはいいわけです。それから、人間としての人間にとっては、それがぜんぶ総合できるってことが、人間にとっていいわけで、つまり、環境問題をいうなら、その3つを総合して言わないと、やっぱり、人間らしい主張とはならないってことに理屈上はなります。
つまり、緑がいいとか、空気がよくなればいいとかいう問題じゃない、それは、人間の中の植物器官、つまり、自律神経で動いている箇所にとっては、なかなかいいものだよっていうことになりますけど、人間は植物神経だけでできているわけじゃありませんから、動物をも自分の体内に持っているし、また、人間をも体内に持っていますから、その全部にとっていい環境っていうのは何なのかっていうことを考察するっていうのが、たぶん、エコロジカルな課題の、根本的な課題だって、ぼくはそう思います。つまり、ぼくはエコロジカルな主張をするとすれば、そういう主張の仕方をすると思います。
これは、その三木さんって人は、ものすごくよく考察していて、ぼくはもちろん、もともと無知だったわけですけど、方法論的にものすごくわかりやすいっていうか、素人にわかりやすいです。ぼくらにわかりやすいわけです。ですから、そこからいろんなことを考えあわせることができるっていうようなことがありうるわけです。
ところで、そういうふうにやってきますと、生命っていうのは、岩石とか、石みたいに、無機物みたいに、意識といいますか、心っていいますか、精神性っていうのは、全然ない存在から、それから、植物みたいにややあるとみた方がいいんだ、だから、植物だって環境を良くしてやれば、非常に生育しやすいとか、肥料を与えてやればってことは、先ほどから言っている、食の、あるいは、成長の相なんですけど、それにいい肥料を与えてやれば、成長しやすいっていうふうになります。
それから、動物性にとっては、栄養物を取ってやれば、とてもいいっていうふうになります。意識っていうのは、たいへんそういう意味でいえば、人間だけが持っているんだっていうふうに考えないほうが、考えてもいいでしょうけど、人間だけが持っているっていうふうに考えないほうがいいっていう面もあります。つまり、猫や犬だって、ちゃんと意識を持っていますし、もっといいますと、植物だって、それを意識と呼ぶかどうかは別として、たとえば、ある植物の隣に、仲のいい植物を植えてやると、相互に成長しやすいみたいなことっていうのはあるわけです。それから、そこまでいうと、ほんとかどうかわからないんですけど、たとえば、植物だってかわいがって、「おまえはかわいいね」とか、「もっと大きくなりな」とか、語りかけてやると、そうすると、成長するんだとか、憎々しく育てると枯れちゃうんだっていう考え方もあるわけです。
そこまで言わないことにしておきますけど、でも、そういう作用があるってことは確実であって、その作用もまた、植物の意識なんだっていうふうにいえば、そうかもしれないし、植物の無意識なんだっていえば、そうかもしれないっていうふうに言えるわけで、そういう意味でいったら、生命あるものはみんな意識を持っていて、それは連続性があるんだって考えることも、ある場合には非常に役立つと思います。
それから、もちろん、人間だけが意識を持ち、だから、言葉を持っているんだっていう、そういう言い方をすると、非常にはっきりしてわかりやすい、そういうわかりやすさもありますし、だから、さまざまですけど、意識の問題でも、動物性の問題でも、植物性の問題でも、生あるものはみんな連続性をもっているっていうふうに、そういうふうに考えたほうがいい場合も、もちろん、ありうるわけです。
ですから、そういう考え方っていうのは、生命論のなかで、非常に多様な視線で照らすことができるわけですけど、主たる照らし方は、そういうふたつの、人間は植物と、動物と、それから、人間との総合物っていうのが、人間の身体なんだていうふうにいえばいいし、植物もまた、生命体としての無意識、あるいは、意識的な活動性っていうのはあるんだよっていうふうに言ってもいいわけですし、そういう言い方もできるわけです。そういうふたつの言い方から言うのが、いちばんわかりやすくて、的確だってことが言えそうな気がいたします。
いま言いました、生体が持っている螺旋性っていうのと、リズム性っていうのと、そういうものを、生命の基本的な問題として、それから、生物系の基本的な問題は、性の相と食の相だっていうふうに、そのふたつの相をもっている、あるいは、成長の相と生殖の相っていいましょうか、そのふたつの相をもっているんだっていう言い方をできますし、それから、それの上に、人間がまた、それを客観的に見ることができるっていう、そういう見方をできるのが人間なんだっていう言い方もできるわけです。
それから、先ほど言いましたように、そういう生命あるものは、リズムをもって成長していき、それから、螺旋をもって展開していくっていうふうに、そういうふうに考えると、だいたい、生命の基本的な問題っていうのは押さえられるっていうふうに考えることができます。
それで、無生物、つまり、石ころみたいなものには、残念ですが、たぶん、リズムっていうものはないんです。そこに置かれてあるっていうだけであって、あるいは、天然自然として、そこにあるっていうだけであって、これが雨風にさらされて壊れたりとか、削られたりってことはありえても、それはリズムある壊れ方とか、成長の仕方じゃないっていうふうになります。
それから、生体はかならず、リズムをもって成長したり、リズムをもって分裂したりっていうふうになっていくと、それで、このリズムのありかたっていうのは、単細胞から、人間のような高度な多細胞の生物に至るまで、ぜんぶ変わりなくリズムをもって成長したり、リズムをもって生殖したりっていうようなことがある。生殖しない単細胞みたいなのを考えても、それは自分で自分を分裂させて二つに割れる、二つに割れたものは、また二つに割れるっていうようなことで、細胞分裂を起こして、それで、やっぱり成長していくっていうようなことがありますし、また、それは、ある段階まで成長したら、生殖と同じような融合の仕方をして、それでまた、新しい細胞が出てくるみたいなこともある。だから、単細胞からすれば、高度な多細胞の生物はみんな同じだっていうふうに言うことができると思います。
こういうふうに生命体の基本的な押さえ方っていうのは、ぼくは、自分がこういうことを無知だったせいもあるから、確言っていうか、断言することができないのですけど、たぶん、この三木さんっていう人が、これだけ総合的にそういうことをはっきりさせたのは、三木さんがはじめてなんじゃないかなっていうふうに、ぼく自身はそういうふうに思えます。
これは、生命あるものは、アメーバから人間まで、どういうふうな基本的な要因をもっているかってことと、どういう基本的な成長とか、壊れ方っていうのをするかっていうことを含めて、それから、生体として、生命体としての構造自体も含めて、これだけはっきりと言い尽してしまった、つまり、言い尽したのは、たぶん、ぼくはこの人がはじめてなんじゃないかなって気がするんです。部分的には、もちろん、様々なことが言われてきて、様々なことがわかってきたってことがあるわけでしょうけど、これだけ総合的に生命体の問題を押さえきったのは、三木さんって人がはじめてなんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそういうふうに考えます。ですから、たぶん、ここいらへんのことで、現在の生命体っていうもののありかた、存在の仕方、構造っていうものが、たぶん、完全に把握できるんじゃないかなっていうふうに思います。

6 生と死の問題を拡張する

あと、できないことがあるとすれば、できないこととわかりにくいことがあるとすれば、生命っていうものを、先ほど言いましたように、倫理と結び付ける考え方です。倫理っていうものの極限っていうのは、生命体にとって、生まれることと死ぬことなわけです。このことは、どういうふうに考えていけば、いちばん妥当なのかっていうことだけは、ぼくはまだ本格的にはわかられて、解かれていないんじゃないかっていうのが、ぼくの考え方です。
それには、様々なあれがあって、つまり、宗教的な考え方から、自然科学的な考え方、人間の考え方、思想の考え方がいろいろあるわけですけど、でも、はっきりとこうだっていうふうにいうまで、これをはっきりさせて、確定的だっていう考え方はまだ出てきていなくて、それは、これからの問題なんじゃないかなっていうふうに思います。
ただ、いちばんわかりやすいところでいいますと、先ほど言いましたように、戦争中、ぼくらが10代の後半から20代の戦争真っただ中で、どうせ死ぬんだっていいますか、どうしても戦争行って死ぬんだっていうふうに思って、死ぬってなんか、あらゆることが途中で終わっちゃうって思うんですけど、それはそれであれなんですけど、どうしたら、死ぬっていう観点ができて、自分のなかで納得させられるかみたいなことを一生懸命考えたことがあるんです。それも、生命についての倫理には違いないんですけど、非常にせまい倫理です。何かと取り替えないと、倫理的な何か、つまり、善とか、悪とか、善悪と取り替えっこでバランスを取らないと、なんか戦争の中で、自分が個人的に好むと好まざるとにかかわらず、弾丸を打ち合って死ぬかもしれないっていう、そういう自分を納得することができないってことを、一生懸命考えたのを覚えています。
それで、いろいろ考えられるわけです。天皇陛下のためとか、祖国のためとか、それから、親兄弟がこれから、無事平穏に生きていく基礎にするための犠牲っていうことで死ぬんだってすれば納得するかとか、あるいは、そんなの納得しないって、納得しないけど死ぬんだっていうことも、さまざまに考えを巡らせたわけです。そのときの、どうすれば取っ替えっこできるかっていう問題は、自分で非常に、異常なんですけど、しょうがないから、異常な解決の仕方、精神の納得の仕方も異常なんですけど、まあ異常でも仕方がないんだ、宿命なんだって、そういう世界なんだからっていうので、納得するための、異常な倫理っていうのを考えたり、編み出したりっていうようなことを、自分ではしたと思うんですけど、そういうのに比べれば、いまの生命についての倫理の立て方っていうのは、それに比べれば、はるかにいいっていうか、はるかにいい目をもっているんじゃないかって思えるわけです。
たとえば、宗教の人は、とくに新興宗教の人はそうですけども、新興宗教の人は、様々それもあるわけですけど、善なる行いをすると、死後の世界に、大いなる、豊かなる報いを受けるし、あんまりいいことしないとそうじゃないなんだみたいな考え方は、むかしから仏教みたいなものにはあるわけです。いまの新興宗教だってそれはあるのです。そこでは、人間の生涯は、生まれるときから死ぬときまでで終わりっていうふうに考えないで、生まれる前の前世の世界は、やっぱりあったんだっていう、そういうことを言う宗教もありますし、また、死んだ後も、死後の世界はあるので、肉体だけは滅びるかもしれないけど、死後の世界はあるんだ。そこに、移行できるんだ。それで、移行しやすい修行っていいますか、修練の仕方っていうのもあるんだっていう、そういう考え方もあるわけです。
そうすると、それは、生の前にまだ生があるし、死の後に、死の後の生命体っていいますか、死の後の生命があるんだっていう考え方があって、それは、いってみれば、輪廻転生して、巡り巡っているのが、生命体のありかただみたいな、そういう言い方っていうのがあるわけです。つまり、非常に簡単な要素だけとってくるとすれば、生と死っていうのを、ぎりぎりに追い詰めるってことが、生命についての倫理の問題になっている。
生の前にも前世っていうのがあり、死の後にも死後の世界っていうのがあるっていうふうに、そういうふうに、生と死の問題を拡張して、拡大して考えていくっていうことが前提になって、そして、そこでどういうふうにスムーズに豊かに死後の世界にいけるかとか、生以前の世界っていうのを顧みられるかっていうような、そういうことが生命についての倫理なんだっていう考え方もありますし、生命科学的に云って、人間の生体っていうのは、生命体っていうのは、自分が主人公じゃなくて、細胞っていうのを宿している仮の宿で、細胞は食の相で増えていって、それで、性の相で次の世代の子どもに、細胞は遺伝子でもって移行するっていうようなことによって、それが生命体の中間の過程、人間の体っていうのは単なる宿に過ぎないので、ほんとうの主体は、細胞ないし、細胞核にある遺伝子が、次の世代へ、次の世代へって永続的に移行していくっていう、それがようするに、生命体のきたる瞬間なんだっていう、生命科学的、ワトソンみたいな考え方みたいなものもあるわけです。それから、自然科学的な、旧来の考え方もあるわけです。それで、生の前に生前の世界があったり、死の後に死後の世界があるなんていうのは大嘘だっていう自然科学的考え方っていうのもあるわけです。

7 自然科学と宗教を対応させる考え方

ぼくらが自分なりに納得している考え方っていうのは、こうだと思うんです。一種の対応性を、自然科学的な考え方、あるいは、生命科学的な考え方、それと、宗教的な考え方の中に、対応性を見つけ出すってことが、さしあたって、ぼくらが自分を納得させるときの考え方です。
つまり、それは、どういうことかっていいますと、宗教家が誕生以前に前世の世界があるっていうふうに言っているものを大雑把にいいますと、誕生より以前に体内の生活があったと、それから、もっと違う言い方をしますと、フロイト的にいう、無意識・意識の、底のほうに無意識の世界があるっていうわけです。
無意識の世界っていうのを、フロイトよりも、もうすこし拡張できるとすれば、もうすこし深いところまで、無意識っていうのを設定することができるとすれば、それが、たぶん宗教家がいう、生まれる前の世界っていうふうに、前の生命体、前の自分、前世の自分っていうふうに宗教家が言っているものと、対応するんじゃないかって考える考え方をします。だから、ぼくらの問題意識からいえば、フロイトのいう無意識のもっと以前に、無意識っていうのの底辺っていいますか、底っていうのは、もっと以前に設定できるんじゃないのかなっていう、設定できることはありえないかなってことを考えて、そこの問題にすれば、一本化するっていうのはおかしい言い方ですけど、一本化できるんじゃないかなっていう考え方を、さしあたって、とっています。
それは、宗教家が死後の世界があるって言っているものっていうのは、たぶん、宗教家の根拠は、いわゆる臨死体験の人の臨死っていうこととおんなじなわけで、つまり、臨死体験をあげて、自分がなんか広い野原に飛んでいったら、お花畑があったとか、よくそういうのが一般的に言われて、むこうに橋があって、橋の向こうでは誰かが、ほんとは死んだはずの人なんだけど、手招きしてこいこいっていうんだけど、なんとなく行きたくなくて帰ってきたら目が覚めたとか、意識が回復したとか、よく云います臨死体験の世界っていうのをつくっておいて、そこから、そこまでは宗教家は修練によって、人工的につくれるっていう修練をしておいて、それで、その後は、自分がそういう世界から、どれだけ豊かにイメージがさまようことができるかっていいますか、世界を漂っていくことができるかっていうことが、宗教家のいう死後の世界だっていうふうに考えるとすれば、これは、たぶん臨死体験っていうのと、それから、誕生する以前の、生まれたっていう以前の無意識の体験っていうのがあるとすれば、そことがいわば、円環するっていいますか、循環するそこの問題が、やっぱり、死後の世界があるっていうふうに宗教家が言っているもの、あるいは、宗教家が生前の世界があったっていうふうに言っているところの世界の問題と対応するんじゃないかっていうふうに、さしあたって、そういうふうに、ぼくは考えています。
でも、ちっとも決定的じゃないですから、決定的なことは、すこしも言わないんですけど、そういう対応性をつけると、われわれはすこし無意識の世界っていうふうにフロイトなんかが言っている、つまり、ぜんぜん意識していないんだけど、こういうことをしちゃったとかって言って、そういう体験より、もうすこし、むこうのほうにまだ、無意識の世界があるっていうふうに、そういう無意識の世界のことを、構造をはっきりさせることがあるんじゃないかっていう課題があるんじゃないか、それを解くことと、生前の世界があると宗教家が言っている問題とはおんなじじゃないかとか、これは死後の世界があるっていうふうに、宗教家が言っている問題っていうのも、臨死体験っていう問題の向こう側に、まだ、世界があるんだよって、つまり、それも無意識の世界に違いないんですけど、あるいは、夢とか、入眠状態とかの体験です。もっと病的な言い方をすると、幻覚っていうことになるでしょうけど、そういう世界とは何なのかっていうことと、同じことじゃないかなと思うんですけど、そういう世界をもうすこしはっきりさせるっていう、その構造をはっきりさせるってことと、さしあたって、同じなんじゃないかなっていうふうに、だいたい考えて、そこで判断を中止しているわけじゃないんですけど、いろんな、わからないことがはっきり、いろいろあるものですから、ただ、そういうふうに考えて、だいたい宗教家がいうところと、生命科学がいうところ、あるいは、自然科学がいうところとの対応性っていうのはつけられるんじゃないかなっていう課題っていうのはあるんじゃないかなっていうふうに思っています。

8 無意識の世界

もちろん、早稲田の大槻さんみたいに、超能力がいるとかいうのは、そんなのは嘘だって、まるっきり嘘だって、科学的に嘘だっていうふうに言っちゃう人もいるわけですけど、ぼくは、そこまでは言わないので、わりに、臨死体験可能なっていいましょうか、あるいは、空中遊行が可能な、意識だけが遊行することが可能な鋭敏な人がいてっていう、あるいは、個人のあれでいうと、どこの段階の無意識か、あるいは、乳児体験かわかりませんけど、人間の感覚がまだ、視覚とか、聴覚とか、嗅覚とか、触覚とか、そういうふうにまだ分かれていない時代ですから、人間になりたての時代かどこかわかりませんけど、時期にしてみればわかりませんけど、そういう時代の感覚っていうのを、まれにはうんと保存しているやつがいると、そういう子どもなり、超能力の大人なりいると、そういう人は、たぶん、臨死体験みたいに、意識が朦朧として死にそうになっていて、体の機能も朦朧として、植物神経で動いているやつも、動物神経で動いているやつもみんな止まる寸前まで衰えて、減衰している状態で、ただ、わりあいに、耳だけは聞こえますから、耳が聞こえる限りは、もしそういう時代の体験を、偶然に保存している人がいたら、その人はたぶん超能力っていうふうにいわれていることっていうのは可能なんじゃないかなっていうふうに、可能だっていうことはありうるんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそういうふうに思ってます。
つまり、たぶん、人間の生涯とか、人類史のある段階っていうのに対応付けると、その段階では、わりあいに可能だったっていう、それは、人間の先ほどから言いました感覚性っていいますか、動物神経で作用している、五感がはっきりと分離していないっていいますか、分離していない要素を残している、そういう時代の感覚っていうのを、何かの偶然で、非常に多く残しているっていう、まれな人とか、まれな子どもっていうのは、たぶん、われわれから見れば、超能力というより仕方がないっていう、なんかものが見えちゃったり、聞こえちゃったりとか、そういうことっていうのはありうるっていうふうに、ぼくには思えます。
さしあたって、そこいらへんのところで、宗教と超能力と自然科学と、そういうのを対応付けることっていうのは可能なんじゃないかなっていうふうに、おおよそのところ、そういうふうに、ぼくは考えているわけです。それが、いまの生命論における倫理性っていうのは、極端にいいますと、そういう生と死っていうところに、また、生前の世界、あるいは、死後の世界っていうのを付け加えまして、あるいは、心理的なことでいえば、われわれが一般的に考えている無意識の世界っていう、誕生してから後に存在したそういう世界で、いまは忘れてしまったそういう体験っていうのの、もっと以前に、もっと奥底に、もっとあったんだよってことを認めれば、もうそれは対応ができるんじゃないかっていうふうに思えるわけです。そこいらへんのところでの判断が止まっているっていうのが、ぼくなんかが生命について考えている、ぼくらの考え方なわけです。
この種のことがらっていうのは、いずれにせよ、人間の動物神経には、主として支配する世界の問題を主体にする問題なものですから、発展的な感じっていうのがないんです。そこが弱点だっていうふうに、ぼくには思います。たとえば、Aというやつが、あいつは超能力を持っているんだよっていうふうにして、ほんとうに、手をあてがったら、痛いところがあったかくなって治ったっていうふうな超能力の人がいたとすると、その手のことっていうのは、一種の展開の感じがないんです。発展の感じがないんです。なんとなく行き詰まったところで、超能力が嘘だって言っているような感じがしてしょうがないんです。
そこにまた、自然科学的な大槻さんみたいな人がいて、あったかくするなら、ヒーターやったらいいじゃないかとか、こういうふうにやったらこれは科学的ってことになるんだけど、たぶん、そういうことじゃないんです。だから、超能力であったかくなるっていうのは、そういうことじゃないとぼくは思います。
だけど、いずれにせよ、その手の話っていうのは、ものすごく、発展の展開の感じっていうのがないんです。なぜかっていうことは、非常にはっきりしているので、たぶんそれは、人体にすれば、人間の能力にすれば、主として、動物神経が関与している箇所が、鋭敏であるか、鋭敏でないかってことに、基本的な問題があるからだと思います。そうすると、動物にとって、それはいいだろうってなりますけど、人間にとっては、なんか人間が人間である所以っていうのは、判断中止になっちゃうんです、主たるところでは。つまり、判断が入り込む余地がないわけです。おまえだめだって、そんなの嘘だよって言っても、現にあったかくなるんだからしょうがないだろうっていうふうに言われればそれまでです。現に、おれはあったかくする能力があるんだからしょうがないだろうといえば、それまでの問題です。これは、大槻さん流の自然科学の人が、そんなの嘘だって言ったって、それは成り立たないと、ぼくはそう思います。いるんだから、そういうやつがいるっていうことは認めなければいけないと思います。
それは、何が関与しているかっていうと、人間が関与しているって、人間の中の動物神経でもって、作用が大きくなったり、小さくなったりする問題が、主として関与しているから、人間が人間たる所以っていうのは、それを見ていても、あんまり展開の感じがないんです。そこは非常に弱点だと思います。
ぼくは興味深いから、テレビで嘘も真も、そういう人、超能力が出て、人をあったかくしたりとかやっているのを見たり、それを計器でもって計って、ここはあったかくなったとか、こうだったとか、視覚的にできるようになっていますから、そういうのはテレビでよくやっていますけど、興味深いから見ているんだけど、なんとなく、自分の中の、人間が人間たる所以っていうのを高度に発揮しまして、だからどうしたの、超能力があるって言ったって、だからどうしたのって言ったら、それまでじゃないかって、つまり、ここを当てたら、痛くなくなったぐらいのことで、だからどうしたのって言えば、それまでっていうふうになっちゃうんです。
そうすると、それはなぜそうなるかっていうと、ようするに、人間が人間たる所以があるとすれば、その部分が、無限大に考えたり、悩んだり、感覚を広げたりとか、そういうことが関与できないからです。関与したって、たいして関与できないから、だからなんとなく、その手のことは、超能力がすごいなって仮に思っても、なんとなく浮かない感じだなっていいましょうか、なんとなく展開性がないよなって、この種のことは、ほんとだとしても展開性がないよなっていう感じをおおえないわけです。
そこだと思います。そこが、その手の臨死体験とか、超能力体験とか、来世があるかってことにのめり込んでいくと、展開性がない感じっていうのが付きまとうところだと思います。でも、けっして、現在、生命論として重要でないところではないんです。かなり重要な部分には違いないんです。

9 宮沢賢治もわからなかった-科学の認識と信仰の世界

 たとえば、ぼくの好き、かつ偉大な詩人だって思いますけど、宮沢賢治みたいな人は、一生涯それで悩んじゃっているわけです。あの人は科学者ですから、一面では、そういうことは信じたくねえなって思うわけですけど、しかし、信じなかったら、あの人の信仰は、あの人は法華経の信仰ですけど、日蓮宗から入ってきて、法華経の信仰ですけど、それがゼロになっちゃいますから、法華経の信仰はやっぱり来世があるっていうことが、基本的にあるわけだから、それを信じなかったら、自分の信仰はゼロになって、あの人はそれを信じているわけです。
しかし、一方で信じていながら、科学者ですから、論理といいましょうか、ちゃんと納得がいく、実験的納得も、それから、具体的な納得もいくような、そういうことでそれを確かめたいと思うわけです。それでやっぱり一生涯悩むわけです。信仰は捨てないから、妹さんが死んだときには、やっぱり北海道の樺太のほうに旅行に行って、もしかしたら、来世っていいますか、あの世にいった妹さんと交信できないかみたいなことを、まじめに、大まじめにやってみたりしますし、自分が死んだらやっぱり来世にいくに違いないって思ってるわけですけど、しかし、一面では、自分の中にある科学っていうのと、宗教っていうのとは、一致させなければいられないっていうようなものから考えると、やや自分でも納得していない部分が残ったっていうことが言えるわけです。
だから、あの人の、ぼくなんか好きな言葉ですけど、『銀河鉄道の夜』の中に、こういう意味の言葉があります。「ほんとの考えっていうのと、嘘の考えっていうのを分けられるようになったらいいな」っていう、つまり、分けられるようになったっていうことは、分けられるっていう実験の方法っていうのが、わかったらいいなってことを、『銀河鉄道の夜』の初稿ですけど、初稿の中でそういうことを、登場人物にちゃんと言わせています。
つまり、ほんとうの考えと、嘘の考えっていうのは、分けることができないわけです。どこまでいったって、ほんとうだってやつと、嘘だっていうやつは、どこまでいっても解決できない。それで、大部分が解決できたとしても、小部分はどうしても納得できないっていうふうになりますし、宮沢賢治自身がほんとの考えと嘘の考えっていうふうに、しっかりと分けられたらよかったのに分けられなかった。それはやっぱり、分けられない部分が残る。それが分けられる実験の方法っていうのは、科学者だからそう言うので、そういうことは実際に目に見えるように結果が出るみたいな、それが目に見えるっていうようなふうに、できたらいいなっていうことは、生涯の宮沢賢治の課題だったわけです。
つまり、偉大な詩人ですけど、やっぱり宗教を捨てませんでしたから、やっぱり来世っていうのはあるっていうふうに、9割9分断定的に信じてたっていうふうに思います。だけれども、ほんとにそうかっていうふうに問うた場合に、やっぱり自分でも、あとの1分だけ科学者としての自分が、そういう実験の方法っていうのを見つけて、ちゃんと実験で決まったっていうふうに、自分はやっていないし、やれなかったなっていうようなことが、心残りとして残ったっていうふうに言うことができるわけです。
そういうふうにいえば、宮沢賢治みたいに偉大な詩人といえる人だってやっぱり、1分か2分くらいは、もしかするとそれは間違いかもしれないよって、来世があるっていうのは間違いかもしれないよって、そういうことを信じたっていうところで生涯を終えているわけです。そしたらやっぱり、結論がついてるってわけにいかないので、信じた分は主観的じゃないのっていうふうになって、客観的に誰もが100%納得するっていうようにはいかないよっていうふうなものを残しているわけです。ああいうふうに偉大な人だって、やっぱり生命論の現在の問題、現在、表面に出てきている生命論の倫理の問題について、まっとうだと思える解決はしていないっていうふうに思えるわけです。
ですから、そういうふうに考えたら、これはそうとう偉大な主題、重要な問題なんだよな、もしかすると、これを迷信にしてしまったり、あるいは、迷信にして、これで解決したと思っちゃってる科学者と、それから、迷信じゃない、これは真実だっていうふうに、臨死体験の人を見れば、すぐわかるじゃないかみたいなことで、それから、宗教的な修行をすれば、宗教的な修行っていうのは何かっていえば、少なくとも、原始宗教、日本でいえば、中世までの宗教っていうのは全部それですから、そうやって来世をつくるってこと、イメージをつくれるってこと、そういう修行ですから、そしたら来世にいったっていう、来世を遊行してきた宗教家がいるわけですから、じゃあこれはほんとじゃないかっていうやつもいて、それで解決なんかつかないっていうふうに、つまり、信じるか、信じないかの問題だっていうふうに、いまだにそういう問題だっていえば、いえるので、だからこの問題はいまでも、生命論における善と悪といいましょうか、倫理の問題として考えれば、いまでも、ものすごく重要だと思います。

10 臨死体験・二重人格

ぼくらの戦中派みたいに、ジリジリ自分を追い詰めて、病的なところまで追い詰めた生と死の問題じゃなくて、いまの豊かな社会の生命論っていうところにおいて問題になっている倫理の重要さで、ほんとうは豊かな社会におけるほんとうの倫理とは何かっていうことは、まだ、いまでも解けていないんだと、ぼくはそう考えますけど、旧来の倫理っていうのは、たいていだめだよっていうふうになりつつあるって、ぼくにしてみればそう思ってます。だから、そういうことは、まだ解決していないっていう課題と考えれば、これはとても重要だ。
立花さんみたいな、臨死体験みたいなのをたくさん集めて、いろんなことを言ってるのを、いろんな説をぜんぶ総合して集めてくれて、上下2巻の本にしてくれてるわけです。立花さんっていう人は、自分はどうなんだって、立花さん自身はどう考えているんだっていうふうなのも、どこかに書いてあるかと思ったら、見ましたら、2巻の終わりに近いところにちょっと書いてあります。立花さんは、こんなもの、臨死体験っていうのは、お花畑が見えたとか、こんなの迷信だ、幻覚の問題だっていうふうに言っちゃうべきなんだっていうふうに、立花さんは思ったのであろうと思いますけど、そういうふうに、ちょろっと半ページぐらい、ちょろっと言っています。あとは他のいろんな人の説とか、体験とかっていうのを論じたり、解説したりしてっていう、ほんの半ページから1ページくらいは言ってるところがあります。ぼくは、立花さんのそういう結論の仕方はしないほうがよかったなって思ってます。もうすこし、いろんなことがわからないと、幻覚なんだって言わないほうがいいような気がするんです。
何がいちばん問題なのかっていうと、簡単なことです。つまり、臨死体験っていうのはようするに、宗教家の体験も同じなんですけど、死にそうになって意識が薄れたとか、もうこいつは死んじゃったみたいに思われて、心臓マッサージされるみたいな、そんな段階になったときに、自分の意識がここから離脱しちゃって、部屋の上のほうから、死んでる自分とかを一生懸命、心臓マッサージで生かそうと思って、医者とか、まわりで立ち働いている看護婦さんとか、あるいは、泣いている近親だとか、そういうのが上から見えるっていう体験なんです。
その見えたっていうのは、ほんとに見えたと考えるべきか、そうじゃなければ、幻覚でそう見えたんだと考えるべきかっていうことが、根本的な問題です。それが、ようするに、体験の人を読むと、あまりにリアルなものだから、そこは結論付けられないわけです。だから、宗教的な人はもちろん来世はあるっていうふうに考えますし、また、臨死体験も体験した人は、あんまり、悪い気持ちじゃないぞっていう、見えるのは悪いことじゃないぞって、非常に気が楽になったみたいな体験者のほうが、大部分を占めているみたいなことがあるわけで、それはいまだに、そういう学者とか、研究者とか、そういう人たちが、いろんなことを宗教的によったり、科学的によったりしているわけですけど、いまだに確定的にこう言えるよみたいなことは、いまだにないっていうのが、現状なわけです。だから、そういう現状に照らして、立花さんなんかは、幻覚だっていうふうに、自分で言いたくなっちゃったんだと思います。ぼくは、言わないほうがいいような気がします。
つまり、そういう異常体験っていうのがあって、たとえば、二重人格とか、多重人格っていうのがあるわけなんです。それは2つあって、自分が何をやっているのかわからない人格になって、何かしちゃって、たとえば、人殺ししちゃうとか、レイプしちゃったりとか、そういう悪いことをしちゃったっていうんだけど、自分は全然そんなことは知らないわけです。自分以外の人格に移行して、そういうふうにやっちゃうことがあるわけです。
それから、もうひとつは、臨死体験と同じようなので、たとえば、机に向かって何か書いているような自分が、部屋入って扉を開けたら、自分が机に向かって勉強してたとかみたいなのが、自分で見えちゃう、そういう体験っていうのがあるわけです。これも二重体験、二重人格なんですけど、ドッペルゲンガーっていう二重の幽霊っていうんですか、そういうものだっていうふうに言われている現象なわけです。
それはいろんなのがあるわけです。芥川みたいな人は、『或阿呆の一生』なんかでいうと、ぜんぜん行った覚えもないのに、銀座の画廊か、本屋さんか、食堂か、レストランみたいなそういうところで、知り合いの人から、この間お会いしまして、ろくに挨拶もしないですみませんでしたみたいに挨拶をされたんだけど、おれは一度も行ったことないっていうふうに言い張っているわけです。だから、自分の分身がそこに行ったんだっていうふうに、芥川は思いたいわけです。思いたいし、思ってるわけです。
その手のことと、臨死体験みたいな、自分の体から抜け出して、自分が死にそうになってるのを、まわりが騒いでいるのが見えたっていうことが、そういう体験が幻覚なのか、それとも、体験として真なのかっていうことが、どちらかとするなら、納得のいく説明をしてくれっていうようなことになるわけです。
そうすると、そこの看護婦さんが、医者とかなんでもいいんですけど、そこにいた人たちが、頭のここのところが禿げてたって、意識回復してから、禿げてるでしょって言ったら、ほんとうに禿げてたっていうふうに言うわけです、臨死体験の人は。つまり、リアルだって、事実だっていうものですから、それがあまりに、迫力があるから、幻覚だって言っちゃうには、ちょっと無理だよっていうあれもあるわけです。ほんとうなんだよっていうためにも、なかなか無理なところがあるような気がするんです。
でも、別な意味で言うと、耳さえ聞こえれば、聞こえてそういう状態になったとすれば、人間の意識としては、非常に朦朧として、人間じゃない、哺乳類と人間の間ぐらいの意識の状態なときには、それが見えるってことがあるんだよってことなのかもしれないし、それはもうわからない、いまのところ、ぼくは確定できないような気がします。

11 哲学者や宗教家はどう考えたか

ですから、そこは保留にしておいたほうがいいんですけど、しかし、倫理の問題としては、とても重要な問題として、課題としてあるっていうふうにいうことができます。この種の問題について、哲学者として、いちばんよくおおまとまりにやった人は、ベルクソンっていう哲学者がいます。いろんなことを断片的に言ってますけど、とくに『創造的進化』っていう、岩波文庫で上下二巻で、それのなかには一生懸命、生命論っていうのをやっています。
無機物と有機物と、それから、単なる有機物じゃなくて生物っていうこと、それから人間っていうことと、そういうことの段階を踏まえながら、そこにおける特徴は何なんだっていうことを盛んに哲学的に指摘している、とてもいい本です。
ですけれども、ベルクソンは、いまの言い方ですれば、どちらかといえば生命論として、あるいは、生命現象としていえば、来世があるよっていうのに近い考え方ですけれど、非常に詳細に論じていますけども、いまの言い方でどっちなんだって言い方をすれば、そういう生命っていうのは永続的だよっていうことに近い考え方をしているっていうふうに言うことができると思います。
ですから、もしかすると、それは問題だよってことになるのかもしれません。この手の問題からほんとうに科学的に結論付けて、現代の思想を納得させるってところまでやっちゃったって人は、まず、ぼくはないと思います。そういうものはないので、それはいまの課題なんで、しいていえば、それは、生命論における倫理の課題っていうことだっていうふうに、僕は思います。倫理の問題として非常に重要なんだけど、解決はできないっていう問題だっていうふうに、ぼくにはそういうふうに思います。
三木さんっていう人の考え方っていうのは、ベルクソンの考え方から、かなり余計な影響っていうのを受けていると思います。まず、ベルクソンの考え方をあれすると、だいたいにおいて、生命論における非常に詳細な考察と、来世があるみたいな、死後の魂の世界があるっていうようなあれに近いですけど、そういう考え方が出てきます。
もちろん宗教家をいえば、宗教家は、そういうことは専門としているわけですから、とくに日本でいえば、中世の浄土宗系統のお坊さんですけど、お坊さんの考え方が、その問題についていえば、ぎりぎりいっぱいのところまで考えている、それは世界的なレベルでぎりぎりいっぱいのところまで考えていると思います。
そのなかで、いちばん短くて読みやすいのは、『一言芳談』ってひとことですけど、芳談は芳しい話ですけど、『一言芳談』っていうのが、中世の日本のお坊さんだから、生と死に関する専門家ですけど、そういう人たちの短い言葉とか、行いとか、そういうのを寄せ集めたものです。これは以前は岩波文庫でよく見つけられたんですけど、いまはむずかしいんじゃないかと思います。いま見つけるとすると、岩波の古典文学大系みたいな、ああいうのの中にあるやつを読む以外にない、そのなかでいえば、日本古典文学大系の岩波版の中の83巻くらいに、『仮名法語集』っていうのがあります。かなっていうのはカタカナとかひらがなのかなです。法語は、さんずいに去るっていう字、つまり、お坊さんの言葉って意味でしょうけど、語はかたるっていう字、『仮名法語集』の中に入っています。
それは、生と死の問題について、最高のレベルまで書いてあります。これに匹敵するのは、中世の西欧の宗教家、つまり、キリスト教の宗教家で、これに匹敵する嵩っていうのをもって、しかも、日本の浄土系の有名・無名のお坊さんですけど、法然から、無名で野っぱらで始終修行したまま死んだっていうような、そういう人の言葉も入っていますけど、これに匹敵するのは、ドイツのキリスト教の神秘思想のマイスターエックハルトっていう人がいるんですけど、マイスターエックハルトって人の本題は、ドイツ的説教、ドイツ語による説教集ってわけですけど、これは、『エックハルト説教集』っていう表題で、これは岩波文庫で、いまでも手に入れることができます。
これは生と死に対する考察の深さっていうのと、それから、死についての考え方が、中世の日本の浄土系のお坊さんなんですけど、そういう人たちとほとんどおんなじようなところまで達している、たいへん優秀な人ですけど、優秀なキリスト教思想家ですけど、これは生と死について、いちばんの深さまで到達しているっていうふうに思います。

12 親鸞の死のとらえ方

 ぼくが知ってるのは、親鸞っていう人なんですけど、親鸞っていう人は、ぼくはもうちょっとやってるなっていう、解決っていうと、また、問題を生ずるんですけど、親鸞っていうのは、宗教家としていえば、念仏を称えれば、来世、つまり、あの世ですけど、死後の非常に豊かないい世界にいけるよっていう、念仏っていうのは、ほんというと一回でいいんだ、まごころからやれば一回でいいんだっていうふうに言ってるわけです。それで、あとは、生きていたら、もっと称えたらいいじゃないですかっていうのがあります。死ぬときに称えるっていうのは、死ぬときには人間はどういうふうに死ぬかわからないぜっていう、だから、死ぬときの念仏が大切だっていうのはダメなんだっていうふうに言うわけです。そういう、死についての洞察があります。
それで、どうしてそんなことを親鸞は言いだしたかっていうと、本人もそれと似たり寄ったりなんですけど、いちばんの浄土系の、いちばんのおおもとっていうのは、源信っていう人の『往生要集』っていう著書がありますけど、この人は何をしたかっていうと、いまのホスピスの人とおんなじことをしています。
つまり、仏像を、阿弥陀仏を置いといて、阿弥陀仏の手のひらのところから、五色の細長い布を垂らして、死にそうなやつを、危篤とか、重体とかっていう人を、そこへ集めてきて、それで、五色の紐の端のところを握りながら念仏を称えていえば、そのまんま、浄福の世界にいけるっていうんだけど、そういうやつを集めて、係りのお坊さんがくっついてて、念仏が途絶えそうになると、死にそうだから途絶えるでしょうけど、途絶えそうになると、励まして、もっとちゃんと念仏を称え続けろっていうふうになりまして、いまどういう気持ちだとか、浄土のあれが見えてきたかとか、そばに坊主がふたりぐらいいて、それを聞いたりしている。まったく、いま考えればひでえことするなって思うようなことを源信って人は実践的にやったわけです。
それはいまのホスピスの人とそんな変わり映えないと思いますけど、そういうふうに考えて、そうすれば往生するとか、これが仏教における浄土系の集大成した考え方はこれかっていうふうになるわけで、法然っていうのは、いやそうじゃないっていうふうに、臨終の時に念仏に重きを置いてはいけないっていうふうに言ったわけです。それで、そういうことは止そうじゃないかっていうふうに、そういうことを決めたわけです。そういうふうに考えて、それをまず破ったわけです。
それをまた、親鸞はもう一個、破ったんです。どう破ったかっていうと、いちばん肝心なところは、死っていうふうに考えているものがある、つまり、死っていうものは、ようするに、肉体が青ざめて、息が止まっちゃってるってことでもなければ、それから、現世に生きている、つまり、臨死体験みたいな、なんでもいいんですけど、そのどちらでもないぞっていうことを親鸞は言ったんです。
自分が考えている死っていうのは、中間だっていう以外に、言葉では言いようがないんですけど、中間っていうのは、間だっていう意味じゃないんですけど、中間だっていう言い方をしますと、人間の死っていうのは、ようするに、中間なんだって、その中間とは何かって言ったら、その中間位置っていうのさえあれすれば、位置にさえ、念仏を称えて位すれば、そこからストレートに浄福の世界にいける、そういう場所が、ようするに、ほんとうの死なんだっていうふうに、親鸞はほんとうの場所なんだっていうふうに、親鸞はそういうふうに設定したわけです。
ですから、肉体が息をしなくなっちゃったとか、心臓が止まっちゃったっていう、そういうのを死だっていうふうに考えなかったんです。それで、そういうふうに死んじゃったら、その後には、魂だけが死後の世界にいくっていうふうには、親鸞は考えなかったんです。宗教家ですから、宗教家で、信仰の篤い人ですから、そんなのは嘘だとは言わなかったんだけど、いま生きていたら、そう言ったと思うんです。つまり、そんなの嘘だよ、ほんとの死っていうのはそうじゃないんだ、中間なんだ。その中間っていうのは、おかしい言い方ですけど、ある場所なんだ。それで、そこにいれば、ストレートにすばらしい世界にいけるわけです。すばらしい世界から、なお還ってきたいならば、還ってきて、人々の間で生きて、大いなる慈悲っていうのを尽くすとか、それも可能だけれど、とにかく、浄福の世界っていうのは、そこの場所さえいけばいける、そういう考え方をとったんです。
それは、法然はまだ、そういうところまでいかないで、法然が死っていう場合には、息がなくなって死んだ、そういう死のことを言っているわけです。だけど、親鸞は、そうやって死んじゃったら、あるいは、病気に近い幻視っていう場合に、そういう考え方は違うって、ぼくはそういう理解の仕方をしまして、それは違うっていうふうに言ったと思います。つまり、そういうのじゃないんだよっていうふうに言って、そうじゃないところなんだよ、死っていうのはっていうふうに言ったと思います。
これはようするに、ぼくの理解の仕方では、人間の生と死、人間の生命、あるいは、動物の生命は、生と終わりがあって、それでそのあと死後の世界があって、生前の世界があってっていう、そういう考え方からいえば、ぼくはひとつ、一歩、そこから踏み出した考え方なんだっていうふうに、ぼく自身が思っています。
つまり、やっぱり、この人は、偉大な人なんだなって、ぼくは思いますけど、そこまではだいたい詰めたっていいましょうか、ですから、エックハルトみたいな神秘家ではないんです。親鸞っていうのは、神秘家ではないんです。自分では、僧にあらず、俗にあらず、つまり、おれは俗人ではないけど、僧でもないよ、つまり、死についての専門家でもないよ、だけど俗人でもないんだって、僧にあらず、俗にあらずっていうのは、親鸞の自分の場所だって言ってるわけですけど、その場所なんです。自分を死の専門家だっていうふうには言わなかった人です。
そういうふうに言うことをやめた人だけど、ぼくらには、そこのところを、一歩詰めたっていうふうに、ぼくは思います。依然として、この問題は、なかなか科学的にも、宗教的にも、理念的にも、うまく解いたっていう考え方には、いまのところ到達していないっていうふうに、ぼくには思います。ただ、それぞれ自分の考え方を信じているとか、信じていくかって人はいると思いますけど、ほんとに決定的に決めたよっていう宗教家はいないと思います。

13現在の生命論の課題

 生命論っていうものを、いまの現在の段階で、ここ数年の間に起こってきている宗教とか、理念とか、科学とかっていうところからくる生命論っていうのは、いままであった生命論っていうのとまた違う場所なんですけど、この違う場所っていうのは、たいへん興味深い場所で、ぼくらが、唯一、こうゆうしたらいいんじゃないかなって思うことは、早急に科学的であれ、宗教的であれ、早急に決めないで、まだ残っている問題があるんだっていうふうに考えて、それをなんとかして解決しようみたいなふうに考えるのが妥当なんじゃないかなって思います。
そうすると、その考え方に立ち向かうってことは、言いかえれば、生命論以外の倫理の問題に立ち向かうとか、社会的な問題に立ち向かうとか、政治的な問題に立ち向かうこととも、広がりを関連させることができるので、たぶん、そういうことが重要な問題になってるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思います。
そして、それは、あんまりうまく解けていないんだな、解決してないよなっていうのが、現状のところだと思います。ですから、そこのところは、みなさんのほうでもチャンスがあったり、自分の体験があったりしたら、そういうところを詰めていくっていう機会があったら、それはやられたら、とてもいいんじゃないかなっていうふうに思います。
人間の無意識というのは、意識とわりあいに近いところであって、ちょっとした瞬間に意識にのぼっちゃう無意識のところもありますけど、ぜんぜん自分がそう思ってないのに、なんかしちゃったっていう、そういう全然わからないっていう無意識もあるわけです。しかし、もっとさかのぼれば、それよりもっとわからない無意識の部分っていうのは、もしかすると、あるかもしれないっていうことっていうのも、課題としてありうるわけで、そこもまた、これからはっきりさせていく、なっていく問題であるかもしれないっていうふうに思います。
たとえば、ビートたけしが酔っ払って、バイクでどっかにぶち当たって、ケガしちゃったと、ぼくの解釈の仕方は、テレビなんかよく見てると、この人は死にてえ死にてえみたいな、いやになっちゃったみたいなことを、たびたび言ったりするし、場面も出てきますから、そういうのがいつでもあって、しかし、あの人は無意識にあって、無意識にもしかしたら、自殺願望だったかもしれないなっていうふうに、ぼくは、そういう理解の仕方をいちおうとったわけですけども。自分でも、そういうことは、もしかするとおれは自殺しようとしたのかもしれないみたいなことを、自分でも書いていますけど、ぼくは、それはあると思います。
でも、それはわからないんです。事故の前後も物忘れしちゃうわけですけど、それだけじゃなくて、無意識がやることっていうのは、意識の下の自分っていうのは、わからないことっていうのが多いわけです。自分ではそう思いたくないっていうことがありうるわけですし、ましてや、もっとその奥のほうにある無意識っていうのは、そうすると、意識がどう思ったかってこととはかかわりなく、なにかやっちゃうかもしれませんし、そういう問題っていうのは、様々な分野の問題として、いまも非常に出てきている問題だと思います。
それは、生命論の現在の問題と一緒に、問題としてふきあがってくる問題で、そういうふうにしないと、展開の感じっていうのが、生命論にはないんです。生命論とか、超能力とか、死後の世界とか、生前の世界とかって問題の中には、それを考えてあれしたら、気分がせいせいしたってことはないものですから、自分でもって、それは様々な問題と関連があるっていうふうに、自分でもって、関心の範囲を広げて、ぜんぶ関係あるよっていうふうに広げていけば、たぶん、この生命論の問題、あるいは、生前の問題、死後の問題っていうのは何なんだっていうことを考えることが、ある展開性をもつってことになりうるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
そこいらへんのところが、個人的な肉体的・身体的な問題でもありますし、現在の社会的な問題、あるいは、政治的な問題でもあるわけです。社会的な問題、政治的な問題からみますと、無意識にたどっちゃってる社会的な問題とか、政治的な問題ってなっちゃって、それを意識したら、ちょっとたいへんだぜっていうことはあるんだけど、だいたいそれは、一般論としていえば、無意識で済んじゃってるわけです。
なぜそれが許される、つまり、誰も文句を言わないかってことになるわけですけど、それはどうしてかっていうと、やってるやつも無意識だからだと思います。それから、考えるやつも無意識だから、だから、これで済んじゃってるけど、これが意識のところに出てくることだったら、これはそうとうなところにいってるねっていうふうに、親鸞になると思います。
これは、生と死の間の問題、死後の問題とおんなじところをさまよい歩いているのと同じことよっていうふうにいえるところがあります。そういう展開の感じを自分でもって、付け加えていきますと、この生命論の問題が、一点に集中はするんだけど、展開の感じはちっともないんだよなっていう箇所からまぬがれるんじゃないかっていうふうに、ぼくには思います。
生命論の問題っていうのは、最重要な問題だとは思いませんけど、4回やりましたことの、4回目の問題としては、だいたいここいらへんが、いちばん集約点として、よかったんじゃないかっていうふうに、ぼく自身は思います。いちおう、ぼくらの考えとしてもっている生命、あるいは、生物、生あるものについての考え方と、主な人の考え方っていうのは申し上げることができたっていうふうに思っております。これで、いちおう本年は終わりにしたいと思います。(会場拍手)

 

テキスト化協力:ぱんつさま