私がこういうことをやっているのは、
本当に、たまたまなんです。
14年ほど前、そのころのラオスのルアンナムターは、
車の通る道ができて、
まださほど時間が経ってないような、
それまでは歩いていくか、
ヘリコプターで行くかぐらいの場所でした。
ラオスという国は1975年に独立したばかりですから、
国そのものもまだ若いんだけれども、
ルアンナムターの人たちというのは、
国、首都、といっても、行く方法すらない、
ずっとその場所にしかいないような、
原始的な営みをしている人たちだったんです。
食べることも着ることも
家に住むっていうことも、自力。
人力でやっていかないと生きていけない。
そんな暮らし方をしていました。
わたしがいちばん感動したのは、
その人たちが、自分の手と身体(からだ)と、
村の共同体で、
生活に必要なものを全て生み出していく力、
──考えてみれば、人間、ちょっと前まで、
みんなが持っていたはずの
当たり前の力なんですけれども──
そういう力をまだ持っていたということです。
そういう人たちが生み出す手の仕事っていうのは、
とても力強く、健康的でした。
けれども、村と外をつなぐ道ができて、
お金っていうものが残念ながら必要になってくる時代に
入っていくわけだから、
どうせだったらこういう力強い手仕事で
生きていってもらえないかなっていうようなこともあり、
そこに自分が一緒に関わることができたら、
自分の、日々の暮らしがすごく面白いだろうな、
自分自身がとても面白いだろうなと思って、
すごく「やってみたいな」っていう
気持ちになったんです。
ラオスに行ったきっかけですか?
ちょっと私的な話なんですけれど、いいでしょうか。
むかし、結婚してまして、
元夫が青年海外協力隊で
ルアンナムターに入っていたんです。
私は日本にいたんですけれども、
ある日、突然、段ボール1箱、布が送られてきまして。
手紙が付いていて、
これを村の人たちの為にお金に換えて送ってくれ、
っていうようなことが書かれてあったんです。
私はその当時、岡山にいたんですけれども、
岡山って、民芸がとても盛んな土地柄なんですね。
そういうこともあり、また、13、4年前の話ですし、
みなさん、ラオスの布そのものを
ご覧になったことがないような、
そういう時代だったので、わりと簡単に売れたんです。
でもそのときに、岡山のある方が
言ってくださった言葉があったんです。
「仕事の片手間に布を売るっていうような
中途半端なことをするのは、
現地の人に対してひじょうに失礼だから
やめなさい」って。
100枚や200枚の布だったら誰だって売れるんだと。
知り合いの人とか、そういう人に頼めば、
みんな、1枚は買ってくれるから、
100枚や200枚は誰だって売れるけれども、
そういうような売り方をしても、
その人たちは2枚目は買わないものだと。
これ以上売れないからそれで終わりっていうのは、
何もしないことよりも現地の人に対して、
変に期待だけさせて、ガッカリさせるだけだから、
失礼な話です。
そんなことするのやめなさい、
って言ってくださった方がいたんです。
その方の忠告は、
本気で言ってくださっているっていうことが、
私に響いてきて、ああ、本当だなあって思って。
これはやめさせないといけないって
思ったんですけれども、
その当時、ラオスへの電話も通じないし、
連絡手段がなかったんですよね。
それで仕方なく、
ほんとに仕方なく、現地に行ったんです。
このままほっとくと、本人やる気になって、
もっともっとこうたくさんの人を巻き込んで
やり出しそうなことが手紙に書いてあったから、
早くやめさせないと大変なことになると思って、
それで、現地に行ったんです。
現地に行ってみたら、
さきほどお話ししましたような状況で、
私はひじょうに驚いて。
もともと私はものを作ったりする人間ではないんですが、
ものを見るっていうことは小さいころから好きで、
民芸の考え方なんかも、
わりと興味を持っていたんですね。
そういうようなことも
ちょっとあったのかもしれないですけれども、
自分の力で何でも生み出していくっていうのは、
とても激しい肉体労働を
毎日していかなければいけないから、
とっても大変なことなんだけれども、
そういう人たちがこう、
自然の中で生み出していくものこそ、
民芸の美しさに通じるものが
あるんじゃないかなっていうようなことも、
思ったりして。
それで、やめさせようと思って行ったんですけれども、
「やってみようかな」と思って(笑)。
片手間ではなくやってみたいなって思って、
やり出したんです。
当時、岡山でしていた進学塾の講師の仕事を、
契約していた1年間、勤めてから、辞め、
あらためてラオスに行きました。
ラオス語ですか?
もちろん、当時、
岡山で教えてくださるようなところはなかったですよ。
でも、辞書は買えた。
本屋さんで買ったその辞書を持ってね(笑)。
そのくらい、いきなり、
何も知らずにぼこっと行ったわたしが
受け入れてもらえたのは、
元夫がいたっていうことが大きかったです。
「谷の奥さんだよ」というような感じで、
それはひじょうに大きな道を
付けてくれた人だと思ってます。
けれどもラオスではわたしは外国人でしょう。
外国人のわたしが仕事をしていくためには、
ひとつの方法として、ですが、
法人にする必要があるんですね。
必要に迫られるかたちで、
ラオスで会社を作ったんです。 |