1 司会

 お待たせいたしました。それでは、ただいまから講演会をはじめさせていただきます。(会場笑)わたくしは、今日の講演会の主催をしております森集会の笠原芳光と申します。お手元に紙をお配りいたします。なお、紙が、資料その他が足りないので、お持ちいただいていない方がおられれば、たいへん恐縮でありますが、必要の方はあとからお送りいたしますので、受付のところに、ご住所、お名前を書いて、お渡しくだされば、あとから必ずお渡しいたします。それから、資料費と書いて、新聞に出したんですが、これは、講師の謝礼、それから、旅費、宿泊費、会場費、ぜんぶ含んでおりますので、なにとぞご了承いただきたいと思います。
 森集会というのは、そこに書きましたように、1957年7月以来やっております会でございまして、聖書をキリスト教の経典としてではなく、古典として読んで、解読して、話し合うというだけの集会でございます。毎日曜日に、午前10時30分から、この上の室でやっております。会費は一回300円でございます。教会でも、宗教団体でもございませんから、どうぞご安心の上、おいでくだされば、幸いでございます。
 それで、ただいまから、吉本隆明氏のご講演をお伺いすることになります。吉本さんにつきましては、いまさら申し上げる必要もないと思います。戦後最大の思想家であることは、衆目のみるところであります。ちょうど、阪神・淡路大震災が昨年の1月17日の黎明に起こったわけですが、その約1年、1周年を前にしております。それに、若干関係があるかと思いますが、「苦難を超える」という題で、『ヨブ記』をめぐってというお話をしてあります。吉本さんが『ヨブ記』について、公に語られるのは、これがはじめてではないかっていうふうに思っています。
ほぼ1時間半ほどお話していただいて、そのあと、質問のある方は、この用紙、お持ちでない方はおっしゃってください、書いていただいて、出していただいて、わたしが整理をして、吉本さんにお話して、そして、答えていただくというかたちにしますので、恐れ入りますが、質問を直接ここでお伺いすることはできないので、ご了承いただきたいと思います。この会は9時までいたします。9時まで、この会場が確保してありますので、9時までいたします。それでは、ただいまから、吉本氏の「苦難を超える-『ヨブ記』をめぐって」というお話をお願いいたします。

2 『ヨブ記』のテーマ

 どうも、いい気になって途中で時間を潰していたら、遅くなりました。今日は、「『ヨブ記』をめぐって」ってことが主題なわけですけど、古今の偉い人たちが、『ヨブ記』っていうのは魅力的なところがありますから、論じていて、ぼくらの入っていく余地っていうのは、あんまりないんですけど、それで、どこからはじめたらいいかってことを考えたんですけど、まず、なんの先入見もなしに、いきなり、いまでいえば、共同訳の口語調の聖書がありますから、それにとっついて、すぐ読んだって考えて、どういうことを感ずるかってことから、はじめるのがいいのか、あるいは、それ以外に、ぼくらの介入する余地はないって言えば、ないのかなって思って、そういう先入見なしに読んだら、どういうことを感ずるかっていうところから、はじめようと思ってきました。
ただ、あんまり何にも知らないで、先入見なしにっていうのは、すこし誇張ですから、『ヨブ記』っていうのは何なのかっていう、旧約聖書っていうのがありますね、それは、神話を交えた、ユダヤ民族の歴史の書であるっていう面と、それから、神の預言の書であるっていう面と、それから、もうひとつあって、それは、預言の書、それから、神話を交えた歴史の書と言ってもいいんですけど、『ヨブ記』っていうのはヨブっていう人間ですけど、個人の信仰とか、体験とか、笠原さんがいま言われたあれでいえば、苦難とか、そういうのを介して、神との対面っていうか、その信仰の対面の仕方をしているっていうのが、もうひとつ、旧約聖書のなかにあります。そのなかのひとつだって考えればいいと思います。それくらいが、『ヨブ記』についての知識といたしまして、それで、先入見なしにってことを心がけて、お話したいっていうふうに思います。
もし、余裕があれば、ぼくらが感銘している、内外の偉い人たちの考え方がどうなっているかってことを申し上げたいって思います。ここでいえば、みなさんのところをまわって、ぼくもいただきましたけれど、日本でいえば、内村鑑三の『ヨブ記の研究』っていうのがあります。これは、なかなかいいものだって思います。
それから、外国ではっていいますか、ぼくは好き嫌いっていうのも交えて、ぼくらがいちばん好きで、これはちょっと深いなっていいますか、ぼくらみたいな、つまり、東洋的であって、極東的であって、なおかつ、異教徒であって、それから、なおかつ、不信心であってっていう人間では、ちょっと理解が及ばないなっていうところがあるくらい、なかなかたいへんなものだと思います。それは、キルケゴールの『反復』っていう、ここのなかに繰り返し出てくるわけですけど、それは、とてもいいものだって思います。とてもいいものっていうか、ちょっとぼくらには、最後までついていけないっていいますか、介入できないなってところがあります。
それから、あとは、まったく不信心のほうの側からいえば、不信心の心理学者側からいえば、ユングっていう、共同的無意識っていうのを、いちばんはじめに、つまり、神話みたいのから、共同的無意識っていうものを、最初に見つけ出したっていいいますか、つくりだしたといいますか、そういう精神医学者って言ったらいいのか、心理療法家って言ったらいいのか、そういう人ですけど、ユングの『ヨブへの答え』っていうものも、『ヨブ記』について書かれています。それも、わりあいにたやすく、われわれが手に入れることができるものです。ぼくは、それくらいのことを、もし時間がありましたら、何言ってるのかってことを申し上げたいと思います。
ぼくが、ぼくがっていうことは、ようするに誰でもがって言ってもいいと思うんですけど、とくに研究家でもなんでもない人間がっていうふうに言っていいと思いますけど、先入見なしに、この『ヨブ記』っていうのを旧約のなかで読みますと、文語調のは面倒くさいから、口語調の、先ほど言いました共同訳のやつを読みますと、誰にでもわかります。
そうすると、先入見なしに、どういうことを感ずるかっていいますと、ひとつは、ぼくらは、そこは不可解で、あるいは、不可思議でしょうがないんですけど、ようするに、大なるテーマは、ようするに、人間はだれも信仰するとか、イデオロギーに頼るとかって場合に、熱心にそれを主張したり、あるいは、熱心に活動したりってすれば、かならず、いい報いがあるっていうふうに考えますし、また、個人としていいまして、いい行いをしたらば、かならず、とくに信仰のある人だったら、かならず神が見ていて、かならずいい報いが自分にくるはずだっていうふうなことを当てにする場合と、それから、当てにしない人でも、どっかでは、悪い行いするより、いい行いをしたほうが、きっといいに違いない、いい報いがあるに違いないっていうのは、誰でもがどこかでは感じているわけです。
ところが、『ヨブ記』っていうのは、それにもかかわらず、そういうふうに考えたいわけですけど、ヨブっていう人物が、めちゃくちゃに、神と悪魔の談合から生じた試みっていいますか、試練っていいますか、そういうのが下されまして、それで、いい行いをした立派な人なんだけど、ひどい目にばっかり遭うっていうことなんです。どうしてだろうか、つまり、いい行いと、いい信心があればかならず、いい報いがあるということを前提として、信仰者っていうのは、一般的に信仰を続けていくわけですけど、そうじゃなくて、唯一、いい行いをし、いい人であり、申し分ない人なんだけど、どうしてかわからないけど、とにかく、悪い目にばっかり遭うっていうようなのが、この『ヨブ記』のテーマです。
ぼくらが不可思議に思うのは、ひとつはそれです。つまり、なぜだろうかっていうことです。どうして、悪い行いをしているやつが栄えたり、悪い行いをしている人には、何の罰も下らないのに、ヨブのような、典型的に、いい行いをし、いい信心をし、貧しい人に対しても親切であるしっていう、申し分のない人なんだけど、そういう人に、どうして悪い結果ばかりが起こるんだろうかっていうことが、非常に不思議なわけです。なぜ、こういう、また聖書としていえば、なぜこういう章を設けたんだろうかってことは、非常に不可解なわけなんです。
その不可解ってことを解明したいもので、それぞれ解釈したいものですから、偉い人たちは、昔から、『ヨブ記』については、たくさん発言をし、たくさん書いております。ぼくらも、それを感じます。ひとつは、そういう申し分のない信仰の人、それから、いい行いをしている人っていうのが、どうして、こんなひどい目に遭うんだろうかって、つまり、神っていうのは何なんだって、ようするに、不公正じゃないかっていうような問題なんですけど、それはやっぱり、ぼくらも、先入見なしに読んで、それは感じます。つまり、どうしてこんなのをつくったんだろうかっていうことを感じます。
それから、もうひとつ、それに関連するわけですけど、これは意地の悪い見方で、ユングの見方と似ているんですけど、ヨブがそういうふうにひどい目に遭って、神の試みからひどい目に遭って、なんでおれだけこんな苦悩しなきゃなんないんだっていうようなことを縷々申し述べて、悩むところがあるわけですけど。読んでいますと、ヨブのほうがえらいんです、えらいっていうか、神さまが言っていることよりも、ヨブの言っていることのほうがずっといいんです。ずっと奥が深いし、ずっといいこと言ってるんです。
神も、ヨブが自分の運命を呪ったりする言葉を聞いて、それはおまえ間違いだみたいに、それで、神を呪うっていうような言葉も吐くわけですけど、それに対して、神が、おまえそんなことを言うけど、おれができるような、たとえば、あちらの山をこちらに移したりとか、嵐を呼んだりとか、雷を呼んだりとか、朝になって暁になると、地球全体、世界全体を明るくしたりとか、夜になると暗くしたり、こういうことは、おまえにはできるかっていうことを言うんですけど、馬鹿馬鹿しいっていうか、そんなこと、ちっとも感銘しないわけです、ぼくらが読んで、ちっとも感銘しないです。
だけど、ヨブの言ってることは、ものすごく感銘するんです。すこし申し上げてみますけど、つまり、『ヨブ記』を先入見なしに読みますと、どうしても、そのふたつのことが、つまり、ヨブのほうがえらいんじゃないかっていう、つまり、ヨブのほうがいいこと言ってるよ、いまのわれわれの感覚からいって、ヨブのほうがいいこと言ってるよっていうふうに思えることと、神っていうのは、神の言葉があるわけですけど、存外、つまらないことを言うやつだなっていう、逆にそういう感じはどうしてもおおえないわけです。
それから、いま言いましたように、どうして善なる行いをして、信心深くて、申し分ない、人には親切であり、また、慈悲深くっていうふうにして、申し分のない人が、どうして、こんなひどい目に遭うのかっていうことは、あるいは、神が相談づくで、こういうひどい目に遭わせるのかっていう、それはなんでなんだ、なにがしたいんだっていうことがやっぱり疑問です。
つまり、そのふたつが、『ヨブ記』についての疑問で、誰もがきっと感じるに違いないと思いますけど、ぼくらも、非常に通り一遍に読んで、そのふたつを、非常に不可思議に感じます。この不可思議に感ずるところを、それぞれ偉い人たちは、それぞれの解釈の仕方をしているわけです。

3 「アジア」と同じ段階の自然観

 ぼくらの解釈みたいなことを申し上げますと、ユダヤ教ないしキリスト教が言っている唯一神、あるいは、神っていうのは、この『ヨブ記』において、とくにそうですけど、とくにそれが顕著ですけど、われわれが自然っていうふうに呼んでいるものと、おんなじなんじゃないかなって、ですから、自然は、人間が倫理的にいい行いをしようが、悪い行いをしようが、嵐が来ればいっぺんにやってきますし、地震が来ればいっぺんに、いい人だけを残して被害を与えないで、悪い人だけ被害を与えてなんてことはないので、そんなことはおかまいなしに、自然は一律にと言いたいところですが、非常に、偶然的な一律といいましょうか、偶然的に、全部おんなじように災害を与えるみたいなことをしますけど、それと、『ヨブ記』が言っている神っていうこと、つまり、自然をつくった自然の神、唯一神ってことですけど、それは、ほとんどおんなじなんじゃないかなって解釈すると、たいへんよく解釈できるんじゃないかなっていうことが、ひとつあります。
それから、それはきっと、たとえば、カトリックの神学が、とても自然学に似てるっていうところも、それによるんだろうと思います。だから、誰でも、それは、信仰者であろうと、信仰者でなかろうと、ふつうの人が誰でも読めば、そういう感情を持つだろうと、それに比べたら、ヨブのほうが、はるかに深く悩み、はるかに深い言葉を吐いています。絶望の言葉であっても、深い言葉を吐いています。だから、ぼくらが見ていても、ヨブのほうがえらいんじゃないかな、いいんじゃないかなっていうふうに見えます。思えます。
もうひとつ、これは、ぼくの解釈になりますけど、ぼくの解釈がかろうじてできるところに属しますけど、それは何かっていいますと、つまり、自然っていうものに対するユダヤ的っていったらいいんでしょうか、あるいは、中近東的っていったらいいのかわかりませんけど、中近東的自然観っていうのと、それから、極東的、アジア的、それから、日本の場合では、アジア的っていうのと、オセアニア的っていうのと、両方混合していると思いますけど、そういうところの自然観っていうのとは、段階としては同じだけど、ちょっとつかまえ方が違うんじゃないかっていうふうに、『ヨブ記』を歴史的に解釈すると、そういうふうに理解できるところがあります。これは、ぼくは、いっぱい自分で確かめて、確信をもって言っているわけじゃないんですけど、ぼくが知っている範囲の解釈をしますと、そういう気がします。
つまり、中近東的、あるいは、オリエント的な自然観っていうのは何かっていったら、やっぱり、天然自然の後ろには、それを統御する唯一神がいて、それで、唯一神の意思によって、自然が動くんだっていう考え方だと思います。
そうすると、極東的、あるいは、オセアニア的な自然観っていうのは、古代において、そうじゃなくて、万物にみんな、自然が宿っているっていう考え方だと思います。たとえば、樹木には、木花之佐久夜毘売っていうふうにいうわけです。花を咲かせる樹木と、木花之佐久夜毘売って人格的な、あるいは、擬人的な女の人ですけど、女の神さまですけど、それとは、イコールなわけです。たとえば、滝が落ちていれば、多岐都比売であるし、湊には湊の神がいてっていうふうに、天然自然物は、細部にわたって全部、それはイコール神なんだっていうのが、たとえば、日本の神話で、いちばん古い部分を、初期の部分を取ってきますと、そういう自然観があります。
だから、あらゆる自然物にはみんな、動物にも、植物にも、それから、自然の岩とか、それから、川とか、湊とか、海とか、全部、それはイコール神さまです。また、もちろん、土地も神さまです。土地はイコール神さまです。九州は、たとえば、白日別とか、何々別とかっていう、「別」っていうのは、むかしの神さまの位ですけど、そういうふうに、九州っていう土地自体が、イコール神さまっていうふうに、4つぐらい顔を持っている神さまだっていうふうにされます。
それが、いちばん古い、アジアの、とくに極東とか、それから、ポリネシアとか、ミクロネシアとか、そういうところの自然観っていうのは、だいたい、いちばん古い段階のところで、そういう自然観になります。
中近東だって、いま申し上げましたユダヤ教がそうですけど、自然物が全部、ひとりの支配する神がいて、その者の意思によって、森羅万象、自然現象っていうのがあるんだっていう、おおざっぱにいえば、そういう考え方になります。
この考え方は、たいへん違いますけど、しかし、根っこは、ぼくはおんなじだと思います。段階としていえば、おんなじだと思います。それが、ようするに、『ヨブ記』のなかで、神さまがいうところの、自分の能力のことをいうわけです。あるいは、超能力のことをいうわけですけど、その超能力が自然じゃないのかっていうふうに思えるところが、そういう自然観が、中近東、オリエントの自然観として、古代にあったっていうことを意味しているんじゃないか、それは、一見すると、極東の自然観、あるいは、オセアニアの自然観っていうようなものと違うように見えますけど、それは、個々の自然物に神が宿るっていうふうに考えるのか、それとも、全部の自然物はみんな、ひとりの神の意思によって、ぜんぶ自然現象っていうのは起こるっていう考え方をとるかっていう、その考え方のタイプの違いであって、段階っていう考え方をすると、これは、おんなじなんじゃないかっていうのが、ぼくなんかの解釈です。
歴史的解釈しちゃうと、そういうことになっちゃいますけど、つまり、歴史的解釈っていうのは、信・不信の問題ですから、あんまりしたくないんですけど、でも、ぼくらが唯一、この『ヨブ記』について、何か言えるとすれば、そのくらいしかありません。あとは、かろうじて、人の考えを避けながらなんか言うとか、人の考えと同じだけど、ちょっと解釈が違いますよっていうふうに言えるところしかないわけです。

4 『ヨブ記』の概略

 これはいちばん重要なことですから、『ヨブ記』っていうのを、もうすこし細部にわたって申し上げますと、これは、いまの考え方でいうと、詩劇っていいましょうか、あるいは劇詩っていいましょうか、劇になった、ドラマになった散文詩、あるいは、詩っていうふうな形式でもって、つくられています。
いってみれば、ユダヤの首都からちょっと離れたウツの地って書いてありますけど、そこに、ヨブっていう、非常に中身でいいますと、無垢な人で、正しい人で、神を恐れ、悪を避けてって、そういう非常に信仰深い人がいて、しかも、7人男の子がいて、3人の娘がいると、それで、羊が千匹くらい、ラクダが3千頭って書いてありますから、牛が500匹、それで、雌ロバが500頭、それで使用人が大勢いて、いってみれば、パレスチナから東のほうの国で、第一番のお金持ちだっていう、そういうお金持ちで、心がけも申し分ない、神に対する態度も申し分ないっていうのが、設定されたヨブです。内村鑑三は、これは実在の人をもってきて書いてんだって言っていますけど、実在かどうかっていうのはわかりません。
このヨブの一家は、だいたい息子たちがみんな健全で、息子たちが順繰りに宴会っていいますか、家族の宴会を催して、そのたびごとに、敬虔に、神に祈ってっていうようなことをやるのが習慣になっているっていう、そういう一家です。
そういう一家に、神と悪魔とが、談合の上で、まず、悪魔がどう言うかっていうと、ようするに、あなたがヨブのことを金持ちにさせ、そして、仕事をするにも、家族についても、非常に順調になるように、あなたが保護してやっているから、だから、ヨブも信仰が深いのであって、もしあなたが、ヨブの財産をみんなひったくってしまったら、みんな潰してしまうみたいなことをしたら、たちまちに不信心になりますよって、悪魔が言うわけです。
そして、それに対して、神が、自分はそうは思わないと、そんなこと言うなら、おまえが勝手に悪いことして試してみろっていうことを言うわけです。
で、悪魔はよろこんで試したわけです。なにをしたかっていうと、まず、長男の家で、宴会をしているときに、牧場を略奪する連中が押しかけてきて、略奪をやってしまうわけです。それで、牧場に働いていた使用人はみんな殺されちゃうっていうようなことが起こるわけです。
それから、天から雷が落ちてきて、羊とか、羊飼いとかっていうのを、全部、焼け死なしちゃうっていうことが、すぐに続いて起こるわけです。
それから、ラクダがまた襲われて、盗っていかれちゃう、それを番をしていた牧童も殺されちゃうとかあるわけです。それから、長男の家で宴会をしていると、大風がきて、家が倒れると、それから、長男をはじめ、子どもたちはみんな死んじゃうわけです。大風の災害で死んでしまうっていうようなことが続いて起こるわけです。
なぜこんなことが起こるかっていうことは、つまり、神が、悪魔に、いかに信仰が深いかっていうことを言うために、試させたっていうことに、この劇詩っていいますか、『ヨブ記』はできています。
だけど、いっこうに、ヨブのほうでは、納得はしないわけで、つまり、どうしてこういうことを、神が悪魔に語らってさせたんだろうかっていうのは、すこぶる不可解であって、それは、試練を課したんだっていうけど、試練っていったって、それはひど過ぎやしないかっていうことになって、なんでこんな試練ってことが問題になるんだ、意味があるんだってことに、どうしても、ふつうだったら、そういう疑問を生ずるわけです。
ヨブは終いに、やっぱりそう思うわけです。つまり、こんなひどい目に遭って、いったいどうしたことかって言うんだけど、信心深いものですから、自分は裸のまま、母親の体内から生まれたんだと、だから、神が自分に与えたり、また、自分から奪ったりすると、それは、神の意思なんだから、それは、神の名は、ほめたたえられるべきだっていうふうに、ヨブは言って、すこしも不平を申し述べない、篤い信仰を示すわけです。
それでもって、また、悪魔は、財産だったから、まだ信仰を保っているんだけど、もし、ヨブの肉体に手をのばして、肉体を損なうようなことをしたら、あるいは、命を奪うようにしたら、きっと信心をやめるに違いないと、そうすると、神は、それじゃあやってみろっていうふうに、悪魔に言うわけです。
悪魔が、ヨブの頭のてっぺんから、足の裏まで、ひどい皮膚病にかからせるわけです。体中かきむしって、灰をかぶせて、かゆさを止めるみたいにして、見る影もない人間に、たちまちのうちになってしまうわけです。
それで、ヨブの奥さんは、ようするに、こんなひどい目には、何にもしないのに、むしろ信心深い自分たちが、何のあれもしていないのに、こんな目に遭うなら、神を呪って死んだほうがましだっていうふうに、細君のほうは言って、出ていっちゃうわけです。
でも、ヨブは、まだ我慢してっていいますか、信心をやめないで、神から幸福ももらったんだから、不幸も頂戴しようじゃないかっていうふうに、我慢するってことになるわけです。
ところで、あまりに耐えがたい肉体的な苦痛と、皮膚病による苦痛と、それから、財産もなにも全部なくなって、見る影もなくなっちゃった自分っていうのをみて、やっぱり、ひとつは、自分の出生っていいますか、呪うわけです。自分は、母親のお腹から出ないうちに死んじゃったほうがましだったっていうふうに言うわけです。自分を呪うっていうことよりも、自分の出生を呪うところから、ヨブの苦悩がはじまるわけです。
すると、ヨブの仲のいい親友が3人おりまして、3人の親友がやってきて、ヨブを慰めようとするんですけど、あまりのひどさにびっくりしちゃうわけです。それで何が問題なのかっていうと、この3人の親友っていうのは、信仰の信の考え方っていうのと、ヨブの信の考え方は違うわけなんです。3人の親友たちは、こういうことを疑わないわけです。
ようするに、ヨブは、何にも、自分たちは悪いことをどこにもしていないし、信心深くやってきたし、人に対しては慈悲を施してきたし、どこにも悪いことしていないのに、自分はどうしてこんな目に遭うんだろうかっていうふうに、ヨブは言うわけですけど、3人の親友たちの信仰の仕方によれば、神は、絶対に、なにかしら悪いこと、あるいは、罪あることをした者に対してじゃなきゃ、それに対して、悪い報いを与えるってことはありえないんだっていう、そういう信仰の仕方なんです。
この信仰の仕方は、一般的な信仰の仕方だと思います。だから、ヨブがそんな目に遭ったのは、どっかで悪いことをしているんだってことを、3人の友だちは疑わないわけです。ヨブを慰めるんだけど、それは疑わないわけです。人間が神よりも正しいってことはありえないってことは疑ってないわけです。
ですから、神が悪い報いを与えるってことは、ようするに、自分では気がつかないけど、神に対して罪を犯しているんだ、あるいは、何か悪いことをしているんだってことは、どっかにあるんだ。それをようするに、おまえさんが反省しなきゃダメだと、それで、反省すればきっと、神が不幸とか、災厄とか、苦悩とかっていうのを、ヨブから取り去ってくれるだろう。だけど、おまえがそれに気がつかないで、何にも悪いことをしていないし、いいことばっかりしてきたっていうふうに思っているかぎり、それはダメだっていうことを、いろんな言葉ですけど、結局そういうことを、3人が3人とも、縷々申し述べて、ヨブを戒めるわけです。あるいは、ヨブの神に対する呪いみたいなものを緩和しようとするわけです。
ところで、そこが『ヨブ記』の重要なところなんですけど、ヨブは、ようするに、神に対して抗弁するんですけど、絶対に自分は悪いことしていないし、悪くないっていうことについては疑わないんです。だから、あくまでもそれをつっぱって、これをわかってくれなきゃ嘘だっていうふうに、逆に主張するかのように、ヨブは自分の考え方をあらためないし、それから、自分の呪いもあらためないし、それから、自分のほうが間違ってないっていうふうに、もし間違っているとすれば、神のほうが間違っているんじゃないかってことを、最後まで主張してやまないわけです。
その親友との問答っていうのは、二回にわたってあるわけですけど、二回目にもやっぱりおんなじことなんですけど、親友のほうは、いやそうじゃないと、おまえは生意気っていうか、ようするに傲慢であって、神に対して、呪うとか、それから、神のほうが違ってんじゃないかとか、自分はそれだけのおぼえがないんだっていうふうに主張する、そのこと自体が傲慢なのであって、つまり、人間を神よりも上に置こうとする傲慢なのであって、その傲慢を直さないかぎりはダメだっていうことを、また二回目にもういちど言うわけなんです。でも、ヨブも答えが一向変わらないっていうことになるわけです。

5 「もうたくさん、いつまでも生きていたくない」

 ヨブの言葉のなかで、神の言葉より、さきほど、こっちのほうがいいんじゃないかって申し上げましたけど、いくつか抜き書きしてきましたから申し上げてみましょうか。「呵責ない苦痛の中でもだえても、なお、わたしの慰めとなるのは、聖なる方の仰せを覆わなかったことです。」、その覆わなかったっていう訳は、ようするに、覆いをかけなかった、ごまかさなかった、あるいは、それをそのまま受け取って、ちっとも、ごまかしを考えたり、あるいは、ごまかしの主張をしたりしなかった。自分は、神の扱い方は不当だと思うから、それに対して、おかしいんじゃないかっていうふうに呪ってみたり、訴えてみたりしているってことをやめなかったっていう意味だと思います。覆わなかったっていうことがあります。
それから、「あなたは夢をもって、わたしをおののかせ、幻をもって脅かされる。」、これはようするに、ヨブが、夢の中でもなお、神から苦しめられるっていう夢を見ちゃうわけです。そのときに吐く言葉なんですけど、ようするに、夢の中まで、つまり、無意識の中まで入ってきて、自分を虐げるってことを言っているわけです。
「わたしの魂は息を奪われることを願い」、ようするに死んじまいたいって言っているわけです。「世にとどまるよりも死を選ぶ、もうたくさんだ、いくつまでも生きていたくない。」っていうふうに、ヨブはそういうふうに言うわけです。あとでちょっと、神の言葉っていうのもあれしますけど、これだけの言葉っていうのを、神のほうはちっとも吐かないんです。もっとつまらないことを言っているんです。だから、これだけの言葉はないんです。
これは、なにはともあれ、最低限、最大限の不幸っていうのを体験した人間が、信仰がもしあったら、こういうふうに呪う以外にないよっていう、言う以外ないよってことを、少なくとも、ヨブは、縷々、友だちの言い方に対しても、おまえが悪いんだ、おまえが不信心なんだっていう言い方に対しても、そんなことないってことで、同じような言い方をします。神に対しても、そういう言い方をするんです。
その言い方はやっぱり、人間のぎりぎりの不幸とか、苦悩とか、運命のいたずらとか、そういうものに出会った人間が、どうしても吐かざるをえない言葉を吐いています。それは、非常に感銘深いものです。「なぜ、わたしに狙いを定められるのですか。なぜ、わたしを負担とされるのですか。」って、ようするに、神に対して、それを抗弁しているわけです。抗弁する言葉です。
それで、もうすこし、あげてみましょうか、「神は山をも移される。怒りによって山を覆われる。神は大地を揺り動かし、神が禁じれば太陽は昇らず、神は天を広げ、海の高波を砕く、神は北斗やオリオンやすばる、南の星座をつくられた。わたしのほうが正しくても、答えることができず、わたしを裁く方に憐れみを請うだけだ。」っていう言葉を吐きます。いずれもさして変わらないといえば変わらないんですけど、いずれも、ぎりぎりの絶望の言葉を吐くわけです。
それから、ここでヨブの神の認識もそうなんですけど、神は山を移されるとか、怒りによって山を覆われるとか、大地を揺り動かしとか、神が禁じれば太陽は昇らずっていうことは、ようするに、自然の造詣っていうか、天然自然のいろんな動きの背後には、一個の神がいて、それの意思でもってそうしているんだっていう、ようするに、神に対する認識っていうのを、ヨブが持っていることを意味します。この認識は、神自身も後で、自分で言いますから、これは、ユダヤにおけるいちばん初期の神認識っていうのは、自然認識の背後に、自然認識を統一したものっていいますか、統一的に集約したものっていう意味合いに近いかたちで、神っていうのを考えていたことがあります。これは、やっぱり、オリエントの特徴だと思います、
先ほど言いましたように。これは、極東とか、オセアニアとかっていうのはちょっと違います。個々の部分に神がぜんぶ宿っている、それは擬人的に宿っているっていう考え方です。違いますけど、神認識っていうのは、非常に明瞭です。認識は明瞭だし、神の言葉っていうのは出てきますけど、やっぱり、これ以上のことは言っていないんです。
われわれだったら、つまり、われわれの極東、及び、オセアニアの自然認識の伝統を持っているところの人間からいいますと、ようするに、これは自然っていうこととおんなじだよって、自然とおんなじだから、もちろん人間の倫理性っていうものに呵責なく、そういうことと関係なく、自然の変化をきたさせるってことは、当然だよっていうふうに考えると、たいへん考えやすいんです。つまり、そういうふうに言っていまいますと、ちょっと、いやいやっていう名残りが残りますけど、でも、われわれが考える自然っていうものと非常に近いものだっていうふうに考えると、たいへんわかりやすいと思います。
それからまた、自然信仰と考えると、ユダヤ教っていうのは考えやすいと思います。そうするとまた、やりたくない歴史的なぼくらの解釈で、ほんとはやりたくないですけど、今日はやりたくないですけど、そうしますと、この『ヨブ記』っていうのは、自然であるところのユダヤの神っていうものに対して、人倫ですかね、つまり、人間の善悪とか倫理ですけど、人間の人倫を代表するっていいますか、象徴する人物をもってきて、それを教義とすることによって、ユダヤ教を変えようとするところの中途っていいますか、過渡期にあるところで出てきた人物だっていうふうに理解できます。
このヨブっていうのは何なのかって、なんでこんなのが出てきたんだっていうと、ようするに、人間の倫理が自然に近い神に対して、ユダヤの神に対して、人間の倫理性っていうものが、どこまで関係をもてるか、あるいは、どこまでそれと合一できるか、あるいは、対立線があるかっていうこと、どこまで人間の倫理、ヨブが象徴する倫理が、ようするに、ユダヤ的神と、それから、人間の倫理から信仰へ至る過程、信に至る過程というものと、どういうふうな場所で出会えば、いちばんいい信仰のあり方かってことを象徴する最初の人間のように思います。
ですから、たぶん、この『ヨブ記』のヨブをもっと煮詰めていきますと、ようするに、『新約聖書』のキリストってことになると思います。ようするに、むこうが自然神であるならば、こちらっていうのはおかしいですけど、こちらは人間の罪とか悪とかを、一人でぜんぶ背負っちゃうっていう、時間的にも、昔から、これから未来もぜんぶ背負っちゃうっていう人物をひとり設定すればいいわけで、対抗できるっていうのはおかしな言い方ですけど、不信心な言い方ですけど、そういう神にして人みたいな人物がやってくれば、ユダヤ教は変えられるっていうふうになります。
そういう人間の倫理のほうから、ユダヤの神っていうものに、どういうふうに迫れるかとか、どういう仲介っていいますか、媒介っていうものができるかっていうことの、ひとつの象徴として考えれば、『ヨブ記』っていうのは解釈できるんじゃないかなって思います。だけど、これは歴史的解釈で、これは、ぼくらの解釈で、あんまりしたくないわけです。

6 3人の友人とヨブの問答

 信であるか、不信であるか、あるいは、倫理であるか、自然であるかってことの問題として、この『ヨブ記』っていうのを理解していきたいって思います。ヨブの言葉で非常に重要な言葉がありますけど、「神は無垢な者も、逆らう者も、おなじように滅ぼし尽される。」、ようするに、無垢な人、純粋な人も、それから、神に逆らう人もおなじように滅ぼされるんだっていうふうに、ヨブが認識を語るところがあります。
「わたくしは、なお、あの方に言い返したい、あの方とともに裁きの座に出ることができるならば、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁してくれる者がいたら、わたしの上から、あの方の杖を取り払ってくれる者があるだろう。そのときには、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることもなく、わたしは宣言するだろう、わたしは正当に扱われていないと。」っていうふうに言うところがあります。
ここはむずかしくてっていいますか、ぼくらにはよく意味がわからないところなんですけど、内村鑑三は、ここのところで、仲介者っていうか、媒介者っていうか、あるいは、仲保者っていいましょうか、ようするに、キリストのことです。ようするに、仲保者がいてくれたら、わたしの背負っている苦難とか、そういうのをぜんぶ背負ってくれて、そして、神との間を調停してくれるだろうってことを、ヨブが言うわけです。その仲介者っていうのは、内村鑑三の理解によれば、それは、キリストがちゃんと出てくるってことに対する願望と預言とを、ここのところは語ってるんだっていうのが、内村鑑三の解釈の仕方だと思います。
しかし、ぼくらがそういう解釈をとらずに読めば、非常にわかりにくい箇所です。つまり、わたしはあの方にっていう、あの方っていうのは神さまのことです、「わたしはあの方に言い返したいと、あの方とともに裁きの座に出ることができるならば、あの方とわたしの間を調停してくれる者、仲裁する者がいるなら、わたくしの上から、あの方の杖を取り払ってくれる者があるなら、そのときには、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなく、わたしは宣言するであろう。わたしは正当に扱われていないと。」っていう、これはどこでむずかしいかっていうと、やっぱり調停してくれる者、あるいは、仲裁してくれる者っていうふうに、神と自分の間を、神と、罰を与えられて苦しんでいる自分との間を仲介してくれる者がいて、それで、自分の苦悩を、自分が背負って取り払ってくれたら、自分も正々堂々と、自分はあなたから正当に扱われていないというふうに言いたいんだと、あるいは、言えるんだっていうわけです。
だけど、自分はそういう調停してくれる者とか、仲裁する者っていうことを、自分がそうだとも言えないし、言うだけの信仰はないしっていったらいいんでしょうか、自信がないから、そういうふうに言うこともできない。誰かそういう人がいてくれたら、自分は大っぴらに、おれは正当であって、ちっとも悪いことをしていないっていうふうに、神に言うことができるだろうっていうふうに言っているわけです。内村鑑三的解釈は、そういうふうになります。これは、内村鑑三の信仰によるんだろうと思います。信仰による解釈だろうというふうに思います。
だけど、そういうふうに理解しなければ、非常にわかりにくい箇所だと思います。箇所だってことになると思います。「あなたは、手ずからつくられた、このわたしを退けて、あなたに背く者のたくらみには光をあてられる、それでいいのでしょうか。」、やっぱりこれも、ヨブが神に対して、抗議をする言葉です。「逆らおうものなら、わたしは災いを受け、正しくても、頭を上げることができず、辱めに飽き、苦しみを見ています。」っていうふうに訴える。つまり、縷々、ヨブの言うことは全部、そういうふうにいえば、自分に対する呪いと、それから、神に対する抗議っていうものとに満ち満ちているわけです。それをいろんな言葉で言っているんですけど、その言っている言葉が、やっぱり、不幸っていうもののぎりぎりのところから出ているものですから、たいへん感銘の深いっていいましょうか、そしてまた、深みのある言葉っていうふうにも、ヨブの言葉はそれに満ちています。
ヨブが『ヨブ記』のなかで吐いている言葉っていうのはやっぱり、『新約聖書』の福音書のなかのイエスが吐く言葉っていうのと、たいへんよく似ています。また、ぎりぎりのところの罪と罰、それから、善と悪っていうような問題の、倫理の問題のぎりぎりのところから言っているっていう意味合いでも、たいへんよく似ているものになります。
それからまた、感銘に理解ができる。ヨブがそういう言葉を縷々繰り返し、違うところから言い直し、それに対して、二回目にまた、3人の親友がヨブを決めつけるわけです。「神にむかって憤りを介し、そんなことを口にするとは、何事なんだ。」っていうような言葉、あるいは、「人間は正しくない、憎むべき汚れたものだ。」っていうふうに、親友は言うわけです。それで挙げ句に、ようするに、おまえはどっかが汚れているとか、どっかに罪があるとか、どっかに悪いこと、不正をしているから、こんなひどい目に遭っているので、それを悟らずに、神に対して呪いをかけて、呪いの言葉を吐いてっていうのはよくない。けっしてよくないんだ。それだったら神と和解することはできないし、神はいつまでもおまえを罰するだけだっていうふうに親友は言うわけです。
こういうことが繰り返されていると、なんとなく、つまり、われわれが日常生活のなかで、当面しているいろんな場面に似ているわけです。つまり、いいことばっかり言って。おれは正しいと思っているやつっていうのは、いまでも満ち満ちているわけです。
だけど、ほんとうに反省したら、ほんとうにいいことを言っているのかっていう、おまえいいことだと思っているのかっていうふうに問い直したら、ぼくはそうじゃないことがたくさんあると思います。それこそが重要なことなんで、つまり、それを問い直すことが重要なことなので、問い直すことにおいて、あんまりいいことばっかり言って、自分はちっとも傷つかないでいいことばっかり言っている、そういうやつに対して、あくまでも、それは、おまえのはダメなんだっていうことを言うっていうようなことは、現在の課題でもあるわけなんです。
それからまた、みなさんだったら、ようするに、大震災の影響を受けているわけですから、これはちょっと無差別ですから、天然自然ですから、それがもし、ユダヤ教、キリスト教のように、それを背後にあって支配する造化の神っていいましょうか、そういう唯一神っていうのを信仰している人でも、神のあれがどうして関西地区だけにきたんだってことになりますし、また、自然と考えたって、これはちょっと不意打ちじゃないかっていって、何にもなくてもひどい目に遭っているのに、なおさらその上にひどい目に遭わせるっていうのは何事なんだっていうふうに、もし神を信じている人だったら、そういうふうに抗議したいところっていうが、いまでもたくさんあるわけです。
こういうふうにやってきますと、だんだん『ヨブ記』の3人の親友と、ヨブとの問答は、だんだん現実味をおびてくるっていいましょうか、現代味をおびてくるわけなんです。だから、完全に、現代における倫理の問題として、これを読むことができるわけなんです。
ここで重要なのは、あくまでも、ヨブが、おれは間違ったことをしていないっていうふうに、どんなに謙虚に考えても、自分は不正じゃないってことを、恐る恐るですけど、脅かされながらですけど、神に対して抗議することをやめないっていうことは、とても興味深いところですし、『ヨブ記』の特徴でもあります。
それから、3人の親友は、いいことばっかり、おれは信仰しているから神を信じて、おまえは、そういう罰を受けているのは、きっとどっかで隠しているんだけど、ほんとは神に対して罪を犯しているんだとか、不正を犯しているんだっていうふうに、そういうことを親友は主張してやまないわけです。しかし、この信仰のタイプもたくさんあるわけです。現在でも、宗教でもたくさんいます。そういう信仰のタイプっていうのはたくさんあります。

7 ヨブの言葉の深さ

 キルケゴールに言わせると、そこのところは意地悪いですから、キルケゴールは、意地悪い哲学者ですから、そういう意味では、信仰者でありますけど、逆説的な意地悪い哲学者ですから、キルケゴールに言わせると、ようするに、公教会の牧師っていうのは、つまり、神職っていうのは、ようするに、神の意思っていうのを、自分の中にある善なる意思と自分が信じている、ほうとうはそうじゃないかもしれないけど、善なる意思と信じているそれの部分に変えちゃって、それを個人々々に小出しにそれを与えているっていうのが、ようするに、牧師っていうのはそうだと、公教会の牧師っていうのはそうなんだっていう言い方を、キルケゴールは意地悪くやっています。
つまり、そういうのは、3人の親友の、ヨブ、おまえは神を呪ってけしからんって、そういうふうに言っている親友とちょうどおんなじなんだって言っています。しかし、キルケゴールはそうじゃないんだと、ヨブが偉大なのは何かっていったら、やっぱり、あくまでも神に対して、義なる者、つまり、正義なる者も、それから、神を敬う者も、それから、そうじゃない者も、等し並みに災害を与えたり、あるいは逆に、神を敬い、申し分ない信仰の生活をし、それから、現実の生活もしている人間をひどい目に遭わせて、そうじゃない人間をひどい目に遭わせないっていうのは、栄えさせたりするっていうのは、それはおかしいじゃないかっていうことっていうのを、抗議することをやめないっていうこと、それが、ものすごく、ヨブっていう人物を偉大にしているっていうのが、キルケゴールの、この問題についての考え方です。
ヨブは、「わたしは疲れ果てました。わたしの一族を、あなたは圧倒して潰してしまい、破壊してしまいました。神がわたしを餌食にして、怒りをあらわされたので、敵はわたしを憎んで牙をむき、鋭い目を向ける。」、敵っていうのはつまり、強盗したり、あるいは不正をしたりしている人で、信仰のない人って意味なんです。そういうのが略奪したりするわけですけど、その者のほうが栄えちゃって、自分のほうは、気息奄々として疲れ果てて、滅びそうだっていうふうに言っているわけです。
「神は悪を行う者にわたしを引き渡し、神に逆らう者の手にまかせられてしまった。」っていうふうに言っています。
内村鑑三が仲保者っていうことを考え出したところっていうのは、共同訳のやさしい言葉でありますから、それをちょっとおんなじことですけど、読んでみますと、「このようなときにも、天にはわたしのために証人があり、高い天には、わたしを弁護してくださる方がある。わたしのためにとりなす方、わたしの友、神を仰いでわたしの目は涙を流す。人とその友の間を裁くように、神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように、わずかな年月が経てば、わたしは帰らぬ旅路に就くのだから。」っていうふうに訳しています。
ここで、わたしを弁護して、神と自分の間に仲介する男っていうふうに、それで、わたしを保護してくれる者、天に居て自分の証人になってくれる者っていうのは、内村鑑三のいう仲保者っていうことを意味していると理解しています。これは、共同訳の聖書もそういうふうに理解しています。
ここまでいっちゃえば、そういう解釈する以外にないですけど、ここまではっきり言わないならば、なかなかこの仲保者っていう、あるいは、ある男がいて、神と自分との間を取り繕ってくれるだろうっていうふうにヨブがいう、そのある男っていうのはとれないかっていうと、なんにもそういうふうに結び付けないと、ぼくはやっぱりとれないんじゃないかな、だから、非常に曖昧な言葉っていいますか、よくわからない言葉だっていうふうに言っていいと思います。しかし、内村鑑三もそうですけど、キルケゴールもやっぱり、これは一種の救いの仲介者っていうことを意味しているようにとっています。
最後のころに、ヨブの言葉がだんだん切迫してきて、言う言葉がなくなってきて切迫してくるわけです。「目は苦悩にかすみ、手足はどれも影のようだ。正しい人よ、これに驚け。罪のない人よ、神を無視する者に対して奮い立て。」、それから、「それならば知れ、神がわたしに、非道なふるまいをし、わたしの周囲に砦を巡らせている。」っていう、これも神を呪う言葉です。「神はわたしの道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。」っていうふうに言っています。「神はまた、兄弟・親族、自分の身を寄せる男女など、みんなわたしを敵視させてしまった。」っていうふうに言っています。「わたしを憐れんでくれ、神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちは、わたしの友ではないか。」これは友達に文句を言っているわけです。「なぜ、あなたたちまで神といっしょになって、わたしを追い詰めるのか、肉を打つだけでは足りないのか。」っていうふうに、これは、3人の友だちのひとりに対して、そういう言い方をしています。つまり、ほとんど、神に対しても、友だちに対しても、ぜんぶ抗議の言葉と、呪いの言葉っていうのを吐く以外にもう場所がないっていうところで、ヨブはそういう言葉を、絶望の言葉なんですけど、それを吐くわけです。
この絶望の言葉を、もし、深いと考えるならば、やっぱり、ヨブの絶望の言葉のほうが、神の言葉よりもずっと深いってことになると思います。これは、信仰のない者とか、信仰の薄い者にとっては、とても重要な言葉っていうふうに思います。
そうじゃない人間、信仰のある人にとっては、この絶望の言葉はやっぱり、『新約聖書』の福音書につながってくる、あるいは、福音書の主人公につながっていくんだっていう理解に、どうしてもなっていくと思います。あるいは、そういうふうにつくられているっていうふうに理解すれば、つくられていると思います。『ヨブ記』はそういうふうにつくられていると思います。

8 ヨブの苦悩に答えない神

 ヨブのそういう絶望の言葉に対して、神がいう言葉があるわけですけど、それを申し上げてみましょう。つまり、なぜ、自然に似てるって、ぼくらが思うかってことなんですけど、神は、自分を呪うヨブに対して言うわけですけど、「おまえは何者なんだ。知識もないのに言葉を重ねて、神の大きな業を暗くするとは、どういう男なんだ。」っていうふうに、はじめに言って、「自分は、おまえに尋ねるけど、わたしの言うことに答えてみろ。」って言って、神が言うことがあります。それは、ぼくはやっぱり自然だと思います。「この地上に大地を据えたのは自分だ。朝日や曙に役割を指示したのもわたしだ。おまえは海の湧き出るところまで行き、深い縁を巡ったことがあるか、そういうことはおまえはできるか、わたしはそれはできるし、わたしがやったんだ。死の闇とか、死の門をつくったのも、わたしだし、それを見たのもわたしだ。見れるところに行ったのもわたしだ。光がどこにあるかっていうことを指し示せるのもわたしだ。冬だったら雪がどこから降ってくるか、あるいは、霰がどこから落ちてくるかっていうことを知っているし、また、それをさせているのは自分である。それからみんな、風がどういう道を通って吹くのか、あるいは、豪雨がどういう水路をつくるか、稲妻がどうやって落ちてくるかっていうのも、自分のなせる業なんだ。」、ヨブに、「おまえはそういうことはできるか、できないだろう。」ってことを言っているわけです。これは、先ほど出てきましたけど、「すばるとか、オリオンとか、そういう星座も自分がつくったんだ、それから、天の法則も自分がつくった、洪水を起こすのも、それから、鳥たちをさえずらせるのも自分だ。」っていう、つまり、動物から植物まで全部、全能者である自分がこしらえたし、自分が動かせるんだ。「全能者とおまえは言い争うけれど、引き下がる気はあるのか、神を責め立てるものよ答えるがいい。」っていうふうに言うわけです。
神がヨブに、自分の全能さ、あるいは、天然自然をどこまでも動かせるのは自分だっていうことを言うわけです。おまえにはそれはできないだろうって言うわけです。そうすると、ぼくらがもし『ヨブ記』を、ヨブを中心にして読むとすれば、神の言葉っていうのは、とてもつまらなく見えます。つまり、なにも答えてないじゃないか、自慢しているだけじゃないか、自分は天地、天然自然をぜんぶ動かせるんだぞっていう自慢をしているだけで、ちっともヨブの苦悩に対して答えてないじゃないかっていうふうに思えるわけです。
これに対してヨブは、人間的倫理として、最極端の極度の苦悩と、惨めさのなかに陥れられて、そこでもってぎりぎりの言葉を神に対して吐いて、それが呪いになったり、抗議になったりしてるんですけど、その抗議とか、呪いとかが持っている深い倫理性っていうのは、やっぱり非常に優れたものだっていうふうに受け取れるわけです。ヨブを中心にして読めばそうなります。
それに比べたら、神っていうのは何も答えていないじゃないか、ただ自分は偉いんだよっていうふうに言っているだけじゃないか、人間はつまらないものだよ、それに比べたらって言ってるだけだってことになるわけです。しかし、これは、違う読み方をすれば、神っていうのは、天然自然っていうことを統一的なところにもっていったところで出てくる神の概念であって、天然自然っていうことと、ほとんど同じことを意味しているんじゃないかってことになります。
そうすると、これはやっぱり、天然自然ですから、なんら人間の倫理に従うわけでもなんでもないわけで、また、答えるわけでもなんでもない。そういう神を信じていたユダヤ教の終末期において、やっぱり、人間的倫理とは何なんだ。それは、どこまで重要な問題に迫れるのか、あるいは、自然がこうしたとか、誰がこうしたとか、神がこうしたんだっていうようなことに、どこまで抗弁できるのか、抗議できるのか、あるいは、人間的倫理のほうが優位なんだっていうことを主張できるのかっていうような意味合いの信仰のあり方っていうのは、たぶん、だんだんユダヤの歴史の中で出てきたっていうところで、このヨブっていうのは、それを象徴する人物のひとりだって考えれば、たいへん考えやすいと思います。それが、だいたい『新約聖書』の主人公のところで、もっと凝縮したかたちで出てくるんだと解釈すれば、解釈できるんじゃないかと思います。

9 不可解なヨブの和解

 そのあとで結局、そこもまたドラマとして出来が悪いといえば出来が悪いんですけど、そういうふうに神が自慢して、ヨブは「わかりました。」って言うわけです、神に対して。「あなたの全能性はよくわかった。」っていうふうに言っちゃうわけです。
そこが不可解なところなんですけど、つまり、「自分は山を移したり、雷を落としたり、そういうことができる人間なんだ。」とか、「夜をつくったり、昼をつくったりできる人間なんだ。」って、神が言ったので、どうしてヨブが恐れ入っちゃったのか、すこぶるよくわからないところです。しかし、そこからすぐあとで、ヨブの言葉は、「よくわかりました、あなたのおっしゃることはよくわかりました。」っていう言い方になっていって、不思議なことにそうなっていくってこと。
もうひとつは、神はヨブのほうを罰するかっていうと、そうじゃなくて、3人の親友のほう、つまり、「おれは神をこういうふうに信じていると、それで、おまえがひどい目に遭っているのは、どっかで悪いことをしているからだと、神はいいことをした人間にはいい報いを与える、悪いことをした人間には悪い報いを与える。そういう全能の人なので、おまえさんはきっと悪いことをしているんだ。」っていうふうに主張してきた。むしろ神のほうに言葉がすぎるって言った3人の親友のほうに批判を与えるわけです。
「おまえは、ヨブのところへ行って、生贄を捧げて、ヨブに祈ってもらって、それで、神の許しを請うがいい。」なんてことになってきて、かえって神のほうをほめそやした親友のほうが、神に批判され、罰せられるみたいな、そういうふうになっていって、ヨブは元の財産より二倍も回復するっていうような、そういうことになって『ヨブ記』が終わります。
そこもまた、たいへん不可解なところで、どうしてヨブが、こんなつまらないことを言われて、あっさり兜を脱いじゃったんだろうかっていうのは、よくわからないところです。
つまり、これは、なぜわからないかっていいますと、たぶん、唯一神って、キリスト教、及び、ユダヤ教のオリエントにおける自然神だと思いますけど、唯一神っていう考え方、それで、唯一神があらゆるものをつくったっていう考え方、つまり、人間もつくったし、動物、植物もつくったし、天然自然のものもつくったっていう、その考え方が、オリエントから西欧にいったわけですけど、西欧とかの信仰として、そういう唯一神の信仰っていうのは、どれくらい食い込んでいるのかっていうことが、ぼくらにはわかりませんから、そういう信仰がありませんし、信仰がある人はわかるかもしれませんけど、ぼくらには信仰がありませんし、ちょっとそれがわかりにくいんです。だから、こんなんで和解するのはおかしいじゃないかっていうふうに、どうしても思えてしまいます。
ヨブはこんなことで、いままで苦悩のありったけを打ち出して、ありったけの呪いの言葉と、それから、抗議の言葉を神に対して吐いていた人間が、「おれはこんなふうに偉いんだぞ、おまえなんかこれはできないだろう。」って言われて、「はい、わかりました。」って言うのはおかしいじゃないかと思うんですけど、たぶん、唯一神っていう考え方が、どのくらいの重さを、オリエント、西欧にとって、どのくらいの重さをもっているのかってことが、ぼくらにはよくわからない。頭の中で想像はできますけど、よくわからないからだと思います。これは、唐突にいえるんだと思います。
でも、とりあえず、それで和解します。和解してしまって、ヨブのほうは報いを受けます。むしろ、3人の友だち、つまり、神を崇めて、それに対して、おまえは神をないがしろにしてるからダメなんだって、ヨブに言ったほうのほうが、ようするに、神から批判され、罰せられっていうようなふうに、終わりはそういうふうになってきます。
それも、とてもわかりにくいところです。もしその考えが、人工的でないとすれば、とてもわれわれにはわかりにくいところです。でも、それはもっともなので、ぼくらも、ヨブのほうが、この友だちが言っていることよりも、ヨブのほうが正しいっていいますか、ヨブのほうがちゃんとしたことを言っているっていうふうに、ぼくは思います。
神を呪うのはよくないって言ってるだけじゃないか、しかし、ヨブは神を呪う言葉を言っていて、一見すると、神を冒涜しているようにみえるけど、しかし、そうじゃないと、人間の信っていうものと、それから、倫理っていうものとを最大限に結び付けようとしているのは、これは、ヨブのほうであって、ありきたりの宗教的理念で、神は人間がいいことをすれば、いい報いをするよ、悪いことをすれば悪い報いをするよっていう考え方のほうがつまらないと思います。
つまり、ぼくらはそう思いますけど、しかし、一般的にいえば、そういう考え方が多いわけです。つまり、ぼくらが知っている日本の宗教家でいえば、親鸞っていうのが唯一、それをひっくり返しました。ひっくり返した言葉でいいました。「善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや」っていう、悪人のほうが往生しやすいって意味になりますけど、そういうことを言ったのは、親鸞だけです。宗教家として、親鸞だけだと思います、日本では。そのほうが、ぼくは正しいと思います。
これも、ヨブのほうが正しいので、友だちのほうが正しくないっていうのは、ごもっともっていうふうに思いますけど、もっともだって同意しますけど、神の言葉よりも、ぼくは、ヨブの言葉のほうが優位だっていうふうに、ぼくはそう思います。
このユダヤ教の神の言葉っていうのは、いってみれば、自然の言葉、あるいは、天然自然のことを、統一的に神っていうふうに言っているので、これでもって、人間の倫理性っていうのと、どこで接触しようとしたり、どこでこれを克服させようとしたりしたら、そんなことはできるわけないよっていうふうに、いってみれば、人間も自然の一部分だっていう理解をすれば、人間の正義とか、そういうのも、自然の一部分だと理解すれば、それはそれでもいいんですけど、それでは、接触点がないよってことになると思います。
ですから、『ヨブ記』のなかの神の言葉より、ヨブの言葉のほうがいいっていうふうに、優れているっていうふうな読み方を、ぼくはそういう読み方をします。また、ヨブと友だちの信仰についての言い方をすれば、ヨブの言葉のほうが、はるかに優位だっていうふうに、ぼくはそういう理解の仕方をします。
ここのところで、『ヨブ記』の読み方の、ぼくらの概略っていうのは、そういうところで尽きるわけなんです。もし時間がありましたら、重要な、キルケゴールとか、内村鑑三とかの、『ヨブ記』に対する考え方っていうのを申し上げてみます。

10 「反復」という概念

 キルケゴールが『反復』っていう哲学書の中で、『ヨブ記』に触れているわけですけど、『ヨブ記』のどこが重要だっていうふうに考えるかっていうことを、自分流の言葉でいいますと、まず、『ヨブ記』を、キルケゴールは、ヨブの行いと主張を中心に『ヨブ記』を読んでいます。ですから、ヨブと友だちの問答では、ヨブのほうが正しいんだっていう読み方、優れている、偉大なんだっていうふうな読み方をしていることは確かなんです。
キルケゴールは、そこを言いたいところなんでしょうけど、なぜ「反復」なんだ、「反復」とは何なんだってこと、それから、『ヨブ記』はなぜ「反復」なんだっていうことなんですけど、つまり、どういうことをキルケゴールは言いたいかっていうと、人間は、過去をさかのぼる、自分のことでも、歴史でもいいんですけど、過去をさかのぼるときには、追憶とか、記憶とかっていうのによってさかのぼる。で、未来を夢見るときには、夢見る創造とか、予言とか、予想とかっていうもので、未来が見えると、しかし、ほんとうの過去のさかのぼり方と、未来の見方っていうのは、そうじゃないんじゃないかっていうことを、そうじゃないんだっていうことを、キルケゴールは言いたいわけです。
じゃあ何だっていうと、それは「反復」っていうことが重要なんだ。つまり、今日行ったことを、あるいは、今日の生活でやったことを、また明日も繰り返す。で、あさっても繰り返すっていうふうになって、その繰り返しながら、記憶に残ることもありますし、未来に願望したいこともあって、未来がこうなったらいいなって願望することも、そのなかであるわけです、人間には。
だけど、キルケゴールに言わせれば、そういう過去をさかのぼって、追憶してみたり、記憶してみたりっていうこととか、あるいは、未来をこうあったらいいなっていう願望を交えて、未来を夢見たりすることよりも、毎日のように繰り返されることのほうが重要なのであって、そのことが重要なんだ。
この「反復」っていう概念こそが、ヘーゲル、つまり、ドイツ流にいわせれば、「媒介」っていう概念がありますけど、「媒介」っていう概念とおんなじことを意味しているんだっていうふうに、キルケゴールは言います。
だから、「反復」っていうのは、ようするに、今日も繰り返し、明日も繰り返し、『ヨブ記』でいえば、ヨブがはじめは豊かに富んでいて、幸福だったんだけど、悪魔と神との合議による試みによって、めちゃくちゃに苦悩にさいなまれて、めちゃくちゃにひどい目に遭って、それで最後に、もとの姿を回復し、そして、元よりも二倍して幸福になったっていうふうに、『ヨブ記』は言っていますけど、その、またおんなじところにヨブが還ってきたっていう、そのことこそが「反復」なんだっていうふうに言っています。
なぜ、それが重要かっていうと、われわれ人間っていうのは、未来を考えるとき、夢見がちであって、願望によって夢を見がちである。それから、過去をさかのぼるときには、いい記憶、心に残る追憶を追憶することによって、過去をさかのぼっていくことをやりがちであると、しかし、それは違うんだと、むしろ、未来を見るときに、追憶で見たほうがいいんです。追憶を後ろ返しにして見たほうがいいんだ。むしろ、未来を、願望とか、あこがれで見ないほうがいいんだ。むしろ、「反復」っていうことで見たほうがいいんだ。
それから、過去に対しても、追憶で見ないで、予想っていいますか、予言っていいますか、予想でもって過去を見たほうがいいんだっていうのが、キルケゴールの「反復」っていう主張なわけです。反復することが重要なんだ。
そうすると、どうしてキルケゴールが、『ヨブ記』を非常に主要なものとして取り上げたかっていいますと、いま言いましたように、『ヨブ記』のなかに、幸福だったものが、不幸のどん底に落ちていって、さまざまなことが起こって、そしてまた、もとの幸福っていうところに戻っていく、この反復っていうものの仕方っていうのに、人間の生っていいますか、生きる生き方の典型っていうのが、ちゃんとここで見込まれているっていうのがキルケゴールの解釈です。
これこそが重要なんで、これがなければ、ぜんぶ信仰はあこがれになっちゃうし、それから、過去のいいこと、悪いことっていうのは、みんな美化された追憶になっちゃうしってことになって、ちっとも人間の益するところがないと、また、信仰っていうのを考えても、信仰をえてしてロマンチシズムにしてしまったり、それから、過去のできごとの、仏教的にいえば因果ですけど、因果応報の問題にしてしまったりしちゃうっていうのも、それもよくないんだ。信仰とはやっぱり反復なんだ。反復して考えが、反復して出てくるもの、反復して補えるものっていうのが、信仰の中でいちばん重要なんだっていうことを言いたいわけです。

11 キルケゴールの個人的体験

 さらにもっと言いたいことを申しますと、きっとこの『反復』のなかには、自分の個人的な体験っていうのが含まれているわけです。個人的な体験っていうのは、それは、いまは伝説になっているから、非常に知られていることなんですけど、キルケゴールっていうのは、婚約者と婚約するわけです。それで、うまくいきそうになって非常に親密になりかけると、いやになっちゃうわけです。
つまり、親密になりかけると、あとこれ以上親密になって結婚しちゃったら、あと反復だけしかないっていうふうに、たぶん、キルケゴールはそう思えたんだと思います。だから、いやになっちゃうわけです、そこで。せっかく、婚約するまでは、相手の女の人を口説いて口説いて、相手の人が承知して、ほんとに結婚する寸前までそういうふうにいくと、キルケゴールっていうのはいやになっちゃうんです。女の人がいやになっちゃうんです。
そのいやになっちゃうっていうのは何かっていえば、「反復」の解釈でいえば、あとは反復だけじゃないかってことを、きっと考えちゃうんだと思います。つまり、予想しちゃうんじゃないかと思います。
それだから、もういやになっちゃうなっていうふうに、なっちゃうんじゃないでしょうか。つまり、これからも、自分の欠点も、相手の女の人の欠点も、日々毎日のように見て、もさもさしながら暮らしていくっていうのは、ほんとにいやになっちゃうっていうのが、キルケゴールはそうだとぼくは解釈します。
そういう自分の体験があって、これはいかんっていうのだと思います。キルケゴールは、おれはダメだった、間違っていたっていうことと、それから、なにが重要なのかっていうことが、すこしわかったぞっていうところが、この「反復」の意味、「反復」っていうことを重要だとみたキルケゴールの体験的意味だと思います。
それから、『ヨブ記』っていうのは、ほんとに、キルケゴールの、ほんとは飽きてしまうっていうことっていうのを、それから、ヨブがもし、神から試練を受けたんだっていうふうに解釈するとすれば、その試練とは何かっていうことに対して、あるいは、試練に耐えるってことは何なのか、それは、反復だけだよってことだと思います。反復によってだけ耐えられるんだってことだと思います。そういうふうに考えたりして、自分の個人的体験と、それから、『ヨブ記』に対する解釈と、それから、キルケゴールっていうのは、体系的な考え方が嫌いで、体系を崩すことばっかり考えた哲学者ですから、ヘーゲルに対するアンチテーゼなんですけど、対しておもしろくないっていう、おれは全然あれしないぞってことで、弁証法的な反復よりも、おれの言う反復、つまり、未来とか、過去とかいう時間性に対して、なんら夢とか、空想とかっていうのを交えないで、過去を見て、未来を見るっていうことできるっていうのが、自分にとっての反復なんだっていうふうに、自分の哲学的な考え方をつくっていったと思います。そこに、『ヨブ記』が典型的に入ってきたんだと思います。
それから、そういうふうにいいますと、キルケゴールって人も、個人的にいいますと、たいへん、これは、ふつうの人からみると馬鹿馬鹿しいわけです。馬鹿馬鹿しいっていうのはおかしいですけど、ふつうの人以下なんですよ、ようするに。ふつうの人で、自分がせっかく女の人を好きになって、それで、やっと承知して、自分と一緒になってくれるみたいになってから、途端にいやになっちゃうっていう、そういうアホらしい話はないでしょっていうふうにいえば、ふつうの人以下なわけです。
ふつうの人は誰でもそういうことはやるし、誰でも結婚して、毎日、来る日も来る日も、さして変わり映えしない日を生涯おくるわけなんで、それを人間の生っていうふうに言う以外にないじゃないかっていうふうに、どうしてもなるわけです。なりながら、おもしろくないなと思いながら、やっぱりそれ以外にないんだっていうふうに、それがふつうの人の生涯ってことになるのですけど。それが、キルケゴールは、そういうふうになれないわけです。
なれないで、そういう女性に対して、典型的にそうですけど、反復っていうのが苦しくてしょうがないわけです。だから、なおさら、それを哲学の問題にして、自分の考え方の弱点っていうのを補えていったっていうか、鍛えていったってことになるんだろうと思います。
この種の人っていうのは、もうひとり、ぼくらの知っている人がいます。それは、フランツ・カフカっていう、ユダヤの文学者がいますけど、この人はやっぱりおんなじです。ごくふつうに一緒になれるはずなのになって思えるときに、二律背反で、いやになっちゃうんです。そういう人です。
これは、なぜ、そういうふうになるかってことは、パターンとしていえば、非常にわかりやすいことなんですけど、しかし、この弱点はふつうの人以下の弱点なんですけど、しかし、その弱点が、哲学を生んだり、文学を生んだりして、われわれはそこからたくさんのことを得たりしているわけだから、いいじゃないのっていえば、いいじゃないのなんですけど。

12 二律背反の彼方にある精神の領域-ヴェーユの考え

 どこかでやっぱり、いつでも人間っていうのは、ぎりぎり追い詰められると、どこかで岐路に立つわけです。キルケゴール的にいくのか、非日常的で、きわどいし、苦悩に満ちているし、それから、ひどい目に遭うかもしれない。そういう問題を、自分の生涯の重点に置くか、それとも、繰り返し反復される、外から見ると、なんら涙することのない、そういう生涯のほうに、自分の重点を置くかっていう、二律背反っていいましょうか、その岐路っていうのは、たえず自分の中に持っていざるをえないわけです。
それを持つまいとするならば、考えなければいいわけです。考えなければいいし、信仰なんてもたなければいいし、また不信をもたなければいいわけです。考えなくて済みますけど。たいていの人は、無意識のうちに、あるいは、意識的にどちらの重点にするかっていうことを、たえず考えさせられちゃっている。ぎりぎりになれば、人間っていうのは、どちらかを考えさせられながら、決めかねながら生涯をおくるっていうのが、だいたいふつうの人の生き方なんで、ふつうの人の生き方は、えてして、特殊な人の中では、非常に極端にあらわれたり、それから、どちらかに偏ってあらわれたりします。
しかし、そのことは、こちらに偏ったからいいとか、こちらに偏ったからいいとかいう問題じゃなくて、たえず人間は、そのふたつの岐路のなかに生きてるってことがいえると、ぼくは思います。
たとえば、受験生なら受験生をみましても、たえず勉強しながら、3月には試験があって、おれは東大へいくか、じゃなければこれでもって、どっかに職人さんとして勤めようかっていうようなことが、たえず自分のなかにあると思います。どちらかにいこうかっていう、もうおれはこちらにしちゃおうかとか、浪人してもなんでもこっちにいくんだっていうふうにしちゃうか、どちらにしようかってことに、たとえば、受験生でもたえず、そういう岐路に立つわけです。
そういう岐路っていうのは、人間のなかに避けがたいわけで、その岐路っていうのを、キルケゴールなんか極端な人ですから、できなかったんです。できなかったその体験を踏まえて、しかし、この「反復」こそが、重要な問題なんだ。信仰の問題でもあるし、また、生きる問題でもあるって考えたわけです。
もし、二律背反の岐路っていうのを、われわれが避けようと思うならば、ひとつだけ、避けようと思った人がいるわけです。ぼくらが知りえている人で、ぼくは好きな人ですけど、シモーヌ・ヴェイユっていう、フランスの女の哲学者がいますけど、この人はちょっと避けようとしたけど、どう避けようとしたかっていうと、これは、ぼくなりの解釈でそう言って、当たってるかどうか知りません。
つまり、非日常的なきわどい、それからまた、偉大な嵐みたいな、そういうところにたまたま出会う、そのことを自分の重要な問題としようか、あるいは、そうじゃなくて、反復される日常っていう生活を自分の生涯の重要なものとするか、その岐路に立ったとき、そういう岐路をやめるっていいますか、岐路を超える道っていうのはなんだろうかっていうふうに、ヴェーユとしても考えたと思います。
どう考えたかっていうと、偉大な嵐にぶつかった人であろうと、そうでない人も、いってみれば、時間の中で、過去とか、未来とか、そういう歴史的な時間の中で、あるいは、生涯の時間の中で、もがいたり、安心したり、楽しんだりして、生涯をおくるんだと、しかし、そういう偉大な人、偉大でないごくふつうな人っていいましょうか、生活を反復している人、そういう人たちの精神の領域のもうひとつむこうのほうに、ひとつ精神の領域がある。
それは、無名の精神の領域であって、真に偉大な者っていうのは、そこに精神の置き場所を置くんだっていうふうに、ヴェーユっていうのは考えたわけで、もちろんそれは無名の場所であって、無名の人だから、誰も、どの人がそうなんだっていうと、なかなか言うに言えないし、証拠も何もないと、しかし、人間にとって真に偉大な者っていうのはあるとすれば、そういうふつう言われている、嵐みたいな偉大な人、ヨブみたいな人ですけど、そういう人とか、そうじゃなくて、繰り返し反復しながら生涯をおくっている、そういう人とかのいる領域と、精神の領域と違う、むこうのほうに、真に偉大な領域があって、そこは無名の領域で、外からは誰がそうなのか、それがどうなのかわからない。でも、それは真に偉大なので、そこに精神を置くんだっていうふうに言っていると、ぼくは理解します。
その問題は、やっぱり人間にとって、たいへんな問題だとぼくは思いますけど、キルケゴールは、ヨブを中心にして、体験的にいえば、自分ができなかったことを、弱点を、掘りに掘ったっていうふうにいうことができると思います。掘りに掘って、やっぱり、「反復」っていう概念を、自分の哲学の主要な概念として、つくりだしたと思います。

13 試練とは何か-キルケゴールの「試練学」

 それからもうひとつ、あえていいますと、これは、なかなか内村鑑三なんかもそうなんですけど、嫌な言い方で、言いにくいんですけど、人間の受け取る苦難っていいますか、人間はどうして苦しむのかって、あるいは、苦しまざるをえないのかっていうことに対して、苦しみには3つあるって、内村鑑三は言っているんです。
ひとつは、罪を犯した結果だと、つまり、フィジカルないしメタフィジカルな罪を犯した結果として、苦しみっていうのは起こると、それから、もうひとつはやっぱり、神から受ける懲罰みたいなものとしての苦難っていうのが起こるっていうふうに言ってるんです。これは、非宗教的な人には、あんまりピンとこないだろうけど、宗教的な信仰をもっている人にはピンとくるんじゃないのかっていうふうに思います。
で、もうひとつあると、それは、信仰の深さっていいますか、度合いっていいますか、それがどのくらいかってことを神が試みるために、試練としての苦難っていうのがあると、それで、ヨブっていうのが体験したのは、この試練としての苦難なんだっていうふうに、内村鑑三は言っています。
しかし、この「試練」っていうのは、なかなかおもしろくない言葉だとぼくは思います。試練じゃないと思います。これは不信仰の人間だからそういうふうに、これを試練の劇として、ぼくは読まないで、倫理と自然との対決の場所っていいますか、また倫理についても、信仰的倫理っていうのと、そうじゃなくて、人間的倫理のほうから、それを拡大していって、信仰に到達したっていうような倫理と、それから、神はいいことしたらいい報いをするみたいに、はじめから考えている信仰と、それから、ヨブみたいな信仰はそうじゃないんだと、そういうこととの三つ巴の一種の葛藤っていいましょうか、ヨブを中心とした葛藤の詩劇として読むのが、ぼくはいいんじゃないかと思います。
もし、これを試練として読むってなっていくと、ちょっとそれは、読み過ぎじゃないですかっていうふうに、ぼくはなるような気がします。でも、信仰のある人はそういうふうに、内村鑑三なんかはそういうふうに読んでいます。ヨブは試練としての苦難を受けたんだっていうふうに言っています。
そうすると、ぼくらはそういうふうに読めなくて、やっぱり、自然っていうものと、倫理、あるいは、人倫っていうものと、信仰っていうものとの、三つ巴のあり方、また、葛藤、対立の仕方っていうのを、ひとつのヨブを中心としたドラマにしてあるっていうふうに読めるわけです。
ただ、ようするに、キルケゴールっていうのは、試練って、試みられるってことですけど、キルケゴールがやっぱり、優秀だな、偉大だなと思うのは、内村鑑三がそういうふうに、人間の苦難には3種類あってなんて言われると、そうかなって、そんなにあれかなって、『ヨブ記』の中のヨブの受難っていうのに、それは神から受けた試練として読めるかなっていうふうに、ちょっと疑問を生じてきますけど、キルケゴールは、その疑問から3種類あるんだみたいなことを言わないわけです。
近いことを言うわけですけど、試練を「試練」という学問があると、むしろ、試練っていうものを、ふつう、ああ試みられたとか、ひでえ目に遭ったとかっていう意味合いにとらないで、試練っていう学問がありえるかどうかっていう問いにしているわけなんです。そこはやっぱり、キルケゴールっていうのは、偉大な人だなっていうふうに、ぼくらは思います。つまり、試練学っていうのを、誰かがつくればいいと思いますし、試練学会っていうのをつくればいい(会場笑)、試練学っていう、つまり、試練は学問になるかどうかっていう問いを発しているわけです。キルケゴールは、結局そこまでやっちゃうわけです。
試練学っていうのは成り立つか、唯一成り立つところがある。それは何かっていったら、つまり、倫理を課するものが、ようするに、無限のむこうからやってくるっていうことが、試練学のひとつの前提になると、それから、もうひとつの前提っていうのは何かっていったら、かならず、個人に訪れることだっていうふうに言ってるわけです。あるいは、もっと言いたいのは、きっと個人の内面を訪れるって言いたいんじゃないかなと思いますけど。
ようするに、試練学っていうのが、成り立つとすれば、無限のむこうのほうからやってきて、ちょっと根本のところはよくわからないけど、無限のむこうからやってきて、それで、なにかを人間に強いると、もちろん、倫理を強いるわけで、あるいは、おまえはどうするかっていう試みを課せられるってことでしょうけど、そういうものを人間に課せられるってことと、それから、かならずそれは、個人を訪れるっていう、そのふたつの条件を前提とすれば、一種の試練学っていうのが、成り立つんだっていうふうに、キルケゴールは、そういう言い方に近いことを言っています。
つまり、それは学にしちゃえばいいんだ。学問にしちゃったほうがいいんだ。つまり、客観的にしちゃったほうがいいんだっていうふうに、そこが徹底的にいうならば、やっぱり試練っていう概念を無限に掘るっていうことになります。
内村鑑三的にいうなら、あいつ、ひでえ目に遭ってるのは、それはおまえ試練なんだよ、しょうがねえじゃないかっていうことになっちゃうわけです。それで、冗談じゃねえよ、試練もへちまもねえよっていうふうに反発する以外にないってなっちゃうわけです。そうすると、両方とも薄っぺらくなっちゃうんで、つまらないんです。つまらなくなっちゃうんです。
つまらない次元になって、われわれはしょっちゅう、日常それを繰り返しているじゃないですか、そういうつまらないことを、繰り返しているわけですけど、そういうふうになっちゃうと、だけど、キルケゴールは、一種の試練学っていうのが成り立つし、試練学っていうふうに、試練っていう概念を、もっと試みっていう概念、つまり、自分より徹底的に優位なものからやってくるとしか理解できないような、そういう倫理的決断を強いる、そういうものっていうのを試練というならば、その試練を学にしちゃえばいいんだ。学として成り立たせればいいんだっていうところへ、キルケゴールはそこのところへいっちゃいます。
だから、ぼくは、内村鑑三は、心情的、あるいは、情念的な概念の多いところで止めてしまっている試練っていう概念を、キルケゴールは一種の学という概念に近いところまでもっていっているというふうに思います。
それは、「反復」とかいう概念に言葉を直していますけど、彼が「反復」といっているものは、一種の試練学っていいますか、試練を倫理的に掘ることによって出てきた概念なんです。だから、キルケゴールっていうのは、ぼくは、とても偉大な人だな、ぼくらにはちょっと、信と不信を、両方をあれしても、あの人のやっている、考えているレベルのところで、この『ヨブ記』の問題を考えることは、ちょっとぼくらにはできないなっていうふうに、そこに行きたいものだなって願望するだけで、ちょっとわれわれのあれをすることができないなっていう感じになります。

14 内村鑑三の偉大さ

 この内村鑑三っていうのは、ぼくは偉大だと思います。『ヨブ記の研究』もそうですけど、この人の書いたものっていうのは、言ったものもそうなんでしょうけど、情念っていうものも含めていえば、すごく大きいんです。情念の動きっていうのが大きいんです。これは、仕方がないくらい大きいです。
もし、論理的に追及していくならば、内村鑑三の『ヨブ記の研究』もそうでしょうけど、聖書の研究とか、解釈っていうのは、いくらでも、異論を唱えることも、穴をあけることもできると思います。でも、この人のもっている心情の大きさっていうことと、それから、倫理の理解の仕方っていいましょうか、『ヨブ記』なんかに、大きく目をつける目のつけ方っていうのに、それはよく出ているんですけど。かならずしも、ヨブは言いようもなく、おれは正しいって、神に逆らうわけです。あくまで、抗弁するわけです。遠慮しながら、抗弁するんです。そういうことは、信仰ある人から、こういうのはダメなんだよって言われれば、常識的に成り立つでしょうけど、内村鑑三はやっぱり、こういうことっていうのは、よくわかる人なんです。
これは、植村正久なんかに比べたら、格段に優秀だと、ぼくは思います。植村さんって人は、やっぱり、いいことしたら、いい報いがある。悪いことをしたら、悪い報いがあるって、こういうふうになっているわけです。
これは、日本の仏教でもおんなじです。中世仏教でもおんなじです。源信とか、つまり、法然っていうところまでは、まだ、ふっ切れないで、南無阿弥陀仏、つまり、信仰っていうのは、念仏だけでいいんだけど、いい行いをするってことは、助けになるよっていう、助行としてはいいことだぞっていうふうに言ってるわけです。
そうすると、なんとなく馬鹿にされたような気がしてしょうがないですけど、親鸞は、いちども言わないんです、そういう馬鹿なことってことはないですけど、ちょろいことはいちども言わないんです。反対のことなら言います。ようするに、善人が往生するなら、悪人ならなおさら往生するとか言ってみたり、おれは、どういうふうにふるまったって、おれはどうせ、地獄がおれの住処だって、ちゃんと言うわけです。
そういうことについて、日常の反復のなかに、倫理っていうものを潜り込ませちゃって、ひとりでにカクテルにしちゃって、これでいいっていうようなことを言うって、曖昧なる概念っていうのは、みんなすっ飛ばしちゃってるわけです。
やっぱり、悪とか、善とかっていうのを言うならば、非日常的な嵐っていうところまで、ちゃんと言えて、それを言わなくちゃダメだよっていうところまでは、ちゃんといくわけです。いいことしようとか、坊主の修行しようなんていうふうに考えたらダメですよっていうふうに、浄土へはいけませんよっていうふうに、親鸞はそういうふうに言うわけです。そこまで言うわけです。
そこでも、非日常的な嵐っていうのと、善悪の嵐っていうものと、そうじゃなくて、これは善悪というよりも、習俗とか、習慣とか言ったほうがいいような、そういう問題の次元に、善悪の問題を押し込めてしまうみたいなことは、一切しないです。
法然も、そういうことを、浄土宗のお寺の門前の中に、黒い、黒板みたいなのが、札みたいなのがあって、そこに白いペンキみたいな、絵の具みたいなのがあるじゃないですか、教訓に満ちた歌みたいなのが書いてある。法然なんかよせばいいのになって思うんだけど、ああいうのを書いてるんです。いやになっちゃうんです、現実的にもいやになっちゃうし、倫理的にもいやになっちゃうんです。法然の弱点だと思います。
親鸞っていうのは一丁もないです、そういうのは。そういう次元では一丁もないです。和讃みたいのはありますけど、親鸞の和讃は、哲学的な和讃です。つまり、非常に正確な和讃です。つまり、浄土和讃でも、浄土とは何かっていうことについて、非常に的確な和讃です。だけど、現実的にはゼロです。まったく無視しています。的確です、ものすごく。それで、そういう、いいことを行え、悪いことを行うなみたいなことは、一切言わないし、また、逆に、いいことをしようとしたり、坊さんの修行しようとしたりしたら、それはダメです、浄土へはいけませんっていうふうに、はっきりそういうふうに言うわけです。それは違いなんです。

15 『ヨブ記』の続編-神とヨブの和解の仕方を書き直す

 『ヨブ記』の問題は、いくところまでいくならば、こうなわけです。つまり、最後のところの、神さまが出てきて、おれは山を動かせるぞとかなんとか、おまえにはできないだろうみたいなことを言ったとき、ヨブが、それを馬鹿にしてじゃないですけど、そんな馬鹿なって、あんたの言うことのなかには、ちっとも倫理っていうのは含まれてないじゃないかっていう、倫理についてしたら何もないじゃないか、あるいは、自分が信仰が篤いにもかかわらず、あなたを信仰して、こういう苦難を受けている理由がちっとも述べられていないじゃないか、何にも述べられていないじゃないかってことを筋書きとした、『ヨブ記』の続編といいましょうか、第二の『ヨブ記』っていいますか、それを、みなさんがやっぱり、読んでいる自分でもっておかしいと思ったら、自分で書いて直しちゃったほうがいいと思います(会場笑)。
ぼくは研究家じゃないからわからないけど、『ヨブ記』も単独のひとりの人が書いたっていうよりも、きっとたくさんの人が手直しをしながら、直しながら書いていったって考えるほうが、自然だと思います。
いくらだって手直ししたっていいんですよ。だから、ここはちょっとおかしいんじゃないかって思うところがあったら、もし、みなさんに思うところがあったら、おれが信仰している神っていうものの性格を考えて、こうである、こういう条件がなくちゃいけない、こういう条件があるべきだっていうのを基にして、やっぱり、終わりのところは取っちゃって、自分で考えてつくっちゃったほうがいいと思います。どうせ誰かがつくったんですよ(会場笑)。
やっぱり、ひとりの人じゃないんですよ。たぶん、ひとりの人じゃなくて、いろんな人が書き加えてこういっちゃったっていう、それでそうなっちゃったっていうふうに、だいたい最後に皮膚病にただれて、財産が取られただけで、神と和解の言葉で和解したって、これだけじゃちょっとかわいそうじゃないかって言うやつがいて、きっとあとに加えたんだと思いますけど、だから、違うと思ったら違うように、自分が続編を書いてしまえばいいわけです。表現してしまえばいいわけです。
あるいは、表現するしないにかかわらず、御自分の倫理観っていうのが納得しなかったら、ここは違うんだ、納得しないっていうふうに、言い切っちゃったほうがいいと思います。言い切っちゃったほうがいいし、そう決めて、自分の心のふるまい方の輪郭っていうものを決めていくのがほんとうだっていうふうに、ぼくには思います。
内村鑑三も優秀ですから、ここはこういうふうに言われているけど違うぞとか、ここは誤訳だとかやってますから、ちゃんと、だから、それはちっとも失礼にあたりませんから、自分で変えてしまって、自分の納得いく結末にもっていくとか、登場人物にもっていくとか、そうしたらよろしいんじゃないかと思います。
それは、『ヨブ記』を読むことの最後の完成だっていうふうに、ぼくにはそう思います。どうせのことですから、そこまでいっちゃったほうが、よろしいんじゃないでしょうか、書くことができないとしても、そういう自分の考え方からすると、ここはこういうふうになるな、こうはいかないなっていうふうなふうに、自分なりに思っちゃったほうがいいんじゃないでしょうか。
そうすると、ヨブっていう人物は、『ヨブ記』の中のヨブっていう人物は、福音書の中のキリスト、イエスと、とても似た性格が与えられていますから、なぜイエスが出現したかとか、そういうふうに位置づけられたかっていうようなことが、とてもよく理解できると思います。まして、自分だったらこうだなっていうことも交えて、『ヨブ記』が読めたら、『新約聖書』の理解がとても楽になるんじゃないかなっていうふうに、ぼくには思いますけど。
だいたい、ぼくらが、本来いいますと、ぼくらが自分の考え方をいれ込む余地がないほどに、いろんな偉大な人が書いています。それで、いじわるなことを言うユングみたいな人もいます。だから、ほとんど全部、いろんな人が言いたいことはみんな言っている、それぞれ言っていると、だけど、どういうふうに偉大な人が言っても、細かいニュアンスまでいうと、それぞれ誰とでもちょっとだけ違うんです。だから、そのちょっと違うところが、自分の問題として打ち出せるってことだと思います。それがあったほうがいいと、ぼくは思います。
だから、ぼくらも、なにもほんとは言う余地はないんですけど、言う余地がないほど言い尽されているんですけど、すこしだけ申し上げることがあるとすれば、今日、申し上げましたところに尽きるわけで、今日、申し上げましたところの、自分の考え方っていうのは、ごくほんのわずかなところで、だいたいは、みんな言ってることはおんなじだよっていうふうに思えるところはおんなじです。ですから、これくらいが、いまのところ、ぼくが、なにか自分なりのって思っているわけですけど、まだできないでいるっていうところで、自分なりの考え方が尽きるところが、今日、お話したところで全部だと思います。みなさんのなにかご参考になればと思いますけど、ならないかもしれないですけど、これでいちおう終わらせていただきます。(会場拍手)

テキスト化協力:ぱんつさま