本日は、お暑いなかご来場いただきましてありがとうございます。夏の文学教室、第三日目をはじめさせていただきます。今日の講師は、吉本隆明先生おひとりです。テーマは、「中原中也・立原道造-自然と恋愛」です。なお、途中に15分ほどの休憩をはさませていただきます。では、先生よろしくお願いします。
吉本です。今日は、中原中也と立原道造の話なんですけど、両者に共通なところが、どこかあるかっていうのを考えますと、ひとつは、読者の側からいいますと、わりに簡単で、青春期のある時期に、かならずといっていいくらい、文学、あるいは、詩に関心のある青年っていうのは、このふたりの詩集を読んで育っているわけです。だんだん自分がそこから離れてしまう人もいますし、かなりな程度、晩年に至るまで、あるいは、年をとるまで、関心を持続している人もおるわけです。
ご本人たちはどうだったのかっていいますと、ぼくはそういう言い方をしますと、今日のテーマに即していいますと、自然に対する表現感覚なんですけど、それをさして変更することがないうちに亡くなった、つまり、夭折したっていうふうに、若くして死んだっていうことなんですけど、夭折したっていう言い方をしますけど、自分のその自然観っていうものの表現感覚を変更することが、ほとんどないうちに、亡くなってしまったっていうことがあります。
それはやっぱり、なぜ、いまも読まれていて、なぜ、多くの詩の好きな人、あるいは、文学の好きな人が、ある時期にかならず通過するって言っていいほど、よく読まれてきたか、いまもそうですけど、いまもたくさん読まれているそうですけど、そういうふうになっていることの、非常に大きな原因だって、ぼくには思います。読者の側からも、共通点として、そのふたつのことが言えるんじゃないかって思います。
なお、もうひとつ付けくわえるとすれば、これは、宮沢賢治なんかも、同時代の詩人として入れなければならないですけど、三者三様に一種の宗教性といいましょうか、閉じられたひとつの感覚の世界、あるいは、言葉の世界っていうのを強固に持っていて、それはちょっと、詩の世界一般のなかに、もちろん入るわけですけど、そのなかで自分の枠組みっていいましょうか、それを強固に保っていた人だっていえば、非常に特異な詩人だってことがいえると思います。それはやっぱり、読者を持続的に、多く獲得している理由じゃないかっていうふうに思います。
なぜかと申しますと、一般的に、そういう強固な自分の世界を、閉じられた世界をもっている、独自な感覚性っていいますか、表現性っていうものは、一般には、誰もがあんまりかえりみることがないんですけど、しかし、日常われわれが生活している日常生活のあいだで当面する、いろんな感情の動きとか、心の動きとか、あるいは、考えの動きとかっていうものを超えて、すこし本気にならなくちゃっていったらおかしいんですけど、一種の絶対的な感情っていうものに、近いものを持ちたいっていうふうに思う欲求っていうのは、誰にでもあるわけですけど。
その欲求を生じたときに、それに答えられる昭和期の、あるいは、現代までの詩人はいるのかっていうふうに言いだしますと、やはり、いま申しました、宮沢賢治とか、中原中也とか、立原道造とか、まあもうすこし早い世代だとしたら、萩原朔太郎とか、そういう人たちが、一種の絶対感情に当面したときのわれわれの欲求に、なお答えられるっていう要素を、詩のなかに持っているものですから、だからやはり、非常に大きな持続的な読者っていうのを獲得しているんじゃないかっていうふうに思います。
けっして通常、日常性のなかで、生きていた当時もそうですけど、そんなにたくさんの読者に迎えられた人じゃなくて、非常に少数の理解者みたいなものの世界があって、その世界の中で、その詩も理解されて、あるいは、非常によく読まれていたってことがあるんですけど、一般の詩の読者とか、一般の文学の愛好者のなかでは、それほど強固に、在世中、読まれていたわけではないんです。
でも、いま申しましたとおり、われわれは、ほんとうはそういう絶対感情みたいなものに、あんまり当面したくなくて、日常の生活を繰り返しているわけですけども、ときに、図らずもっていいますか、自分のほうから求めなくても、なんか絶対感情でもって、どういう感情に断定的に、自分をよせていくかってことを強いられるときっていうのは、誰にでもあるわけです。それにアピールできるってことになると思います。
それがたぶん、中原中也とか、立原道造が、よく読まれてきている理由じゃないかと思います。もちろん、今日の副題のテーマでいう、「自然」ということと、それから、「恋愛」っていうこと、男女の問題ですけど、恋愛っていうことに対する、中原中也と立原道造の態度といいましょうか、処し方っていうのは、これはまた、正反対なほど違うわけです。
でも、共通しているところを、あえてあげれば、両方とも、ある絶対感情っていうのを基に、恋愛の問題でも考えていることがひとつあるわけです。それから、もうひとつ、もっとはっきりしていることは、恋愛っていうのは何なのかっていいますと、これは、男女の性における自然感情だっていうふうにいえば、やはり、ふたりが自然詩人であるってことが、とても多くかかわっているっていうふうに思います。
ただ、宮沢賢治だけは、ちょっと特異な考え方を恋愛に対してもっていまして、宮沢賢治にとっていちばんの自然感情、男女の自然感情と同じ類の自然感情っていうのは、宗教なわけです。ほんとうならば、宗教が最も男女の間でも、宗教的な愛っていってもいいんでしょうけど、宗教っていうのが最も自然な感情なんだっていうのが、宮沢賢治の考え方で、その自然感情を遂げられないときに、人間は、異性に対して、恋愛的な感情を持ち、またそれを、自分が相手の感情を私有したりっていうふうになるのが、恋愛であって、もっと極端にエゴイスティックになれば、相手の全部を自分の私有物にしたりっていいましょうか、感情からなにから全部、自分の私有物にしたいっていうのが、恋愛感情の一方の極なんだけど。
宮沢賢治にいわせると、それはたいへん恋愛感情としては低いもの、つまり、堕落したものだ、低いものだっていうのが、宮沢賢治の考え方で、これはふつう、われわれの考え方とは、ちょっと正反対にひっくりかえっています。
だから、宮沢賢治の場合には、宗教と同じように、宗教に帰依するのと同じように、相手の感情とか、情操とか、あるいは、考え方とか、あるいは、それら全体にたいして、宗教的に帰依するっていう、そういう関係が成り立ったとき、恋愛の至上な、つまり、最もいいかたちといいましょうか、最上のかたちなんだっていうふうに、宮沢賢治はそう考えていて、それにかなわなかったっていうか、そういう自分の感情を満たせなかったっていうことが、たぶん、宗教そのものに、宮沢賢治が帰依して、そして、男女間の問題については、ほとんどさしたる感情の動きを示さなかったっていう理由だっていうふうに思います。
もっと極端にいいますと、そういう伝説があるくらい、自分が体内から精液を外へ出したことがないっていう人間は、自分も含めて3人ぐらいしかいないんだっていうふうに、世界で3人ぐらいしかいないんだっていうふうに言ったっていう伝説があるくらい、そういう意味合いでは禁欲的、われわれが恋愛だと考えているものとまったく正反対で禁欲的な感情に終始した人で、もしそれに近い感情があるとすれば、妹に対する感情で、その妹に対する感情っていうのが、一種の兄弟愛っていうことと、宗教的な相互信頼ですとか、そういうのが妹に対して。非常に多くあったんだと思います。
それだから、詩のなかで、つまり、「青森挽歌」みたいな、妹が死んだときの挽歌の中にあらわれている感情ですけど、それをいちばん、宮沢賢治は、恋愛感情のわりあいに高度なっていいますか、高級なものだっていうふうに、自分では考えていたと思うんですけど、われわれの常識からいえば、たいへん特異な恋愛感情として、妹に対する感情みたいなのがあったっていうふうに思います。
それは、宮沢賢治なりに、一種の宗教感情を絶対感情とみて、宗教的な帰依を、絶対的な帰依っていうふうに考える考え方を生涯やめなかった人ですから、そういう人から見た場合の、男女の性をもとにした感情、それから、行為っていうのは、あんまり、宮沢賢治にとっては、上等なものだっていうふうに考えていなかったっていうふうに思います。
今度は、中原中也と立原道造は、そういう意味合いでは、ごく通常の恋愛感情を持っている人でしたけれども、それは運命のいたずらといったらいいのかなにかわかりませんけど、必然的に、ふたりの持っている自然観っていうのから、出てくる記述なのかもしれないけれども、中原中也は、たいへん面倒な恋愛のなかに巻き込まれて、それを契機にして、詩も変わりましたけれど、生涯を変更するほど、重要な影響を受けたっていうふうに思います。
それは、小林秀雄と長谷川泰子っていう、はやくから中原中也と同棲していた女の人ですけど、この人をめぐって、一種の三角関係みたいのに陥りまして、三者三様、ひどい苦痛をなめたっていう経験があって、それで、詩も、それからはすこし変わってきているところがありますし、それを経験して変わっていったってことがあると思います。
これと対照的なんですけど、立原道造っていう人は、さまざまな女性が目の前を通過して、それにあこがれをもつとか、恋愛感情に似たような感情を抱くこともあったわけですけれども、これは求めてじゃなくて、そういうふうになっちゃったんだよっていうふうなことになると思いますけど。あんまり、性欲の匂いのするとか、肉体の感じがするような恋愛感情っていうのは、やっぱり生涯もたないで、はやく死んじゃったっていう人だと思います。
それは、やっぱり特異だといえば、特異なんですけど、けっして特異な考え方をもっていた人じゃないんですけども、ひとりでにそういうことになったと思います。ただ、このひとりでっていうことが問題なわけで、そんなにひとりでじゃないかもしれません。
この人の自然に対する感情っていうのを、少なくとも詩の表現の中にあらわれているそういう感情っていうのを、見ていると、具体的に後で触れると思うんですけど、非常に抽象的な自然っていうのはおかしいんですけど、具象物としてあらわれてこないわけです。
たとえば、簡単なのは、鳥なら鳥っていうのが、小鳥なら小鳥っていうのに対して、立原道造っていうのは、たいへん繊細な人ですから、非常に愛着をもっているんですけど、詩の中では、ほとんど、小鳥は小鳥で済んじゃうわけです。その鳥が何であるかってことは、立原道造の詩の中では、稀な場合にしか出てこないで、ぜんぶ小鳥で済んじゃうわけです。樹木でも、樹々とかっていうかたちで、樹々っていう言い方、あるいは、樹木っていう言い方で済んじゃって、どういう樹木かっていうことは、詩をご覧になればすぐにわかりますけども、あんまり具体的な、あるいは、具象的な、木の名前が出てきて、葉っぱのかたちがこうで、枝ぶりがこうでっていうようなことは、立原道造の詩の中には、めったに出てこないわけです。
それはたぶん、そのことと関係があると思いますのは、立原道造の恋愛感情っていうもののなかに、具体的な、異性の肉体的な匂いがするみたいなことは、なかなか出てこない次元で済まされているっていうか、済んでいるってことがあります。これはたぶん、立原道造のそういう自然観とよく似ているといいましょうか、同じところから出ているっていうことができると思います。
そうだったとしたらば、立原道造の恋愛感情のなかに、男女の精神と肉体と両方のかかわり合いっていうのが、まっとうに出てきているような感情っていうのは、少なくとも詩の中にはあらわれていないです。いない理由っていうのは、そこに求めていいんじゃないかっていうふうに思います。
しかし、もうひとつ、立原道造の自然観のもうひとつ大きな特徴なんですけど、それは、小鳥とか、樹々とか、風とか、あるいは、ふつうの物でもいいんですけど、そういうふうにしか出てこないですけど、そのかわりにって言ってはおかしいですけど、きちっと擬人化されています。
ふつうだったら、樹木とか、樹々とか言えばいいわけですけど、立原道造の詩の表現のなかには、樹々たちっていうような、つまり、人間にしか使わないような複数形なんですけど、複数形で樹々たちみたいな言い方をしています。それから、風たちとか、花たちとかっていうふうに、「たち」っていう言葉を使わなくても、ふつうだったらばいいはずのところで、そういう複数形を使ったりしています。
つまり、それは、それらの対象を、抽象的ではありますけど、次元っていいましょうか、自分の人間感情と、その対等なところの高さで、樹木でも、鳥でも、それから、自然のその他の現象でも、みんな見ているっていうことを意味していると思います。
ですから、その複数形、日本語ではめずらしい使い方なんですけど、樹々たちとか、風たちとかっていうふうに、複数形をわざわざ使ったりしています。それは、立原道造の自然観の非常に大きな特徴だと思います。
それはやっぱり、恋愛感情のなかにもあらわれていて、恋愛感情であるのか、友情であるのか、あるいは、一般的に、異性一般に対する感じ方であるのかってことが、あんまり区別がないようなかたちで、詩の中で、そういう恋愛感情的なものがうたわれています。それは、いろいろあだ名で、その時どきの女性が、たとえば、エリザベートみたいな呼び方で出てきて、それは具体的にこの人だっていうふうに言うことができそうに思いますし、また、研究家の人でしたら、きちっとそれは特定してあると思いますけど、そういうにもかかわらず、あだ名で呼んでいて、友情であるのか、一般的な異性感情であるのか、ほんとにその人が好きだっていう恋愛感情であるのか、なかなかわからない、区別がつかないような言い方をしています。
それは、たとえば、そういう自然の動きっていうものを、複数でわざわざ使って、何々たちっていうような言い方をしている言い方と、たいへん深い関係があるんじゃないかっていうふうに思います。
中原中也の場合は、ほとんど全部が恋愛感情、あるいは、恋愛感情だけじゃなくて、女性感情、異性感情っていいましょうか、それが出てくる詩が、もう立原道造と逆で、全部が恋愛しているみたいに描かれてきます。
たとえば、いちど出会った人とか、どっかの、当時の言い方ですれば、カフェなんですけど、カフェの女給さんっていいましょうか、いちど出会っただけの人でも、特定の名前が呼ばれていて、その内容は恋愛感情とちっとも変わらないっていうふうに、逆に、すべての女性が恋愛感情的にみんな集約されるっていうふうに、中原中也の場合には、そういうふうに逆にあらわれていると思います。
具体的なあれに入る前に、もうひとつちょっと言ってみたいことがあるんです。ふたりが非常によく読まれている、あるいは、宮沢賢治とともに非常によく読まれていることのなかには、自然感情といいましょうか、自然感覚といいましょうか、また、おおげさにいえば自然観でもいいんですけど、自然観っていうのがあると思います。
ふたりとも、ほんとうをいうと自然詩人で、何を歌っても、そのなかに雲が出てきたり、季節が出てきたりっていうふうに、ほとんど全部が、中原中也でも、6割か7割の詩は、どんな詩でも、自然物がそのなかに出てきて、たとえば、恋愛詩の場合には、自然物と恋愛感情の間を結んでいるのは、一種の自然に対する倫理感情といったらいいんでしょうか、自然に対して倫理的な感情、自然はいいなぁっていう感情よりも、自然を倫理的なもののひとつの現れとしてみるみたいな見方っていうのが、たとえば、恋愛感情と、そのなかに一緒に出てくる自然のものが、風景とか出てくるんですけど、それの間を結んでいる感情っていうのは、やっぱり、一種の倫理感情なんです。あるいは、倫理観であって、倫理観がその仲介をなしていると思います。
これに対して、たとえば、もうすこし言ってみますと、立原道造も、ぼくは、自然詩人だっていうふうに言うことができると思いますけど。立原道造の詩に出てくる自然っていうのは、さっき言いましたように、抽象的っていうわけでもないんですけど、とにかく、小鳥の固有名を呼ぶところまでは、小鳥の問題が入ってこない。樹木でも、何々の林っていうふうに、樹木の種類が出てきて、それで林っていうふうに出てこないで、ただ林とか、樹々が風に鳴っていたみたいな言い方をして、そういう抽象性なんですけど、それはほとんど、立原道造はどんなことを詩に歌っても、かならず、自然の雲とか、風とか、樹々とか、小鳥っていうのが出てくるみたいなふうに、よく出てくるから、やはりそういう意味合いで、自然詩人って言っていいんだって思います。
ただ、自然詩人としての立原道造の特徴をいいますと、人間の自然をみる感情っていうのはあるわけです。それは主として、目で見るっていいますか、視覚っていうのを主な感覚的な拠り所とするわけですけど、立原道造の詩の特徴っていうのは、さまざまな感覚、たとえば、視覚であったり、嗅覚であったり、触覚であったり、聴覚であったりっていうものが、それぞれ個別的に出てくる、風の音を聞いていたみたいなふうに、聴覚だってそういうふうに出てくることがありますけど、よくよく読みますと、立原道造の自然に対する感覚的な特徴っていうのは、それらの、われわれは五感と呼んでいるものですけど、感覚がぜんぶ融和しちゃって、融合しちゃうわけです。融合しちゃってるっていうのは、非常に大きな特徴だと思います。
つまり、たとえば、いちばんわかりやすいのは、匂いっていう言葉があります。匂いっていうのは嗅覚です。嗅覚が匂いなんですけど、これは、古来の日本の詩歌では、よくそういうふうになっているわけですけど、たとえば、「紅にほふ 桃の花」みたいなふうに、万葉集でも、匂いっていうのを、色っていうのに、ほとんど近い意味合いで、匂いっていうのを使っている、それは伝統的にあるわけです。
それから、もっと極端にいいますと、聴覚の響きです。それをやっぱり、風の匂いがしたみたいなことを言って、風が木の枝を揺らしているってことを言っちゃったりしているところがあります。それは、日本の詩歌でいうと、新古今集で、とても顕著にそういう使われ方が広がっているわけですけど。立原道造のそういう自然感覚のいちばん大きな特徴を言うとすれば、新古今集なんかより、もっと極端にっていいますか、あらゆる感覚の種類っていうのをぜんぶ融和させてしまっています。
融和させて、たとえば、匂いっていうことは何を言ってるのかなっていうと、あるときは、ほんとの草花の匂いみたいな、そういう香りがするっていう意味合いの匂いに使っていますけど、ほんとならば、風の響きとか、風の音とか呼ぶべきところを、匂いって言っちゃってるところもあります。それから、目で見て、紅の色が匂っているっていうような言い方をします。そうすると、色のことを言うべきところを匂いっていう言葉で言っちゃってるっていうことになります。立原道造の詩っていうのは、そういう意味合いで、新古今が開拓した感覚の融合性っていいましょうか、あるいは、区別のつかなさっていいましょうか、それを非常に極端まで押し進めた詩だっていうふうに言うことができます。それが、やっぱり、立原道造の詩の中にあらわれている自然観の大きな特徴になっているっていうふうに思います。
ここで、ぼくがそういうことから普遍にして言いたいことは、これは、宮沢賢治なら、なおさらそうですけど、宮沢賢治の詩の心象スケッチっていうのは、たいていは風景なんです。自然物なんです。それで、自然物なんですけど、自然物をスケッチすることが、同時に自分の心のスケッチになっている。逆にいうと、自分の心が自然物に融和しちゃっていて、自然物をスケッチすると、自分の心象が全部そのなかに含まれちゃうっていうふうに、まったく、自然と自分とを区別することができないっていうような、そういう感情のところで、宮沢賢治の心象スケッチっていう詩は成り立っていると思います。
それは、3人に非常に顕著にあらわれているように、昭和の全時期とは言えないんですけど、大正末から、昭和の初年の時期といいましょうか、その時期に、なにか典型的に、日本の鋭敏な感覚をもった人たちの言語表現のなかに、自然っていう、あるいは、自然感情っていうのが、それぞれ個性あるかたちですけど、非常によく分かれていった一時期があって、それを代表しているっていうふうに思います。
しいて自然っていう、あるいは、自然観でもいいんですけど、自然っていうのはどういうふうに見えるかっていうことを、しいていくつかの段階で分けてしまいますと、たとえば、人間の器官っていいますか、体の器官のなかで、自然物とか、静物とかっていうものに、いちばん近いものは何かっていったら、それは内臓器官だっていうことになります。
いわゆる植物神経で動いている器官っていうのが、人間のなかで、たとえば、立原道造流にいえば、樹々とか、風の音とかっていうのと、樹々たちとか、樹木たちっていうふうに、それを擬人化していえる感情のところにいくには、いちばんふさわしいのは、一種の人間の中の内臓感覚、つまり、植物神経で動いていて、ふつうだったら随意にはそれを動かすことができないっていう、そういう器官で動いているものの感応性っていうのが、たぶん、樹木とか、風とか、それから、もっとあれしますと、植物とか、樹々みたいな、一般の生物とか、そういうものと同じレベルで感応するっていうのは、人間の中では内臓器官だっていうふうに思います。
ですから、べつにそれを特別に感覚器官と区別して、内臓器官って言ったり、内臓感覚って言ったりすることもありますけど、そういうものは、やはり樹木とか、鳥たち、虫たちっていうものとよく感応する、人間の中の器官だっていうふうに言うことができると思います。
それよりも、ほんとうの感覚器官っていうものに感応してくる、たとえば、視覚に感応してくる風景とか、そういう自然の見え方とか、外界の見え方っていうのは、まさにそれぞれ個別的に区別された感覚と、感覚を行使することと、対応すると思います。
つまり、人間っていうのは、宮沢賢治流にいえば、自然の一部分を成しているわけですけど、そういう見方が、人間の体っていうのはできるわけですけど、その自然の部分っていう場合に、植物部分とか、静物部分っていうようなものは、人間の中の内臓器官が使われる感覚に対応します。
それから、そうじゃなくて、五感に分かれた、感覚器官に分かれた感覚を行使する、そういう次元の自然の見え方っていうのは、それとはまた違って、一種、自分のほうも感ずることができるし、さまざまな個別的な、視覚は視覚として働きっていうような、聴覚は聴覚として働きっていうように、個別的な主観として働くものが、一種の動物性っていうものに対応すると思います。
そして、人間の中には、そのふたつがちゃんと含まれていますし、もうすこし言っちゃえば、人間の中には、人間的部分っていうのがあるわけです。この人間的部分っていうのが、自然の中に、人間を感じたり、あるいは、人間の感じ方で自然を見たりっていうような見方になると思います。
それはやっぱり、人間だけしかできないですし、もっと固有にいいますと、それは、個々の個人的な人間によって、その見方がぜんぜん違いますし、感じ方が違ってくるっていうのが、やっぱり人間的な見方っていうふうになると思います。
そうすると、昭和の自然詩人たち、これは、一般論でいえば、子規派って言われていた人たちが、いちばんそれに該当するわけですけど、昭和の自然詩人たちは、それぞれ個性があり、個別的でありますけど、なにがこの人たちの、外界と感覚しやすい器官だったかっていうことを言ってしまいますと、やっぱり、内臓感覚で自然を見ているんだっていう、それを特徴とする詩人たちっていうのと、そうじゃなくて、やっぱり個別感覚を、視覚が鋭いとか、聴覚がとくに鋭く描かれているとか、あるいは、嗅覚が鋭いっていうようなかたちで、それぞれ個別的な感覚でもって、外界のものを見ているっていうそういう見方の自然詩人っていうのもいます。
それから、そういう意味合いの自然物、あるいは、生物っていうものを対する、自然なんかあんまり好きじゃないけど、人間関係の中のさまざまな葛藤とか、さまざまなニュアンスとか、そういうのにたくさん関心があるっていうような、昭和の詩人もいます。
たとえば、朔太郎なんか典型的にそうだと思いますけど、そういう詩人たちもやはり、人間も自然の一部だというならば、人間関係も自然の一部だっていうことになりますから、そういうことに関心があるんだけど、草花や、自然の樹木とか、そういうものには、まったく、あるいは、ほとんど関心を示さないっていう、そういう詩人たちもいるわけです。
それも、広い意味でいえば、やっぱり、自然詩人っていうことになります。それが、昭和の時期に、日本の近代史のなかで、いちばん多く開花した時期だっていうふうに思います。
それは、もうすこし、おおざっぱな区分けをしますと、人間の自然に対する、あるいは、自然観でもいいんですけど、自然観のなかには、いくつかの改定がありまして、一等初めは、人間と自然との関係は、そういうふうに識するとしないとにかかわらず、あるいは、詩人であると否とにかかわらず、とにかく、自然と自分の感情とが、同じ次元でまみれて、融合しちゃって、まみれちゃっているっていうようなかたちで存在した自然観の時期っていうのが考えられます。
それは、やっぱり、人間の歴史的な時期でいえば、原始時代とか、未開の時代とかっていうのは、そういうふうに、自然と自分とが一体にまみれちゃって、融和して区別がつかないっていうような感じ方が一般的であったっていうふうに考えられます。
そのときには、たとえば、自分が精神を集中して、嵐が起こればいいと思うと、嵐がちゃんと起こったじゃないか、起こっちゃうっていうふうに、それを、自分の職業といいましょうか、自分の役割としていた人たちがいるっていうのは、そういう場合には、自分が雨乞いをして、雨よ降れっていうふうに、自分が一心不乱に祈って、雨雲の中に自分を、全部入れ込んじゃうと雨が降ってくるっていうことが可能になるっていうふうに、そういうふうに考えられた時期っていうのが、未開原始の時代にはあったわけです。
そういうときには、自分と自然、あるいは、人間と自然との間に区別がつかないっていうふうに、まみれて、融和して、融合して存在したっていう時期があったわけです。歴史的にはあったわけです。
で、その次の段階にくるのが、たぶん、先ほど言いましたように、宮沢賢治の場合みたいに、自然感情がそのまま宗教感情とおんなじで、あるいは、それがまた、恋愛感情とおんなじでっていうふうに、一種の絶対感情で、自然っていうものが見られていて、そこのところに、自分の感情をもっていくっていうのが、最もいい精神の状態だっていうふうに考えられた状態っていうのがありまして、その状態をもとにして、さまざまな自然観がうまれて、視覚がたくさん行使される、あるいは、聴覚が行使されるとか、あるいは、嗅覚が発達してるとか、嗅覚を使うっていうようなかたちで、自然を認識したり、自然を宗教的に崇めたりっていうような段階っていうものが、歴史の中でも、その次の段階にはやってくるっていうようなことになります。
いちばん発達した段階っていうのが、人間とか、文明とか、そういうのはぜんぶ自然物っていうふうに、人工的につくられた自然っていうふうに、やっぱりそれも自然の中に含めるとすれば、人間の文明社会っていうものが、そのあとの段階が、非常に極端になった段階だっていうふうにいうことができます。
昭和のその時期に、日本の詩人たちが示した自然感情っていうのは、たぶん、そういう自然感情としては、文明を自然として見るっていう感情から、それから、樹木とか、風の動きとか、あるいは、小鳥たちのさえずりとかっていうのが、みんな生きた言葉のように受け取れるみたいなふうに、あるいは、自分たちの感情を反映した自然の言葉なんだっていうふうに見える、そういう問題まで、昭和の詩人たちの時期、つまり、大正の末ぐらいから、昭和の10年代といいましょうか、初期でしか、その時代には、そういう日本の詩人たちが、あらゆる段階の自然感情、つまり、せいほ的な段階の自然感情、つまり、文明の感情から、そういう原始的な感情まで全部、感覚表現としては、やることができて、自然詩人としては、非常に開花したかたちで、多様なかたちで開花したっていうような、そういう時期だっていうふうにいうことができると思います。
いまはたいへん、それは、むずかしくなっているんじゃないかな、それは、現代の詩人たちの詩をみれば、わかると思いますけれど、少なくとも、定型詩、つまり、伝統詩、俳句とか、短歌とかっていうのには、依然として、自然感覚っていうのは、日常にたくさん現れてきて、俳句や短歌が成り立たないくらい、まだ、依然として残されていますけど、いわゆる、中原中也とか、立原道造が従っていた、近代詩といいましょうか、現代詩といいましょうか、つまり、わりあいに自由なかたちでの、詩のかたちっていうので、詩をつくってきた人たちにとっては、あんまり、自然を歌うってことは、主流じゃなくなっていて、人間の関係からうまれてくる感情の交錯とか、錯誤とか、病気とか、そういうものが非常に関心をひいてるっていうのが、たとえば、いまの現代詩っていいましょうか、近代詩以降の詩の非常に大きな特徴になっていると思います。
だけども、ほんとうに幸いなことにっていうか、特別なことにっていいますか、大正末から昭和の時代に、あらゆるかたちの人間の自然感情っていうのを、感覚的に表現する詩人たちが、たくさん輩出してきたっていうふうにいうことができます。そのなかで、きわめて個性的に、そういう一般の自然感情から、個性的なかたちで、自分の詩を表現できた詩人として、たとえば、立原道造とか、中原中也とかっていう詩人は考えられるんだっていうふうに思います。これが、一般的に、そのふたりの詩人に共通していて、共通に言えることじゃないかなって思えることは、そういうことに、いま言いましたことに要約されるっていうふうに思います。
具体的にこれから、個々の詩人たちの、個々の作品に触れていきたいっていうふうに思います。それで、詩の手法といいましょうか、表現方法で、ひとつだけ両者に共通な点があるとすれば、それは、一種の同時代性で、ちょうど西欧では、シュルレアリズムとか、ダダイズムとかっていうのが興ってきたって時期なんです。なので、ふたりとも、ごく初期の作品をとってきますと、ふたりともそれぞれの意味で、ダダとか、シュルレアリズムの影響を、非常に大きく受けて、手習いといいましょうか、習作といいましょうか、そういうのをはじめたってことがよくわかります。
立原道造なんて、一見すると、そういうふうに思えないんです。特に思えない。中原中也も思えないといえば思えないんですけど、ふたりとも非常に古典的な言葉の使い方をして、日本語の伝統的な使い方をして、詩としてみても、韻律としてみても、非常に古風な表現方法をした詩人だってことになるわけですけど、しかし、それは、自分の表現を獲得してからそうなりますけど、初期ではやっぱり、ふたりとも、ダダやシュルレアリズムの影響をたくさん受けて、それで、そこで同時代的な相互影響っていいましょうか、詩壇の影響で、そういう言葉遣いで、詩の手習いっていいますか、習作をはじめてるってことは、両者に共通していると思います。
たとえば、立原道造なんかの初期の短い詩がたくさんありますけど、たとえば、立原道造の初期の頃の四行詩みたいのをとってきますと、たとえば、「コップ一ぱいの海がある」、コップ一ぱいの海があるって言い方自体が、本来的に、その時期にシュルレアリズムとか、ダダイズムの影響を受けて獲得した言いまわし方です。
コップに一ぱいの海がある
娘さんたちが 泳いでいる
潮風だの 雲だの 扇子
驚くことは止ることである
という四行詩があります。
つまり、何を言っているのかっていったら、言葉による感覚の組み合わせ方の新しさっていうことだと思います。つまり、組み合わせ方とか、遠近法といいましょうか、対象に対する遠近法の、自在にゆがめているっていいますか、自在に置き直しているって言い方、たとえば、「コップ一ぱいの海がある」っていう言い方はふつうには成り立たない。海という言葉に照らしても、コップという言葉に照らしても成り立たないんですけど、そういうことは、平気でつなげてしまう表現法っていうのは、おかしくないってことが、はじめてこの時期に日本語でやられたと思います。
これは、立原道造はまだ古典的な詩の方法に帰らない前には、そういう影響でもって、詩をつくっていたと思います。なぜ、こんなことができるようになったかっていったらば、言葉っていうのは、わりに、簡単な言い方をすると、コップっていう言葉には、コップっていう「意味」があって、それは、コップという形象とつながっているはずなんですけど、その時期に、西洋の詩人たちがはじめて、それをやったわけですけど、それをやって見つけ出したわけですけど、かならずしも、コップという言葉、コップの「意味」とか、それから、コップの実際に具体物のかたちとかというものと、つながらなくていいんだといいましょうか、つながらなくても、コップという言葉っていうのは使えるものなんだっていうことがはじめて、その時期に、シュルレアリズムの詩人たち、あるいは、ダダイズムの詩人たちによって、発見されたっていうふうに思います。
もちろん、日本の詩人たちも、すぐに同時代的な影響っていうのがありまして、日本の詩人でも、コップという言葉っていうのが、コップに水を入れるとか、飲むとか、ここにコップがあったとか、そういうふうにしか使えないというふうに、常識的には考えられているところで、いや、コップっていうのはそうじゃなくて、もし、自分の中にそれと結合する強固な対象があるならば、強引にでもなんでも、結合しちゃうことができるんだっていうことが、はじめてこの時期に発見されたと思います。
これが、どのくらい一般性があって、詩の読者にそれが通用したかどうかっていうのが、ぼくらにはよくわからないんですけど、一部分の人にしか通用しなかったかもしれないですし、また、たしかに、通用という意味合いでは、一部分の人なんでしょうけど、だいたいコップに一ぱいの海があるって言われると、何を言っているんだって、ふつう常識的に思うんですけれども、なんとなく感覚では、なんとなくわからないこともないなぁっていうふうに、一般の人も受け取れるように、言葉の感覚がなってたんじゃないかなって、ぼくはそういう解釈をしているわけですけど、もしかすると、そうじゃなくて、ふつうの人は、なにを言ってるか、こんな詩はわからないっていうふうなもので、かたづけられるものだったかもしれません。でも、一部分の人はやっぱり、あっ、こういう言い方で、コップっていうのはちょっと、コップの本体を離れたって、言葉だけで使えるんだ。それで、言葉だけで、どこか全然遠くのほうに、縁のなさそうな対象と、強引にくっつけて連結してっていいましょうか、つなげて使うことができるんだっていうことを、一部分の人は確実にそれを理解していただろうっていうふうに思います。
それは、別の言葉でいえば、言葉の「価値」っていうことと、「意味」っていうことと、それは分離できるんだっていう考え方になると思いますけど、言葉がはじめて「意味」を離れて、「価値」として成り立ちうるんだっていうことがはじめて、言葉に鋭敏な詩人たちの表現感覚のなかで、はじめて、はっきりしてきたっていいますか、はっきりわかってきたっていうことが言えるんじゃないかって思います。
これに一般性があるかどうか、あるいは、現在でも一般性があるかどうかっていうのは、すこぶるわかりにくいことですけど、しかし、言葉っていうのは、かならずしも、「価値」と「意味」とが一緒になって、どこかで結び付いていることとはかぎらなくて、「意味」とはぜんぜん離れて、「価値」だけがひとり歩きしちゃうってことが、言葉によってはじめて可能になったっていうことが言えるんじゃないか。
それで、立原さんも、中原中也も、若いときには、その影響を受けていますし、それから、中原中也もかなりな程度、後になるまで、つまり、『山羊の歌』っていう詩集がありますけど、最初の詩集ですけど、その中で半分くらいは、そういう語法が所々に入ってきます。全体は、非常に古典的な詩の表現方法を、中原中也はとっていますけど、部分的にはちょっとこれは、「意味」としてとろうとしたらとれないよっていう、とりにくいよっていうような言葉が、平気で取り入れられています。
それは、立原さんも同じで、そういう言葉が、自分の詩の習作っていいますか、新しい感覚をつくるっていうことを、そういうかたちではじめていると思います。これは、語法からっていいますか、詩の方法からみた昭和の詩の新しさっていうふうに言うことができると思います。
つまり、「意味」と離れて、言葉の「価値」っていうのをつくりだしちゃうことができるんだ。で、つくりだすためには、非常にいっけん縁の遠い言葉と強引に結び付けることができれば、その表現が、一種の言葉を「価値」にしちゃう表現法に該当してあたっていて、その「意味」としては、非常に通りにくいとか、かろうじてしか通らないんだけど、「価値」としては、言葉が非常にいい「価値」で使われているっていうようなことがいえるような言葉の表現法が、はじめて成立したっていうことはできそうに思います。
たとえば、立原さんの、もうひとつやってみますと、やっぱり4行の詩ですけど、
脳髄のモーターのなかに
鳴きしきる小鳥たちよ
君らの羽音はしづかに
今朝僕はひとりで歯を磨く
っていう4行の詩があります。
意味だけをたどっていったら、たいへんわかりにくい詩です。それで、脳髄のモーターっていうあれでも、わからんことはないよな、無理すればっていう感じで、でも非常にわかりにくい言葉をはじめから使っていますし、モーターのなかで小鳥たちが鳴きしきっているっていうのは、小鳥たちが鳴いているのが聞こえたよっていう表現といえば、ふつうの表現なんですけど、そういう意味が続く表現をとらないで、「脳髄のモーターのなかに 鳴きしきる小鳥たちよ」っていうような表現をとるっていう、この言葉の、つまり、脳髄ってことと、モーターっていう機械的な言葉っていうのは、意味としてはとてもつながりそうもないんですけども、それを強引につなげると、なんか言おうとしていることがわかるような気がするなっていうふうに通じるようにできるっていうことがある。
これは、いま言えば、とても古い言い方だよってなるかもしれないけど、その当時でいえば、新しく発見された言い方であるわけなんです。それは、当時の詩人たち、とくに若い詩人たちにとっては、もうちょっと衝撃的な言葉の使い方で、誰でも、自分の詩の習作にはやってみたくなるっていうようなことで、詩人たちはしきりに試みたんだっていうふうに思います。
これは、立原さんは、ごく初期の詩でそれをやって、それで、それを卒業してはおかしいですけど、終わっちゃって、みなさんもよくご存じの『萱草に寄す』なんていう、いい詩集ですけど、その詩集の、一種古典的な、格調のある古典的な詩に移っていっているわけです。
で、中原中也の場合には、やや中途までは、その語法は残っているっていうふうに、ぼくは思います。たとえば、中原中也の『山羊の歌』の一等最初の詩は、
トタンがセンベイ食べて
春の日の夕暮は穏かです
アンダースローされた灰が蒼ざめて
春の日の夕暮は静かです
っていうふうな、それが最初の表現です。
トタンがセンベイ食べてっていうのは、ものすごいむずかしい表現で、意味だけとったら、どうしても成り立ちようがない詩の表現なわけです。でも、感覚でいいますと、なんとなくわかるんじゃないかっていうふうに思えてならないわけです。
これは、人によって、こんな強引な表現の仕方がどういう意味合いをもつかっていうことを、おまえ説明してみろって言われますと、これはちょっと人によって違っちゃうわけなんです。読む人によって違っちゃいますし、読む人の感覚、体験によっても違ってしまいます。それだから、一時的にトタンがセンベイ食べてっていったら、誰でも同じような意味のとり方をするかっていったら、それはそうはいかないってことになります。
じゃあ、ぼくはどういうとり方をするかっていうと、これは、論じたときに書いたこともあるんですけど、トタンがセンベイ食ってっていうと、これは、ぼく固有であって、ちっとも普遍性はないんですけど、ぼくは下町のそういう町筋で育ちましたから、わかるんですけど。ずーっと狭い町筋の通りに面して、民家が並んでいたり、民家の隣に、洗い物屋さんがあったり、それこそ、おせんべい屋さんがあったりっていうところをまっすぐ道があり、非常によく、子どものときに慣れているわけですけど、ぼくのイメージですけど、そういうおせんべい屋さんに上のほうの看板があるんですけど、軒下の横のところに、縦長のトタンを囲った看板があって、そこに崩し字で「せんべい」なんて書いてあって、それでトタンが剥がれて、風が吹くとバタバタっていうような音がしているみたいな、そういうイメージの場所っていうのが、ものすごく、ぼくなんかにとっては、慣れたっていいますか、非常に懐かしい町筋の慣れた風景だものですから、ぼくは、トタンがセンベイ食べてっていうのは、それだっていうふうに思うわけです。
せんべい屋の看板が、トタンがバタバタ風であれしてるっていうのが、センベイ食べてる、せんべい屋さんの看板が剥がれちゃって、それでバタバタ風で、端っこがバタバタしてる。それがようするに、トタンがセンベイ食べてっていうのは、そういうことなんだっていうふうに、ぼくはそう、先入見で解釈してしまうわけです。
だけど、これはまったくあてにならないので、たぶん、個別的に、みなさんならみなさんのほうで、何を思い浮かべるかは違うと思います。ぼくはそういうふうな先入見をもっているから、それだっと思って、そういうイメージを浮かべると、これはなかなかいい、ほんとうならば、ふつうどおりに表現すれば、せんべい屋のトタンの看板が、ようするに、剥がれて風にバタバタしていると、こういうふうに表現すべきところなんですけど、トタンがセンベイ食べてって言ってるだけだ。そうすると、これはたいへんいい表現の仕方だっていうふうに、ぼくはそういうふうに思っちゃうわけです。
でも、これはほんとうにあてにならないで、みなさんの別の解釈をされたらいいわけです。というのは、いま日本にいませんけど、日本に来ていた、フランスの日本文学の研究家で、中原中也の研究をしているイブ=マリ・アリューっていう人がいるんです。その人は、ぜんぜん違う解釈を、ほんとに文字どおり、トタンがセンベイ食っちゃって、トタンがセンベイ食ったってことがおもしろいんだ、その表現の仕方は、一種の滑稽観があって、非常におもしろい言い方だっていうかたちで解釈して、評価しているのを見たことがあります。
ですから、これはちょっと、人によってずいぶん違うものだなっていうふうにぼくは理解します。ですから、たぶん、これの意味をとるためには、中間に、自分がもっている、読む人がもっている固有のイメージっていいましょうか、トタンっていう言葉、センベイっていう言葉、食べるっていう言葉から連想される固有のイメージが、それぞれ違っているのをもっていて、そのイメージを仲介にして、解釈すると、なんとなくこれはわかるような気がするよなっていうふうになるんだと思います。そういう読み方でいいんじゃないかっていうふうに思います。
3行目の、アンダースローされた灰が蒼ざめてっていうのは、灰であっても、埃であってもなんでもいいんですけど、それは下から上のほうに吹き上がってっていうことをそういうふうに言ってるんだなっていうふうに思います。
これはあんまり解釈の違いはこないんじゃないかっていうふうに思います。これは、中原中也の初期のダダとか、シュルレアリズムとかの影響が、まだ、色濃く残っている段階での詩の表現なわけです。立原さんは最初に独立した詩集『萱草に寄す』からもう、その種のあれはほとんど吹っ切っていますけども、中原中也は、それをまだ、『山羊の歌』のなかのかなりな程度前期の詩には、そのかたちを残して、それは一種、中原中也の詩をおもしろくしている要素です。
なぜ、おもしろくしているか、あるいは、中原中也を固有におもしろくしているかっていいますと、いまみたいな、一見するとわけのわからん、ダダとか、シュルレアリズムが発明して、日本の詩人たちが、一生懸命それを身に付けようと思ってかみ砕いたっていう、そういう表現の新しさっていうものと、それから、これは、中原中也以外の人は絶対に言わない、あるいは、使わない表現だって、もうすでに、中原中也ひとりの固有の表現っていうのが、同じ詩の中にありまして、それは、両方が混合して出てきているってことが、これは、中原中也の突出した表現だ、あるいは、固有の表現だって思いますし、中原中也を自然詩人のひとりとして見るならば、非常に特異なところで、自然詩人一般のなかから、とくに突出している中原中也の特徴っていえば、それだと思います。
そのいちばん固有のある節を、やっぱり4行ですけど、それをちょっと読んでみますと、同じ詩です、いちばんはじめのトタンがセンベイ食べてからはじまる4行です。それから3節目の4行ですけど、
ポトポトと野の中に伽藍は紅く
(伽藍っていうのは、お寺の寺院の建物です。)
荷馬車の車輪 油を失い
私が歴史的現在に物を云えば
嘲る嘲る 空と山とが
っていう表現があります。そうすると、これもまた、別な意味で、ほとんどわからないじゃないか、なにを言っているんだっていう、「トボトボと野の中に伽藍は紅く」って、つまり、荷馬車がトボトボ、野原のなかで、寺院の見えるところを通っていくときに、荷馬車の車輪が、油がなくて、キィキィきしみながら、そこのなかを走っていて、油をなくしてきしんでいるんだっていうような、これはちょっと受け取れないことはないんですけど、「私が歴史的現在に物を云えば 嘲る嘲る 空と山とが」っていう、これはちょっと、まったくわからない、何を言ってるんだってことになるんですけど、これは、中原中也の非常に大きな特徴です。
これは一般に、抽象語っていいますか、観念語っていいますか、観念の動きをあらわす言葉である、たとえば、「歴史的現在」っていう言葉は、観念の中でも、現在っていうものは、歴史の伝統的由来をずーっとたどってきて、いま現在、そこにものがあるっていうふうな理解の仕方をすれば、歴史的現在っていうことになるわけですけど、それに対して、自分が物を云えばっていうと、何をいったい言おうとしてるのかってことになるわけです。
そうすると結局、これも人によって解釈の違いになっちゃうかもしれないんですけど、ようするに、自分みたいに、あんまり、歴史とか、政治とか、社会の移り変わりとか、そういうことにあんまり関心を持たないやつが、目に見える現在の物とか、風景とか、そういうものに、一種の歴史観を込めて、それを見たりすると、誰か、柄にもないっていうふうに思うやつが、誰かいて、それは誰かっていったら、いちばんあれなのは、空とか、山とか、つまり、自然物です。自然物が、自分を嘲ってる、嘲ってるっていうふうに言ってるんだと、ぼくは解釈します。
これを、この種の観念語っていうものと、強引に、物象の動きをあらわす言葉と、強引に結び付けちゃうってことは、中原中也の詩の、これは生涯をつらぬく、大きな特徴になると思います。
そうすると、中原中也っていうのは、どこから、詩人としての出発をしたかっていえば、この『山羊の歌』からで、『山羊の歌』のどういう特徴からかっていえば、それはやっぱり、シュールとか、ダダ的だっていうふうに言われるような言葉の使い方と、それから、自分なりの固有なものの見方、あるいは、観念的なものの見方っていうものとが、同じ詩のなかで、強引につながっちゃってるし、同じ言葉のなかで、強引につながっちゃってる、そういう言葉の使い方をするっていうのが、中原中也の詩の特徴の全部だとは言いませんけど、ひとつだっていうふうに言えると思います。
この時代の、ぼくなんかが読んで、これはいい作品だなぁとか、傑作だなぁっていうふうに思える詩をひとつ読んでみますと、これは「サーカス」っていうんですけど、これは、よく知られている詩ですから、みなさんもご存じだと思いますが、
幾時代かがありまして
茶色い戦争がありました
幾時代かがありまして
冬は疾風吹きました
幾時代かがありまして
今夜此処での一と殷盛り
今夜此処での一と殷盛り
サーカス小屋は高い梁
そこに一つのブランコだ
見えるともないブランコだ
頭倒さに手を垂れて
汚れ木綿の屋蓋のもと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
それの近くの白い灯が
安値いリボンと息を吐き
観客様はみな鰯
(ものすごいイメージだと思いますけど、空中ブランコなんかをみんなが一斉に人間のほうを向いて見てるっていう、それを言ってるんだと思います。)
咽喉が鳴ります牡蠣殻と
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
屋外は真っ闇 闇の闇
夜は劫々と更けまする
落下傘奴のノスタルジアと
ゆあーん ゆよーん ゆやゆよん
これは、ぼくは下手だから気分は出ないでしょうけど、これは非常にいい作品だと思います。
これはちょっと、いまの小暮サーカスでしょうか、そういういまのサーカス小屋からは、もしかするとイメージが違ってくるかもしれないですけど、ぼくらの頃の、お祭りなんかでかかるサーカスを見に行ったときの、安っぽい小屋で、そこに空中ブランコのあれが揺れていて、そこで頭を逆さにして手を垂れて、揺られながら、空中サーカスをやるっていう、それを、われわれも夢中になって上を見て、揺られているとおり、頭を動かして、喉を出して見ているっていう、ものすごく見事にそのイメージ、それから、小屋の雰囲気、ちょっといまはそれはないんでしょうけれど、物悲しい雰囲気なんですよね、サーカス小屋っていうのは。物悲しい詩の雰囲気が漂いながら、でも、一生懸命、夢中になって見ているっていう、その小屋の雰囲気がものすごくよく出て、これはようするに、ダダ・シュール的な表現と、中原中也固有の、つまり、半分ぐらいはリズムをとっている詩ですけど、その表現とが一緒になって、ひとつの作品のなかに混然と一緒になっていまして、これは、シュール・ダダと、古典的な表現が入り混じっている時代の詩の、とてもいい代表作だっていうふうに、ぼくは思います。
これを厳密に注釈しろってなると、ちょっと問題で、さまざまな解釈が可能になってきてしまいます。たとえば、最初の「幾時代かがありまして 茶色い戦争がありました」っていうふうにいうでしょ、「茶色い戦争」って言ってるでしょ、それは何なんだ、「茶色い戦争」っていうのはっていうのになりましょう。
そうすると、具体的なことをいえば、日中戦争っていうのはないかもしれないけど、満州事変とか、その前のなんとか事件とか、つまり、大陸で、しばしば、日中の軍隊が衝突したりなんとかしたりとか、爆破事件が起きたりとかってことは、その前に散々あって、それは、人によっては十五年戦争のはじまりというふうに言うくらい、やっぱり、戦争らしい雰囲気がずっと続いてきたわけです。
そういうのを本格的なっていいますか、戦争とも呼べず、また単なる偶然の衝突とも言えず、なんとなく戦争の雰囲気を持ちながら、そういう雰囲気が、たびたび事件として続いてきたっていうことを、「茶色い戦争」っていうような言い方で、やや古びたっていいましょうか、古びた感覚のなかで言ってるのかな。
それと、サーカス小屋とは、何の関係があるんだっていうことになるんですけど、サーカス小屋の、そのときにもっていた物悲しい一種雰囲気っていうものと、なんとなく当時の、何々事変としか言えないような衝突の数々っていうのとは、なんとなく共通の、連想させるものがあって、それが中原中也のこういう幾時代かがあって、茶色い戦争があったよっていう言い方になってきて、それで、茶色い戦争があって、その戦争っていうのが、幾時代のあいだに、疾風、つまり、嵐を含んだりなんかしてましたよっていうのをあれして、それの似てるところはっていいますか、連想をするように、サーカス小屋の、今日は物悲しいけど、やっぱり、観客がたくさん来て、おもしろい催しをやっていて、それを人々は見ていて、やっぱり、今夜、今宵この場所だけは、サーカス小屋の一盛りなんです。盛んな風景なんだっていうふうに言っているのかなって解釈しますけど、これは、人によって、また違う解釈になると思いますから、これは、研究者の方がそれぞれ違う言い方をしてると思います。それが、中原中也のこの時代の、非常に代表作になっていると思います。
もうひとつ、中原中也が影響を受けた詩人っていうのは、これも人によって違うでしょうけど、ぼくは、宮沢賢治だけじゃないかなっていうふうに思っています。宮沢賢治の影響は、中原中也の所々にフッと潜在的にあらわれて、フッと出てきているように、ぼくは時々思います。これも、研究者の人はそう言わないかもしれないし、当てにならないですけど、ぼくはそうなんです。
そういう詩で、いい詩をもうひとつ読んでみます。「朝の歌」って、これもよく知られている詩です。これも、中原中也固有のひとつの古典的な韻律っていいますか、それを自分の詩に取り入れちゃっている詩です。
天井に 朱きいろいで
戸の隙を 洩れ入る光、
鄙びたる 軍楽の憶い
手にてなす なにごともなし。
っていうのが最初の4行です。どこにも特異なところがなく、とても古い歌だなっていえば、古い歌なんです。
このなかでひとつ、これはと思うのは、やっぱり、「鄙びたる 軍楽の憶い 手にてなす なにごともなし。」って、鄙びたる軍楽の憶いっていう連想がここに入ってくるわけなんですけど、天井に朱い日の光がこぼれていて、そこに戸の隙から光が入ってきて、天井に影が揺らいでいるっていう、そういうことだと思います。
そこに、鄙びたる文学の憶いっていうのを、どうして急に入ってくるのかなっていうのは、非常にわかりにくいっていえばわかりにくいわけです。でも、これが、中原中也の中原たる所以であるといえばそうなんです。
こういうちょっとわかりにくいなっていう言葉がこのなかに入ってきちゃって、ふつうの詩人っていうのは、こういうのを入れたりしないわけですけど、「鄙びたる 軍楽の憶い 手にてなす なにごともなし。」っていうふうに、一種の倦怠感ですけど、ぼくの理解では、「鄙びたる軍楽の憶い」っていうのは、宮沢賢治の詩の影響じゃないのかなっていうふうに、ぼくは思います。
宮沢賢治の詩のなかで、全体はぼくも覚えていないんですけど、「そのかみの高麗の軍楽、うち鼓し」って飴屋さんが太鼓を鳴らして通り過ぎるのを歌っているわけですけど、それは、むかしの高麗の国の軍楽のしらべを打ち鳴らしながら、飴屋さんが通っていくっていう、そういう宮沢賢治の詩があるんです。ものすごく印象深いんですけど、「そのかみの高麗の軍楽、うち鼓し」っていうのが、やっぱり、中原中也の頭の中にあって、それがフッていうふうに、ここで出てきたんだろうなっていうのが、ぼくなんかの解釈です。
しかし、これはそんなことなくて、ほんとに偶然に非常に遠い言葉が入ってきて結び付いたっていう、中原中也の特有の結び付け方のひとつだっていうふうに解すればいいのかもしれません。それは、人によって違うだろうし、違ってかまわないんだろうって、ぼくは思いますけど、この「朝の歌」なんていうのは、非常に、中原中也の初期の頃の特色を、非常によくあらわしている詩だと思います。
それで、こういうダダイズム的な表現と、それから、非常に古めかしい、しかし、中原中也固有の表現っていうのを仲介するのは、一種の、中也のひとつの倫理的な独白なんですけど、いまの「朝の歌」でも、もうその次にはもう、
小鳥らの うたはきこえず
空は今日 はなだ色らし、
(これは、自然の空と小鳥を歌っているわけです。だけどその後にすぐ、自然への延長線として)
倦んじてし 人のこころを
(倦んじてしっていうのは倦怠を感じてるってことです。)
諫めする なにものもなし。
っていう2行が後に続いて、これは、非常に倫理的な内面の、観念の言いまわしです。それが続いてくる。
中原中也の場合には、そういう新しい表現が、観念の言いまわしと続いていくと、しばしば自然が倫理的な影を帯びて歌われて、そして、それが仲介となって、自分の観念的な独白みたいのに続くっていうのが、中原中也の一種の定形みたいなもので、中原中也の詩っていうのは、そういうところがちょっと、ほかの誰もちょっと真似ができないし、誰もそういうことが成り立たないっていうような、そういう詩のつくり方なんですけど、それは、非常に大きな特色になっているっていうふうに思います。
これは、中原中也の初期の詩の、一般的な言い方をしちゃえば、一種の異化作用っていうんでしょうか、わざわざ言葉を異なった感覚で結び付けて際立たせるっていう使い方だと思います。これは、この時代に正方な詩人たちが、よくやった手法で、めずらしい手法だって思いますけど、異化作用っていうのを、ここで、中原中也は使っているわけです。
日本の詩歌の伝統っていうのは、これは、たとえば、中世の藤原定家の歌論なんかを見ればわかりますけど、典型的にあらわれていますけど、だいたい本歌取りってことです。つまり、ある詩があったら、それを、その言葉遣いを模倣する歌をつくり、模倣する歌のつくり方っていうのが、非常にいいつくり方で、模倣する使い方を本歌取りといいますけど、本歌取りはまた、一種の独立した詩歌なんだっていう考え方が日本の伝統的な考え方です。
だから、定家なんかは異化を誘うような、際立って耳に障るような言葉を真似するな、それを本歌取りするなっていうふうに言ってるんです。できるだけ、なだらかに入ってくるような言葉を本歌取りして取ってくるのがいいっていうのが、定家なんかの考え方は、そういう考え方です。
だけど、そこは定家が非常に伝統的な、また、伝統的な意味で優れた理論家である所以ですけども、だけど、定家の弟子であった源実朝なんていうのは、非常によく万葉の本歌取りをやってるんですけど、異化作用で本歌取りをやっているわけです。つまり、わざとやっているんです。なだらかに本歌を取るっていう、先生のあれにけっして順応しないで、そして、わざと耳に立つような言葉ばっかり、実朝は本歌取りしています。
実朝の歌っていうのは、万葉の模倣の歌っていうのが非常に多くて、もしふたつ並べて読まれると、すぐわかりますけど、これでいいのかな、こんなに模倣しちゃったらいけないんじゃないかなと思えるぐらい、よく模倣した作品になります。しかし、一種、異化を誘うっていいましょうか、耳に障ってきたり、感覚に障ってきたりするような言葉だけを、わざと取るように、本歌取りをやっています。だからそこで、実朝固有の歌の特色があらわれてきちゃうものですから、やはり、本歌取りをやって、ほんとうに並べて、言葉遣いを見ていったら、これは、ここまでやっちゃったらダメなんじゃないかな、つまり、半分以上、模倣じゃないかなって思える歌でも、一種独立した優れた歌だっていうふうに言うことができちゃってるわけです。
そういうことから考えると、こういう異化作用っていう、中也の異化作用っていうのは、たぶん、こういう伝統的な七五調に近い音数律をとった詩なんですけど、これを新しい詩にしているところだっていう、その異化作用だっていうふうに思います。
つまり、倫理的な言葉、観念の言葉と、それから、ダダ・シュール的な言葉遣いとを、どうやったらつなげられるのかっていう場合に、倫理的につなげる以外にないっていう場合の、倫理的な表現、つまり、観念の表現のほうが、きわめて異化作用に富んでいるわけです。ですから、これはやっぱり、新しい詩だなっていうふうにいうより仕方がないわけです。
しかし、われわれは、中原中也を詩人として、とくに昭和の古典詩人っていいましょうか、昭和の詩人としては不朽の詩人だ、つまり、永遠の詩人だっていうふうに、ぼくらが思う理由のひとつは、一種の古典的な言葉の使い方と、音数律っていうのとを、中也は忠実に守っているってことが、大きな理由じゃないかっていうふうに思います。
たとえば、この同じ問題ですけど、「臨終」っていう詩の中で、2節目ですけど、
神もなくしるべもなくて
窓近く婦の逝きぬ
(逝きぬっていうのは死んだっていうことです。)
白き空盲いてありて
白き風冷たくありぬ
っていう、2節目がそうなっています。
これもまた、古典的な手法で、窓の傍で、死に人、重体の人があるらしくて、そこにいる人があわてて、立ったり、座ったりしててっていう、そういう風景のイメージなんでしょうけど、それがまったく、古典的な歌われ方で、歌われているんですけど、たぶんそれは、実際問題としていえば、トタンがセンベイ食べてるっていうのとおんなじで、古い小さな町筋のところの2階の窓があいていて、そこから見えるなかに、病人がいるらしく、その病人は重いらしくて、家の人たちが立ち騒いでいるっていうか、立ったり、座ったり、せわしなくやっているっていう、そういうイメージだと思いますけど、この詩の表現をみますと、なんともいえず古典的な場面、古典的な表現なんですけど、またべつの意味でいうと、なにかほんとならば、長屋のお婆さんが死にそうになっているという、いわば、非常に貧しい風景なのかもしれないのですけど、「神もなくしもべもなくて 窓近く婦の逝きぬ」って言葉を使うと、なんとなくそれが、ひとつの詩的な格調のなかに入っていって、伝統的な古い感覚と違和感がないっていうように入っていってます。だから、これが、中原中也の詩を古典的に、また、優れた詩だっていうふうに言わせている所以じゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
これは、いまでもそういう考え方も傾向もあるんですけど、その時代ですと、ダダ・シュール的っていえばそうなんですけど、あるいは、西欧の同時代的っていえば、西欧の同時代的なんですけど、そういう表現を日本語で新しく試みて、そういう表現をある程度、身に付けて、血肉になっているっていう表現の仕方ができたときに、昭和の初年、あるいは、大正末期の現代詩のはじまりですけど、その当時のはじまりの詩っていうのは、それ自体が詩だっていうふうに言える時期があったわけです。
つまり、ほんとうならば、伝統的には、熟さない言葉遣いであり、熟さない感性、感覚なんですけど、そういうことがある程度、身に付いて、強引に結び付いたイメージになって、それは詩の表現としてできているっていうふうになると、それは詩としてできているんだ。単に言葉遣いができているってことじゃなくて、それ自体が詩を成すんだ、そういう異化作用っていいますか、耳にそばだつ言葉遣いがある程度、身に付いてっていうか、できていたら、それは詩なんだっていう観念が、日本語の詩のなかに、現代詩のなかに、あるいは、近代詩のなかにあると思います。それはやっぱり、この時代にも、特徴的にあらわれていることで、その異化作用自体が詩なんだっていう考え方っていうのはあると思います。
いまでもあると思います。いまでも、そういう詩っていうのを書いている人はいますし、あると思います。やっぱり、そういう異化作用の詩のなかで、ぼくなんかが、伝統的でもあり、また異化作用でもあるっていうことが、ひとつの詩の各節の中に混じっているんじゃなくて、ひとつの詩自体が、貨幣の表から見たら異化作用だけど、裏から見たら非常に伝統的だっていうふうに、ひとつの表現自体がそういう二重性をもっていることを、非常にうまくできている詩人っていうのは、ぼくは、吉増剛造っていう詩人がいますけど、この人の詩は、それがうまくできているんだと思います。この人の詩は、表現として見たら、現在の日本の詩の先端的な詩だっていうふうに思います。
これは、中原中也の時代だったら、中原中也の初期の詩が典型的なように、ダダ・シュルレアリズムの影響を顕著に受けた言いまわしがあるかと思えば、2節目はそうじゃなくて、非常に古めかしい古典的な詩になっていて、そういうことが、あんまり目立たないで、できちゃっているように見えるのはなぜかっていったら、一種の自然に対する中原中也の固有の倫理性っていうのがあって、その倫理性を仲介として、媒介とすれば、それがうまく伝統と、現在の詩の新しさっていうものが、つながっちゃうんだっていう、そういうふうに、詩のつくり方ができているものですから、それは、ひとつの古典的な方法でありますけど、これは現代詩として、非常に立派なものだ、新しいものだっていうふうに言えちゃうところがあるわけです。
それから比べると、中原中也の時代にはとてもできなかったことですけど、一語一語、あるいは、一節一節っていうもの自体が、表側から見れば、非常に異化作用の強い、近代的なむずかしい、意味としては取れないような表現になっているだけど、その表現を、ちょっと裏から見ると、リズム的に、非常に伝統的に倣ったリズムの特徴っていうのは、全部そのなかに込められているっていうふうにつくられています。
そういうふうに表現の方法が変わっていっているところが、わずかに、日本の近代詩、つまり、大正末から昭和にかけての詩と、現代の詩とを結ぶ、詩の本質的な移り変わりっていうのは、わずかにそれはできるようになったっていうことだと思います。吉増さんっていう人は、うまくそれができていて、いい詩ですし、だけど、たいていは片っぽしかできていない、あるいは、片っぽを旨とする、方法的な主流とするっていうふうに、詩人たちはやってきていまして、吉増さんって人は、それが、両方が表裏一体だっていいましょうか、ひとつの古い詩の言葉自体が、両面から受け取ることができるっていうふうに、詩のつくり方を典型的にやっていて、それは、成功している。
でも、これをインド・ヨーロッパ語的なものに、どんな言葉でもいいんですけど、直してみろって言ったって、ぼくはそれを直せるってことは、不可能なんじゃないかなっていうふうに、ぼくはそう思います。でも、ご当人がやれば可能性はあると思いますけど、そうじゃなかったらちょっと不可能なんじゃないかって思います。
なぜかっていいますと、日本の詩の表現として、非常に微細なところまで理解が行き届いて、しかも、この異化作用自体の日本語的な言いまわし方についても理解が行き届いていて、そのふたつの面が、ひとつの言葉の量のなかに、両方入ってるってことを翻訳するってことは、まず、ぼくに言わせれば、不可能に近いんだっていうふうに思いますから、ぼくは残念だと思いますけど、吉増さんの詩がほんとうな意味で外国語で表現されたら、やっぱり、凄まじい人が日本にいるものだなってことになるだろうと思うんですけど、しかし、そういうふうにはいかないんじゃないかっていうのが、ぼくなんかの理解の仕方はそうです。
まだ、そこまでいくには、万国共通の、つまり、民族語と普遍的な言語の意味とが一致するっていうところまでは、言語の段階ではいっていませんから、まずなかなかたいへんなんだろうなって思いますけど、たとえば、吉増さんっていう詩人は、民族語の固有の表現に頼りながら、しかし、一種の普遍的な言語っていうのが、言語の意味するもの、あるいは、イメージするもののところまで、たぶん、手を届かせていることができていると思います。
こういう詩人が、世界中探して、どこかに現存するかっていうふうに考えたら、ぼくはいないんじゃないのかなって思います。でも、これはわかりません。ぼくは、無知蒙昧ですからわかりませんけど、でも、ぼくの検討ではそうです。これだけの詩人っていうのはいないんじゃないかなって、ぼくは思っていますけど、それは、言葉の段階っていいますか、言葉の言いまわしの段階っていうのが、やっぱり、そこのところが、日本の現代詩の場合でも、そこに突入しちゃっているところがあるんです。だから、そこの問題のような気がします。
それは、吉増さんの詩をご覧になればわかりますけど、これは、詩の表現からみて、中原中也とか、立原道造の段階では、どうしても日本語がそういうふうに出なかったんだっていう、そういうふうに日本語を使うことができてしまった、できているっていうのが、吉増さんの、あるいは、現代の詩の最先端のところがいきついた場所なんじゃないかっていうふうに、ぼくは思っています。
そこいらへんのところまでいきますと、中原中也の詩の特徴っていうのは、初期の詩の特徴っていうのは、そこにぜんぶ表現されてしまっているっていうふうに思っていいんじゃないかと思います。その時代の作品で、まだいい作品はたくさんあるんですけど、大なり小なり、いま申し上げました特徴が、中原中也の最初の『山羊の歌』の初期っていいましょうか、半ばくらいまでの、中原中也の詩っていうのは、そういうふうにできていると考えてくだされば、いちばんいいんじゃないかって思います。
中原中也の詩が変わったっていうところは、中期以降であるわけなんです。それはどういうことかっていいますと、先ほどからいう自然物であっても、事物であっても、あるいは、地名っていいますか、場所の名前であっても、なんでもいいんですけど、はじめ初期の頃は、小鳥たちとか、風たちとか、ものたちが立ち騒いでいたとかみたいな表現で済ませていたものが、ひとつは、だんだん具象性を帯びるようになって、地名なんかもやっぱり、その場所の地名が、詩のなかに、ひとりでにあらわれてくるようになったっていうことが、ひとつ顕著な変わり方です。
それは、地名だけじゃなく、自然物ぜんぶに対して、そういうふうに、いままではものたちとか、いわゆる物象のイメージで済んでいたものが、ちゃんとものも、机であるとか、机の下になにがあったとかっていうようなかたちで、具体的な、あるいは、具象的なものの名前が名詞として、詩のなかに出てきたっていうことが、ひとつ、非常に大きな特徴です。
それから、もうひとつは、生活っていいましょうか、日常生活のなかにあらわれてくるものが、ちゃんと具体的な名前で、机とか、タンスとか、畳とかっていうかたちで、非常に具象的な呼ばれ方で、詩のなかに出てきたっていうのが特色です。そういうふうになりますと、詩のイメージ性っていうのが、ある程度、飛躍しなくなるんですけど、同時にしかし、一種の生活感っていうのが出てきて、これは、初期から自然を観念の言葉に移していくときに、倫理性があったっていうのと同じような意味合いで、生活を歌うこと自体が、倫理的になってきたっていう意味合いで、生活感の色合いが濃くなって、それが倫理性となって、初期からあった特徴を、非常に具象的な名前を使って、あらわしてくるっていうような詩のつくり方をするようになっています。それは、中期以降の特色になってきていると思います。
なぜ、中原中也の詩がそういうふうになったのかっていうふうに考えますと、それは、生活のニュアンスが重くなったんだとか、さまざまなことが言えるわけですけど、今日のテーマに即していいますと、中原中也の恋愛体験っていうのが、非常に大きな役割をしているんじゃないかっていうふうに、ぼくにはそういうふうに思います。
そのころからだんだん、主題としていえば、一種の絶望的な、自伝的な詩っていうのが多くなってきています。
それからもうひとつは、生まれたことへの悔恨とか、これからの生活への絶望感とか、そういうのがいっしょにあらわれてきて、主題と相まって、中原中也の詩の特徴である、倫理的であり、私生活的であり、絶望的であり、あるいは、デカダンスでありっていうような、そういうものが繰り返し、繰り返し、一種の悔恨っていいますか、生まれたことの悔恨からはじまって、悔いとして、悔恨として、それが出てきて、悔恨と絶望として出てきているっていうのが、中原中也の特徴になってきまして、それは、同時に、中原中也とはどんな詩人かっていうと、たいていぼくらは、そこいらへんのところで、中原中也の特徴をつかまえて、こういう詩人なんだっていうふうに言うわけですし、また、そういう詩人だと思っているわけです。
しかし、もっと本質的には、一種の自然詩人なんだっていうふうにいえば、いちばんよく、中原中也を言ったことになるんじゃないかって思います。それは、どういうことかっていいますと、先ほどもちょっと触れましたけれども、小林秀雄、親友であり、文学の仲間であるわけですけど、小林秀雄と、中原中也と、中原中也と若いときから同棲していた女の人をめぐって、三角関係になってしまいます。結局、三者三様、にっちもさっちもいかないところまで、つまり、良心的にふるまおうとすれば、ふるまおうとするほど、そういうふうなところまで追い詰められて、女の人は、ひとたびは小林秀雄のところに行って、同棲するわけですけれど、小林秀雄のほうから、あまりに息苦しくなっちゃって、小林秀雄自体はひとりでに行方をくらましちゃうわけです。奈良へ行っちゃうんですけど、奈良へ黙って家出して行っちゃうわけです。女の人は探すんだけどわからないっていうような、どこに行っているかわからないみたいなふうになっていっちゃうわけです。
それで、女の人も中原中也のところに戻れるかってなるわけですけど、そうたやすく戻れるようなありさまじゃなくて、三者三様に傷を負っていて、どうしようもなくなっちゃうっていうようなところに、追い詰められていっちゃうわけです。中原中也のほうは、終始一貫、女性になにくれとなく世話をやいたりするんですけど、けっしてもとに戻ることはなかったってことになっていってしまいます。
そういうふうになってから、たとえば、中原中也は自分の自伝的な主題の詩っていうのをつくるんですけど、ぜんぜん最初の『山羊の歌』の詩とか、初期の詩とは、ニュアンスがまったく違ってきてしまいます。また、そういうふうにしか、歌えなくなってしまっちゃうわけです。
ちょっと比較をしてみれば、いちばんよくわかるんですけど、大元の原因になっている詩っていうのがあります。それは、未発表の詩のなかに入っているんです。「怨恨」っていう、恨みっていうことです。「怨恨」っていう詩ですけど、
僕は奴の欺瞞に腹を立てている
奴の馬鹿を奴より一層馬鹿者の前に匿すために、
奴が陰に日向に僕を抑えているのは恕せぬ。
そのために僕の全生活は乏しくなっている。
嘗て僕は奴をかばってさえいた。
奴はただ奴の老婆心の中で、勝手に僕の正直を怖れることから、
僕の生活を抑え、僕にかくれて愛相をふりまき、
御都合なことをしてやがる
近頃では世間も奴にすっかり瞞され、
奴を見上げるそのひまに、
奴は同類を子飼い育てる。
その同類の悪口を、奴一人の時に僕がいうと、
奴はどうだ、僕に従って其奴等の悪口をいう。
なんといやらしい奴だろう、奴を僕は恕してはおけぬ。
っていう、そういう「怨恨」っていう詩があります。これは、研究者の人はなんていうかわかりませんけど、ぼくは、この「奴」っていうのは、小林秀雄だって思っています。
そんなに簡単じゃないんですけど、中原中也の感情も簡単じゃないんですけど、簡単に、あいつだから許そうっていうものでもないわけで、それは、男女の関係の非常に特徴なわけでして、それは、怨恨もあるし、仕方がないやってあきらめもあるし、悔しさもあるしっていうことが渦巻いて、中原中也の後半生の感覚、あるいは、感性っていうのと、生き方っていうのを変えてしまうわけです。
その次の『在りし日の歌』っていう詩集は、中原中也が自分で編纂したんですけども、それは、小林秀雄に、折があったらこれを出版してくれっていうふうに、小林秀雄に託して、自分は東京の生活をやめて、山口県のほうですけど、故郷へ帰ってしまうわけです。それくらい、中原中也の一生涯の後半を変えていったといえば、変えていった事件であったわけです。
恋愛っていうのは、さまざまなかたちがありまして、宮沢賢治みたいに、それは宗教感情が堕落した、それを下品に、早急に、宗教感情でしか得られないものを遂げようとするのが恋愛なんだっていう、宮沢賢治的な恋愛感情っていいましょうか、恋愛観を一方の極としますと、一方の面倒さの極っていうのは、三角関係みたいなものにあらわれてくるわけです。
恋愛っていうのは、そういう意味合いでいえば、大なり小なり男女の思い込みから成り立っていますから、思い込みがもし、妄想の領域に入っていきますと、かならず、これは正常じゃないよっていう状態に、三者三様に思っていっちゃうっていいますか、そのうしろには、精神異常かなにか、自殺しかないっていうような、そういうところに入っていっちゃうってことが、恋愛感情の中にありえます。そのふたつの極がありえまして。
日本の文学も、さまざまな三角関係をあらわしています。これは、夏目漱石からはじまって、芥川龍之介へいってっていうふうにして、つまり、中原中也とか、立原道造の系統の詩人たちに、ある意味で受け継がれてっていうふうに、それから、小林秀雄みたいな批評家のなかに、近代的に受け継がれてっていうようなふうに受け継がれて、三角感情っていう恋愛っていうのも、一方の極でしきりに、日本の近代文学の主題になっています。
また一方、宮沢賢治みたいに、宗教感情の代用物なんだこれはっていう、そういう宗教感情でしか満たされないものを、恋愛ってことで、早急に満たそうとするから、恋愛っていうのは生ずるんだっていう宮沢賢治的に感じるところを極にしますと、その恋愛感情の問題についても、日本の近代文学と近代詩は、さまざまなかたちで、それを繰り返し主題として繰り返したっていうふうにいえます。
中原中也の場合もそれでもって、自分の一生のコースを変えたっていうくらいの重要な問題として、その問題があらわれてきています。それは、もうすこし立ち入って言うことができると思いますので、詩をちょっと具体的にあげながら、立ち入ってみたいと思います。
小林秀雄との間に起こった三角関係の感じっていうのは、小林秀雄は、当時、奈良にいた志賀直哉のところにいって、そこにしばらく潜んでいるみたいな感じになって、結局みんな三者三様にぶっ壊れて終わったっていうことになるんだと思います。なかなか恋愛感情としてむずかしいのは、その三角関係っていうのは、むずかしいあれで、突き詰めていけば、それはとにかく、とことんまで行き詰まって、三者三様の生涯の壊れ方をするか、それじゃなければ、とにかく、もう生きちゃいられないってところまで、追い詰められるか、どっちかのところにいくんだっていうふうなのが、昭和の代表的な詩人である中原中也と、それから、代表的な批評家である小林秀雄が、身をもって演じてくれたドラマであるわけです。
このドラマっていうのは、少なくとも、漱石の小説の主題になり、芥川の小説の主題になりっていうふうに、作品の主題として、そういうふうに存在したわけですけど、それは、実際感情として、日本の代表的な近代の文学者が、それを身をもってっていいますか、体験したっていうのは、やっぱり、とても大きい、作品を離れてっていいますか、作品の外で、その問題が出てきたっていうことは、とても大きな出来事だっていうふうに思います。
それで、もちろん、個々の人にとっても、大きな出来事でありましたし、小林秀雄の文学の中に、その痕跡を見つけることっていうのは、とてもむずかしい、批評ですから、とくにそうなんですけど、むずかしいんですけど、中原中也のなかには、それは非常に大きくあらわれていて、中原中也の詩を、非常に倫理的に、色濃い倫理と、いま言いましたように、怨恨っていえば、怨恨なんですけど、怨恨にしているってことは、非常にはっきりしているので、これはとても、作品としても重要な変化、それから、生き方としても重要な変化っていうのを及ぼしたっていうふうに思います。
これは、しょうがないっていいましょうか、男女の問題っていうのはしょうがないです。誰がいい、誰が悪いってことでない、ぼくはないと思うけれども、全体的に外から見れば、あいつが悪いってことになるんだと思います。でも、当事者は、それぞれの良心と倫理と、生き方に対する考え方の極限まで絞りだして、それをどっかでどう切り抜けようかっていうふうに考えるんだと思います。
ぼくはひとつだけ、中原中也と、小林秀雄と、長谷川泰子の三角関係の結末と、ひとつだけ違うと思うのは、やっぱりどこかで救済しようとしたと思います。誰かを救済しようとしたと思います。誰かっていうのは自分なんですけど、いちばんあれすると、自分なんですけど、自分を救済することで、三者三様に救済されればっていうことを最後に考えたように自分は思って、そこがちょっと違うっていうような気がするんですけど、この場合には、三者三様、いさぎよく飛び散ってしまって、三者三様の傷の受け方をそれぞれ、それから後の生き方を決めていくってことになったと思います。
たとえば、なにをとってきてもいいんですけど、『在りし日の歌』っていうのは、そういうあれがあった後の歌なんですけど、あった後の詩っていうのは、どういうふうになるかっていうと、わりあいに客観的っていいますか、わりあいにそれに触れないように、触れないようにってなるわけです。たとえば、『在りし日の歌』の「頑是ない歌」っていうのがありますが、一節、二節読んでみますと、
思えば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気は今いずこ
雲の間に月はいて
それな汽笛を耳にすると
竦然として身をすくめ
月はその時空にいた
っていうのが、まだ続きますけど、わりあいに、子どものときを顧みながら、自分をなだめていくっていう調子の詩になってきます。
それから、未完詩集のなかである、やっぱり同じような、子どものときを、思わずそこまで振り返っちゃったっていうところの詩なんですけど、「幼年囚の歌」っていうのがあります。これもちょっとだけ読みますと、
こんなに酷く後悔する自分を
それでも人は、苛めなければならないのか?
でもそれは、苛めるわけではないのか?
そうせざるを得ないというのか?
人よ、君達は私の弱さを知らなすぎる。
夜も眠れずに、自らを嘆くこの男を、
君達は知らないのだ、嘆きのために、
果物にもパンにももう飽かしめられたこの男を。
君達は知らないのだ、神のほか、地上にはもうよるべのない、
冬の空は夜空のもとに目も耳もないこの悲しみを。
それにしてもと私は思う、
この明瞭なことが、どうして君達には見えないのだろう?
どうしてだ? どうしてだ?
君達は、自疑してるのだと私は思う……
っていう、これは一節ですけど、一節、二節と続きます。二節目も少ないですから読んでみましょうか。
今夜はまた、かくて呻吟するものを、
明日の日は、また罪犯す吾なるぞ。
そして、今、此処、机の前の、
自分を見出すばっかりだ。
じっと手を出し眺めるほどの
ことしか私は出来ないのだ。
外では今宵、木の葉はそよぐ。
はるかな気持の、春の宵だ。
そして私は、静かに死ぬる、
坐ったまんまで、死んでゆくのだ。
※途中から「わが半生」という詩になっています
っていう詩を書いています。これは、その恋愛事件を契機にして、ぼくの見方では、中也はやっぱり、自分の自伝的自画像っていいますか、それをさまざまな色を塗りながら、繰り返し書いています。
時期についても、こういう子どものときのことを書いてみたりっていうふうに、さまざまな色を塗りながら、自分の自画像を書いていますから、その自画像は、歴然と、その恋愛事件前の自分と、後の自分っていうのは、歴然と違っているっていうふうな自画像になっています。
小林秀雄の場合には、なかなかそういうふうな作品っていいますか、評論の作品には、なかなかあらわれにくいですから、そういうふうには、あらわれていないわけです。だけど、べつに、中原中也に対する恨みとか、おもしろくないとかってことは、小林秀雄は生涯、言葉にはしていないっていうふうに思います。
それで、中原中也のことは、純粋な魂が傷ついては、繰り返し、繰り返し、悔恨の歌を歌うっていうのは、中原の一種の歌い方で、それが恋愛事件以降の中原の詩の歌い方だったっていう言い方で、けっして、悪くとるようなことは、歌っていませんけども、それは、小林秀雄独特の表現の仕方で、ずいぶん大きな影響を、小林秀雄はそのとき、影響っていいましょうか、傷っていいますか、それを受けたんだって、ぼくは思っています。その後の、いくつかエピソードっていうのはあるんですけど、それを見るとやっぱり、そういう感じを露骨に、ぼくらは、感じざるを得ないっていうふうに思います。
中原中也のことに、そんなにとどまっていくわけにはいかないので、立原道造のほうにいこうというふうに思います。先ほど言いましたように、ごく初期の習作時代は、やっぱり、中原中也とそんなに変わってないです。ダダやシュールの言葉のくっつけ方っていいますか、連結の仕方っていうのを、盛んに詩でもって練習をしています。その練習をしたところを、できるだけ削り取っていくっていうところが、立原道造の詩の方法をつくっていったように思います。
立原道造の詩集っていうのは、少なくとも、ぼくらが目に見えるかたちでは、『萱草に寄す』っていうのと、『暁と夕の詩』っていうのと、それから、『優しき歌』っていうのと、その3つは、ぼくらがまとまったものとして読むことができるものです。
立原道造の詩の特徴っていうのを申し上げますと、先ほどもすこし申し上げましたけれども、立原道造っていう人は、自然っていうものに対して、どういうふうに自分をかかわらせていくかっていう場合に、いくつかの段階っていいましょうか、層を設けていた人だっていうふうに思います。
ですから、その層を最後までえぐっていきますと、立原道造の自然観のいちばん最後のところへいくだろうかっていうふうに考えたいわけですけど、それはほとんど、ぼくらみたいのが読んだ限りでは、なかなかほとんどそこへいくのは不可能だっていうふうに思います。
それからもうひとつ、恋愛感情みたいなものの表現っていうのも、やっぱりいくつかの層があって、その層をひとつひとつめくり去っていかないと、それじゃないと、とことんのところは出てこないって、とことんのところまで出てくると、なにが出てくるのかっていうところは、非常に中原中也に対するのと別な意味で、層を距てて自分っていうのを遠くへ押しやっているっていう詩人は、ほかにいないくらいですから、それは非常に興味深いことなんですけど、ぼくらが一生懸命、今日の主題に即しまして、恋愛感情、あるいは、立原道造の人間感情っていうのは、どこにあったんだっていうのを、底の底までめくり返して、これだっていうふうなものをつかまえたいと思って、いろいろ試みてみたんですけど、それをなかなか見つけてくるのがむずかしいと思います。
でも、この人の詩の本質的な特徴っていうので、ぼくらが立原道造っていうのはどういう詩人だっていった場合に、ぼくらがこういう詩人なんだと言っているところは何かっていうことは、わりあいに、やさしくわかると思います。
それは、ひとつの特徴は、先ほどから言いましたように、自然を具象物、あるいは、具体的な物象として、なかなか歌わないってことです。ようするに、物たちであったり、鳥たちであったり、虫たちであったり、草たちであったり、あるいは、風たちであったりっていうことで、人間とおんなじ同列でもって、人間の目線と同じ高さで、自然物をちゃんと見ていて、上でもないし、下でもなくて、ちょうどその目線で見ていて、そういう意味では、感情をもっている人間と同じ扱いをしてるんですけれども、その目線の奥に何があるんだっていうところは、なかなかはっきりしないっていうかたちをとっています。
それは、どういうことかっていいますと、目線の限りである自然物、物象っていうもの、あるいは、虫とか、花とか、鳥とかっていうものに対する一種の心理的なさわり方っていうのがあるんです。一種の心理的な触覚みたいなのがあるんです。
たとえば、詩のなかで、いちばんそういうのがよくあらわれているのは、『萱草に寄す』の最初に出てくる4つか、5つの詩のなかに、それがとてもよく出てきますけど、たとえば、こういうふうに、自分がいて、人がいてっていうふうにいて、人がおしゃべりをしていて、そこへ、たとえば、蛾が飛んできた、それで、誰か相手の人が、手をこういうふうにやりながら、蛾を追い払う手つきをしたっていうふうな手つきをしたっていうような、目で見ればそれだけのことなんですけど、それだけの光景っていいますか、風景がありますと、立原道造は、こういうふうに人が蛾を追う手つきっていうのは、ほんとうに蛾を追っているんだろうかっていうふうに考えることができる人です。
つまり、自分の心理っていうのを反映させた相手の心理っていうのを、その中から取り出してくることができる人です。つまり、単なる自然、あるいは、自分の外にある光景自体から、微かな心理的な、よっぽど繊細じゃなきゃ気がつかないような心理的な意味合いを、フッていうふうにつくりだしたり、思い出したりするってことができる人です。
それから、自分が、たとえば、人としゃべったこととか、なにかいっしょに言ったこととかを思い出しているような詩っていうのがあります。思い出すってこととか、それから、たとえば、誰かが今日はやってくるかもしれないっていうようなことで、自分はそれをじっと待っているってこととか、そういうことっていうのが全部、意味をもってしまうわけです。
その意味っていうのは、心理的な意味なんですけど、つまり、立原道造が「待つ」っていう言葉とか、「忘れる」っていう言葉とか、「思い出す」って言葉とか、「追憶」っていう言葉でもいいんですけど、そういう言葉を使うとき、なんらかの心理的なニュアンスを時間の感覚を交えてあらわすような、そういう言葉を立原道造が詩のなかで使うときには、非常に特別な使い方です。
それは、単に「待つ」っていう、「待つ」っていうのは、人が来るかもしれないから待つ、あるいは、来るという約束だから待つっていう意味以外に、時間の要素が、その人と自分との時間に対する要素っていいますか、考え方が、くい違っちゃっているっていうことを、同時にあらわしているわけです。それが、「待つ」っていう言葉の意味になります。それは、立原道造の詩を、非常に心理的といっていいニュアンスを含めてしまう理由だと思います。
それは、「追憶」っていう言葉もそうです。「忘却」っていう、「忘れる」っていう言葉もそうです。「忘れる」っていうのは、われわれがいう忘れちまったよっていう、あるいは、中原中也が言うような意味で忘れちまったっていう、そういうのとは、ちょっと違いまして、「忘れる」っていう言葉は、自分の心理状態、あるいは、心の動きがもっている時間と、それから、だれか相手、だれでもいいんですけど、相手のもっている心の動きがもっている時間性っていいますか、時間とが合わなくなっちゃったよっていう意味を含んでいます。つまり、「忘れる」っていう言葉は、ポーッとして忘れちゃったっていう意味じゃなくて、時間がすれ違っちゃったっていいましょうか、くい違っちゃったとか、相手と合わなくなっちゃったっていう意味合いを、同時に含んでいます。
この種の意味合いで、「忘却」、「忘れる」とか、「待つ」とか、あるいは、「追憶」とかっていう言葉を理解してっていうか、解釈しているっていうのは、ぼくなんかの知っている範囲でいえば、ひとつは、デンマークにキルケゴールっていう哲学者がいます。キリスト教の哲学者がいますけど、この人が、そういうことを、非常に大きく、哲学的な問題にした人なんです。
この人は、「追憶」っていうときには、かならずそうなんです、時間が合わなくなっちゃった。つまり、過去の何かを思い出しているっていう意味だけじゃなくて、時間が、自分のいま持っている時間、現存してる自分の持っている時間と、それから、自分が過去に体験したところの時間とは、なんか時間性が合わなくなっちゃったんだっていう意味合いを含んでいます。
それは、時間性に対するキルケゴールの独特の考え方で、その考え方からきていると思いますし、また、その自分の実体験からもきているんだっていうふうに思いますけど、キルケゴールなんかは「忘却」とか、「追憶」とか、それから、「罰」とかっていう言葉のニュアンスはぜんぶ、そういう時間性のすれ違いとか、くい違いとか、合わなくなっちゃったっていう問題を、かならず、精神の問題に、かならず、含めて語っているっていえます。
ですから、たとえば、キルケゴールの場合には、自分の、恋愛感情をもっていた女の人と婚約して、婚約して別れちゃうっていうのがあるわけですけど、つまり、婚約するまではなんか自分でも、時間制御があり過ぎるほどあってっていいますか、過剰にあってっていうふうになっていて、それで婚約するんですけど、ついに婚約してしまったら、キルケゴールのほうは終わりだっていう、つまり、「忘却」とおんなじ感情になって、つまり、時間性が合わなくなっちゃったっていう感情体験、あるいは、心理の時間体験っていうのをして、それで、別れちゃうわけです。この手のことは、キルケゴールっていうのは、生涯のうち、いくつか繰り返しています。これは、ちょっとどうすることもできないっていう感じで当面します。
これは、カフカが、やっぱりそうでしたし、その種の体験の仕方っていうのは、べつに、キルケゴールの専売ではなくて、そういう体験の仕方っていうのがあって、だから、キルケゴールが哲学としていえば、「追憶」っていうのは、過去に対してじゃなくて、未来に対して、「追憶」っていう感情を持たなきゃダメだっていう、持つのがほんとなんだ。それから、過去に対して、未知、未見っていうことが、過去に対して向かう感情じゃなきゃいけないんだっていうのが、キルケゴールの言いたい、哲学の根本問題なんですけど、それは、キルケゴールの体験、つまり、実体験っていうなのも含んで、そういう哲学的理念っていうのに、到達しているわけです。
これ、日本の文学でいって、ぼくらはそんなにあれじゃないんですけど、ぼくらが知っててあれなのは、『源氏物語』の「浮舟」っていうのがそうです。「浮舟」の終わりのほうですけど、薫の大将が浮舟が好きであれなんだけど、それがやっぱり、キルケゴールの場合も、あっさりいうと、そういう言い方でいいんですけど、キルケゴール自体も、自己分析しているわけですけど、ようするに、「追憶」の恋愛っていうのは、つまり、過去に終わったものからはじまる恋愛のことだっていうふうに言っているわけなんです。
自分が許婚者に感じたそれで、やっぱり現実に、その場で、その時にっていう恋愛感情というよりも、すでに、恋愛感情が終わったときから、はじまっている、一種の喪失した、失われる恋愛っていうのがそれなんだ。これは、はじめから失恋していて、恋愛感情が具体的にっていうか、実際的にはじまっているんだ。これが、うまくいくはずがないんだっていう内省と、理念の結論に達するわけです。
これは、『源氏物語』の薫っていう、中将でも、大将でもいいですけど、薫っていうのは、非常に宗教的な人です。恋愛感情についても、いつでもそうなんですけど、自分が恋愛感情を失ったときに、実際に、相手の女の人に、自分の恋愛感情を訴えたり、で、相手の人がその気になったら、本気になったときには、自分のほうは終わったっていう感情だ、そうすると、相手の人はどうすることもできなくて、浮舟の場合には、当時の京都の郊外だった宇治川の外のほうへ、籠っちゃって、逃げちゃうわけです。
そうすると、薫のほうは終わりかっていったら、そうじゃない、そんなにあっさりしたものじゃなくて、そういうふうに逃げちゃうっていうふうなあれしか、自分はしていないんだけど、自分が一方では、ほんとうに恋愛しているんだっていうふうに、錯覚しているっていいましょうか、それでやっぱり、人を介して、帰ってこいっていうようなことを言わしたりするんです。だけど、相手のほうは、すでに終わっちゃってる、どうして終わっちゃったんだっていえば、相手のほうが、薫のほうが、終わりにしちゃったっていう感情を自分にもったから、自分はもう離れちゃったんだっていうのが、女の人の感じ方になって、ところが、薫のほうは、自分は失われた感情から出発しているのに、すこしもそれに気づかないで、まだ恋愛している。どうして消えちゃったんだろうかと、立ち去ったんだろうかっていうのは、どうしても理解できないっていうふうになっていって、あとを追っかけさせたりするわけですけど、ほんとうは、自分のほうが終わっちゃった恋愛感情からはじまっているんだっていうことに気がついていないわけです。
これはやっぱり、見事に、そこのところを描いたのは紫式部であるかどうかっていうことについては、たくさんの異説があるわけですけど、とにかく作者は、実に見事に、薫のもっている宗教感情に近い感情で、もう終わっちゃったところからしかはじまっていない恋愛っていうのと、それから、相手は大まともに、恋愛感情をもつんだけど、誘われてもつんだけど、しかし、もってみると、相手のほうは終わった感情なんだっていうのがなんとなくわかって、これはダメだって思って、離れちゃうっていう、そういう離れ方を、実に見事に描写しています。
そういう言い方はよくないですけど、立原さんの恋愛感情っていいますか、異性感情っていいますか、詩が表現した異性感情とか、恋愛感情とか、それから、人間感情っていうのは、いつでも、喪失からはじまっているっていう、あるいは、追憶からはじまっているっていってもいいと思います。
誰でもが、ある期間に、文学が好きなら、立原道造の詩を一生懸命読んで真似してみたっていう時期があるわけですけど、それは、誰でもって言っていいほど、文学が好きな人は、そういう体験をもっているわけですけど、それはやっぱり、なぜかっていうと、人間の、思春期に入る頃の、人間の恋愛感情っていうのの、はじまりっていうのは、たぶん喪失の恋愛っていいましょうか、もうなくなっちゃってるところからはじまる恋愛感情であって、それは、男性と女性とすこし違うところがあって、女性のほうは、それを本気にしたときには、こっちのほうはもう冷めちゃってるっていうんでしょうか、終わっちゃってるっていう、そういう感情になるっていう体験を、たぶん、誰もがいちどは体験したことがあるみたいなことが、きっとあるんだと思います。
だから、立原さんの詩は、ある時期に、かならず、文学とか、詩が好きな人は、かならず、ここを入っていったっていうか、くぐっていったっていう、あれがあるわけです。それで、実際に恋愛がうまくいっちゃったり、あるいは、恋愛の現実完了っていう、つまり、現実完了っていいますか、健全な完了っていうかわかりませんけど、それに目覚めた人は、立原さんの詩から、ひとりでに遠ざかっていくっていうことがあるんだと思います。ですから、ある時期を通過してしまったら、それだけだっていう面が、立原さんのあれにあります。
どう考えても、この人の詩に表現されている恋愛感情っていうのは、すでに喪失した恋愛からはじまっている。あるいは、追憶からはじまっているような恋愛の表現が、非常に顕著にあらわれていて、やっぱりそこから由来するんじゃないかっていうふうに、ぼくには思われます。
しかし、一方からいいますと、誰でもがそうで、立原さんもそうでっていうときには、そういうふうになったときには、そういうふうに病気になって、亡くなっちゃったっていうことがあって、きっと夭折という意味が、立原さんの場合は、とくにそうですけど、そういう最初の恋愛感情、あるいは、人間感情である「性欲」っていうものを主体にした、あるいは、「忘却」っていうもの、あるいは、「待つ」っていうことを主体にした人間関係っていうものに、詩を集中していったその時期っていうのを、立原さんは、そこで生涯を終えたわけですけど、ふつうの凡俗は、われわれはそれをあれして、なお、その上で生きていくとか、生活していくってことの間に、立原さん的な感情を逆に、今度は失ってしまうっていうことが、主な原因なんじゃないかっていうふうに、ぼくは思います。
中原中也の場合には、そういう意味合いでは、ちっとも、いちばんむすかしい恋愛をやってのけてってことで、それで座礁してっていうようなことなんですけど、それはたぶん、誰にでも、いつでも起こりうる問題のように思います。これはなかなか降りたとか、卒業したっていうことっていうのは言えないんだっていうふうに思います。それが、また逆に、中原中也の詩を優れた詩として、ぼくらが保存している所以じゃないかって思います。
たぶん、いまの若い人は、やや違う感情の抜け道っていうのを、違うようにこしらえていくってことが、ややできるようになっているんじゃないかなっていうのが、ぼくのおぼろげな観測です。いまの人は、男女の恋愛感情の問題も、あんまり一定限度以内に踏み込んでいかないっていうふうに、非常によく気を付けていると思います。
なんとなく、それが極まっていけば、三角感情になれば、かならず、どう考えても、ひとりが破滅してっていうふうになって、ひとりは破滅の傷を、あとは破滅の傷を負っていくってことになるっていうことが、なんとなくはじめからわかられちゃってっていうんでしょうか、これは、時代体験もあるんでしょうけど、わかられちゃっているから、一定限度以上は近づかないようにしている気がしてしょうがないんです。
ですから、わりあいに簡単に離れたり、簡単に一緒になったりっていうことが、できるような距離感っていうのをもっていて、その距離感の範囲をわりあいに、忠実にっていいますか、臆病にっていいますか、あるいは、社会的通性として守っていて、それで、その範囲でやるので、ほんとはそうじゃないでしょうけど、一見、中原中也の時代からいえば、別れるときは、はい、さよなら、一緒になるときは、ちょっと一緒に住もうじゃないのっていう、だけど、結婚届とか、そんなことはしないでっていうふうにして、それでダメになったっていったら、はい、またさようならでいこうじゃないって、さよならで、友だちになりましょうみたいなことで、まだいるっていうような、そういうかたちで、なんか三角関係が、つまり、漱石以来の伝統がある三角関係が破れてしまって、成り立たなくなってしまったっていうのが、だいたい若い人の状態じゃないかと思います。
それをもっと極端にいけば、たとえば、お年寄りの、スケベなお年寄りが、お金をあれするから付き合わないっていうと、付き合って、商売でもないですけど、半分小遣い稼ぎになってっていうことも、たぶん、昔は、中原中也時代だったら、特殊な人がそういうふうにやるっていうようなことだったんですけど、いまはわりあいに、若い人はそういうのが平気で、わりあいにあっさりとやれて、それで、それがどうして悪いのかってことに、理由を見つけることができない、儲かってっていうか、小遣いが稼げて、お互いにこれほどいいことはないじゃないのっていう、どこが悪いのって言われて、これだから悪いって言える人っていうのは、よっぽど、ちょっと言えないんじゃないでしょうか。
それくらい、これがいけないってことを言うならば、とことんまで、倫理の問題、つまり、中原中也の、自然と人間感情とをつないで、通解した倫理感情っていうようなものを捨てまして、それを放棄しまして、そうじゃないんだっていう、自然と人間感情をつないでいけるものが、もっと違うものなんだ、それは倫理感情じゃないんだ。こうしたいいとか、これはいいんだけど、これはよくないんだっていう、そういう問題じゃないんだっていうことを、媒介になる仲介のなにかを見つけ出せなければ、やっぱり、本格的には言えないんじゃないでしょうかっていうのが、ぼくの考え方です。
これは、ぼくは子どもに対して、そういうこと当面したことがあって、離れて学校生活していて、お金がなければアルバイトするって、アルバイトの種類がたくさんあって、レストランでアルバイトする場合もありますし、喫茶店でアルバイトするとかもありますし、今度は、もうすこしあれしますと、飲み屋さんとレストランと区別つかないっていう、そういうところでアルバイトする場合もある、それでもっといきゃ、ちょっとプロテリになるんじゃないかっていうアルバイトの仕方もあると思います。そのなかに断続性がないので、連続性があると、たいていのアルバイトをしたいなら、そのくらいの金で言えば送るぜっていうわけです。
送るぜっていうことの心理状態は何かっていったら、ちょっとこの連続性のないアルバイトで、プロスティチュートみたいな、つまり、性の専門家みたいなふうになっちゃったことを、もはや放任できるかみたいになってくると、すこぶる自分の考えも怪しくなってきまして、それでもおれは、倫理的に止めているんだっていうふうに言われたくも、それから、思いたくもないものだから、がんばって、そのくらいのお金なら無理すれば、送るからいいじゃないのっていう言い方しかできなかったという体験を覚えています。
ぼくに言わせれば、それほど、中原中也が身をもって体験したような、こういう人間関係、とくに男女の関係っていうのは、乗り越えるのがむずかしいような気がしてしょうがないんです。それで、なぜ悪いって問われて、本格的に答えられるっていう答えを、誰かがしてるっていうのを見たことがない、聞いたこともないです。それから、書いたのも見たことがないです。たいていは、すぐ道徳が入ってくるわけです。そんなことをしたら嫁にいけねえとか、ちゃんとした結婚はできないみたいなことをいうわけなんです。
だけれども、そういういまの人の、自分もよくて、おじさんもいいなら、いいじゃないのっていうのと、プロの女性の、それを商売にしている人との国境っていいますか、境界は、なにも、ぼくはないと思いますから、なぜいけない、いけない理由がわからないっていうことに、ぼくは、正直にあれすると、なるような気がします。
そこがやっぱり、いまみたいなとぼくは思ってるわけですけど、ようするに、道徳の、あるいは、倫理の、一種の転換期っていいますか、崩壊期であって、まだ、新しい倫理っていうのが何なのかっていうのが、ほんとはよくわかっていないんだっていうところで生じている問題のひとつで、やっぱりそれはなんとかして、それはこうなんだ、こうこうこうであっていけないと思うんだっていうことが、明確に言えないといけないんですけど、それはまだ、ぼくは、ほんとは言えていないんだと思います。言えていなければ、やるほうは、なに言ってんだ、あんなことを言ってるやつは、ほんとにダメなやつだ、倫理的にダメなやつだっていうふうに、逆に言うと思います。
それくらい、むずかしい問題のようになっていて、それと同時に文学の中から、詩の中からも、こういう中原中也が体験した三角関係の、それをもとにして、自分の人生を変えてしまったとか、芥川龍之介の小説みたいに、そういう三角関係の問題をもとにして、自殺してしまったとか、漱石のように、『それから』みたいな作品とか、『門』みたいな作品、倫理的な負い目をおって、なんとなくひっそりとしてしか、生きるっていうのはよくないんじゃないかって思って、そういうふうに生き方を変えてしまうとかっていう、そういう文学的な主題っていうのが、まるで、明治時代に、結核の主題が離婚の原因になった、つまり、たとえば、蘆花の『不如帰』みたいな小説みたいに、結婚していて、奥さんが結核になっちゃってっていうことが、離婚の理由になっちゃうみたいな、そういう小説が、いま読むと、馬鹿馬鹿しいことと同じように、やっぱり、漱石とか、中原中也や小林秀雄が、身をもって体験したそういう問題っていうのは、もしかすると、だんだんそれじゃダメだ、その倫理はダメなんだっていう結論を、若い人たちの世代から、つくりだしていって、違う主題とか、違うモチーフが、詩の主題になっていくってことになっていくような気がします。少なくとも、いま、それに対して、なにかはっきりした答えを出すことが、なかなかできないなぁって、中途半端な答えならできるけど、できないなっていう時代のように思います。
それくらい、めずらしいっていいますか、中原中也の恋愛はめずらしい恋愛だったし、また今度は、立原さんのような、具体性にはすこしもいかないで、恋愛感情一般のところにはいくんですけど、そういうふうにいきますと、自然感情と恋愛感情っていうのが、何にも仲介なしにくっつけるわけです。つながっていけるわけなんです。
立原さんの詩は、そういう見方からすれば、そこが非常にうまくできて、はじめから喪失された恋愛感情、あるいは、喪失された人間関係っていうのが、立原さんの詩の主題になっていて、それは、立原さんの自然感情と、とてもよく似ているように、ぼくには思えるのです。
ぼくは、具体的に、かろうじて、立原さんの詩の中から、そういうことについての、ある暗示みたいなものを受け取れたのはふたつあって、ひとつは、立原さんの散文詩ですけど、散文詩の中に、「子どもの話」っていう散文詩があります。いくつかから成り立っているんですけど、4節目に、ビラっていう広告がありまして、そこのところを見ていて、これかなぁっていう、これは立原さんのもっている人間関係に対する倫理なのかなって思えたわけです。
それは、簡単なことなんです。子どもがいて、いくつかの章とつなげてある散文詩なんですけど、ビラっていうところは、子どもには父親がいないで、母親といっしょに暮している。それで、母親はいい人だけれども、お金持ちではないっていうんです。で、子どもを喜ばせることができなかった。子どもは、広々とした家で、自分の思いどおりの遊びをして過ごしたいって思ってるんだけど、実際にある自分の家っていうのは、10人も人が入っちゃえば、いっぱいになっちゃうような、そういう家で、到底、子どもの欲求っていうか、眼目っていうのをかなえられるような家ではなかった。庭みたいのが小さくあるんだけど、そこでもただのどこにでもある石が置いてあったり、草花が置いてあったり、それだけのことで、これもまた、少年の願望を満たさないっていう、で、少年はあるとき、飛行機からビラが飛んできたっていうんですね、
これは、ぼくなんかも子どものときに覚えていますけど、広告のビラっていうのは、どういうふうに子どもの手に渡るかっていうと、飛行機がまくか、それじゃなければ、デパートの物売り場がありますけど、その上に重ねて置いてあって、いずれもぼくらは、ビラを飛行機からまかれると、それを拾うために駆け出していって、ビラが落っこちてくるところに駆けていって、それを拾うみたいなことが、ひとつの遊びになっていたことを覚えています。
立原さんもそれは10年やそこら違うでしょうけど、たいして変わり映えがないあれだったと思います。それは、わりあいに、ビラっていうものに対する、ひとつの固定観念を植え付けるものだったので、それで、あるとき、飛行機が通ってきたと、子どもは、また、ビラをまいてくれるなと思って見ていますと、ビラをちっともまいてくれないで、飛行機が通り過ぎてしまった。で、子どもは怒って、飛行機に対して、怒って、怒鳴ったりしたっていうんです。
ビラっていうのは、なんにするのかっていう、これも立原さんがいうように、それでもって飛行機をつくるんです。紙飛行機をつくって飛ばしたり、学校の屋上から投げて、紙飛行機を飛ばしたりっていう、そういうために、ビラっていうのを、デパートから持ってきちゃったり、飛行機からまくビラを集めたりして、それで遊んでいたっていうのを覚えているんですけど、そういうふうにして、子どもは紙飛行機をつくるあれがなくなっちゃった。
で、子どもは風邪をひいて寝込んじゃうんですけど、咳をして寝込んじゃうんですけど、その咳は、飛行機がビラをまいてくれなくて、自分はビラをもって遊べないので、こんなふうに風邪をひいて寝込んじゃったんだっていうふうに、子ども自身は、そう思いこむ。それで、しばらくすると、子どもは死んじゃったっていうのが、「子どもの話」のビラっていう項の書いてある全体なんです。
この、子どもの遊び方と、子どもの欲望のあり方と、それから、それが満たされないってことと、自分が風邪をひいて、喉を枯らして寝込んじゃったっていうことが関係あるんだっていう、子どもの思いこみ方と、それから、それでもって子どもが死んじゃうっていう、死んじゃったっていう、そういう結末のつけ方っていうののなかに、なんとなく、ぼくは、立原さんの、人間関係に対する、底流している、底にある感情っていうのを、非常によくあらわしているって思うわけです。
どうしてそう思うかっていうと、このエピソードにある立原さんの感情、それから、結末のつけ方っていうのと、子どもの移りゆく感情と願望の描き方っていうのは、ぼくは、立原さんの人間関係に対する、詩の中での描き方と、関係があるよなって思えるわけです。つまり、「子どもの話」について、これ以外の関係っていうのを、立原さんは描くことがあんまりできなかっただろうなっていうふうに思えて仕方がないわけです。
これと、ぼくは、自分の固有の環境の中で類推できる要素をあげるとすると、誰だかっていうのは忘れちゃって覚えていないんですけど、中身は非常によく覚えているんです。それがロシアの童話だったっていうのも、非常によく覚えているんです。それはどういうのかっていうと、やっぱり、母と子どもしかいない家庭のことなんです。
母は内職をしていて、障子のここから、子どもが影絵をつくって遊んでいるんです。それで、影絵を障子に映して、遊んでいるわけです。作品の雰囲気からいうと、非常に暗い雰囲気で、暗く無言の雰囲気で、それで、母親は針仕事をして、それで、子どもは一人っ子なんですけど、男の子なんですけど、手でもっていろんな影絵をつくって、影絵を映して遊んでいるんです。
そのうちに、母親は子どもがつくっているその影絵を、障子に映っているのを、針仕事みたいのをしながら、見ているんですけど、だんだん引き込まれて、母親も、自分もいっしょに影絵をやりたくなってつくりだすんです。ふたりで影絵をつくりっこしてやってるんです。それは、無言の暗い雰囲気なんですけど、それをやっていて、それで、最後は立原さんがあれしているのと同じで、ふたりとも死んじゃうんです。影絵をつくっていることに凝りに凝って、寝食を忘れてっていうのはおかしいですけど、パチンコ屋に凝るのとおんなじことで、おかしいですけど、とにかく、それでもって凝っていって、非常に病的にのめりこんで、ふたりともそればっかりやって、食べ物も食べずにそればっかりして、とうとう二人とも死んじゃうっていう、そういう童話なんです。ものすごく暗い童話で、覚えているんです。中身はちゃんと、肝心なところは覚えているんです。
これは、立原さんの、母と子のいる子どもの扱い方っていうようなことでつくっているビラというエピソードっていうのと比較すると、立原さんのもっている人間関係に対するこだわりっていうのと、それから、線を引いてる線の引き方っていうのとが、とてもよくあらわれているような気がして、それが、たぶん、立原さんが、人間関係とか、あるいは、恋愛関係の感情に対して抱いていた感情として、非常に本質的な、あるいは、特徴ある感じ方だったんじゃないかなって思いますし、また、立原さんの詩は、そういう詩でもって、ほとんど終始しているわけです。
わずかに立原さんの詩で、そういう問題に対して、一種の倫理性っていうのを言ってるじゃないのっていう詩は、ほんとに全体の中で3つか4つ、これは未完の詩だと思いますけど、3つか4つあります。それ以外にはないです。そういう意味合いの、立原さんのもっている、人間関係に抱き、人間関係に与えた、さまざまな倫理的な感覚とか、倫理的な感情っていうのは、それ以外にすこしもつくっていないわけです。たとえば、3つか4つあるそれっていうののひとつを、いまの子どものあれに関連したのがひとつありますから、それを読んでみましょうか、簡単ですから、「子守唄」っていうんですけど、
眠れ 瞼よ
おまへの向う
靄に流れる うすら明り
眠れ 眠れ しづかに眠れ
息をかぞえて
夢をかぞえて
きらきら光る朝まで
瞼よ 幾つの夜をこえ
眠れ 眠れ しづかに眠れ
っていう、「子守唄」っていう詩があります。これは、非常に、いまの主題に即していえば、立原さんの断定的っていったらいいんでしょうか、非常に倫理的な断定を下して言ってること、眠るっていうことに対して、いってみれば、子どもの安らぎっていうことに対して言っている断定的な言い方になります。
これは、一般的なことについて、立原さんが、もうひとつかなり断定的な詩を書いているのが、ひとつあります。これは、たったひとつって言っていいくらいひとつです。
灼ける情熱となつて
自分をきたへよ
ためらつて 夕ぐれに
青い水のほとりにたたずむな
白く光る雲を 風に吹かれる空を
ちひさく飛んでゆく鳥の道を ながめて
自分のなげかひを 語りかけようと
ねがふな!
ほとばしれ
千人の胸へ
しっかりと掴む胸へ
愛と 正しいものとの
よつて来るところのものと
きづくものとを 確かに知れ
っていう詩です。立原道造にしてはめずらしくっていいますか、こんな断定的な口調で、断定的なことを言うってことはほかにないんですけど、こういう詩は、未完の詩集のなかですから、まだ推敲しようとしたとか、ほんとは出したくなかったんだってことかもしれませんけど、こういう詩を書いています。
これは、やっぱり、はじめの2行のところに、自分がいつでもやっている人間関係についての感じ方とか、考え方、それから、それを紛らわすためにっていいましょうか、それと地続きに紛らわすために、自然の鳥やなんかを、風に吹かれている空とか、風が吹いている空とか、雲が吹かれているとか、そういうようなことを歌って、それで、それと自分のそういう断定的でない感情とをつなげてしまって、それで終わらせている自分の詩に対する認知的な感情、あるいは、性自身に対する倫理的な感情っていうのに対して、それを否定して、自分の胸だけじゃなくて、千人の胸へ、そういうようなことを言えとか、愛とか、正しいものについて、なにか確かなことを言ってみろっていうふうに自分を励ましている詩だと思いますけど、これが立原さんの歌った、非常に少ない、全体の中でも、微かな詩だと言っていいくらいに、少ない詩で、これがやっぱり、立原さんの人間関係に対する翰墨と、それから、実際のやり方とを、非常によくあらわしているんじゃないかっていうふうに思います。
それからもうひとつ、これは、ぼく自身の勘ぐりになっちゃうんですけど、ぼくらも、東京の下町で育っているわけです。どこか小学校を卒業して、その上の、上級の学校へいこうかっていう者がいると、それはだいたい行くところが決まっていたわけです。
ひとつは、その頃、府立第三中学っていいましたけど、ようするに、芥川とか、堀辰雄とか、立原道造もそうなんですけど、そこへ行くわけです。それで、その学校へ行くっていうかたちをとるっていう、それから、商業学校でしたら、越中島ってところに、府立第三商業学校っていうのがありまして、そこへだいたい行く。で、自分の家が商家であったりとか、商家に勤めたりしたいってやつで、小学校だけでは、もうすこしいったっていう人は、府立第三商業学校に行きます。それから、工業関係にいきたいっていうならば、ぼくらがそうですけど、府立科工っていうのがそのころありまして、そこと、近所にいまは隅田高校っていうのか知りませんけど、実科工業学校っていうのがありまして、そこへいくと、だいたい東京下町のやつが行く学校っていうのはその3つに決まっていて、どこかへおさまりをつけるわけです。
そういうところであって、生活の仕方っていうのも、さして変わりはないのです。芥川もそうですけど、堀辰雄もそうですし、立原道造もさして変わり映えがないんですけど、そういうところの暮らし方を知ってるやつから、やつっていうのは、もちろんそうじゃない人もいるんでしょうけど、そういうことにこだわるとすれば、こだわりが捨てきれないとすれば、捨てきれないやつが文学でもやろうっていうふうに、あるいは、詩でも書こうとかいうふうになりますと、だいたいかたちは2つになっていくわけです。
ひとつは、ようするに、非常に生活の詩を書くっていうことです。生活の隅々で当面することを、非常に細かい感情でもって書いていくってやり方をするか、まったく逆に、ようするに、生活感っていうのをまったく遮断しておいて、ひとつの抽象的な領域っていうのを設けまして、その抽象的な領域で物語を語り、詩をつくったりするっていうやり方をする。
だいたい極端にいいますと、そのふたつしか、やり方はないよなっていう、とくに、東京下町の、ある意味では、いい人たちのむんむんした相互扶助の感情みたいのがあるところであって、それはいいときにはものすごくいいわけですけど、つまり、隣から簡単にお米貸せなんて借りて、借りてきちゃって、また返して、こういう非常にやりやすいところなんですけど、いったん裏目になりますと、これほど息苦しいところはないってなるわけです。そうすると、えって、まいったなって感情になってくることがあるんです。贅沢っていえば贅沢でしょうけど、ほんとにやりきれんなってふうになるところがあるんです。
そういうところと、それから、だいたいどこへいったって、あの家の母親は再婚したとか、あの家の子どもはどこか嫁に行ったんだけど、帰ってきてまたいるよとか、そういうことが町中わかっちゃうような、そういうあれですから、いやだなって思いがして、嫌になっちゃうことがあるわけです。
そうすると、文学をやろうっていう人は、そういう場合には、具象性とか、具体性とか、生活性っていうのを一切遮断して、一種の抽象的な、そんな世界っていうのは、世界中どこにもないんだけど、そういうところを舞台にした物語とか、文学とか、詩とかっていうのをつくるっていうふうに、どうしてもなっちゃう、そのどっちかだとぼくは思いますけど、立原さんはいわばその抽象的な世界っていうのを、散文詩なんかもそういうところでつくるってしますから、やっぱり西欧近代的にっていうか、バタ臭い要素っていうのはよくつくれるんですけど、生活の根っこっていうのが出てこないじゃないかっていえば、そのとおりですっていうふうに言う以外にないので、小鳥小鳥、小鳥たちっていうけど何がいたんだ、そこにはとか、草花でもそうなんです。アザミとか、忘れ草とか、ほんとに3つか4つくらいは具体的な名前が出てきますけど、みんな草花とか、夏の花とか、そういうあれで済んじゃうわけです。
だけど、ほんとは何の花が咲いてたんだっていうと、夕菅だって、夕菅なんていうと、語音がよくて、なんとなく優雅な名前だけど、あんなものはどこにでもある雑草ですから、つまり、夕菅っていう言葉から、どこにでもある雑草じゃないかっていうふうな匂いは出したらいかんのです。立原さんにとってはダメなんです。それは禁忌であって、ゆうすげっていう音だけ、なんとなくこれはいいぜっていう、そういうところの次元で、つまり、抽象的な次元で、自然物でも扱わざるを得ないっていうのは、たぶん、ぼくは、そこから出てくるんじゃないのかなって思ってる要素が多いんです。
それは、みんな同じです。堀辰雄の小説もそうです。これは、やっぱり一種の、ある意味では架空の心理小説で、いったんこれがしゃくにさわりだしたら、どうしようもないっていう、こんな馬鹿な小説があるかっていう、だけど、ものすごくモダンで、近代的でっていう、これだけ心理のニュアンスを小説の中に出すっていうことっていうのは、やっぱり堀さん以外にはないよなっていうことになっちゃうわけです。
だけど、ベトナムからエッフェル塔をいうみたいに、こいつはけしからんやつだ、親父の金をせびって、それで、避暑地生活をして、それで、そういう架空のっていいますか、現実には何も出てこない、そういう架空の物語っていうのをつくっちゃって、いかにもきれいそうにつくっちゃってるんだけど、自分は、親父さんは職人さんで、あんまり金回りがよくもないんだけど、金をせびっちゃって、遊ぶ金を、付き合う金が欲しいんだとかいうことでせびっちゃって、それでもっていい気になってこんなもの書いて、江藤さんなんかは怒って、昭和の文人は怒って書いてますけど、そういうふうに思うかどっちかになっちゃうんですけど、しかし、いずれにせよモチーフはやっぱり、現実の匂いがする、そういう匂いっていうのは、ぜんぶ消してしまうっていう、それで違う匂いの世界になっちゃう、そんなことをする文学なんていうのは、日本しかないわけです、ほんとは。
だけど、日本ではそういうふうにしちゃうと、それは、西欧的同時代性っていうのに近づいたっていう意味合いをもっちゃうところがあるものですから、日本では通用しますけど、そんな馬鹿なことを考えるやつはめったにいないわけです。それはいえばいるんですけど、ジョイスとかそういう人たちはそうなんですけど、つまり、アイルランドみたいな、大英帝国のなかでも、後進地帯で、おもしろくないと思っているやつの集まりなんですけど、そういうところのあれなんで、むずかしくて、翻訳した勇敢な人はたくさん、文学者でいますけど、読んだって何を言ってるかわからないじゃないかっていう、てんでわからないっていうふうになっちゃうっていう、そういう書くでしょう。それとあるところで似たところがあるんです。
それは非常にめずらしいタイプなんですけど、なぜそうなるかっていうのは、ぼくは、よくわかるわけです。ぼくらは、江藤さんが批判的に考えるようには、弾劾したくないねっていうのがあるわけです。さればといって、こういうふうに書くのでいいのかってなったら、ぼくはちょっと違うんじゃないかなって思ってるところがあるんです。
それじゃあどうすればいいんだってなるでしょ。それは先ほどの中原中也の三角関係に対するあれと同じように、立原さん的な詩の書き方っていうのも、つまり、「悔恨」、「追憶」、あるいは、「忘却」の感情でしか人間感情があらわれてこないっていうような、詩っていうのじゃない詩を、こういうところで下町っていうのがむんむんするような、体温とか、体臭っていうのを、日常感ぜざるを得ないようなそういうところで育った人は、どういうふうな表現の仕方をすればいいんだろうかってことを考えると、これもまた、よくわからないところがあるんです。ぼくらは、ちっとも解決していないわけです。だけども、これがいいとは思ってないので、でも、これを弾劾しちゃったら、下町のもっている特色っていうのは、ぜんぶダメになっちゃうなっていうふうな、感じがするものですから、それは弾劾もしたくないわけです。ですから、どこかに抜け道があれば、そういうところの問題っていうのをひとつ新しく出していくってことが、自分たちにできないかなってことをたえず考えながらしているわけですけど、解決はできていないってことなんです。
これはやっぱり、ぼくらよりも後の世代になったら、三角関係の問題にそんなに近づかなきゃいいんだろうってふうに、言ってみればなっている、うまいっていいますか、非常に見事な距離感のところで受け止めて、若い人たちは、いるように、ぼくらもそういう問題について、下町もなにもへちまもないじゃないか、下町も、上の手も、山の手もないじゃないかっていう問題で、ただ、都市としての、都会としての問題っていうのは普遍的にあるんだ。その都会としての問題っていうのは、かならずしも、西欧化の問題では、すでにないんです。
たとえば、日本の都会、東京なら東京の問題っていうのは、たんに、西欧化文明の問題ではないんです。西欧もいかなくちゃならない、どこか普遍的な都会の問題、文明の問題っていうところを見つけていかなければならないっていう問題のところにも、日本の都会なんかっていうのは、あるいは、日本の社会段階っていうのは、突入しちゃっているわけです。
ですから、やっぱりなんか見つけていかなきゃならないってことがあるわけですけど、それとおんなじように、立原さんがもっているような、感覚の一種の都市性っていいましょうか、西欧性、近代性っていいますか、そういうのが、中原中也は非常に古典的な言葉で、なおかつ、伝統性の言葉っていうのを交えている、あるいは、韻律を交えているっていうような、そういう詩のあり方っていうのを、どっかでなんとかしていくっていうような課題っていうのを、いまも、ぼくらは抱いているわけだし、それは、非常に普遍的な課題につながっていくんだと思うんですけど、うまく解けないできているっていうふうに思うんです。
ですから、ぼくらは、精神的に、中原中也も、立原道造も、そのもっている感性のいちばん奥深いところっていうのは、だいたい実感的に見たなって思うんですけど、それじゃあ、こんな詩人はもう相手にしなくていいんだって、自分でなれるかっていうと、けっしてそうじゃなくて、やっぱり依然として、この人たちの詩は、昭和の古典といいましょうか、近代詩が現代詩になっていってからの古典として、やっぱり残る詩なんです。かならずそういうふうに残っていくだろうって思うほど、通俗的、永続的な影響性があるわけなんで、もうひとつ、これはもう、詩人たち、あるいは、読者のもっている、心の問題じゃなくて、外の外面からみる社会の問題とか、文明の問題とか、都市の発達の問題とかっていうことが原因ですから、個々の人に問題は何もないんですけど、こういう日本の現代詩がどこへいくかっていう場合に、中原中也はとくにそうですけど、中原中也とか、立原道造がもっている詩の書き方っていうのがあるわけですけど、この詩の書き方を貫徹していきますと、現実の生活観とかい離していくっていいましょうか、現実生活、つまり、職業をもって、働きに出て働くか、自分の家で商売をして、お客さん相手に商売をしてあれするとかっていう生活の仕方ですけど、その生活の仕方を成り立たせていく感情と、だんだん離れていくばっかりになっていって、それでとうとう追い詰められるほかないんじゃないかっていう、自滅するよりほかないんじゃないかっていう、どうしても詩っていうのをやっていく場合に、どうしても入っちゃっていくってことが、昭和のある時期にあったと思います。
で、中原中也って人も、立原道造もそうですけど、典型的にそういう人なんです。この人は、世間に適応できないってことは、誰でも、もちろん小さいときからあるわけですけど、それをなんとか、自分で飼いならしたり、慣れたり、忘れたりしながら、なんとか社会に適応していくっていうようなことをやって、なんとか生きて、所帯をもって、子どもをもってっていうことをやっていくっていうようなことを、誰でもがやっていくわけですけど、中原中也はとくにそうですけど、立原さんみたいな、こういう詩の書き方をすると、だんだん現実生活と、自分の詩の感性っていいますか、それがだんだん分裂していっちゃって、詩の感性のほうにこだわりをもって、これを全うして、つまり、専門の詩人みたいに、自分の生涯を全うしていこうっていうふうに考えますと、もうおのずから、現実生活に適応していけない自分っていうのを、どんどんどんどん自分の部分を拡大していくことになっていくわけで、そうすると、これはまいったっていうか、生活上まいったっていう、つまり、生活の一種の敗残者っていいましょうか、生活の敗者っていうふうになるか、無理やりになるか、それじゃなければ、すこしは人に通ずる、つまり、一般の人に通じる感情が表現されているよっていうふうに、自分の詩がなっていくか、そういうやり方になっていく以外にないわけです。
そうすると、ぼくらみたいな凡庸な詩人っていうのは、なんとかかんとか、ふつうの人にも通ずるような言葉の感覚っていうのを、なんとかかんとか表現して、生きる類型を保ちながら、なんとかかんとかやっていきゃ、いけないこともないじゃないのところの道へいくわけですけど、中原中也とか、立原道造みたいな、一種の天才ですよね。天才性のある詩人っていうのは、そこの岐路にきたときに、適応するってほうにいかないで、ますます適応できない方向に自分をもっていくっていうふうに、必然的にっていうか、宿命的にいっちゃうわけなんです。
中原中也っていうのは、典型的にそうだと思います。だから、ある種の三角関係っていうことに、そういうことと関係があるのかもしれませんけど、ないとしても、その後、中原中也は、都会生活としては、適応できない人として、郷里に帰ってしまう。
で、仲間であった人のなかで、よくよく数えて、小林秀雄でもいいですし、河上徹太郎でもいいですし、大岡昇平でもいいんですけど、そういう人たちは、大なり小なり、青春時代は、中原中也とおんなじで、自分を天才と思っていますし、主観的に思っていますし、そういう道をいこうとも思っていますから、世間とは妥協したくないって思っていますから、そういう道をいくわけですけど、どっかなんか知らないけど、最後の岐路にいったときに、やっぱり少しずつ、自分を、世間というか、生活に溶かし込んでいくっていう方法を獲得して、なんとかかんとか生き延びていくっていう方法を取り入れていったわけです。
だけど、中原中也って人は、仲間のなかでは、それができない人です。できなかったわけです。だから、そこでもう、生活上では行き詰まっちゃうわけなんで、これは、傍の人はそれをオロオロと見ているより仕方がないっていうふうになってきます。これは、助けようったって、カンパを募って助けるわけにもいかないわけですし、どうすることもできないってことになっていきますから、やっぱり中原中也はそういうかたちで、天才のもっている生活不適合性をますます拡大し、深めながら、都会生活者としては、少なくても失敗だっていう道をたどっていくっていうことになっていったと思います。
それはわからないわけです。それは、天才じゃなきゃとちょっとわからないわけで、ぼくらはもっと、インチキなところはたくさんありますから、いい加減なところがたくさんありますから、すこし自分を、すこし許しさえすれば、なんとかなっていくぞ、少なくともいままではなっていくぞみたいなのがありますから、だから、やっていけるわけですけど、そこのところはやっぱり、天才と凡才の岐路っていいましょうか、岐路になると思います。で、天才っていうのは、やっぱり、どうしても、そうならざるを得ないからそうなったんだっていう、それをどこかに強固にもっている生涯だと思います。
それは、どうすることもできない悲劇性だっていうふうに思いますけど、そういう人は、稀にはいるわけです。中原中也はそうですし、立原さんは、そういう意味合いでは、生活失敗者っていうふうにはならなかったんですけど、それは、家に経済的基盤があったっていうこともありますし、また、そこまで自分を追い詰めなくても、一種、技術的なあれがありましたから、そういうものが助けになったっていうこと、それから、もうひとつは、やっぱり天才なんですけど、とことんまでその道をいかないで、済んだところがあるんです。なぜ、済んだかっていうことがあるんです。それは、病気になったから済んだんです。結核になって、これもいまでいうとおかしいんですけど、当時、結核っていうのは死病ですから、かかったら、ただ、栄養をよくして、それで、いい空気のところに安静にしていて、それでダメだったら終わりっていうことで、死病ですから、やっぱり、生活に行き詰まるのと同じ意味合いをもちます。だから、立原道造は結核になって、亡くなってしまったっていうことで、中原中也とは違う道を行って、亡くなりましたけど、つまり、夭折しましたけど、天才としての道は同じ、これは、どうすることもできないっていう意味合いをもちます。
そして、ぼくらが、これを古典として保存するのはなぜかっていうと、けっして大詩人であるとか、大ロマンをもっている人だっていうんじゃないんです。そういう意味合いでは、マイナーな人なんですけど、しかし、天才としてのどん詰まりのあれをもっているわけなんです。つまり、行き詰まったところまで、とことんまで、天才としての道を行ったっていうのが、どっか、この詩の作品のなかにちゃんとあるんです。
それはやっぱり、ぼくらは、自分がなれないけれど、やっぱり一種のうらやましさっていいますか、そういう生涯の人がいるんだなっていう、うらやましさっていうか、偉いなっていうふうに思うところっていうのは、どっかにありますから、それがやっぱりあって、自分は、けっしてそういう生き方をしていないんですけど、どっかでごまかしているか、いいところでやっているんですけど、おいしいところだけ掴んでやっているんですけど、そこで自分ができなくても、しかし、こういう人がいるっていうことは、どんなにか、われわれの希望っていうのを助けるかしれないっていうか、希望を持たせるかしれないことなんです。つまり、それは、天才っていうことを、ぼくらが少なくとも芸術において、保存して、なかなか滅ぼさないのは、そのことだと思います。
つまり、自分はできないんだってことは、わかりきっていることなんだけど、こういう人がやっぱりいたんだと、同じ生活条件のなかでもいたんだと、それも、必然的にいたんだっていう、そういうことっていうのは、ずいぶん、われわれがどん底の感情に陥ったときに、生活感情に陥ったときに、救いになるっていったらおかしいですけど、救済になっていくわけです。それが、こういう天才の詩の作品っていうのが、われわれが保存して、滅ぼさないでいるいちばん大きな理由じゃないかっていうふうに思います。
もちろん技術的にも、たいへんいい技術をもっているんですけど、しかし、この技術がいいっていう意味合いだったら、たいへんな技術を持った人だけど、そんなにむずかしいことじゃないように、ぼくは思います。だから、ぼくらも、好きだったときには、真似するといくらでもできるぞ、こういう詩、いくらでもつくれるぞみたいなふうに思ったりもしましたし、ぼくらの同人雑誌の仲間の人でいうと、たとえば、中原中也の「冬の長門狭」っていう詩があるわけですけど、こんな詩は全然くだらん、ダメなんだっていうふうに言ってますけど、ぼくはそうじゃないと思いますけど、ダメだという観点もありうるわけです。技術的なことだけいえば、ありうるわけで、そういうところでダメだっていう批評家もまたありうるわけですけど、ぼくはそう思いませんけど、非常にいい詩だと思いますけど、それは、根本をいえば、いまの天才性っていうところを、とにかく、自分の資質までとことんまであげるんだっていうことの問題のように、ぼくには思えます。
そこらへんのところで、これからもたくさん読まれるんだと思いますけど、だいたいぼくは、勘所はここじゃないかっていうことは、なんとなく言えたような気がしているんですけど、どうでしょうか、これで時間がきちゃいました。(会場拍手)
テキスト化協力:ぱんつさま